第一幕 ティムとジョン  
 
 
ロンドンの街に雪が降る。  
ドーヴァーの湿気を含んだ雪は綿のように分厚く、湿って重い。  
しかしその雪も冬が深まれば、結晶にまとわる湿気すら凍りつき、軽やかに散らばって降る。  
そんな雪は積もらない。あまりに軽いので、少しの風でもタンポポの綿毛のように飛び立ち、  
どこかへ行ってしまう。  
 
石建ての家は凍りつき、ロンドンの街は氷の世界へと変貌を遂げる。  
人々はそれぞれの暖炉に火をくべ、家全体を暖めて、エスキモーの氷の家になるのを防ぐ。  
暖炉には煙突がついている。煙突はただ煙を排出する役割だけでなくその熱を伝導させる役割もある。  
つまり冬の住宅にとって――もっとも、年間平均気温の低いイギリスでは、冬を待たずに  
秋ごろから火を入れるのだが――暖炉は家の心臓で、煙突は家の血管のようなものなのだ。  
 
血管が詰まれば熱は体中に行き渡らなくなり、死んでしまう。  
凍死してしまう。  
そんな事態に、ダーヴァレイ家は見舞われていた。  
 
「さささささささささ、さむい……」  
小さな体に着られるだけの防寒具を着込んだ少年、ティム・ダーヴァレイは、その防寒具の  
実用性を疑わせるほどに体を震わせ、歯の付け根が合わない口を、何とか動かした。  
分厚い手袋におおわれた両手をリスのようにすりあわせて暖を求めている。  
もともと白い肌からさらに血の気が失せ、顔面は蒼白だ。  
 
目の前の暖炉に火はくべられていない。  
取り除かれた木灰がちりとりの跡を残して平行線の模様を描いている。  
その平行線をじっと見つめていると――あまりうろうろ周りを見回すほどの気力もない――  
それが次第に婉曲してきた。  
まがる、まがる、まがる。  
あるじの無い暖炉がその存在理由を失うように、ティムの意識は失われつつある。  
 
これは……ひょっとして結構あぶないんじゃないだろうか。  
なんだか寒いのか寒くないのか判然としなくなってきた。  
もう目に見えているものが真実なのかどうか怪しい。  
まがる、さむい、さむい、まがる、さむい――――  
 
「ぼく、もう……」  
疲れたよ、まるで別の国のかわいそうな少年のようなセリフの途中で、暖炉から人間の顔がごろりと出た。  
ティム・ダーヴァレイの父、ジョン・ダーヴァレイであった。  
 
「……なにしてんの、パパ」  
薄い意識が少し元に戻った。これが幻覚でないなら、どうやら父親は煙突から落ちたようだ。  
「落ちた」  
ジョンは至極簡潔に答えた。  
体はロープで吊るされている。ロープを煙突の外にくくり付け、掃除をしていたのだった。  
どうやらそのロープが外で、解けたか、どうかしてしまったようだ。  
ジョンは逆立ちしたような体勢のままで固まっている。ただ、その逆立ちは手を着いていないが。  
短いジョンの髪の毛が暖炉を底を撫ぜ、新しい模様が描かれる。  
「助けてくれ、ティム、頭に血が上ってきた」  
「うん、でも、どうやって?」  
「そうだな、ちょっとこっちにきて、体を持ち上げて逆さにしてくれ」  
「そんなの、むりだよ、パパ重いもん」  
「う、そうか。なら天井に上ってロープをひっぱり上げる……のも無理だよなあ」  
「そうだね」  
「ううむ……いかん、鼻血が出そうだ」  
みるみるジョンの顔は赤くなって、完熟トマトの色になった。季節外れの大きなトマト。  
「あらまあ」  
「……なんでそんなに落ち着いてるんだ、パパが大ピンチなんだぞ」  
「いやもう、なにしろさむくて、パパのバカにつきあう気力もなくなっちゃったよ」  
「いやまて!今本気でピンチだ!ちょっと!ティム?」  
「はいはい……はやくそうじ終わらせて、アルマばあちゃんとこいこうよ、さむいし」  
「だからね、ティム?今マジでヤバいんだっで。でいうがごれみでわがれよ」  
ついにジョンの鼻から鼻血が溢れ始めた。逆向きにしたたる赤い噴水。  
言葉も濁点がいっぱいだ。  
「わあ、きょうのパパは芸にきあいが入ってるねえ。いつもそうならいいんだけど」  
「ぢょ、マヂ、ローブ、ぎっでぐで」  
「なに?」  
「ぞごに、ナイブがあるがら」  
鼻血はジョンのひたいに二本の赤い筋を描き、ぽつりぽつりと暖炉の底に垂れる。  
灰色の幾何学模様の中に突然現れる赤い点。なかなかにアーティスティックだ。  
「切ればいいの?じゃあ、きるよ」  
刃渡りの短いナイフではロープはなかなか切れなかったが、それでも半分くらい切れ目を入れると、  
ジョンの重みでぎりぎりとちぎれていった。  
 
ごつ。  
いきおい、ジョンは頭から暖炉に落っこちた。  
のそりのそりと暖炉から這い出ると、素潜りの後のように大きく息を吐いた。  
「ぶはっ!……鼻血の海でおぼれかけた……」  
「だいじょうぶ?あはは」  
「ティム!笑い事じゃないぞ、何でもっと早くたすけてくれんのだ!……って」  
ティムの体は寒さに震え、顔面はロウの様に蒼白であった。  
寒いのだ。  
目もうつろで表情も定まらない。意識は半分だけ起きている。  
「ティムー……だいじょうぶかー……」  
ジョンもティムも、けっこう危ないところまで来ていたのだった。  
「危うく親子同時に死んでしまうところだったなぁ、わはは」  
「ほんとにねえ、あはは」  
ジョンは鼻血の跡をふき取らないままで笑った。  
死の恐怖から逃れた喜びか、それともティムを凍死させかけたことをごまかす笑いか。  
どっちにしろ、キリストの誕生日が二人の命日になることは避けられたようで安心した。  
そうだ、今日は聖クリスマスだ。こんな日に死んでたまるか。  
「煙突掃除も終わったし、よし、先生んとこいこう!」  
 
 
なぜ、やおら煙突掃除なのか、簡単だ、アルマに叱られたのだった。  
「なんですって!クリスマスを前にして大掃除をしていない!?ジョン君!大掃除は一年を締めくくる  
大切なおしごとです!今からでは大掃除はできないだろうから、煙突だけでも掃除していらっしゃい!  
 煙突が詰まればそれは人間で言う大動脈が詰まったようなもので……」  
 
「大掃除なんてしていない、まして面倒な煙突掃除なんかとてもとても」というジョンの言葉に  
アルマはいきなりすごい剣幕で怒り出した。  
アルマにかかればジョンでさえ「ジョン君」になる。  
話はまだ続きそうだったが、ジョンは遮って反論を唱えた。  
「し、しかしアルマさん、今日はもうクリスマスで、掃除屋だって今日は休みで」  
「煙突掃除くらい自分でできるでしょう!」  
「はい!できます!」  
ジョンはかかとをつけ、直立して返事をした。  
イエス、マム。敬語の無い英語にも敬意の表し方はある。  
ジョンがそんな言葉を使うのは随分久しぶりのことだったけれど。  
いったいアルマさんってどういう人なのだろう、なんであんな迫力があるのだろう、  
いつもは静かな老婦人なのに。  
ジョンはひとり疑問を抱きながらも、誰か協力者を探す。  
そうだ、この家には自分の会社の従業員がいるはずだ。そいつらを連れて行こう。  
ジョンたちはマーロットの家にクリスマスを一緒に祝おうと、お呼ばれしていたのだった。  
 
「フィリップ!ラスバート!!」  
「は、実家の村に帰郷しています。だって、クリスマスだもの」  
 
フィリップ、ラスバートは、もと盗人で、今はジョンが経営するダーヴァレイ家具店の従業員である。  
いつもはジョンに仕事でこき使われている。  
そうだった、そういえばそれなりのボーナスと  
「精一杯、親孝行してくるんだぞ」  
というかっこいいセリフまでつけてクリスマス休暇をやったのだった。  
そういうと二人は  
「はい、ありがとうございますボス!かっこいいですボス!最高ですボス!」  
などと言って涙ぐむのだった。かっこいいジョンは、さらに特別ボーナスもつけてやった。  
くそ、肝心な時にいないなんて。  
ジョンは自分のかっこよさを恨んだ。  
 
「ユカリちゃん……」  
「がいなかったら、誰がこんなに大勢の料理を用意するの」  
ゆかりは、黒の簡素なドレスにいつもの白いエプロン、ヘアキャップ、襟カラーと、  
クリスマスの日でもいつものメイド服姿である。  
「ユカリちゃん、今日ぐらい他の服でよかったのに」  
「いえ、どちらにしろお料理は手伝いますし、それに……他の服、ないので」  
「なんですって」  
アルマはジョンを厳しく睨む。  
このばあさん、怪我が治って絶好調だな。内心でそんなことを思った。  
「こんど、買いに行こうな……」  
「パパ!ぼくのも!」  
「うん……」  
ジョンは洋服のことには頓着しない。  
着られればいいじゃないかと、ティムにはいつも少し大きめの服を買い与えている。  
子供の服を買うくらいのお金はあるが、面倒くさいのと、ジョンはどうも服屋の  
「上流でござい」  
というような雰囲気が好きにはなれなかった。  
だからいつも見当をつけて、てきとうなサイズのものを買ってくるのだ。  
 
「先生……」  
「わ、わしゃこんな寒い中外に出たら、死んでしまうわい!」  
マーロットは半分冗談で言ったのだが、ジョンは「確かに」と納得した。  
 
「ティム……」  
最後に残っていたのはダーヴァレイ家の長男、ティムだった。  
「え」  
ティムは慌てて首を振り回し、どこかに煙突掃除の手伝いなどしなくていい理由はないかと  
探すが、残念ながらアルマもゆかりも、ティムが煙突掃除に行くのを止めてはくれなかった。  
 
「おばあちゃん……」  
アルマは呼ばれても知らん顔している。煙突掃除は男の仕事、そんなふうに決めてかかっているようで、  
いい機会だからティムも手伝ってきなさい、というわけだ。  
 
「ユカリ……」  
誰でも良いから誰か止めてくれ、助け舟を出してくれ、とゆかりの名を呼んだ。  
さすが親子で、表情がジョンとよく似ている。  
しかし止めてくれる者はいない。ああ、どうやら行くしかないみたいだ。  
 
 
そうティムとジョンが決心したのが今から数時間前の話である。  
おかげで凍死しかけたのだった。  
 
「ただいま」  
「おかえりなさい……って、あらまあ、すごいわね、ふたりとも」  
アルマは玄関に出て驚いた。  
そこにはスノウマンが二体並んで立っていたのだった。大きいのと小さいの。  
雪国に住む人なら二人の様子がよく想像できるだろう。  
吹雪の中を歩けばいつの間にか自分が雪だるまになってしまっているのだ。  
死なないコツは一つ、生きているうちに家にたどり着くだけだ。  
 
「ただいま」  
スノウマンはそれ以外の言葉を忘れてしまったようで、ぼそぼそとそれだけ呟いている。  
暖炉の前まで歩いていき、30分かけて解凍された。  
 
「ふぅうっっ、あはぁー……」  
小さな方のスノウマン、もといティムは「生き返った」といわんばかりに大きなため息を吐き、  
背中を反らした。  
「いやぁー……いちじはしぬかと思ったよ」  
隣を見るとジョンはまだうつろな瞳で暖炉の火を見ていた。  
体が大きい分だけ解凍に時間がかかるようだ。  
 
「さあさ、もうすぐお料理ができるから、みんなテーブルについてまっててくださいな」  
アルマがキッチンから現れて、そう促した。  
なるほど確かに、厨房の方から料理のできるいい香りが溢れてきている。  
ティムは小さな鼻をひくひく鳴らした。  
いいにおい。  
 
冷えたり死にかけたり暖められたりしたティムはどうにも腹がぺこぺこで、  
溢れてくる夕飯の香りは脳髄まで染み込んで空腹中枢を刺激した。  
胃が広がり、食べ物を受け付ける体勢に入る。唾液が口中に湧き出してくる。  
若いティムの自律神経は敏感で、健康的に活動しているのだった。  
 
そこまで腹を減らして食べる、一年に一度の豪勢な料理はたしかにおいしかった。  
あんな事件が無ければ最高だっただろう。  
そう、あんな事件が起きなければ――――  
 
 
 
 
 
 

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