……またか。
くろでー。:君への扉
電車に乗って二駅先にある大学。そこから帰ってきて、ふぅとため息をつく。このマンションは騒音が激しいのだ。音漏れと言った方が正しいか。
家賃がお手頃な、防音などという言葉とは無縁の薄い壁のこのマンションに住んでいるのは大体が学生だ。
なので上の階からは毎晩騒いで遊ぶ若い男共の野太い声が聞こえるし、隣の部屋からは恋人達の睦み合う声が聞こえる。彼らは去年の暮れにくっついたらしい。
その前から彼女は頻繁に訪れていたので、痴話喧嘩としか思えない言い争いを耳にしては、こいつら早よくっ付けやと思ったものだ。
けれど、実際そうなってしまうと悲しいものがある。
クリスマスの時にだったか、彼らがやっと彼氏彼女の関係になった時は彼らに向かって、「メリー、クリスマス」と祝福するように壁越しに呟いたものだが、
そこから1月、2月と月日が経つごとに鬱陶しく感じてきて、そして自分自身も素直に祝える立場では無いようで。
八つ当たり混じりに隣に「静かにしてくれ」と言いに行った事もあった。そんな自分の行動を思い返し、つくづく最低な奴だと思う。
バレンタインデーは何も無かったのに、ホワイトデーで甘いイベントを起こされた時は、こいつは死んでしまえと思ってしまうほど、侘しい気持ちになった。
隣の彼女とは、少し、いやかなり面識がある。高校が一緒だった。今でも一緒に街へ買い物に行く位には仲がいい。
初めて壁の向こうから彼女の声が聞こえた時は、ついに幻聴が聞こえるようになってしまったのかと疑ったくらいには、好きだった。
幼馴染の男の愚痴は彼女の口から頻繁に出ていたので、隣に住んでいたのはその彼だったのかと一人納得した。
彼女の事が好きだった。一時は勘違いだと思ったけど、彼女の笑う顔を見る度に胸が痛くなって、これは本物だと理解し、頭を抱えた。
別にそういう趣味があったわけじゃない。……たまたま好きになったのが彼女というだけで。
彼女に胸の内を伝える事はなかった。当時は自分の気持ちに戸惑っていた事もあるし、別に彼女とどうこうしたい訳でもなかったし。
なにより、これは確信を持って言えることだが、彼女が私をそういう対象として見た事は一度も無いのだ。
これからも、想いを告げることは無いだろう。
鬱々と篭り溜まり続ける怨念に近いコレをどうにかして吐き出そうと、彼らの情事の声を聞きながら自慰をしてみた事もある。空しいだけだった。
韓国等の一部地域では今、4月14日の事をブラックデーと称して恋人のいない人たちが慰めあって飯を食べる行事が行われているらしい。なかなか面白い日だ。
毎月14日に恋人達のための慣習があると聞いた時には、さすがにやりすぎだろうと思ったけど。
……恋人のいない寂しい人が、自分を慰める日。彼女を手にいれることの出来なかった自分にぴったりな日なのかもしれない。
壁に寄りかかって独り、物思いに耽っていると、チャイムの音が聞こえた。
覗き穴に目をやる。するとそこには見知った顔があった。
「何の用? こちらから話すことは一つも無いが」
強張って、ぶっきらぼうな言い方をしてしまう。
「ごめん、迷惑かもしれないと思ったんだけど、来ちゃった」
三ヶ月前まで付き合っていた恋人がそう言った。
身勝手な話だが、毎日のように嬉しそうな彼女の声を聞いている内に、一番好きなのはやっぱり彼女だと感じ、別れてもらったのだ。
彼女の事を振り払う為に付き合ったのに、結局、彼女の事を忘れられなくて、振った。
最低な人間だ。
付き合った経緯も別れる理由も彼女の事も全部話して、呆然と立ち尽くした先程まで恋人だった人を置いてその場を去ったのだ。
そしてその後は避けるようにして生活した。目を見るのが怖かったのだ。軽蔑していると思ったから。
やっぱり納得行かない所もあったに違いない。だからこうして、ここまでやってきたのだろう。
このマンションに連れて来た事も無かったので、よく辿り着いたなと驚いた。
大学の知り合いをここに呼んだ事はないので、かなり苦労したんではないかと思う。
「君とやり直す気はない」
「君が誰を好きでも関係ないんだ。君がどんな性癖を持っていようが関係ない」
口を開いた君はそんな事を言い出した。罵声を浴びせられると身構えていたので、予想外の攻撃に思考が止まる。
……付き合っている当時でさえ、そんな熱い言葉を言われた事は無いぞ。
「君とまた話がしたいんだ。友達だった頃みたいに。まぁ、出来れば、その、恋人同士に戻りたいと思っているけど」
知り合いには「あんなののどこがいいの」と言われるくらいに、オドオドしていてパッとしない人だった。
気弱な人だったけど、優しくて正直な人だった事を思い出す。だから、付き合った。
「僕は、君の事が好きなんだ」
――ああ、やっぱり、最低だ。
彼女の事も好きだけど、君の事も好きなんだ。
私も君も無口な方なので、君と過ごした日々は、何も喋らずに時が過ぎるという事も少なくなかった。
けれど、穏やかで、とても居心地が良かった。
纏う雰囲気とは裏腹の、意外としっかりした手の平の感触は離れてしまった今でも覚えている。
君との思い出が頭に溢れてきて、高鳴る胸を抑えることも出来なくて、どうしようもなかった。
「少しでも、前みたいに話してやっていいと思っているなら、ドアを開けてくれないか。
何ヶ月も避けられていたから、出来る事ならちゃんと、しっかりと、君の顔を見たいんだ」
やっぱり私は、どうしようもないほど、最低な奴だ。
自分勝手に君と付き合って、別れて、そしてまた付き合おうと思っている。
こんな女に何の魅力があるのか分からない。
君は馬鹿みたいに優しいから、それでもいいよと言ってくれるんだろうけど。
それでは、君が駄目になる。
……私は壁越しに別れを告げた。
「さようなら」
その声は小さすぎて、壁を挟んだ向こうにいる彼女には聞こえないかもしれないけど。
別に彼女に伝わらなくていい。私が彼女への気持ちと決別するという事に意味があるから。
自分でも利己的で本当にどうしようもない女だと思うけど。
君が駄目になっていくと分かっているけど、私はまた君の、見た目に似合わず意外とごつごつしたその手を握って一緒に歩いていこうと思う。
今までと、これからの罪滅ぼしに、君が飽きるまで傍にいようと思う。
いや、それも私が一緒にいたいと思っているだけか。自己中心的な性格は直りそうに無いなと諦める。
優柔不断で寡黙で素直で優しい君は、彼女とは全くの正反対で一体どこが好きなのか自分でも分からないけど、どこも好きな気がする。
不器用で、言葉が足らないから、君に全部は届かないかもしれないけど、それでも君以上の優しさをもって君を愛していこうと思う。
なんたって、今日はブラックデーだ。お互い支えあっていけという、天からのお告げに違いない。
大丈夫、きっと、うまくいく。
私は鍵を外して、ドアノブを回し、扉を開いた。
――――君へと続く扉を。