「百合さん?」
「…緊張、しました」
そう言って脱力したように馬車の皮張りの座席に沈み込む百合。
「お疲れ様でした」
主人はメイドを労って言う。
宴席からの帰りの馬車の中。
貴族や皇族、綺羅星のような各界の名士たちに混じってなんとか上手く
新年祝賀の儀を乗り切った百合は安堵の溜息をついていた。
「○●男爵令嬢、って言ったらみんな信じてましたね」
「はい、でも…良かったのですか?」
百合は心配そうに尋ねる。
主人は悪戯っぽく笑うと、とある古典文学の名著の名を挙げた。
「あの登場人物ですよ。宴席に出てきた幽霊の名前です」
「え、じゃあ、わたくしは幽霊ですか?」
「誰も気づきませんでしたね。貴顕の方々とはいえ、読書家ってのはわりと少ないみたいですね」
悪戯をしたときの子供みたいな笑みを浮かべる主人。
蕩けてしまいそう。百合はその笑みを見た瞬間、骨の芯が溶けてなくなってしまうような
幸福感を感じた。
身体の芯がとろとろに融けて、熱せられた乳脂みたいに
「うふふふふ」
百合の唇から堪えきれないように笑いがこぼれた。
主人は百合の笑い顔を見て驚いていた。
先ほどまでの緊張がほぐれたせいか、百合はいつになく快活で
表情豊かに話している。
このメイドがこんな素顔を見せてくれたのは初めてかもしれない。
胸の奥がすこし暖かくなった主人は、珍しく世間一般の紳士のような
言葉を口にしていた。
「百合さん、今日はほんとうに、ありがとう」
メイドだから、とか貴族だから、といった肩書きや地位とは関係ない、
純粋な人としての感謝の言葉。それが百合の心にはたまらなく心地よい
響きを持って染み入ってくる。
「あの会場にいた誰よりも、綺麗でしたよ」
そう口にする主人の、優しくて暖かい視線が、
大切なものを慈しむような視線が百合の目を貫いた。
外は冬だというのに。馬車の中が熱く感じられる。
百合は身体が熱くなってきてしまう。
百合は途端に主人の視線に気がついた。
こんな。
こんなに肌を見せていたなんて。
今更ながらに気づいた。
羽織っていた織物で肩と胸元を固く覆う。
旦那様の視線だけで、胸がときめく。
胸の奥がキュンキュン痛いくらい、切なくなる。
喜んではいけない。
浮かれてはいけない。
このひとは、好きになってはいけない人なのだから。
そう思う頭とは裏腹に、主人のつけている香りを嗅いだだけで
百合の心は騒ぎ出してしまう。
狭い馬車内なのだから百合と主人の膝がぶつかるほどの距離しかない。。
香料と汗、煙草のにおいの混ざった主人の匂いも百合の鼻にはただひたすら、
身体の芯を熱してくるためのエッセンスになってしまっている。
体温を感じられるほどの距離で、百合はこぶしを固く握り締めて耐えていた。
なるべく旦那様が目に入らないよう、窓の外へ視線を逸らして。
――今日のことは、夢。
百合はそう思い込もうとした。
腕を取ってエスコートされたのも。
貴顕や皇族の方々に紹介されたのも。
すべて夢だったのだ。
そう思えば忘れられる。
旦那様に手を握って頂いたときの温もり。
旦那様と肩を並べてすごした数時間。
胸躍る、心震えるような新鮮な体験。
固く封じたはずの心を甘く溶かしていってしまう。
駄目。忘れなくては駄目。思い出しては駄目。
百合は馬車が止まると主人よりも先に立ち上がった。
馬車に乗っているのが紳士と淑女ならば、淑女は紳士よりも
先に降りたりしないのが習わし。
先に降りた男性に手を貸されながら、優雅に踏み段を降りるのがマナーである。
しかし乗っているのが主人と使用人ならば、使用人は主人より先に降りて、
主人の降車に手を貸さなければならない。
百合はそれを実践することで、自分と主人という関係を規定しようとしていた。
「あ、百合さん――」
主人が止めるのも聞かず、百合は止まりかけた馬車の扉を開く。
そしてすばやく踏み段を降り、主人に向けて手を差し伸べた。
「……」
なにか言おうとした主人も、その百合の態度にはなにも言葉を発することができなかった。
主人の表情に一瞬だけ浮かんだ、憂いを含んだ色。
それは百合の心をさっきとは反対の意味で痛ませた。
百合はもう自分で確信していた。
それは生まれて初めて抱く感情だった。
自分はこの男の人を、尊敬し、敬愛し、思慕し、そして愛しているのだという事を。
差し出されたメイドの手を馬車から降りながら主人は掴んだ。
寂しそうな表情を覆い隠そうとしている。
百合はそこまで見抜いていた。
でも、駄目。
この人を好きになっては、駄目。
この人は私のご主人様で、貴い血に連なるお方で、私のような庶民とは
生まれも育ちも違う方なのだから。
百合はそう自分に言い聞かせる。
何度も、何度も。
だから主人の杖の先が濡れた石畳で滑ったのに一瞬だけ反応が遅れてしまう。
百合の手を取りながら、主人は馬車の踏み段を降りる。
不自由な足を庇いながら杖を地面につこうとした瞬間、それは起こった。
暖かい塊が百合の胸の中に飛び込んできた。
暴力的なまでの触感。主人の肌の匂い。
主人の体温。
整髪料の香り。甘く切なく百合の心を責めさいなむような主人の体臭。
雨で濡れた石畳に杖が滑り、主人が転んだのを自分が身体で受け止めたのだ、と
気づくまで百合には数秒が必要だった。
そして残念な事に、百合が主人に組み敷かれるような格好になっていたのは
これもまた数秒のことだった。
「あ、ごめんなさい。百合さん、大丈夫ですか?」
石畳に尻もちをつきながら、凍りついたように固まっているメイドに主人は
声をかける。
「百合さん?」
頭でも打ってはないだろうか、と心配している主人は百合の顔に近づきながら
その瞳を覗き込む。
「…さん? 大丈夫ですか? 百合さん?」
思考停止していた百合の脳が動き始める。
触感。体温。匂い。
主人のそれは、全てが百合にとっては目新しく、すばらしく、甘いものだった。
だから百合は顔を真っ赤に染めながら、
「し、失礼しますっ」
とだけ言い残して屋敷の中に駆けて飛び込んだ。
首筋や開いたドレスの胸元まで赤くしながら。