私が思っているよりも、人は私の事なんて気にしていないのかも知れない。  
そう思う程に、新学期を迎えても、私の回りには何の変化も無かった。  
 
冬休みの、たった一時間やそこらの出来事なんて、彼にとっては大した事じゃなかったみたいで。  
学校が始まってから、顔を会わせた門田先生は、憎らしいぐらいにいつも通りだった。  
 
私が意識し過ぎなのかな……。  
いや、でも普通は意識するよね。  
好きな人と手を繋いで、頭だけとは言えハグされて。  
今思い返しても心臓がいつもより早く脈打つし、頭の芯は麻痺したみたいに真っ白になるし。  
 
だけど。  
どうしてあんな事をしたのか、なんて訊ける訳がない。  
 
 
そんなこんなで、どうにも宙ぶらりんな気持ちを抱えたまま、慌ただしい日々は過ぎて行った。  
 
 
マラソン大会も近付いた一月末の金曜日。  
いつものように出勤すると、教務の玉置先生が私に近付いた。  
「長谷部先生。今、茜ちゃんのお母さんから電話があって、茜ちゃん風邪でお休みしますって」  
「茜ちゃんが?」  
「インフルエンザも流行ってるし、そうじゃなきゃ良いんだけど」  
言われてみれば、昨日は茜ちゃん、少し具合いが悪そうだったのよね。  
クラスでも二人、風邪で休んでる子が居るし。  
「長谷部先生も気を付けて下さいね」  
「はい」  
狭い教室の中じゃ、一人が風邪をひくと芋蔓式と言っても良いくらい、二人三人と風邪をひく。  
それは勿論生徒だけじゃなく、毎日一緒に居る私達教師にも有り得る話。  
一応、基本の手洗いとうがいは欠かさずやっているけども、ひく時はどうやったってひく。それが風邪ってもんだと思う。  
玉置先生が自分の席に戻ったので、私は荷物を纏めると更衣室へと向かった。  
私服からジャージに着替え職員室に戻る。一時間目の国語の用意をしていると、カタリと隣の席の椅子が引かれた。  
 
「おはようござい…ま……」  
隣の席の主は門田先生。  
顔を上げた私の言葉は最後まで紡がれなかった。  
いつものようにジーパンにダウンジャケット、マフラーと言った姿の門田先生の口許に、見慣れない代物が見えたせいだった。  
「おはよ」  
少し掠れた、篭った声。  
眉間に皺を刻んだ門田先生は、マフラーを椅子の背もたれに掛けると鞄を机に置いて椅子に腰を下ろした。  
「門田先生…風邪ですか?」  
「あ?…あァ。ちょっと喉がな」  
忌々し気にマスクを引っぺがし咳払い。  
思わず眉根を寄せた私の方を見る事もなく、門田先生は今日の授業の準備を始めた。  
「大丈夫?熱は?」  
「薬飲んで来たから。…それに金曜だし」  
「…どんな理屈ですか、ソレ」  
「明日明後日休めるし、一日ぐらい無茶しても平気って事」  
あっさりと言い切りながら、それでも喉の調子が悪いらしく、喉の奥で咳をする。  
その様子を横目で見ながら、私はひっそりと溜め息を吐いた。  
──子ども達にうつったらどうすんのよ。  
子ども達から貰ったのか、門田先生の日頃の不摂生のせいなのか、それはこの際問題じゃない。  
問題があるとすれば、子どもを預かる身であるなら、悪影響を与える状態で学校に来るべきじゃないって事だ。  
「……無理しないで下さいよ」  
門田先生と子ども達。それぞれに対する心配と不安を半分半分で告げると、門田先生は横目で私を見て、分かってるとでも言いたげに小さく笑った。  
 
 
放課後。  
子ども達を送り出して職員室に戻ると、先に教室に戻っていた門田先生が、ノートパソコンと格闘していた。  
酷い猫背でキーボードを叩いては、時々ゴホと喉を唸らせている。  
「お疲れ様です」  
「ん?お疲れ」  
声を掛けて席に座る私に、一瞬視線を寄越しはするけれど、直ぐにその視線はディスプレイに向けられた。  
職員室には共用のデスクトップ型パソコンが四台設置されていて、それとは別に二台のノートパソコンもある。  
父兄への配布プリントや学校便りは、基本的に学校のパソコンで製作する事になっているからだ。  
ひょいとディスプレイを覗き見ると、二月に配布する学校便りの文字が見えた。  
「風邪、大丈夫ですか?」  
「ん〜、まぁまぁかな」  
話し掛けても、半分ぐらいは聞いてないんだろう。  
生返事にも似た口調で言いながら、門田先生は眉間に皺を刻んだ。  
学年別に配布する学校便りの製作は、主に門田先生の担当。  
生徒指導や広報と言った風に、教師にも色々と役割があるのだ。  
 
雑務をこなしながら時折隣の様子を伺う。  
不機嫌そうな表情は変わらないけれど、手は休む事なくキーボードを叩き、視線は会議の内容をまとめた資料とディスプレイを往復している。  
宿題にしていたプリントを片付け、来週の授業で使う教材を準備すると、今日の仕事は終わり。  
黙々とそれらをこなした頃には、もう外は薄暗くなっていた。  
「終わったぁ」  
カクリと門田先生が頭を垂れたのは、私がジャージから私服に着替え更衣室から戻った時だった。  
「お疲れ様です」  
「ん〜。あ、悪ぃんだけどコレ、印刷頼めるか?」  
「良いですよ」  
フロッピーディスクを抜き取った門田先生は喉を鳴らしながら顔を上げる。  
いつもなら印刷まで自分で済ませるんだけど、流石に今日はそこまで気力がないらしい。  
快く了承した私がフロッピーディスクを受け取ると、門田先生はもう一度「悪ぃな」と苦笑した。  
「来週で構わねぇから」  
「今日やっちゃいますよ。もう仕事もないし」  
「働き者だねぇ、長谷部センセは」  
「わお、皮肉ですか?」  
「誉めてるんだよ」  
冗談めかして態と唇を尖らせた私を見て、門田先生はいつもの薄い笑みを浮かべる。  
私も頬を緩めると、手近なパソコンを立ち上げて、受け取ったばかりのフロッピーディスクを差し込んだ。  
 
プリントアウトを終え印刷室へと向かう。  
人気のない印刷室で印刷機を回している間にも、外はどんどん暗くなって行く。  
何気無く時計を見上げると、午後五時を少し回った時刻。  
特に用事のない先生方が次々に学校を出て行く中、私はぽつんと印刷機の前で印刷が終わるのを待っていた。  
──大丈夫なのかな、門田先生。  
一人になると想うのは、やはりと言うか門田先生の事。  
風邪が心配だから、なんて理由じゃないのは、もう充分分かっている。  
この際開き直らせてもらうけど、好きな人が風邪をひいて心配しない方がどうかしてる。  
 
とは言っても、門田先生は実家暮らし。  
私みたいに独り暮らしだと、色々と大変だろうけど。おばさんがいるんだから、早目に帰って休む方が良いんだろうな。  
お見舞いなんてしなくても、たぶん来週にはケロッとした顔で学校に来るだろうし。  
 
そんな事を考えているうちに、印刷機が動きを止める。  
吐き出された藁半紙の束を掻き集め、明かりを落として職員室に戻ると、玉置先生が一人残っているだけだった。  
「あれ?……門田先生は…」  
門田先生の机には、まだ鞄が残っている。  
いつもなら煙草を吸いにパーテーション奥の来客室にいるんだけど、奥にも人の気配はない。  
プリントを机に置いて、きょろきょろと辺りを見回す。  
せめて一声掛けて帰らないと、このままってのはどうにも落ち着かない。  
すると、私の様子に気付いた玉置先生が、資料から顔を上げて私に声を掛けた。  
「門田先生ですか?」  
「あ、はい。印刷が終わったんで」  
「少し休んでから、薬かっぱらって帰るって。保健室に行きましたよ」  
「じゃあ、保健室見て来ます」  
礼を言って職員室を出る。その足で直ぐ向かいの保健室の扉を開けると、電気もついていない部屋の中で、門田先生がベッドに倒れているのが見えた。  
 
「ち、大丈夫ですか!?」  
思わず駆け寄る私に気付き、門田先生がのっそりと体を起こす。  
具合いが悪いのか何なのか、半目で私の姿を確認すると、門田先生はまたベッドに転がった。  
「薬、場所分かんなかったから……人前で転がる訳にゃいかねぇだろ」  
「……あぁ」  
言われて納得。  
養護の池上先生は、今日は昼から出張中。それに加えて、仕事に対するプライドの高い門田先生が、同僚の前で情けない姿を見せる筈がない。  
熱がどれくらいあるのかは分からないけれど、門田先生が平気な顔をしてるからって、見抜けなかった私も馬鹿だ。  
「印刷、終わりましたから。大丈夫ですか?」  
「たぶん。……チィちゃん、薬持ってねぇ?」  
「あ〜…絆創膏しかないですね」  
辛そうに額に手を遣りながら門田先生が軽く咳をする。  
生憎、私も薬のある場所なんて分からない。  
心配になって近付くと、門田先生は目を閉じたままで深い溜め息を吐いた。  
「帰れますか?」  
「……ん〜」  
私の声に門田先生は小さく頷く。けれど一向に動く気配はない。  
 
どうしよう。  
放って帰る訳にも行かないし……。  
 
ただただ門田先生を見つめるしか出来ない私は、困り顔のまま手近な丸椅子を引き寄せた。  
そんな私の気配を察したか、門田先生が薄らと目を開ける。  
椅子に座る私を見て、門田先生は額を滑らせるようにして前髪を掻き上げると、困ったように小さな笑みを浮かべた。  
「何で帰らないんだ?」  
「何でって……」  
「少し休んだら俺も帰るし、チィちゃんが心配するこっちゃねぇだろ?」  
「でも…」  
門田先生の声は優しい。  
子どもを叱る時のような、言い含める時のような穏やかな声。  
それでも席を立てずにいると、門田先生は再び体を起こした。  
「そんなに心配すんなって。単なる風邪だろ」  
「…でも……心配だし」  
「何で」  
「っ……」  
門田先生の表情は変わらない。  
ただ視線は真っ直ぐに私に向けられていて、私は思わず視線を逸らして俯いてしまう。  
 
答えは簡単。  
だけどそれを告げるのは、はっきり言って難しい。  
 
言い淀む私の事をどう思ったのかは分からないけれど、門田先生は一度大きな咳をすると、深々と溜め息を吐いた。  
 
「……んな顔されっと、期待すんだけど」  
 
…………はい?  
 
──期待……する?  
 
言われた言葉を脳裏で反芻。耳の奥が張り詰めたような錯覚が、私の思考回路を奪う。  
顔を上げると不意に私の体に強い圧力が掛った。  
 
 
 
目に映るのは黒い髪と白い壁。  
身体中を包むのは熱い何か。  
 
 
 
抱き締められていると気付いたのは、後頭部に回された手が私の髪を優しく梳くのを感じたからだった。  
 
「あんま心配されると、俺の事が好きなんじゃねぇかって思う訳。……まぁ、あながち間違いじゃねぇんだろうけど」  
「え……あ、えぇ!?」  
「うっさい」  
私を抱き締めたまま、門田先生が小さく笑う。  
動揺を丸出しにした私は彼の腕の中で目を丸くして、身動きも出来ない。  
私の髪から首筋、耳の裏へと触れる門田先生の指が熱い。  
「……勘違いなら謝るけど、チィちゃん、俺の事好きだろ」  
熱い吐息が耳に掛る。  
問掛けじゃない。  
断定的な口調で告げられた言葉が頭の中を揺さぶる。  
その声は少し震えていたけれど、それに気付いたのはかなりの時間が経ってからだった。  
 
真っ白になった頭の中で必死になって門田先生の言葉を辿る。  
答えは遠の昔に分かっているのに、喉の奥で色んな言葉が詰まっていて、声が上手く出せない。  
耳の後ろに心臓が移動したみたいに、うるさくて何も聞こえない。体の芯が酷く熱くて、このまま蒸発しそうな錯覚を覚える。  
「返事は?」  
黙りこくった私を促すように、門田先生が少しだけ腕の力を緩めた。  
でも、まだ顔は見えない。  
どんな顔で──どんな眼差しでいるのか分からないのが不安を煽る。  
 
気付けば私は門田先生の背中に手を回していた。  
 
「好き…です。……凄く」  
 
しがみつくようにして力を込めた手とは裏腹に、私の声に力はない。  
だけど、理性や羞恥心を無理矢理押さえ込んだ言葉は、静かな保健室の中でやけにはっきりと自分の耳に返って来た。  
 
「ナァくんじゃなくて…門田先生じゃなくて。……直樹さんが、好きです」  
 
想いが完全に伝わる事は有り得ない。  
心の奥で感じる気持ちを言葉にするのは余りにも難しい。  
それでも、言葉にしないよりはする方が、自分の想いは伝わりやすい。  
 
いつだったか、私の先生が言った言葉だ。  
その時は良く分からなかったけれど。今は先生の言いたかった事が良く分かる。  
 
伝えなきゃ駄目なんだ。  
気持ちも。想いも。心の中で感じる全てを、言葉に出来る限りは。  
 
色んな気持ちが内混ぜになっていて、動揺しているのか興奮しているのか。  
ただ、ぎゅっと門田先生の服を掴んで目を閉じていると、門田先生の腕は再び力を増して私の体を包み込んだ。  
「良かった。勘違いじゃなくて」  
「……?」  
「俺も好き。千草の事」  
はっきりと私の名前を口にして、門田先生は私の顔を覗き込んだ。  
目を開けると、門田先生の笑顔が目に入ったけど、それはいつもの薄い笑みじゃない。  
冬休みに見た、酷く穏やかな眼差しと優しい笑顔が、私の視界いっぱいに映る。  
「チィちゃんじゃなく、長谷部センセでもなく、俺も千草の事が好きだから」  
ゆっくりと門田先生の顔が近付く。  
熱った頬とジンジンと響く耳鳴りの中、反射的に強く目を閉じると、熱く柔らかな感触が私の唇に触れた。  
 
しがみつく手に力を込めながら思わず息を飲む。  
私の頭を支える門田先生の指が耳に触れる度にくすぐったいけれど、それよりも唇に与えられる刺激の方が強くて、頭の中は完全に真っ白になっていた。  
息をするのも忘れて、門田先生にしがみつくのが精一杯。  
二度三度、緩く唇を吸い上げられ解放されると、私は大きく息を吐く。  
そこを狙ってでもいたかのように、再び唇が塞がれた。  
あらがう間もなく舌先が差し込まれ、私の舌を絡め取る。  
「っ…ん……」  
鼻に掛った、声にもならない音が鼻先から漏れた。  
少し苦い門田先生の舌が私の舌に絡められ、その感触が私の頭を麻痺させる。  
ドクドクと耳のすぐ近くで聞こえる鼓動がうるさい。  
少し開いた唇の隙間からあえぐような呼吸をしていると、やがて名残惜しそうに門田先生の唇が離れた。  
「……熱、上がりそう」  
そんな事を呟いて私の肩に顔を埋める。  
時間にしてほんの数秒。  
だけど恥ずかしさは並大抵じゃない。  
顔を見るのも見られるのも恥ずかしい。  
照れ隠しに私も門田先生の肩に顔を押し付けながら、もう一度門田先生を抱き締めた。  
「熱上がったら、チィちゃんのせいな」  
「……自業自得って言いません?」  
「言わね」  
私の後頭部を撫で回す門田先生がおかしくて、ついくすくすと笑いを溢すと、門田先生は不服そうに、更に私の頭をぐしゃぐしゃにした。  
 
 
 
いつまでも抱き合ってる訳にはいかないと、保健室を出たのは数分後。  
私と門田先生は、揃って帰路についていた。  
まぁ、名目上は風邪の門田先生を私が駅まで送るって事にはなってるんだけど。  
私の手は、しっかりと門田先生の手に繋がれている。  
──誰かに見られたらどうすんのよ。  
なんて事を考える。  
 
でも。  
離せないし、離したくない。  
 
「熱だけでも計れば良かったな…」  
再びマスクを着けた門田先生は、時折咳を繰り返す。  
隣を並び歩く私は同意も否定も出来ず、曖昧に頷いた。  
体温計の場所も分からなかったんだから仕方ない。  
「あ、そうだ」  
もうすぐ駅への分かれ道と言う所まで来て、不意に門田先生が立ち止まった。  
交差点の信号は赤。  
前にも一度、こんな事があった気がする。  
門田先生が私を見下ろすけれど、マスクとマフラーに顔の半分以上が隠されていて、その表情は全然読めない。  
──……何か…ヤな予感。  
つられて門田先生を見上げると、門田先生は目を弧にして口を開いた。  
「チィちゃんち、近いよな」  
「……近いけど…」  
「泊まって良い?」  
 
…………。  
 
「ハイ?」  
 
思わず固まった笑顔で首を傾げた私だけど、門田先生は飄々とした態度でさらりと言い切った。  
「離れ難いと思わねぇ?」  
「っ……!!」  
へ、変化球とかナイ訳!?この人はっ!  
直球ど真ん中ストレートな言葉に、私の言語中枢は真っ二つ。  
「俺は離れ難いけどな」  
目を真ん丸にして凝視する私の前で、空いた手でマスクをずり下ろした門田先生は面白そうに笑う。  
「な、う……あ…」  
パクパクと開いたり閉じたりする隙間から声は出るけど、言葉になる気配は全くない。  
 
 
いつの間にやら青に変わった信号で、通り掛る人達が私達をチラチラ見ては通り過ぎる。  
「……へ」  
「ン?」  
「変な事…しない?」  
返事を待つ眼差しに耐えきれなくなり、俯いてボソボソと呟く。  
真っ赤な頬はたぶん、髪に隠れて見えないだろう。良い歳してと思うかも知れないけど、恥ずかしいもんは恥ずかしいんだって。  
私の表情は門田先生に見えない。私にも門田先生の表情は分からない。  
でも、返ってくる答えは容易に想像がつく。  
「保障は出来ねぇな」  
予想通りの答えを返した門田先生は、私の手を引くと駅ではない方角に向け歩き出した。  
「な、ナァくんっ!」  
「『直樹』」  
「へ?」  
マンションへと半ば引きずられるような形で歩きながら抗議にも似た声を上げる。  
けれど門田先生は、私の方なんて見向きもしない。  
「直樹って呼べるまで帰らねぇ」  
 
……。  
 
 
…………何ですと?  
 
 
「さっき呼んでくれたろ?『直樹さん』って」  
「いや、アレは不可抗力で!て言うか風邪なら帰ろ!?」  
「嫌。千草に看病して貰う」  
「ぐっ!」  
どさくさに紛れて名前を呼びながらも、門田先生の歩みが緩む様子は欠片もない。  
子どもの我が儘だって此処まで酷くないんじゃない?  
第一、こんな調子じゃあ心臓が幾つあったって足りやしない。  
「いつまでも餓鬼の頃みてぇな呼び方しててもしゃあねぇだろ。もう、単なる幼馴染みじゃねぇんだからさ」  
必死になって制止をかけようとする私に、門田先生はニヤリと笑って足を止めた。  
見下ろす表情はいつものそれで。  
この九ヶ月、見飽きるぐらいに見慣れた薄い笑顔をした門田先生に、勝てる筈なんてない。  
ずるくて、意地悪で、人を玩具にして楽しむこの人の性格は、もう嫌と言う程分かっている。  
「……悪化しても知らないから」  
軽く睨み上げながら精一杯の憎まれ口を叩いた私は、繋いだ手に態と力を込めて歩き出す。  
門田先生は咳にも似た笑い声を溢したけれど、それ以上は何も言わずに、素直に私に手を引かれていた。  
 

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