前まで  
 
長雨続きでゆかりは滅入っていた。  
ティムが何とか元気付けたけれど、仕事はたまってるしランプを磨けば指をつるし、散々だ。  
ええいやあ、無理にでも元気を出して仕事をするんだー。  
とりあえずは玄関の掃除からだー。  
エプロンも接客用のものから汚れ仕事用の分厚くて丈夫なものに着替えたし、  
さあいきますよー坊ちゃま。  
ええ、僕も手伝わないといけないの?  
ありがとうございます、助平坊ちゃま。  
わかったよぅ手伝うよぅ……。  
 
 
 
 
 
 
そんな感じです。  
 
 
 
 
 
玄関を開けた。  
掃除をするためだ。  
訪れた客が初めて見る場所は、客間でも食堂でもなく、やはりそこが入り口である以上、玄関のほかにない。  
客がその家について第一印象を抱く場所であるから、玄関とは家の「顔」であると言ってよい。  
だから家々の使用人や掃除婦は、一日の仕事としてまず玄関の掃除から始めるし、  
その周りにある鉄柵や、重たい扉のつや出しといった仕事に精力を注ぐのである。  
 
通りからまでには数段の小さな階段があり、その上に踊り場のような小さなスペース、そして、  
踊り場からはそれ以上の階段が伸びているわけではなく、玄関の扉が客を待ち受けている。  
 
その「家の顔」をきれいにするために、ティムとゆかりの二人は勢いよく玄関の扉を開け放ったのだが、  
二人を待ち受けていたのは予想外のモノであった。  
ふたりはずいぶんと長いことそのモノを見たまま、そして口をぽかんと空けたまま、  
立ちすくんで固まってしまって、まるで季節が変わってしまうほど長い時間そうしていたようななんともいえない気分になった。  
二人の意識が放心してどれだけの時間がたったのかはよくわからないが、  
その状態から先に回復して口を開いたのは、ティムの方であった。  
 
「……これはまた、おおきい……モノだね」  
呆れたような、なかば感心したような様子でティムは呟き、まだそのモノから目を離せないでいる。  
「そう……です、ねえ。玄関の前にこんなモノがあるというのは、ないことではないですが……」  
玄関掃除や屋外の仕事のような、汚れる仕事のための分厚く丈夫なエプロンをつけたゆかりは、  
やはりティムと同じようにそのモノを見たままで呟いた。  
 
二人が目にして放心したモノ、白昼の往来にどかんと鎮座して他を圧倒するモノ、  
そのことについて詳しく説明、描写したいのは山々なのだが、あまり詳しく描写をしても、  
不快感を思えることはあっても、快感や趣を感じるという結果にはつながらないだろうから、  
直接の描写はせずに歯に絹を着せてそのモノについて説明を加えるので、  
想像力を適度に働かせて読み進めていただきたい。  
適度に、というところが味噌であるので、適度によろしくお願いいたします。  
 
このお話の舞台は、19世紀末イギリスの設定である。  
唐突に何を言い出すのかと思うかもしれないが、まあ待ってください。  
そして産業革命後、社会の発展著しいこの時代であるとはいえ、一般に自動車が普及するまでには  
もう少しの時間を必要として、やはりこの首都ロンドンにおいて、もっとも一般的な移動手段、  
物資輸送手段といえば「馬力」を利用した馬車であった。  
そして、自動車を動かすのにガソリンが必要であるように、馬車に動いてもらうには  
馬のための飼料が必要であるし、自動車が排気ガスを出すように、馬車は  
――正確にはそれを引くウマは――固形の、大きな、排気ガスのようなものをぼとぼとと落としてゆく。  
 
二人が目にして、あまりの大きさと唐突さに思わず固まってしまったのは、  
ウマ的な排気ガス、専門用語で言えばボロ、ありていに言えば――  
 
丸い大きな馬糞のせいであった。  
 
「これ……どうしようか、ユカリ」  
見上げるようにして、かたわらのゆかりに聞いた。  
「…………」  
ゆかりは黙ったままである。  
目線の先には、ほかほかと白い湯気を立ち上らせているモノがある。  
すごい存在感だ。  
つけもの石くらいの大きさを持ったそのモノは、つい先ほどまで降っていた雨に埃が流されて、  
きれいになっている石畳の道にどっかりと座って、見るものに、生命への畏怖と感動すら覚えさせる。  
 
「片付けなきゃ……いけませんよねぇ……」  
ゆかりがぼんやりと口を開いた。  
そうなのだ。  
このモノが鎮座しているのは「家の顔」である玄関のまん前だ。  
このままではお客を家に迎え入れることができないばかりか、郵便配達やなにがしかの人、  
そして往来の人通りからもじろじろと見られ、そして  
「この家のメイドはなんというものぐさで仕事嫌いのだめメイドであろう」  
という感想をもたれてしまうかもしれない。  
あながち間違ってはいないが、やはりそれはよろしくない。  
 
ゆかりは、ふぅ、と小さなため息を吐き、  
「仕方ありませんね、片付けましょう。坊ちゃま、灰塵袋――わかりますか?持ってきてください」  
とこう、言ってきた。  
「かいじんぶくろ?あやしい人をぎゅうぎゅう押し込める袋ってこと?」  
「違います。怪人なんて押し込めるほどいません。ほら、あそこに――」  
ゆかりが指差す先には、屋根のついた小さな木の台があって、なるほどその先には何か  
袋のようなものが乗っている。  
ティムは言われたとおりに、それを取りに行く。  
 
ティムはこの丈夫そうな麻袋を初めて見た。  
馬車がこの時代の一般的な乗り物である以上、今二人が直面しているような「問題」もやはり  
一般的な問題であり、その場合どうするかといえば、辻のところどころに設置された  
この『灰塵袋』にその問題を詰め込んで、決められた所定の場所に置いておけばいい。  
そうしておけばいつの間にか回収されて、その「問題」は肥料その他に活用される、という寸法である。  
なかなか考えられているのだ。  
 
「ユカリぃ、これでいいの?」  
ティムが走って戻ってくると、ゆかりはスコップを持って玄関前のステップに立っていた。  
「ええ、それです」  
ティムはその「問題」を踏まないように気をつけながら、ステップの上に戻った。  
 
あとはゆかりの持っているスコップで目の前の「問題」を取り除き、それを袋に納めて、  
そして所定の場所に置いておけばいいだけの話である。  
問題は、その「問題」をどちらがスコップですくい、どちらが袋の端を持ち上げて  
スコップから滑り落ちる「問題」を待ちうける係りを請け負うか、ということだ。  
「…………」  
「…………」  
二人の間に、なんともいえない緊張感が満ちている。  
ゆかりは黙ったままで、かたわらのスコップ――1mほどある――を手に取り立ち上がった。  
ティムはそれを無言で制し、目で訴えた。  
――ふくろを持つのはユカリだろう――  
木の軸と取っ手の付いたスコップを使うのと、袋の端を持って「問題」を待ち受ける役では、  
どちらがその「問題」に直接触れてしまう確率が高いかと考えれば――  
やはり後者、素手でまち受ける側である。  
 
それは避けたい。  
やっぱり避けたい。  
――わたしは女の子ですよ――  
中腰で固まっているゆかりの瞳は、そのようなことを訴えているようだ。  
――しかしぼくはきみの雇い主のむすこだ――  
無言でのやりとりが続いている。  
――坊ちゃま、こんな重たいスコップを扱えないでしょう――  
――なに言ってるんだい、それこそ君は女の子じゃないか――  
二人の視線が交わって、互いの思惑が十分に伝わった頃、ゆかりはごそごそと  
ポケットをまさぐって、何やらを取り出した。  
開いたこぶしの上に乗っていたのは、表に女王の、裏に女神の浮き彫りがなされている、1ペニー銅貨であった。  
 
ティムはにやりと唇の端を持ち上げ  
「おもて」  
とだけ言った。  
ゆかりもそれを受けて口元だけで笑い、器用に親指でコインを高く弾いた。  
 
コイントス。  
正に表と裏、白と黒をはっきりさせたい時には、わかりやすく簡単やり方だ。  
ヴィクトリア女王の彫像が浮き彫りになっているほうが表、女神が裏である。  
 
高く弾かれたコインは、再びゆかりの手に握られるまでに、目では追えないほどの回転をした。  
ゆかりはティムの方を見たままで落ちてきたコインを掴み取り、左手の甲にぱっと置いた。  
 
ゆかりは不敵に唇を吊り上げている。  
ティムはその笑顔を見て少し不安になった。が、  
――ハッタリだ――  
思い直して、ゆかりに、手をよけるよう促した。  
 
ゆかりは笑顔のままで右手をどけた。  
その上面に微笑んだ女王の横顔が描かれていれば、ティムの勝ちである。  
逆に、ブリタニカの女神の全身像が描かれていれば、ゆかりの勝ちだ。  
手のひらがどけられた。  
ゆかりの表情は変わらずに笑顔である。  
ティムは体が緊張するのがわかった。  
負けた――!?  
体を伸び上がらせて見たそのコインには、女王の微笑が浮き彫りになっていた。  
ティムの勝ちである。  
ゆかりは、笑っていたが、よく見るとその笑顔はカチコチにこわばっていた。  
 
 
「坊ちゃま、お願いです!お願いですからがんばってください!」  
ステップの下で、袋の端を持ったゆかりが、泣き出しそうな表情で叫んでいる。  
ティムは約束どおりスコップで「問題」をすくった。  
そして玄関のステップの上で、ゆかりはステップの下で袋を持ち、  
ティムがそこにソレを入れるのを待ち構えている。  
 
ティムがすくってスコップの上の乗った「問題」はただの「問題」というより「大問題」で、  
スコップの端からはみ出るくらい普通の「問題」よりも大きな「問題」だったので、  
ティムの予想以上にその質量は大きく、元々重たいスコップの重みもそこに加わって、  
ティムにはすこし、重い。  
重たくて、腕が震え始めた。  
ゆかりもそれに気づいたらしく、顔色を変えて騒いでいる。  
「坊ちゃま!お願いですから!!それを落とさないでください――!落とすならせめて自分の側に――!」  
 
こまったなあ。  
とティムは思っていた。  
予想以上に重かった「問題」は、自分とゆかりの体のあいだでぷるぷると震えていて、  
震えているのは自分の腕が限界をぷるぷる訴えつつ震えているからであって、  
このままでは袋に入れようとして失敗し、ゆかりの頭からぶちまけることにもなりかねない。  
「もしそうなったら、ごめんね……ユカリ」  
「な、何を謝っているんですか?なにがもしそうなるんですか?ちょっと、坊ちゃま!」  
「いや、その、なんというか……ちょっとユカリがかわいそうなことになるかも……」  
腕の震えが徐々に強くなってきている。  
両腕に感じていた「問題」とスコップの重みが、段々と痛みに変わってきた。  
「やめてください!なんですかそれ!なんでもうかわいそうな人を見る目つきになってるんですか!  
 まだ何もなってませんよ、どうにかがんばってその……それを、この袋に入れてください!  
 ちょっと、坊ちゃま――!?」  
 
ゆかりは眉毛をハの字にしてなにやら騒いでいるが、ダメだ。  
これ以上持ち上がらないし、いったん地面に下ろすこともできそうにない。  
地面に降ろそうとしても、丁寧に降下速度を調整して降ろすことができない以上、  
ガランと取り落としてしまうのは目に見えている。  
そうなればその先に乗った「問題」が、どこに跳ねていくかわかったものではない。  
そうなったら大災害だ。  
どうしよう。  
 
ここはもう、意を決して、前に進むしかない。  
退路は断たれている  
腕がぶるぶると震えてどうも狙いが定まらないが、他に選択肢がないのだから、  
しょうがない。  
ぶるぶる震えてどこに行くかわからないということは、ひょっとすると袋に入ってくれる可能性が無いでもない。  
地面に降ろそうとしてわかりきった大災害を迎えるよりも、可能性に賭けた方がいくらかましだろう。  
たとえ、いくら低い可能性だろうと。  
 
「ユカリ、いくよ」  
決心をして袋の入り口だけを見据え、唇をきっと一文字に結んだ。  
「ちょ、ちょっと待ってください!そんなに震えた腕で狙いが定まってるんですか!?  
 いったん地面に置いて――あ、そんな気は毛頭ないですねそのりりしい表情は!  
 でも表情をいくら凛々しくしたとても、腕の震えは止まってませんよ――!!」  
ゆかりはいつもより早口でわめいているが、仕方ない。  
もし彼女が「問題」を頭からかぶるような羽目になっても、それは不可抗力というものだ。  
謝りたおして許してもらおう。  
…………むりかな、やっぱり。  
 
「……せぇの……それっ」  
ティムは勢いをつけ、袋目掛けてスコップを振り下ろした。  
自分としては、袋の真ん中に狙いをつけていたのだが、やはり意思とは裏腹に  
腕は勝手に動いて30センチほど狙いが外れ、スコップだけがスコップに乗っている「問題」は  
一直線に、ゆかりを目掛けて飛んでいった。  
 
 
「――――あ」  
一瞬、時間が止まったような気がした。  
重さを失ったスコップが、異常に軽く感じられる。  
宙に、大きな問題が浮かんでいる。  
その向こうで、ゆかりが大口を開けて叫んでいる。  
「ゴメン、ユカリ――」  
先に謝っておくのがいいだろう。と思った。  
ゆかりの表情の変化はゆっくりとしていたが、体の動きは機敏であった。  
この結果をある程度予想していたのかどうか、ゆかりはさっと右足を引き、半身の状態になった。  
しかしそれでは、いったん避けられたとしても、「問題」が着地してしまえば、  
位置エネルギーが運動エネルギーに変わっているし、質量も相当な物だから、  
きっと問題は弾けて跳んで、やはり結果的に大惨事になってしまうだろう。  
そのティムの不安をゆかりも分かっていたのか、半身の状態になると同時に  
袋を持っていた両手は、正確無比にその「問題」の放物線を読み取り、  
ゆかりが両手を突き出したところ寸分の狂いもなく、「問題」は自らの意思であるかのように、袋の中に、吸い込まれていった。  
 
どさん。  
という、たしかな質量が麻袋に落ちる音と同時に、時間の流れは元に戻った。  
ゆかりは麻袋に引っ張られるように、肩を落とし、落とした肩で息をしている。  
「ハァッ――」  
ゆかりが大きなため息をついたのを見計らって、ティムはおそるおそる声をかけた。  
「ゆ、ユカリ――だいじょうぶ、だった」  
ティムが声をかけてしばらくした後、ゆかりは勢いよく上体を起こした。  
意外にも、ゆかりは笑顔であった。  
だが、その笑顔はいつもの爛漫な笑顔でなく、どうも他の感情をかみ殺しているかのような、  
安心できない笑顔であった。  
 
「……えぇ、大丈夫でしたよ。おかげさまで」  
笑顔ではある。  
笑顔ではあるのだ。  
しかし、どうもその、見せている白い歯の奥――奥歯をかみ締めているようだ、  
頬の筋肉がぴくっぴくしている。  
「ユカリ……ひょっとして、怒ってる?」  
「いぃえぇ、とんでもない。それよりも、てつだって頂いた喜びで、体中が震えておりますのよ」  
口調がおかしい。  
ゆかりの口元がつりあがっているのは、明らかに喜びという感情のせいではないような気がした。  
怖い。  
笑顔なのに怖いとは、いったいどういうことだろう。  
というよりも、笑顔だからこそ怖い。  
表情から見る以上のものが、ゆかりの体から湧き上がっている。  
これはもう、謝るにほかはない。  
「ご、ごめんよユカリ、謝るから、怒ってるなら怒ってると、言って……」  
ティムはそういいかけて、途中で言葉に詰まってしまった。  
ゆかりの背中に、何か居た。  
間違いなく何か居た。  
憤怒の表情を顔に貼り付けたままで固まったような、ブッダのしもべ――  
以前ゆかりが、ノートに描いたものだったような気がする。  
そうだ、確か名前は――フドウ、ミョウオウ。  
それが確かに、笑顔のゆかりの背中に居た。  
あれが噂に聞く守護神というものだろうか。  
お、おそろしい。  
ティムはゆかりの手から灰塵袋を奪い取るように受け取り、  
「こ、これ捨ててくるよ!」  
といって走り出した。  
ゆかりの背中に見た、恐ろしいイメージが、自分の見間違いであったことを祈りながら。  
逃げるように走って「問題」の詰まった袋を、捨てに行った。  
 
灰塵袋を置いたティムが家まで戻ってくると、ゆかりはデッキブラシで家の前を磨いているところだった。  
傍らに置いたバケツにブラシをつっこんで水をつけては、道路を磨いている。  
肩を怒らせて、親の敵でも見るかのように、道路を磨いている。  
遠くから眺めるだけで、ゆかりがイライラと怒っているのがわかった。  
ちょっと、近付く前に遠くからなだめてみよう。  
「おおい、ユカリ――」  
呼びかけて、その声は、唐突な女性の叫び声に遮られた。  
 
「きゃぁあああっ――!!ど、泥棒――――!!」  
叫び声の方向を見ると、なるほど。見るからにみすぼらしいなりの男が、不釣合いな高級バッグを抱えて、こちらに向かって走って来る。  
ゆかりもそれに気づき、体を走る男の方に向けて、その男が走って来るのをただ見ている。  
バッグを抱えた男は、開いているほうの手で自らのポケットをまさぐり、小さなナイフを取り出した。  
そしてそれを振りかざすようにして、ゆかりのほうに走ってゆく。  
立ちはだかるのは少女ひとり、少し脅せばどうとでもなると思ったのだろう。  
ゆかりは、デッキブラシを持って直立している。  
男はナイフを片手に走っていき、ゆかりとの距離がどんどん縮まっていく。  
ティムは何となく、この男がひどい目にあうような予感がした。  
 
予感はやはり当たった。  
 
男がナイフを振りかざして走っていき、ゆかりとの距離が5メートルほどに近づいた。  
それまで悠然と立っていたゆかりは、男が近づいてくるのを見計らって、  
持っていたデッキブラシを両手で握り締め、ぐっ、と腰を落とした。  
男は、敢然と立ちはだかって逃げようとしない少女に少しひるんだようであったが、  
右手に握ったナイフを振りかざして、叫んだ。  
「どけっ!さっさとどかねえと――」  
と、ありきたりな言葉を途中まで叫んだところで、ゆかりが無造作にブラシを振り上げた。  
その動きは素早すぎて、ティムの目にはよく見えなかったが、振り上げられたブラシは、  
正確に男の手首を打撃したようで、男の手からナイフが弾き飛ばされ、  
ナイフは空中3メートルほどの高さに飛ばされて、浮かんでいた。  
 
「――――!?」  
男がわけがわからないようであった。  
びりびりとした痛みが走っているだろう手首と、ナイフを握っていたはずなのに、  
なぜか空になっている手の平、そしてそれと目の前の少女を見比べ、ただただ  
困惑の表情を浮かべていた。  
しかしそれも一秒足らずのことで、男はすぐに、ゆかりの横をすり抜けて逃げようとしたが、  
ゆかりは  
「ふっ」  
と強く息を吐き、振り上げたデッキブラシを、そのまま背中から一回転させた。  
質量的重点、ブラシの頭は地面すれすれを舐めるようにとんでいき、それは男の足首を的確に捉えて、  
男はブラシに掬い上げられるようにすっとび、自らの勢いもあって体を半回転させ、  
ほとんど地面と水平になって、宙に浮かんでいた。  
きっと男の目には、雨上がりの明るい空が映っていることであろう。  
男は1メートルほど進行方向に飛んでいき、石畳の道に背中を、ひどくしたたかに打ちつけ、  
「ぐぇっ」  
とつぶれたカエルの様な鳴き声を出した。  
手を目いっぱい体の前に伸ばして半分ほど体を起したが、そこから急にばたりと倒れて、動かなくなった。  
いまごろナイフが落ちてきて、石畳の石と石との隙間に、見事に刺さった。  
 
ゆかりは背中ごしにその声と音を聞き、さも満足そうに、こん!とブラシの柄を地面に打ちつけた。  
 
 
女性と、その叫び声を聞きつけた立ち番の警官がゆかりの元に駆けつけて目にしたのは、  
だらしなく道路に伸びている男と、男のことなど意に介さずに道路を磨いているゆかりの姿だった。  
 
女性は、鞄を取り戻すとゆかりに何度もお礼を言って来た道を戻っていった。  
警官は腰に手を当て  
「ねぇ、これ、いつぐらいに目を覚ますの?」  
とゆかりに聞いた。  
「さぁ?見当もつきませんね」  
上機嫌で、道路の掃除を続けているゆかりを、ティムは階段の上で見ていた。  
掃除を続けるゆかりは、体中を満たしていた怒り感情のはけ口が見つかって、喜んでいるようにも見えた。  
「…………おそろし」  
ティムはぞっとするものを感じて、聞こえないように呟いた。  
もうゆかりを怒らせないようにしよう――――できるだけ。  
「しかしなぁ、目を覚ましてくれんと連れて行くこともできんしなぁ」  
警官はすっかり困っている様子だった。  
ゆかりは「仕方ないですね」と言って、傍らに置いてあったブリキのバケツを持ち上げた。  
「ユカリ、まさか――」  
ティムが言い終わらないうちに、ゆかりはその水を男にぶっかけた。  
「う……うう……」  
と男はうめいたが、目を覚ましたわけではないようだ。  
警官は、気絶した人間を起こすやり方の中でも、かなり荒っぽい部類に入る  
やり方をした少女を、驚きの目で見つめていた。  
「ム、まだ目を覚まさぬかこの盗人め」  
ゆかりの口調に、ティムは空恐ろしいものと、妙な納得を感じていた。  
考えてみれば、ゆかりにはどうやらそうとうのストレスがたまっていたようであった。  
やまない長雨、たまっている仕事、面倒くさいランプ磨き、いざ気勢を上げようとした矢先に、玄関先に発生したやっかいな「問題」。  
何もかもがゆかりの思うとおりにいかずに、かなりイライラしていたんだろう。  
……きっと。  
 
ああ……あの男、スイッチ入れちゃったんだなぁ……。  
先ほどまで、「問題」の下の道路を磨いていたブラシで、男の顔をごしごしと磨く  
ゆかりを横目に、ティムはぼんやりと考えるのだった。  
「き、キミ、彼女、きみんとこのメイド、アレ、やりすぎじゃあないかね」  
警官が聞いてきた。  
完全にゆかりに恐れをなしている。  
自分より大きな男――気絶しているとはいえ、凶暴な犯罪者――を起こすのに何の躊躇もせず、  
路傍の石を扱うかのようにするゆかりに対して、警官は完全にビビっている。  
そうなるのは、わからないでもない。  
なにしろさっきは不動明王を背負っていたのだ。  
 
「ああ……いまユカリ、ちょっと、スイッチはいってるんで……ごめんなさい」  
「いや、君が謝るようなことでもないが……」  
それにしても、と言って警官は腰に手を当てて、なにかすごい物――動物園の象とか――を見るような目でゆかりを眺めた。  
「君んちのメイド、すごいねえ」  
警官が嘆息して言った。  
「ええまぁ……すごいんです……」  
ティムはなんだか情けないような気持ちになった。  
 
デッキブラシの下の犯人が  
「……く、臭いっ!なんだか臭いぃ」  
と言って目を覚ました。  
「あ、おまわりさーん、泥棒男、起きましたよー」  
ゆかりは快活にそう言って、手を振った。  
いい笑顔をしている。  
 
しばらくぶりに見た、ゆかりのいい笑顔であった。  
いまや頭上にさんぜんと輝く太陽のような、とても久しぶりに見る、ゆかりのいい笑顔であった――感情の表現が、いささか凶暴ではあるが――。  
どうやらゆかりはずいぶんと長い間、その身をどっぷりとストレスに漬け込んでいたようだった。  
止まない雨が止んだ日に、ゆかりは自分の衝動を抑えきれなくなったのだ。  
 
図らずも男は、堆積したストレスが堪忍袋の容積の限界に達した瞬間に、その袋を開け放ってしまったのだろう。  
タイミングの悪いことだ。  
まあ……そのきっかけがひったくりということを考えれば、じごうじとくだ。  
 
そう、自業自得ではあるが、しかしティムは、デッキブラシの下で  
「くさいくさい」  
とわめく男に、同情を感じていた。  
 
こういうとき、ゆかりの国では両の手の平を合わせるのだと聞いていたので、ティムはそのとおりにして、  
「……合掌」  
と、ゆかりに教わった通りのことをつぶやいた。  
 
 
 
スイッチの入ってしまっているゆかりは、警官の制止も聞かず、男を磨き続けている。  
「ええい悪党っ!今更命乞いとは何事だ。悪党なら悪党らしく神妙にお縄につけいっ」  
「つくつく!つくから、やめてくれぇ、た、たすけて、おまわりさぁーん」  
男は、助けを求めて警官に手を伸ばしたが、警官は困ったように笑うだけだった。  
哀れである。  
合掌。  
合掌ついでにティムは、このさき訪れるだろう夏は、ゆかり好みのいい天気が続く季節であってほしいと、切に願うのだった。  
「おねがいね……あまてらす、おおみみかんさん……」  
ティムの呟きが聞き入れられたのかどうか知らないが、空は長雨の名残をすっかり消し去って、透きとおって青い、夏の空になっていた。  
 
 
 
 
 
 
 
 
雨の日の衝動――終わり  
 

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