私が小さな頃に住んでいたのは社宅だった。  
 
三件の家が連なっていて、私の家は左端。  
真ん中の家に住んでいたのは、もう中学生ぐらいの女の子がいる家庭。  
私は「カナちゃん」と呼んでいて、遊んでもらった記憶もあるけれど、私が小学校に入学した年に引っ越してしまったので、細かいところまで覚えていない。  
 
そして、右端の家に住んでいたのは私より少し年上の男の子がいる家庭。  
「ナァくん」と呼んでいた事は覚えている。  
でも「ナァくん」の家は「カナちゃん」の家と同じぐらいの時期に引っ越してしまった。  
と言っても、私が小学三年まで同じ学校に通っていたから、たぶん近所に引っ越しただけだったんだろう。  
でも、やっぱり私は「ナァくん」の事もうろ覚え。  
 
 
そんな私は小学四年の時に、産まれ育ったこの街を離れる事になった。  
平たく言えば父親の都合。  
そして社宅は空になったけれど。  
 
 
更に十三年。  
大学を卒業した私は、新任教師としてこの街に帰ってくる事になった。  
 
 
四月。  
一年浪人はしたものの一応新卒の私は、まだ人気の薄い小学校の門をくぐった。  
生徒よりも早く、教員は四月の始めに配属された学校へ顔を見せる事になる。  
着任式と言う程でもないけれど、これから最低でも一年お世話になる学校だ。  
始業式が始まるまでに仕事は山ほどある。  
春休みの間は、以前から着任している先生は交代で休みになっているらしい。  
私が顔見せに来たこの日も、全員が揃っている訳じゃなかった。  
「新任の長谷部千草です、よろしくお願いします」  
他の学校から赴任してきた先生に混じり挨拶をする。  
他の先生方はベテランが多い。  
固くなった私だったけれど。  
私の母と同じぐらいだろうか。  
人の良さそうな教頭先生が、私の様子ににっこりと笑った。  
「よろしく。馴れないうちは大変だけど、何かあったら遠慮なく言ってね」  
「はい、ありがとうございます」  
「長谷部先生には二年を受け持ってもらう事になると思うわ。生徒も初めて「先輩」になるけど、まだまだ発展途上だから。一緒に成長していくぐらいの気持ちでね」「は…はい」  
固さを残しながらも何とか挨拶を終え自分の席に着いた私は、まずは身の回りを整える事にした。  
 
 
「門田先生見なかった?」  
「煙草吸ってくるって言ってましたよ」  
「教材屋さんの資料何処やったっけ」  
「印刷室空きましたー」  
 
あちらこちらで交される会話。  
思っていたよりもフランクなのか、先生達の遣り取りには堅苦しさはない。  
うん、これなら何とかやって行けるかも。  
不安ばっかり抱えてたって仕方ないもんね。  
 
受け取った資料を整え、机の引き出しを整理する。  
明日は教科書の業者さんが来るとかで、まだ私の机の上は寂しい。  
それでも片付けを終えた私がホッと一息ついていると、隣の席にバサリと紙束が置かれた。  
振り向くと、さっきは居なかった男の先生が、まじまじと私を見下ろしていた。  
ボサボサ頭にジャージ姿で、年の頃は私とあんまり変わらなさそうなんだけど。  
……えーっと…。  
他の先生が気にしてないってコトは、勿論この人も先生なんだろう。  
で、資料らしき物を置いたってコトは、恐らく私の隣だろうし…。  
「し…新任の長谷部です…。……よろしく」  
物珍し気に私を見つめる視線に耐えつつ、何とか頭を下げて挨拶をする。  
顔を上げると先生は「あぁ」と合点がいったらしく、椅子を引くとそこに座った。  
「四年目の門田。…ま、一年間ヨロシク」  
……人を馬鹿にしてるんだろうか、この人は。  
飄々とした口調は何だか得体が知れない。  
さっきの視線とは打って変わって全然私を見ようともしないし。  
正直、ちょっとばかりムッとしないでもなかったけれど。  
はぁ…と曖昧な返事を返して、私は自分の仕事に戻る事にした。  
 
とは言っても、今日はもうする事ないのよね…。  
教頭先生に指示を仰ごうにも、先生の姿は見えないし。  
居場所がなくて迷う私だったけど、不意に後ろから声が掛った。  
「門田先生」  
振り返ると年輩の先生が眉を釣り上げている。  
名前を呼ばれた門田先生を見ると、彼はあからさまに眉をしかめていた。  
「部会会議の時間過ぎてますよ。早く会議室に来てください」  
「あー、スンマセン。すぐ行きます」  
「早くして下さいよ、まったく」  
お世辞にもふさふさとは言いがたい頭を撫でながら、年輩の先生は足早に職員室を出て行く。  
門田先生は立ち上がると、一部始終を眺めていた私を振り返った。  
「梅田センセ。新任いびりが趣味みてぇな奴だから、何か言われても気にすんな」  
「…はぁ」  
「それと、片付けが終わったら今日はもう上がって良いぜ。教務の玉置センセに挨拶だけしとけよ」  
さっきと変わらず飄々とした態度を崩さずそう言うと、門田先生はボサボサ頭を掻きながら職員室を出て言った。  
……アドバイス…だよね、今の。  
思ってたより悪い人じゃないのかも。  
自然と溢れた笑みを隠さずに、私はゆっくりと帰り支度を始めた。  
 
 
春休みが終わるとあっと言う間に始業式やら入学式。  
怒涛のような日々は過ぎ、バタバタしていた私がようやく仕事に馴れたのは、四月も終わりに差し掛かった頃だった。  
 
始めて受け持つ担任は予想以上に大変だったけれど、その分遣り甲斐なんかも感じられて。  
それなりに充実した日々を送っていた。  
 
そんなある金曜日の事。  
 
「センセ、お暇だったら今日、飲みに行かね?」  
放課後、教室から戻った私を待っていたのは、門田先生のお誘いだった。  
職員会議もなく明日の準備を済ませればこれと言った用事もない。  
私は席に付くと授業の準備をしている門田先生の方を見た。  
「飲みに…ですか?」  
「あぁ。歓迎会じゃねぇけど、若いセンセと話す機会があっても良いだろ」  
そう言えば、ここ最近は忙しくてあまりのんびりしていない。  
歓迎会みたいな事もしてもらっていないし、プライベートじゃ他の先生と話す機会がなかったのも確か。  
「特に用事もありませんし、構いませんよ」  
私が言うと門田先生は僅かに口許を綻ばせた。  
「なら六時半に駅前で。俺、コレ片付けなきゃなんねぇから」  
トントンとペンでつついたのは、保護者に配布する学級新聞用のプリントだった。  
来週末には配らなきゃならないのに…大丈夫なのかな、この人は。  
そう思いはしたけれど、私は敢えてそこには触れず、素直に頷く事にした。  
「分かりました、六時半に駅前で」  
「ん、何かあったら連絡するわ」  
先生同士にも連絡網は存在する。  
特にこの御時勢、何があるやら分かったもんじゃない。  
私が学校に申告してあるのは、他の先生と同じく携帯の番号なので、門田先生も知っていて当然。  
私は荷物をまとめると、一度帰宅しようと学校を出た。  
こんな時、独り暮らしは身軽で良い。  
 
六時半より少し前に駅に着くと、門田先生はもう来ていた。  
流石にジャージ姿じゃないけれど、学校から直接ここに来たらしい。  
「すみません、お待たせしました」  
言いながら辺りを見回す。  
でも……。  
「いや、平気。じゃあ行くか」  
「え?でも、他の先生は…」  
私の言葉に門田先生は一瞬不思議そうに首を傾げた。  
「いねぇ。俺とセンセの二人だぜ?」  
……はい?  
「そうなんですか?」  
思いもよらぬ言葉に、私の目は丸くなった。  
門田先生は大きく頷くと、気にする事なく歩き出す。  
「でも若い先生とって…」  
慌ててあとを追うと、門田先生はゆっくりと歩きながら口を開いた。  
「若いじゃん、俺も長谷部センセも」  
「いや、そうなんですけど」  
「誰も他のセンセが来るなんて言ってねぇけど?」  
……っ。  
確かに……。  
「居酒屋で良いよな」  
「……何処でも」  
やられた。  
絶対確信犯だ、この人。  
言葉を失った私の様子に門田先生は薄らと笑っている。  
別に何かあるかもとか危惧してる訳じゃないけど、こう来られるとは……。  
 
やっぱり得体が知れないわ、この人は。  
 
居酒屋に入って三時間。  
ビールとつまみを口にしながら、私と門田先生はとりとめもない会話を交していた。  
 
門田先生は私と同じく二年を受け持っている。  
新任の時から四年間同じ学校で、年齢の割には古株だ。  
アルコールも手伝ってか、愚痴やら心配事やらを話すけれど、先生は嫌な顔一つせずに淡々とそれに応えてくれた。  
 
「そう言やさ」  
焼き鳥を口にしながら門田先生が口を開く。  
私は三杯目のビールを注文すると、向かいに座る門田先生を見た。  
「長谷部センセ、下の名前、千草…なんだよな?」  
確認を取るような口ぶり。  
普段の私なら不思議に思っただろうけど、アルコールのせいか私は素直に頷いた。  
「そうですよ」  
「……んー、そっか…」  
私の予想に反して、門田先生は考えるように眉間に皺を寄せる。  
いったい何だろう。  
「どうかしたんですか?」  
私の問いに門田先生はちらりと私を見ると、ガリガリと頭を掻いた。  
「妙な事訊くけどさ」  
「はい?」  
「子供ン時……ここら辺に住んでたりしなかったか?」  
 
……?  
 
何でこの人が知ってるんだろう?  
私はまじまじと門田先生を見つめる。  
先生も返事を待つようにじっと私を見返している。  
 
私の頭の中は依然疑問符まみれ。  
ざわざわと漂う喧騒が、その沈黙を埋め尽していた。  
 
「……小学生の時に…」  
 
頼んだビールが運ばれて来た頃、ようやく私はポツリと呟いた。  
それを聞くや否や、門田先生の表情に安堵の色が浮かぶ。  
私は舐めるようにしてビールを口にするとジョッキを置いた。  
 
「何で知ってるんですか?」  
「覚えてねぇかな…」  
嬉々とした表情を隠そうともせず、門田先生は言葉を紡いだ。  
「チィちゃんだろ?同じ社宅に住んでたんだよ、俺」  
 
………?  
同じ社宅……?  
 
その単語に私の頭はフル回転。  
 
アルコールが入っているとは言え、まだまだ正常に稼働する範囲。  
古い記憶を掘り起こす事しばし。  
 
「………ナァくん…?」  
 
自信なさげに問い掛けると、門田先生は嬉しそうににっこりと笑った。  
「そう、門田直樹。良かった〜、間違いじゃなくて」  
そう言ってビールを飲み干した門田先生──いやナァくんは、年相応ではあるけれど、記憶の彼方に薄らと浮かぶ子供の時と同じように笑う。  
私は思わぬ出来事に言葉を失ったまま、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。  
「長谷部なんてあんま聞かない名前だろ?名前見た時から、もしかして…と思ってたんだけど」  
焼き鳥の串に手を伸ばしながら、門田先生は言葉を続ける。  
「まさかホントにチィちゃんとは思わなくってさ。自信もなかったし」  
「あ……うん」  
私も意外よ、この展開は。  
何だか急に頭の中が混乱して、私はグビとビールを飲んだ。  
「でも良かった。いつ戻ってきたんだよ」  
「大学の時…こっちの大学通ってたから」  
「そっか」  
まるで心配事がなくなったように門田先生は笑う。  
けれど私は微妙に落ち着かない。  
 
十三年は、はっきり言って長い。  
いくら子供の時を知っていても、いきなりその時代には戻れない。  
 
それは門田先生も同じらしく、それ以降は初対面の時と同じように、馴れ合う様子は見せなかった。  
 
 
お店を出たのは、それから間も無くの事だった。  
「今日はご馳走様でした」  
「いや、こっちこそ。思わぬ収穫もあったしな」  
ヒラヒラと手を振った門田先生は煙草の箱を取り出しながら、ゆっくりと駅へと向かう。  
私は隣を並び歩いた。  
「おじさんとおばさんにもよろしく。俺も親父とお袋に言うし」  
「あ…はい」  
やっぱり落ち着かない。  
いや、居心地が悪いとかじゃないのよ?  
ただ、幼馴染みなんだけど、どこまで接して良いのか悩むのよね。  
そのせいか私は始終無言。  
門田先生も黙ったまま、さして長くない道のりを二人で歩く。  
私は駅に自転車を置いてあるので、送ってもらわなくて済むのが唯一の救い。  
門田先生はどうやら電車通勤らしい。  
「じゃあ、また」  
改札の前で足を止めると、門田先生は返事もなく私を見下ろした。  
「なぁ」  
「はい?」  
ポーカーフェイスの先生は、何を考えているのか本当に分からない。  
落ち着きなく視線をさ迷わせるでもなく、門田先生は真っ直ぐに私を見ると、不意にニカリと子供のような笑みを向けた。  
「今更だけど、俺チィちゃんの事好きだったんだぜ。だから…また会えて良かった」  
何の屈託もなく言うけれど、先生はすぐに照れ臭そうに視線を外す。  
私は一瞬きょとんとしたけれど。  
「…うん。…私も、ナァくんが居て良かった」  
少しだけ笑って見せると、門田先生はもう一度、安心したような吐息を吐いた。  
「じゃ、また来週」  
「はい、お休みなさい」  
ヒラと手を振った先生はそのまま改札を抜けてホームへ向かう。  
私も後ろ姿を見送ることなく踵を返すと、駐輪場へと向かった。  
 
 
 
大人になった今、子供の時のように屈託ない付き合いは出来ないだろう。  
「チィちゃんとナァくん」じゃなく「長谷部先生と門田先生」なんだから。  
 
 
それでも。  
不思議と心の奥はほっこりとしていて。  
 
 
これから先の一年に、少し不安がなくなった私は、一人小さくガッツポーズをした。  
 
 

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