ここのところ天井ばかり見ていた。  
白い正方形の中に、斜めに線が入っているのがいくつも並んでいる。  
枕元のランプに照らされた船底のような天井が、自分の上にずっと続いている。  
クリスマス、先生の家で夕食を御馳走になった後、大きなプレゼントをもらって  
ちょっと浮かれすぎたのかもしれない。  
そのプレゼントは開いて机に置いてある。  
鼻水が止まらない。胸が勝手にせきをうつ。首を動かすのもつらい。  
視界がぼやけて何を見ても水を通したようにはっきりしない。  
意識がもうろうとする。涙が出そうだ。  
少年、ティム・ダーヴァレイ――10歳は、風邪を引いていた。  
 
いつもは水晶のように澄んでどこまでも見渡せるように青い小さな瞳も、今は熱のせいか  
どんより濁って、どこを見ているのかわからない。  
分不相応なほど大きなそのベッドの中に身を横たえて、ちょうど雪原の下の岩のように  
ふっくらと盛り上がっている。  
家具商を営んでいる父の言うところによると、ダーヴァレイ家具店ではあいにく子供用の  
寝具は取り扱っておらず、  
だが大は小を兼ねるというし、うちで扱っているのはどれも10年や20年程度ではびくともしない  
立派なものなので、寝ているうちに気がつけばぴったりのサイズになるだろう、何せ俺の息子だ。  
ということだった。  
そういうわけで、いまティム・ダーヴァレイは大人用の立派なベッドに、  
小さく熱い豆炭のようなその体を横たえているのだった。  
 
ベッドの横に、ひしゃくのような形をしたアイロン用の小さな石炭入れがある。  
その中には赤々と燃える石炭がはいって、その上にあるこれも小さなミルクパンを温め、  
中のお湯からはつねに湯気がぼんやりと吐き出され続け、見ているとなかなか不思議な気持ちになってくる。  
レンガを敷いたその一式の加湿装置が立てる、こと、こと、という小さな音と  
時々自分の体から出るせきの音だけがこの2、3日ティムが聞いている音のほぼすべてだった。  
 
ぐ。  
とティムは小さく唸った。  
いつの間にか眠ってしまっていたようだ。  
ことさらおぼろげな視界の中で、背伸びをしている誰かの背中が見えた。  
その背中は、自分よりも大きな何かにむかって一生懸命に手を伸ばしている。  
ふっ、はっ、と小さく吐く気合とともに飛び跳ねてその何かに向かっているようだが、  
どうにも世界がぼんやりと白くもやがかって、誰が何をしているのかよくわからない。  
 
目を何度かしばたかせると、そのだんだん視界がすっきりとして、体が跳ねるのに合わせて  
その背中に結ばれた白いエプロンのリボンがぴょんぴょんと動くのがわかった。  
体が跳ねるたびにスカートの裾がゆれ、足首まで隠すブーツのさらにその上までがちらちらと覗く。  
木の床に皮のブーツで跳ねていても驚くほど音が出ないのは、ブーツのかかとが磨り減っているせいではなくて、  
おそらく着地の時に注意深く足首をしならせて衝撃を吸収しているせいだろう。  
今自分の部屋でよくわからないが何かをやろうそしているのは、恐らく家のメイドだろう。  
首元で揃えられた黒髪を揺らしている。  
その髪の向こうに見える地肌は周りのイギリス人と雰囲気が違うし、なによりあの靴底の硬いブーツで、  
音を立てずに飛び跳ねるという芸当が出来そうな人間をティムは彼女の他に知らない。  
「ユ――」  
彼女の名を呼ぼうとして、せきが出た。  
一文字だけ出た声は自分でも驚くほど小さく弱々しかったので、彼女が振り向いたのは  
おそらく名前を呼ばれたからというよりも、自分のせきの音でだろう。  
猫のような鋭さで彼女はこっちを見た。  
低い鼻が顔の中央にちょこんと乗っている。  
唇は薄くやや広がっているが、その色は彼女の生命力を表すように血色よく赤い。  
イギリスは平らだがイギリス人の顔は平らではない。山あり谷あり彫りが深い。  
その中では彼女ののっぺりとして愛嬌のある顔は目立つ。  
その平らなキャンパスの中で何より特徴的なのは、目がこの国の人間と比べて明らかに小さく丸く、濃い。  
青でなく灰でなく緑でなく茶でもない。  
黒。  
自分の抜けるような青――自分ではあまり見ないが――とは明らかに違う質の瞳が、爛々と輝いている。  
黒い服に身を包んでいる黒髪の彼女の瞳は夜の色を閉じ込めたように黒く、美しい。  
「ユカリ――なにしてるの?」  
ダーヴァレイ家のメイドはイギリス人ではなかった。  
ヨーロッパ人ですらない。  
南アフリカ人でも支那人でも印度人でもない。  
姓は田村、名はゆかり。  
彼女は生粋の日本人だった。  
 
彼女が振り向いたおかげでその向こうにあるものが見えた。  
体の奥にあるのは木だ。  
それも見覚えがある。  
おとついまで居間の暖炉の横で晴れがましく立ち尽くしていた、クリスマスツリーだ。  
きれいに飾り付けられたそれは、  
枝と枝の間に銀――色がきれいなのだが、銀かどうかはわからない――の動物の形になっているものや、  
これはけっこう不思議なのだが、うまく枝をかわして木を燃やすことなく自立している  
ろうそくだとかをその身にはべらせて、楽しかったクリスマスの日とまったく変わらない  
様子で自分の部屋にやってきていた。  
 
「起こしてしまいましたか?すいません」  
「こほっ……いや、いいよ。眠ったつもりはなかったんだけど」  
なんとか首だけを向けて話をしているが、やっぱりこれもすこしつらい。  
 
「そろそろこれを片付けようかと思ったんです。でも、なんだかあれだけ苦労して出したものを  
 二、三日だか一週間ですぐに片付けてしまうのもしゃくだな、と思いまして」  
「うん、準備のときは大騒ぎだったもんね……」  
「で、まあ、もう少しここに置いておけば、坊ちゃまも淋しくないでしょう」  
ツリーはろうそくの炎を銀の動物達が反射して、きらきらと輝いている。  
さらにその奥の窓はすっかり暗い。いつの間にかもう夜が来ていた。  
暗い部屋の中できらきらと光るクリスマスツリーは、クリスマスと変わらずに綺麗で美しい。  
「下からここまで抱えて持ってきてくれたの?」  
「ちょぉーっと、重かったですねさすがになかなか」  
木はそれだけで大人一人分の重さはありそうだった。  
 
「それでこれがなかなかつけられなくて、最後に」  
ゆかりがベッド際まで寄って、手の中から見せてくれたのはラッパを吹く天使の像だった。  
布団から手を伸ばしてをれを触ると、陶器製の像はゆかりの手の中で暖かい。  
「……あったかい」  
そう言って笑いかけると、ゆかりもにっこりと笑い返した。  
「いいよいいよ、そんなにちゃんとやらなくても」  
「えー、でも、てっぺんに飾りのないクリスマスツリーなんて、ダテマキのないオセチみたいなものですよ?」  
「なんだいそれ。どういう例えかぼくにはさっぱり……ごほっ」  
胸を打つようにせきが出る。背中が勝手に丸まって、布団の中で体がえびみたいになる。  
ゆかりが慌てて近寄ってきて、拍子に落ちてしまった小さなタオルをもう一度洗面器で濡らし、  
ひたいにかけてくれた。  
「苦しいですか?」  
「……だいじょうぶ、だよ」  
嘘だった。  
頭は痛いし息苦しいし、なんだか気持ち悪くもなってきた。  
「それよりさぁ」  
「はい」  
「そのてんしの像、机に置いておいてよ。いろんな動物はいるのに、人間だけがいないんだ」  
言われてゆかりは机を見た。  
子供にはこれも大きすぎるデスクの上に、小さな動物達が所狭しと並んでいる。  
隅にはその動物達を入れる大きな船が置いてある。  
 
「あ、これ、アルマさんからのプレゼントですね」  
ノアの箱舟という。  
馬やら牛やら鳥やらリスやら猪鹿蝶、さまざまな動物が小さく木や何かで作られて、  
それらが全部「つがい」で入っている。  
それらを組み合わせて遊んだり、広げたり戦わせたり、宗教的な、教育的な玩具として贈られる側だけでなく、  
贈る側にも人気の高い玩具だ。  
蝶はいなかったかもしれない。  
「そう……いろんな動物がいるのに、人間だけがいないんだ。これ」  
『ノアの箱舟』の話は知っている。神様が、洪水を起こして世界を水浸しにしてしまう。  
その箱舟に乗っていた者たちだけが助かって、世界を作ることが出来たんだ。  
「これじゃ……だれも……いなくなって……パパも……ぼくも……」  
ユカリも。と言おうとして、言葉が続かなくなった。  
苦しい。  
くるしいのにねむたい。  
なんだか体中が暑い。熱いのに寒い。寒気がする。  
汗をかいている。冷たい。  
ティムは深い所に沈んでいく感覚を覚えた。  
どこまでも沈んでいく。ひとりで沈んでいく。  
浮遊するような気味の悪さと、暗い海の底に落ちていくような快感が、体を包んでいる。  
人間はどうやら船から落ちてしまったのだ。  
きっとそうだ。  
今までにも増しておぼろげになった感覚の中で、ゆかりがひたいに手を当ててきた。  
さっき置いたばかりの濡れタオルも、もう人肌にぬるくなってしまっているだろう。  
顔がひどく熱い。  
ゆかりの冷たい手が、優しく頬に、ひたいにあてられる。  
気持ちいい。  
 
「――お医者様――」  
ゆかりは手に持っていた天使を落とすように無造作に置いて、駆け出していった。  
 
ゆかりが部屋から出て行くと、急に部屋が静かになった。  
部屋の温度までが下がってしまったようだ。  
玄関の扉が閉まる音が聞こえてきた。  
ゆかりはどうやら医者を呼びに行ったらしい。  
これでこの家には、自分以外の生き物はいなくなってしまった。  
「ユカリ」  
と、名前を呼ぼうとしたが、自分のせきに遮られた。  
呼んだところでもういないのだ。  
まるで大きな船に一人きりで乗っているような――  
ティムは胸に穴を穿たれたような、痛いほど不安な感覚を覚えた。  
胸の前でこぶしを握らなければいけないほど、ひどく胸がいたむ。  
呼吸も苦しいが、これは恐らく風邪のせいではない。  
なによりこの感覚は、懐かしいものでもある。  
ずいぶん久しぶりだ。  
胸の上に漬物石を置かれたような痛みを握り締めながら、ティムは眠りに落ちていった。  
 
ここは?自分は眠ったはずだ。だが今は、何か違うところに来ている。  
気味の悪い浮遊感はそのままで、違うのはそれがほんとうになっているということだ。  
浮いている。どこかのへやの中に。  
あたりは暗いが、少し見渡してわかった。ここは自分のへやだ。  
だけどここにはあの大きな机も、その上のプレゼントも、なによりきらきら光っていたクリスマスツリーが無い。  
夢なんだろうな。  
ぼんやりとだが、それがわかった。  
だがその自覚は自分を夢から覚ますことは無い。  
なぜなら自分はこの世界に興味を持ち始めている。  
暗い部屋のベッドでだれか寝ている。  
まぶたに幾重もしわがよるくらいぎゅっとつむって、手を胸の上で組んでねむっている。  
ねむることはあんなにもきもちがいいのに、こいつはまるで眠ること苦しいみたいに  
表情をゆがめて、歯を食いしばるようにして寝ている。  
自分だ。  
とティムは思った。  
昔、こういう風にしてむりやり自分をねむらせることがよくあった。  
おきていてもパパは帰ってこないし――、いくら数を数えても日はのぼらないし――、  
ねむってしまうのが一番いい。  
それに、そうだ、このころにはかすかに母親の記憶があった。  
美しく白い肌をした、青白い肌をした母は眠ったような表情で胸の上で手を組んでいた。  
「ママにお別れを言いなさい」  
と父親は言った。  
自分を胸に抱いて。  
その言葉の意味はよくわからなかったが、発音の一句一句まで正確に覚えていたのだ。  
――いつの間にか、そのことも、母の最期の姿も、その母と同じ姿で眠れば、  
母に会えるのではないかと思っていたことも、忘れてしまっていた。  
でもなぜだろう、どうして昔はそのことをしていて、今はしていないんだろう。  
なんでそのことを忘れてしまっていて、忘れてしまっていたことも忘れてしまっていたんだろう。  
手を組んで眠っている自分が、ぽつりと何かを言った。  
よくきこえなかった。  
眠っている自分は、今の自分よりももっと小さい頃の自分だ。  
その、苦悶する表情の小さなくちびるから漏れる声を、今度は聞き逃さなかった。  
その唇は小さく動いただけで、りすが鳴くような音だった。  
「――さみしい」  
 
目を見開いた。  
暗い天井が続いている。  
冷たい空気が頬に当たって、呼吸が激しく苦しい。  
目が覚めた。  
ゆめの中の自分はさみしいといった。  
それに驚いた。  
動悸が激しく胸を打つ。  
心臓の音が部屋中に響き渡るようだ。  
犬のように喉を鳴らして息を吐く。  
吐いた息はあったかく、そのまま白くなってなかなか消えない。  
起きた部屋は暗く静かで、ツリーだけが場違いに晴れがましい。  
外は暗く何も見えない。  
ちいさなミルクパンも、その下の石炭が燃え尽きたのか静かになって湯気も上がっていない。  
夢から覚めた世界は耳が痛むほどしずかで、自分の息の音がよく聞こえた。  
ティムは自分で、枕のよこに落ちてしまった手ぬぐいをひたいにかけた。  
腕を布団から出すと驚くほど空気は冷たかった。  
体温が上がっている分、一層そういう風に感じてしまうのかもしれない。  
「はぁっ……」  
ティムは大きく息を吐いた。  
机を見ると、自分の指ほどにちいさな動物たちが、きちんとつがいになって揃えてあるのが暗い中に見える。  
あれらはいい。じぶんと奥さんがいれば、すぐに子供が生まれる。  
家族ができるということだ。  
神様は家族を作ることを、彼らにゆるしてくれたのだ。  
でもあの中に人間はいないし、自分の家には「つがい」がいない。  
 
窓の外は海の底のように暗い。  
このふねには自分以外の生き物は乗っていない。  
あるのは小さな自分と大きなベッド、大きな机に小さな動物たち。  
ティムはなんだか泣きたいような気持ちになった。  
穿たれたような胸の痛みも、またぶり返してきた。  
そうだ、思い出した。  
「ぼくは――さみしかったんだ」  
体の芯が刺されるように痛むこの気持ちは  
『さみしい』というものだった。  
そうだ、このきもちになると眉の付け根は勝手に寄ってしまうし、口は不恰好に下がってしまうし、  
なによりも泣きたくなってくるんだった。  
ずいぶんと長いことこの感情と付き合ってきたはずなのに、すっかり忘れてしまっていた。  
それを思い出したのは風邪をひいたせいか――  
「……ユカリぃ」  
いまはどこにも、ゆかりの姿が見えないせいだった。  
ティムは体を丸めて、再び眠りに落ちた。  
 
次に見たのは悪夢だった。  
机の上の動物たちが本物の動物のように大きくなり、跳びはね、暴れ周り、それぞれがつがいで  
ティムのことを責め立てた。  
「この、ひとりぼっち!」  
「ひとりぼっち!」  
「ひとりぼっち!」  
オウムはオウム返しに、ゾウは器用に鼻を動かして、豚までもが二頭仲睦まじそうにして、  
見下すようにしてたった一人のティムの事を見るのだった。  
その中でティムは探していた――と思う。  
もう布団は着ていなかったが、パジャマ姿で、裸足のままだった。  
ティムは動物たちに叫ばれるたびに、足を早く動かそうとしたが、  
足は沼の中を走るようにうまく動かない。  
「ひとりぼっち!」  
「ひとりぼっち!」  
「ひとりぼっち!」  
逃げても逃げても、後ろから叫び声が追いかけてくる。  
耳をふさいでも、目を閉じても、いくら足を早く動かしても、つがいの動物たちはティムの目の前に現れて、  
上手に人間の言葉を喋って去っていく。  
ティムの部屋はいつの間にかジャングルになり、ロンドンの街になり、行ったことも無いような秘境になり、  
ほとんど世界中を逃げ回って居るように思えた。  
逃げ回っているのに、さがしているのに、見つからないのだ。  
自分を「ひとりぼっち」でなくしてくれる人が。  
その人はもう死んでしまったようにも思う。  
でもそれには慣れていたはずだった。  
いくら胸の上で手を組もうと、まぶたに力を込めて眠りに落ちようと、  
ほんとうにその人に会えることは無いのだ。  
そう思うと、今にも倒れこんで泣き出してしまいそうだった。  
 
それでも――それでも足を止めることはなかった。  
ティムはロンドンの街を走った。  
コベントガーデンを抜けて、馬車の往来をすり抜けて、等間隔に光るガス灯を後ろに流していく。  
空気は冷たく、息は白くなって汽車のように走った後に残ってゆく。  
そうだ、もう少し走れば、うちに着く。うちに帰れば、いるんだ。僕にだって。  
居るって、誰が?思い出そうとしても、頭に古新聞でも詰まってしまったのか  
それが誰なのか思い出すことが出来ない。  
玄関前のステップを一足飛びにして、玄関を開ける。  
「ただいまぁ!」  
大きな声で言った。  
狭い玄関ホールはがらんとして、何の返事もない。  
「ただいまぁ!」  
居間に向かって言う。  
暖炉は燃えているが、だれも座ってないソファがあるだけで、誰もいない。  
「ただいまぁ!」  
台所に向かって言う。  
誰もいない。鉄製のコンロが冷たく黒く光っている。  
「ただいま、ただいまってばぁ!」  
天井に向かって、壁に向かって、裏庭に向かって、あらゆるところに向かって叫んでも、  
だれも、何の返事もない。  
なんともいえない気分になる、違う、いるはずだ、どこかにいるはずなんだ――  
 
いきなり、目の前に現れたのは自分の部屋の扉だ。  
仕方なしに、少しだけの望みをかけてその扉を開けてみる。  
そこにいたのは、さっきも見た今の自分よりも小さな自分だった。  
ベッドの上に腰かけて、こちらを見ている。  
ティムは何もいえずに、自分の姿を見ていた。  
「おかえり――」  
と、昔の自分は言った。  
「おかえり、ひとりぼっち」  
この世界には自分だけしかいなかった。  
 
 
「うぁ、わ、わぁあああああああうあああああああああああああああああ」  
ティムは叫んでいた。  
泣いている。涙が頬を伝う。  
肺が痛い。  
息を吸うと、氷みたいな空気が肺に流れ込んでくる。体がガクガクと震える。  
鼻の奥も喉の奥も痛い。  
でも何よりも胸が痛い。太い針を刺されるように、ひどく痛む。  
注射針だってこんなに痛むことはない。  
そうだ、目の前にあるような注射針だって、刺せばそんなに痛くないのだ――。  
「――坊ちゃま!坊ちゃま!」  
肩を揺らされている。  
「お気を確かに持ってください!坊ちゃま!」  
目の前にゆかりの顔があった。  
きょろきょろと辺りを見回す。  
ベッドの横に、注射器を持った医者がいる。  
クリスマスツリーも光っている。  
机の上には、つがいになった動物たちが整然と並んでいる。  
 
どうやら夢から覚めたようだ。  
安心して胸を撫で下ろすと同時に、また涙がぼろぼろとこぼれてきた。  
「うぇ、うぇあ、うぇええ、ええええええ……」  
口を動かそうとするが、うまく言葉にならない。  
「ああ坊ちゃまおいたわしい……!そんなに注射が痛かったのですか」  
「ま、まだ刺しちゃあ……!」  
ゆかりがゆっくりと立ち上がって、医者を睨みつけた。  
「くそ藪めが……そこに直れ」  
「ひ、ひぃ、だから、注射はまだ刺しちゃあいないって!」  
「問答無よ――……」  
歩を進めるゆかりの袖を、何とかつかむことができた。  
その隙に医者は素早く部屋を出て行った。それほどゆかりの殺気は尋常じゃない。  
「ユ、ユカリ、ゲホっ、ちょ、まって……っ」  
せきが出るのと呼吸が苦しいのでうまく喋ることが出来ない。  
悪夢から覚めても、熱はまだ冷めていないようだった。  
意識がもうろうとする。  
何とか顔を上げると、ゆかりの顔が再び間近にあった。  
ティムはそれを見て心底ほっとした気持ちになった。  
 
いま袖を捕まえたのも、ゆかりの暴行を止めようとか、医者を逃がそうとかしたのではない。  
ただ単に近くを離れて欲しくなかっただけなのだ。  
「ど、動物たちは、みんなペアで、なかよく、いるのに、にんげんは、いなくて――」  
言葉の羅列が続いた。何を言っているのかよくわからにところもあったが、  
やはりそれは自分でもよくわからなかった。  
それでもただ、言いたい。言わなければならないという気持ちがティムの中にあった。  
「だからぼくはひとりぼっちで――、みんな、それでいじめて――」  
ティムは泣きじゃくりながら、ゆかりの袖を離さない。  
「ぼくは、ずっとひとりで、さみしくて――」  
さみしくて、ずっと泣いていたのだ。  
この世界に僕は一人だけだった。  
どこをみてもただ一人だった。  
底抜けにさみしかった。  
「いるじゃないですか」  
袖をつかまれたゆかりが言った。  
「人間の『つがい』なら、ここに」  
「――ここ?」  
「坊ちゃまと、わたし」  
ゆかりはこともなげに、ティムと自分を人差し指でさした。  
『つがい』の意味がよくわかってないのかもしれない、と思った。  
でも、嬉しかった。  
一人じゃないと思った。  
胸が、熱いもので満ちた。  
 
「ユカリ、もうどこへも行かないで」  
素直な気持ちだった。  
熱が出て、今はもう思い出せないが何かひどい悪夢を見たような気がする。  
その夢の中で、なんだかひどくさみしくて、辛くて、悲しくて――  
もうこの場所を離れて欲しくなかった。  
ティムはしっかりとゆかりの袖を握り締めていた。  
「坊ちゃま」  
顔を上げる。ゆかりのまんまるで、黒い瞳が潤んでいるように見えた。  
「大丈夫です、わたしはここにいます。どこへも――ゆきません」  
そう言って、にっこりと笑った。  
 
ティムは思い出していた。  
悪夢のことではなく、昔のことだった。  
それがどのくらい昔のことだったか、今ではもうわからないほど昔のことだということは  
なんとなくわかる。  
ひょっとすると自分が生まれてすぐの記憶かもしれない、何しろ言葉を喋れる頃の話ではない。  
ベッドで横たわる母に、ベッドの横から父が母に言ったこと、さらに言えば、  
今思い出したのが奇跡のように思える――これがほんとうの記憶かどうかも定かではない――が、  
母が、自分にしてくれたこと。  
それはすごく幸せな気持ちにさせてくれることだった。  
それを思い出していた。  
 
ティムはゆかりの唇に、自分の唇を重ねていた。  
記憶は定かではないとは言え、自分が生まれたばかりの頃、  
母は確かにこうして唇にキスをしてくれた。そう思う。確信していると言ってもいい。  
いろんな暖かいものが、唇を通して伝わってくるように感じた。  
それだけで胸の痛みは溶けるように消えていく。  
裂けるように痛かった胸には、ぎゃくに暖かくて確かな感情が流れ込んできて満たした。  
鼻がゆかりの頬に当たっているのが分かる。でもゆかりの鼻は頬に当たってこない。  
やっぱり鼻がひくいからだろうか。  
二秒か三秒そのままでいた。  
安心感とか、幸福感とか、充足感とか、そういった言葉で表される感情をごちゃ混ぜにして、  
それに包み込まれるような快感を、ティムは感じた。  
あったかい。  
ティムがゆっくり顔を離すと、  
「ぼく、もうひとりぼっちじゃないよ」  
そう言って、ベッドに倒れるようにして再び寝入ってしまった。  
その顔は安らかで、幸福感に満ち満ちていた。  
 
 
気がつくと朝になっていた。  
ティムが体を起こすと、横でゆかりが腕を投げ出して、  
上半身だけベッドにのっかかっている格好で寝ている。  
夜通し看病してくれていたのかもしれない。  
「……器用な寝方するなぁ」  
なんだか体がすっきりしている。呼吸もスムーズだ。  
頭も視界も冴えて、2キロ先の小鳥のさえずりまで聞こえてきそうなほど世界は澄み切っている。  
ひたいに手を当てると、ぜんぜん熱くない。  
「これは……なおった!」  
風邪にかかるときはぼんやりとおぼろげにだるくなっていくが、  
治る時は瞬間的に「治った!」とわかる。  
若さである。  
 
部屋の隅にクリスマスツリーがある。  
なんでこんなものがあるのだろう。昨日まではなかったはずなのに。  
ティムは夕べのことを思い出そうとつとめた。  
記憶は常に断片的に思い出される。  
 
ゆかりがクリスマスツリーを持ってきたこと。  
なんだか胸の悪い夢を見たような気がすること。  
目の前に注射針があったこと。  
でもなんだか、最終的に幸せな気持ちになって眠ったような気がすること。  
スライド写真のようにぱっぱと切り替わる映像の中で、いくつか不可思議なものがあった。  
それは同じ部屋で寝ている、いまよりも小さい自分の姿だとか、  
いろんな生き物に追いかけられている自分だとか、  
ロンドンやジャングルを走り回っているだとかいうような荒唐無稽なものだ。  
 
その中の一枚。  
ゆかりの瞳が、明かりの具合かもしれないが黒く潤んでいる。  
そしてやさしく、にっこりと笑う。  
「そのあとぼくは、ユカリに顔を近づけて――」  
――……んん!?  
記憶の中のゆかりは、目をぱちくりさせてこっちを見ている。  
その距離が近い。  
近すぎる。  
鼻息がかかる。まつげの本数が数えられそうだ。  
ゆかりのまつげは意外と長く、本数も多い。  
目と目がこの距離なら、く、くちびるは――。  
寝ているゆかりを見た。  
唇は血色がよく、ふっくらとしている。  
呼吸のたびに少し突き出したその唇から、少し吐息が漏れる。  
 
ど、  
と体中に汗をかくのがわかった。  
まさか、だが。  
正直に言って、あまり記憶がない。  
もし記憶が夢でなく、ほんとうにそうなのだったとしたら。  
嬉しいような……恥ずかしいような。  
やっちゃあいけないことをしてしまったような……なんというかその……  
「ん……」  
ゆかりが腕を天井にむけて伸ばし、猫のように伸びた。  
「お……おはよう、ユカリ」  
声が裏返らないか心配だった。  
 
心臓が大太鼓のように鳴っている。  
「わたし――そのまま――あ、ああ、坊ちゃまおはようございます。  
あら、ずいぶん顔色がよくなりましたね。気分はどうですか?」  
意外とゆかりは平静だった。  
「う、うん。ずいぶんいいよ。もうなおったね、たぶん」  
ベッドから体を下ろそうとしたら、ゆかりに止められた。  
肩を抑えられ、無理やり寝かしつけられる。  
「だめです、風邪は治り際が肝心なんですよ。もう一日しっかり寝ていてください」  
ゆかりは体に上掛けをかけなおしながら言った。  
顔を見ると、ついその良く動く唇に目が行ってしまう。  
「……なんですか?なにか――」  
「ああいや、そのお……ゆうべ、熱に浮かされてぼくがなにかしたんじゃないかと思ってね」  
聞くのにものすごくドキドキしたが、聞かないわけにもいかない。  
「いいえ、別に」  
やっぱり夢だったのだろうか。  
確かにキスをしたような感触も、唇に残っているのだが。  
「いやでも夢だったら夢だったでまた別のもんだいが……」  
「なんの話ですか?」  
「いやなんでもない、こっちのはなしってやつですよユカリさん」  
「さん、だなんて。やめてくださいよ」  
「ああうんなんだかやっぱり熱がぬけなくてねなかなか」  
「ほら、だからまだ寝ててください。洗面器に水、汲んできますね」  
そう言ってゆかりは洗面器を抱えて、出て行こうとした。  
扉の前に立って振り返った。  
「あ、そうだ坊ちゃま」  
「なに?」  
「あ、あの――」  
ゆかりは少し返事をしなかった。  
何か言うのをためらって居るような様子でもあった。  
続きをさらにさいそくしようかとしたとき――ゆかりが一気に言葉を繋げた。  
 
「――あの、また淋しくなったら、いつでも、わたしに言ってくださいね」  
「ユカリ!そ、それはどういう――」  
ゆかりは何も言わずに最高の笑顔で笑うと、身を翻らせて出て行った。  
白いエプロンの結び目と、黒いスカートの裾が踊った。  
 
結局あれが夢かうつつかはっきりしなかったのが心残りだったが、  
ティムはなんともいえない幸福感に包まれて、また眠った。  
さみしくはなかった。  
今はもうゆかりが居ることをきちんと思い出したのだった。  
窓の外はすっかり明るい。  
また街が動き始める。  
寒い日が続くけれど、今日もロンドンは賑やかで楽しげだ――  
 
 
 
 
『かぜひきのひ』おわり。  
 
 
 
 
 エピローグ。  
 
 
「ほら坊ちゃま、アーン」  
「い、いいよ、じぶんで食べるよ」  
「そんなことを言わずに。ほら、アーンしてください」  
「う、うん……」  
「はい、もう一回。アーン」  
「いいってば、はずかしいし」  
「恥ずかしがることないですよ。病人は看病してくれる人に従うものです。ほら」  
「わかったよ……」  
「はい、おりこうさまでした」  
「うう……」  
   ・  
   
   ・  
   
   ・  
 
 
「はい、ユカリ、アーン」  
「…………」  
「どうしたの」  
「や、やっぱりだめです!雇われている家の坊ちゃまにそんなに手厚く看護されるなんて、  
 女中としてありえませんもの!ただでさえ『ホームステイ』だの言われているのに!  
それは確かに、大英帝国の文物を学ぶという目的はありますが、  
私はあくまで女中としておいてもらっている身で――忠孝の精神から言っても――」  
「ううん、ニホンジンだけあってふうけんてきだねえ、ユカリ」  
「それは封建的と言います。ゴホ、ゴホッ」  
「ほら、つらそうじゃん。それにちゃんとしたメイドぶるなら、朝のはやおきから始めてよ」  
「う、い、いやそれはその――ひ、人には向き不向きというか、人には一つぐらい  
どうしても出来ないことがあるとでもいいましょうか――ゴホ、ゲホ」  
「ああもうへりくつはいいからさぁ、ハイ、アーン」  
「………ぁ、ぁー…」  
「もっと口を大きくあけて!」  
「……ええいもう、はい!」  
「そう、それでいいの。病人はかんびょうする人の言うこと聞いてね、ちゃんと」  
「ああもう、申し訳ないやらありがたいやら可愛らしいやらで……」  
「なにをぶつぶつ言ってるのさ。はい、もう一回」  
「……あーん」  
「よろしい。これからもすなおであるように」  
「なんですかそれ、わたしはいつも素直ですよぉ」  
「どこがぁ」  
「あ、ひどい坊ちゃま。ゴホゴホ、ゲホゲホ、うぅ、辛いよぉ……さみしいよう……」  
「だ!な!何がさみしいのさ!!」  
「いいえぇ、なーんでも」  
「だからぼくがここにいるでしょ。ユカリがさみしくないように。  
……わ、なに、やめてよ急に頭なでないでよ……」  
 
 
 
そのころ父・ジョン。  
「テ…ティム……パパにも看病を……ゴホゲホッ……うえ……畜生め……母さんよぅ……おいおい……」  
 
 
風邪が蔓延してもダーヴァレイ家はやっぱりこの日も平和なのであった。  
 
 

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