「触手はエロいのに何故ミミズはグロいのか」
これが今日民生部門から上がってきた課題だった。
弾力に欠けるから?
冷たくて泥臭いから?
熱い体液を浴びせてこないから?
応用触手工学に身も心も捧げた仁科芳子研究員(27)は今日も縁なし眼鏡の
奥に湛えた知性で人類未踏の荒野を照らしていた。
触手工学は、物理化学はもとより生物学・医学・社会心理学に到るまで
多岐に渡る知識を要する学際研究分野である。この広大な研究領域に挑み、
己のひらめきと研ぎ澄まされたセンスを頼りに未知なる果実を収穫するのが
知の尖兵たる研究者の責務だった。
自室のデスクでしばらく微動だにせず思索に耽っていた芳子は、やがて
起ち上がるとオートロックの扉を開け出て行った。
IDカードをかざしてシャワールームに入ると、迷わず2番の個室に向かった。
ここから既にフィールドワークに向かうための儀式が始まっている。広い脱衣場の
中心に立ち、壁面を埋める鏡の中の自分と目を合わせたまま白衣を床に落とす。
この瞬間、いつも芳子には頑強な知性の鎧が主を失ってがらくたのように転がる
音が聴こえるのだった。鏡の中の飾り気ない小娘の、心もとなさそうな視線が
その幻聴に真実味を与えていた。ブランド不明のジーンズ、無地のTシャツ、
機能性一辺倒の下着。鎧の下に隠されていた頼りない人間性の証たちも順に
畳んでは脱衣籠の中に収め、心を締め上げるように引き詰めていた髪を解放する。
秘かに知的だと己惚れている形の良い額を、ばさっと落ちた髪が覆い隠す。
鏡に映っているのは、最後の拠り所である眼鏡に両手をかけて羞恥に身を染めている
只の女だった。
時間をかけて入念に体の隅々まで洗い清めたら、濡れた体のまま鏡の前に戻る。
両手で水を掬うような形で捧げ持っているのは、先程水で戻して半透明のゲル状に
なったいつもの薬。今日の作業は長くかかると思われるので、遅効性の錠剤も
混ぜて6時間分用意してある。
「んくっ、んく」
顔を上に向け、手首に口を付けて、ゆっくり流れ落ちてくる液体を飲み下してゆく。
目を瞑っていても、鏡の中でいやらしい女が白い喉を鳴らしているのがありありと見える。
変態行為の準備。理性の放棄。女から牝への退行。自身を貶める言葉が頭の中に
溢れかえり、それを裏付けるかのように体が浅ましさを現にする。濡れた黒髪に擦れる
乳首が、水滴を垂らして息づく局部が、桜色に上気した肌が、芳子の不道徳を責めたてる。
それから逃れるように吸い付く苦く生臭い滴りは、震える舌になぜか甘露に転がるのだった。
儀式を終えた芳子は、体の水分をおおむね拭き取ると被験者用の耐水ローブを身に付ける。
乳白色の不透明なポリエステルでできており、所内移動に当たっての猥褻物隠蔽、
各種備品への体液付着防止、緊急時の被験者簡易防護等々、実験の必需品である。
それを纏った芳子はもはや人間ではなくモルモットであった。触手との相互接触における
反応を観察、記録、分析するための媒体。それと自らの五感で繋がる事ができるのが
若く健康な女性研究者のみに許された特権だった。
そんな思考もそろそろ去りつつあった。先程の儀式で摂取した薬は意識を混濁させる
類のものではないが、論理的思考力を格段に鈍らせる働きがあった。今は期待に震える
己の肉体に触手を這わせる事しか頭にない。誘淫剤を使わない主義の芳子は、いつでも
自然な交感によってその触手がもたらす悦びの本質を見極める事ができた。先入観を
捨てて接すれば、今回もきっと誰も知らない魅力を見つける事ができる。
「ミミズ…どんな感じだろう」
小型触手用ボウルとスコップを手に、芳子は野生のフィールドへ踏み出して行った。