運動会。社会見学。芸術鑑賞。二学期は行事が目白押し。
私達教師が忙しいのは言わずもがなで、日々の職務に忙殺されて、いちいち落ち込んだり悩んだりする暇もない。
ゆっくり休養したいと思っていても、そうは行かないのが辛い所。
気付けば私が教師になってから、早八ヶ月になろうとしていた。
十二月も目前に迫ったある土曜日。
お昼を過ぎても私はベッドの中でゴロゴロしていた。
とは言っても基本的にインドア派だから、別に珍しい事じゃない。
たぶん何事もなければ、そうやって怠惰な一日を過ごしていたに違いない。
けれどこの日は違った。
午後一時過ぎ。
枕元に置いてあった携帯から着信を知らせる音楽が鳴った。
大して面白くもないバラエティー番組を見ていたので、テレビのリモコンに手を伸ばして音量を下げる。
そのまま体を起こして携帯のフリップを開いた私は、表示されていた名前に思わず目を見開いた。
「え?」
瞬きを一回。
それでも勿論、表示が変わる訳もない。
『門田直樹』と記されたディスプレイを見つめるうちにも、携帯は早くしろと言わんばかりに鳴り続ける。
一瞬気が動転した私はベッドの上に御丁寧にも正座をすると、震える手で通話ボタンを押した。
心臓がバクバクしている。
「も……もしもし?」
『チィちゃん?俺』
元々あまり電話が得意じゃないせいで、会話の始まりはいつも緊張してしまう。
けれどコレはちょっと緊張しすぎだ。
手は震えるし声も震えて完璧裏返ったし。頭の中は緊張のあまり真っ白で、心臓の音だけがやけに煩い。
それでも当然ながら門田先生に私の気持ちが伝わる筈もなく。
『今大丈夫か?』
「あ、ハイ。平気ですよ」
いつもと変わらない口調の門田先生の声。
悟られないように呼吸を落ち着かせようと、私は携帯を離して大きな吐息を吐いた。
「何かあったんですか?」
『急な話なんだけど、今夜暇か?』
「今夜?」
『お袋が映画の試写会のチケットが当たったんだけど、都合が悪くなったんだよ。親父と二人で行くのもアレだし、良かったら行かないか?』
呼吸を落ち着かせようとしていたのに、その努力は水の泡だ。
──デートってヤツですか?
真っ白な頭の中によぎる単語に、それ以上口が回らない。
心拍数最高潮。
息を一つ飲み込んで逸る気持ちを無理矢理に押さえ付け、私は送話口に口を近付けた。
「い、良いですよ。暇を持て余してた所だし」
『なら六時頃に待ち合わせようぜ。晩飯奢る』
「この間お金ナイって言ってませんでした?」
『言葉の絢ってヤツだよ。たまには良い格好させろ』
呆れ混じりに笑う門田先生の声のトーンは明るい。
いつもとは違うその明るさに、普段の私なら気付いていただろうけど、生憎今の私にはそんな余裕はなかった。
『映画、七時半からだから。待ち合わせはそうだな──』
隣街の駅前を指定した門田先生に了承の言葉を返すと、そこで電話は終った。
終了ボタンを押し、深い溜め息を一つ。
心臓のドキドキは電話を受ける前よりも酷くなっている。
思わず携帯を枕に押し付けた私は、頭を垂れてその姿勢のまま固まった。
これじゃあまるで恋してるみたいじゃない。
確かに門田先生の事は好きだけど、それは『幼馴染み』で『同僚』だから。
男の人と二人で出掛けるなんて久しぶりだし、それに対するドキドキ感はあるけれど、特別な感情なんて私も門田先生も持ってるなんて思わない。
デートのお誘いだって、別に特別な理由があった訳じゃない訳だし、たまたま暇そうな私に声が掛っただけかも知れないし。
無理矢理自分の中で理屈をこねるけれど、膨らむ期待は萎まない。
それどころか心臓が一つ打つ度に、どんどん大きくなっていく。
「何着て行こう……」
顔を上げた私の手の中で、熱を持った携帯は沈黙したままだった。
午後六時少し前。
電車を降りた私は一度トイレに入り鏡で服装をチェックした。
なるべく気張らないように、それでもいつもより少しだけお洒落をして。こんな風に気を使ったのなんて、初めてのデートの時以来かも知れない。
不思議な高揚感と緊張感。初めて教壇に立った時にも似た感覚だけど、それ以上に気分が浮き立っている。
乱れてもいない髪を直す鏡に写った顔は、妙に締まりのないニヤけた顔だった。
思わず頬を叩いて顔を引き締める。
別に何があるって訳じゃなし。晩御飯を一緒になんて今更珍しくもないじゃない。夏休み以来、月に一回は一緒に御飯食べてるんだし。
……まぁ、おじさんおばさんも一緒なんだけど。
「平常心、平常心」
ブツブツ呟く私を見て、通り掛ったおばさんが鏡越しに不審な視線を投げて来る。
それに気付いた私は時間を確認すると、何事もなかった素振りでトイレを出た。
改札を抜けて直ぐの喫煙コーナー。そこで門田先生は一足先に待っていた。
普段は結構緩い性格な割に、時間にだけはやけに正確なのよね。待つより待たせるのが嫌いらしいんだけど。
チラチラと改札を見ては煙草を吸う。
土曜日と言う事もあってか人通りは多い。そのせいか門田先生はまだ私には気付いていないみたいだった。
「平常心っ」
呪文のように繰り返して拳を握ると、私は足早に門田先生に近付いた。
距離にして数メートル。門田先生は直ぐに私に気付くと、灰皿に煙草を押し付けた。
「ごめんなさい、お待たせしました」
「いや、一本分」
ダウンジャケットに手を突っ込んで首を振る。
それが嘘なのか本当なのか分からないけれど、勿論それを追及する気はない。
「取り合えず飯行こうぜ。旨い店があんだよ」
ニィと笑った門田先生が歩き出す。
私も遅れないよう慌てて小走りで隣に並んだ。
他愛ない会話を交してはいるけれど、情けない事に私は気もそぞろ。
いつもはお互いラフな姿が多いから、改まった服装となると気恥ずかしい。何せスカートなんて、普段はスーツぐらいしか履かないからだ。
──気合い入ってるとか思われてないよね?
ほぼ月一の食事会の時だって、パンツ姿だったし。
冬も本格的に近くなって来ているせいか、足元がやけにスースーする。
ストッキングを履いてはいるけど……やっぱ寒い。
「チィちゃん、辛いの平気か?」
「え?あ、はい。大丈夫ですよ」
服装に気を取られていたせいか、思わずいつもの「門田先生」に対する口調で返すと、門田先生は困ったような笑顔を浮かべた。
「それを言うなら『大丈夫』だろ?いつになったらタメ口になんのかね」
「や、今のは突然だったから!最近は……マシになってると思うけど」
「んな事ない。今日は一日タメ口。よし、そうしよう」
「はいぃ!?」
一人勝手に決めつけて楽しそうに頷く門田先生。
私の声が裏返った事も気に留めず。ましてや私の方なんか見もしない。
──ちょっと待ってよ、それは。
正直な所、未だに「ナァくん」と呼ぶのが精一杯の私に、その要請はきつ過ぎる。
本来の順番なら──タメ口から「ナァくん」への変化なら、まだ何とかなったかも知れないけれど。中途半端な距離をいきなり縮めろって言うのは、かなりの無理難題だ。
「駄目。無茶。絶対無理」
「単語も却下」
端から自信もなく強い口調で言う私に、非情にも門田先生はすっぱりと言い捨てる。その表情には薄い笑み。
綻んだ目元と僅かに上げられた口角に、私はそれ以上何も言えなかった。
半年以上一緒に仕事をして来て分かった事が幾つかある。その一つが門田先生の笑顔だ。
いつも何かはぐらかすような薄い笑みを浮かべる事が多いけれど。何か楽しめる対象が──いや、からかえる対象がある時も、門田先生は薄い笑みを浮かべる。
今浮かべている笑みがどちらかの意味か、なんて愚問にも程がある。
──……この人、絶対私の事、オモチャか何かだと思ってるわよね。
そんな妙な確信を抱きながら、私は深い溜め息を吐いた。
門田先生に連れられた場所は、テナントビルの二階にあるエスニック料理の店だった。スパイスの香りが漂う店内は、さほど広くはないけれど結構居心地が良さそうで、カップル連れの姿が多い。
私達も恐らく──考えなくても、か──回りからすればそう見えるんだろう。
なんて。冷静な思考回路は今はない。
門田先生は私にタメ口を使わせようとしているのか、いつもより口数が多い。勿論、イエス・ノーで答えられるような会話じゃなく、私にも意見を求めて来るんだから、私の慌てっぷりは相当な物だろうと思う。
だけど門田先生は、それすらも楽しげに笑っているだけ。
席に案内されコートを脱いだ私は、深い溜め息を吐いて腰を下ろした。
「溜め息吐いたら、寿命が縮むんじゃなかったのか?」
「う……」
ダウンジャケットを脱いだ門田先生がメニューを取りながらニヤリと笑う。
思わず口篭った私だけど、門田先生はメニューを開くと其処に視線を落とした。
「何にする?」
「何がある…の?」
無理矢理言葉遣いを訂正しながら問掛けながら、私はきょろきょろと店内を見回した。
どうやらインド料理が多いらしく、カレーの文字があちらこちらに見える。
「お勧めはベジタブル・サモサとシーフード・カレーだな。辛いのが苦手ならほうれん草カレーもお勧め」
「じゃあ、ほうれん草カレー。あとチーズ・ナン」
店内に貼られたメニューを示して告げると、門田先生は通り掛った店員を呼び止めた。
こうして門田先生と外で食事をするのは、四月末のあの時以来だ。
あの時はまさか、門田先生が「ナァくん」だなんて思いもしなかったし、ましてやこうして休日に一緒に出掛けるような間柄になるとも思ってもみなかった。
そんな事を考える私は、門田先生の様子がいつもと違う事に気付かなかった。
さっきまであれ程饒舌だった門田先生は、店員に注文を済ませた途端に黙りこくって、煙草をくゆらせていた。
そんな門田先生が口を開いたのは、頼んだ品が残らずテーブルに並んだ頃だった。
「今更だけどチィちゃん、ホントに暇だったのか?」
「はい?」
言われた意味が分からず首を傾げる。
門田先生は少し眉尻を落として、何処か言葉を濁すようにベジタブル・サモサを頬張った。
──何だろ。らしくない。
千切ったナンにカレーを乗せながら門田先生の言葉を待つ。
門田先生は暫くモゴモゴとサモサを口にしていたけれど、やがて私の視線に負けたようにカレーに視線を落としながらこう告げた。
「彼氏とかさ。居たら、俺に付き合ってる場合じゃねぇだろ?」
……え?
ぱちくりと瞬き。
何で今更、こんな事を訊くんだろう。──いや、本人も「今更」って言ったけど。そうじゃなくて。
もし、私がここで「彼氏が居る」なんて言ったら、門田先生はどうする気なんだろう。
ざわざわと胸の奥から這い登って来る感覚が私の頭の中を乱して行く。
言い知れぬ感情と混乱のせいで、私はナンを口に運ぶのも忘れてまじまじと門田先生を凝視。
門田先生はと言うと、シーフードカレーの海老の殻をスプーンでお皿の端っこに寄せながら黙っている。
「それは……ナァくんも、でしょ」
何とか口を開いた頃には、私達の間に漂う空気は明らかに色が違っていた。
さっきまでの、他愛ない会話を交すような気楽な雰囲気じゃない。
変に張り詰めていて。互いに何かを探るようで。
──やだ。……この空気は、嫌いだ。
本能的、とでも言えば良いんだろうか。
そう思った瞬間、私は態と顔に笑みを張り付けていた。
「彼女が居たら、私なんか相手にしてる場合じゃないんじゃないですか?今日だって、その人を誘えば──」
「いねぇ」
へらへらと馬鹿みたいに笑う私の言葉を遮ったのは、妙に強い門田先生の口調だった。
「居たら、チィちゃん誘ってねぇし。つか、答えになってなくね?」
──え……と。
何故か不機嫌そうに私を見る門田先生から、私は慌てて視線を外した。
何でこんなに混乱してるのか。そもそも何に混乱しているのか。
理由が分からない訳じゃない。ただ、その理由は追求したくない類の物。
唯一言えるのは、この雰囲気でなければ気付けなかった想いが、私の胸の内にじわじわと滲んでいると言う事。
こんな形で自覚するなんて思いも因らなかったけど。
ともすればその想いに流されそうになっていた私は、無理矢理気持ちを押さえ込むと、ナンを頬張り視線を外したままぶっきらぼうに呟いた。
「ナァくんと一緒。居たら付き合ってません」
早口で言い捨てる姿は、絶対可愛くないだろう。
だけど今は、取り繕おうとか誤魔化そうとか、そう言った余裕がない。
口の中の物を飲み下しスプーンを手にする。
空気の色は変わらない。変えるのに失敗した私には、どうすれば良いのか分からない。
門田先生の持つスプーンが視界の端に写った。
「……チィちゃん」
門田先生の声が降る。呟くような声音からは感情の色が見えない。
動く様子のないスプーンを視界の端に捕えたまま、私は無言でカレーを口にした。
「サモサ、食う?」
──…………ハイ?
ゆっくりと視線を上げる。
門田先生は、いつものように飄々としていて。
さっきまでの不可解な空気なんて無かったかのように、自分の近くにあったサモサのお皿を、空いた右手で私の方へと押し出した。
「チーズ・ナンと交換」
「あ……はい」
笑みを浮かべる門田先生の態度の変化に、私は思わず頷く。
「あ、それと」
「はい?」
「タメ口。忘れんな」
人の悪い笑みは門田先生のいつものそれで。
いつの間にか消え去った空気の色に、私は一人妙な混乱と何とも形容し難い想いを抱えたまま吐息を漏らした。
時折笑いの含んだヒューマン・ドラマだった映画は、前情報以上に面白かった。
食事を終え、映画を見て。人並みにデートのような行程を踏んだ帰り道。
改札を抜けホームに立つ頃には夜の寒さはいっそう増し、時刻は十時前になっていた。
「うぉ、寒ぃ」
一際強く吹いた風に、門田先生は肩を震わせダウンジャケットに両手を突っ込む。
こんな時間だと言うのにホームには私達以外にも何人かの人影が見えた。
「今日は御馳走様。それから、ありがとう」
コートの前を合わせて門田先生を見上げる。門田先生はチラと私を見下ろすと、ハッと短く笑った。
「良いって。俺が誘ったんだし。タメ口も様になって来たみてぇだし?」
「っ……それは、ナァくんが無理矢理使わせたからじゃない」
からかう口調にムッとすると、門田先生はニヤリと笑ったまま煙草の箱を取り出した。
「こうでもしなきゃ、使わねぇだろ?修行だ、修行」
「何の修行ですか、ソレは」
あれから、門田先生の態度はいつもと何一つ変わらない。私もいつの間にか普段の調子を取り戻して、時々軽口を叩きながら他愛ない会話を交している。
けれど。
「ン?そりゃ、付き合う為の修行だろ」
さらりと告げられた言葉に私の思考回路はプツリと止まった。
煙草を咥えた門田先生は私を見下ろし、薄い笑み顔。
──待って。
……て言うか。
何ですかソレは!
ぐるぐると。訳の分からない混乱再び。
馬鹿みたいに目を丸くしていた私の姿に、門田先生は楽しげに目を細めていたけれど。
やがて。
不意にブッと吹き出したかと思うと、咥えたばかりの煙草を手にして、私から顔を背けた。
揺れる肩が私の目の前に写る。
「チィちゃんっ……面白ぇ……」
クツクツと喉の奥を震わせながら、門田先生は口許を押さえる。
その姿に私はハッと我に返った。
「か、からかってる!?もしかしなくてもからかってる?ねぇ、ナァくんっ!」
訊く間でもない。愚問だ。これ程の愚問は有り得ない。
声を荒げた私に門田先生は肩を震わせ笑うだけ。
「いや、あながち冗談でもねぇんだけど」
「嘘。絶対嘘。信じないっ」
子どもみたいにそっぽを向いた私は、悔しさを隠す事も出来ずに口先を尖らせた。
何で自分がこんなに動揺してるのか。答えは至ってシンプルだ。さっき自覚した想いが、全ての答え。
私は、彼の事が好きなんだ。
初めは『幼馴染み』としての好意。
けれどそれは、いつの間にか『ナァくん』じゃなく『門田直樹』に向けられていた。
だからこそ、こんなに簡単にからかう門田先生が憎らしい。例え本心だったとしても、冗談混じりに言われちゃ敵わない。
門田先生は煙草を咥え直すと、尚も膨れっ面の私に困ったように笑い掛けた。
「チィちゃん、変わんねぇな。膨れた顔も昔のまんま」
「誤魔化さないで下さいっ!……もう口利かない」
「あ、その口癖も昔のまんまだ」
「もぉっ!」
傍から見れば立派な痴話喧嘩に見えるだろう。
膨れた私と笑う門田先生。
その遣り取りを拐うように、ホームに電車が到着した。