大学時代の友人が結婚した。  
友人の間では一番乗りで、彼女は式や披露宴の間中、ずっと幸せそうだった。  
 
そんな彼女を見ていると羨ましいと思ってしまうのは、私の中にもそう言う願望があるからだろうか。  
日頃は仕事や何かが忙しくて、それ程相手が欲しいと思う事はない。居た所で、仕事優先になるだろう事は目に見えてるし。  
 
だけど稀に。  
本当に稀に。  
誰かにすがりたいと思ってしまう時だってある。  
 
 
 
昨夜から降り続いた雨は今朝になっても止む事を知らない。こんな日がもう一週間近く続いている。  
台風が近いせいもあるんだろう。強い風と小雨ながら降り続く雨。  
いつもなら休憩時間に校庭に飛び出す子ども達も、この雨で教室や体育館以外に遊べる場所もなく、校舎はいつもより喧騒を増していた。  
私達教師はと言うと、校庭が使えない代わりに体育館使用の割り振りやら、警報が出た場合の対処やらでてんやわんや。  
──いつもてんやわんやなのは言わない約束だが。  
お昼休みになっても忙しい事には代わりなく、私は給食指導が終わると職員室の自分の席で、深い深い溜め息を吐いた。  
 
今年の梅雨はあって無きが如し。  
だもんで、秋雨前線の仕打ちに対する対処法なんて未経験。  
初めてだらけの事ばかりなのは今更だが、天候のせいか憂鬱感はいっこうに晴れない。  
 
「溜め息吐いたら幸せが逃げるってよ?」  
そう隣の席で言ったのは、コーヒーをすする門田先生だった。  
私は横目で軽く門田先生を睨みつけると、態と大きな溜め息を吐いて見せた。  
途端に聞こえるのは門田先生の押し殺した笑い声。  
私は机の上に広げっぱなしの資料を片付けながら、門田先生から視線を外した。  
「寿命が縮むって言うのは聞いた事ありますけど」  
ボソリと呟く私を見遣り、門田先生は目を丸くする。それでも直ぐにいつもの薄らとした笑みを浮かべると、専用のマグカップ──底に門田と書いてあるから間違いない──を机に置いた。  
「美人薄命?」  
「……かも知れませんよ。美人ですから。私」  
相も変わらずからかい口調の門田先生を見る事なく、私はいけしゃあしゃあと言って退ける。  
と。  
「……ぶ」  
パシンと何かを叩く音と同時に、蛙の断末魔の様な声が聞こえた。  
 
視界の端に写る門田先生の肩が、小刻みに震えているのが嫌でも分かる。  
「何か文句でも?」  
「いーえ、全然」  
目を細めて門田先生を見ると、彼は口許に手を当てたまま、ブンブンと大きく首を振った。  
 
夏休みに門田先生の──いや、「ナァくん」の家を訪れてからと言うもの、私の中には大きな変化があった。  
それが何なのかは明確な言葉にする事は難しいが、その変化は確実に、私と「門田先生」の距離を縮めていた。  
例えば、今みたいな遣り取りだってそうだ。  
以前の私ならまず間違いなく「門田先生」に当たり障りのない言葉を返していた。  
けれど「ナァくん」には冗談を返せる余裕がある。  
「門田先生」と言う先輩ではなく「ナァくん」と言う幼馴染み。  
どう違うのかと問われれば、これまた返す事は難しいが、私の彼に対する接し方は間違いなく「ナァくん」になりつつある。  
 
笑いを必死で堪える門田先生の表情は、面白くて堪らないとでも言いたげに緩んでいる。  
大声で笑わないようにと口許は覆ったままだけど、頬の緩みや細められた目許までは隠し様がない。  
「そうなったら困るなぁ。せめて幸せが逃げる程度にして貰わねぇと」  
ようやく笑いを押し込めたか、門田先生がヒラリと手を振る。  
その姿から再び視線を外した私は、肩を竦めて資料をトントンと机に打ち付けた。  
「逃げる程の幸せがあれば良いんですけど」  
「あるだろ、そんくらいは」  
傍に転がっていたボールペンと一緒に、まとめた資料を引き出しに仕舞う。  
午後の授業で使う教科書ガイドと資料を傍らに寄せると、私は席を立とうと椅子を引いた。  
そこに引き出しが開く音がして、空になった机の上にポトンと苺味の飴が落ちる。  
隣を見ると門田先生が片手をヒラヒラさせながらニンマリと笑っていた。  
「幸せのお裾分け」  
「……どーも」  
思わぬおやつに呟きを返すと、門田先生は引き出しを閉めて仕事の続きに取り掛かった。  
 
取り合えずコーヒーでも飲もう。  
職員室の奥には備え付けの炊事場があり、職員が自由にお茶を飲めるようになっている。  
机の飴を手に炊事場へと向かった私だが、不意に慌ただしく職員室の扉が開かれた。  
「長谷部先生ッ!」  
名前を呼ばれ振り返ると、受け持ちの雅美ちゃんが泣きそうな顔で立っていた。  
学級委員の雅美ちゃんは、年の割にはしっかりとしていて、こんな表情を見せる事は少ない。  
だからだろう。  
回りの先生達も何事かと雅美ちゃんを注視している。尋常じゃない様子に私は飴をポケットに突っ込むと、慌てて雅美ちゃんの元へ駆け寄った。  
「どうしたの?何かあった?」  
取り合えず落ち着かせようとなるべく穏やかに声を掛けるが、雅美ちゃんは目に涙をいっぱいに溜めてふるふると首を左右に振った。  
「勇太君が……!」  
ぎゅっと私の服を掴んだ雅美ちゃんは、それ以上言葉にならないのか、それでもぐいぐいと私の服を引っ張る。  
「どうしたの」  
「怪我したの。早く!」  
「怪我!?」  
子どもが怪我をするなんて日常茶飯事。だから子ども達だって多少の怪我じゃ騒いだりしない。  
──だけどこれは……。  
血の気が引いていく音が耳の後ろを通り過ぎる。  
一瞬気を失いそうな程の目眩に襲われたけれど、雅美ちゃんが服を引っ張ってくれたお陰で私は何とか平静を保つ事が出来た。  
「何処?」  
「二階の階段!」  
雅美ちゃんの手を握り返すと、雅美ちゃんは思いの他強い力で私をその場所へと連れて行く。  
私は逸る気持ちを押さえながら、そのあとを付いて行った。  
 
 
子ども達は私達が考えている以上に悟い。  
普通じゃない空気に辺りはひっそりと静まり返り、誰も彼もが好奇心と言い知れぬ恐怖で口を閉ざしている。  
ただ聞こえるのは、泣き喚く子どもの声と、呻く子どもの声だけ。  
連れられた場所は二階へと続く踊り場で、赤い鮮血が小さな血溜りを作っていて、所々に不自然な輝きが見える。  
その光景に私は思わず息を飲んだ。  
先に来ていた養護の池上先生の手には、薄く染まった白い布。その布はしっかりと勇太君の肩口に巻かれてはいたけれど、勇太君は痛みに顔をしかめてボロボロと涙を溢していた。  
泣き喚いていたのは茜ちゃんで、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を拭えずにいるようだった。  
「何があったんですか」  
「あぁ、長谷部先生」  
私に気付いた池上先生は勇太君の肩を押さえながら、チラと踊り場の壁を見た。  
その時になってようやく私は、足元の輝きがガラスの破片だと気付いた。  
 
階段は死角が多い。  
その危険が分からない子どもも多く、踊り場の壁には反対側から来る人の姿が見えるようにと大きな姿見が設置されている。  
けれど今はその姿見は無惨にも砕かれ、血溜りの中に破片が散らばっていた。  
「ご覧の通りよ」  
勇太君の左腕はパックリと割れ、生々しい肉が覗いている。血は未だ流れを作り、肘から下は真っ赤に染まっていた。  
恐らく、私の顔は真っ青を通り越して真っ白になっていたに違いない。  
泣き喚く茜ちゃんの声が耳に届き、一階に立つ子ども達の視線も感じるけれど。  
予想もしなかった出来事に足は竦み、寒くもないのに体が小刻みに震えだす。  
どうすれば良いか分からない。  
私は馬鹿みたいに突っ立って目の前の光景を見つめていた。  
「私はこれから病院に連れて行くから、長谷部先生は親御さんに連絡して頂戴。玉置先生にはあとの始末を」  
私の混乱を察したか、勇太君を抱き上げた池上先生がテキパキとした様子で指示を出す。  
その声に何とか頷いて見せた私は、フラつきそうになる足に心の中で叱咤しながら、急いで職員室へと戻った。  
後ろで池上先生が子ども達に近寄らないようにと告げる声が聞える。  
 
後になって、何も出来なかった自分に酷い自己嫌悪が襲い掛ったけれど。  
この時の私は、ただただ混乱するばかりだった。  
 
 
午後の授業の間中、教室の中は異様な空気で満たされていた。  
 
こう言う時、子ども達を落ち着かせなければならないのは、いくら私だって分かっている。  
けれど情けない事に、私には其処まで子ども達を気遣える余裕が無かった。  
 
 
放課後。  
病院に同行した池上先生から、六時を少し過ぎた時間になってようやく連絡があった。  
勇太君の怪我の原因は、数日降り続いているこの雨。いつもよりも滑り易くなっていた階段を、いつもと同じ調子で駆け降りて、肩から勢い良く姿見にぶつかったらしい。  
勇太君は七針を縫う大怪我だったけど、幸い処置が早かったお陰で大事に至る事はないとの事。  
それを聞いた瞬間、私は糸の切れた人形のようにカクリと首を垂れて溜め息を吐いた。  
「大丈夫だったのか?」  
受話器を置いた私の隣から声が掛る。  
特にするような仕事もないのに、門田先生は帰り支度もせずに職員室に残っていた。  
手持ち不沙汰にペンを回したり、ライターを意味も無く弄んだり。けれど病院から電話が掛って来るまでずっと、好きな煙草を吸いにも行かず、彼は私の隣で黙って自分の席に座っていた。  
「明日は大事を取って休むらしいけど……明後日からは学校に来られるって」  
「そっか。良かったな」  
「はい……」  
顔を上げる事も出来ない私だったけれど、門田先生はいつもと同じ様に声を掛ける。  
再び溜め息を吐いた私に、門田先生はもうからかうような事はしなかった。  
「帰るか」  
「はい……」  
ただそれだけを告げ、門田先生は自分の荷物をまとめ始める。  
私は動く気力も無かったけれど、門田先生に促されてのろのろと帰り支度を始めた。  
同じ様に職員室に残っていた教頭先生と教務の玉置先生に報告をして、私と門田先生は二人並んで学校の門を潜った。  
 
 
黙々と。私と門田先生は並んで帰り道を歩いていた。  
傘を打つ雨の音や傍らを通り過ぎる車の音以外は、物音らしい物音はない。  
足元の水溜まりを見る度に踊り場の血溜りが思い出され、私は顔を上げて真っ直ぐ前だけを見据えていた。  
 
今になって、自分の無力さに打ちのめされる。  
勇太君の無事を喜ぶだとか、降り続く雨を呪うだとか、そんな気持ちは心の何処を掘っても湧いて来ない。  
自分勝手かも知れないけれど、今日の出来事は私にとっては酷くショックで。その事が私を無口にさせていた。  
隣を歩く門田先生も、余計な事など何一つ言わず。かと言って今の私に効果的な言葉も思い浮かばないのか、私を見る事もなく黙って歩みを進めていた。  
 
二人っきりで帰るなんて、初めてだと言うのに。  
 
やがて駅へと続く交差点に辿り着く。  
私の住むマンションはもう近い。門田先生は電車通勤だから、ここで別れる事になる。  
丁度良い具合いに赤信号で、私は足を止めると傘を傾けて門田先生を見上げた。  
「それじゃあ──」  
「送る」  
「……え?」  
──また明日。  
そう言おうと思っていた私に、門田先生は眉一つ動かさずに私を見下ろす。  
取り繕うような笑顔が強ばった。  
「いや、でも」  
「送るったら送る。理由は聞くな」  
「いや…………ハァ」  
私を見る門田先生の表情には厳しい物が見え隠れする。  
それでも断ろうと思って口を開いた私だが、頑な口調で告げた門田先生に、結局逆らえずに曖昧に言葉を濁す。  
視線の強さに耐えきれずうつ向いた私の目に、波紋を広げる水溜まりが写った。  
 
 
天気のせいか薄く闇に染まる街並みの中、ポツリポツリと街灯の明かりが輝く。  
マンションまであと数十メートルになった頃、それまで黙っていた門田先生が口を開いた。  
──黙っていたのは私もだけど、喋る気にならなかったのだから許して欲しい。  
「なぁ」  
ぶっきらぼうに呟いた門田先生が足を止める。  
自然、私も歩みを止めたけれど、さっきの様に門田先生を見上げる事は出来なかった。  
「教師って、大変だよな」  
門田先生の声音は変わらない。労うでもなく告げられた言葉に、私は身動きすら出来ない。  
それでも門田先生は容赦はしなかった。  
「例えどんな時であっても、そこに教え子が居たら教師の仮面を外しちゃいけない。それが最低限のルールだと、俺は思う訳」  
「……」  
「今日のチィちゃんは、そのルールを破った。……ま、俺の中の勝手な自分ルールなんだけど」  
告げられる言葉が胸に突き刺さる。  
それはたぶん、私の中にも同じ気持ちがあるからだ。  
自己嫌悪に陥ってるのだって、多少の違いはあれど門田先生の言葉が正論だと分かっているから。  
だからこそ私は返す言葉もなく、じんわりと湿るスニーカーを見つめていた。  
「でも……それってさ。結構しんどい事な訳。俺もそうだし」  
細い糸雫がいくつも視界の中を通り過ぎる。  
その端に、不意に門田先生の靴が見えた。  
「だから教師じゃない時間の間ぐらい、誰かにすがりたいと思ってもバチは当たらない。愚痴でも何でも吐き出しちまえよ。抱えずにさ」  
「……え」  
ポンとうつ向いたままの頭に重みが掛る。  
それが何なのか分からないうちに、ぐしゃぐしゃと頭を掻き乱されて、私はゆっくりと顔を上げた。  
 
門田先生が真っ直ぐに私を見下ろしている。  
その眼差しはさっきまでの「門田先生」じゃなく、いつか見た「ナァくん」のように穏やかな眼差しだった。  
「そんなんじゃ明日までに復活出来ねぇだろうが。泣きそうな顔してんぞ?」  
「そんな事……っ」  
ぐしゃぐしゃと撫でる手を払う事も出来ないうちに、鼻の奥に覚えのあるツンとした刺激が走った。  
ぎゅっと目を閉じると、熱い雫が私の頬を伝って行く。  
漏れそうになる嗚咽を必死になって殺しながら、私は自由にならない喉を動かした。  
「……怖かった……。あんな事になるなんて……」  
「うん」  
「私、何も出来なくて……。……『先生』なのに、全然動けなくて……」  
「それから?」  
「……茜ちゃんにも、優しい言葉、掛けられなくて……。……自分が……情けなくて」  
「うん」  
今まで押し潰されそうだった自己嫌悪が、門田先生に頭を撫でられる度に薄らいでいく。  
大きな手から感じる安心感に、私は子どものようにしゃくり上げた。  
 
「……良かった。勇太君が無事で……」  
 
その言葉を最後に、私は何も言う事が出来ず、長い時間ボロボロと涙を溢す。  
私はただ門田先生に感謝していた。  
黙って傍に居てくれた事に。私の弱い部分を見ない振りをしなかった事に。  
その間もずっと、門田先生は黙って私の頭を撫でてくれていた。  
 
 
 
 
何を考えているのか、言葉にされないから分からない。  
 
けれど。  
 
 
けれど。  
 
 
──どうしてこの人は、こんなに優しいんだろう。  
 
──どうして私は、この人にすがりたいと思ってしまうんだろう。  
 
 
 
幼馴染みだからと言うだけじゃない。  
 
そう願う自分の気持ちに気付くには、私にはまだ少しだけ、時間が必要だった。  
 

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