「百合さん、お願いがあるんですけど」
「なんでしょう?」
箒を持つ手を休めて、百合は主人を見つめる。
「今度、知り合いのところで宴会があるんですが、一緒に来て欲しいんです」
「はい、構いませんが」
足の不自由な主人の付き添いならば、百合はいままでも何度かしたことがある。
「良かった! 断られたらどうしようかと思ってたんですよ」
満面の笑みを浮かべる主人の顔に見とれる百合。
まるで子供のような無垢な笑み。百合はそれを「貴族としての貫禄に欠ける」と
思ってはいるが、その笑み自体は嫌いではない。むしろ好きですらある。
いつだって、その主人の笑みを脳裏に思い浮かべるだけで
百合の胸の中に暖かな熱が生まれる。
その笑みをよく覚えておこうとあまりあからさまにはならないよう気をつけながら
百合はしっかりと目に焼き付けておく。
そんなふうに主人を見ていた百合だが、ふと訝しく思った。
付き添いならば命令すれば否応なく着いていくのがメイドの務め。
それなのに、なぜ「断られる」と旦那様は思ったのだろう?
「旦那様?」
「なんですか?」
「その宴会というのはどこで行われるのでしょうか」
「キュウチュウですよ」
百合が「キュウチュウ」に「宮中」という漢字が当てられるということを
理解できるまで数秒。
「!!!!!」
驚きのあまり声が出ない。
「きゅ、宮中って…まさか、お内裏ですか? ご禁裏の、御所のことですか!?」
「百合さんはいろんな言い方を知ってますねえ」
どこかずれた主人の声。
「今はご皇宮、と呼ぶのだそうですよ」
とぼけた調子の主人とは裏腹に、焦りきった百合の声が部屋中に響く。
「ダメ、ダメです! そんな、恐れ多いです! ムリです!」
「新年会ですよ? 普通の宴会です」
「宴会なんかじゃないです! それって新年祝賀の儀じゃないですか!!!」
大声を出している百合。こんなに取り乱すことも、それに気づかないでいることも
初めてだ。
「あ、正式にはそう呼ぶんですか」
この時代のこの国の人間ならばほとんど知らぬもののないその祝賀会の名を
さらりと失念している主人。
「ホントならあの、ほら、伊野さんちのお嬢ちゃんを連れて行く予定だったんですけどね」
「伊野さんち…って! 房州公の御令嬢じゃないですか!」
今日何度目かのはしたない大声に、ようやく百合ははっと気づく。
「……し、失礼いたしました」
百合はいつになく慌てた顔を見せた。
「あそこのお嬢ちゃん、おたふく風邪に罹っちゃって。 代わりに誰か、と思ったら
百合さんしかいなくて」
「そ、そんな、そんな、貴族の御令嬢の代理なんてできません!」
「え? ダメなんですか?」
「ダメです! ムリです! どなたか、ほかの方を誘ってください!」
蒼白になって首をぶるんぶるん振る百合。
「え。そんな…ほかに一緒に行ってくれそうな女の人知らないですし」
「旦那様くらいならいくらでもそういう人がいらっしゃるじゃないですか!」
「そんな人いませんよ。それにあんまり知らない人と一緒に行くのいやなんです。
僕ってほら、人見知りですし」
「服だって持ってません!」
「借りてきますよ。……あ、お古がイヤだってんならどこかに作らせますから」
「ムリです! 無茶です! ご、ご貴族や、ご皇族の方々がいらっしゃる
パーティーなんですよ!?」
「みんな普通のひとですよ。羽根や角が生えてるわけじゃないです」
「ぜんぜん普通じゃありません!」
「それに、しゅ、主上陛下も、い、いらっしゃるような、え、宴席になど」
百合は心底畏れ多い、という口調で青くなっている。
「一度お会いしたことがありますけど、意外に気のいいおじさんでした」
「お、おじさん…」
この国で一番尊いはずの人間をおじさん呼ばわりしている、この主人も
相当どうかしている。
「ええ。だから気にせずにどうか」
「無理ですっ!!!」
馬車は揺れている。
乗っているのは主人とメイド、の二人。
とはいえメイドも豪奢な正装を身に着けているので見ただけではメイドとは
わからない。
「…」
「綺麗ですよ」
主人が褒めても、緊張しきっている百合は顔色すら変えない。
「……」
「百合さんはもとがいいから」
「………」
「やっぱり色白だと濃い色のドレスも似合いますね」
確かに、百合の整ったつくりの顔は美人と言って差し支えないし、
卵型の顔に大きな瞳は人目を引く鮮やかさに溢れている。
大きく開いた胸元から首筋の肌理は貴婦人や令嬢でも羨むような白さで、
硬質な表情をしていること以外は難点のつけようがない。
「…………」
「……ねえ、なんとか言ってくださいよ」
向かい合わせの席に座ったまま、百合の顔を覗き込むように主人。
「…む」
「む?」
「…ムリ、です」
「でも、こうして見ると貴族のお嬢さまよりも綺麗ですよ」
「…ご冗談をおっしゃらないで下さい」
「そうですか? どこかのお姫様かと思いますよ」
「おだてないで下さい」
百合は洋装の夜会服の膝の辺りを絹の長手袋をした掌で握り締めている。
「あまり握ると皺になっちゃいますよ」
そう言って主人は馬車の向かいの席から手を差し出す。
百合はその手と自分の手袋をかわりばんこに見る。
意味がつかめない。
「大丈夫です」
主人はスカートからそっと百合の手を剥がすと、そのまま握りしめた。
青白かった百合の顔にゆっくりと血色が戻ってくる。
「僕がついていますから、緊張しないで」
主人は掌の上に百合の手袋の指先を置いて、上下から挟むようにして
手を握り締めた。
ぎゅ、と力がこもった瞬間、百合の胸の中で大きく心臓が跳ねた。
「は、はいっ」
上ずった声で答えながら、百合は自分の顔が真っ赤に染まっていくのを
感じていた。
――これは夢。夢に違いない。だって、夢なのだもの。
よくわからないことを考えていた百合の脳は、唐突に唇を動かせた。
「あ、あのっ…」
「なんですか?」
「手、手袋を…取って、握って下さいますかっ」
噛み気味の百合の
「構いませんよ」
百合の肘まである長手袋を主人は脱がせると、
そっとその白い手を掴んで優しく撫で始めた。
馬車の車内が暗くなかったら、主人は人間が赤くなれる限度を目にしていたことだろう。
―――――――――――――馬車の中でメイドさんが蕩けながら終わる。
…いや続く。むしろ続け。