この話は、時代は19世紀末、世界に覇を唱える大英帝国の大首都である大倫敦に、  
珍しくも極東の島国日本からやってきた柔道少女田村ゆかりが、  
珍しくも偶然に馬車にはねられ記憶を失って、  
珍しくも倫敦の一般家庭の女中として働くこととなり、  
珍しくもなんともない騒がしく楽しげな毎日を送るという、  
 
なんだか珍しい話である。  
 
 
 
 
1 買い物帰り  
 
11月のロンドンの空は、どんよりと厚い雲に覆われていた。  
天蓋のような雲の下に広がる街は、雲の色を映しているかのように、ことさらくすんで単調に見える。  
黒い髪の少女と、さらに小さな少年が、その空の下を歩いている。  
雪が降りそうだ、夕飯の材料を満載した買い物かごを持った日本人少女、田村ゆかりは陰鬱な空を見てため息を吐いた。  
蚤の市で安く買えた――一般的な雑役女中にも手が出る程度の値段の――ケープとひとそろいのコートは、  
値段の割りに暖かいが、頬を撫でる外気は冷たく、肌が張り詰めて強張る。  
 
今日の夕飯は茹でた豚肉とジャガイモ、茹でた人参に豆のスープにしようと考えていた。  
寒くなって、暖かいスープがおいしい。  
使用人が自分一人しかいないダーヴァレイ家では、必然的に調理も自分の仕事である。  
買い物からの帰路だ。  
歩きながら、家に帰ってからの調理の手順を思い浮かべようとしたが、手順よりもむしろ、  
想像はあたたかなスープの完成形に取って代わられ、頭の中をいっぱいにした。  
柔らかく立ち上る絹のような湯気と、ちくちくと鼻腔をくすぐるスパイスの香り、  
自身も十分に熱くなった金属のスプーンを口に含んだ瞬間に広がる滋味と暖かさ。  
調理の手順を思い浮かべるうちに、彼女の頭はそれらのもので埋められてしまった。  
早く帰りたくなって、足を急がせた。  
こうなると、その味が楽しみで、今の寒さや冷たさもむしろ好ましいものに思えてくる。  
いま寒ければ寒いほど、身が冷えれば冷えるほど、夕食の暖かさは耐え難い魅力を持って自分を包むだろう。  
それを思い、質素な女中服の中に隠されたしなやかな身を縮めながら、ゆかりは口元だけで笑った。  
 
ゆかりは冬が嫌いではない。  
もちろんこの、身を刺す寒さが好きだというわけではないが、なにかこう、気温が徐々に下がって  
「冬のにおい」とでも言うべきものが感じられるようになると、心がなぜかわくわくとしてくるのだった。  
その心の作用が何に起因するのかはよくわからないが、ひょっとすると失われた記憶  
――日本での生活の記憶――に、なにか関係するのかもしれない、  
それが何かを思い出そうとしても、まるで濃い霧の中に手を突っ込むように、ひやりとしたものが手に触れて  
その中にある確かなものを取り出す前に、それは逃げていってしまう。  
ただ「ある」ということだけはわかるが、それが何か、どのような色形をしたものか、  
取り出して眺めることは出来ない。  
伸ばした手には記憶の匂いだけが残る。  
 
彼女にある鮮明な記憶の中で一番古い物は、まだ暖かい季節、黒い闇がガス灯に照らされた夜、  
玄関先で、今、自身の目の前を歩く少年と会話した記憶だ。  
「ゆかり――、私の名前、田村ゆかり」  
そのとき彼女は、自分でも忘れていた自分の名をすらすらと口にしていたのだった。  
 
「へぷちん」  
その少年――ティム・ダーヴァレイは、後ろからゆかりに見つめられていることにも気づかず、  
素っ頓狂な声を上げた。  
彼はゆかりよりも4つ年下であり、まだ十歳であるので、身長はゆかりの肩ぐらいまでしかない。  
かぶっている鳥打帽が少し大きく、いつも何かの拍子につばが目のところまでずり下がってしまう。  
ゆかりがそれをかぶせなおすと、さらさらと金糸の様な金髪が揺れた。  
瞳は、海か夏の空のような澄んだ「紺碧」という表現の似合う澄んだ色で、  
寒さのために赤くなった頬は、子供らしくぷっくりと丸く、小さな形のいい耳が、  
これも寒さのためだろうが、痛々しく赤い。  
「うぅ、さむい」  
言いながら彼は、小さな手の甲で鼻の下をごしごしとぬぐった。  
どうやら今の声は、彼のくしゃみの音であったようだ。  
彼の父が放つ、大砲のようなくしゃみに比べて、なんと可愛らしい声だろう、と、ゆかりは思う。  
彼は父よりも母親に似ているようだ。  
暖炉の上に飾ってある写真の中で静かに笑っている彼の母親は、彼を生んですぐに亡くなってしまったと聞く。  
彼自身は彼の母親の顔も覚えていないようだが、その面影は白黒写真のおぼろげな姿よりもむしろ、  
彼自身の顔立ちの中に見出すことができる。  
本人はそのことをわかっているのか知らないが、今はとりあえず、  
形のいい鼻からひっきりなしに垂れてくる鼻水を一生懸命にすすり上げている。  
 
「寒いですか、坊ちゃま」  
「さむいね。ズズ。早くかえってあったかいお茶が飲みたいな。ズズ。いれてね、かえったら」  
鼻をすすりあげながら喋っている。  
ゆかりがふところからハンカチを渡すと、ティムは勢いよく鼻をかみ――ハンカチに鼻をかむのはイギリスでは普通の風習であるが――  
黙ってそれを自分のポケットに突っ込んだ。  
「ええ淹れましょう。暖かいの。そうだ、ショウガも買ってきましたから、中に入れましょうか」  
「……いいよ、あれ、にがてだし」  
「あったまりますよ?」  
「いいって。お茶はお茶、しょうがはしょうが。べつものだもの」  
やはり小さいながらも彼は生粋の英国人で、自分の飲む紅茶に対しては、なにがしかのこだわりというものがあるらしい。  
「そうですか……あ、また」  
ティムはさっきから、自分の手もポケットに突っ込んだままにしている。  
「そうやってポケットに手を入れてて、転んでも知りませんよ」  
「……さむいんだもん」  
「その状態じゃ、受け身も取れませんよ?」  
あのように両手が不自由では、もし転んだり投げられたりした時に、思うように受け身を取ることができない。  
それは必然的に怪我につながるだろう。  
「うん、ころぶのはともかく、そうそう投げられることもないだろうし……ウケミはもとからできないし」  
ゆかりは、ティムを含む英国人にはほとんど魔法のように見える技術「ジュードー」を自在に操り、  
小さな女の身でありながら、体重が倍ほど有るような大の男ですら投げ飛ばす力を持っている。  
そんな彼女がまず受け身の心配をするのは自然といえば自然のことであった。  
しかしまあ、ティムにとっては不自然といえば不自然のことであったかもしれない。  
 
「さむいんだから、しかたないじゃん」  
ぽつりと言って手はそのままポケットに突っ込んだままにしていた。  
 
ゆかりはそのティムを見て、自然に手を差し出した。  
「はい」  
「……なにその手」  
ティムは首だけで振り返り、その手を眺めて、興味のなさそうな顔で聞き返した。  
「わたしの手、暖かいですよ。中で暖めてましたから」  
「……やだよそんなの、恥ずかしいもん」  
ティムはそう言うと顔を前に戻し、首をすぼめて歩き続けた。  
む、かわいくない。これが反抗期というものかしら。  
ゆかりは、寒い中に放り出した自分の手をこのままひっこめるのもしゃくだと思った。  
人の好意を素直に受け取らないなんて、もう。  
少し前を歩くティムの後頭部を見ていると、いいことを思いついた。  
その頭にくっついている、赤くなってしまっている小さな耳に、ほかほかした両手を重ねた。  
ゆかりがティムの耳を両手で包むようにすると、ティムの体がびくっとした。  
小さな耳はやはり、かたく冷たい。  
 
「暖かいでしょう」  
自分の手が耳をふさいでしまっていて聞こえてないのかわからないが、  
ティムは返事もせずにそれを押しのけようとした。  
ゆかりは後ろに伸びてきたその手を掴み、ぎゅっと握りなおして、それから手をつないで歩いていった。  
最初は冷たかったティムの手も、ゆかりの手の熱が移って段々と暖かくなっていった。  
ゆかりが微笑みかけると、ティムは恥ずかしそうにぷいと横を向いた。  
それでも二人が家に着くまで、ティムがゆかりの手を離すことは無かった。  
 
 
 
2 家庭教師  
 
暖炉にくべられた石炭は静かにその身を燃やし、石で作られた煙突と壁と部屋全体を暖める。  
ティム・ダーヴァレイは上唇を突き出して、ティーカップの中の紅茶をすすった。  
熱い。  
舌がやけどしそうなほど熱いけれど、今はその熱さがありがたいと思った。  
今まで北風が吹きすさぶ外を歩いてきたのだ。  
ゆかりに強引に握られていた右手だけはぽかぽかと暖かかったが、やはり室内に入ると  
その暖かさで、逆説的に外の寒さがわかる。  
その寒い中へ買い物に行って帰ってくるのは、寒いのが嫌いな彼にとってはなかなか  
大変なことだったが、それでもその中にずっと立ち尽くす羽目になった老人を見ると、  
自分の境遇はまだましだったと思わざるを得ない。  
ティムは、神様から命を受け取るように大事に紅茶をすする、自分の家庭教師を見た。  
 
マーロットはショウガの入った温かい紅茶――普通なら熱すぎるほどの温度に淹れられたもの――を一口すすると  
「生き返るようじゃ……ほんとうに、生き返るようじゃ……」  
と、心からそう思っているような声を出し、しわだらけの顔のしわをさらに深めて、  
顔中が鼻をかんだ後のハンカチのようにしわくちゃになった。  
「よかったねぇ、しななくて」  
ティムも自分のティーカップをすすり、老人の九死一生を喜ぶ。  
死にそうな顔をしてなかなか死なないものだと、なかば本気で感心した。  
「本当に、申し訳ありませんでした」  
ゆかりはその二人の間で、平身低頭、先ほどから謝り続けている。  
両手を体の前で組んで、ほとんど頭と膝こぞうがくっつくまでに体を折り、  
白いヘアバンドに押さえられていない部分の黒髪が逆立って、床に向かって垂れ下がっている。  
奇矯なあやつり人形のする礼のように、ゆかりはとにかく頭を下げ続けた。  
英国人が――特に女性が――人にわびるために、軽く体を折ることはあっても、  
これほど「頭を下げる」ことはほとんどない。  
これはおそらくユカリの国のやりかたを、自然と思い出しているか、体が覚えていたのだろう。  
あとで聞いてみようとティムは思う。  
ゆかりは他の誰に聞かれても思い出せないようなことを、ティムがたずねるとすらすらと、  
忘れていたことを忘れているかのように話し、記憶を取り戻すことがある。  
そうやって、ゆかりが記憶を取り戻す手伝いをするのがこの家でのティムの役目だった。  
ゆかり沈痛な表情で、何度も何度も頭を下げている。  
彼女が頭を下げるたびに、黒く重たいスカートの裾と、エプロン白いリボンが揺れて、  
ティムはなんとなく面白く感じて、ずっとそれを見ていた。  
 
「よかった……生きてて……わしゃあ……ここで死ぬかと……ばあさんよう……」  
マーロットは心から自分が生きていることを喜んでいるようであった。  
なぜこの老人がこうなったかという顛末は、以下のとおりである。  
ティムはたまに、自分の家のメイドのまぬけさ加減に頭がほんとうに痛くなることがある。  
 
ずっと歩いていってティムの手があったまり、ほんのり汗ばんだくらいで、二人は家についた。  
ゆかりは、家の玄関の前に人影があるのに気づいた。  
その人影はどうやら男であるようだ。  
間違いなく自分の家の前で、小刻みに震えている。  
怪しい――  
ゆかりはぎゅっと、ティムの手を握る力を強めた。  
 
が、その気構えは人影の正体がわかると同時に、すぐに解かれた。  
人影の正体はティムの家庭教師、マーロット翁であった。  
「ユユユユユユユユユユユユユユユユ、ユカリちゃん……」  
震えている。  
顔色は土気色をしてほとんど生気は無く、彼が蝋人形だといえば100人中50人は信じたろうし、  
彼がすでに往生した、神に召された身であると言えば、100人中90人は信じたろう。  
「ど、どうしたんですか先生!!まるで死人みたいな顔色ですよ!」  
「どどどどど、どうしたもこうしたも……」  
マーロットは口がうまく回らずに、何とか喋ろうとしているようだが、  
その努力は自慢の口ひげを震わせて、隙間風のような音を鳴らすだけで終わっている。  
まさかこの寒空の中でずっと立ち尽くしていたのだろうか、  
マーロットはいかにも寒空の中でずっと立ち尽くしていた人のように棒のような体を震わせているし、  
口からカチカチと音がなるのは歯の根があっていないせいだろう。  
「きょきょきょきょうは……」  
「ハイ、きょきょきょきょきょうがどうしたんですか!?」  
ゆかりは震える口ひげとあごひげの間から、なんとかマーロットの言葉を聞き取ろうと耳を近づけた。  
「おおおおお、遅れるだけで、じゅじゅじゅ、授業自体は、あると言ったじゃ、  
じゃじゃ、ろう、ろうろうろう」  
「はい、おおおおお、遅れるだけでじゅじゅじゅ授業自体はあると……なんですって?」  
ゆかりはティムを見た。  
ティムは呆れ顔でこちらを見返している。  
「言ったじゃん、だから。家にかぎかけちゃっていいのか、って」  
 
ゆかりはまだティムを見ている。  
「そうしたらユカリ『何言ってるんですか、最近物騒なんですよ。特に戸締りには気をつけないと』って、指差しかくにんまでして出ていったんじゃん」  
「とととととと、とうし、とうしする、るるる、ところ、ろろろ、じゃった、たたた」  
ゆかりは、たっぷりと間をおいて、さも今思い出したという風情で、手を打った。  
 
くべられた石炭がごうごう燃える暖炉の上で、亡き母が笑っている。  
「いやぁ、あやうく先生もママのところに行くところだったね」  
「……申し訳ありませんでしたってば」  
マーロットはが両手で持ったティーカップをあおるように飲み干すと、  
そのふさふさした髭の間から、長い長いため息が吐き出された。  
「ああ、生き返った」  
まったく文字通りの意味だとティムは思った。  
「せ、先生、もう一杯いかがです?」  
ゆかりはぎこちない笑顔でマーロットの手からカップを受け取り、ポットから茶を注いだ。  
笑ってごまかすのはゆかりの得意技だな、とティムは思ったが言わなかった。  
 
二杯目の紅茶を半分ほど飲んでから、マーロットはようやくこちらを向いて喋りだした。  
「さてと、ティム坊、遅くなってしまったが授業を始めようか。宿題はやってあるかの」  
「うん、ばっちり」  
ティムは自信満々で持っていた紙を広げた。  
インドを含むアジアやアフリカ、オーストラリアなどさまざまな地域が赤色に塗られた世界地図が、  
机の上に勢いよく広げられた。  
左右どちらも180度までの緯度が、イギリスを中心に広がっている。  
もとは全てがまっしろな世界地図だったが、イギリスの勢力の及ぶ範囲を赤色で塗っていくと、  
それぞれが飛び飛びではあるけれど、ほとんど世界中の大陸にクレヨンの赤が塗られた。  
マーロットはそれを西から東、北から南に、メガネの奥を光らせて眺めた。  
「うん、ようできとる」  
「へへ、じつはパパにすこし手伝ってもらっちゃった」  
マーロットは胸ポケットに差し込まれた、年季の入った万年筆を取り出し、手帳になにやら書き付けた。  
「ティム坊、今日はまず一つマル……と」  
学校のように成績表をつけるわけではないだろうに、彼はそうして日々のことを記録している。  
マメといえばマメなことだ。  
手帳をしまうと、マーロットは所々まだらに赤くなった地図に視線を戻した。  
それにしてもよくもこれほど世界中に勢力を伸ばしたものだ。  
世界一の帝国の名は伊達ではない。  
今となってはけっこうな昔に、一人の技師が、ストーブの上のやかんから発想した機関が  
鉄道になり船になり、船は軍艦にもなって、大英帝国の隆盛を作った。  
全てはひとつのやかんから始まったといっても過言ではない。  
サー・アイザック・ニュートンの頃から、この国の人間は別のものから何かを発想する能力と、  
その発想を現実の形にする能力に長けているのかもしれない。  
やかんから始まった革命はイギリスを変え、お向かいの国フランスを変え、  
そのおとなりの国やら親戚の国やらを変えヨーロッパを変え、世界を変えた。  
煙を吐く鉄の船はあっという間に世界を駆け巡り、こうして世界中の人や物、  
珍しい文物がこのイギリスに、さらにはその首都ロンドンに集められてくるのだ。  
というようなことを、マーロットは言った。  
どうやらこれが今日の授業の内容であるらしかった。  
 
「これはおそろしく不遜な言い方になってしまうが」  
とマーロットは前置きをしてから言った。  
「紀元2世紀ごろの世界の中心がローマ帝国であったとするならば、  
現代に於いてその地位は間違いなくこの英帝国ということになるじゃろうよ」  
その言葉はティムには素晴らしく誇らしいものに聞こえたが、マーロットはなぜか  
あまり嬉しくないような顔をしていた。  
「今日、この大英帝国には、物が溢れ人が溢れ、金が溢れておる。じゃが、それがいいことか悪いことか、  
 最近、わしにはよくわからなくなってきた」  
「……どういうこと?お金も物も、人だって、ないよりあるほうがいいし、いろんな人がいたほうが、楽しいじゃない」  
ティムにはマーロットが言っている意味がよくわからなかった。  
マーロットが嘆いていることについてはよくわからないが、ティムはこの国が豊かでよかったと思っていた。  
豊かであればこそ、インドやチャイナのものが買えるし、それはどれも素晴らしいものだ。  
どこに嘆くところがあるのだろう、簡単な話じゃないか。  
お茶に砂糖が入れば甘い、幸せ。  
イギリスが豊かだ、ってことは、そういうことだろう。  
「そうじゃな、たしかにアジアから入ってくる品物はわし達の生活を豊かにしてくれるかもしれん。  
 しかし、精神においてはどうじゃ」  
「せいしん……?」  
マーロットはしわしわの手の中の、同じように年季の入った古い万年筆を握りなおした。  
 
マーロットはまず、地図の右端にある小さな島――これはティムも覚えた――に指を置いた。  
そこに赤色は塗られていない。  
「……ニホンだね」  
そこから指を南西にすっと動かし、小さな島と半島があるところで止めた。  
「それは……どこ?」  
「香港じゃよ」  
「ホンコン?」  
「うむ、まだわしが若い頃にこの島はイギリスのものとなった」  
「それって……何十年前?」  
マーロットが「若い頃」?そんなことがありえたのだろうか。とても信じられない。  
「そうさのう、ざっと50年ほど前かのう」  
「そりゃまた、ずいぶんと……古い話だね」  
「そう、古い話じゃ。しかし今思えばあれが一つの別れ道じゃった。あの頃のわしは、そんなことは思いもよらなんだがのう」  
マーロットは遠くを見ている。  
若い頃を思い出しているのかもしれない。  
今日のマーロットは何か変だと思う。  
死にかけて、なにかが脳に来たのだろうか。  
「ふぅん、まあいいじゃんいいじゃん、そんなむかしの話は」  
そういったティムの言葉に、マーロットは視線を伏せた。  
小さなため息をついた後、伏せた視線をティムに向け、ゆっくりと話し始めた。  
「昔の話か。そうさの。たしかにティム坊にとっては大昔の話じゃろう。  
 何しろ自分が生まれて今まで生きた5倍の長さも昔の話じゃ。  
 だがな、わしにとっては、一続きの話なのじゃ。あの日受け取った新聞の浮かれた記事と、  
 今日のイギリスはずっと地続きで、どこも途切れてはおらんのじゃ。それを――  
 ――それをティム坊、わかって欲しいんじゃよ」  
マーロットは、ティムを見つめるようにして言った。  
ティムはその瞳の奥に、確かにこの老人がたくましい青年だった頃をかいま見たような気がした。  
そのころもイギリスは、その国家的視点を世界に向け、着々と国力を強め、  
世界にその勢力を伸ばそうとしていたはずだ。  
おそらくマーロットも若い頃、その野心を自分の物として、この国が強くなるほどに喜び、  
その力に同調して、世界に覇を唱えんとする、世界の中心になろうとするこの国に、強い誇りを感じていたのだろう。  
しかしなぜか今、それを、誇りというよりも何か疎ましいもののように感じている、  
マーロットが話したことと、それよりも、マーロットが自分を見つめる目から、  
ティムはそんなふうに感じた。  
 
それはやはり自分には釈然としなかったが、釈然としないのと同じくらい、  
マーロットの気持ちが伝わるような気もした。  
ティムはマーロットの目を見たまま、小さなあごをこくりと傾けた。  
 
「この国は、強い」  
マーロットは諭すような口調で言葉を繋げた。  
「そのことを、お前は誇りに思っていい。それは、ティム坊の父さんや、さらにはそのお父さん、  
 ずっとずっと、連綿と続くこの国の人たちが賢明に頑張ってきた、努力のその結実じゃ。  
 だからそのことは誇りに思えばよい。けれど……」  
「この国は、強くなりすぎたのかもしれん」  
マーロットは視線を落として、何かを諦めるように、ため息をついた。  
 
 
 
3 首のない男  
 
玄関の方から、ごつごつというノックの音が聞こえた。  
「……はーい」  
ゆかりは台所で大きな鉄製のコンロ――キチナーと呼ばれるやつ――を前に、  
夕食の準備にいそしんでいたところだった。  
外はもうずいぶんと暗くなっている。こんな時間になんだろう。  
あとはもうスープを温めて豚肉をゆでるだけで夕食はほとんど仕上がるというのに。  
めくり上げていた袖を下ろし、外してたカラーをつける。  
帰ったばかりの台所は寒かったが、こんろに火を入れるとすぐに暖かくなった。  
おまけにその前に立って鍋を振ったりしていたのだ。  
エプロンはまあ、このままでいいだろう。こんな時間に前触れのない来客だ。  
わざわざ来客用の、フリルの装飾がついたものに着替える必要もないだろう。  
……めんどくさいし。  
 
ゆかりが廊下に出たあたりで、ノックの音がもう一度響いた。  
せっかちな人だな。郵便配達夫が速達か電報でも持ってきたのかもしれない。  
主人の仕事場へ届くべき書類や手紙が、こちらへ届いてしまうことがたまにある。  
「ちょっと待ってね郵便屋さん……」  
しかしゆかりが扉を開けた先に立っていたのは、立派な身なりと体格の、太った男だった。  
服はその体をぎゅうぎゅうに押し込めたようにみっちり膨らんでいて、ほっぺたは今にも  
落ちてしまいそうなほどたるんでおり、なによりゆかりが驚いたのは、その首がほとんど見当たらない――  
無いわけではないのだろうが、ぜい肉がつきすぎて首と顔と体に段差がないのだった。  
「申し訳ありません、お待たせしました……ええと、あの……」  
ゆかりは遠慮がちに大柄の男の様子を眺めた。  
天辺の丸い帽子をかぶった男は、牛乳瓶の底のような分厚くまんまるい眼鏡をかけていて、  
右手には大きな革のトランクをさげていた。  
「どのような、御用向きでしょうか」  
首のない男は、顔を満面の笑みに固めたまま山高帽を少し持ち上げると、  
不気味に吊りあがった三日月みたいな口を動かした。  
「おや、これは可愛らしいお嬢ちゃんだ。奥様に取り次いでいただけるかい?」  
この家に奥様はいない。ずっと昔に亡くなってしまっている。  
「……あの、どのような御用向きでしょうか」  
ゆかりは猜疑心を隠さずに男を見たが、男は鈍感なのか神経が太いのか、視線を気にしていない様子だった。  
「それにしても可愛らしいお嬢さんだ。シナ人かい?」  
「いえ、私は日本人です。あの……」  
「へぇ、ニホン!珍しい!そうか、ウタマロの国だな。そりゃあ美人が多いはずだよ」  
「あの、我が家にどのような御用件でしょうか。それを伺わなければお通しする事は――」  
『我が家』ということを自分で言って、ゆかりは少し嬉しいような、誇らしいような気持ちを感じた。  
間違ってないのよね、べつに。  
心の中でもう一度確かめて、もう一度強く言った。  
「お客様、我が家に一体どのような――」  
「うるさいなぁ、いいから早く中に入れてよ。寒いんだよこっちだって。  
 僕が話したいのは下女なんかじゃないんだよ。わからないかな?」  
男は今までと変わらない笑顔で、無遠慮にそういった。  
 
「な――」  
ゆかりは途中で言葉を止めた。怒りよりも早く、背中にぞっとするものを感じたのだ。  
太った男の、頬肉に埋もれるような細い目だけが笑っていないのだった。  
 
怒りというよりも気味悪さを、人ならぬ妖怪のような不気味さを、ゆかりはその男から感じた。  
「ま、とりあえず話だけでもさ。聞いてくれたっていいじゃない」  
「しかし――」  
今は客間をマーロットが授業に使っている。  
まさかこの、正体のわからぬ男を居間に通すわけにも行かない。  
やはりここは帰っていただこう、主人――ティムの父、ジョン――の、仕事の関係ならば  
まず家より事務所のほうへ話をしにいくのが筋だろう。  
「申し訳ありませんが、お客様――」  
 
「おお、これはこれは、ご主人様ですかな」  
ゆかりが頭を下げようとしたとき、太った男は声の調子を上げた。  
振り返ると、マーロットが玄関ホールまで出てきていた。  
「先生、どうしたんですか」  
「わしらならかまわんよ。訪問販売の手合いじゃろう。これも勉強になる。お通しして差し上げなさい」  
マーロットはそう言ったが、ゆかりは何となく嫌なものをこの男から感じ取っていた。  
段差のない首、厚く丸い眼鏡、笑わない細い目――すべてがゆかりに嫌悪感を持たせたが、  
それよりも強く感じていたのは、表層でない、もっと深いところから湧き上がるような、  
強烈なものだった。  
 
例えて言うなら清掃のなっていない厠のような――見えるところの汚れは、確かに汚いが、  
この男はさらに深いところに汚いものを持っていて、それを必死で隠そうとしている、  
そんな感覚をゆかりはもったが、確信のないことなのであまり強く反発するのもためらわれた。  
「先生がよろしいのでしたら……」  
「ああきみ、わしはこの家の主人じゃないが、かまわんよ。あがりなさい」  
「よろしいので?それはそれは、たいへんありがたく存じます。では、失礼して」  
男は山高帽を外し、中に入るマーロットについていった。  
髪は東洋人のように黒く、禿げて、脂ぎった地肌が見えていた。  
男は小さく何かを呟きながら、帽子をゆかりに投げるようにして渡した。  
 
ゆかりはその呟きを聞いて、最初は意味をつかみそこねた。  
男はこう言ったのだ。  
「黄色く、汚さないでくれよ」  
ゆかりを見下ろして、そう言ったのだった。  
――あの細い目で!  
ゆかりはカッと頭に血が上るのを感じたが、男の、分厚いグラスの奥の細い目を思い出すと、  
怒りが気持ち悪さに変わって、吐き気のような感情を覚えた。  
 
ゆかりが新しい茶を入れたポットを客間に持っていくと、太った男は見かけにあわない  
冗舌さで、マーロットを――傍らにはティムもいる――相手に、べらべらと勢いよく喋っていた。  
「――ですから、こちらの商品は、お若い方から御老人まで、どの年代の方にでもオススメできる  
 大変素晴らしいものでございまして、かのマリー・アントワネット妃もこちらの商品を  
 お使いになられていましたとかいうお話も残ってございます。どうですか、先生、  
 こちらの商品、奥様に」  
 
マーロットは返事をする代わりに、興味なさそうに瞬きをした。  
「あ、左様でございますか、そうでしたら、お次はこちらの商品なんかはいかがでしょう。  
効果抜群、痩身クリーム」  
マーロットの無反応に男は一瞬むっとしたようだが、めげずにトランクから商品を取り出して続けた。  
ティムがつまらなそうにあくびをした。  
暖炉の前に座った男は、暑すぎるのか、体じゅうから大粒の汗を流している。  
ゆかりが茶を渡すと、目もくれずにそれをうけとり、一口すすって  
「熱っ」  
と舌を出した。  
 
マーロットに茶を出すと、耳に口を寄せて、話しかけてきた。  
「化粧品のセールスじゃよ。そんなものをわしに売りつけようとしても、無駄だというのがわからんかのう。  
 あんなもの、ばーさんも喜ばんし……そうじゃ、ユカリちゃん、一つ買ってやろうか」  
「御冗談。そんないいもの頂けませんし、買っていただくなら、この人でない、別の人からにしますよ」  
ティムは横で、眠たそうに話を聞いている。  
男はそれを見て、鳥肌の立つような猫なで声でティムに聞いた。  
「ごめんねボク、ボクにはちょっとつまらないお話だよね。ぼくのお母さんは、いつ帰ってくるのかな?」  
「あ、――その、うちは――」  
ティムは視線をあっちにやったりこっちにやったり、なんと答えてよいか困っている様子だった。  
 
「お前さん、そんな良いクリームがあるのならまずは自分の体に塗ったらどうじゃ。  
 おぬし、若いのに太りすぎじゃ」  
意外と自分の体型を気にしていたのか、マーロットがいったその言葉に、  
男はさらに激しく汗をかき、体を震わせた。  
「ハ、はぁ。ですがこちらのクリームはご婦人用でして……」  
男のこめかみに青筋が浮き、小刻みに震えているのをゆかりは見た。  
どうやら怒っているようだ。  
さっさと帰ればいいのに。  
 
男は暖炉の上にある美しい女性――ティムの母――の写真を仰々しく手に取り、  
「こちらが宅の奥様ですか?いや、お美しいですなぁ。これならこのクリームは必要なさそうだ」  
と、あからさまな世辞を言った。  
「いやぁ、ほんとにお美しい――」  
男は、汗と油でベタベタした水ぶくれのような手で、無遠慮に写真立てを触っている。  
触るたびに男の丸い指紋が、薄いガラスの上に貼りついた。  
 
「このような方ばかりですと、私は商売上がったりですなぁ――」  
男が人差し指で、写真の顔に触ると、油で顔が見えなくなった。  
ゆかりはそれがたまらなく嫌で、男の手から写真を奪い取るようにした。  
いや、事実、奪った。  
「な、なんだ、無礼な――!」  
男は鼻の脂で滑り落ちた眼鏡を、太い指で器用に上げ、目を剥いた。  
「無礼はどちらですか、汚れた手でずっとベタベタと触り、大切な写真を油まみれにして!」  
ゆかりはきっぱりと言った。  
 
「げ、げ、下女ふぜいが客にそんな口を聞くのか!この――」  
「やめんか、見苦しい」  
マーロットが重々しく口を開いた。  
ゆかりも男も、動きを止めた。  
「大の男がそんなに取り乱すものではない。それからユカリちゃん――」  
「は、はい」  
「言動がどうであれ、今この人は君にとって客じゃ。それに対する無礼な振る舞いは――良くない」  
「ですが、先生」  
「謝らねばならん。……できるね?」  
珍しくもマーロットは、強い口調でゆかりにそう言った。  
ゆかりは強い抵抗感を覚えながらも、どうにか頭を下げた。  
「……はい、申し訳ありませんでした」  
 
写真立てを暖炉の上に戻す。  
写真の中の美しい女性は、変わらない表情で微笑みかけている。  
優しい笑みだ。  
ティムは笑うとき、この表情そっくりに可愛らしく笑う。  
目を細めて、口もとを広げ、ティムの場合、そこから小さく白い歯がこぼれることも多い。  
ゆかりはそれを思い出して、少し心を落ち着けた。  
 
「……ごめんなさい、おじさん。でもね、ほんとにあの写真は大切なものなんだ。  
 ぼくの、おかあさんの――」  
男は興奮が冷め切っていない様子で、鼻息を荒くしていた。  
「一昔前ならいざ知らず、写真なんて今時いくらでも撮れるじゃないか。  
また撮ったらいいだろう。その写真も、少し古いようだし」  
「それが、できないんだ」  
「なぜ?」  
 
――なんという鈍感な男だろう!!  
ゆかりはそう思っていたが、マーロットに諌められたこともあって、口に出しては言わなかった。  
ティムは視線を下げたままで、  
「ぼくが生まれるときに――しんじゃってて、もういないんだ。ママ」  
眉の根を寄せて、悲しそうに笑って言った。  
ゆかりはその表情を見て、たまらない気持ちになった。  
 
だが男はそれを聞いて、急にむすっとした表情をした。  
分厚い唇を突き出し、いままでずっと浮かべていた愛想笑いもやめてしまっている。  
下唇を突き出して、眼鏡は丸く、首もなく、それはまるで気味の悪いぬるぬるの  
深海魚のような顔だった。  
「なんだよ――」  
男は、苛立った声でそう言い、薄い髪をぐじゃぐじゃっと掻き乱した。  
「いないならいないって、早く言えよ。しつこくして損したじゃないか」  
 
男はあからさまに態度を悪くし、口も汚くなった。  
椅子に座った腰をずりさげ、大きな腹を突き出している。  
「まったく、それならここに居る意味は無いな。帰るわ。コートと帽子」  
男は、ここに居るのが老人と子供と少女だけということを思って、これほど尊大な態度をとっているのかもしれない。  
「おら、コートと帽子だよ、はやくしろよ、黄色い女」  
男の言葉に、マーロットが顔をしかめた。  
「お主いいかげんに――」  
「うるせえなじじい。黙ってろよ。無駄足踏ませやがって」  
 
男が喋るたびに、頬肉がぶるぶると揺れていた。  
ゆかりは自分がなにを言われようと平気だった。  
この男の人間性は虫にも劣る。  
ずっと感じていたのは、愛想笑いを浮かべ続けても消しきれない、愚かな精神性の臭さだった。  
それがわかった今、憤りや気味悪さより、むしろ納得したような気持ちが現れていた。  
ゆかりは自分がなにを言われても――男に対する哀れみは多少あっても――  
憤りや、憤懣を感じることは無かった。  
しかし、強い憤りを感じている者も、いた。  
 
「……いうな」  
「ん、なんか言ったかガキ」  
「二人にひどいこと、言うなよ」  
ティムが椅子から降りて、太った男の目の前に立っていた。  
「二人にあやまれ。いますぐあやまれ」  
男の前に立ち、強い目で睨みつけている。  
そこにはいつもの優しい顔をした、母親に似た少年のティムはおらず、  
唇を一文字に結んで、眉を鷲の羽のように吊り上げているその表情は、むしろ父親の顔に似ていた。  
ティム・ダーヴァレイという男がそこに居るのだと、ゆかりは思った。  
 
「失礼なガキだな。なんで俺が謝らなきゃいけねえんだ。本当のことを言ってるだけじゃねえか  
そいつは下女で、しかも黄色だ。そいつに俺が謝るのか?」  
男は細い目をティムに向けた。  
喋るたびに口元からつばを飛ばしている。  
「坊ちゃま――」  
ゆかりはティムを止めようとした。  
自分のことは何を言われても気にならない。  
そう伝えようとしたのだ。  
 
「全くなんなんだこの家は。無礼な下女に失礼なガキ、やっぱり親無しはこうなっちまうのかね!  
 息子の教育もせずに死んじまうとは、罪作りな親だ!」  
男は大きな声で、がなるように言葉を続けた。  
その口は憎らしいほどに速く動いて、ゆかりが止めに入るのを許さなかった。  
ティムの表情が、こわばっていた。  
「いや、むしろ、俺にとっちゃあ死んでくれてて良かったかもな、どうせあの貧相な身なりじゃ、  
 化粧品なんてろくに買えやしなかったろうから――」  
 
ティムの目から、大粒の涙がこぼれだした。  
頬に一筋、ふた筋と、涙は次々と流れ出ている。  
男はそれを意に介さず喋り続けている。  
ティムは涙をこぼしながら、しかし、男から視線を外さず、声も上げなかった。  
ひとり肩を震わせ、こぶしを握り締め、ただ黙って男をにらみつけている。  
 
ゆかりには、ティムの気持ちが手に取るようにわかった。  
いま自分ができるのは、ただそれだけなのだとわかっているのだ。  
他には何もできない。  
男を殴りつけることも、理路整然と立ち退きを求めることも――  
自分には何もできないと、わかっているのだろう。  
わかっているから、ただ泣き続けて、立ち尽くしているのだ。  
その悔しさと、悲しさに襲われながらも、それでも負けずに、男をずっと睨み続けている。  
「おら、どけよ坊主。うわ、なんだよ、汚ねえな」  
男は立ち上がり、ティムを疎ましそうに押しのけた。  
 
ゆかりは自分の中でなにかがはじけるのを感じた。  
 
 
「いい加減にしなさい」  
低く鋭い声。  
まるで自分の声ではないような、そんな声が出た。  
「なんだ――」  
うねるような感情の奔流に身を任せると、体が自然に動いた。  
身が怒りで燃えそうなほど熱くたぎっているのに、頭は氷をのせたように冷たく冷静で、  
自分がなにをすればいいのか、すべてわかる。  
世界から音が消えた。  
 
ひさしぶりの感覚だ。  
この世界の中で、私は誰よりも速く動ける。  
それを私は知っている。  
けれどなかなか、思い出すことができない。  
それが悔しいとも思うけど、いまはただ、男への怒りがゆかりを支配している。  
 
一歩、机にあった万年筆を手に取る。しっかりとした重みが手の中に入った。  
二歩、キャップを外し、逆手に持つ。キャップはするりと外れ、手から滑る様に落ちていく。  
握り締めた万年筆の尻を、親指で蓋して、手中でしっかりと固定する。  
三歩、男の体に潜り込み、ペン先を、喉に――。  
万年筆の鋭い筆先が、男の喉仏寸前できらめいている。  
 
動いたのはたったの三歩だけだった。  
その三歩でゆかりは男の体を制した。  
万年筆の筆先が男の喉にあてがわれ二人の動きが止まったのと、外したキャップが床に落ちて転がったのは、  
ほとんど同時だった。  
 
「――!!」  
男は言葉を途中で止めた。  
ぐっ、と力を込めると、万年筆の先が、すこし男の喉を刺した。  
血は出ていない。  
「いい加減にしろ、と言った。下郎」  
言葉すら、自分の意思でないように感じるが、自分の口から出ている。  
ゆかりは自分の中に、確かに異質な、しかし同質な、青い炎のようなものを感じていた。  
自分でないようだが、これも確かに自分だ。  
そのどちらにも確信がもてる。  
そのことを、不思議だとも思わない。  
ただ今はこの男が許せない。  
意識はそう言っている。  
 
体を密着させるように近づくと、男はその分、大きな体をあとずらせた。  
男の汗が冷たくなっているのがわかった。  
「ぺらぺらと、よく喋る口だな……」  
自分の中の青い炎が揺れた。  
手に力を込める。  
万年筆が喉に深く食い込む。  
ぜい肉がたゆんで、筆先はめり込むように男の喉に沈んでいく。  
もう少し力を入れると皮膚が破ける。  
その感触がわかった。  
 
「そのよく動く口は、人を愚弄するためだけにあるのではなかろう」  
男の体が震えだした。  
冷たい汗が万年筆をたどって、ゆかりの掌に届いた。  
男は口を半開きにしたまま、みじろぎひとつしない。  
いや、ゆかりがさせていないのだ。  
牙が喉に食い込んでいる。  
狼が首筋に噛み付いているようなものだ。あとは力強く噛みこむだけで、獲物は死ぬ。  
男はゆかりの言葉に、反応を見せない。  
体の震えは、膝へ、足首へ、いまや頭からつま先まで男のからだ全体がガクガク震えている。  
 
「私の言ってることがわからないか」  
「わへ、へ、へぇ」  
男は空気の漏れた皮袋みたいな声を出した。  
 
「そのよく動く口で先生と坊ちゃまに詫びて、さっさと出て行けと言っているっ!」  
一喝した。  
万年筆を持った右手の肘で男の体を押すと、男は無様に尻餅をついた。  
 
男は両手でずりずりと体を後ろへ持っていく。  
じゅ、という音がした。  
男が手を置いたところには暖炉があった。  
「あち、あぢぃ」  
男は身を起こし翻すと、逃げるように這うようにして客間を出て行った。  
その大きな尻は、農場の豚を思わせた。  
「詫びろ!」  
「……す、すいませんでしたぁー……」  
泣き声のような叫びが玄関から聞こえ、次に扉の閉まる音が響いた。  
 
 
「うぇ」  
鼻から抜けるような声が聞こえた。  
振り向いたら、ティムがさっきからと同じ体勢で固まっていた。  
「坊ちゃま――」  
ゆかりがそう声をかけた瞬間、  
「うぇええええええええええ、えええ、ええええええええええええええ」  
ティムの両目から噴き出すように涙が流れ出し、大きな声を上げて泣いた。  
 
「ああ、坊ちゃま。おいたわしい、どうか泣き止んでください――」  
「だって、だっでぇ……!」  
やはりあの男に言われたのが、悔しく、悲しかったのだろう。  
ゆかりはポケットからハンカチを取り出し涙を拭いたが、涙は次々と溢れ出して止まらない。  
 
「ユカリが、怖かったんだもんん……!」  
ん?  
ゆかりは手を止めた。  
 
「ほんとに刺して、ころしちゃうかと……!」  
ティムは泣きながら、途切れ途切れに喋っている。  
 
「い、いやだなあ坊ちゃまったら、私がそんなことするわけ無いじゃないですか。  
 ねえ先生――?」  
ゆかりがマーロットの方を見ると、マーロットはソファの陰に隠れていた。  
「ゆ、ユカリちゃん、わしも少し、怖かったわい」  
 
「せ、先生までなんですか!あれは、刺す、って言うよりむしろ、急所を抑えてるぞ、っていう、  
 心理的な効果で人を固める技術で……!まあ、本当は紙の扇を使う技ですから、  
 あの鋭利な万年筆では多少、効果がすぎる部分もあったかもしれませんが……  
 古流には、ああいう荒々しい技がけっこう残ってるんです。講道館の技にはありませんが」  
 
ゆかりは、そう説明したが、どれだけ納得してもらえたかはわからない。  
あれは人を制するための技で、殺傷するための技ではない、と。  
……誰に教わったのだろう、それは思い出せなかったが。  
 
 
「……ユカリ、忘れないうちに今のノートに書いておきなね」  
ティムはようやく泣きやんだあとに、そう言った。  
ゆかりはひょっこり思い出した記憶を、また忘れてしまわないうちに、ノートに書き記しておくことになっている。  
「はいはい、わかりましたよ」  
ゆかりは赤くなったティムの頬を拭きながら、微笑んで返事をした。  
 
「坊ちゃま」  
「イック……なに」  
「ありがとうございます、さっき」  
「……なにが」  
「『謝れ』、って、言ってくれて」  
「だって、あいつ、ふたりにひどいこと――」  
「わたしはあんなの気にしませんよ。それよりも、坊ちゃまこそ」  
「……なに」  
「ひどいこと言われて、嫌な思いをされたじゃないですか。私は坊ちゃまが嫌な思いをなされるのが、  
 一番嫌なんです」  
「そんな、ぼくだって――」  
「でも」  
「?」  
「でも、ありがとうございました。坊ちゃまがああ言ってくれて、本当は――嬉しかったんです。……すごく」  
そう言うと、ティムは少し照れたような顔をして、目をそらした。  
 
「なんでもないよ、あんなの。ユカリに比べれば」  
「そんなことないですよ。勇気のいることです」  
本当にこの坊ちゃまは私を驚かせてくれる。  
いつもは優しく、柔和な笑顔を見せてくれるのに、怒ったときのりりしい表情は忘れられない。  
そう思ったら、すぐに泣き出したり、表情がころころ変わる。  
私と先生の為に怒ってくれたとき感じたのは、嬉しさだったのだ。  
ゆかりは新しい紅茶を入れるために、台所へ行った。  
 
 
 
4 先生という人  
 
「ティム坊」  
ソファにうなだれるように座っていたマーロットが声をかけてきた。  
緊張して疲れたのか、目がくぼんでしわが深くなっているように見える。  
「わしは、今のこの国が……情けない。……情けないが……」  
マーロットは体が上下するほどの、大きなため息を吐いた。  
「わしが言ったことが……わかった、ろう」  
 
ティムは思い出した。今日の授業でマーロットが言っていたことを。  
――今日、この大英帝国には、物が溢れ人が溢れ、金が溢れておる。じゃが、それがいいことか悪いことか、  
 最近、わしにはよくわからなくなってきた――  
 
「生活は確かに豊かになった。ずっとイギリスに住み続けとるわしが言うんじゃから間違いはない。  
 しかし、じゃ。精神は、その分だけ、どうしても貧しくなったように感じる」  
あの男の言葉を、思い出すまでも無かった。  
感覚的に、あの男の精神性が醜く汚いものだとわかっている。  
 
「どうして、豊かになるほど卑しくなってしまうんじゃ……」  
マーロットはため息と一緒にそう言い、顔を上げた。  
 
「ティム坊」  
マーロットは、ことさらにゆっくりと、ずっとティムの目を見て言った。  
「強くあれ、しかし驕るな」  
 
マーロットは、ティムの目を見続けている。  
いつもは垂れ下がって眠そうにしている目も丸く開いて、まるで若返った、別人のような表情をしている。  
「弱い者には施せ。弱いものがペニーを求めたらシリングを渡せ。泣く者は黙って見守れ。  
力を持ったら、愛しい者を守るだけに使え」  
ティムはまるで両肩を抱かれているかのような感覚を覚えた。  
真摯に語りかけるマーロットから、視線を外すことができない。  
マーロットは一つ一つ、数えるようにして言葉を紡ぐ。  
 
「それが、英国人がずっと涵養し続けてきた精神――『正義』ということじゃ」  
 
最後に、そう付け加えて、マーロットは口を閉じた。  
ティムは黙って頷いた。  
よくはわからないし、マーロットが伝えようとしたことを全て自分が理解しているか  
正直に言って自信があるわけではないが、理解しようとつとめたし、  
なにか大事なものを今受け取ったような気がした。  
 
「おぬしに――これをやる」  
マーロットは、胸ポケットに入れた万年筆を取り出し、ティムに手渡した。  
万年筆はティムの手のひらの中できらきらと輝いた。  
 
「うわぁ……きれい」  
「螺鈿細工、と言うんじゃ」  
「ラデン?」  
「貝殻の内側を、綺麗に磨いて細工してあるんじゃよ。わしが若い頃に買ったんじゃ」  
「本当にいいの?」  
「ああ、良い。しかし、大事に保管してくれよ。特に、ユカリちゃんの手の届かないようなところにな」  
「なんでさ」  
「武器にされちゃうじゃろ。ユカリちゃんに見つかると」  
マーロットはそう言って、不器用にウインクした。  
 
ティムはその様子がおかしかったので、あっは、と笑った。  
すると。  
ひょこっと扉から顔だけ出して、ゆかりが聞いてきた。  
「先生?」  
「あひゃ、は、はいっ、ユカリちゃん!?」  
「お茶にしようかと思ったんですが、もう遅いですし、夕食にしましょう。一緒に食べていかれるでしょう?」  
「お、おう、食べていくぞよ」  
「……ぞよ?…わかりました。いますぐしますから、少し待ってくださいね」  
「はは、はい、おう、うむ。わかったぞよ」  
ゆかりはぱたぱたと足音を立てて、台所の方へ行った。  
「せんせい、『ぞよ』って……聞いた事ないよそんなの」  
「う、うむ、焦ったわい。しかし」  
そういうとマーロットは、本当に胸を撫で下ろした。  
 
ティムはもらった万年筆をもう一度見た。  
万年筆はティムの手の中できらきらと輝いていた。  
マーロットの気持ちが篭もっているということがティムにはわかった。  
そしてその気持ちにできるだけ答えよう、とも思っていた。  
青い瞳が、万年筆と同じようにきらきらと輝いている。  
 
 
 
5 エピローグ  
 
外は暗く寒いが、ガス灯の光が道なりに点々と続いて、暗さだけは幾分か和らいでいる。  
「ふむ、ユカリちゃん、料理の方も腕を上げたの」  
マーロットの息が白いのは、寒さのせいと、今食べた夕食の暖かさのせいである。  
 
「ありがとうございます。アルマさんにもよろしくお伝えください」  
「おう、ありがとの――ユカリちゃん」  
「はい」  
「今日は、すまなかったのう、わしがあの男を家に上げなければ――」  
「いえ、いいんですよ。私は気にしてませんから」  
「そうか。全く、情けないのう、いい若いもんが、あんな……」  
「気にしてないからいいんですってば。坊ちゃまが、かばってくれましたし」  
「ふむ、今日のティム坊はなかなか立派じゃったな。ユカリちゃん、やつのこと、誉めてやっておいてくれ。  
 ユカリちゃんに誉められたら、一番喜ぶわい」  
「そうですか?……わかりました。夕食食べたあとすぐ眠っちゃいましたから、明日の朝にでも」  
「そうじゃったな、やはり、まだまだ子供じゃわい」  
 
「いえ、でも抱えあげたとき、だいぶ――重くなっていました」  
「そうか。……成長、しとるんじゃのう」  
「ええ、そうですね」  
「――それじゃあ、ユカリちゃん。おやすみ」  
「おやすみなさい。お気をつけて」  
 
ゆかりは小さくため息をついて空を見上げた。  
何か小さいものがゆっくりと振ってくるのが見えた。  
「あ、雪――」  
今年の初雪は、ひらりと掌に乗って、すぐに溶けていった。  
 
今日雪が振ったことを、明日は坊ちゃまに教えよう。  
ゆかりはそう決めて、静かに笑って玄関の扉を閉めた。  
 
 
 
 
 
 
 
                 『霜月の騒動』終わり。  
 
 

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