ずっと走り続けていた。もっと速く、もっと遠くへ……。  
 
 とうに息は切れ、呼吸をするたびに喉が焼け付くようにひりひりする。裸足が地面を  
踏みしめるたび、膝が悲鳴を上げた。気を抜いたが最後、地に倒れ伏して二度と起き  
上がれなくなりそうで、両腕を振り回しながら走り続けた。  
 背後からは何か巨大なものが蠢く気配と、ざわざわと人の話し声のような音が追って  
くる。走りながら一度だけ振り返ってみると、雲を衝かんばかりの巨大な灰色のナメクジ  
のようなものが何十匹も背後に迫っていた。もしも捕まれば、きっとあのどろどろした  
粘液に包み込まれ骨まで溶かされてあの怪物の栄養分になるのだろう。そう考えた  
だけで寒気がした。  
 
 行く手は暗い。ぼんやりとトンネルの出口のような明かりが遠くに見えている。まっすぐ  
にそこを目指して走っていくけれど、一向に近づくことができない。諦めて立ち止まろうと  
何度思ったことだろう。そのたびに、まだ怪物のエサになる覚悟はできていないと思い  
直してはまた走り出すのだった。  
 僕より少し先を走る妹の背中が見える。さすが、この春から陸上部のキャプテンを  
務めているだけあって、僕よりも足は速い。その彼女がふと足を止めて数歩歩んだかと  
思うと、がっくり膝を突いた。すぐに彼女の足元から黒い塊が這い登ってきて、妹の  
身体を包んだ。  
「咲子! 走れ!」  
 僕の声は掠れていた。  
「だめ、もうっ……膝が笑ってるよ」  
 妹に追いついた僕は、彼女の身体を覆った小さな黒いナメクジみたいな化け物を  
払い落とそうとして、しかし後から後から押し寄せるそれを食い止められずにその場に  
立ち尽くした。妹の肩に手を掛けると一瞬白い素肌が覗いて、しかしまたすぐに黒く  
覆い尽くされる。やがて僕の足元からも、妙な感触が伝わってきた。  
 ゆっくりと振り返って、間近に迫る巨大な軟体動物をぼんやり見上げた。  
もう、考えるのをやめようかと思った。   
 
 不意に僕の背中をにゅるりとした感触が伝って、思わず背筋を震わせた。身体を  
振って振り落とそうにも、なかなかその感触は離れてくれない。やがてその感触は  
肩にまで上ってきて、僕の首筋を掴んだ。払いのけようとしても執拗に僕にまとわりつく。  
 ぐい、と物凄い力で引っ張られた。コンマ数秒遅れて、肩が外れたかのような猛烈な  
痛みが僕を襲う。  
「咲子っ――!」  
 遠のいていく妹の背中に向かってあらん限りの声で呼びかけた。  
「離せ! 離せってば!」  
 肩を掴む何かを振り払おうとして、僕は闇雲に腕を振り回した。妹はまるでこちらの  
声など聞こえないかのようにうずくまって、周囲の闇に飲み込まれようとしていた。  
僕の最後の叫びは声にならず、彼女を掴もうと両手を伸ばしたけれど届くはずもなく  
――そして、意識が白く濁っていった。  
 
 
「うわあああああああーっ!」  
「大丈夫ですか、隆志さま。隆志さ……んぐっ!」  
 ふにゃり、とでも形容できそうなくらい柔らかな、それでいて確かな弾力が僕の  
指先に触れた。  
 驚いて身体を起こすと、寝起きでぼやけた僕の視界に見慣れた風景が飛び込んで  
きた。妙に天井の高い、20畳くらいの自室。少々くたびれた壁紙に印象派の絵が  
掛かり、天井から大きなシャンデリアがぶら下がっている。部屋の中央に、今僕が  
座っている自分のベッド。そして僕が掴んでいるのは。  
 おそるおそる、そちらを振り向いてみる。予想した通りだった。正確に言うと、予想  
された最悪の結果の通りだったのだけど。  
 
「ごめん」  
 彼女の喉に食い込んだ手の力を緩めながら、少し拗ねたような声で僕は謝った。  
「だ、大丈夫、です……。ちょっとだけ、お花畑が見えましたけど」うっすらと赤く僕の  
手の跡が残る首筋をさすりながら、彼女は苦しげに喘いだ。  
「ひどく、うなされていらっしゃったようでしたから」  
 かすかに紅潮した奈緒さんの頬に乱れ散らばる黒髪の上で朝の光の粒が踊る。  
僕はそんな彼女をなんだか色っぽいと思って、すぐにそんなことを考えたことを  
恥じた。溜め息をついて俯く。  
 
 彼女は、奈緒さん。うちに勤めてもう3年にもなるベテランのメイドで、歳は確か  
今年で21になるはず。すらりとした長身に鴉よりも黒いストレートのロングヘアーが  
映える。白黒のツートンカラーの服も良く似合う。日本人離れした彫りの深い細面に  
切れ長のまつげ、すっと筋の通った鼻はちょっと低いけれど、ふっくらした唇と頬が  
妙に艶やかに感じられる。結構な美人の部類に入ると思うのだけれどあまり男と  
縁がないらしいのは、彼女が空手の黒帯だからなのだろうか。  
 
 ぼんやりと彼女を見つめていた僕は、彼女の怪訝な視線に気づいて我に返った。  
「ごめん。最低だな」  
「いえ」彼女は健気にも微笑んで言葉を接ぐ。「もしも隆志さまがお触りになったのが  
私の胸でしたら、今頃は血を見ていたでしょうから」  
「あはは、そんな触るほどの胸もっ……」  
 僕の言葉は最後まで続かなかった。  
「口は禍の門、と申します」奈緒さんは目にも留まらぬ速さで僕の口元に『しぃーっ!』  
のポーズで人差し指を立てた右手を突きつけた。それから溜め息をひとつこぼしたかと  
思うと、くるりと踵を返して部屋を出て行こうとする。  
「ご忠告どうも」  
 投げやりに言い捨てて寝癖たっぷりの頭を掻く。舞い上がった埃が朝日に泳いで、  
僕はひとつくしゃみをした。  
「お大事に」僕に背中を向けたまま、「もうみなさんお目覚めですよ」  
「今日は目玉焼きは半熟にしてよ」  
「そういうことは、もっと早起きできるようになってからおっしゃってください」  
 がちゃり。  
 無情にドアが閉まって、僕はまたひとり取り残された。もう7時半を指す壁の鳩時計を  
恨めしげに睨んで、転がり落ちるようにベッドから抜け出したとき、遠くから飼い犬の  
吼え声が聞こえた。  
 

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