ゆかりはぽかんと口を開けた。  
「でっ……かい家!」  
予想以上である。  
例の猫を届けに来たのだが  
「この住所だと、結構な金持ちの家の猫かもしれないな」  
と、昨夜ジョンの言ったとおり、このあたりはどうやら分限者の多く集まる  
地域らしく、右を見ても左を見ても、広い前庭をもった、どれも一軒がティムたちの住む  
集合住宅一つ分はあるような邸宅ばかりである。  
 
高さ6メートルほどある、庭の中心に聳え立った大きな楡を背中に、やはりこれも  
必要以上に大きな門を目の前に、ゆかりはおそるおそる右手を構え、二、三度強く叩いた。  
反応は無い。  
もう一度、より強く扉を叩くがやはり反応は無い。  
あまり強く叩いても手の甲が痛くなるだけだ。  
あまり品のいいやり方ではないが、この際、大声を上げて呼んでみようかと思った。  
 
その時、背後の楡の木から何かが落ちるような物音が聞こえた。  
驚いて振り返ると、一見して身軽そうな男が立っていた。  
どうやら今木から降りたのはこの男で、楡の木の手入れをしていたようだ。  
服装が小汚い貧相な服なのも、これは要するに作業着だからなのであろう。  
自分たちがいつもは着ない余所行きの綺麗な服を着ているものだから、男の貧相さが、  
いやに目に付く。  
だが服装よりもゆかりたちの目を引いたのは、その男は見るからに英国人ではなく  
ゆかりと同じ黄色い肌をしていることであった。  
男も同様に、自分の仕える家を訪ねてきた客人――それも可愛らしい女の子――が、  
自分と同じ東洋人であることに驚きの表情を見せ、二人に近付いてきた。  
近付くと、バラの茎のような、その体のやけに細いのがわかる。  
「お客様――だすかね?あんらあ、そちらのお嬢さんは、どこのご出身でがんすか」  
あまり英語が得意でないらしく、男はかなりつたない言葉遣いで話しかけてきた。  
「あ――日本、です」  
「ああ、そうでゴゼマスカ、あちしは、清国は広州の出なもので、英語があまりうまく  
 ないもので申し訳ねですんだけど、そいでえ、おふたりさん、は、きょうは、いったい  
 どんな御用で、いらっしゃたったのでアリマスカネ?」  
男は節くれだった手で帽子をくしゃくしゃに掴みとると、胸の前で両手を合わせ、  
挨拶らしいことをした。  
 
なるほど男の目は切れ長で細く、英国人向けの服はサイズが合わず不似合いで、  
丸い撫で肩のその様子は、いかにも支那人という風体であった。  
遠くで見た時は、30代か40代に見えた男だったが、こうして近付いて見てみると、  
その浅黒い肌の下には確かに若さというようなものが潜んでいて、どうやら20代――それも、  
前半の、れっきとした若者であるらしかった。  
 
「あの、この子猫の首輪に、こちらの住所が刺繍してあって――」  
ゆかりがそういって肘に掛けたバスケットを開けると  
「みやあ」  
と、まぶしそうに目を細めた猫が、頭だけ出して鳴いた。  
男はそれだけで万事納得したらしく、  
「ああ、今回はーいつもより長く帰ってこんので、  
 あっしがさがしにいくところのちょうどでごぜましたですよ」  
と言った。  
「それでですね今日、こちらに届けにうかがったのですが、御主人様はご在宅ですか?」  
そう聞くと男は、顔中にくちゃくちゃっと深いしわを浮かべ、二、三度首を横に振った。  
「ご在宅ではないのですか?」  
ゆかりがさらに問うがやはり男は首を振り、  
「ああ、お嬢さん、申し訳ないだがね、あちしは、英語が良くわかんねえでもんでです、  
 もう少しゆっくり喋っていただきたいのだよおねげえします。お嬢さん、日本人だのに  
 英語がお上手で妬ましい……でねくて、心憎い……や、羨ましい、であります」  
一事が万事このような調子で、この支那人の男は、この国での意思疎通は  
かなり苦労している様子だった。  
 
 
「シーナ!」  
突然に、頭から怒号を浴びせられた。  
みると二階の窓から老婦人がこちらに顔を出して、こちらに叫んでいる。  
「あ、おくさまあ!リオの野郎が帰って来ましたのですよ!」  
と、シーナと呼ばれた男は二階の窓へと叫びかえした。  
「そうなのならいつまで玄関先で突っ立っているの!早くその方たちを家の中まで  
 案内しなさいよ!この愚図!給料減らすわよ」  
老婦人は、身なりも住んでいる家も立派のものなのだが、  
正しい婦人には一生縁のないであろう、他人を罵るスラングまでをも  
立派に使いこなしている。  
 
「そんなあ、これいじょ減らされたら、パンの耳も買えねくなってしまいますに」  
男は泣きそうな表情で、二階を見上げて叫んでいる。  
やはり見た目の通り、けっこう悲惨な身の上のようだ。  
この家ではこのような会話の仕方が度々あるのかは知らないが、二人とも家の中と外、  
二階と玄関の前という三次元的音声のやりとりを、特に何だということも無く続けている。  
それに驚いているのは小さな訪問者二人である。  
「……奥様め、人が支那人だからってつけあがりやがります……あ、ごめんなっせ。  
 つい本音が口をついてしまうです。ささ、おふたりさん、どうぞ中へお入りになすって下せ」  
「は、はい」  
「はは……なかなか、おもしろいうちだねえ、ユカリ」  
ゆかりも顔を半笑いに固めたままで、ティムに相槌を打った。  
 
扉を開けると広々したホールである、が、人気があまり無いせいなのか、赤い絨毯に  
うっすら白いほこりが積もっているのが目に付く。  
そのような小さなことに、ゆかりはどことなく寂しさを感じる。  
踊り場に、軍人の大きな肖像画の掛かった階段を上って、左に客間があった。  
なぜか部屋の入り口は小さく不思議に思ったが、中に入ってみて意外とそれが広く感じたことから、  
これは部屋を広く見せるための工夫なのだと合点がいった。  
 
客間に通されてしばらくした後、先ほど窓越しに見た老婦人が杖をついて出てきた。  
どうやら足が悪いようだ。いかにも重そうに引きずって歩いている。  
バスケットから仔猫が飛び出して、足元にまとわりついていった。  
「リオ」  
と呼んで、彼女はその仔猫を抱き上げた。  
どうやらこの人が飼い主に違いないようだ。  
 
「あなたたちがリオを連れてきてくれたのね、あらあら、いままで何人かに連れ帰って  
 もらったけど、あなたたちみたいな可愛らしい人たちは初めてだわ」  
老婦人を窓越しに見たのは顔だけだったし、距離もあったのでわからなかったが、  
彼女はでっぷりと肥えており、胴回りはゆかりの倍か三倍ほどありそうだ。  
それは足も悪くなるだろうな、と二人は思ったが、もちろん口に出すわけはない。  
体中に過分に栄養が行っているからその分、顔の血色は人並みはずれて良く、  
ほっぺはぷっくらと膨らみ、おしろいを濃く塗ってもなお明るい。  
愛嬌というよりも、迫力がある。  
その大きな声と体格のよさに、二人は圧倒されてしまった。  
 
「刺繍を見てくれたんですって?私は見ての通り足が悪くて、家にいてもすることが  
 無いものだから、刺繍ばっかりしているの。だからもう猫のものにまで刺繍しちゃって…  
 ごめんなさいね、ほんとうは、 あたしが探しに行かれればいいんだけど、  
 どうしても足が痛くてねえ……あ、リオ、っていうのは、私の息子と同じ名前で、  
 やっぱり息子も好奇心が強かったもんだから、ちょっと息子には悪いけどね、  
 名前を使わせてもらったの。だからかわからないけど、やけにこの子には愛着がわいちゃってね」  
 
と女主人は、聞かれてもいないことをべらべらと喋りだすのであった。  
 
やはり猫のことを「この子」と呼ぶ女主人を、ゆかりは好ましく思った。  
しかしそれにしてもよく喋る人である。  
会話に付け入る隙がない。  
一人が一方的にまくし立てることを「会話」と呼んで良いのかは知らないが。  
まあいい。  
 
「あ、あの、奥様……」  
「あら、なにかしら――ええと――」  
「ゆかり、と申します。奥様」  
「そう、ユカリちゃん。私は、オフトっていうの。よろしくね。  
 ねえユカリちゃん、、あなたも東洋人のようだけど、シーナと同じ出身?」  
「いえ、私は日本人です。それでですね奥様――――」  
「そう!違うの!そうよねえ、あんな小汚い支那人と一緒にされちゃ迷惑よねえ。  
 まあ、日本っていう国もあまりよく知らないけど――きっと小さい国なんでしょうね。  
 あの支那人も、ホントの名前はワンって言うらしいんだけど、意味を聞けばそれは  
 『王』――『King』のことだ、なんて言うし、ワンは英語ではナンバーワンの1だし、  
 目つきは悪いし――体も細くて貧相だし――それにこんな汚らしいあなたに  
 そんな名前はとってももったいなすぎて、そんな名前はふさわしくないわ!  
 って私が言って、いつも国名で読んでるの。シーナシーナってね」  
 
「はは……」  
随分物事をはっきり言う方だな、とゆかりは思った。  
 
「アラごめんなさい、私ばっかり喋っちゃって、なにしろ夫と息子が軍人で、  
 二人一遍に死んじゃったもんだから――まあおかげで私はこうして国からの受給金で  
 有閑生活を送れるんだけど――いつも喋る相手がいないものだから、お客様が来ると  
 嬉しくって、つい喋りすぎちゃうの。  
 使用人はシーナと、通いのがいるけど、住み込みのはいないのよね。  
 住み込みのを雇ってもいいんだけど、やっぱりお金は倹約すべきだし、住み込みで  
 雇ってそいつがもしハズレだったりしたらいちいち面倒くさいしねえ、  
 新しく雇ったりするのも。それに私あんまり使用人って好きじゃないのよね。  
 ここいらに住んでる人は、使用人を持たないと自分の家が裕福に見られない、  
 なんて思ってるからか知らないけど、みんな雇っているのよね、それも何人も。  
 まあ、そりゃ私の家は金を湯か水みたいに使えるほどお金持ちではないけれど、  
 使用人を雇えないほど貧乏ってわけじゃないのよ、私は、金銭面でも精神面でも、  
 行動容姿その他もろもろひっくるめても、自分が正しい淑女の道を踏み外してないと思っているわ。  
 それにしても、私はもっと毎日おしゃべりを楽しみたいんだけど、シーナはアレだし、  
 通いの奴も働くは働くんだけど、あれも気の廻らない奴というか、会話が好きじゃないみたいでねぇ」  
 
それはきっと、この広い屋敷で用事をするというのは、仕事が多すぎて、会話をするような  
余裕は無いんだろうな、と、うっすらほこりの積もった赤いじゅうたんを思い返して、  
ゆかりはその使用人に少し同情をした。  
「さっきも済まなかったわね、気の利かないシーナの野郎が応対しちゃって。  
 でもあいつは気が利かないというよりもただ英語の問題なのよね。あれ、どうにか  
 ならないものかしらねえ。……あら、ユカリちゃん、それで、なんだったかしら?」  
ゆかりは隙を見つけてオフト夫人に口を挟もうとしていたのだが、この夫人、喋りに隙がない。  
おしゃべりに興味の無いティムは、リオと呼ばれた猫と楽しそうに戯れていた。  
ゆかりはひとりでタジタジしながら、女の口が止まるのを待っていたのだ。  
 
「ああ、あの……お口に合うかはわかりませんが、チェリーパイを焼いてきたので、  
 よろしければ、どうぞ召し上がってください」  
ゆかりはバスケットの猫が入っていた反対側のふたを開け、中からパイを取り出した。  
つやのあるパイ生地の隙間から、甘い、良い香りが漏れている。  
オフト夫人は、もともと明るい顔色をさらに明るくして、  
「まあ嬉しい!私、チェリーパイが大好物なのよ!ありがとう!」  
とひとしきり喜んだ。  
そして何度か顔を近づけその香りを堪能すると、ひどくいい案が浮かんだ、というように  
柏手をぱぁんと打って立ち上がり、  
「そうだわ!今日はお天気もいいし、外の楡の木の下でお茶をしましょう。  
 そうだわ、そうしましょう!」  
と言うと、使用人の名をやはり大声で叫んだ。  
 
 
日差しは確かに暖かく、まるでもう春が来たかのような暖かさである。  
二人が家に着いたときに、シーナが登って手入れをしていた大きな楡の木である。  
頭上に覆いかぶさる楡の葉は、太陽光線を遮り、または透過させ、その取捨選択の能力は  
やはり自然のつくりたもうた奇跡といってよいような、樹下の白いテーブルクロスに、  
えもいわれぬ美しい文様を描いている。  
うまく手入れされているように見えるが、オフト夫人が言うにはシーナは素人なので  
まだまだ粗があるから、やはりもっと仕事をさせなければなるまいということだ。  
オフト夫人は大きめに切り分けたチェリーパイを頬張って、満面の笑みに顔をとろけさせた。  
 
「おいしいわぁ。ユカリちゃん、お料理上手ねえ、すごいわ」  
「僕もてつだったんだよ!」  
「そう、ティムちゃんも、えらいわねえ」  
「坊ちゃまは試食しただけじゃないですか」  
「う、まあ、そうだけどさあ」  
「あら、それだって立派なお手伝いだわよ、ねえ」  
「ねー」  
 
樹下の茶会は、チェリーパイの出来の良さのおかげもあって、なかなか楽しいものになった。  
「この楡の木はね」  
大切な木なの、とオフト夫人は言った。  
「この楡の木は、主人が私と結婚した時に植えたの。いまじゃもう、  
 こんなに大きくなっちゃって――主人が先に死んじゃったわ。まったく、軍人なんて  
 夫にするものじゃないわね。お父さんみたいになるんだ、って、息子まで軍に行って、  
 ほんとに同じように死んじゃうンだもの。だから、そうねえ、この木は、二人の、いえ、  
 家族の――思い出、ね。踊り場にある肖像画なんかより、よっぽどあの人のことを思い出させてくれるわ。  
 ……ね、ユカリちゃん、軍人なんかと結婚しちゃダメよ」  
オフト夫人はそうして自らの境遇をあっけらかんと語るが、やはり言葉の端々に、  
過去はどうで、財産もできたが、今は一人になってしまって寂しいのだという本音が、見えていた。  
猫に住所をつけた首輪をさせ、放し飼いにしているのも、それはやはり半ばわざとで、  
こういう来客を楽しみにしているのだろう、ともゆかりは思った。  
 
「ああそうだ、リオを連れてきてもらったお礼を上げなくちゃね」  
オフト夫人は真白な封筒を取り出すと、ゆかりに手渡した。  
中には現金が入っている。それも、1ポンド札。大金である。  
「――――奥様、こんなに、戴けません!」  
「いいのよ、こんなにおいしいチェリーパイも作ってもらったのだから」  
「でも……」  
そりゃ、この大きな屋敷を見た時に「お礼ってどれくらいもらえるんだろう」という  
下卑た考えがかすめなかったわけではない。  
むしろ楽しみにしていた。楽しみにはしていたが、現実にこのような大金を、  
ただ猫をとどけたからといってもらってしまっていいものか、と、やはり十分ためらわれる。  
しかしオフト夫人は逆にこちらが願うように  
「ああ、ね、もらってちょうだい、いいのいいの」  
と何度も言った。  
上流階級なのである。  
 
彼女は手を目の前で振り、謙遜のように、  
「他に使いみちが無いんだから」  
と言ってもう一度、封筒をゆかりのほうによこした。  
なるほど身よりも後とりもない倹約家の老人には、俗世的なものとは違った価値観があるのだろう。  
少し離れて雑草をむしっていたシーナが、仁王のように険しい表情になったが、  
このときは、誰も気がつかなかった。  
「ありがとう、ございます。奥様」  
はにかんだ様子で、結局それをバッグの内にしまったゆかりに、夫人は笑顔でうなずいた。  
 
オフト夫人は思い出したように言った。  
「そうだ、温室――コンサバトリーにね、この子の母親もいるの。見て行くでしょう?」  
「シーナ!ここ片付けておいて」  
「かぁしこまりましたぁ」  
「坊ちゃま、コンサバトリーって?」  
「……あったかいへやのことで、ふつうは植物を育てたり、そこでお茶を飲んだりする……らしいよ」  
「へえー、すごいですね」  
と、ティムは聞いただけの知識で言ったのだが、実際に見たことはない。  
今日実際に見るのは初めてと言うことになるが、ここの温室が彼のなかのイメージとして、  
温室の標本となってしまったとしたら、それには少々問題がある。  
そこは猫だらけの猫屋敷であった。  
 
「あれがこの子の母親よ」  
とオフト夫人は言ったが、どれがどれかわからない。  
しかしティムにはわかっているのか、  
しきりに「かわいいなあかわいいなあ」といって喜んでいる。  
猫はそれぞれ気のむくままに、重力さえも彼らを支配し得ないような動きを見せ、  
その暖かな部屋の中で、飛んだり伸びたり逆に丸まったりして、猫の猫たるゆえんを見せ付けている。  
 
後片付けを終えたシーナが入ってきたが、誰もそれを気に留めなかった。  
「かわいいかわいい」と次々と猫に挨拶するティムを見て呟いていた。  
「かわいい……ですますか」  
シーナは無表情で猫を見つめた。  
そこに映るのは明らかに好ましい感情ではなかった。  
 
「あら、シーナ、いたの。そうだわちょうどいい。この子達の餌を持ってきてちょうだい。  
肉がちょっと古いから、良く焼いてね。」  
「……はい」  
そういってシーナは温室を出て行った。  
ゆかりはシーナの様子に何か違ったものを感じながらも、室内に目を戻した。  
温室の端に、餌場なのだろう大きな皿が置かれている。  
餌場にはオフト夫人が言った「肉」の破片がところどころ残っていた。  
ゆかりはなにか安いゴミのような肉か、食事に使わなかった端の肉を与えているのだろうと思っていた。  
この奥様は、余り肉の寄せプディング――ゆかりの得意料理の一つ――などは  
お召し上がりにならなさそうだし、と。  
しかし違っていた。その皿に残っている肉の破片は、端肉などではない、  
明らかに良い部位の牛肉である。  
これはビフテキの破片である。  
ゆかりは自分の目を疑った。  
ビフテキとはビーフステーキ、つまり牛肉の焼いたものである。  
倫敦のビフテキは中流以上の人にとってはポピュラーで、この時代で言えば、  
神戸で言う牛鍋と同じようなものだとはいえ、  
猫にこのようないいものを食わせるというのは古今聞いたことがない。  
猫にはミルクかせいぜい行灯油でも与えておけば良いものだと思っていたゆかりは、  
目を丸くして見ていた。  
 
オフト夫人はそのようなゆかりを見て、微笑みを浮かべながら言った。  
「ふふ、自分でもおかしいとは思うんだけど、なんだかこの子たちには  
 いいもの食べて元気でいてほしくってね。もう主人や息子にお金を使えない分、  
 こんなところに使っちゃうの」  
さきほどは「お金は倹約するべきだ」と言った人間がこのような行動を取るのは、  
畢竟その矛盾が人間らしさ、人間味と言うようなものなのだろう。  
 
「なんだかこうやって餌をあげているうちにどんどん数が増えちゃってね。  
 でも、少ないより多いほうが私も楽しいから、いいのよ。もうこの子達は――  
 ――家族みたいなものだしね」  
オフト夫人がそう言うと、一匹の猫が背後から彼女の首に飛びついた。  
「おお、おお、元気のいい子だね……」  
その猫にも、やはりオフト夫人は優しい目で体を撫ぜてやるのだった。  
だがその優しい瞳の内側には、寂しさが水晶体でくるまれているのだ。  
本人はどう思っているかわからないが、やはりゆかりは彼女のことを  
「淋しい人だ」  
と思った。  
 
「あら、そういえば――リオがいないわね?――リオ、リオ!」  
先ほどまで一緒にいたのだが、もう姿は見えず、返事もしない。  
「あらやだ、あの子ったらもうどこかへいっちゃったのかしら。  
 せっかく連れて帰ってきてもらったのに。本当に、好奇心の強い子だわ――……息子に似て」  
オフト夫人が大きな体をぐるぐると回し、室内を見渡して、猫の名を呼んだがやはり気配はない。  
まいったわねえ、オフト夫人はそういった表情を浮かべて両手を掲げた。  
そのときである。  
シーナが息を切らして入ってきた。  
 
「奥様」  
「怪しい男が、この紙を渡してくれと頼まれましたですんよ」  
ずっと最初に見た時からの服を着ている。  
シーナの服は作業着ではなく、普段着なのだ。それも、それ一着しかないらいしく、  
ずっと着続けているようで、かなり臭う。  
オフト夫人は露骨にシーナにいやな顔を見せ、それを受け取る。  
だが、その手紙の中身を見て、オフト夫人の顔色が変わった。  
 
ゆかりの反応は鋭い。  
その鋭さ、事態の切迫を感じ取る力は、彼女が思春期の少女だからなのか、  
それとも親譲りの鋭敏さかはわからないが、ゆかりは自分の顔の強くこわばるのを感じた。  
――――――――――――事件だ。  
ゆかりは奪い取るように夫人の手から受け取り、  
わしづかみのままで読んだ。  
 
 
 
 2じ までに トラファルガースクウェア までにこい  
 
 ねこは おれが あずかっている   
   
 こないと ねこの くびを きりおとす  
   
 もくてきは かねではない  
   
 だから こないときは さっさと ねこを ころす  
   
 らいおんが かぎを もっている  
 
 
 
誘拐。  
誘拐である。  
猫の誘拐などついぞ聞いたこともないが、この奥様と猫の関係を思えば、それはやはり  
息子が誘拐されたに等しい衝撃を受けるだろう。  
その溺愛を知っていれば、営利誘拐を企てるものがいてもおかしくはないかも知れない。  
しかし目的は金ではないと書いてある。  
ではいったい何のために――――――  
 
そのとき、遠くでビッグベンの音が鳴った。  
一時である。  
ここから倫敦の中心、トラファルガースクウェアまで、約一時間。  
足の悪い彼女では、一時間半、いや、二時間はかかるだろう。  
「……なんてこと」  
彼女は劇役者のように大げさな動作で驚いて見せたが、  
平生、赤みが差して明るい彼女のほほから、  
さっと血の気が引けていくその変わりようのほうが、彼女の絶望を示している。  
オフト夫人はへなへなとその場にへたり込んだ。  
今や彼女のふっくらした頬は安物のろうそくのように青ざめて白く、しなびたレーズンのように皺が増え、  
健康的な頬の色で若く見えていた彼女だったが、それがなくなると年相応、  
いやそれすら通り越し、一度に老け込んでしまったように見える。  
 
「奥様、私が参ります、奥様はここに」  
ユカリは返事を待たずに駆け出した。  
はきなれない革靴が、緊迫感のない音で鳴った。  
 
 
ティムは思い出した。  
昨日の朝に見た夢を。  
そうだ、ぼくはひっしに走っていたのだった。  
だれかをひっしに追いかけて、追いかけて――――  
追いかけたけれど、けっきょくおいつくことはできなかった。  
そして前を行く背中はどんどん小さくなり、離れていってしまった。  
 
そして思い出した。  
その背中の持ち主を。  
なぜあの時すぐにわからなかったのだろう。  
あれは間違いなくゆかりの背中だった。  
 
いま突風のようにかけだしていったゆかりの、背中そのままだった。  
そして今、ティムは何故か、このままゆかりが戻らないんじゃないかという不安を、強く感じていた。  
「ユカリ――――」  
名を呼んだ声は届かずに、西倫敦の曇りがちな空へと吸い込まれていった。  
 
 

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