家庭訪問に授業参観、課外授業に夏休みの準備。
生徒のイベントの裏には、当然教師の働きがある訳で。
それに加えて部会会議やら出張やら、教師は何かと仕事が多い。
分かっちゃいるけどこんなに忙しい物だとは思わなかった。
「せんせー、さよーならー」
「はい、さようなら。気を付けてね」
教え子達が次々と教室を出て行く。
その足取りはいつも以上に軽い。
ま、無理もないか。明日は遠足だし浮かれるのも当然。
私は教員用の椅子に座って、今日提出された生活日記の束をまとめた。
うちの学校では六月半ばに一泊二日の修学旅行がある。
それに併せて五年生から下は地域内での遠足。
秋の社会見学とは違って徒歩で向かう先は、学年によって様々だ。
私が受け持つ二年は、郊外にある大きな自然公園。
休日は家族連れで賑わう場所は、私も子供の頃何度か両親と行った事がある。
小学三年までこの街に居たので、馴染みがあると言っても過言ではない。
明日は晴れるって言うし……大変だろうな…。
雨なら雨で、また大変なんだろうけど。
「せんせー」
教室に残っていた生徒の一人が、真っ赤なランドセルを背に私に近付いた。
「何?茜ちゃん」
「明日のお弁当、楽しみだね〜」
……子供って、たまに何の脈絡もない事言うよね。
にへーっと嬉しそうに笑ったのは、うちのクラスでもとびきり元気な茜ちゃん。
家庭訪問で出会った彼女の母親も、姐御肌の人だったから何か納得。
「そうだね。茜ちゃんは何を作ってもらうの?」
「卵焼きとミートボール!せんせーにも分けたげるね」
「あら、ありがとう」
「うん!」
元気良く頷いた茜ちゃんは、よいしょとランドセルを担ぎ直した。
「じゃあねー」
「はい、さようなら」
パタパタと軽快な足取りで茜ちゃんが教室を出ようとする。
その拍子に教室の扉が開き、よそ見をしていた茜ちゃんは、教室に入ってきた人物と思いきり良くぶつかった。
「っとぉ…大丈夫か?」
退け反った茜ちゃんを支えたのは、隣のクラスの担任、門田直樹先生だった。
茜ちゃんは門田先生を見上げると、ふるりと頭を振った。
「へーきでーす」
「うし。よそ見ばっかしてんなよ、茜ちゃん」
「はーい」
ずれた帽子を直して貰い、茜ちゃんは元気に返事をする。
「さよーならー」
「ん、さよなら。廊下は走るなよー」
やはり元気に手を振った茜ちゃんは、そのまま足早に廊下を歩いて行った。
「元気娘…。ウチのクラスにも見習わせたいよ」
「私は門田先生のクラスが良かったです」
眉を下げて茜ちゃんを見送る門田先生に、私は冗談めかして視線を送る。
門田先生はチラリと私を見ると、フッと自慢気な笑みを浮かべた。
「そりゃ、俺のクラスは俺の指導が効いてるからな。良い子揃いに決まってる」
「はいはい」
無意味に腰に手を当てた門田先生の言葉を受け流し、私は生活日記に意識を戻した。
「それよか長谷部センセ、明日の遠足」
「はい?」
片手に教材を持った門田先生が近付くのが気配で分かる。
私は生活日記から顔を上げる事なく、話の続きを促した。
「弁当、どーすんの?」
………はい?
唐突な問掛けに私は門田先生を見上げた。
たぶん──いやきっと、私は限りなく間抜けな顔をしていたに違いない。
門田先生はどこか楽しそうな表情で、少し首を傾げて私を見下ろしていた。
本来、こんなプライベートな質問は受け流すんだけど。
皮肉な事に門田先生は、私、長谷部千草の幼馴染み。
先日二人で飲みに行った時に、十三年振りの再会に驚いたのは記憶に新しい。
それからしばらくして、門田先生の御両親と会う機会もあったせいか、公私共々彼にお世話になっている感は否めない。
私は少し肩の力を抜くと、頬杖を付いた。
「悩み中です。……門田先生は?」
「お袋が作るって。良けりゃセンセの分も作るってよ?」
「……いや、流石にそれは…」
教室には私と門田先生しかいない。
だからと言って、こう言う話をして良い訳じゃない。
……いや、別に良いかも知れないけども、何と無く気恥ずかしいのは私だけだろうか。
どうする?とでも言いたげな門田先生の視線。
私は先生から視線を外すと、眉間に皺を寄せて考えた。
「独り暮らしのチィちゃんが心配なんだと」
「…チィちゃんって呼ばないで下さいよ」
門田先生の声音にからかいの色が見えて、私は軽く先生を睨み付けた。
でも先生は気にせずに、明後日の方を見ながら言葉を続ける。
「こないだ会って以来、晩飯とか朝飯とかちゃんと食べてんのかー?ってうるせぇんだわ。一回晩飯に呼んで来いってさ」
あぁ…想像出来る。
門田先生の御両親に会ったのは偶然だった。
たまたま買い物に行った電気屋さんで、夫婦仲良く買い物している姿を見掛けたのだ。
初めは気付かなかったのだけど門田先生も一緒に居たらしく、声を掛けられたのがきっかけ。
私の家の吹飯器が壊れていたのは、この際どうでも良い話だ。
そんな門田先生のお母さんは、典型的な世話好きだ。
小さな頃も、遊びに行っては何かと世話を焼いてくれた。
先日出会った時も「あらあら、まあまあ」とか言いながら、無し崩し的にお昼を一緒に食べる事になった。
「センセさえ良けりゃ、だ。無理強いはしねぇよ?」
「んー……」
正直なところ、門田先生の申し出は嬉しい。
嬉しいけれども、だ。
こう言う所で馴れ合って良いのかどうか、まだ私には境界線が見えない。
仕事とプライベートは分けるべきなんだろうけど、独り暮らしの身の上には果てしなく魅力的なお誘いな訳で。
「……迷惑じゃありません?」
そう私が尋ねたのは、きっかり三分が経過してからだった。
門田先生は微かな笑みを浮かべると軽く首を左右に振った。
「迷惑なら訊きゃしねぇよ。ならお袋に伝えとくぜ」
「……オネガイシマス」
思わず深々と頭を下げた私を見下ろし、門田先生は楽しそうに喉の奥を震わせた。
翌日。
これ以上ないほどに晴れ渡った空には、夏を予感させる眩しい太陽が輝いている。
雲一つない快晴に子供達のはしゃぐ声が響いていた。
小一時間ほどの道のりだけど、子供達の元気は衰えない。
総勢六十人近い人数を、私と門田先生、教務の玉置先生の三人で引率するのは、はっきり言って大変だった。
「はいはい静かにー。これからお昼まで自由時間だけど、昨日言った通り公園からは出ない事。必ず誰かと行動する事。気分が悪くなったり怪我をしたら先生に報告する事。以上、解散っ!」
門田先生の言葉に子供達はワッと解散する。
学校から持って来たボールやバドミントンで遊ぶ子達。
近くに流れる人工の小川に向かう子達。
私と玉置先生は集合の目安になる大きな椎の木の下にシートを敷くと荷物を下ろした。
ちなみに、意外に子供達から慕われている門田先生は、早速男の子達に引っ張られ一緒になってサッカーをしている。
「晴れて良かったですね」
私の親よりも少し年下の玉置先生は、被っていた帽子を脱ぐと持っていたハンカチで汗を拭った。
「本当。…長谷部先生、お茶、飲みます?」
くりっとした丸い目で私を見た玉置先生は、ハンカチを仕舞うと水筒を手にした。
「あ…いえ、私も子供達の様子見てきます。玉置先生、この場所お願いしますね」
「はい、行ってらっしゃい」
集合場所には誰か一人は残ってなきゃいけない。
快く引き受けてくれた玉置先生を残し、私は帽子を被り直すとハンカチと携帯を手に小川の方へと向かった。
私がこの街を離れていた十三年の間に、街は随分とその姿を変えていた。
大学はこの近くを選んではいたけど、当時私が住んでいたのは隣の市。
教員採用が決定してから戻って来たので、最初は随分戸惑った。
でもこの公園は昔とあまり変わっていない。
手入れの行き届いた林も小川も、少し新しくはなっていたけど昔の面影が残っている。
「はせべせんせー!」
ゆっくりと歩く先の小川に、三人程の生徒が見える。
その中の一人が私に気付くと、ぶんぶんと大きく手を振って私を呼んだ。
「どうしたの」
「タオル忘れた」
へらっと笑ったのは、早くも川に浸っている隣のクラスの大地君。
一緒にいるのは私のクラスの勇太君と茜ちゃんだった。
「あらあら」
無邪気な大地君の様子に私は思わず笑ってしまう。
天気が良いとは言え、風邪をひいたら大変だ。
「玉置先生の所にあるから、持って来てあげる」
「じゃ、あたしも入ろー」
私の言葉に茜ちゃんが早速靴と靴下を脱ぎ始める。
ポイポイと脱ぎ捨てたそれを集めたのは、一人川岸に残る勇太君だった。
天真爛漫を絵に描いたような茜ちゃんやガキ大将な大地君と違って、勇太君は物静かで大人びた子だ。
どちらかと言えば教室で本を読んだりクラスで飼っているインコや金魚の世話をするのが好きで、二人とは対照的だけど、三人は凄く仲が良い。
門田先生の話だと、彼等も私と門田先生のように幼馴染みらしい。
自然と役割分担が決まっているらしく、勇太君は茜ちゃんと大地君の荷物をまとめると、川縁に腰を下ろした。
「勇太君は入らないの?」
顔を覗き込むようにして勇太君を見ると、勇太君は困ったように唇を尖らせた。
自然と役割分担が決まっているらしく、勇太君は茜ちゃんと大地君の荷物をまとめると、川縁に腰を下ろした。
「勇太君は入らないの?」
顔を覗き込むようにして勇太君を見ると、勇太君は困ったように唇を尖らせた。
「いい。僕、二人のお守りだから」
子供らしからぬ言いように、私は思わず吹き出した。
まだ七歳かそこらだと言うのに、自分の役目を分かっている。
それは少し可笑しくて、同時に微笑ましくも思える。
クスクスと笑う私を見て、勇太君は大袈裟に溜め息を吐いた。
「二人は僕が見てるからさ。先生は散歩してきなよ」
「はいはい、ありがとね」
大人びた口調に可笑しさを近似得ないが、私は笑いを押し殺すと川に入っている二人に声を掛けた。
「あんまり濡らさないように、気をつけなさいよ?」
「はーい」
「分かってまーす」
はしゃぎ声をあげる二人には、私の注意なんて意味はない。
かと言っていちいち目くじらを立てる気もない私は、他の生徒達の様子を見に行く事にした。
幸いにも誰一人怪我をする事もなく、お昼の時間がやって来た。
大地君と茜ちゃんは見事に膝までズブ濡れだったけど、コレはコレで良しとしよう。
替えの体操服もある事だし。
それよりも、だ。
朝、学校にいるうちに門田先生から受け取ったお弁当。
先生に因ればおかずは別々らしいから、心配する事は何もない。
玉置先生と門田先生、そして私。車座になってそれぞれのお弁当を広げる。
人様の作ってくれた食事なんて久しぶりで、私は年甲斐もなくウキウキしながらお弁当の蓋を開けた。
卵焼きにポテトサラダ、付け合わせのブロッコリー。メインには人参とインゲンのベーコン巻き。
ごはんには小魚の釘煮と高菜のお漬物が添えられていて、否が応でも食欲がそそられる。
頼んで正解!
思わず心の中でおばさんに合掌した私は、ふと門田先生のお弁当を覗き見た。
卵焼きに人参のきんぴら。恐らく冷凍食品と思われるおひたしと、どう見ても私の方が手が込んでいる。
……魚の南蛮漬けは…昨日の晩御飯の残りかな…。
「あらー、先生のお弁当可愛いですねぇ」
ひょいと私のお弁当を覗いたのは玉置先生。
悪意も他意もない言葉だけど、今の私は少しばかり心苦しい。
曖昧に笑いながら門田先生の様子を伺うと、彼は至って平然とした表情で、自分のお弁当を突付いていた。
と言っても、門田先生って何処か掴めないのよね。
本当に何とも思っていないのか……それとも内心気にしているのか。
考えても仕方ない事と知りつつも、私は門田先生の事が気になって仕方がない。
チラチラと伺いながら箸を進める私は、折角のお弁当の味も分からないままだった。
「せんせー」
他愛もない話をしながら食事を続ける私たちに無邪気な声が掛る。
振り返ると茜ちゃんが小さなお弁当箱を手に、こちらに歩いて来る所だった。
「どうしたの?」
私が言うと、茜ちゃんはずいっとお弁当箱を差し出した。
「おかず交換しよう?」
中身は昨日言っていた通り、卵焼きとミートボール、ほうれん草と人参の和え物に小さく纏められたおにぎり。
「良いよ。何が食べたい?」
「卵焼き!」
私も自分のお弁当を差し出すと、茜ちゃんは嬉しそうに笑いながら卵焼きを指差した。
私はお箸で卵焼きを茜ちゃんのお弁当箱へと移動させる。
「茜ちゃん、卵焼き好きなのね」
「うん。大好き〜」
玉置先生の言葉に茜ちゃんは本当に嬉しそうににこにこと笑う。
そんな無邪気な笑顔は、見ているこちらも笑顔にさせてくれる。
子どものパワーって凄い。
私もつられたように笑顔になりながら、何気無く門田先生の方を見た。
──……あれ?
門田先生も笑顔だ。でも、その笑顔は何だか違う。
茜ちゃんに対する微笑ましさで玉置先生も笑顔なんだけど、門田先生の笑顔はちょっと違う気がする。
僅かに細められた目とか、口許に浮かぶ薄い笑みとか。微笑ましさと言うよりは何処か楽しそうな笑顔。
何なんだろ…この違和感。
そう考えた私の思考回路を中断させたのは、茜ちゃんの声だった。
「はい、ミートボール」
茜ちゃんの声にそちらを向くと、茜ちゃんは私のお弁当に爪楊枝で刺したミートボールを移動させた所だった。
「それ、ママが作ったんだよ」
「へぇ。手作りなんだ」
「シハンヒンのは甘すぎるから、パパが嫌いなんだって。美味しいよ」
移動させられたミートボールは、確かに市販の物とは違っていた。形も僅かにいびつだし、あの微かに甘ったるいソースじゃなくシンプルにウスターソースで染められている。
「ありがと」
お礼を言うと茜ちゃんはやっぱりにこにこ笑いながら、大地君と勇太君の待つシートへと戻って行った。
その時にはもう、私は門田先生の笑顔の事は忘れていた。
「茜ちゃんと長谷部先生って似てるな」
そう門田先生が呟いたのは、学校に戻って来てからだった。
遠足の終わっていない上級学年の先生方はおらず、職員室はシンとしている。
何人かの先生は居る事は居るけれど、後片付けや引き継ぎ業務で私達に注意を向けている先生はいない。
「どう言う意味ですか?」
来週からの授業の準備をしながら、私は門田先生に問掛けた。
門田先生は学級日誌に目を向けながら、私の方なんてチラとも見ない。それでもその顔には確かにあの笑みが浮かんでいた。
「卵焼き」
……はい?
ポツリと呟かれた単語は不可解。
いつの間にか仕事の手を休めていた私は、まじまじと門田先生を凝視した。
「チィちゃんの大好物じゃん。卵焼き」
楽しそうに目を細めながら門田先生は学級日誌にペンを走らせる。
その言葉に私は一瞬何かを言いそうになったけれど。結局それは上手く言葉にならなくて、私は言葉を飲み込んだ。
「お袋が気にしてたのよ。チィちゃん今でも卵焼きが好きなのかしら?って」
「……おばさんが…?」
パタンと学級日誌を閉じた門田先生が、笑顔のまま私の方を振り向いた。
「覚えてねぇの?昔、晩飯に何が食べたいか聞いたら、思いっ切り笑顔で卵焼きっつったの」
………え…?
「……っ…!」
思い出した。
確か私が幼稚園に入った年。お祝いに門田先生の所で家族全員晩ご飯を一緒に食べようって話になった時の事。
主賓の私に何が食べたいのか、門田先生のお母さんが聞いたのだ。
最終的には近所のレストランでオムライスを食べたんだけど。
その時の両親の恥ずかしそうな顔も、門田先生の御両親の複雑な笑みも、今の今まですっかり忘れてた。
「思い出したか?」
私の様子に、門田先生が私の顔を覗き込んだ。
「……ハイ」
何でこの人はそんな事を覚えてるのよ。
恥ずかしいのと決まりが悪いのとで、私は思わず門田先生から視線を外す。
門田先生はニンマリと意地の悪そうな笑顔を浮かべると、机の引き出しから煙草の箱を取り出した。
「あの笑顔は最高だったな。ホント、卵焼きが好きなんだーって思ったし」
「ちょ…馬鹿にしてます!?」
「してねぇよ。可愛かったって言ってんの」
からかい口調に思わず口先を尖らせると、門田先生はそんな台詞をあっさりと吐き出しながら席を立った。
「今度晩飯に来いよ。卵焼きの他にも食いたい物考えといてな?」
駄目押しの如くポンと私の肩を叩いた門田先生は、そのまま喫煙所へと向かって行った。
残された私は何とも複雑な気持ちのままで、その背中を見送っていた。
昔の事を知っている人って言うのは、どうにもやりにくくてかなわない。
しかもそれが同じ職場となれば尚更の事。
「…卵焼き詰めて返してやろうかしら……」
そんな事をボソリと呟いて、私は机の上に乗せた空のお弁当箱を見つめ、小さな溜め息を吐き出した。