路地に馬車の姿はない。  
住宅街だ、流しの馬車、今で言うタクシーのようなものはこのあたりには少ないのだろう。  
 
「くそっ、大通りはどっちだ」  
ゆかりは2,3度首を左右にふり、走り出した。  
このあたりの地理には暗い。  
邸宅ばかりのこのあたりでは、道が細かく入り組んでいるということはないが、どの道も  
それなりに広くそれなりにまっすぐ伸び、どこにも特徴がない。  
 
気ばかりが焦るが、それでも大通りに出る道は見つからない。  
「ええい、ままよ――」  
左に曲がれば、おそらく良いのだろう。  
勘。  
これに頼って、走り続ける。  
いま、勘だけに頼っていいほど余裕があるわけではない。むしろ、時間が無さ過ぎるのだ。  
この邸宅の一つを訪れ、事情を説明し、道を尋ねるその時間が惜しい。  
それならば、賢いやり方ではないかもしれないけれど、愚直に走り続けるほうが良い。  
そう判断したのだ。  
果たして思惑通り、大通りに出た。  
しかし通りは、呆れるほどに混雑している。  
普段は正しい二馬力で調子よく走っている二頭立ての馬車も、パズルのようなこの道では、  
ただそこに立ちすくんでいるしかない。  
 
大通りに出たところで馬車を拾って行こうかと思っていたが、今日のこの様子では、  
このまま走っていった方が速い。  
夫人の家から恐らく北上して出たのだから、犯人の指定したトラファルガースクウェアに行くには、  
右へ、つまり東へ行けばいい。  
 
走る走る、走る。  
ロンドンの道路というのは堅い。  
コンクリートで固めた上に木口を並べて、その上をアスファルトで鏡のように砥いである。  
その道路を、堅い靴底で叩いてゆく。  
足が痛む。  
 
しかし、ゆかりの脳裏に顔が浮かぶ。  
オフト夫人の、魂というようなものが一度に抜けてしまったあの顔だ。  
あれほどいきいきと赤かった頬の色が、一瞬で変色し、生命の強さを失ってしまった。  
その心境を思うと、足が痛いなどとは、思うことすら、彼女の思いの強さに対して失礼である気がする。  
ゆかりは前を見据え、走る。  
 
ゆかりが路地から飛び出した通りは、オクスフォード通りと呼ばれる、  
百貨店や大型商店の多く集まった通りで、道行く人もどこか気品に溢れている。  
気品に溢れているなどと書けば、体からじわっ、となにか上品の気体化したようなものが  
にじんでいるような人を思うかもしれないが、要は服装が清潔で高価、婦人ならば、例えば  
その帽子が仰々しく派手なことや、男性で言えば、杖の意匠の凝り方、つぶれた丸帽でない、  
山高帽の様子などでわかる。  
分限者の集まった高級住宅街が近く、このような百貨店としても、需要と供給の関係で、  
この通りに集まるのだろう。  
そして金持ちが多い地域となれば、蛾がろうそくの明かりに引き寄せられるように、  
金の匂いに引き寄せられて、露天の物売りや大道芸人も集まってくる。  
そうして人が増えれば、とうぜん警戒すべき事件や人物もあるだろうから、たちんぼの  
警官だって増える。  
なすのへたのようなヘルメットをかぶった警察官が、道端に立ち尽くしたり、  
不運にもその役を与えられた者は、辻の中央に立って、右手を左手を次々と上げ下げし、  
この大混雑した交通の案内を一手に引き受けている。  
つまりこの通りは、金持ちから警察官、多種な人々の洪水であった。  
 
ゆかりはその中を走る。  
人ごみを早く走るコツは、斜めに足を踏み出すことだ。  
ひとを追い抜く、人とすれ違う時に、意識して足を斜めに踏み出す。  
真横によければその後もう一歩、踏み出さねばならない。  
だから斜めだ。斜めによけて、避けると同時にさらに進んでゆくのだ。  
時間がない。  
道が込んで馬車が使えないことにも原因があるが、それよりもこの通りに出るまでに  
時間を食ってしまった。  
ゆかりは飛ぶように走る。  
足と地面が触れるのは、つま先だけ。そのほうが速く走れるということをユカリは体感的に理解していた。  
 
そして、足で体を「引き付ける」と言ったイメージで足を運ぶ。  
ふくらはぎと、ももの裏、この筋肉を使うことを意識して、ぐんぐんっと、スピードを上げる。  
人と交差する時だけ、足を地面に叩きつけ、その勢いを殺さぬよう、方向を変えぬよう、  
動きの線だけを変える。  
この走り方は、以前コヴェントガーデンで身につけたものであった。  
 
この人ごみの中を、全力で走る少女。  
それも東洋人。  
やはり、人々の視線はゆかりに集まる。だがその集まった視線は、あまりの速さに  
すぐにふりきられて、見失ってしまう。  
風が、通り過ぎた。  
ただそうとだけ感じて、特に気にも留めない者もいた。  
東へ。  
余計なことは思わずに、そうとだけ念じて、ゆかりは走り続ける。  
長いスカートのすそが舞う。  
 
 
 
大きな柱が立っている。  
ローマ式のエンタシス、真ん中がふっくらとして、浮き彫りの線が縦に入った立派な柱である。  
その大きな柱のさらに上に直立不動の体勢でいるのは、かの有名なネルソン提督である。  
詳しい説明は省くが、  
1758年、ノーフォークに生まれた彼は、その生涯で数多くの武功を立て、そして1805年、戦死した。  
英国史上もっとも有名で、もっとも愛された軍人である。  
市民は彼の偉大な功績を称えるために、145フィートの柱を御影石で作り、  
その上に彼の銅像を建てた。  
それだけではない。  
その柱の周りには、日本の狛犬のように彼を守護する獅子の像を四体つくり、  
その両脇には噴水も建てた。  
余程、彼を愛していたのだ。  
しかしその大きすぎる柱のせいで、全体を眺めれば提督の顔がわからないし、かといって近付いて見上げてみれば見えるのは提督の鼻の穴だけ、といった様子であるが、  
このトラファルガー広場は、それでも市民の自慢の種である。  
余談だけれど、このライオンというのは、現代日本でも見られる。というのも、  
巨大百貨店、三越デパートの玄関に鎮座しているあのライオン像のモデルがこれらしいからだ。  
そう思うと、それに守られているネルソン提督までもがなんだか身近に感じるから不思議だ。  
 
閑話休題。  
 
 
 
手紙にあった  
「かぎは ライオンが 持っている」  
というのは、恐らくこの柱の周りに四頭黙って座っているライオン像の事であろう。  
ゆかりは一度ここを訪れたことがあったので、あれを読んですぐにピンと来た。  
だからこうして一も二も無く飛び出し、走ってきたのだ。  
息は弾み、汗は流れる。  
せっかくの余所行きが、汗と、ロンドンの粉塵を随分吸い込んでしまった。  
切れる息と、もつれる足が困りものだったが、ゆかりはなんとか4つのライオン像のうち  
3つまでは調べた。  
異常は無い。  
となれば、最後の一つである。  
その像の台座には、立ち番をしている警官の、外套が引っ掛けられていた。  
この時代、110番をしようにも個人の家に電話など無い。  
ましてや携帯電話などは、お釈迦様にもトーマスエジソンにも思いつかぬころである。  
防犯の必要上、警官は多い。そしてその主な仕事は、町のパトロールと立ち番である。  
巡査、つまり「巡」って「査」――調べる、者達だ。  
邪魔臭い。と、それを取り上げると、大きく開いたライオンの口に、赤い封筒があるのが見えた。  
これが「かぎ」だろうか、この中に鍵が入っているのか――?  
と思案しているうちに、笛の音がした。  
高く響くこの音は、リコーダーとかクラリネットと言うたぐいのものではなくて、  
警官の良く使うホイッスルの音だ。  
「それはぁー 本官のォー ものだぁー」  
見ると随分遠くから警棒を振りかざし、こちらに走りよってくる警官の姿がある。  
職業病かもしれないが、ひどいガニマタ走りである。  
 
ゆかりの左手には外套。  
とはいえ、高価なものではない。  
警官の安月給で十分に手の届くものなのだろう、いや、この安っぽさは、支給品かもしれない。  
 
「ちが、誤解、です」  
息は切れている、うまく喋れない。  
 
しかし息を整えて、きちんと説明すればわかってくれるはずだ。  
・まず、私は怪しいものではない。  
・猫が誘拐され、犯人の要求に従っているのだ。  
・そしてその要求は恐らくこの赤い封筒に関係するものであり、  
・貴官の外套にはなんら関係は無い。  
ということを。  
 
めんどくさい、とゆかりは思った。  
猫が誘拐?そんなことをすぐに信じてくれる警官がいるだろうか。  
この人ごみの中を散々全力疾走してきて、服装も崩れ、肩で息をしている私が  
怪しくないと、自分でも言い切れるだろうか。  
ちょっと難しいかもしれない。  
「ごめ、なさ、じかん、ないの」  
ゆかりは息たえだえにそう言うと、左手の外套をぽいとその場に投げ捨てて、身を翻らせた。  
「あっ、本官の――!きさま、待てぇーい!」  
外套を投げ捨てられた警官は、激昂しておいかけてきた。  
ゆかりはひたすらに逃げる。  
つかまったら、さらに時間を食うだろう。  
 
結局、このしつこい警官をまくのに、時間と体力を激しく消耗した。  
 
鉄柵に肩を持たれかけて、来た方向に振り返りしばらく眺めた後、ようやく大きく息をついた。  
「はぁっ……あの警官……めぇ……」  
余計な体力を使ってしまった。赤い封筒の中を確かめる暇も無かった。  
ポケットから封筒を取り出すと、汗のせいで随分やわらかくなっている。  
糊付けされた封筒を、丁寧に開く。  
そこには、最初の手紙と同じ、角ばったアルファベットが並んでいた。  
 
 
 
よく こられたな 。  
 
  つぎは ピカデリーサーカス まで こい。  
 
  いそいで こい 。  
 
  じかんを すぎれば ねこを ころす 。  
 
  おどし ではない ほんきだ 。  
 
  その しょうこを どうふう しておく 。  
 
 
 
証拠――  
証拠を同封しておくと、書いてある。  
封筒を逆さにして2,3度振ってみると、ちいさな綿のかたまりが、手のひらに落ちてきた。  
これが証拠だろうか。  
ゆかりはその綿を、左右に広げてほどいていった。  
何か固いものが指に当たる。  
なんだろう。  
それが何かを、理解した瞬間、ゆかりは反射的に体を翻らせ、駆け出した。  
いままで確かにそこにあった何十キロかの肉体が、いまはもうあれほど遠くにある。  
風が彼女を追いかけていく。  
 
綿に包まれていたのは、白く尖った、宝石のように小さく光る、猫の牙であった。  
付け根の部分には、肉のこびりついたような血が、赤黒く固まっている。  
 
おどし ではない ほんきだ 。  
 
手紙の文面がいやらしくねばついて、頭から離れていかない。  
一刻でも早く、指定された場所――トラファルガースクウェアまで行かなければならない。  
足に疲れがないかといえば、当然、ある。  
しかし――  
止まることはできない、ここで止まってしまって、リオと呼ばれた、「この子」と呼ばれた、  
息子のように思われている猫が、殺されてしまっては――  
 
腕を振れ、体をもがかせろ。  
足が動かなくても、腕を振れば自然とその反動で足は前に進んでくれる。  
体を前に倒しこめば、足は反射的に進んでいく。  
だからまだ限界ではない。足は動く。  
痛みや疲れがあるから、と、歩みを止めるのは、それはただの、  
甘えだ。  
 
一瞬、脳裏を、エナメル質の白と、まだらの濃い赤、コントラストが占める。  
ほどいた綿からごろりと転がった、牙。  
その鮮やか過ぎるイメージは、さらなる想像を掻き立てる。  
暗く冷たい部屋の隅に追い詰められた、可憐な仔猫。  
にじり寄ってくる大きな影。  
右手には、わずかに差し込む光を無機質に反射する、金属製のペンチ。  
嫌がる猫の顎を握り締め、無理矢理開かせた口に、不似合いなほど大きなペンチがねじ込まれる。  
響く猫の「泣き」声。  
 
ゆかりはかぶりを振って、そのイメージを打ち消そうとするが、  
一度浮かんだ悪いイメージは、そんなことでは消えてくれない。  
今はただ、走るしかない。  
ぎゅうと唇を強くかんで、走り続ける。  
 
冷たく乾いた外気に、汗はすぐに気化して、流れない。  
かわりに、呼吸から多くの水分が放出される。  
吐いた息が白く結露し、彼女の足跡を空中に点々と残していく。  
三度前の呼気が消えて霧消するまでに、ゆかりは六歩進む。  
その轟々と走る動きと、リズム良く吐き出される煙は、蒸気機関車を思わせる。  
唾液から、水分が失われていく。  
粘度の高くなった唾液が喉にまとわりついて、呼吸がしづらい。  
喉を下品に鳴らして唾液を吐いたが、唾液はただ糸を引いて、ゆっくりと後方に流れていく。  
きらきらと光る透明の糸が口から頬に、服に、まとわりついた。  
慌てて、袖口で口元を拭く。暗い染みがついた。  
絶望したい気分に駆られたが、それもできない。  
 
大丈夫、血を吐いたわけではない。  
足も、引き裂かれるように痛いけれど、痛みは克服できる。  
大丈夫、まだ間に合う。大丈夫、大丈夫――――  
そんなことを考えているうちはまだよかった。次第にそれすらも考えられなくなった。  
 
ネルソンの銅像があるトラファルガースクウェアから、ピカデリーサーカスはそう遠くない。  
しかし、警官に追いかけられ、右も左もわからない道を、ひたすら走った。  
思考は消え、視界は狭まる。足は萎え、腰を支えることも危うい。  
限界かもしれない。  
意識が薄れていった。  
 
 
 
ゆかりが飛び出していって三時間が経った。犯人が指定した時間をとうに過ぎている。  
うまくいったのかいかなかったのか、犯人を追い詰めたのか逆に追い詰められているのか。  
ただ背中を見せて走り去っていったゆかりは、無事なのかそうでないのか――  
ティムは心配で仕方がなかった。  
短い前髪が不安そうに揺れた。  
暖炉に火をくべる。座っているオフト夫人の表情は、いまだ死人のそれである。  
今すぐにでもゆかりを追いかけてロンドン中を捜し歩きたいが、  
足に障害を持ち、まともに歩けないこの人をひとりで置いてゆくわけにもいかない。  
 
「奥様、お気を確かにおもちくだせえな」  
ひょっこりと顔を出したのは、アメリカの炭鉱夫が着るような、青いデニム地のオーバーオール、  
それも着続けてあちらこちらに穴があいてしまっているものを着た、  
召し使い、と呼ぶのもためらわれる支那人の男である。  
その男に呼ばれたオフト夫人だったが、暖炉を見つめて返事をしない。  
「奥様」  
二度目の呼びかけにようやく顔を振り向かせ、  
「あああ、シーナかい……あの子は、無事かねえ、あの子は、好奇心が強いんだよ。  
 うちの一人息子にそっくりで、あの子は、どこにでも一人でいっちまう。  
 私を置いて。ねえ、あの子は、ぶじかねえ、あの子は……」  
言葉の最後には、涙が深いしわを伝って流れていた。  
シーナは手を取り  
「大丈夫です奥様、きっとあの子は、リオは生きていますでに」  
と、いった。  
オフト夫人は、オ、オ、オと声を上げて泣いた。  
だが、ティムの目には信じられないものが映っている。  
これは暖炉の火の加減のせいではない。  
 
ソファに泣き崩れるオフト夫人を目の前にして、男が浮かべている表情は、  
大きくゆがんだ、ひどく楽しそうな、笑顔である。  
音を立てて、薪が爆ぜた。  
 
 
 
「……嬢さん……お嬢さん」  
声が聞こえる。光は無い。  
「お嬢さん、大丈夫かい、お嬢さんよ」  
男の声だ。軽く頬を叩かれる感触がある。  
おきなければ。  
なぜ?  
だってそれは――  
 
「――――――!」  
ゆかりは跳ね起きた。  
しまった、どうやら気を失ってしまったようだ。  
焦点が合わない。世界はどこまでもぼやけている。  
「いま、何時ですか、私は、今――どれほど――」  
ゆかりは目の前の人影のようなものの両肩を握り、体を揺らすようにたずねた。  
「お、落ち着きなよ。なに、気を失ってたのは一瞬だ。驚いたよ、  
いきなり倒れたと思ったら、一回転して、そのまま動かなくなっちゃうんだからな」  
「い、いきなり倒れた?あの、それで、ここはどこ――ですか?」  
次第に、目の前の男に焦点が合った。  
警官である。  
一瞬、トラファルガー広場のしつこいあの警官が追いかけてきたのかと焦ったが、  
どうやら別人のようだ。  
「ここ?覚えていないのかい?ここはピカデリーサーカス交差点のど真ん中で、  
私は立ちんぼの警官だ。そろそろ私を、交通整理に戻してもらいたいのだがね」  
なるほどその浮島のようなスペースを中心とした四辻には、大量の馬車が、目を血走らせて  
――馬ではなく御者が――その中心を睨みつけている。  
いま、警官が整理を行えないせいで、辻の信号はいわば全て赤なのだ。  
 
倒れるまでの記憶が徐々に戻ってきた。  
ピカデリーサーカスは、倫敦一の大混雑交差点だ。  
そして、倫敦の道路というのは、どこも道の真ん中にまっすぐ、十センチほどの段差があり、  
長細い浮島を作っている。  
そこに街灯を立てたり、停留所としたり、あるいは警官の立ち尽くす見張り台となる。  
夜にはこの浮島から伸びるガス灯が点々と光り、道の左右をわける目印になる。  
道の端から端を横断する時には、はしる馬車の間をすり抜けすり抜け、とりあえずこの  
浮島までたどり着く。  
そうしてそこで一呼吸整えてから、ふたたび端を目指して走り出すのだ。  
 
ゆかりは、倫敦一の大混雑交差点の、この手信号警官の立つ浮き島を目指して走り出た。  
倫敦一、すなわち世界一と言っても過言ではないこの道路の幅は広く、安全地帯も遠い。  
 
その浮島まであと一歩、というところで膝が抜け、危うく馬車に轢かれそうになった。  
ゆかりはこの交通の濁流の中で安全地帯たる浮島まで、あと一歩。  
だがその体躯堂々たる巨大馬も、ゆかりのからだを踏み潰すまで、あと一歩。  
二本足と四本足の関係からも、同じあと一歩とは言え、どうやら馬の方に分があった。  
このままでは、踏み潰される。  
ひづめの音がすぐそこに聞こえた。  
汗が冷たい。  
 
「……――っ!」  
とっさに頭から転がり込んで、つまり前回り受身で間一髪、馬車を避け難を逃れたが、  
あまりに無呼吸の運動を続けたために、脳が酸素欠乏を起こして気を失ってしまったようだ。  
 
「ところで」  
警官は外套のポケットに手を突っ込んで、赤い封筒を取り出した。  
「君がそんなになってまで、ここに来たのは、これを探しているからかな?」  
ゆかりは目を見張った。  
「どうしてそれを――」  
その反応に、警官は逆に驚いたように言った。  
「なぜって、君は右手に、全く同じ封筒を握り締めているじゃあないか」  
ゆかりははっとなって自分の右こぶしを見た。  
なるほど、焦りのせいで気付かなかったが、たしかにそのこぶしにはあの封筒が握り締められたままである。  
「じゃあ、確かに渡したぞ」  
そうとだけ言うと、警官は高く笛を鳴らし、右手を上げ左手を上げ、交通整理を再開した。  
ゆかりはしばらくぼうぜんと、その封筒を眺めていたが、やがて思い出したようにそれを破り読み始めた。  
 
 
 
ごくろうさん  
 
さっさと うちに かえりな 。  
 
また あした あそうぼうか 。  
 
 
 
これだけであった。  
いままでの様に、どこへ行けとも、どうしろとも、書かれていない。  
ただ三行、こうとだけ――  
 
 
あまりに不可解である。目的も、何もかも。  
最初の手紙には「目的は金ではない」と書いてあった。  
では目的はなんだろうか。  
オフト夫人は足が悪い。普段の歩行ですら困難だ。  
混雑したオクスフォード通りを滑稽なまでに走らせ、  
トラファルガースクウェアで封筒を見つけさせ、  
ピカデリーサーカスで、曲芸じみた技能が必要になるほどの混雑した道路の横断をさせる。  
もし今日、自分がいなくて、オフト夫人がこの事態にあたることになっていたら  
どうなっただろうか。きっと混雑した道を歩くのにも、段差のある広場を探すのにも、  
馬車をすり抜けて歩くのにも何をするのにもその度にいちいち困って困って、  
困り果ててしまっただろう。  
それが目的なのだろうか、犯人は。  
愉快犯。  
その言葉が思いつくまでに、時間が掛かった。  
 
最後のこの手紙、その最後の三行目、ここがやけにゆかりの目に付いた。  
「あそ う ぼうか――」  
誤字である。  
いままでの手紙どおりの書式である。ぎちっとした書体に、必要以上に間隔のあいた単語と単語。  
ブロック体で、間隔をあけて、馬鹿丁寧に書いたようにも見える。  
犯人の筆跡を消すために、意識してこま切れに書いた様にも見える。  
しかし、それが誤解だとしたら――――  
最後の誤字は、計画の詰め、最後の最後で見せてしまった気のゆるみ、かもしれない。  
ということは。もし、そうだとしたら。  
ほんとうは英語が得意でなく、本当にこの形式でしか、単語単語で、文章を区切らないと、  
英語を書けない者が犯人だったとしたら――  
 
綿から糸がつむがれるように、ガラガラと音を立てて、ゆかりの頭の中でその考えはまとまった。  
ゆかりは、馬車の行きかう辻へ身を投じた。  
向こう岸へ、間隙を縫ってゆく。  
血液が頭脳に集まる。意識が澄んで視界は冴えてきた。  
馬車の全ての動きが見える。御者が手綱を引く、あと50センチ左へ。  
身をわななかせた大きな馬の鼻先を通り過ぎる時、鼻息が髪にかかって揺れた。  
警官がけたたましくホイッスルを鳴らしたが、無視だ。  
ゆかりはあっというまに全ての馬車をすり抜けて、走り去っていった。  
 
 
犯人は、この卑劣極まりない愉快犯は、あの下男、シーナだ。  
ゆかりはからだ全体を燃やすようにして、走る。  
 
 
 
オフト夫人の邸宅に辿り着いた頃には、日が傾いていた。  
まぶしいオレンジが、目に刺さる。  
シーナはいた。  
温室、コンサバトリーに、小さな猫、リオを抱えて、立っていた。  
他の猫はどこへ行ったのか、いまここに居るのは、リオを抱えたシーナと、ゆかりだけである。  
「やあ、おつかれさまでがんした」  
シーナは悪びれる様子無く、ゆかりに微笑んだ。  
「あなっ……たっ……がっ……」  
ゆかりは肩で息をしている。というより、息も絶え絶えで、立っていられるのが不思議なくらいだ。  
胸に孔があいたかのように、ひどく痛む。こぶしで胸を押さえつけ、ほとんど水分の無い生唾を苦労して飲み込んだ。  
体をおもいきり柱によりかからせている。  
自分の足だけでは、まともに立っていられないのだ。  
「うまく喋られへんのですやろ、そりゃ、あれだけ走りゃあ、当然でがんす」  
悔しいが、シーナの言うとおりであった。  
怒りに任せて、走ってきた。  
風が吹いていたが、向かい風を押しつぶすように走ってきたのだ。  
「なんっ……でっ……」  
 
逆光になって、シーナの表情が読めない。  
逆光もそうだが、また意識が朦朧としてきて、うまく焦点が合わさらないのだ。  
「なんで、ときましたでがんすか。あなたも見ているはずでがんすがね」  
ゆかりは答えられない。  
「……俺はな、猫が憎い」  
男は驚く程流暢に話し出した。  
「おれが働いて働いて働いて、あの婆あからもらう日当の、倍も三倍もするような餌を、  
 ビフテキを、こいつらはただ、何も考えずに、むさぼり食っている。  
 夢にまで見る、血の、滴るような、あの分厚い牛肉を、だ」  
「だがそれよりも、猫よりも、あの糞婆あだ。あいつをとっちめにゃあ、俺の気が済まん。  
 俺はあいつを苦しめるために、あいつの苦しむ姿を見るために、この計画を考えた」  
「だが、お前という想定外の因子が現れ、計画は変更を余儀なくされたが、結果は、  
 むしろ良かった。傑作だったぜ、あの婆あの哀れな顔といったらよう」  
男は一気にそういって、そして思い出すかのように小さく笑うと、  
その笑いはどんどんと大きくなって、部屋中を満たした。  
「あーあ、傑作だ。愉快、愉快」  
 
「つまり俺は、あの婆あより、力も、知恵もある。  
 だからあの婆あを使って、俺が愉快になるのは当然のことだ。  
 正義とは力のことだよ。なあ日本人。わかるだろう」  
男はゆかりを見た。もう笑ってはいない。  
 
「所詮、力のあるものが正義で、力のない者はそれに虐げられ、従うしかないんだろうがよう!」  
 
男は、語気を強めると共に、両手にも力を込めた。手中の猫が苦しそうに鳴いた。  
「だからって、その猫は――」  
「関係ない、って言いたいのか。この長毛の猫と、俺の嘆きが」  
「……ばか言えっ!」  
「この猫がいつも食っているのは、俺が一日働いて得る金の倍以上するものだ。  
 そんな理不尽ができるのは、一にも二にも、この国が強く、富んでいるからだ。  
 馬鹿げた言いがかりで切り取られた俺の国、その豊かさが廻りまわって、猫の餌になってるんだよなあ。  
 なあ、どこに正義があるんだよ。知ってるなら教えてくれ。あんたは頭がよさそうだから、  
知っているなら教えてくれよ。世界のどこに『正義』なんて――」  
男の様子が変わった。  
最初、男は怒りに満ちていた。理不尽に対する怒りだ。  
しかし、途中から怒りというよりも、自分に対する哀れみや、悲しみといった感情に変化していた。  
自分の境遇や、世の中の理不尽に怒るよりも、悲しくなってしまったのだ。  
自分のことでありながら、哀れみを感じるようになってしまったのだ。  
自分自身に対して、「哀れ」と感じるのだ。  
この感情は、怒りよりも、悲しい。  
 
「正義が本当はどんなもので、どこにあるのかなんて、私にはわかりません。   
 ……でも、あなたがやっているのは、明らかに不正義の、八つ当たりです」  
だいぶ呼吸も落ち着いた。  
膝はまだガクガクと笑っているが、ゆかりはつとめて平静を保ち、諭すように言った。  
ゆかりは、まぶしさに目を細めた。  
 
「そんなこと……わかっているさ。だがな……俺は、こいつより、強い。  
 だから俺にはこいつを自由にする権利がある――これが俺の、そして世界の、正義だ」  
男は、抱いていた猫を高く放り上げた。猫は着地に備えて、空中で素早く身を翻す。  
その時シーナの足は、背中につくほど高く振り上げられ、落ちてくる猫を、蹴りつける。  
 
「やめろっ――」  
男の足と落ちてくる猫の間に、滑り込む者がいた。  
物陰から現れたその体は、猫が落ちる寸前、男の足が振りおろされる寸前、  
自分の体を猫と足の間に滑り入れることに成功した。  
ティムである。  
猫を抱き、来るべき衝撃に備えて体を丸める――前に、シーナのつま先がティムの横腹にめり込んだ。  
 
肺を一度に押しつぶしたような音が、ティムの喉から漏れた。  
ぐうぅ、という音は重く、少年が出した声とは思えぬ低音で、ゆかりの耳に届いた。  
 
「この糞餓鬼――」  
シーナは、もう一度足を振り上げたが、再び振り下ろすことはできなかった。  
片足で立ったままで、なにか固いものを、大きな質量のあるものをぶつけられた。  
体がよろけて、振り上げた足はそのまま地面に戻さざるを得ない。  
最初、少女が体当たりをかけてきたのかと思った。  
体の軽い少女だから、体がよろけるだけで済んだのだろうと。  
しかし違った。  
少女は、ただ直立不動で、こちらを睨みつけているだけである。  
猛禽のような鋭い瞳で、睨み、射すくめている。  
 
殺気。  
シーナがぶつけられたものは、実際にはこれであったが、その言葉を英語ではなんと言うのか、  
彼は知らなかった。  
 
状況に反するようだが、ゆかりは、この感覚自体は嫌いではなかった。  
頭に血が上ってはいるのだ。しかしその血は、冷たい。冷たい血が脳を満たして、世界を異常に冷やしてくれる。  
次第に回りから音が消え、さらに、色が消える。  
灰色に満ちた世界になった時、体中を巡るエネルギーを、男の瞳へ、突き刺す。  
感情を抑えることなく、相手の体に思い切りぶつけてやる。  
強い風に炎が煽られるように、感情の奔流は大気中を吹き荒れ、  
自分の殺気に、男の身は焼かれる。  
 
ゆかりは重心を左右に揺らすことなく、男との間合いを詰める。  
一足飛びに襟首を掴み、つるし上げ、投げ飛ばしてやりたいところではあるが、  
いかんせん膝が笑って、言うことを聞いてくれない。  
このままでは、シーナをぶん投げることも、不可能かもしれない。  
 
その不安が、的中してしまったかもしれない。  
ゆかりが、シーナの襟首を掴んだ。  
しかし次の瞬間、ゆかりの膝が、崩れ落ちた。  
「限界が来たのだ!ははっ、ざまあみろ!」  
とシーナは卑しい笑みを浮かべた。  
 
 
シーナの考えは半分、当たっていた。  
もう自分で立っている事すら難しいのだ。膝が勝手に抜けてしまった。  
確かに限界は来ていた。当然だ。  
あまりにも走った。ひっ迫した心理状況で、走り続けたのだ。  
本当はもう、ひっくり返って寝転がりたい気分であった。  
しかし、この男は許せない。  
脳裏に、血のこびりついた牙が、赤く白く、閃く。  
そして足元に、体を丸めて腹を押さえているティムの姿がある。  
眉をしかめて咳き込んでいるのが、見えた。  
 
灰色の世界の中で、自分の背骨を貫いて走る、真っ赤な炎を感じた。  
炎は一瞬で、足に、膝に、ふとももに燃え移り、痛みに似た刺激を呼び起こした。  
 
いまだ。  
いまだけだ。ただこの一瞬だけ、立ち上がることが出来れば良い。  
そのことだけに集中すれば、出来るはずだ。  
異変が起きた。  
 
 
もう一度見る。  
シーナは襟首をつかまれ、ゆかりは膝から崩れ、体を落とした。  
シーナはこのときに変だと感じるべきであった。  
体力の限界で、足が崩れてしまったのなら、ゆかりの腕はだらしなく伸びきり、  
自分の体が引っ張られることはないはずだ。  
しかし現在、シーナの上体は、崩れ落ちたゆかりの体についていくように、前方に、  
そして下方に引っ張られ、両足のかかとは浮かび上がり、爪先立ちになっている。  
不安定なのだ。  
 
崩し。  
これが、成っている。  
ゆかりはいったん、崩れ、否、相手の体を崩し、地に膝が着くかと思うほど自分の体を沈み込ませた。  
そして  
「ふんっ」  
と体中の声を絞り出すような気合をかけ、シーナの体を肩に担ぎ上げた。  
あとは、放り投げるだけである。  
 
担ぎ上げられたシーナの視点はめまぐるしく変わった。  
ゆかりが見える。そして彼女が膝から崩れ落ち、消える。  
いきおい体が引っ張られ、汚い地面が視界に入り、近付く。  
と思ったら、その地面が遠くはなれてゆき、体に浮遊感。  
そして、天井、夕焼け空。  
少し遅れて、背中と後頭部に、強い衝撃。  
暗転。  
 
 
『肩車』  
相手の体を両肩で担ぎ上げ、地面に落とす荒業だが、  
前方への崩しが完璧ならば、立ち上がる力、吊り手で地面へ引く力、左手で足を放り投げる力、  
それらの力がてこの原理で100%伝わり、この技は「担ぐ」というより、  
自分の肩を支点に、相手の体を縦方向、地面に向かって「ぶん回す」といった感覚になる。  
だから『肩車』という。  
ゆかりがやったのは、それであった。  
 
「正義がなんであるか、正確には、わかるはずも無いが、それがあるとすれば――  
 私とお前がどちらも幸せになれる、自他共栄の中に、それを目指すやり方の中に、  
あると、私は思う」  
男は気を失っている。返事はない。  
夕日が血のように赤い。不似合いな静寂が続く。  
 
ティムがよろめきながら上半身を起こした。猫がするりと腕を抜けた。  
「――――坊ちゃま!大丈夫ですか!?」  
ゆかりは躊躇無く汚れた地面に膝をつき、ティムを抱き起こす。  
う、と小さなうめきが漏れた。  
「ああ、だ、大丈夫……」  
「無茶、しないでください」  
涙がこみ上げてきた。ふくらんだ袖で拭う。  
汗、粉塵、土、涙。  
色々なものを吸い込んで、せっかくの余所行きだったが、汚れきってしまった。  
 
みゃあ、と猫が鳴いた。  
ゆかりはそれを抱き上げ、撫ぜる。  
「――――そうだ」  
ゆかりは猫の口に、親指と人差し指とさしいれ、口を開かせる。  
予想は外れて、鋭い牙が、きちんと生え揃っている。  
「んん?」  
猫は口に指を入れられることをあからさまに嫌がり、ゆかりから離れていった。  
 
どういうことだ、あの「しょうこ」の牙はリオのものではなかったのか?  
ゆかりは乱暴に気付けを施して、シーナを蘇らせた。  
「……う、な、なんだ」  
シーナの喋り方がおぼつかない。衝撃がよほど強かったようだ。  
「ああ……あの牙か、ありゃ……乳歯だよ。お前さんにも、覚えがあるだろう?」  
毎日世話をしているのだ、情が移らないわけが無いじゃないか、と男は言った。  
良くも悪くも、純粋すぎただけなのかもしれない。  
 
「―――あなたに言っておくべきことが、一つあります」  
シーナはうつろな目をゆかりに向けた。  
「オフト夫人は、あなたの給料を、銀行に積み立てています」  
シーナの反応は無い。  
聞こえているのかいないのか、あるいは聞こえているが、意味がわからないのかもしれない。  
ゆかりは続ける。  
「あなたにずっと働かせるのも、給料をあまり渡さずに、半分以上積み立てているのも、  
 すべて、あなたのため、なんです」  
「年老いた自分が死ねば、この家に仕事はなくなる。だから、そのときのために、  
 庭師として独立できるだけの技術と、資金を、蓄えさせているのだ、って」  
ゆかりは、哀れな支那人を見続けた。  
無表情のままで、そのうつろな目から、涙がこぼれた。。  
「――――そんなことさ、きいて、ねえで、す」  
そのままで、ぽろ、ぽろと、涙を流し続けた。  
沈む夕日が温室を、暖かく柔らかく、橙色で満たした。  
 
 
リオが戻ったとわかると、たちまち、オフト夫人の顔色は鮮やかなものに戻った。  
犯人も、その目的も、ゆかり達は黙っていた。  
シーナは、今日もオフト夫人に怒鳴られながら働き続けている。  
しかしその表情には、随分と明るさが増し、庭師の技術も目に見えて上達している。  
心の持ちようというもので、人生は変わる。  
彼の人生には、いままで一筋も感じられなかった希望や、感謝の心、それが感じられるようになっただけで、  
こうも人間が変わってしまうのは、ゆかりやオフト夫人の驚いたところであった。  
今日も彼は大きな楡の木に登り、手入れをする。  
夫人はあそこがダメだ、ここが悪いといちいちケチをつける。  
いままでと違うのは、シーナの明るい表情と、手入れを終えたその木の下で、  
二人で紅茶を飲むことが日課になったことだ。  
だが、  
「ううむ、紅茶というのは、こうして飲むとおいしいものでごぜ、ますねえ。奥様」  
「そうかいそうかい。最近はあんたも腕が上がっているようだし、良い事だわ」  
「つぎは、血の滴るようなビフテキがくいてえですよ、奥様」  
「調子に乗るんじゃないっ、百年はやいよっ」  
「うう……この、オニババア」  
「ああ?なんだって!?もう一度言ってみな!!」  
「いえ、なんでも、ごぜませんでげすよ、これまた」  
シーナの英語は向上していない。  
樹下に響く笑い声に、楡の葉が優しく揺れた。  
足元で、猫が幸せそうに鳴いた。  
 
 
「坊ちゃま、大丈夫ですか?おなか」  
「もう大丈夫だって!ほんとだよ」  
「嘘ですよ!ほら、こんなに痣が残ってるじゃないですか」  
「わぁっ、きゅ、急に服、めくり上げないでよ!びっくりするじゃん!」  
「痛いの痛いの、飛んでけえ」  
「ひゃあっ!ユカリ、ゆびが冷たいっ!」  
「……あ、ごめんなさい。でも……仕返し、です。いつかの」  
そう言ってゆかりは、微笑んだ。  
ティムは、やはりこの笑顔のためになら、体を張ることなど惜しくない、と思った。  
小さいけれど、男なのだ。  
 
「あーっ!リオ!あなたその魚!」  
名を呼ばれて、猫は自分の体ほどもある生魚をくわえたまま、振り返った。  
どうやらダーヴァレイ家は、彼の行動範囲にすっぽり入っているようだった。  
リオは髭をひくっとさせたあと、裏口から逃げていった。  
「待ちなさい!こら、ちょっと!あなたいつももっといいもの食べてるんでしょうが!」  
ユカリは立ち上がり、お魚くわえた猫を追いかけようかとしたが、  
「あっ」  
つまずいた。  
「なんのっ」  
前回り受身。  
華麗に立ち上がる。  
「おおっ」  
「ちっ……逃がしたか」  
「あはは、ざんねん」  
「……坊ちゃま、楽しそうですね」  
「ん、まあ、ね」  
「でもこれで、今日の夕飯、ポテトだけですよ」  
「ええっ」  
ダーヴァレイ家は今日も平和だ。  
 
 

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