倫敦全力疾走  
 
 
 
ティム・ダーヴァレイは夢を見た。  
それがどこかはわからない。  
いつのことかもわからない。  
しかしその茫洋とした場所をひたすらに走っている。  
自分が何のために走っているのか、さっきまでは覚えていたようにも思うけれど、  
もうわからない。  
ただ走らなければならない。  
往々にして、走る夢というのは、本人の必死さに反して、足は前に進んでゆかない。  
ただ足が地面のようなものを蹴りつけ、そこをぐるぐるとさせている。  
 
しかしやはりそれをやめることはできない。  
そうしなければ、何か大切なものが失われてしまうような気がするからだ。  
「くそっ、いったいなんだって言うんだ」  
夢の中で少年は叫ぶ。  
徒労――その言葉は知らないが、彼が感じているものはそれであった。  
 
一体ここはどこなんだ。  
家の近くの通りのように見えるのに、その家もこの街灯にも、目の前の石畳の並び方にも、  
見覚えは一つもない。  
ティムはただ足元を見て、走るように足踏みをする。  
走っているはずなのに走っていない。  
「なんなんだよ」  
顔を上げると、遠くに見慣れた背中がある。  
それに追いつこうと足をばたつかせるが、体は前に行かない。  
背中は一度振り向いてこちらを見たが、見えていないのか、全く彼に興味を示さず、歩いていった。  
くそ、なぜすすまないんだ、すすめ、すすめ、すすめ――――  
 
いらだちに背中が熱を持ったころ、彼は目覚めた。  
朝である。  
爽やかな朝である。  
鳥はやかましく鳴いているし、東向きの窓からはガス灯の青い光ではない、黄色い太陽の  
光が差し込んでいるし、  
布団はセルロイドのように乱れている。  
みまごうことのない、これでもかこれでもまだ寝ぼけまなこを続ける気かといった  
一種の強迫観念を持った――言い過ぎにも程があるが――なにしろ、強迫観念のようなものまで持った  
いつもの通りの、19世紀末英国ロンドン、いつも通りの朝の光景である。  
 
彼――朝日の中で目をつむったままの少年――ティム・ダーヴァレイは憮然とした表情である。  
短く上向きの眉と眉の間には、この小さな眉間に良くぞこれほどのしわが作れるものだと  
キリスト教で言うところの創造主の緻密さにまったく感心させられる程のしわを刻み、  
いつもは鼻の下に小さくのっかっている屈託のない唇は大きく横に広がり裾野の広い山を描き、  
ついでに髪の毛はねぐせで好き勝手な方向に逆立っていた。  
まるで様々に深刻な社会の問題を、一身の責任と考え悩んでいる政治家――ありえないものを  
実際にあるかのように言うのが比喩というものだ――のようであった。  
 
「あー……」  
あの背中はだれの背中だっただろうかなあ、すごくみおぼえはあるんだけれど。  
今まで見ていた映像と、今取り囲まれている環境のあまりの違いに、意味のない声が出てしまった。  
事態が良く飲み込めない、現況を把握できない、少し時間が欲しい、そういった時に  
大人が良く使うような、鼻から抜けるAが出た。  
そうしてゆっくり時間を掛けて、  
「なんだ……朝か」  
爬虫類なみの神経伝達速度で、じぶんは眠りから覚めたのだなと認識した。  
 
なんだかあまりよくない夢をみた気がする。  
さっきまでそのことについて何か考えて、考えなければならなかったような気がするけど、  
とりあえず朝だし外はもう明るいしおなかすいたし鳥は鳴いてるし馬車は走ってるしおなかすいたし  
「とりあえず起きよ……」  
朝の光が差した部屋の中にそう呟いて、彼には珍しいことなのだが、割ともたもたしてふとんを跳ね上げ、  
ひんやりと硬い床に足を下ろして、その冷たさに異質な快感を覚えつつ、階段を下りていった。  
 
不思議なもので、夢というものは、その世界の中にいるときには、それ以外に世界がある  
などとは思いもつかないほどに意識は夢に縛られて満たされているのに、いざそこから  
覚めてみると、その内容、世界の記憶は驚くほど簡単に失われて、胸に不思議な感触だけを  
残して消えてしまう。  
 
顔を洗う前と後では、人相がほとんど変わってしまっている。  
ティムの小さな脳は、物事を忘れるのに向いていた。  
「……なんだか、いやなゆめを見たような気がするけど」  
前髪の先からしずくが落ちる。  
両手に持ったタオルでそれを受け止めた。  
「顔あらったら、わぁすれちゃったぁ」  
小鳥がちちちと鳴いた。  
 
あはは、と一人であくまで陽気に笑い、タオルを濡らしてきつく絞ると、頭から首の根元まで、  
冷たいタオルでこする。この冷たさが気持ち良い。  
ついさっき、洗面器にためた水を手に取り、それを顔にぶつけるまで、一体何が気に入らずにイライラしていたのか、夢みが悪かったような気もするけれど、もう思い出せない。  
びりびりとしびれるような冷たさの、氷になる一歩手前の水が、眠気も記憶も、  
夢から身にまとってきたような澱んだ空気も、一度に洗い流してしまった。  
 
居間に戻る。暖炉にはうす暖かく石炭が燃えていた。恐らく父親のジョンが一時間か  
もう少し前――実際には二時間半前――に火を入れてくれて行ったのだろう。  
実際に紙や木屑から、固く冷たい石炭に火を灯すまでの手間と時間を考えると、  
種火だけでも残して行ってくれる父親の心遣いは実にありがたい。  
「ううぅ、ああ、あったかい」  
ティムはその小さな両手を、胸の高さで、じんわりとそこに届く熱をうしろに逃すまいと  
しているかのように目いっぱいに広げ、水の冷たさに赤く染まった小さな手と、  
その指の隙間から見える、指以上に赤く燃える石炭を眺めた。  
 
火力を強めようと暖炉のそばのバケツ――本当は、石炭を入れるバケツというものには、  
それ専用の、花やなにかの美しい細工が施されたものがあるのだが、父はそういうものには、  
控えめに言って余り気を使わない方で、この家で使われているものはいわゆる  
「普通のバケツ」というか、ブリキでできた至極簡単で質素なものだった。  
父は家具商をやっているというのに、こんなことでいいんだろうか、と思わなくもないが、  
昔から医者は不養生するものだし、紺屋は白いハカマをはくものだと一人うなづいて――  
そのバケツから、黒々と、氷のように光る新しい石炭を、スコップに二杯か三杯、  
暖炉に投げ込んだ。  
 
「そうだ」  
と呟くと、柄の細いスコップをバケツに投げ入れ、再び台所に向かった。  
そうだった、じぶんには仕事があったのだった。  
二階の物置部屋――元・物置部屋でまだおそらく、安らかに眠っているだろうメイドを  
その眠りから覚ますという仕事が。  
ただこれがなかなか大変な仕事なのだ。  
だからとりあえず台所に向かう。  
 
 
――東洋人は表には出さないが、その身にはごうごうと音を立てて燃える闘志を持っているようだ。  
そう思うと、彼らの髪の色がまるで石炭のように深く、光沢、つやのある黒であることは  
その内に秘めた熱量を黙って表しているようにも見える――  
 
いつだかの新聞の、外交官のインタビュー記事にそんなことが書いてあった。  
ごうごうと音を立てて燃える闘志。  
そんなものが、ほんとうにあるのか、実に疑わしい。  
あるとしてもうちのメイド――東洋人――の場合、眠りを維持することに  
その燃えたぎる闘志を使っているんじゃないかと思われるほど、  
いつでも彼女の眠りは深い。  
 
「『Sleeping Beauty』みたい……か、なぁ?」  
自分で口に出しておいて、やっぱりその例えはちょっと眠り姫に失礼だな、とも思った。  
だって彼女はお姫様でなくきちんと自分のやるべき仕事を持った労働者で、本来メイドと  
いうものは家のだれよりもより先に起き、朝のお茶やご飯の準備をして、主人を送り出すものだ。  
しかし彼女はいつもだれよりも遅く起きるし、自分が起こしに行かなければいつ起きるのかもわからない。  
ひょっとしたらそのまま夜まで寝ているかもしれない。  
そして夜になり目を覚ますと  
「あ、夜だ」  
と言ってそのまま寝るのだ。  
自分の想像にティムは少し微笑んだ。  
それに、なにより眠り姫と違うのは、その起こされ方だろう、姫は王子様の優しいキスで  
起こされるが、彼女は自分に起こされるのだ。  
水で冷たくひやした手を押しつけられて。  
 
台所を出て階段を上がる。  
階段を一段上がるたびに、くっくっと笑い声が漏れそうになるが、  
口をふさいでなんとかこらえた。  
思惑通りに手は冷たい。  
元物置部屋、現使用人部屋の扉をゆっくりと開ける。  
この部屋は他の部屋より寒い。冷たい風がティムのくるぶしを撫でる。  
 
その部屋の真ん中で、ダーヴァレイ家の雑役女中――メイド・オブ・オールワークス、  
田村ゆかりは掛け布団を巻き込むように、丸まって眠っている。  
いつものように彼女は、その両まなこをしっかりと閉じ、黒いまつ毛はもう離れない、  
離れたくないと互いにからみ合い、横一文字を書いている。  
木箱を横に並べて作られたベッドに近付くと、すう、ふう、すう、ふう、という規則正しい  
幸せそうな寝息が耳に届く。  
「やっぱり、まだねてるよね……」  
だから起こしにきたんだけど、と心の中で付け足すと、その冷たさを確かめるように  
両手を互いにすり合わせた。  
つめたい。  
まるで氷みたいだ。  
ちいさく突き出された唇の両隣にふっくらと膨らんでいる、柔らかそうな彼女のほっぺたを、  
この両手で挟んだら彼女はどんな反応を示すだろうか。  
きっと  
「ひゃ、ひゃあ、ひゃああああああ、あああ…ああああぁあああああああ」  
とか、まぬけな叫び声とともにとび起きるだろう。  
ティムはその姿を想像して、再びくっくっとくぐもった笑いを漏らした。  
 
いけない、ここで起こしてしまったらけいかくが水のあわだ。  
ティムは一度、きっ、と前を見据え枕元にそっと立ち、深く息を吸い込むと  
 
「ユカリぃ!朝だよぉー!!」  
と耳元で叫ぶと同時に、小さな両手でそっと彼女の頬を包んだ。  
 
 
 
ゆかりはティムの予想したとおりのまぬけ声を上げて、予想したとおりの表情で、  
予想したとおりに飛び起きた。  
 
                *  
 
「まったくもう、ひどいじゃないですか、起こすにしてももう少し、方法というものが  
あるでしょうが」  
少女は憮然とした表情で言った。  
田村ゆかりという。  
当年とって14才、紛れもない日本人の娘であるが、わけあってこのダーヴァレイ家で  
住み込みのメイドとして働いている。  
わけ、というのは、彼女は交通事故――馬車との接触事故――で頭部に強い衝撃を受けて以来、  
記憶喪失になってしまい、日本のことも、自分のことも、すっかり忘れてしまっていたのだった。  
だがどういうわけか、いま彼女が強い不平をあらわにしている少年、ティム・ダーヴァレイ  
と一緒にいると、なぜか記憶が戻りやすいようなので、記憶障害のリハビリを目的として、  
今この倫敦で暮らしているのだった。  
そして19世紀末、この英国は押しも押されぬ世界一の大帝国である。  
そしてその首都ここロンドンは『人間の潮が八方から押し寄せてくる』世界の中心なのである。  
その世界の中心に住まい、学び、英国事情に精通するということは、発展後進国日本にとって  
非常に有益であるはずだと彼女の父、田村清五郎が考えたからであった。  
 
ゆかりはその憮然とした表情のまま、続けて言う。  
「せっかく、良い夢見てたのに」  
「へぇ、ほんとう。どんな夢」  
「忘れました」  
「……なんでそれで良い夢、ってわかるのさ」  
「なんとなく、です」  
なんだいそれ、てきとうじゃないか。とティムが非難するような口調で言うと  
「内容は忘れましたけど、なんとなく良い気分だけ残ってる…残ってたんです!  
 それなのにあんな起こされ方したから。そうだ、あんな起こされ方したから  
 忘れちゃったんじゃないですか!せっかくの良い夢だったのに!」  
再び、自分の起こされ方に対しての不満を口にする。  
ティムは少しむっとして  
「……じゃあ、どんな起こされ方がいいのさ」  
と聞いた。  
ゆかりは少しの間  
「そうですねぇ……」  
と中空を見やり、色々と考えを起こした。  
十秒くらいして考えがまとまったらしく、明るい声で言った。  
「キスで起こしてください!『Sleeping Beauty』の王子様みたいに!」  
 
そんなことできるわけないじゃん  
と言おうとして思った。  
そうだ、ちょっとからかってやれ。  
「……ユカリ」  
「はい?」  
「なにいってるの、いつもさいしょにそうやっても起きないから、いろいろ  
 くふうしてるんじゃない」  
「え」  
「だからぁ、いつもいちばんさいしょに、ユカリに、その、キスしてるんだよ。いつも」  
「えええ」  
「でもユカリ、起きないじゃん。それでも」  
「あの、それは、こう……ほほにかるぅく、とか、おでこにちゅっ、とかではなく……」  
「ちがうちがう、ほんとうの、口と口の、『Sleeping Beauty』みたいな、キスだよ」  
「…………本当ですか」  
「ほんとほんと、今日なんて、いくらキスしても起きないんだから、困っちゃったよ」  
「…………!」  
「だからしかたなくああいうふうに起こすしかないんじゃん。あれ、いつもさいしょにキスしてるの、  
しらなかった?」  
小首を傾げてゆかりを見る。  
ゆかりは手を口元に――正確には、くちびるに――やり、冗談半分だったはずの言葉を  
吐いたその口が、今までとは全く違った意味を持つものになってしまったというような、  
その驚きに満ちた表情が、ティムの丸く、真っ青な瞳に見つめられ、あっという間に  
赤く染まっていく。  
 
「……ほんとに、しらなかったの?」  
さらにティムが問い詰めると、ゆかりはうつむき、指を唇に当てたままで、真っ赤な顔を  
横に二、三度振った。  
暖炉ではさっきティムが入れた新しい石炭が勢いよく燃えていた。  
その炎に照らされていることを加味しても、ゆかりの顔は真っ赤で、耳の先まで赤く染まっている。  
ゆかりは驚きと恥ずかしさで、ただ床の一点を見つめていた。  
頭が混乱して、まともにものを考えることができない。  
考えれば考えるほど思考は行くあてをなくし、出口を見つけられずに、こんがらがる。  
こんがらがった思考は頭の中で熱を生み、その熱は頬を、いや、顔全体を上気させている。  
 
きっと耳まで真っ赤だろう。  
自分でそう思うと、さらに熱は高まるようだ。  
とても顔を上げられない  
「ユカリ」  
声をかけられた。やさしく、ただ名前を呼ぶだけ以外の、甘い意味を持つような。  
ゆかりはぴくりと体を震わせたが、その声に答えることはしない。  
ティムは思い切ってゆかりの手を取った。  
ゆかりの体が再びぴくりと――今度はより大きく――震えた。  
 
手を握られたことで、さらにゆかりは体を固くした。  
ティムがゆかりの手の平を、指でなにやら触っている。  
その少しくすぐったい不思議な感覚に、ゆかりの意識は集中する。  
いや、矛盾した言い方になるが、意識が、「無意識的に」そこに集中してしまうのだ。  
 
さわられている。  
 
その感覚が、ゆかりの胸の鼓動を早め、あまりにも強く脈打つものだから、ティムに  
それが伝わってしまわないかと心配になる。  
手にも汗をかきはじめた。  
どきどきする、いや、手の平を触られるその感覚には、背中がぞくぞくするような刺激さえある。  
 
さわさわ、さわ。とリズムを取って動くティムの指は、何か文字を書いているようだ。  
目も上げられないゆかりは、感触だけでその文字を読み取る。  
混乱する意識の中では、よく読み取れないが、しかしティムの手は何度も同じように動き、  
同じ文字を書いているようだから、恐慌下にある頭の中でも、どうにか形をなしていく。  
 
・それはアルファベット三文字のようだ。  
・それはLからはじまるようだ。  
・それはLとIとEのようだ。  
 
・L―I―E  
 
なんだっけそれ。  
混乱と熱のせいで、たった三文字のアルファベットからなる単語を理解するまでに三秒かかった。  
ようやく視線を上げ、ティムの満足そうな笑顔を見つけるまでに三秒。  
小さな口が声を出さずに  
「うそだよ」  
と動くのを見るまでに三秒かかった。  
 
そして全てを理解したゆかりの怒号が響くまでに、やはりもう三秒かかった。  
 
                    
 
ティムがほうりこんだ新しい石炭の炎も、少し落ち着いた。  
「そんなにてれるんなら、さいしょから『キスで起こして』なんていわなきゃいいじゃない」  
少したってゆかりの呼吸が落ち着いた後で、ティムはそう言った。  
 
「こんなはずじゃなかったんですよう……」  
「じゃあどんなはずだったんだよ」  
ゆかりはまだ頬にうっすらと赤みを残している。  
してやられた。  
そう思っている表情だった。  
 
ティムは  
してやったり。  
そう思っている表情だった。  
 
 
 
「坊ちゃま見てください」  
「わっ、仔猫じゃん。どうしたのそれ」  
ゆかりが誇らしげに差し出している右手の先には、小さな猫が首の後ろを持たれてぶら下がっている。  
体も、四本の足も、尻尾までつながる背骨も重力に負け、だらしなく伸びきっている。  
だが猫はこの状態でも何一つ不自由は無い、といわんばかりの様子で、余裕たっぷりに  
「みゃあ」と応えるように鳴いた。  
「ふっふっふっ……世界の中心ロンドンでは、不思議なことが起きるもんですねえ」  
「……どゆこと?」  
「坊ちゃま知ってました?ロンドンでは猫が釣れるんですよ」  
「はあ?」  
「いえちょっと聞いてくださいよ」  
 
台所にある裏口を空けると、ほんの数坪しかない小さな裏庭がある。裏庭には小さな畑――  
赤レンガでふちどられた花壇――があるが、冬場なので今は何も植えられてはいない。  
春になれば、種々のハーブや野菜を育てるこの花壇も今はただのミミズの巣である。  
この小さな雌雄同体はその長細い体をちぢこませ、冷たく暗い土の中で、気温がゆるんで  
この土が柔らかくなり、好きなだけ、気のすむまでそれを食むことができるようになる  
あの素晴らしい季節――春が来るのを、人間を含めた他の生物同様に待ち望み、  
今はただ黙って静かに眠っているのだった。  
 
そしてその小さな生態系を持った煉瓦囲いのとなりには、テームス川にかかるタワーブリッジ、  
その二つの塔を思わせる立派な様子で――極度の近視には立派に見えるかもしれない――  
つまり全然立派でも何でもないボロっちい木の棒が二本、良い具合に離れて立っている。  
これは、見たところ宙に向かって伸びているだけでなにを支えているわけでもないし、  
何のための柱だろうと訝しがる人がいるかもしれないが、答えはその二本の柱の間に、  
サーカスのように張られた細い麻紐を見ればその疑問は解決するだろう。  
要は、その張った紐に洗濯物を引っ掛けて干すためのもので、そんなロンドン橋だとか  
もったいぶって言うほどのものではないのだ。  
じゃあそんな余計なこと書かなければ良いじゃないか、そうすれば簡潔明瞭サルでもわかる  
場面の説明が可能じゃないか回りくどい野郎だなオレッチ気が短いからそういうの  
あんまり好きじゃねえんだよねべらんめえべらんめえという倫敦っ子気質もいるだろうがやはり  
簡単に書くと  
「棒が二本立ってて間に洗濯紐が張られてる」  
とまあ、あまりにも簡潔に過ぎる無味乾燥質実剛健意思疎通的なことになってしまうので  
やはりある程度の回り道は人生を豊かにするこのていどの遊びはあってもいいんじゃないか  
多少面倒くさくてもそこまで目くじら立てて近代的タイムイズマネー精神に犯されなくったって良いんじゃないか。  
申し訳ない、話がそれた。  
 
 
例えばそうしたような無言の思考を永年に渡りずっと続けていたかのような二本の粗末な  
木の棒は、随分と長いあいだ雨風にさらされてきたので、  
威厳と風格というよりは憐れみとか悲壮感といった雰囲気を持っていた。  
そしてその二本の間に張られ続けていた麻紐も、やはり大分くたびれていたのだった。  
 
 
ゆかりはそれを前々から張り替えよう張り替えようと思っていたのだが、そして新しい  
きれいな紐も用意してあったのだが、何故かそういった用事というのはこれといった  
きっかけがないと中々実行しないもので、結局今日この日までほうっておかれていたのだ。  
が、ティムとの、ふとした会話の勢いで  
「思い立ったがGood day ですよ坊ちゃま」  
と日本のことわざ――失われた中のささやかな記憶――と、この仕事のことを思い出し、  
そうだ、思い立ったがGood dayだ昔の人はいいこと言うなあと真新しいロープを脇に携え  
勇んで裏庭に出て行ったのだった。  
 
「あああ、こんなにほつれて……」  
麻紐には永年の疲労が蓄積しており、ほとんどちぎれている部分もあった。  
ささくれた木の棒に刺さらないように気をつけながら、ゆかりは丁寧に固く結ばれ続けて  
いた麻紐を解いていった。  
両方とも柱から外し、さあさっさと巻き取ってゴミ箱にポイだ、とそのロープを端から  
ぐるぐると巻きつけているところに異変は起きた。  
ロープの向こう端から、なにか生き物のうごめく気配を感じたのだ。  
注意深く視線を上げるとそこには、ほどけてヘビの尻尾のようになったロープの端を  
懸命に追いかける仔猫の姿があった。  
ゆかりがこちら側の端からロープをくるくると巻き取れば、  
当然向こう側の端っこは地面に引き擦られてこちらへ向かってくる。  
ちょうど何か小動物が、その尖って光る爪から、必死に逃げるような動きで。  
 
釣りの疑似餌のようなもので、猫はすっかりロープを自分の獲物だと信じきっているらしく  
必死の形相で右から左から爪を立て、その生物的な無生物へと、激しい攻撃を加える。  
 
こちらがロープを巻けば巻くほど猫はあせって、その獲物に追いすがってついてくる。  
「おおっ……これは……」  
ゆかりはちょっとした感動を覚えた。  
おもしろい。  
万力を込めいくらはたこうと殴ろうと、この獲物は一向にその動きを止めない。  
そのことが不思議なのか悔しいのか、  
猫はとにかく一心不乱にロープを追いかけてくる。  
その様子をゆかりはおもしろがって、やはり釣り人がリールを巻くように  
ロープを巻き取ってゆく。  
 
くるくるくる。   ばしばしばし。  
 くるくるくる。   ばしばしばし。  
 
たわむれに手を止めてみた。  
当然、ロープの動きも止まる。  
「ついに仕留めた」とばかりに猫は、小さな頭の半分ほどにまで口を大きく開き、  
長く鋭い二本の牙を妖しくきらめかせた。  
 
そこで唐突に巻き取りはじめる。  
猫は口を大きく開いたままで一瞬体を大きく震わせ、獲物がまだ生きているという事に気づく。  
そして再びそれに向かって、必死の様子で爪を振るう。  
猫は右へ左へ、なにか前衛的なダンスを踊っているようでもある。  
ゆかりは笑いをこらえるのに必死であった。  
右へ動かせば右に。  
左へ動かせば左に。  
これを何かの生き物と――自分の獲物と信じきって疑わない猫の蒙昧さ――純真さを  
ゆかりは可愛らしく思った。  
可愛らしく思っても、このいたずらをやめはしないのだが。  
いや、むしろ可愛らしいと思うからこそのいたずらなのだ。  
 
麻紐は殆ど巻き取られ、端とそれを追う猫はほとんどゆかりの目の前まで来ているが、  
いまだに相手は無生物であると発見した様子はない。  
必死ではたき、爪を立て、腰を振り、この獲物を逃すまいと頑張っている。  
 
「それっ」  
 
ゆかりは最後のロープを、三次元的にひらめかせた。  
軽々と宙に浮かんでゆく麻紐の端。それを追い、跳び上がる猫。  
猫はいよいよ鬼気迫った表情で麻紐を追い、いよいよ空中でその獲物に深く爪を食い込ま  
せることに成功した。  
 
しかし麻紐の上昇は止まらない。  
いきおい猫の体は空中で伸びきり、あたかも二本足で立ち上がったようになった。  
放物線を描く運動の途中には、その頂点で一瞬の無重力の時間がある。  
なるほどその姿は、他にない大魚を釣り上げた釣り人の姿と似ていなくもなかった。  
 
空中で長靴を履いた猫はそのあと、そのまま落ちていくだけである。  
「ほっ」  
そして落ちてきたところを、ゆかりはエプロンの前端を持って待ちうけ、見事捕獲の儀、  
となったわけである。  
 
捕らえられ、急に視界が真っ暗になっただろう猫は、ゆかりのエプロンの中で暴れる。  
暴れはするが出られはしない。ただなにか蠢いているだけである。  
「……ねこぶくろ」  
ゆかりはもぞもぞ動く自分のエプロンを見つめて呟いた。  
 
 
 
「――――という、わけなんですよ」  
 
 
 
「そうかい、そりゃまた、まぬけな猫もあったもんだね」  
「ふふ、動物って、ほんとに可愛いですよね」  
「よりによってユカリにつかまるなんて」  
「ちょっと坊ちゃまそれどういう」  
 
ユカリが投じかけようとした異議は、猫のいかにも間延びした鳴き声に遮られた。  
猫は床に両手――両前足をついたお座りの格好で、二人を見上げている。  
「おーっ、ないたね。まいごのまいごの仔猫ちゃん、あなたのおうちはどこですか」  
「……なーん」  
ティムの問いかけにこたえるかのように、猫は再び鳴き、ごろごろと言った。  
猫というものはふしぎなものだ、とティムは思った。  
ただ眺めるだけで、柔らかくてあたたかいきもちが胸を満たして、自然と笑みがこぼれてしまう。  
「ふふ、ふふふ」  
ティムは仔猫を抱き寄せ、頬を寄せる。  
「なーん」  
猫の細く長いひげが、頬を撫ぜる。  
抱き上げた脇の下は、暖かく、毛がふさふさしている。  
こうしていると、心が落ち着くようだ。仔猫もティムも、似たような満足げな表情を浮かべている。  
 
「ユカリ、ほら、この手のぶぶんがやわらかくて、きもちいいよ!」  
「肉球って言うんですよ、そこ」  
「へー。にくきゅーにくきゅー」  
ティムはおもむろにソファの上に寝転がり、まぶたを閉じてそこに猫の前足を押し当てる。  
そしていかにも気持ちよさそうに笑うのだ。  
「うわー……柔らかくて……これは、ちょっとしたものだね」  
「梶井基次郎ですか」  
「うん、いや、しらないけどさ」  
猫は再び「なーん」と鳴いて、ティムの腕からすり抜けて逃げていった。  
 
猫はゆかりの足元に走りより、なむなむ言いながら2,3度ふくらはぎに体を摺り寄せた。  
「キャッ!」  
「なおりおやりむやーお」  
「すごい声でなくね……ユカリ、こいつ、腹へってるんじゃない?」  
「そう……なの?」  
ゆかりは自分のふくらはぎにほほを摺り寄せる小さな生き物に向かって聞いた。  
「なあん」  
猫はまるでそれに答えるかのように目を細めて鳴いた。  
長いひげが機嫌よく持ち上がった。  
 
 
やはり腹が減っていたのだろう、小猫は自分の体ほどの大きさもある皿に注がれたミルクを  
あっという間に飲み干し、顔を上げ大きく長く鳴いた。  
「二杯目の催促……してるの?」  
猫は応えず、床に前足を着いた行儀のいいお座りの状態のままで、口の周りに飛び散った  
ミルクを、器用に舐めとった。  
「はいはい――――ああ、ほら、もう少し落ち着いて飲みなさい!顔が真っ白じゃない」  
二杯目のミルクもすぐに空になった。舌のいきおいでミルクは四方に飛び散り、  
いたるところに白い粒がはじけている。  
「まったくもう――――」  
真白になった猫の腹を拭いているとき、首の辺りに手ごたえがあるのを感じた。  
「――――ん?」  
長い毛に隠れてしまうほどの布製の小さな首輪だった。  
「ああ、やっぱり飼い猫だったんだ、そいつ。すごい人間に慣れてるもんねえ」  
「ちょっと待って下さい、なんだか文字が――」  
布の首輪をほどいてみると、そこには赤い糸で美しい刺繍がしてある  
 
 
    この子を 保護してくださって ありがとうございます  
 
    この子は 好奇心が 強く いつも勝手に どこかへ出かけてしまうのです  
 
    この子を 保護してくださった やさしい あなた様に   
 
おりいっての お願いがあります   
 
以下の住所まで この子を 届けていただきたいのです  
 
    あつかましい お願いとは 思いますが よろしくお願いいたします  
 
    ささやかですが 御礼も いたします  
 
 
そしてその下には、やはり同じ赤い刺繍で、西ロンドンあたりの住所が記されていた。  
 
 
この子を――この子は――この子を――冒頭から続けられるこの表現に、  
ゆかりは飼い主のこの猫に対する愛情思い、自然と笑みがこぼれるのであった。  
 
「へえ、きれいなししゅう」  
「あら坊ちゃま、刺繍のことなんて分かるんですか」  
「うんまあ、少なくともユカリのクサビ形ししゅうよりはうまいなってことぐらいはね」  
「……そうですか」  
ゆかりは肩を落としあからさまに落ち込んでいる様子であるが、ティムはそれに委細かまわず  
「ねえ、ユカリ!『お礼いたします』だって!いったい、どんなお礼かな?」  
と、小さなハンカチのようなものに施された刺繍の文面に、無邪気に目を輝かせた。  
「坊ちゃま、そんなお礼だけを目当てにする善行は、誰のためにもなりませんよ」  
そのティムの様子にゆかりには珍しくまっとうなことを言った。  
「それに、今からこのお宅まで行くには今日はもう遅すぎますから、明日になったらたずねましょう」  
ティムはその答えにほほを膨らませ、明らかな不満顔をした。  
「ちぇー、せっかくの『お礼』なのにさー」  
「大丈夫ですよ、そんなに焦らなくても。それより」  
と言ってゆかりは顔を上げ  
「明日このお宅にお邪魔するとなれば、なにか手土産でも……  
そうだ、チェリーパイにしましょうか」  
ティムの表情が一変して、輝くような笑顔になる。  
「ユカリ!チェリーパイ、焼くの!?」  
「ええ、手ぶらで行って……いえ、その猫さんだけ持って行くのも、失礼でしょうから」  
「味見は?味見!」  
あまりにも魂胆が見え透いているので、思わずゆかりは笑ってしまった。  
「ふふ、しますよ。ちゃんと。私が」  
「ユカリぃ……」  
ティムはゆかりを見上げて見つめている。  
さっきの猫と同じ表情で、何をいわんとするか、その青い瞳が十分に伝えていた。  
 
「他人様に差し上げるものなんですから、ちゃんと味見してくださいね、坊ちゃま」  
ティムの表情が、ぱぁっと明るくなる。  
「うん!がんばるよ!」  
育ち盛りなのであった。  
 
 

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