夏休み。  
と言った所で教師には盆も彼岸も関係ない。  
 
いや、ある事はあるんだけどさ。  
 
夏休みだからと言って教師に四十日きっかり休みがある筈もなく、それなりに忙しかったりするのだ。  
ここぞとばかりに県下の教師が集まって教育論を戦わせたり、生徒が集まるプールの監視員を務めたり。  
勿論二学期に向けての授業確認なんかもあったりして、初めてだらけの私はもういっぱいいっぱい。  
それでも何とかこなせているのは、他の先生方の指導と助けがあるからに他ならない。  
 
そう。  
別に誰か特定の人って訳じゃない。  
例え幼馴染みが同じ学校で同じ学年の教師だったとしても、その人だけにお世話になってるなんて事は断じてない。  
ないったらない。  
 
 
なのに──  
 
 
ほどよくクーラーの効いたリビングで、私は何とも居心地の悪い思いをしていた。  
私が今居るのは、昔私が通っていた小学校のすぐ近く。  
幼馴染み、門田直樹先生のお住まいである一軒家。  
昔、門田先生が引っ越したばかりの頃に一度だけ家族で訪れた記憶がある。その頃に比べれば流石にくたびれてはいるけれど、手入れと掃除の行き届いた部屋は記憶の中と大した違いはない。  
 
数日前、何日かぶりに学校で門田先生と顔を会わせた時、先生から改めて食事のお誘いがあった。  
前々から門田先生のお母さんから晩ご飯の誘いはあったんだけど、色々と忙しくていまだにお邪魔した事がなかったのだ。  
今日から一週間、私は少し早い夏休みで教職からは解放される。そんな私と全く同時期に休みを取った門田先生は、この機会に私を家に招待しようと思ったらしい。  
実家に帰るぐらいしか特に用事もない独り身なので──自分で言ってて悲しいわ、コレ──私は素直にお誘いを受けたんだけど。  
肝心の門田先生は、コンビニに煙草を買いに行くと言って、つい五分ほど前に家を出て行った。  
残された私は一人ポツンとソファに腰掛け、出されたアイスコーヒーにも手を付けず、きょろきょろと落ち着きをなくしていると言う次第。  
 
何気無く壁に掛けられた時計を見上げると午後一時を少し過ぎた頃。  
晩ご飯を食べるためにお邪魔するには余りにも早い時刻だけれど、門田先生が指定したのは真っ昼間だった。  
どうしてこんな時刻に呼んだのか。その理由は私には分からない。  
だいたい他人を家に招いておいて、肝心の家人が外出するなんてどう言う事よ。  
「家捜しされたらどうすんのよ」  
ボソリと呟いてはみる物の、勿論私にそんな気はない。  
こんな事で犯罪者なんかにはなりたくないし。  
汗を掻いたアイスコーヒーのグラスを手にした私は、大人しく門田先生の帰りを待つ事にした。  
氷が溶けて少し色が薄くなったコーヒーは、味も少しぼやけている。  
セミの声や時折走る車の音以外は静かな物で、住宅街と言っても子どもの声も聞こえない。  
「ただいま」  
アイスコーヒーが半分ぐらい減った頃、玄関の開く音がした。  
「お帰りなさい」  
コンビニ袋を手に戻った門田先生は、パタパタと手で顔を扇ぎながらリビングに入ってきた。  
「悪かったな」  
「いえ」  
「ホイ、お土産」  
差し出された袋を半ば反射的に受け取る。覗いてみれば中身はバニラと抹茶のカップアイスだった。  
「お好きな方をどーぞ」  
言いながら門田先生はキッチンへと向かう。  
私は抹茶のアイスと付属のスプーンを取り出すと、残りを袋ごとテーブルに置いた。  
遠慮はしない。いや、本来ならするべきなんだろうけど、遠慮したって「食べろ」って言われるのは目に見えている。  
この三ヶ月あまり、ほとんど毎日のように顔を会わせていれば、門田先生との付き合い方ぐらいは何と無く分かる。  
 
私と同じようにアイスコーヒーのグラスを手にリビングに戻った門田先生は、一足先にアイスを食べ始めた私を見て、何故か満足そうに笑みを浮かべた。  
「やっぱり抹茶か」  
「え?」  
木ベラのスプーンでアイスを口にした私は、きょとんとした表情で門田先生を見上げた。  
「チィちゃん、絶対抹茶だったじゃん」  
「……そう言えば…」  
言われてみれば確かに。  
昔住んでいた社宅のそばには酒屋さんがあって、私や門田先生、それに「カナちゃん」なんかは良くお菓子を買いに行っていた。  
その時から私が選ぶアイスは抹茶味。反対に門田先生は抹茶味が苦手で、必ずと言って良い程にバニラアイスを選んでいた。  
「門田先生だって変わらないじゃないですか」  
思わず笑みを溢して言うと、向かいのソファに腰を下ろした門田先生は、アイスを取り出しながら小さく笑った。  
「好きなモンがそう簡単に変わるかよ。言っとくけど、今は抹茶も食えるからな?」  
「本当ですか?」  
「……あのなぁ」  
日頃のお返しとばかりに態とからかうと、先生は半分呆れたように半分困ったように苦い笑みを浮かべた。  
普段あまり見ない表情に嬉しくなって、私は笑顔のままアイスを口に運ぶ。  
門田先生はそれ以上何も言わずに、自分のアイスを口にした。  
「ところでさ」  
性格に似合わずチマチマとアイスを食べていた門田先生が口を開く。  
外見に似合わず──と言う事にして欲しいんだけど──ザクザクとアイスを食べていた私は、無言のまま門田先生に視線を移した。  
 
「その『門田先生』っつーの、何とかなんねぇ?」  
また奇妙な事を言い始めたわね、この人は。  
いつも唐突に不可解な事を言う門田先生に、私はやっぱり無言のままで首を傾げた。  
アイスのせいで少し頭がキーンとしてるからなんだけど、言わなきゃバレないから良しとしよう。  
「お袋とか親父に会うのに、『門田先生』のまんまってのもアレじゃねぇ?」  
──ドレですか?  
そう突っ込もうかとも思ったけど、それは取り合えず止めておいた。  
曖昧な言葉で言いたい事が伝わるのは日本語の良い所よね。  
「そう…ですかね?」  
肯定も否定もせずに手元のアイスに視線を落とす。  
考える様子の私を見て、門田先生は小さく頷いた。  
「今日は仕事は抜きにしたいし?他のセンセ方ならいざ知らず、チィちゃんにまで他人行儀な呼び方されると……どうもな」  
「……はぁ」  
言いたい事はだいたい把握した。  
ようは叔父さんや叔母さんの前じゃ、仕事モードは控えて欲しいって事だろう。門田先生は普段からかなりフランクな口調や態度だけど、私は結構気を張ってたりするからついつい固くなっちゃうのよね。  
しかし、だ。そう言われた所で簡単には行かない。  
第一、今更なんて呼べば良いんだろう。  
そんな私の疑問が顔に出ていたのか、門田先生は木ベラを口先でゆらゆらさせて首を傾げた。  
「『ナァくん』は無理でも、せめて『なおくん』とか『直樹くん』?あ〜…『直樹さん』だと新妻っぽくてヤだな」  
私に向けて言ってるのか。それとも自問自答なのか。  
恐らくその両方だとは思うけど。  
──新妻ってのは何よ。  
思わず顔をしかめた私を見て、門田先生は面白そうにニンマリと笑った。  
「ま、チィちゃんが選んでくれるなら、俺は何でも良いけど」  
態とらしいニヤニヤ笑いが気に食わない。  
私はザクザクとアイスを掻くと口の中に放り込んだ。  
「『門田さん』は駄目なんですか?」  
暫し考えた後、私が出した妥協案に門田先生は顔を逸らせて首を左右に振った。  
「却下。親父もお袋も『門田さん』じゃん」  
「でも──」  
「それに」  
悪あがきをしようとした私に、門田先生はピシリと木ベラを突き付けた。  
 
「こないだ会ったろ?ウチの親は『長谷部センセ』の事を『チィちゃん』だと思ってるんだ。長年の思い出は美化されんだよ。それを簡単に崩してやるなよ」  
「……それ、騙してる事になりません?」  
「なりません」  
ジトと木ベラの向こうの門田先生を睨みつけたけれど、門田先生は飄々とした態度で木ベラを引っ込めた。  
詭弁だ。って言うか詐欺だし。お金は絡んでないけど。  
「大人になるのは仕方ねぇけどさ。やっぱ寂しいじゃん、他人行儀にされると」  
尚も見据える視界の向こうで、門田先生はアイスを食べながらモゴモゴと呟いた。  
 
──あぁ、そう言う事か。  
 
その気持ちは何と無く分かる。  
特別仲が良かった訳じゃない級友と再会した時に感じる微妙な溝。  
その感覚は級友でなくても当てはまる訳で。  
門田先生とは殆んど毎日顔を合わせていたけれど、叔父さんや叔母さんはそうじゃない。  
私はどうしたって距離を置いてしまうけど、向こうにしてみればそれは凄く寂しい事なのかも知れない。  
となれば尚更、間に立つ門田先生は、その溝に気付かないフリをするのも難しいだろう。  
 
「……分かりました」  
溶け始めたアイスを掻き集めて呟く。  
門田先生は少し私を眺めていたが、すぐにアイスをすくうとそれを口に運んだ。  
「頑張ってみる。うん」  
「ン、そうしてくれ。まだ時間はあるしな」  
 
もしかしたら門田先生がこの時間に私を呼んだのは、少しでもその距離を縮めようとしたからなのかも知れない。  
嬉しそうに笑う門田先生を見て、私はそんな事を思った。  
 
 
アイスを食べ終えた私達は、二人揃って門田先生の家を後にした。  
こんな住宅街なのにセミの声がうるさくて、否が応でも夏を感じさせる。  
照り付けられる太陽の光はアスファルトに反射され、背中にはじんわりと汗が滲む。  
「何処に行くんですか?」  
何も言わず連れ出された私は隣を歩く門田先生を見上げる。  
門田先生はチラリと私を見下ろすと、少し楽しそうに口許に笑みを滲ませた。  
「懐かしいトコ。すぐだから」  
「あ……はい」  
「『はい』じゃなくて『うん』」  
「……うん」  
言葉遣いを訂正され、渋々頷いた私は、何も言わずに門田先生に付いて行く事にした。  
日傘を持つ手が汗でじわりとして気持ちが悪い。  
門田先生も「暑い」「だりぃ」とぶつくさ呟いていたけれど、それでも歩くスピードは衰えない。  
そんなにダルいなら家に居れば良いのに。  
それでも私を連れ出したって事は、よっぽど私を連れて行きたい場所があるんだろう。  
 
やがて。  
門田先生は足を止めると、煙草を取り出しながら私を見下ろした。  
「ここ」  
「え?……ここ?」  
そう古くない住宅が立ち並ぶ一角に、ポツンとあるのは小さな空き地。隅に大きな銀杏の木がある他には何もないその場所は、草があちこちに生い茂り、長い間人が立ち入っていないのは明らかだった。  
「あそこに俺ン家。で、隣がカナちゃん家」  
「……あ……!」  
煙草を持つ手で空き地を示し、門田先生が言う。  
その言葉に、私はようやくここが何処だか思い至った。  
「ここ、社宅があった場所……」  
「そ。社宅が潰されてからは何もない、ただの空き地だけどな」  
「そっか。……ここだったんだ」  
昔は回りに家も少なくて、記憶の中とは大違い。  
昔はあんなに大きいと思っていた場所も、今になって見れば三軒も家が立っていたのが嘘みたいな狭さだ。  
 
煙草を咥えた門田先生は、ザクザクと草を踏みしめながら空き地に入る。  
その後に続きながら、私は辺りを見回した。  
「この辺までが俺ン家だから、カナちゃん家がそこぐらいかな」  
「じゃああの辺りが、私の家?」  
「あぁ。んで、あの銀杏の辺りが昔良く遊んでた庭」  
空き地の中に立ちながら門田先生が指をさす。  
 
そうだ。  
昔良くビニールプールを出して遊んだっけ。  
秋には確かドングリを集めて庭に埋めたし、冬は冬で飽きもせず外で鬼ごっこなんかしてたっけ。  
 
「そっか……こんな風になっちゃってたんだ……」  
大学時代に市内に戻っていたとは言え、私が社宅のあった場所を見るのは引っ越ししてから今日が初めて。  
感慨、とか。郷愁、とか。  
そんな気持ちはない。  
強いて言うなら疎外感だろうか。  
何だか置いてけぼりを食ったみたいに、私の心の隅っこには小さな穴が空いたような、妙な虚しさがじんわりと滲んでいた。  
「……不思議な感じだろ?」  
何も言えず立ち尽くす私の鼻に門田先生の吸う煙草の匂いが届く。  
小さく頷いた私はゆっくりと銀杏の木へと歩み寄った。  
「……こんなに狭かったんだ」  
「あぁ」  
見上げた銀杏の木は、記憶の中と同じぐらい大きい。  
それはきっと、十三年の月日を経て、この木も成長したから。  
 
知っているのに、まるで知らない。  
それが酷く寂しくて、私は黙ったままじっと銀杏の木を見つめていた。  
 
「なぁ」  
後ろから門田先生の声が掛る。  
振り返ると門田先生は煙草に火を点けながら、目を細めて空き地を眺めていた。  
「ここは変わったけどさ。親父もお袋も変わってないから。勿論俺もチィちゃんも。だから、何も気遣う必要なんてないからな」  
少し微笑んでそう言うと、携帯灰皿を取り出しながら門田先生は私を見た。  
 
そうか。そう言う事なんだ。  
門田先生が名前で呼ぶように言ったのも、私をここに連れて来たのも、決して気まぐれなんかじゃない。  
この気持ちを、私に知って欲しかったからなんだ。  
頭で理解するのと、本当の意味で心で理解するのは全く別物。  
もしあのまま叔父さんや叔母さんに会えば、この奇妙な疎外感に、私は余計に居心地が悪い思いをしていたかも知れない。  
私だけじゃなく、叔父さんや叔母さんも。  
折角会っても素直に喜べなかったら、それは酷く寂しい事だ。  
 
勿論門田先生がそこまで考えているなんて、私の考えすぎかも知れないけれど。それでも構わない。  
少なくとも、私にとっては無駄な事じゃなかったから。  
 
「……ありがと。ナァくん」  
呟いた声は聞こえただろうか。  
素直にお礼を言う事よりも、名前を呼ぶ事の方が恥ずかしくて、私は日傘を少し傾ける。  
そのせいで門田先生の顔は見えなかったけれど、たぶん笑顔に違いない。  
「そろそろ行くか。あの酒屋、まだやってんだ。ビール買って帰るか」  
「え、まだ昼間ですよ?」  
「固い事言うなって。ホラ、置いてくぞ」  
驚いた私が日傘を退けた先には、悠々と歩き出す門田先生の姿。  
携帯灰皿に煙草を押し付けながら、彼は私を待たずに道路へと向かう。  
「ちょ、待って下さいよ!」  
「タメ口になったら待ってやる」  
「……善処します」  
ぶっきらぼうに返しながら慌てて門田先生の後を追う。  
何とか隣に追い付くと、門田先生はシャツの胸元を摘むと風を送りながら、いつもの薄い笑みを浮かべて口を開いた。  
「名前で呼べたんだから、あと一歩」  
「……だから善処しますっ!」  
──やっぱり聞こえてたんじゃない!  
悔しさと恥ずかしさで門田先生を睨み上げる。  
彼はチラリと私を見下ろすと、何処か嬉しそうに目を細めて小さく肩を竦めた。  
 
 
 
 
余談になるけども。  
結局私は「ナァくん」と呼ぶので精一杯だったけど、その日の夜の食事は楽しかった事を追記しておく。  
 
 
心底ナァくんに感謝したのは、私だけの秘密だ。  
 
 
 
 

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