ミン……ミン…ミン…  
ジジ…ジ……ジ…  
 
ブナ、ナラ、カエデ。冬になれば葉を落とし、その白い木肌を見せる樹々も、今は青々とその先端を豊かに繁らせている。  
――夏。  
木々をよくよく見てみれば、そこには空蝉。オオムラサキが飛び、甲虫類が樹液に群がる。  
垂れた樹液はやがて樹の下に浸透し、腐葉土の帯水層に合流する。  
腐葉土はその中に住む蟲たちを目的とする食虫動物によって所々掘り返され、食事の跡地から水がこんこんと滲み出る。  
滲み出た水は高配に従って流れる。次第にいくつものそれらが纏まり、林の中に小川が出来る。  
さて、この流れを追ってみると、そこには――  
 
 
夏緑樹林に囲まれる様に立地しながら、少しそこから距離を取った和洋折衷な雰囲気の屋敷。小高い丘の上にあるそこからは、少し離れた町――いや、村といって差し使えないだろう――を見下ろす事が出来る。  
2kmも町からは離れていない為、全景を見渡す事は出来ない。が、そこは十分に見晴しが良いと言って良かった。  
水田も所々に見えるが、それより多いのは畑。この辺りの特産品は根菜と言う事になっている。  
が、少しでも水田があると言う事は、水源は必ずある。見れば、町の西端の方にゆっくりと中の下程度の規模の川が流れている。  
その川に流れ込む幾つもの用水路のうちの一つ。それを辿って行けば、この屋敷のすぐ横にある林の中の小川へと繋がっているのだ。  
 
屋敷の中、2階。見晴しのいいこの丘の中でも特にその目的に適っている場所、広めのリビングルーム――では無く、そのすぐ横にある書斎。  
今、その中ではちょっとした雑務に終われていた。  
 
「……若。私はご自分で使う本だけでも纏めておいてほしい、と言いましたよね?先程。」  
「……たしかに言ったな、うん。」  
「……で、この有り様はなんですか?本でピラミッドでも建造するおつもりで?」  
「……面白いアイデアだ。しかし人員も物量も足りないな。よし、真弓君。成瀬氏の所に連絡を取ってくれ!すぐに事業を始めよう。これは一大興行になるな!」  
「かしこまりました……って!なにバカな事言ってるんですか!」  
 
若い女がやはり若い男をモグラを叩くが如く殴り倒した。しかもゲンコで。  
 
ところで、二人の見た目は分かりやすくその属性を表している。  
男の方は真中から分けた黒髪で、少々目つきが悪い。が、青いスーツもしっかり着こなしており、清潔感は十分だ。顔つきは生まれつきのようである。  
傍らの女性の手引きがあったとしても、この性質は元来の者であろう。かといって取っ付きにくい雰囲気ではない。  
よくよく観察すれば、礼儀をわきまえた野心家と言った印象を受ける。企業家、と呼ぶべきだろうか。  
 
対して女性。こちらはその職が一目瞭然だ。何故かと言えば、その服を見れば分かる。  
フリルのついたエプロンドレス。和服ベースだが、間違い無しに女中服。  
肩で切りそろえた栗色の髪。根本の方まで同じ色だから、色素が薄い質なのだろう。  
先程の会話だけ見ればきつい顔だちが思い浮かぶかもしれないが、むしろ人の良さそうな顔だちだ。それでもやはり真面目ではありそうだが。  
童顔ではあるが、可愛いと言うよりそれと美人の中間……と言った感じである。  
 
「……っつぅ〜……」  
男が頭を抑えている。普通ならこんな事を使用人にされて黙っている主がいる訳ないのだが……  
「……本当、今やるべき事をしちゃいまいましょうよ。そうすれば後が楽なんですから……」  
女性の態度には主と使用人と言うより友人同士の様な物がある。先程のやけに改まった言葉遣いは皮肉だった様だ。  
「……で、今回は何に気を取られていたんですか?  
どうせそれにかまけて本の整理が頭からどっか行ってしまったんでしょう。君って人は本当に要領が悪いんですから……」  
溜息と呆れ顔のコンボで女性が男を見下ろす。  
「……いや、蔵書を見ていたらずっと昔に無くした昆虫図鑑を見つけてね。覚えているかな、ガキの頃俺が昆虫博士って呼ばれてたのを。  
で、それを見るうちにそういえば屋敷の外にも林があったなあ、と思った訳だ。そこで俺は考えた、今から久しぶりに森林浴でもどうか……と。  
幸い今日はいい天気だ。外は暑いかもしれないけど森の中は涼しいだろう。」  
「昆虫博士ってのは自称だったと思うんですが。それに今はそれどころじゃないでしょうに……」  
「大丈夫だ!森の中で迷って時間を無駄にする事はない。ほら、あそこを見ろ。あの用水路は森の中の小川に繋がってるんだ。あれを辿れば万事解決だ。」  
「そういう事を言ってるんじゃありません!」  
ぼぐり。二度目の打撃音が屋敷に響く。  
 
・  
・・  
・・・  
「……そういえば君の方は?」  
「私の方はとうに終わりましたよ。ついでに若のメールチェックをして、私に出来る事はやっておきました。書類の方も同様です。」  
どさどさ、と書類の束を机に置く。  
「こっちのは後若が印を押すだけです。しっかり目を通してもらいたいのは一旦書斎から出しておいたので。」  
「……相変わらず有能な事で。」  
「若の要領が悪すぎるだけです。バイタリティを一つの物に注げるってのは一つの才能ですけど、他の事に目を向けられなくなるってのが困り者ですよねー……」  
ふう、と息をつく。そのまま眉尻を下げて苦笑。  
「ま、そのおかげでやりがいのある仕事はさせてもらってますが。」  
男もやはり苦笑。がそこで何かを思い付いたらしい。そのまま考え込む。  
またか、と女性は思いながら、しかし男に呼び掛ける。  
「……若?」  
はっと気付いた様な顔をして、男は目を上げた。  
そのまま女性の顔を見つめる。  
「……え、えーと。どうしたんですか?若。見てても面白くない顔だと思うんですが。なにかついてるんですか?」  
男はやや言葉に詰まる。  
「いや……」  
と、女性はややしかめっ面になる。  
「言いたい事があるならさっさと言っちゃって下さい。さっきも言った通り、時間が勿体ないですよ。」  
と、これを聞いて男は決めた様だ。  
 
「……そうだな。単刀直入に聞こうか。……一体どうして君はここで働いてるんだ?」  
「……へ?どういう意味で言ってるんですか?……もしかして私、なにか粗相でも。」  
女性は困惑する。それも、自分が暇をだされる畏れも持って。  
……と、男はそれに気付いた様だ。  
「あ、いやそうじゃない。むしろ逆だよ。  
……さっき言ったけどね、俺は結構本気で君の事を有能だと思ってる。なのにそんな君がこんなとこに居てもいいものか、とね。  
君ならもっと未来がある生き方ができるはずだよ。こんな落ち目の旧士族にそんな時代錯誤な格好して仕えつつ、俺達が何とかやってる会社を手伝うよりも……  
100年前ならいざ知らず、この平成の御代だ。君にはそれだけの実力がある。俺と同じ大学も出ているんだし、学暦も十分だろう。」  
はあ、と女性は安堵のため息をつく。  
「……そんなことですか。それは簡単です。  
いいですか?我が真弓家は戦国の昔より若の家系、枯川家に仕えているんです。その姓の示す通り、枯川を守る弓として私達は……」  
 
と、そこまで言って遮られた。  
「あー。聞きたい事はそういう事じゃ無くてね……  
じゃ、聞き方を変えようか。枯川家次期当主とその使用人兼護衛兼秘書の真弓としてでなく、枯川朧とその親友兼幼馴染み兼元同級生の真弓水晶として、ね。  
水はどうしてここで働いているんだ?」  
水晶、と呼ばれた女性は本日何度目か分からないため息。  
「……まためんどくさい事考えますねー……  
でも答えないと作業再開してくれませんもんね、若の性質考えると。  
しばしお待ちを、切り替えますから。」  
言うなり水晶は目をつぶり、握り拳で軽く額を三度殴った。  
 
 
「……で、『どうして私がここで働いているか』だったかな?朧。」  
「……いつ見ても君のそれは多重人格にしか見えないんだけどな、水。  
……DV喰らってるとかは……ないか、あの親父さんたちだし。」  
と、水晶はむくれ顔。これも含め、先程までよりやや取っ付きやすい表情になっている。まあ、さっきまでの表情にしても十分親しみやすかったのだが。  
「……あのね、君は私と私の家族を何だと思ってるの。公私のけじめをつけているだけだって。仕事じゃ私と似た事してるけど、プライベートじゃ父さんだってあなたのお父さんと平気で殴り合ったりしてるじゃない。  
それと同じ。のーぷろぶれむ。Do you understand?」  
「アレと一緒にしないでくれ…… 俺はあそこまで体力ないよ。」  
と、二人揃って苦笑い。  
「ま、それには同意しときますか。……で、本題に入るけど。」  
と、水晶は目をつぶって考え込んだ。  
「……ここで働く理由、ねぇ……  
……ざっと考えて3つくらいあるかな。」  
それを見て朧は意外そうな顔。  
「……そんなにあるのか?」  
水晶はジト目を朧に向ける。  
「そりゃああるわよ。ここにはいろいろ思い入れもあるし。  
……っと、一つ目の理由簡単にいい過ぎちゃった。ま、そういうことかしらね。  
それにさっき言った『真弓としての立場』が加わったと言う所かな。」  
「……君らしいというかなんというか。結構サバサバした性格に見えて感傷好きなんだよね。」  
と、水晶は顔を赤くする。  
「なんというか……。もう。次の理由言わせてもらうわね。  
2つ目は……私は憶病者だからって言う事にしときますか。」  
「……臆病者?君が?」  
「そ、臆病者。知らない所にいってうまく立ち回る勇気は私にはないって事。その点では君と私は良いコンビかもしれないわね……  
君なら興味さえあればどこにだって行くもの。安心できる暮らしが好きなのよ、私。」  
「ああ、そういう意味か。だったら……」  
朧はそれを聞いて難しい顔。  
「……どうしたの?」  
「……いや、だったらそれこそここに居るべきじゃないんじゃないか?水。俺が言うのもなんだけど、家の未来は結構暗いぞ?」  
朧はうつむいてため息をつく。  
水晶はそれを見てしばし無表情。そして目をつぶり、言った。  
「……最後の理由。さっき君は私の事を有能だって言ってくれたけど、私の方もそれと同じ。  
こう見えて、私は結構君の事買っているのよ。それこそいつかこの家を立て直すどころか、それ以上に大成するだろう……ってね。  
だったらそれを信じてここに居ても、別に構わないでしょう?どうやら私は君の役に立っているみたいだし。」  
朧は顔をあげる。見れば、水晶はくすくす微笑んでいる。  
そして、深呼吸。ゆっくりと息を吐きつつ、朧は言う。  
「……2つ目の理由と矛盾しているぞ、それ。」  
「あら、どうして?そうは思わないけど。仮にそうだとしても、それくらいは君の事信頼してるって事よ。」  
 
「……やれやれ。俺も期待されたもんだね……」  
そして、朧は苦笑しつつ立ち上がる。  
「さーて、さっさとやる事終わらせますか!」  
朧は傍らを見る。と、そこでは水晶が己の額を殴っていた。  
切り替えか……と朧は思う。  
と、そこで水晶は朧に思わぬ事をいった。  
「……いえ、やっぱりいいですよ。……森林浴、行きたいんですよね?」  
「ん、まあ……な。」  
さて、どうしたのだろうか、といぶかしむ朧。  
「とりあえず、今日はもういいです。たまには御自分の望む事をするのもいいでしょうしね。私が続きをやっておきますよ。」  
口調は切り替わったものの、水晶の表情はくすくす笑いのままだ。  
今の会話のおかげかな…と朧は思う。  
彼女は自分を信頼してくれて、更に楽しんでこいと言う。ならば。  
「……一緒に行かないか?森林浴。」  
「……え?」  
口端を上げつつ、朧は言う。  
「俺がたまに遊んでいいのなら、君だって同じだろ?一人で行くより誰かと言った方が話しも弾むしな。整理は明日でもいいだろう、どうだ?」  
水晶はしばし考え込む。そして  
「……しょうがないですね。ええ、私は構いませんよ?」  
話しが早い。多分、彼女も鬱憤が溜まっていたのだろう。  
「じゃ、用意して来てくれ。まだ午前中だし、向こうで弁当を食べるってのはどうだ?きっと気持ちいいぞ。」  
「……うーん、今からじゃちょっと間に合いませんかねー…… もっと早く言って下されば良かったんですけど。  
ティーセットはどうですか?それくらいなら大丈夫だと思います。」  
「じゃあ決まりだ。頼んだぞ?」  
「……はい!」  
水晶の足取りは軽い。と、その後ろ姿に朧が呼び掛ける。  
「あ、それとだな……」  
「……はい?」  
一つ前の言葉とイントネーションの違う同音語での水晶の返事。それに笑いつつ朧は言う。  
「……これからも宜しくな。少なくとも、俺が君を使用人として見る気を変える時まで、ね。」  
「……さらっと不吉な事言ってくれますねー、若。はいはい、首にならない様頑張りますって。」  
苦笑しつつ、自室へ向かう水晶。それを見つつ朧は呟く。  
「……遠回しすぎたかな。まあ、いいか……」  
どうせしばらくはこのままだろう。それについて悪い気はしない。過去も変わるときは変わって来たのだし、未来においてもそれは同じだ。  
出来るのは  
「……今そのものを楽しむ事、だな……」  
無論過去を踏まえて未来を見据える事も忘れてはならない。  
だから、それをしつつ朧は今を考える。  
さて、森林浴を楽しむ為にはどうすればいいかな、と……  
 
 
 
 
 おまけ 
 
 
 
 
……その夜。  
「あー、かゆいかゆいかゆい!どーしたものかな、もう!」  
「……どうした、水?」  
「森の中で蚊にあちこち……  
何で君は全然食われてないのよ……」  
「……さあ。」  
「あーもう、素直に書斎の整理しているべきだったかもしれないわね……」  
「……すまん。」  
 

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