倫敦はその日も雨だった。  
先週末からずっと同じような、何枚も重なるように厚く覆った雲から、大粒ともいえないが  
さりとて濡れて歩くにはすこし体がじっとりして嫌だな、といういかにも中途半端な雨粒が  
中途半端に降り続く中途半端な天気が続いている。  
 
石畳を打つ雨は耳にうるさく、一年でも一番日照時間が長いこの時期だというのにいつまでも  
暗く冬のような空は気分を落ち込ませるし、湿度が高いと何よりも家中がじめじめして単純に  
不愉快だ。  
 
屋根から滴り落ちる雨を、頬を膨らませて少年が見ている。  
まったく、毎日毎日飽きもしないでよくふるものだね。  
すこし雨を褒めたくなる。  
少年はティム・ダーヴァレイという。  
今年で十歳になった。  
 
ティムは頬杖をつきながら窓の外を見ている。  
空は暗く大気は澱んで、昼だというのに街灯に火が灯され異様な雰囲気をかもし出し、  
いつもは景気よくはためいている、明るい白色の洗濯物も見えない。  
このあいまいな雨が降る街には誰も出たがらないのか、窓枠の中に人影は見えない。  
人どころか鳥もリスも馬車さえも通らない。  
静物画のような風景の中で、控えめな雨だけが上から下へと飽きることなく動き続けている。  
なるほど、雨の降り続く倫敦は全体的にねずみ色の様相である。  
 
ざああとなり続く雨音が耳に入り続けて、その音だけが意識を埋め尽くしてしまい、  
何も考えられなくなるようなけだるい日曜日の午後である。  
ティムはぼんやりと灰色の意識下で、窓を見る目の焦点を変える。  
ガラスには活力という物の感じられない、およそ少年らしくない濁った目をしたティム自身が映っていた。  
母親譲りの美しい金髪――だとよく言われる――が、ガラスの中でも輝いている。  
頬杖をついた辺りの頬肉は不自然に寄り顔に波をつくり、そんな気はないのに眉間にも薄くしわが寄っている。  
普段は我ながら美しい瞳をしているな、と思うことがあるほどの青い瞳も、ガラスの中の  
少年のものはその輝きを持ち合わせておらず、どこを見ているのかよくわからない。  
 
さらにそのガラスの向こう側には、雨が滴っている。  
その無気力無表情な顔の上に雨が流れ、開いているのに物を見ていない無意味な瞳から次々に  
涙だけが流れ出ているようにも見えて、ティムは嫌な気分になって椅子を降りた。  
 
気分が盛り上がらない。  
どうもこう、さあやるぞ、とか、元気出していくぞ、とか、腹を抱えてゲラゲラ笑うような気分にならない。  
圧倒的にダウナーで憂鬱で胸の辺りが不必要にもやもやする。  
 
いつもなら、こんな気分になったときには、家の使用人と遊んだりおしゃべりをしたり馬鹿にしたりして  
気分を盛り上げるのだけれど、どうもそんな気にならない。  
 
というのも、ティムのこの暗い気分は、大元は天気のせいであるのだが、  
実際にはその使用人――わかりやすくメイドと書こう――メイドから、伝染してしまったもので、  
自分を支配する、この地下室の湿っぽい部分に一週間ほど放置した食パン――カビだらけ――のような気分の発生源  
――悪の根源――はそのメイドであるからだった。  
 
 
「ユカリぃ……入るよ」  
ティムは二階の使用人部屋――壊れかけた父手製の看板が掛かっている――の扉の前に立ち、  
小さなこぶしでこんこんと数度叩いた。  
返事はない。  
返事はないが扉を開ける。  
なに自分は雇い主の息子であるのだし、文句を言われる筋合いも無い。  
というより、彼女がどのような状態にあるのかティムには大体想像がついていたのだ。  
 
死体がそこにあった。  
と思うかもしれない。慣れていない人なら。  
ユカリと呼ばれたメイドは、粗末なベッド上に突っ伏して寝転がっており、ただでさえ窓が小さく  
光の入らない部屋――しかも外は雨である――の中で、黒いワンピースをだけを着てただ寝ているものだから、  
暗い。  
そのベッドを中心に、黒い、というか、「暗い」が広がっているようだった。  
一段高いはずのベッドが、逆に一段低く、どんよりと暗く感じられる。  
「ユカリ……まだ死んでるの」  
ティムはベッドの上に横たわる彼女に声をかけたが、返事が無い。  
ただの屍のようだ。  
 
しかばねは黒い髪をぴくりと揺らし、いかにも面倒くさそうに顔だけを上げて振り向いた。  
「生きてますよ……まだ」  
ゆかりはかろうじてその二語だけを発した。  
それにしても蚊とんぼの唸るような声量である。  
彼女は「生きている」といったが、なるほど肉体的にはそうであろう、  
しかし精神的には死んでいるといって差し支えの無いほど、彼女からは活力や精気といったものが無く、  
もし自分がハエならすでに彼女にたかっているだろうし、菌類ならば十分に繁栄しているだろう  
とティムは思った。  
部屋中に口ではうまく説明できないような、気の流れ、というようなものの無い、  
澱んだ空気が充満している。  
 
その澱んだ部屋の真ん中で、ベッドに突っ伏して空気を吸っては吐くだけの生命活動を繰り返して  
部屋の空気をさらに澱ませ続けている精神的死人の彼女の名は、田村ゆかりという。  
黒髪、黒い瞳、黄色い肌、小さな体。彼女は日本人である。  
なぜ日本人である彼女がこのような場所でこのような職についているか、  
 
それを簡単に言うとこうである。  
 
ティムの父親であるジョン・ダーヴァレイが彼女を馬車で撥ねた。  
なんということだ、彼女は記憶を失っってしまった、どうしよう。  
そうだうちで保護しよう、英語英国文化を学ばせるためにもまあついでにメイド兼子守もやってもらおう。  
 
とまあこんなところである。  
大筋で間違いはない。  
 
 
「ねえユカリ、げんき出してよ、ぼくもつまんなくなっちゃうじゃん」  
ティムは戸口に立ったままで、ベッド上の彼女に声をかける。  
「そうですね……私としてもそうしたいのは山々なんですが、いかんせんこう、なんというか、元気がもうひとつ、出なくてですね」  
ゆかりもやはりベッドに突っ伏したままで答える。  
 
「なんですかね……お天道様が出てないとこう……ダメですね私は」  
たしかに今の様子を見るに、かなりダメである。  
そして彼女は同じ体勢のままで言葉を続けた。  
 
「今の私はメイドというより……冥土ですね」  
たしかに今の様子を見るに、かなりダメである。  
 
 
「太陽が出てないとダメ、って……いつもは光合成でもしてるの?二酸化炭素すって酸素吐くー、っていう」  
呆れたようにティムは言ったが、ゆかりは「ええ実はそうなんです」と気のない返事をするだけだった。  
 
聞くところによると、彼女の国日本というのは、ブッディズムと、アニミズムから進化した  
独自の宗教の入り乱れた国であり、そのアニミズムの方は太陽を最高神としているらしいと  
いうことだから、まあ彼女がほとんど生ける屍と化しているのも精神活動の活発さが最高神  
の停滞した活動と連動してしまうのも宗教上の理由からならまあ仕方ないか……  
と思うようにティムは自分を持っていこうとしたが、自分でもこの屁理屈には納得することが出来なかった。  
ちょっとろんりてんかいに無理があったかな、と一人で反省するのだった。  
 
「ああそうだ、ゆかりいつだか言ってたじゃん、ニホンの神話にそういう話がある、とかなんとか」  
今の屁理屈を考えている間に思い出した。  
そうだユカリはいつだかそんなことを言っていたのだ。  
昔々おおむかし、太陽神アマテラス某が隠れてしまってどうのこうのとかいう……  
 
ティムは部屋の中にずかずかと入っていき、隅に置いてある大き目の木箱の中から一冊のノートを取り出す。  
ノートには『Memory note』と流麗な筆記体で書かれている。  
「タタタ タッタターン……記憶ノートぉー」  
とティムはまるで独特の効果音を口に出してまでそのノートを取り出したが、  
ゆかりはティムを目で追うだけで――クビすら動かしていない――その上  
「フン」  
と鼻で笑っただけで何も言わなかった。  
 
これにはティムも傷ついた。すこしばかり。  
 
しかし、彼は今の状態の彼女が本当の彼女でないということも十分に知っているので、我慢して  
ノートをめくり始める。  
 
「ああ、あった、これこれ、ええとなになに……」  
ゆかりは諸事情により記憶喪失である。  
あるが、もともとの彼女は実に博学多彩であり博覧強記人畜無害、というような才人であったらしく、  
底なし沼に泡が浮かぶような頻度でときよりその記憶が蘇る。  
そしてその記憶を再び忘れないようにするために、彼女はノートをとり始めたのだ。  
自分の記憶をノートに取るというのはなかなか空しい感情を伴ったりするようで、  
たまに深いため息をついていることもあるがしかし彼女はこのリハビリに懸命に取り組んでいた。  
そしてそのノートにはこう書いてある。ティムはそれを朗々と読み上げた。  
「『アマテラスオオミノカミが天岩戸にお隠れになったとき、ウズメノミコトがその岩の前で  
 陽気で楽しい踊りを踊り、その歓声が気になったオオミカミはついに我慢しきれずにでてきたということだ  
 ……それにしても私は変なことを思い出すなあ』」  
 
「……(ユカリ、自分でもへんだとは思っていたのか……)」  
ノートから顔を上げると、ゆかりの黒い瞳がこちらを向いている。  
瞳に輝きが無い。  
泥炭地にビー玉を放り込んだような、そんな色をしている。  
視線が合って、ティムは一瞬どきりとしたが、ゆかりのほうには何の反応もみられなかった。  
瞳孔が開いている。  
なんだか死臭までしてきそうだ。  
 
「……ユ、ユカリ、元気だしなよ、ほら、太陽が出ないならさ、ユカリがこの、  
 ウブメのなんとかさんみたいに歌って踊って元気を出すとかさあ、」  
ティムは明るく喋っているが、ゆかりは「ああ」とか「うう」とかどうにも母音以外の音を発する気はないようだ。  
 
「ほら、ニホンの踊りってやっぱりどくとくなんでしょ?見たいなあ、ユカリがウブメさんみたいに踊るところ……!」  
ティムはベッドの傍まで寄り、なんとか元気を出してもらおうと躍起になっている。  
正に天岩戸のウズメノミコトのように。  
 
ゆかりもその様子に気づき、思い浮かぶままにその顛末を話してやることにした。  
「ええそうです……、日本の神話を集めた本『古事記』の中にはそういうお話があって……  
 偉いアマテラス様が岩の向こうにお隠れになった時に、ウズメノミコトさまが踊りを踊って……」  
ゆかりが話しだすと、ティムは「待ってました」とばかりに瞳を輝かせ、話に聞き入る。  
ベッドのそばに腰かけ、彼女に相槌を打ちながら聞いている。  
なんにしろ元気を出してほしいのだ。  
そうして一緒に遊びたいのだ。  
「うんうん、ねえユカリ、ほら、踊りなよ、ウズメさんみたいにさ、そしたらお日様も出てくるかもよ?」  
おどれば元気も出るよ、ほらゆかり、さあ。  
 
 
「そうですねえ、ウズメ神みたいに……坊ちゃま、見たいですか?」  
「うん、すっごく見たい!」  
「そうですか……坊ちゃまがそこまで言うなら……」  
のそ、と冬眠開けの熊のようにあくまでスローモーに上体を起こそうとした時、  
「…………!」  
ゆかりは急に顔を赤らめさせ、紅潮しだした。  
ティムはわくわくと瞳を丸くしてゆかりを見つめている。  
ゆかりは頬を真っ赤にしてティムを見ている。  
 
「ぼ、坊ちゃまの助平っ……!」  
喉の奥から絞り出すような声で、ゆかりはそんなことを言った。  
「んん?」  
ティムには何のことだかわからない、なにかの聞き間違いかと思い、首を伸ばしてゆかりを見つめなおす。  
 
しかしゆかりはなんだか別の意味に取ったらしく、ティムの他意の無い視線に顔の赤色を深め、  
ついにティムから視線を外した。  
「……ユカリ?」  
ゆかりの細い指が、白いシーツを握り締めている。  
放射状に寄ったそのしわを凝視するように、ゆかりは視線を右下へ逃している。  
ティムの呼びかけにゆかりは答えない。  
「……見たいな?ユカリのウズメさん踊り」  
特に意図するところはないのだが、その言葉にゆかりはびくりと体を震えさせ、過剰なまでに反応した。  
弓なりに曲がる耳の上部までが赤く染まっているのが、暗いこの部屋でもわかる。  
ゆかりがなにを考えているのか、ティムにはわかりかねた。  
 
「……わかりました」  
ゆかりが言った。  
「坊ちゃまが……そこまで言うのなら……」  
やおらゆかりは、シーツを持ったままで立ち上がった。  
その瞳は黒くゆらゆらと潤んでおり、表情にはある種の決意が表れている。  
上気させた赤い頬から、ほぅ、と艶っぽいため息をひとつ吐いた。  
小さな唇が濡れている。  
 
持ち上げたシーツは足から首元まですっぽりと隠され、その下に何も着ていないと言われれば信じてしまうかもしれない。  
シーツに体が密着して、うすぼんやりとした曲線が、シーツの白いひだの下から読み取れる。  
 
ティムはベッドに腰かけているので、視線の先にある小さな二つのこぶは、おそらくゆかりのひざだろう。  
それが細かく震えている。極度に緊張しているのか、あるいは逆に興奮しているのか。  
ゆかりの様子がおかしい。  
「あの……ユカリ?」  
ティムは本の小さく首をかしげてゆかりの名を呼んだが、ゆかりは答えずに、  
持っていたシーツを一旦、ぎゅっと握り締める体を縮めると、少しして、  
諦めたようにそのこぶしを開き、シーツははらりと儚げに落ちていった。  
シーツは無作為にベッドの上に落ち、半分はティムの膝に掛かった。  
「あの……ユカリさん?」  
ゆかりは立ったままで、首もとの襟カラーを外し、ベッドに投げ置く。  
黒く潤んだ瞳はティムを見ている様でもあり、どこも見ていないようでもある。  
「ウズメさん踊りについて……すこし説明してもらえないかな……?」  
ゆかりはぴくっと体を震わせ、うつむいて答えた。  
手はワンピースのボタンを外し始めている。  
「天岩戸にお隠れになった天照大御神の気を引くために、ウズメノミコトは陽気に楽しく踊ります……」  
それは知っている。そう書いてあったのだから。  
「うん、それで、今のユカリがとても陽気で楽しそうに見えないわけは一体どうしたことだい?」  
 
ゆかりは、目線を床の少し前辺りにあわせたままでぼそぼそと答えた。  
 
「ウズメノミコト、次第に興が乗ってきて、ち、乳房やその……下腹部までもがあらわになったものだから、  
 一座の神様みんながどっと大笑い……」  
 
ゆかりは説明するにつれ顔を赤らめ、体をちぢこませていくようだった。  
しかしすでにボタンは上から半分以上が外され、その隙間から実用的な白い木綿の下着が、  
暗い部屋に慣れた目にまぶしいほど覗いている。  
「は、恥ずかしいですけどっ……!」  
ゆかりが一度にワンピースを脱ごうかとした瞬間――  
 
「ストォォオオオオオオオッップ!!ストォォォオオオオオオオップ!!ッップ!だぁあっ!」  
ようやく事情を理解したティムの必死の叫び声が狭い部屋に響いた。  
 
「い、一体なにを考えているのさっ!」  
「だって坊ちゃまが『見たい』って……」  
「じょ、じょうきし、というものがあるでしょうがぁ」  
「『常識』、ですよ、坊ちゃま」  
「だあ、あげあしをとるんじゃないよこのっもう……ばかァ」  
なんだかティムは情けない気分になってきた。  
「馬鹿とはなんですか馬鹿とは……私だって、恥ずかしいのを必死にこらえてですねぇ……!」  
「そういうじじょうがあるなら、ひとこと言えばいいだけじゃない!」  
「だって坊ちゃまがあんなに期待した目で見つめるんですもんっ!」  
期待した目。  
確かに期待はしていたが、それは「ゆかりが元気になるかもしれない」という期待の視線であって、  
ゆかりが思うような――卑猥な――意図はこれッぽちも無かった。神に誓ってもいい。  
なんならアマテラスさんに誓ってもいい、とまでティムは思っていた。  
 
しかし、その期待を込めた視線が、ゆかりにどのように映っていたか、ゆかりがどのように捕らえていたか、  
それを思うとティムは自分の頬が急激に熱を持ってくるのをありありと感じ取った。  
 
「……もうっ!このばかっ!」  
「人に向かってばかばか言わないでください!馬鹿っていったほうが馬鹿なんですよ!」  
「しらないよそんなの!アホメイド!」  
「な、なんですって――!」  
 
と、興奮したゆかりが胸を張って言い返そうとしたとき  
ぱぱぱつんっ。  
といい音がした。  
「いてっ」  
ティムは柔らかな頬を押さえた。何かが当たったのだ。  
なんだろう。暗くてよく見えなかった。  
が、前を向いてみると謎は一瞬で氷解した。  
 
胸元まではだけていたゆかりのワンピースの開き目が、腰元まで――それこそ下腹部の位置まで――  
大きく広く開いている。  
ボタンが飛んだのだ。  
……まるみえだ。  
 
「ユカ――」  
「ひゃ、ひゃああああああ――――っ!!」  
 
今度はティムがゆかりの叫びに遮られる番だった。  
ゆかりは両手で体を押さえ、ベッドにへたり込み、うつむいて丸くアルマジロのように  
――あるいはダンゴムシのように――縮こまってしまった。  
 
「ユカリ――?」  
ゆかりは答えない。縮こまって肩をぷるぷる震わせている。  
「ユカ――」  
ユカリは答えない。肩を抱く手がぎゅうと強く握られている。  
「ユカリさん――?」  
ティムは震える肩にそっと手を伸ばした。  
触れた瞬間、静電気が走ったときのように、ゆかりはぴくりと体を震わせた。  
「あの、ええと、なんていうか、その――」  
ティムはしどろもどろになってしまった。何を言えばいいのかわからない。  
思い出されるのは、暗い部屋の中で、白く光るような木綿の下着姿。  
いったい何が起こったかわかっていないだろうユカリの間が抜けたような一瞬の表情。  
そして全てを理解した時の恥じらいと驚きの入り混じった赤い顔。  
この感情をなんといったらいいのかよくわからないが、なんというか、かわいらしかった。  
ティムはそのことを言おうかとしたが、やはりそんなことは言えずに、  
団子虫ゆかりのからだにシーツをかけて、無言で部屋を出て行った。  
 
 
ティムは水と間違えて酢を飲み干してしまったようなしかめ面をして、居間のソファに体をうずめていた。  
「ううう……なんだか気まずいなあ」  
そう言ってまぶたを閉じれば浮かんでくるのは鮮明な記憶である。  
暗い部屋、頬に硬いものの当たる感触、ほとんど全身あらわになったゆかりの下着姿、  
間の抜けた表情そして、それにつづく驚いた叫び声と心底恥ずかしそうな表情――  
ゆかりのためにも、なんとかこの記憶を忘れようとしているのだが、忘れようとすればするほどに  
記憶と情景は鮮明になり、忘れ難いものになってしまっていくようで、ティムは嘆息した。  
これでまたユカリがふさぎこんでしまったらどうしよう。  
そう思うと自分が情けなくなってくるのだが、それよりも恐ろしいのは  
「ユカリ……怒ってないかなあ」  
ということだ。  
丸まったゆかりは、いくらなにを話しかけても返事をしようともしなかった。  
まあ仕方ないといえば仕方ないだろうとも思ったが、その原因が羞恥のという感情ではなくて  
憤怒という言葉にも表せないような怒りの感情だったらどうしようかと、ティムは思い悩んでいるのだった。  
「……神さまぁ」  
ティムは十字を切って神に祈ったが、やはりまぶたを閉じるとゆかりの下着姿が思い出されてしまって、  
とてもまともに祈れたものではなかった。  
 
不意に扉の開く音がした。  
立っているのは――  
「ユカリ!」  
であった。  
 
扉を開いたところで固まっているゆかりは、さきほどまでの醜態とは打って変わって  
きちんと服も、襟カラーもエプロンもつけている、いつもの格好をしている。  
顔はいまだ赤く、ティムが振り返るとはずかしそうに視線をそらした。  
ゆかりはおずおずと頭を下げ、ティムに聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で言った。  
「さ、先ほどはどうも失礼しましたっ……」  
 
ゆかりは謝っているのだった。  
目をつむり、耳を赤くさせ、ひっしで恥ずかしいのをこらえながら。  
ティムはそのゆかりの様子を見ると、なんだ全てが馬鹿らしいことだったように思えてきて  
「あはっ……ユカリ、なんだ、いいのに……あはっハハハハッハハッハハハ……!」  
と腹を抱えて笑い出した。  
ゆかりは顔を上げ、唇を突き出して不満を表していたが、それでも笑い続けるティムにつられるようにして笑い出した。  
「あ、ユカリ、笑ったね」  
ティムは涙を流しながら、ゆかりを見た。  
確かに笑っている。  
すこし困ったような、元気いっぱいという笑顔とは言い難いが、それでも確かに笑っているのだ。  
 
「げんき……出た?」  
ティムは控えめにそう尋ねた。  
ゆかりはあくまでも赤い顔で、紅潮した頬を少し緩め、笑顔で答えた。  
「ええ、助平な坊ちゃまのおかげで」  
「ユカリ、ちが……!ごかいだって……!」  
「ええ、本当に誤解ですかぁ?」  
「ほんと!ああ、もう、なんていうか……」  
ティムは頭を抱えたが、次の言葉は自然に出てきた。  
「ごめんね、ユカリ」  
ティムはそう言ってから、自分はそれが言いたかったのだと納得した。  
そう言えばユカリはいつも、  
「わかってくださればいいんです、それで」  
と言って最高の笑顔を見せてくれるからだった。  
 
「さあー、すっかり仕事がたまっちゃってますね、私が寝てる間に」  
「さぼり魔だね、ゆかり」  
「手伝ってくださいよ、坊ちゃん」  
「ええ、やだよぉ、ユカリの仕事じゃんそれ」  
「ええ、そうですね、言い間違えました。……手伝ってくださいよ、助平坊っちゃま」  
「なにそれ……いいよ!わかったよ!てつだうよ!」  
「ふふ、ありがとうございます坊ちゃま」  
「ええいもうこのっ……まあ、元気が出て、良かったよ」  
「どうも、ありがとうございました。助平坊ちゃま」  
「……助平はやめてよっ!!」  
 
久しぶりに、二人の笑い声が響いた。  
外では、雲の切れ目から光が差し込んでロンドンの街を照らしている。  
 
さあ、仕事だ仕事だ――。  
 
 
 

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