◆にこにことシャボン玉を◆  
 
時代は19世紀末イギリス、さらにその首都ロンドンである。  
道には馬車が行きかうし、汽車は男らしく煤煙を撒き散らして走り回っているし、  
夜になればガス灯が道路を、オイルランプとろうそくが家の中を照らしている時代の話である。  
時代が古く舞台がロンドンだといっても、人は働いているし、街は騒がしいし、  
太陽は東から昇って西に沈んで行くようだし、おおむねのところは今とそんなに変わらない。  
 
大英帝国の大首都大倫敦の小さい通りをぐーっと行ってがーっと入ってぶわーっと進んでいった辺りにある、  
平均的なタウンハウスのひとつが、ダーヴァレイ家である。  
この家は玄関が二つあり、建物自体はひとつだが中で二つに分かれている。  
そうしたほうが安上がりなので、ロンドンにはこのような住宅が数多くある。  
 
その安上がりな家ダーヴァレイ家の台所である。  
いつもならば、夕飯に向けてそろそろと食事の準備を始める時間なのだが、今日はいつもと様子が違う。  
夕飯の食材はすでに必要な分だけ買ってきて、大きな木の机の上に置いてあるし、  
かまども食器棚もいつも通り整理整頓されているのだけれども、  
その台所の中心で、少年が木の椅子に座って足をぶらつかせているのはいつも通りというわけではなかった。  
 
はだしの足を木椅子からぶらぶらさせている子供は、このダーヴァレイ家の長男、  
ティム・ダーヴァレイ、10歳。  
金髪碧眼で健康優良。  
これ以上簡単な紹介もないと思う。  
そのティムが、足を気ままに揺らしながら、目の前に置かれたタライを眺めている。  
木で組まれたタライに、なみなみと柔らかく水がうごめいている。  
小さい窓から入る傾いた陽が、彼の金髪と頬を少し赤く染め、光源の小ささに反して、  
台所全体を赤く染めて静かだ。  
 
ティムはゆらゆらとした水面が、赤く染まっているのを「きれいだな」と思って見ていた。  
そのタライの向こうにかがんで座っているのは、この家の女中である。  
黒い髪に白いヘアバンドが映えている。  
タライの水面を見つめ、時折、反射する西日に目を細めているその瞳は、黒い。  
身体的特徴が示すように彼女は東洋人であり、さらにいえば、日本人である。  
名を田村ゆかりという。  
自然なつやとしなやかさ、黒髪特有の強さというようなものを秘めた髪、ふっくらと優しい下あごや、  
輪郭のそれは、女性、というよりも少女が持つ特徴のそれである。  
年は14になる。  
まごうことなき、少女、である。  
 
なぜその、日本人かつ少女であるところのゆかり嬢がこのロンドンの街で女中業に身をやつしているかと問えば、  
ざっくり言ってこういう経緯がある。  
 
ある日彼女は馬車に轢かれた。  
撥ねられた。  
彼女の体は景気良く5メートルほど飛んだ。  
気がつくと、記憶もとんでいた。  
そのときその馬車に乗っていたのがこの家の主人で(本件の加害者でもある)ティムの父、  
ジョン・ダーヴァレイであって、その後色々とあって、なんだか結果的に、  
ゆかりはダーヴァレイ家のメイドとして働くことになったのだった。  
 
そのゆかりは、タライに張られた水の中で手を動かし、石鹸を水に溶いている。  
少しうつむいて視線を水中に向けている彼女の表情は、椅子の上からではよく見えないが、  
ちらりとみえる唇の端は可愛らしくつりあがっているし、いまにも鼻歌を歌いだしそう楽しげな様子で、  
表情は見えなくとも、彼女の機嫌が上々だということは彼女の丸めた背中から出る雰囲気というようなもので、  
ティムには十分に伝わっていた。  
「……ユカリ、楽しそうだね」  
ティムは自分の足をことさら前後に揺らしながら、眼下でサボン液を作っているメイドに聞いた。  
ゆかりは、視線を上げずに手をタライの中で動かしながら答えた。  
「ふふ、そうですか?」  
ゆかりの手の中から徐々に石鹸が溶け出して、タライの端に小さなあぶくが溜まっていた。  
薄い白色の揺れる水面を見ながら、ティムは今さっき起きた事件――事件と呼ぶには余りに  
些細なことだが――のことを思い返していた。  
いま自分が台所で裸足になっているのも、ゆかりがせっせとサボン液をつくっているのも、  
その「事件」が原因なのだった。  
 
 
話は少し前にさかのぼる。  
 
 
買い物の帰りだ。  
今日は、安くて質のいい野菜がたくさん出ていた。  
買い物かごがいっぱいになるほどに野菜を買って、ティムとゆかりが二人並んでゆっくりと歩いていた時の話だ。  
今日は昼間に少し雨が降って、二人の歩く舗装されていない道のところどころに、大小さまざまな水溜りが出来ている。  
ロンドンにはもう珍しくなった土の道路には、どろの溶け込んだ水溜りがまだらに続いている。  
いまはもう雨も上がって、水溜りは落ち着いて道路に寝そべっている。  
 
「今日は新鮮な野菜がたくさん買えましたから、にんじんとじゃがいものスープ、  
 ゆでアスパラをのっけたサラダと、お肉はたしか昨日の残りがありましたし、それに野菜を付け合せて……」  
「ええ、やさいばっかりじゃん」  
「いいじゃないですか、ほら、こんなに買っちゃったんですし」  
「買ったのはユカリじゃん。もっと肉が食べたいなあ、ほら、今、せいちょうきだし」  
二人が会話をしながらも目線を合わせていないのは、べつにケンカをしているわけではない。  
地面をみながら歩かないと、泥水に足を突っ込んでしまうからだ。  
傍目にはうつむきながらぶつぶつ言い合う、変な二人に見えるだろう。  
 
「成長期だっていうなら私だってそうですよ」  
「ええ、そうなの?」  
ひらり。  
「そうですよ、私はまだ14歳のうら若き……乙女ですよ」  
「おとめって……」  
「そうですよ、立派な乙女ですよ。清純な」  
ひらり。  
「……自分で言わないでよ」  
「じゃあ坊ちゃまが言ってください、かわいいね、とか、今日も素敵だね、とか」  
ひらり。会話をしながらでも注意して地面を見ていないと、水たまりを避けきれない。  
「……むちゃ、いわないでよ」  
「無茶じゃないですよ、女性は誉められて綺麗になる、って、雑誌に書いてありましたよ」  
「じゃあそんな本は見ない方がいいよ……わぁ」  
ティムが声を上げたのは、目の前に大きな、  
自分の足ではちょっと飛び越えられそうにない大きさの水溜りが現れたからだ。  
青い空と白い雲が、パノラマで映っている。  
思い切って飛び越えようとしても、向こう岸までもう少しのところできっと足は水溜りに捉えられ、  
運が悪ければその足を滑らせて背中を水溜りに打ち付けることにすらなりかねない。  
 
「ううむ……」  
ティムは手をあごにやり、唸った。  
 
英語で書けばuhmm,というようないかにもイギリス人らしい唸り声をティムが上げている間に、  
ゆかりはスカートの裾も押さえずに、しなやかに、そして軽々とそれを飛び越えてしまった。  
ティムは口を半分あけてそれを見ているだけだった。  
「ほら、坊ちゃま」  
水溜りの向こう岸に着地したゆかりは、こちらに向かって右手を差し出してきた。  
ティムは少しむっとした顔で、黙っていた。  
「ほら、坊ちゃまってば」  
ゆかりが再度右手を広げて差し出したので、ティムは仕方なくそれに手をのせて、向こう岸から引っ張ってもらった。  
 
それからしばらくティムはむっつりと口を一文字にして黙って歩いた。  
「どうしたんですか坊ちゃま」  
「……」  
「さっきから、急に黙っちゃって」  
「……」  
「坊ちゃまってば」  
「……なんでもない」  
「なんでもないことないでしょう」  
ゆかりは少し考えるように手をあごにやり、  
「あ、そうか」  
すぐにその手を離した。  
「ひょっとして、プライドを傷つけちゃいましたか、さっきので」  
 
ずばりと言った。  
その通りだった。  
勘がいいのはみとめるけど、もう少しデリカシーというものをもって欲しいと、ティムは思った。  
「……そんなこと、ないよ」  
小さな口から出たのは強がりの言葉だった。  
自分が唸っている間に、ゆかりはさっさと水溜りを飛び越えて、あくまでも自然に手を伸ばしてきた。  
紳士が、淑女に対して自然とそうするように、ゆかりも手を差し伸べたのだ。  
やっぱりなんだか、くやしい。  
 
「まぁ、仕方ないですよ、今ははまだ私のほうが、背だって大きいし、からだも……」  
「そんなこと、ないってば!」  
通りの屋根に止まっていた鳩が驚いて飛び立った。  
つい大きな声を出してしまった。そんなつもりはなかったのだが。  
「……」  
「……」  
それきりゆかりも口をつぐんで、二人は黙って土の地面を見て、重い空気を身にまとって歩いていった。  
 
 
黙って歩いて何本目かの街灯を通り過ぎたとき、大きな馬車が向かってくるのが見えた。  
自然とティムは、道の脇に身を寄せた。  
馬車は遠慮無くスピードを出し、重たい足音を立てて迫ってくる。  
高いところに座っている御者はただ前だけを見て、道の端や歩行者には目もくれない。  
ふと前を見ると、ゆかりが地面だけを見て、変わらない様子で歩いているのが見えた。  
馬車に気づいている様子は、ない。  
「……ユ、」  
さっき出してしまった大声と、今までの沈黙のせいで、名前を呼ぶのは少し気まずかった。  
「ユカリ――」  
勇気を出して名前を呼んだのだが、ゆかりは気づかないようで、まだ地面だけを見て歩いていった。  
馬車が迫ってきている。  
ティムは小走りで背を追いかけた。  
「ユカ――」  
名を呼ぼうとしたとき、ゆかりは目前の水溜りを避けようとしたのか、  
身を大きく左に――今まさに大きな馬車が走りこんでくるところに――寄せた。  
 
――――ぶつかる――――  
 
「ユカリ!!」  
考えて出た叫びではなかった。瞬間的に体をひねり、思い切り手を伸ばし、大声で名前を呼んだ。  
ゆかりは体をびくっとさせ、顔を上げる。  
目前に、馬の鼻面が見えているだろう。  
――これらはすべて数瞬の出来事ではあるが――ゆかりは目を見開いたままで、動きを止めた。  
いかに俊敏な彼女であろうと、今、見たのだ。  
認識が済んで初めて対応が取れる。  
まだ、認識が追いついていない。  
ゆかりは身をこわばらせ、歯を食いしばった。  
その瞬間に、ティムはゆかりの右手を取り、全力で引っ張った。  
 
ごうっ、  
音を立てて馬車はゆかりの鼻先をかすめていった。  
「……!」  
ゆかりは口と目を大きく開いて、声にならない叫び声をあげた。  
馬とそれに続く車体をやり過ごすまで、ゆかりはその体勢と顔を続けていた。  
あぶないところだった。  
自分が声をかけ、この手を引っ張っていなかったら、またもゆかりは撥ねられてしまっていたかもしれない。  
ひとまず安堵できる。  
ゆかりを助けることが出来た。  
ほっとした気持ちがティムを満たした。  
悔しい気持ちはどこかに消え去っていた。  
 
心は落ち着いているが、ゆかりを思い切り引っ張ったために、体は大きく傾いていた。  
ティムがその大きく斜めに傾いた体を立て直そうと、足を大きくふみだしたとき、  
足元から「ばしゃっ」と水音が聞こえた。  
 
なんだろうか。  
 
いや考えるまでも無いという気もするのだが、何となくそうしたかったので、ティムは半ば反射的に目を閉じた。  
目を閉じてふと思い出す。  
 
ゆかりは最後、馬車に吸い寄せられるように体を寄せた。  
なぜそうしたのか、簡単だ。  
ゆかりは目の前にあった大きな水溜りをよけようとして、通りのほうに体を寄せたのだ。  
そのゆかりを引き止めたのだから、やはり自分の目の前にも水溜りはあろう。  
 
ふふふ……、馬車をやり過ごして「ばしゃっ」だなんてそんな…ねぇ……  
 
ティムが目を閉じて現実逃避を行っている間にも、冷たいものがどんどん靴と足の間に入り込んでくる。  
その感触はじわじわと冷たくて、自分の右足に何が起きているのか、すべてわかる。  
もう目を開けて確かめるまでも無い。  
 
「坊ちゃま、あ、ありがとうございます――」  
ゆかりが礼を言った時、ティムの右足は、泥水の中に水没していた。  
 
 
そして場面は夕暮れの台所に戻ってくる。  
 
 
ゆかりは水の張られたタライの中で量り売りの石鹸を溶かし、サボン液を作っている。  
ティムは木の椅子に座ってそれを眺めている。  
つまりは、ティムが水溜りに足を突っ込んでしまったので、それを洗うためにゆかりは準備をしていて、  
ティムは自分の足を所在なさげにぶらぶらとさせているのだった。  
 
ゆかりは、すんでのところで馬車との衝突を避けてから、やけに上機嫌で、ずっとにこにことしている。  
にこにこしながら、ティムの足を丹念に洗い続けている。  
助けてもらったお礼のつもりだろうか。  
 
「ユカリぃ、いいよそんなに一生懸命やんなくても。こんなの、水で流せばそれだけで……」  
ティムは椅子の上からそう聞いた。  
さっきからずっと、自分の足を――矛盾した言い方になるが――手持ち無沙汰にしている。  
 
「だめですよ!泥水なんていうのは、どんなバイ菌がいるかわかったもんじゃないんですから!  
 ちゃんと石鹸水で洗い流しておかないと、どうなっても知りませんよ」  
「……どうなるっていうのさ、たとえば」  
「ほら……水虫とかですよ」  
「だいじょうぶだよ……そんなの」  
「かゆくなっても知りませんよ、旦那様みたいに」  
 
ティムは、ゆかりが「旦那様」と呼んだところの自分の父の姿を思い浮かべた。  
家具商を営んでいる父は日中、古い黒革のブーツをずっと履いたままで、  
たんすやらベッドやらの重い家具を上げたり下げたりしているもんで、汗をかかない日はないものだから、  
その足はすっかり白癬菌――俗に言う水虫菌にすっかり冒されて、雨の日などはかゆいかゆいと難儀している。  
 
「みずむしは……すこし、いやかな」  
「でしょう?」  
 
そういうとゆかりは、溶かしていた石鹸を水から上げ、  
「では」  
とだけ言うと、そのサボン液をティムの足に流しかけた。  
水はちろちろとティムの足を流れ、タライの水面に波紋を作って落ちる。  
くすぐったいような心地良いような冷たさで、水は流れていく。  
水が流れきるとゆかりはもう一度水をすくい、足にかけた。  
ゆかりはそれから自分の両手を泡立たせ、ティムの右足を掴んだ。  
ぬるっとした感触で、ゆかりの指が足を洗う。  
小さい足を包むようにして、ゆかりの両手が動いている。  
ぬるぬるとした指が、ティムの足を撫で回していく。  
ゆかりの指は、足の指の間までも丹念に洗い、ティムは「ひゃ」と小さな声を上げた。  
こそばい。  
 
ゆかりはなぜかこの仕事が楽しいらしく、鼻歌まじりにティムの足を洗っている。  
指の間や土踏まず、小指と薬指の指先とかいったところを洗うと、  
ティムがつい声を出して反応してしまうので、それを楽しんでいるかもしれない。  
 
ティムはまた、ゆかりの白いヘアバンドが機嫌よく動くのを、椅子の上から見ていた。  
うなじが白い。  
ティムは、自分の足を洗う指が、しなやかではあるが、一定の固さをもっていることに気づいた。  
柔らかいは柔らかいのだが、その柔らかい指を包む皮は、男である自分と比べても、固い。  
まあ、自分はまだ子供の指なので比べてもあまり仕方のないことなのかもしれないが。  
働き者の手ということだろう。  
働いているからこそ、手の皮は厚さを増して、丈夫になる。  
だけどもティムは、いつも手袋をして優雅に暮らしている貴婦人のような柔らかいだけ手よりも、  
このゆかりの、生活者の強さを持った手のほうが好きだなと思った。  
「ユカリ」  
自分で呼ぶ気はなかったのに、口が名を呼んでいた。  
「なんですか、坊ちゃま」  
ゆかりが顔を上げた。  
なんと言うつもりだったのだろう、自分は。  
自分の足を洗う手が、強さを持った手が、好きだと思った。  
それを言うつもりだったのだろうか、  
「ユカリの手、好きだよ」  
と。  
もちろん、そう言ったところでなにがどうなるというわけではないのだが、恥ずかしい。  
手が、手が好きだというだけの話でも、ことばの最初と最後だけを取れば  
「ユカリ――好きだよ」  
と言っている。  
それに気づくと気恥ずかしくなり、とてもそれを言うわけにはいかない、と思った。  
 
「いや――あの――」  
ティムはことばに困って、視線をぐるぐると動かして、何かを探そうとした。  
「なんというか――……プッ」  
視線がゆかりの顔に辿り着いた時、つい吹き出してしまった。  
 
頬に小さなシャボン玉がくっついている。ちょこんと。ゆかりはそれに気づいていない。  
「ぷ?……なんですか、人の顔を見るなり笑うなんて」  
「いや、だってさ、ほっぺたに……」  
そう言われてゆかりは、腕まくりをした袖で、自分の頬を拭った。  
猫が顔を洗うようで愛らしい、とティムは思ったが、これも口に出しては言わなかった。  
 
「なにか、ついてましたか?」  
「うん、ちいさいシャボン玉」  
「……そうですか」  
と言うと彼女は再び足を洗う作業に戻ろうとして、不意に顔を上げ何か思いついたような表情で、  
「あ、そうだ」  
ティムに言った。  
「坊ちゃま、少し、目を閉じていたください」  
「う、うん?」  
ティムはおそるおそる目を閉じた。  
目を閉じて、足を洗う感触はなく、ゆかりが何をしているかよくわからない。  
 
小さな水音と、ゆかりがとにかく何かをしようとしている気配だけが伝わってくる。  
少しして「あれっ……うまくいかないな」というゆかりの声が聞こえてきた。  
何かたくらんでいるらしい。  
ティムはわりとワクワクして、そのゆかりのたくらみが自分を襲うのを待った。  
 
そのまま足先からサボン液が数滴こぼれたくらいで、ティムは我慢が出来なくなって、目をそっと開けた。  
目の前に、ゆかりがいた。  
近い。  
瞳を閉じ、薄く唇を開けたゆかりが、息のかかりそうなくらいの位置にいる。  
ゆかりのまぶたがぴくぴくしている。  
「…………!!」  
驚いた。  
 
ゆかりは、自分の顔の前で、指の輪を作り、それに向けて息を吹きかけようとしているようだ。  
ティムはまず、あまりに顔が近かったことに驚いて、椅子から滑り落ちそうになってしまった。  
ガタガタッといったその音でゆかりは目を開け  
「あ、目をつむっててくださいって言ったのに」  
とその体勢のままで不服そうな顔をした。  
 
「ななな、なに?」  
「あ、動かないでください、そのまま……」  
ゆかりは、自分の輪にむかって息を吹きかけた。  
ゆかりが唇を突き出してふぅぅーと優しく息を吹きかけたその形のまま、虹色のシャボン玉が生まれた。  
その小さなシャボン玉は、ゆっくりとゆかりの指を離れ、きらきらとひかりながら色を変え、  
やわらかくティムの頬に着陸して、半分になった。  
 
ドーム状になったシャボン玉が、ティムの頬にくっついている。  
ゆかりはそれを見て満足そうに  
「これでおあいこですね、へへ」  
と言って、可愛らしく笑った。  
 
「シャボン玉って、なかなか作るのが難しいですねえ」  
ゆかりは指を宙にむけ、息を吹きかけたが、シャボン玉は指から離れず、そのまま消えてしまった。  
「息が強すぎるんだよ、ユカリ」  
ティムはタライに指をつけ、器用にシャボン玉を作って飛ばした。  
ちいさなシャボン玉がいくつか生まれ、ふわふわと台所を飛んでいく。  
「わぁ、坊ちゃま上手!」  
ゆかりはそれを見て、心底喜んだように、にこにこと笑っている。  
ティムが少し指の輪を縮め、それに細く強い息を吹きかけると、今度は小さなシャボン玉が無数に現れ、  
星のように宙に浮かんだ。  
小さなシャボン玉たちは、夕焼けの色を浴びて、息を呑むほど美しい虹色に染められていた。  
「わぁ……!」  
ゆかりは濡れた手を組み、その情景に感嘆の声を上げた。  
「きれいですねぇ、坊ちゃま」  
ゆかりが振り返り微笑んだその表情は、シャボン玉をきれいだと言うその、  
夕日の当たったゆかりの笑顔こそが、ひどく美しく貴いもののように見えた。  
 
ティムは一瞬目を見張り、言葉に詰まった。  
とりあえず、自分の気持ちを悟られないようにティムはシャボン玉を作り続け、  
シャボン玉はどれも虹色の夕焼けを映し出して、幻想的な姿を描く。  
 
ゆかりはそれを見て、にこにこと喜び、ティムはその様子を眺め、なんだか誇らしいような、  
それでもちょっとくすぐったいような、言いようのない気分になるのだった。  
 
 
「ユカリ、お楽しみのところわるいんだけどさ」  
「なんですか、坊ちゃま、ほら、もっとシャボン玉作ってくださいよぉ」  
 
ゆかりは両手を上げ下げして、無邪気にシャボン玉をねだる。  
その様子をみるとティムは、もっとシャボン玉を作ってあげたい気持ちにもなったが、  
自分の要望も伝えなければならない。  
「うん、あのねユカリ……」  
「なんですか、ほら、早く……」  
「あしの泡を、洗い流してくれないかな?」  
 
「あ」とゆかりは言った。  
シャボン玉に見とれて、ティムの足がまだ、泡だらけなのをすっかり忘れていたようだ。  
ゆかりは慌ててしゃがみこみ、ティムの足を優しく洗い流した。  
 
ティムはその間、椅子に座って、紅く幻想的なシャボン玉の景色と、  
その中で実に嬉しそうに笑うゆかりの姿を思い浮かべて、ぼんやりとしていた。  
 
小さな木枠の窓からは、暮れようとする陽に染まった裏庭と、柔らかそうな雲が見えていた。  
 
 
そのあとゆかりは、予告どおりの野菜たっぷりな夕食を作り、ティムはそれを平らげて、  
珍しいことに食事の後片付けを手伝ったりしたのだった。  
 
このロンドンの大都会の中、小さなダーヴァレイ家の一日は今日も、やっぱりとても平和な一日だったのだった。  
 
 
 
 
 
 ◆にこにことシャボン玉を◆  
 
 終わり  
 

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