『もう口利かないっ』
そう言って涙目で膨れたのは幼い私。
傍に立つ男の子は、手にした蛇のオモチャを手持ち不沙汰に弄ぶ。
『ごめん、チィちゃん。もうしないから』
『やだ。ナァくん嫌いっ』
私の顔を覗き込む男の子の顔は、逆光になっていて良く分からない。
涙で揺れる視界の端で、男の子の手が掲げられたのが見えたけれど、私はそっぽを向いたまま。ぽんと頭に手が乗せられても、男の子の方を向きはしない。
『ごめん。ホントに、もうしない』
ぐしゃぐしゃと私の頭を撫でる男の子の声は優しい。
しばらく撫でられるがままになっていた私は、やがてゆっくりと男の子を見上げた。
『ホントに?』
『ホント。絶対しない。指切りげんまん』
私の頭を撫でていた手で小指を差し出す男の子を私はじっと見つめる。
おずおずと小さな手を差し出すと、男の子は私の小指を絡め取った。
逆光の筈なのに、彼がにっこりと笑ったのが分かった。
「千草ぁ、いつまで寝てるの」
まどろみ半分の状態で布団に包まっていると、遠くから声が聞こえた。
寝惚け眼を擦りながら起き上がると、キンと冷えた朝の空気が体を襲う。
「三ヶ日だからって、いつまでもダラダラしてないの、千草ぁ」
「はぁい。今起きるぅ〜」
ドア越しに聞こえる母の声に返事をして、二度寝の誘惑を振り切り布団を出る。
暖かなパジャマから冷たい服へと着替える。吐く息は白く、気温の寒さが伺えた。
ボサボサの髪の毛に申し訳程度に櫛を通し、スッピンのまま階下に降りると、呆れた表情のお母さんが朝食の後片付けを始めている所だった。
「全く。先生になっても変わらないのねぇ、アンタは」
「去年まで学生だったもん。そう直ぐには変わりません」
「屁理屈言わない。早く食べちゃいなさい」
態と唇を尖らせると、お母さんは苦笑しながらキッチンへと引っ込んだ。
新年三日目。
年末から実家に戻っていた私はダラダラと怠惰な日を送っていた。
いつも忙しい教職は、クリスマスらしい事なんて何一つ無く。唯一、門田先生と彼の御両親と一緒に晩御飯を食べに行ったぐらいで、あっと言う間に冬休みに突入した。
十二月を目前にしたデート──って言っても良いのか悩むんだけど──以来、特に代わり映えのしない日々。
だけど気付けば、私は彼の事を考える事が多くなっていた。
門田直樹。二十六歳。
私の先輩であり同僚。そして幼馴染み。
とは言っても、私達の間には十三年の隔たりがある。
私にとっては人生の半分以上の長さ。門田先生にしてみても、ほぼ半分の長さ。
そう簡単に取り払えないだろうと思っていた隔たりは、この九ヶ月余りの時間で殆んど意味を無くしていた。
その大半が門田先生のお陰なのは言う間でもない。
記憶の彼方に埋もれていた思い出と、新しく作られて行く思い出。
その両方がバランス良く私の中で蓄積されて行くのは、何を於いても門田先生のお陰に他ならない。
だから。
私が今好きなのは、昔の「ナァくん」の面影じゃなく。単なる同僚でもなく。
職場の人達は誰も知らない秘密を共有している、「門田直樹」自身だ。
お雑煮とお節の残りなんて言う見事に手抜きされた朝食を食べながら、私はぼんやりと今朝見た夢の事を思い出していた。
あれは確か、私が幼稚園の年長の時。
門田先生が小学校で作った蛇のオモチャで、私を驚かせようとした時の事だ。
今思えば、牛乳パックと輪ゴムで作られた簡単な工作だったんだけど、当時の私は見事にそれに引っ掛かって。
わんわん泣き喚く私の声に、同じ社宅に住んでいた「カナちゃん」や門田先生のお母さんが、何事かと外に飛び出して来た。最終的に、おばさんにこっぴどく叱られた門田先生は、自分も半分泣きそうになりながら膨れたまんまの私を慰めてくれたっけ。
「覚えてるもんだなぁ」
半分溶けかかったお雑煮のお餅を食べながら、私は頬を緩めた。
たぶん門田先生に会わなければ、思い出す事もなかっただろう遠い記憶。
けれど今は、そんな小さな思い出がある事すら嬉しくて堪らない。
何だか情けないと思うけれど。
それだけ私は門田先生の事が好きなんだろう。
「千草、アンタ今日の夜には戻るのよね?」
洗い物を終えたお母さんが私を現実に引き戻す。
鯛の切身を頬張りながら、私は壁に掛けてあるカレンダーを見上げた。
「そのつもりだけど。何で?」
「いつまでもダラダラしているから、登校拒否にでもなったのかと思って」
「…………」
折角一人娘が帰って来たって言うのにこの台詞。
人が悪いのか何なのか。
眉根を寄せた私は何も言わず、ズズリとお雑煮を啜った。
「あ〜、重っ」
その日の夜、独り暮らしのマンションに戻った私は、玄関先にどっかりと荷物を下ろして溜め息を吐いた。
大学時代もそうだったけれど、実家に戻る度に荷物が増えるのはどうしてなんだろう。
中身の殆んどはお米やら野菜やら。お母さんが気遣ってくれているのは分かるけど、女の細腕には負担が大きい。
食糧を纏めてキッチンに置いた私は、残る荷物を持って部屋に入った。
「……新年の挨拶……ねぇ」
着替えの類を衣装ケースに仕舞うと、残りは一つの紙袋。両親が二人して持たせてくれたソレは、門田先生の御両親宛ての荷物だった。
中身は恐らく、お酒か何かだろう。彼処の家、皆揃って酒飲みだから。
『学校が始まる前に、ご挨拶に行きなさいよ』
そう他人事のような口調で言ったのはお母さん。
娘の気持ちなど露知らず紙袋を手渡したのはお父さん。
昔から付き合いのある門田先生とうちの両親は、今でも時々電話で遣り取りをしているらしく。更に娘と息子が同じ職場と知ってからは、よりいっそう頻繁に連絡を取っているようで。
『アンタもお世話になってるんだから』
「ハイハイ。分かってますよぉ」
蘇る母の声に一人ボソリと呟いてみるけれど。
どうしたもんかと、私は携帯と紙袋を交互に見つめた。
生憎、とでも言おうか。
向こうの家とは年明けに会う約束はしていない。となれば、必然的に私から連絡をしなきゃならない訳で。
電話が苦手な私としては、中々に勇気の要る事なのだ。
普段は門田先生がお誘いを掛けてくれるもんだから、すっかりソレに甘えていた。そのしっぺ返しがこんな形で来るなんて……。
「……むぅぅ」
悩みに悩んで小一時間。
握り締めた携帯のフリップを開く頃には、夜の十時を過ぎていた。
翌日。
結局、昨夜は連絡を取るのを諦めて朝になってから電話をした私は、一人門田先生の家にお邪魔していた。
おじさんは今日から仕事。門田先生は大学時代の友達と新年会だとかで、お昼過ぎにお邪魔した時には、もう家に居なかった。
「嬉しいわぁ、チィちゃんが来てくれて」
コロコロと笑うおばさんは、言葉通り私を歓迎しているのか、お菓子やら飲み物やらを絶やさない。
この数ヶ月ですっかり馴染んでいた私も、居心地の悪さを感じる事もなく、のんびりとおばさんとの会話を楽しんだ。
「チィちゃん、晩御飯どうする?今日はおじさんも直樹も外で食べてくるから、良かったら一緒に食べない?」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
夕方近くになって席を立ったおばさんの言葉に、私は素直に頷いた。
独り暮らしで何が一番辛いって、一人で食事をする事。
慣れてしまえば何て事はないんだろうけど、年末から実家に帰っていたせいだろうか。正直、一人で居る事すら辛かった。
面白くないと言うか。つまらないと言うか。
何でも良い。誰かと何かを共有したい。
そんな気分だったもんだから、私が帰ろうと荷物を纏めたのは、午後九時を過ぎようかと言う時間だった。
すっかり長居してしまった私だけれど、おばさんは始終にこやかで。嫌な顔をするどころか、お土産にと晩御飯の残りをタッパーに詰めてくれた。
「直樹が居たら送らせるんだけど」
「いや、良いですよ。いつまでもお守りさせるのも悪いし」
「良いのよ。あの子、番犬程度にしか役に立たないんだから」
…………。
母親ってのは、何処の家も大差ないのかな。
笑うおばさんの台詞に頷く事なんて出来る訳もなく、私はハハと空笑い。
「それじゃ、また」
「えぇ、今度は焼き肉ね」
軽く頭を下げて別れを告げると、年の割に若いおばさんはヒラヒラと片手を振って私を見送ってくれた。
門田先生の家から駅までは少しばかり距離がある。
住宅街のど真ん中。ポツポツ点る街灯と立ち並ぶ家から漏れる明かりで、それなりに夜道は明るいけれど。その代わり、通り掛る人影は皆無に等しい。
冬の寒さもあいまってか、私の足は自然と早くなって行く。
うぅ…寒い。何でこんなに寒いんだろう。
冬だからってのも勿論あるけど、さっきまでおばさんと一緒に居たせいもあるんだろう。
暖かなあの家と人気のない夜道。どっちが居心地が良いのかなんて訊く間でもない。
駅までの道のりを急ぎ足で歩く私は、すれ違う人の顔すら見ていなかった。
だから、いきなり声を掛けられた時はびっくりした。
「チィちゃん?」
「ふぁっ!?」
色気がないのは重々承知。驚きで目を丸くした私が顔を上げると、そこに居たのは門田先生だった。
「何してんだよ、ンなトコで」
私の悲鳴よりも私が此処に居る事の方が驚きだったのか、きょとんとした顔付きの門田先生。
少し鼻の頭が赤いけれどお酒の臭いはしないから、たぶん寒さのせいだろう。
「や、さっきまで家にお邪魔してたんで。帰る途中……」
「あ〜、そっか」
ふぅんと納得したように頷いて門田先生が鼻を啜った。
「なら送る」
「え?でも……」
「気にすんな。帰んのがちょっと遅れるだけだし。それに、お袋にバレたらどつかれる」
肩を竦めて苦笑した門田先生を見上げ、私も思わず小さく笑った。
おばさんなら遣り兼ねない。
お酒が入っているせいか門田先生は少し饒舌で、馬鹿な事を言っては声も無く笑い。浮かんだ笑みはいつもとは違う。
どう言えば良いんだろう。
僅かに頬を緩めたり。楽しそうに目を細めたり。
擬音を付けるとするならば、『ふ』の一文字が良く似合う。
二人で並んで歩くのは、もう、当たり前のようになっていた。
歩調もさっきまでとは違ってのんびりとしていて。
離れ難い、なんて思っちゃいけないんだろうけど。
出来れば少しでも長く、門田先生と一緒に居たい。
そう思う私の気持ちを門田先生が知る筈はない。
けれど。
「チィちゃん、こっち」
「へ?……駅は真っ直ぐでしょ?」
不意に門田先生が右に曲がった。
足を止めて門田先生を見ると、彼はマフラーの中に口許を半分埋めたまま、私の方を振り返る。
「寄り道、寄り道。送り狼にゃなんねぇからさ」
軽い口調はいつもの事。冗談なのか本気なのか、例に因って判別不能。
ただ一つ違うのは、いつもみたいに勝手に歩いて行くんじゃなく、門田先生は数歩離れた先で私を待っていた。
「……何処行くの?」
少し躊躇ったあと。私は小走りに門田先生に駆け寄った。
結局の所、私はこの人には勝てないと思う。
惚れた弱味ってヤツだ。
私が隣に来るのを待って、門田先生はまたゆっくりと歩き始めた。
「ン〜……ま、行けば分かる」
「こんな時間なのに?」
「邪魔が無くて良いじゃん」
……ちょっとちょっと!
凄く意味深な言葉にも聞こえるのは、私の気のせいじゃないわよね?
門田先生の様子を伺うけれど、やっぱりいつもと変わらない。
返す言葉も無く黙り込んだ私の姿をチラリと見て、門田先生は少し眉を上げて目を細め、面白い物でも見るような表情で私を見下ろした。
「取って食いやしねぇよ。何考えてんだよ」
「べ、別に何もっ」
慌てて視線を逸らした私の隣で、クツクツと笑う門田先生の声が聞こえた。
暫くして。
門田先生が足を止めたのは、古びた神社の前だった。
「初詣…?」
「大正解」
間抜けな表情と同じ間抜けな声で問掛けると、門田先生はダウンジャケットに両手を突っ込んだまま、歩みを止める事無く石段を登って行った。
「正確にゃ二度目だけど。チィちゃんと来るのは初めてだし」
少し猫背になった姿勢の門田先生が鳥居を潜る。
その後ろ姿を見つめながらあとに続いた私は、石段を登りきると辺りを見渡した。
小さな鳥居に小さな社。社務所と覚しき建物と手水場以外は特に何もない、そんな場所。
三ヶ日ともなれば人気もなく酷く閑散としているけれど、それが逆に清謐な空気を醸し出している。
「チィちゃん」
名前を呼ばれ振り向く。
社の前に立った門田先生が手招きをしている。
歩み寄ると門田先生は少し頬を緩めたまま、財布から硬貨を二枚取り出した。
「ン」
差し出されたのは五円玉。
促されるままに受け取ると、門田先生は財布を仕舞って社の方に向き直った。
小さな放物線を描き、門田先生の持つ硬貨が塞銭箱に納まる。
それに倣って私も受け取った五円玉を塞銭箱に投げ入れると、小さく柏手を打って両手を合わせた。
今更、願い事なんて一つしか思い浮かばない。
その一つの願いを心の中でしっかりと唱えると、私は目を開けた。
私の隣では門田先生がやけに真剣な顔付きで、まだ何かを願っている最中だった。
やがて門田先生は顔を上げると、隣に立つ私を見下ろした。
「何願った?」
「今年も良い一年でありますようにって」
本当の事なんて言える訳ない。
ありきたりな答えを返すと門田先生は少しだけ表情を和らげた。
「ふぅん。ま、大丈夫じゃね?」
「だと良いけど。ナァくんは?」
何故か自信たっぷりな物言いが疑問だったけれど、私はそれには触れずに同じ質問を返した。
でも、門田先生は笑ったまま答えてはくれない。
「内緒」
「……ずるっ」
『ふ』と笑った顔に思わず見惚れそうになって、慌てて視線を外す。
拗ねた子どもみたいな口調に我ながら飽きれてしまう。
けれど門田先生は私の様子なんか気にもせず、社に背を向けた。
「そう言うなって。ホレ、戻るぞ」
言ってヒラヒラと片手を振る。
それでも撫然とした表情を維持していると、不意に門田先生の手が伸びた。
「体、冷えるぞ」
「っ…!?」
思わず小さく息を飲んだ。
荷物を持たない私の手を門田先生の手が握り締める。
そのまま軽く引っ張られ、私はたたらを踏みながら門田先生の隣へ。
さっきよりも近い距離に心臓が跳ね上がった。
「冷てぇな、チィちゃんの手」
言いながら私の手を握り直すと、門田先生はいつもの薄い笑みを浮かべた。
「ナァくん、酔ってるでしょ」
「え?普通」
「嘘。絶対酔ってる」
自分でも驚くぐらいに冷静な声が出たけれど、それは頭の片隅のもう一人の私の仕業だ。
その証拠に、私の胸の中は得体の知れない動揺とか混乱とか。言わばパニックの源である代物が、上へ下への大騒ぎ。
耳のすぐ傍で心臓の音が聞こえる。
「いつものナァくんじゃないし。エスコートとかって言葉、無縁でしょ?」
「酷ぇな、チィちゃん」
「あれ?違った?」
門田先生が何かを言うと、私の口は頭が理解する前にスラスラと言葉を紡いで行く。たかが手を繋ぐぐらい、何て事ない筈なのに、全ての神経回路が左手に集中していて、今どんな話をしているのかも分からない。
でも、それで良い。
現状を認識してしまったら、たぶん。嬉しさとか恥ずかしさとか。そんな感情に流されて、訳の分からない事を口走ってしまうだろうし。
無意識に冷静な自分を作り出す。
これが防衛本能ってヤツかも知れない。
手を繋いだまま神社を出て、また駅までの道をゆっくりと歩く。
そうしているうちに、私は徐々に落ち着きを取り戻していた。
いや、冷静になった訳じゃないけど。少しは落ち着いて今の状態を認識出来るようにはなって来た。
「新年会だったんでしょ。どれだけ飲んだの?」
「あ〜…ビール二杯に焼酎。ロックで三杯ぐらいか」
「それだけ飲めば充分じゃない」
門田先生の態度はいつもと全然変わらなくて。だから私も必死になって何事もない風を装い続ける。
さっきの角を右に折れると駅はもうすぐ其処だ。
赤信号に足を止めると、門田先生は首を傾げながら視線を宙に走らせた。
「ンな酔ってるように見えるか?」
「見えるって言うか…酔ってなきゃこんな事しないし」
繋いだ手に視線を落とす。
少しだけ持ち上げると門田先生は私の手を握り返して喉の奥で笑い声を漏らした。
「じゃあ、酔ってる事にしとく」
「…じゃあ、って何ですか」
顔を上げて門田先生を見上げると、あの笑顔が目に入る。口先を尖らせる私の言葉に門田先生は笑ったままだ。
この笑顔はずるい。卑怯だ。
いつもの薄い笑顔とは違って、この笑顔は私の思考を狂わせる。
こんな笑顔、学校じゃ見た事ない。
「だから、これも酔ってるせい」
そう言った門田先生は、不意に手を離すと私の頭に手を乗せた。
まるでバスケットボールを掴むみたいに、私の頭を両手で持って引き寄せる。
何が起こったのか理解出来ない私の頭は門田先生の胸元に預けられる。その直後、ポンポンと子どもをあやすような心地良い振動が後頭部に伝わった。
本日二度目の混乱。
抱き締められてる訳じゃない。
いや、でも。
頭だけはしっかりと門田先生の胸に抱かれていて。
煙草の匂いがする。
「お、青だな」
頭の上でそんな声が聞こえたかと思うと、私の頭は自由になった。
反射的に顔を上げると、門田先生は何もなかったみたいに、また私の手を握って歩き出した。
──ち、ちょっと待って。
今、何があったのよ!?
ざわざわと胸の中を蠢めく熱が、喉の奥から昇って行く。
頬が熱い。耳の奥が張り詰めている。
馬鹿みたいに呆けた私は、引っ張られるようにしていつの間にか駅前に到着していた。
「か…な……」
門田先生、とか。ナァくん、とか。
私の手を引く彼の名前を呼ぼうとしたけれど上手く声が出て来ない。
「酔っぱらいぃっ!」
何とか言葉になったのは一言だけで、それも小さな叫び声。
門田先生は足を止めると、私の声にクツクツと笑い声を漏らした。
「だから言ったじゃん、酔ってるせいだって」
「で、でもでもっ!」
思考回路はプッツンきたまま、一向に回復の兆しを見せない。
口が回らなくなった私はパクパクと金魚のように口を開いたり閉じたりするだけで。
ちょうど電車が到着したのか、改札を抜ける人達が私達の傍らを通りすぎた。
「ほら、帰るんだろ?」
私の手を離し、門田先生がお手上げのポーズを取る。
私は尚も何かを言おうと口を動かしてはいたけれど、結局言葉は出てこなくて。深い吐息を一つ漏らすと、ぶら下がったままだった右手の荷物を持ち直した。
「ナァくん、訳分かんない」
ふて腐れたような低い声。その小さな呟きが耳に届いたのか、門田先生は片眉を下げて眉間に皺を刻んだ。
「……そのうち分かる」
「はい?」
益々持って意味が分からない。
怪訝な表情を返した私だけど、門田先生はすぐに笑みを取り戻すと、手を下ろしてダウンジャケットに突っ込んだ。
「今日はもう遅いし。何なら家まで送るか?」
「結構ですっ」
これ以上一緒に居たら心臓が持たない。
妙な悔しさと恥ずかしさと。そんな気持ちが胸の奥深くで暴れている。
熱った頬は隠し様がないけれど、私はフンとそっぽを向くとバッグからカードを取り出した。
「それじゃ、おやすみなさい」
「ン、気を付けてな」
必要以上に語気を強める私の姿に、門田先生は楽しそうに笑う。
改札を抜けて振り返ると、門田先生はまだ私を見送ってくれていた。
暖かさの残る左手をコートのポケットに突っ込む。
一人になってようやく冷静さを取り戻した私は、今日の出来事を思い返していた。
ホントに、訳が分からない。
何であんな事したんだろ。
動揺しまくりだった私の姿は、今になって思えば滑稽その物。
あそこまで狼狽しちゃ、やましい気持ちがありますって言ってるようなもんだ。
──って事は、もしかして……。
ハタと思い当たった事に私は血の気が引くのを感じた。
──……バレた?…門田先生の事が好きだって言うの……。
愕然とした想いで電車のドアに手を突く。
漏れた溜め息に、近くに座っていたおじさんが胡散臭そうにこっちを見たけれど、私の方はそれどころじゃない。
それって滅茶苦茶気まずくない?
て言うか間違いなく気まずいし。
「……どうしよ…」
ハァ…と深い溜め息を溢した私は、いつの間にかズレた思考にも気付かなくて、自分の想いの行方だけでいっぱいいっぱい。
だから門田先生がどんな気持ちだったかなんて考える余裕もなく。
来るべき新学期が酷く憂鬱に思えて、ただただ溜め息を溢していた。