序  
 
 
イギリスなのである。  
時は十九世紀末、産業革命により発展著しい大英帝国が舞台なのである。  
貴族たち上流階級はとても華やかーな貴族的生活を送っているのである。  
一方、農工商たち庶民はまあ庶民的な生活を送っているのである。  
時代は100年ほど違うけれど、人間そんなに変わらないのである。  
何が言いたいかというとこれは舞台が十九世紀末イギリスだからといって  
細かいことにこだわらないでいただきたいのである。  
おおらかな気持ちで楽しんで欲しいのである。  
この物語は、人生をおおらかな気持ちで楽しんでいる人たちの話なのである。  
 
 
「ごちそうさま。」  
そう言うと少年は椅子から飛び降り、足早に食堂を出ようとした。  
金色の髪が軽やかに舞った。  
その瞳は、将来の英国紳士を保障するかのような紺碧であった。  
ちいさな足音が、たたたっ、と響いた。  
 
「お待ちください坊ちゃま、人参がまだ残っています。」  
むんず、と後ろ襟を掴まれる。  
「わ、ユカリ、何するんだよぉ。」  
人参からの逃走が失敗に終わってしまったこの少年は、ティム・ダーヴァレイといい、  
本作の主人公の一人であり、現在ロンドンで大人気の『ダーヴァレイ輸入家具』店長の  
一人息子である。  
鉄道、蒸気船などの蒸気機関の発達により海外とのやりとりが――まさに時代を  
変えてしまうほど――容易になり、ロンドンの下町で代々細々と家具店を営んできた  
ダーヴァレイ家であったが、当代ジョン・ダーヴァレイが23のときに一念発起し、  
フランス家具の輸入を始めた。  
新事業は驚くほど順調に進み、最近ではアジアの家具を仕入れるなど新しい商売の  
研究に余念がない。  
 
「何するんだよぉ、と言われましても、『食べ物を残させないようにしてくれ』との  
旦那様のお言い付けですので。」  
後ろ襟を掴んで離さないのはユカリと呼ばれたメイドである。  
英国人に比べ明らかに黄色い肌、黒髪、小さく黒い瞳、低い鼻、それらの特徴全てが  
彼女はこの国の人間ではないと――西洋人でなく東洋人であると――教えている。  
 
「だって……にんじん嫌いなんだもん。」  
ティムはいかにも子供のよく使う理由をまさに子供らしく東洋人メイドに伝える。  
 
「だってもBecauseもありません。いいですか、この人参も農家の人たちが  
朝早くから収穫したものなのです。ぼっちゃまの目覚める何時間も前から。一本一本、  
丁寧に。それを坊ちゃまは食べ残す、と言うのですか。」  
ユカリはそう言うと、ティムに目線をあわせ、じっと見つめる。  
ティムはユカリに見つめられ、反射的にこちらもじっとユカリの瞳を見つめ返すが、  
ユカリの黒く澄んだ瞳はなんだかすべてを見通しているようで長くは見ていられなかった。  
 
ティムはふっと視線をはずし  
「きみ、英語うまくなったねぇ。」  
と、笑顔を作る。が、  
 
「話を摩り替えないでください。」  
あっさり真意を見透かされる。ティムは、はぁ、とため息をひとつ吐き観念した。  
「わかったよ、食べる、食べます。ユカリの言うとおりにするよ」  
と言って再び椅子に座った。大人用の椅子と机は10才のティムには大きすぎ、  
ティムは机の上にほとんど顔と腕だけ出して、残った人参をなんとかやっつけた。  
 
「ご、ごちそうさまでした……」  
「坊ちゃま偉いっ!」  
ティムの背後でユカリは、ぱちぱちと手を叩く。  
 
ティムは、ひょい、と椅子から飛び降り、  
「あのさあ……その、『坊ちゃま』って言うのやめてくれない?年だって、四つか五つしか  
変わらないんだよ?」  
ユカリに不平を言う。そうなのだ。ユカリはティムの教育係と言う役目も負っている以上、  
ティムにはいろいろ指導しなければならないので、随分年上のように感じるが、  
そのユカリもまだ14才の年若き少女なのだ。  
 
「嫌ですか?……ではどうお呼びいたしましょう。」  
「そうだねぇ……旦那様、じゃあないし。ご主人様、でもない。……普通に名前で読んでくれればいいよ。」  
「かしこまりました、ちむ様。」  
「ちむ、じゃなくて、ティムだよ。ティム。」  
「はい、ちむ様。」  
「だからティムだって。」  
「ちむ?」  
「ティム!」  
「ああ、ちむ!」  
「テ、ィ、ム!!」  
「だから、ちむ様はちむ様でしょう。何がおかしいのですかちむ様。」  
「……もう『坊ちゃま』でいいよ……」  
ティムはがっくりとうなだれ、ユカリは何が気に入らないのかさっぱりわからずに  
怪訝な表情を浮かべている。  
 
「ユカリがうちにやってきて、そろそろ一年が経つし、英語も上達したかと思ったけど、  
やっぱりまだまだだね。」  
かぶりを振ってティムはため息をつく。今からちょうど一年ほど前の夜、ユカリはダーヴァレイ家にやってきた。  
父親、ジョンの不祥事のせいで。  
 
 
 
今日も父の帰りは遅そうだ。店が忙しいのだから仕方がない。それはわかっている。  
商売がうまくいっているおかげで暮らしていける。ご飯も食べられるし、服だって買える。  
頭ではわかっているのだが、心は頭ほど簡単に納得してはくれない。  
「やっぱり……さみしいな。」  
ベッドの上でそう呟き、読み飽きた子供向けの本を投げ捨てる。  
本は赤い表紙を上にして倒れた。あれでは中のページが折れ曲がってしまうが、  
ティムは気にもしなかった。  
枕元のランプを消し、ごそごそと布団にもぐりこむ。  
 
がちゃん。  
ティムがまさに寝入ろうかとしたその瞬間、玄関のドアが開く音がした。  
「パパだ!」  
いそいで枕元のランプに火を灯し、階段を駆け下りる。  
 
「パパ!」  
だがティムの差し出すランプの光に照らされたのは父ではなく、  
不思議なほど黒い髪と瞳を持った少女だった。  
 
まるで夜の暗闇を原料に作られたかのような漆黒の瞳。  
寝る前に読んだ童話のせいで、夜の精霊の夢でも見ているのだろうか。  
その瞳を見つめれば見つめるほど簡単に現実感は失われていく。  
 
「あの」  
 
どちらが口を開いたのかわからない。あるいは両方が同時に声を発したのかもしれない。  
だがどちらにしろその声は  
「ただいまぁあーーーーーー、おぅ、マイサン!いい子にしてたかい?   
父は今日もへとへとで参った参ったまったく商売繁盛で嬉しい悲鳴絶賛絶叫中  
ってかんじですよ。ほんとにもう。あれっ、なに固まってるんだマイサン!」  
 
ジョン・ダーヴァレイのダミ声にかき消された。  
 
「パパ……。」  
これは夢ではなかったか、と胸を撫で下ろす。  
「この」  
「おおっとぅマイサン!聞きたいことはよくわかる。このチャーミングなお姉さんは  
いったい誰か、ってことだろう。ハハハ、それぐらいパパにはお見通しさ!どうだ、  
大当たりだろう。」  
「うんまあ、そうなんだけど……。」  
「ハハハ、やったね!」  
「うん、それでこのおねえちゃんはどうゆう……」  
「まあそれはいいじゃないか!」  
 
……いいわけないだろう、と言いかけたところに、馬車の従者が入ってきた。  
「旦那ぁ、やっぱりまずいですよ、素性の知れない娘っ子をさらって来るなんむぐぉ」  
ジョンは素早く、そして力いっぱい従者の口を押さえた。  
 
毎日毎日重たい家具を上げたり下げたり動かしたり運んだりしているジョンの腕は、  
筋肉がピレネー山脈のように連なっており――本気になればりんごの一つや二つなら  
握りつぶせようかというほどで――その腕に口を押さえつけられた従者の顔は、  
見る見るうちに青く暗くなった。  
 
「パパ!その人死んじゃうから!!パパ!」  
「ええい、いっそこのまま……!」  
「パパ!何言ってるの!?ばかなことかんがえないで!」  
「……ハハハ、ジョークだよ、ジョーク。」  
と言って口から手を離す。  
 
ぶはっ、と息を吐き、どひゅう、と息を吸い込むのに一生懸命の従者にジョンは  
「いいかい、私は偶然にも、記憶喪失の東洋人の娘を発見し、保護し、  
家に連れてきた。それだけだな?」  
従者は、力いっぱい血をめぐらせ真っ赤にした顔をがくがく上下させる。  
 
「パパ?」  
「うん?」  
「記憶喪失なの?このおねえちゃん。」  
「ああ、そのようだ。何しろすごいスピードではねたからなあ。」  
「はねた?」  
 
「……ジョ、ジョークジョーク。ハハハハハハハハ!」  
「速くしろ、速くしろ、なんて言うから……」  
再びジョンの手のひらが従者の口にあてがわれる。  
 
「なにか、いったかね?」  
従者はぶるぶる左右に首を振る。  
動脈が浮き出ているところからもジョークではなさそうだ。  
 
「はねたんでしょう。パパが馬車を急がせて。従者さんは悪くないんでしょうどうせ。」  
ティムが核心をつきすぎた質問をする。ジョンはゆっくりとティムのほうに向き直り  
「……最近、コミュニケーション不足だったな……。」  
「……痛い!痛い痛い!!パパごめん!痛いってば!イーターイー、イーターイー。」  
両こぶしをティムのこめかみにあて、回転させる。  
「彼女は、偶然、記憶喪失で、私が、保護したんだっ!」  
「わかった、わかりました。ごめんなさい、あやまるから、もち、もちあげないでぇええ  
 ひぃいいいいぎゃああああ」  
「ウム、わかればよろしい」  
 
ぱっ、とこぶしを離すと持ち上げられていたティムの身体は、どすん、と音を立てて  
床に落ちた。  
したたかにうった尻を撫でていると、  
「くすっ」  
笑い声がした。ばっ、と女の子を見る。  
確かに笑顔を作っている。目じりを細め、口からは白く美しい歯が覗いている。  
ランプの明かりに照らされたその笑顔はひどく美しく見え、  
「あは、あははははは」  
ティムもつられて笑ってしまう。  
「わは、わははわは、わははははっはは。」  
ジョンも大きな声で笑い出した。  
 
「あはは……ねえきみ、名前もおもいだせないの?」  
ティムが上目遣いに少女に尋ねる。するとジョンが  
「あー、何度も聞いたが『わからない』『思い出せない』ばっかりだ。まいったぜ、たくっ。」  
横から口を挟む。  
 
「ゆかり、私の名前……ゆかりっていうの。」  
 
「!」  
驚いたのはジョンである。自分が――おそらくかなり高い確率で――原因だろう  
少女の記憶喪失に当然ながら責任を感じていたのだ。なにを聞いてもダメだったのに。  
息子にはすらすら自分の名前を答えたのだ!  
それも――随分なカタコトながら――英語で!  
「へえ、ユカリ、っていうのか。故郷は?思い出せる?」  
「故郷……日本、日本よ!」  
「NIFON?知らないなあ……、パパ、わかる?」  
 
ジョンのほうを向くと、わなわな震えているようだった。  
「それはJapanのことだ、マイサン。」  
「へえ、Japan!ずいぶん遠くからきたんだねえ!Chinaのまだ東の島国だろう?  
この間先生におそわったんだ。なんでもしつれいなことをした人はおなかを切って  
あやまるとか……。なんともハードな国だねえ。」  
ジョンは震えている上に、冷や汗らしき液体をだらだら体中に流していた。  
 
「わっ、パパ、なにこの汁!」  
「……ティム、今な、その日本人たちが条約改正交渉にイギリスにやってきているんだよ。」  
「じょうやく……?よくわかんないけど、じゃあこのおねえちゃんもその人たちの……?」  
ジョンはこくりとうなずく。  
「ああ……おそらくな……。だが、だとしたら……国際問題だぁ!は、破滅……」  
「まぁ、いいじゃん日本なんて小国。戦争しても余裕でしょう?」  
「そういう問題じゃない。直接日本と戦わなくても例えば日本の対英感情が悪くなって  
 日本がロシアと組み、港を貸したりしたらどうなる?ロシアは労せずして永年の悲願、  
不凍港を手に入れることになるんだ!そうすればロシアの力は更に強くなる。  
その原因がうちにあるなんてことになったら、ああ、女王陛下に顔向けできないっ!」  
「うん、その前に潰れるだろうねえ、うち。」  
「だろうなあ……。ああ……せっかく事業が軌道に乗ってきたってのに……」  
 
ジョンはしばらく顔を膝の間にうずめてひとしきり泣いたあと、  
ぱっ、と顔を上げ  
「この子をメイドとして雇おう!そうだ!それがいい!!筋書きはこうだ。  
『記憶喪失の東洋人女子を保護、名前以外はさっぱりわからず、とりあえずメイド  
 の仕事を教えつつ同時に保護し続ける。身元がわかればすぐに親御にお返しする  
という契約を結んだので、まったく私の善行であり、なんら問題はない』これだ、  
 完璧だ!よし、早速契約書を書くぞ!……出来た!」  
「速ッ」  
「そうだ、これでお前も寂しくないなマイサン」  
 
ティムはさっきの笑顔を思いだした。  
あくまでも現実感のない美しい黒い瞳、髪と笑顔。  
彼女がメイドとしてうちに来る、毎日、一緒にいられる。  
そう思うと、ティムはなぜか胸の熱くなるのを感じた。  
 
「うん、そうだね。ぼくも……うれしいよ。」  
「だろーう。さあ、サインをしてくれ!」  
ジョンはユカリに契約書を渡しユカリも素直にそれに従う。  
 
「できました。」  
ジョンはうやうやしく契約書をうけとり  
「うん……Yukari Tamura……どこの国の名前かなんて、さっぱりわからないな!」  
「パパまたへんな汁が。」  
 
何はともあれ、こうしてユカリはティムと一緒に住むこととなったのだった。  
 
 
 
「あれからもう一年か……いろいろあったなあ……ねえユカリ。」  
ティムは食事の後片付けをするユカリに声をかける。  
「ええ、そうですね坊ちゃま。」  
ユカリは片付けながら返事をする。  
 
「ほらあの、ほんとにユカリの父親が迎えに来たときはどうなることかと思ったよ。」  
ユカリは、はた、と片付けの手を止め、首をかしげる。  
「……?」  
「ほら、来てすぐくらいのころ。ユカリが……」  
「…………?」  
ティムが事件のあらましを説明するが、ユカリにはピンと来ないようだ。  
 
「……きみ、ひょっとして記憶喪失ひどくなってない?」  
「……あは。」  
ティムに照れたような笑いを見せる。  
 
「あは、じゃないよ。記憶がかんぺきににもどんないと日本にはかえれないんでしょ?」  
「ええ、そうみたいです。」  
「みたい、って。なにそれ。」  
「いやぁ、いまいち記憶が曖昧模糊としてると言いますか、はっきりしないといいますか、  
よく覚えていないと申しましょうか……。」  
ぽりぽり、と頭をかく。黒髪に純白のメイドキャップがよく似合う。  
 
「ユカリぃ……たのむよ……。」  
「ええまあ、自分でもどうにかしたいとは思っているんですが……これがどうにも。」  
 
「……どうにも?」  
「……こうにも。」  
ティムは、プッ、と吹き出し、大笑いした。  
つられてユカリも笑い出した。とにかく、ユカリがきてから、ティムは笑顔でいることが  
多くなったし、それは本人も自覚していた。  
夜の精霊は不思議な魔法を使うのだ、あのときベッドから投げた童話にはそう書いてあった。  
 
「……まぁ、ユカリの記憶がもどらなければその分、  
ユカリはこの家にいられるわけだから、それはそれで……」  
「あら、ぼっちゃま、独り言ですか?若いのに。」  
ぬっ、とユカリの顔が視界に入ってくる。呼吸が止まるかと思った。  
黒く美しい瞳に自分の顔が映っているのが見えた。独り言を聞かれた恥ずかしさと、  
急に顔が近付いてきた驚きで、顔が真っ赤になってしまう。  
 
「わっ、ユカリ!いたの!?」  
「さっきから、いますよ。」  
「そ、そう……。」  
「ええ。」  
 
しばらく沈黙が続いたあと、ユカリが小さくつぶやく。  
「……それはそれで、か。」  
 
しっかり聞かれていたらしい。  
「わあああああああああああああ。ほらさ、なんだ、その、ええと。」  
「ふふ……嬉しいですよ。ぼっちゃま。」  
「……そ、そう、そりゃ、よかった。ぼくも、うれしいよ。」  
 
白く透き通った肌を真っ赤に染めて、ティムはソファに身を沈めた。  
ユカリは平気で仕事を続ける。ティムはそのまま眠ってしまった。  
寝ていてティムは気付いただろうか、ユカリが気分よく鼻歌を歌っていたことを。  
或いはその旋律にまどろんだのだろうか。  
とにかく二人の日常は今日も続いていて、ロンドンの町は今日も騒がしかった。  
 
 

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