「ピエロの飴玉」
「お先ぃ〜!」
俺は高速ダッシュで帰り支度を済ませ、部室を飛び出た。
野球部が整備の支度をし始めたグラウンドを突っ切っり、クラブが終わって
下校する奴らの流れを逆流しながら校舎の中に入っていく。
下駄箱に靴を突っ込みスリッパをひっかけて、3階の教室に駆け上がる。
2年生クラスの3階は人影も無く、がらんとしていた。
いつもならこの時間でも何人かの女子が溜まっていて、大きな笑い声が
廊下にまで響いているもんだが、今日はみんな帰ってしまったらしい。
俺は、誰にも気兼ねなく5組の廊下から、下を伺った。
隣の北校舎の1階にある音楽室。
そこに、まだたくさんの生徒が詰まって、動いている。
吹奏楽部はいつも終わるのが遅い。
俺は、音楽室を眺めながら、ほとんど空になったペットボトルのお茶を
飲みきって、スポーツバッグの中に突っ込んだ。
部員達が、楽器を片付け終わり、互いに手を振ったり、頭を下げたりするのが
見える。廊下に向かう奴らの中に、目当ての姿を見つける。
肩まで伸ばした黒い髪の、少し猫背の後ろ姿。
よし、いまだ。
俺は、タイミングを見計らい。さっき整った息が今度は乱れない程度に
急いで、一気に階段を駆け下りてまた下駄箱に急いだ。
下駄箱に到着すると、そこにはちょうど渡り廊下からやってきた
吹奏楽部の奴らが靴を履き替えていた。
俺も何食わぬ顔で自分の下駄箱の所に行き、靴を取り出した。
「あれ、有野くん、今日クラブは?」
隣にいた前川が、スリッパを下駄箱に入れながらこちらに気が付いた。
作戦成功。
俺は心の中でガッツポーズをした。
「あったけど?…ああ、俺忘れ物取りにきただけ」
心の中の喜びを押し殺し、いつも通りの口調で返す。
「そっかー。偶然だね。帰りが一緒になるなんて」
本当は偶然じゃないんだけどな。1ヶ月前から考えて、練りに練った作戦。
「有野君。これ、あげとく」
朝一番に前川が俺の机にチョコを置いたのは、一ヶ月前。
2月14日。セントバレンタインデ−。
夜更かしした次の日で、机の上に突っ伏して寝ていた俺の腕と顔の間の
隙間に押し込めるようにチョコを置いて「友チョコだからね」と言って、
俺の前の席の前川は、何事も無かったように1時間目の教科書を出し始めた。
俺も突っ伏したままチョコを手に取り、そのままポケットの中に
チョコを押し込んだ。
誰も気が付かない、小さいやり取り。
でも、その時俺の心臓はばくばくとしていた。
前川とは二年のクラス替えで初めて知り合った。
理系クラスの数少ない女子のうちの一人だ。
うちのクラスの女子ははっきり言って飾り気が無い。文系女子の方が
かわいいし、愛想もいい。最初の頃は『理系女子って色気がないよなー』
なんていう仲間に激しく同意もしていた。
だが、前川は縁があるのか席替えするたびに隣だったり、前だったり
俺の席の近くになることが多かった。
最初は互いに気にも留めずに一言もしゃべらない状態だったが、
さすがに3度目に席が近く、しかも隣り合わせた時に「また前川かよ」と
俺が呟いたのがきっかけで少しずつ話をするようになった。
昆布はかめばかむほど味が出る。前川はそんな奴だった。
地味で自分から進んで男子に話しかけたりはしないが、いざ話して見ると
へんに取り繕ろった所がなくて疲れないし、こちらが知らない事を
結構知っていたりして面白かった。
宿題を忘れたときに見せてくれるのも頼りになる。
俺を見るときにふっと安心したように笑うのは気のせいじゃないと思う。
他の男子に気軽に話しかけないということも、
俺の中で重要なポイントだった。
いつのまにか前川は、俺にとって他の女子とは違う存在になっていた。
あの日から、俺はすっかり浮かれタコだ。笑わば笑え。
今までも結構「本命チョコ」をもらったことはあったが、
好きな子からもらえると単純に、うれしい。
渡し方も、そっけなくて前川らしくていい。
以前、体育館倉庫に呼び出され、5人も友達をぞろぞろ引き連れた子から
チョコをもらった時はうれしいというより、怖かった。
「友チョコだからね」そんな照れ隠し言わなくたっていいんだぜ。
フッ、素直じゃないな。
だが、お前の愛は確かに受け取ったぜ、前川。
心の中ではこんなことを言っているのに、実際には今までどうりフツーに
前川に接しているヘタレな俺。そんな俺のために、3月14日の
ホワイトデーは作られたに違いない。
ああ、神様ありがとう。
俺からのお返しに頬を染め「うれしい」といって
俺に抱きついてくる前川─なんちゃってな。くぅぅ。
今日の俺のバッグの中には、白と青の風船がふわふわ浮かんだこっぱずかしい
特設開場で買った、青い包装紙で包んだ小さい箱が入っていた。
この前の期末試験、結構がんばってたな、なんて無難な話をしながら、
自然な流れで前川と一緒に歩き出す。電車を利用するので、行く方向は一緒だ。
毒にも薬にもならない話をしながら、俺は、いつ包みを渡そうか、
頭の中ではそればっかり考えていた。
そろそろ駅が見えてきた。左手には小さい公園と、コンビニ。
誘ってみようか…でも、ここじゃ他の奴らに見られて、前川が嫌がるかな。
そんなことをぐるぐる考えていると、前川がふと、いつものような
淡々とした口調で言った。
「有野君、今日暇?塾とかある?」
「え…いや、何も」
「じゃあさ、反対側乗ってみない?電車」
おおおおおおお…………これはっ!
デートか?デートのお誘いか?
神が俺に味方をしている。
今日は積極的だな。前川。どうしたんだ。
でも、積極的な前川も大好きだ。ああ、鼻血が出そう。
俺が浮き足立っている間に、前川はさっさと2枚分の切符を買い
俺に手渡すと上りのホームへと進んでいく。
切符を見ると、七百三十円。どこまで行くつもりなんだろう。
俺がその疑問を口にしたら、前川は少し困ったような顔をして笑った。
「わかんない…」
「わかんないって…目的地無しに乗ったのかよ」
「うん、…ちょっとどこか遠くに行きたいなぁ、ってそれだけなの」
普段の前川はあまり気まぐれな感じはしないので、その答えは少し以外だった。
「ごめんね。迷惑だった?」
申し訳なさそうにこちらを見るので俺は慌てて否定する。
確かにちょっと驚いた。
だが俺は前川とこうして二人きりでいられることがただただ嬉しかった。
上りの電車は人が少なく空いているシートもあったが、一緒に座ろうとは
何となく言い出せなくて、ドアの付近で二人で立っていた。
学校の外で一緒にいる前川。
制服を着たままだが、背景が違うだけで新鮮だった。
外を眺める彼女の横顔を気づかれないように俺は見た。
気が付いたら、二人は沈黙していた。俺がしゃべらないからって言うのもあるが
前川も今日はいつもより無口だ。
突然、前川がああ─っと小さい歓声を漏らした。
電車は大きな川にさしかかり、車窓からは夕日が空と川の水面を
紅く染めている様が見えた。
さざなみがキラキラと夕日の光を反射して絶えず揺らいでいる。
俺達の様子に気が付いた近くの席の女が、「ほら、きれいねえ」と
横の幼児に話しかけていた。
すぐに流れてしまったその景色を目で追いかけていると、
次は○○、と電車のアナウンスが流れた。
「有野くん、降りよう」
突然、前川が慌てて床に置いてあったカバンを取った。
「あの川のところに行こうよ。夕暮れまでまだ間に合うから」
今日は完全に前川のペースだ。前川のイメージは「静」。
イスに座って半分体をひねって前の席で俺の話を聞いている。前川を想像する
時は、いつもその姿がうかぶ。だが、今日の前川は違う。
前川、なんかあった?
ふっと、そんなことを思った。
初めて降りる小さな駅を出て、川のある方向へ向かう。
途中、寂れた商店街でコロッケを買って、二人で頬張りながら歩いた。
うねうねとした道を歩いてしばらくすると、大きな道に差し掛かり
そこを上っていくと意外に早く川についた。
土手のほうに降りると思ったが、前川はこっちのほうが綺麗そう
といって橋の真ん中に行く。
そこからは、電車から見たとおりの、川の真ん中に夕日が浮かぶ景色が見れた。
夕日はあたりを夕紫に染めて、緩やかに沈んでいく。
俺と前川はしばらくの間、その様をじっと眺めていた。
時折、自転車が通り過ぎるだけの静かな空間。
「綺麗ね」と前川が呟いた。
「きょう帰りに有野君に会えてよかった」
どきん、と胸がなった。
「一人だったら、きっとこんな所、来れなかった」
「……」
もしかして、今かも──。前川の言葉が、俺を後押ししてる。
「あのさ、前川…」
鼓動が早くなる。がんばれ、俺。
この前のお返し…と頭の中で何度も練習したフレーズを言おうとして、
意を決して前川の方を見た。
だが、つぎの瞬間、俺は全ての言葉を失った。
前川は前を見たまま涙を流していた。
夕日が綺麗で、感動した─とかじゃなくて、眉をよせて、口に手を当てて
一生懸命泣くのをこらえているような、つらそうな顔だった。
ついに前川は手すりに腕を置いて、そこに顔をうずめて肩を震わした。
「前川……?」
前川は応えない。
「どうしたんだよ」
「ごめん……。ごめんね。涙が止まらなくて…………」
意味が分からず、俺は不意をつかれたようにただ
前川を見ているだけだった。
「さっきね…」
前川がかすれる声で言いかける。
そして、ややしばらくして、「振られたんだ、私」と呟いた。
こいつ、他に好きな奴がいたんだ。
頭の中が、真っ白になった。
そうか。
そういうことだったんだ。
今日の前川は様子が変だった。それは、必死で泣き場所を探していたからだ。
前川はうつむいたまま静かに泣いていた。
前川が今なに考えているかなんて少しも気づかなかった。
泣く場所を探しながら、涙を飲み込んで、どんな気持ちで
此処まできたのか。それを考えると胸がつぶれそうだった。
それなのに、俺はその間中ずっと一人で浮かれて
……なにやってるんだ。
相手の気も知らずに舞い上がって、ピエロもいいとこ。
おまけに、目の前で好きな女が泣いているのに
気の利いた言葉一つかけてやれない。
俺は、自分の無力さをまざまざと思い知った。
「泣くなよ……」
それだけしか言えなかった。
「うん」
前川が小さく応える。
泣くなよ、前川。好きなんだよ。
俺は、泣き続ける前川のそばにいてやることしか出来なかった。
いつの間にか夕日は落ちて、あたりはすっかり暮れ果てていた。
川面には夕日の名残がかすかに残る程度で、やがてそれも消えてしまうだろう。
だいぶ時間がたっていると思う。
前川はたくさん泣いて少しは落ち着いたのかもう嗚咽は聞こえず、
ただ、顔を腕にうずめているだけのようだった。
少しは笑ってくれるだろうか。
俺はふと、あることを思いついた。
前川はまだ腕に顔を埋めたまま。
こちらを見ていないのを確かめて、彼女に背中をむけて、しゃがみこむ。
地面においてあったスポーツバッグを開ける。
青い小さい箱──。
俺は、素早くリボンを解き、気づかれないように音を立てずに
包装紙をはずして、箱を開け中身を二個取り出すと
またバッグの中にそれを押し込めた。
「前川、元気出せよ。ほら」
俺は前川の頬に銀色の包みを押し付けた。
前川はのろのろと顔を上げて、薄暗がり中でもはっきりと分かる
泣きはらした目をこちらに向けた。
痛々しい姿に胸を締め付けられるが、それを悟られないように
平静を装う。
「腹減ってるとますます滅入ってくるぞ。これ、食っとけ」
俺は、見本を見せるようにもうひとつの銀紙を空け、中の物をぽん、と
口の中に放り込む。甘ったるい、普段は絶対食べないようなイチゴ味が
口の中に広がる。
「ん。んまい」
俺はその飴を豪快にがりがりと噛んだ。
その様子を見て、「すごい音…」と、本当に微かだけど前川が笑った。
俺にはそれが全てだった。