磨いている。  
ものすごい勢いで磨いている。  
餓死寸前のアライグマはこれぐらいの勢いを出すんじゃないだろうか、と思うくらいの勢いで磨いている。  
磨いているのは使用人・ゆかりである。  
磨かれているのは、机の上に集められた家中のランプである。  
そのランプカバーを外し、黒いすすで汚れきったガラスを磨いているのだ。  
この時代――この話の舞台は19世紀末ロンドン――の主な室内照明装置は、ランプとろうそくである。  
屋外の照明といえば、道路沿いにはガス灯が高く掲げられている時代の話である。  
毎晩毎夜、黒いマントを着た男がそれに火をつけて回るというのは、いかにもロンドン的光景と言っていい。  
ロンドン港には全世界からの蒸気船が訪れ、汽車は煤煙を上げて邁進し、  
馬車は石畳を蹴って走り回っている時代の話である。  
ただまあ、ざっと見ても時代設定に矛盾するところなんて数え切れないほどあるが、  
その辺は気にしないでいただけるとお互いに幸せになれる。  
 
何が言いたいかというと、つまりこの時代、ダーヴァレイ家のような中流、中産階級の家には、  
日用品としての数多くのオイルランプがあるのだ。  
しかし、精油技術は高まっておらず、このランプを使えば使うほど、ランプカバーのガラスは  
如実にすすで汚れ、黒くその透明度を失ってしまう。  
それを磨く必要がある。  
誰かが。  
では、誰が?  
主に使用人が。  
 
「……」  
ゆかりはガラスを磨くのに夢中だ。  
濡れた布に磨き粉をつけ、それでガラスを必死にこすっている。  
「そうだ!ランプ磨きをしましょう!」とゆかりが言い出したのはすでに二時間前の話である。  
それから120分間、ティムとゆかりはずっとランプカバーを磨き続けている。  
汚れてもいい厚手の服に着替えたゆかりは、ランプカバーを磨く係である。  
ゆかりが大体のすすを磨き落とした後、乾いた綺麗な布で汚れをふき取るのはティムの役割である。  
煙の当たるところだけが真っ黒になっていたガラスが、ゆかりの手によって  
全体的に薄い灰色になったところでカバーはティムにまわってくる。  
それを柔らかい布でふき取り、ため息を吹きかけつつガラスを元の色へと回帰させるのだ。  
ティムの方が簡単である。  
ランプのカバーであるので、このガラスがだいたいにおいてこう、曲線だとか丸だとか、  
本体接合部の入り組んだ場所はとことん入り組んで、磨くのにとても面倒くさい形状をしている。  
ゆかりは眉の根を寄せながら、それらの面倒くさいものを磨き続けているのだ。  
その間ティムは暇である。  
暇だから眉の根を寄せ、眉間にしわを深く刻み、ときおりリスのように舌打ちをするゆかりを眺めているのだ。  
「ああーユカリ、かなりイラッときてるなぁ」とすぐにわかるが、余計な口出しはしないほうが賢明だろう。  
流れ作業の弱点として、前の作業が終わらない限り次の作業が進まない、という状況にティムは陥っているのだった。  
 
ゆかりは今のガラスを磨くのに、かなり力を入れているようだ。  
袖をまくった手首の内側に、浮き上がった二本の筋が見て取れる。  
ガラスの内側、黒くすすが固まったところに、ゆかりの指が届きそうで、届かない。  
「ああもう……くそぅ……」  
ゆかりは布に包んだ中指を懸命に伸ばし、すすをふき取らんとしているが、特に汚れた  
その部分には、爪の先ほど届かない。  
「もう少しで……届くのに……」  
ゆかりはランプカバーの中の中指を凝視しながら、忌々しそうに呟いた。  
より目になっている。  
まぬけっぽい。  
だが、頭にかっかと来ているゆかりにそんなことを言うのは賢明でないだろう。  
触らぬ神にたたりなしだ。  
とくにウブメノミコト神には。  
 
ゆかりは少し中指を後退させ一息つくと、かっと目を見開いた。  
小さく息を吐き、勢いよく中指を伸ばしきる。  
爪の先ほどで届かなかった汚れに、指が届いた。  
が、  
ゆかりはすぐに指をランプカバーから抜き、左手でそれを持ち上げた。  
「ゆ、ユカリ、どうしたの?」  
「…………!」  
ゆかりは中指を立てたまま悶絶している。  
「つったの!?指を!?」  
「…………!」  
ゆかりは中指を立てたまま、泣きそうな表情で二、三度頷いた。  
ひどい痛みが彼女を襲っているのだろう。  
ゆかりは左手で右手を掴みながら、上下に体を揺らして痛がっているが、  
雇い主の息子をき、汚らしいやり方で侮辱しているように見えなくもなかった。  
「坊ちゃまを……!侮辱しているわけではっ……」  
しかし中指はティムに向けられて、そそり立っている。  
「わかってるよ」  
しかしゆかりの右手は、中指以外折りたたまれて、中指だけがティムに向かって立っている。  
「ああその……ごめんなさい……痛い……」  
「いいよいいよ……」  
ティムはゆかりの右手をにぎりしめ、中指を優しく伸ばしたり曲げたりしてやっていた。  
「何をやっているのさ……」  
「あのランプがいけないんですよ、あんな変なカタチしてるもんだから……イタタ」  
「変なのはキミの頭だよ……」  
ティムは情けない気持ちになって、ため息を吐かずに入られないのだった。  
 
 
「うぅ……ごめんなさい」  
ティムが2分ほど治療を施すと、指のひっつりも治ったようで  
「もう、治りましたよ、ありがとうございます」  
と言い、今度は左手の中指に布をかぶせ、ふたたびランプカバーに挑みかかった。  
「あと、これの、この汚れだけで終わりなんですよねー」  
左中指が、同じガラスの内側をごしごしこすっている。  
「……もう指つったりなんて、しないでよ」  
「あはは、大丈夫ですよー、同じ過ちは犯しません」  
ゆかりは快活に笑った。  
その笑い声が消えないうちに  
 
「ピシッ」  
 
という、カタカナ的な小気味のいい音が、二人の間に響いた。  
――ゆかりの手の中から。  
 
「…………」  
ゆかりは笑顔のままで固まっている。  
ティムは目を細めてそのゆかりを見ている。  
「ユカリ」  
「……はい」  
「ユカリ」  
「……はい」  
「今の音……なに」  
「きっ……気の」  
「気のせいではないと、強く思うんだけれど」  
ティムは細い目でゆかりを見つめている。  
「…………」  
ゆかりは固まって動かない。  
「ユカリ……そのガラスを……割ったね?」  
というティムの質問に、ゆかりは決然と反対した。  
 
「いいえ、ひびが入っただけです――」  
 
 
 
ゆかりはこの日二度目の「アホメイド」という称号をティムから受けることとなった。  
 
 
 
ランプ磨きは終わった。  
ふたりは、玄関へと続く廊下を歩いている。  
「やはり左手というのは、中々動かしづらいものですね」  
「……もう少し早く気づこうよ」  
「新しい発見でした。これも成長です」  
「……何もこわさずに成長しようよ、できれば」  
「それは……できかねます」  
「そんなばかな」  
「破壊は創造を生みますよ?」  
「……そのプラス思考がうらやましいんだけど」  
「あげませんよ、私のです」  
「……元気になってくれて、嬉しいよ」  
「坊ちゃまのおかげですよ」  
「……どういたしまして」  
 
ティムはもう何も言えなかった。  
外の雨は上がっている。  
次は玄関の掃除をしましょう、とゆかりが言ったので、ティムもついていくのだった。  
特に手伝うわけではないのだが。  
ただ、働いているゆかりを眺めて、たまにティムが茶々を入れて、ゆかりもそれに答える。  
それが二人には楽しいのだった。  
簡単に言えば、仲がいいのだ。  
 
 
しかし、その楽しいはずの仕事も、扉の向こうの状況が台無しにしてしまった。  
これは、とても楽しい仕事というわけには、いかない。  
 
玄関の扉を開けた二人の間に、強い緊張が走った。  
 
いったいなんだ、なんなんだ、これは――――  
 
玄関の扉の前、道路へと下りる小さな階段の上、二人並んで呆然と立ち尽くしているところで、  
二人が言葉を失っているように、ひとまず話は途切れるのだった。  
 
 
 
 

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