明日香と付き合うことになった翌日。  
 山田は一時限目の授業が始まる九時になっても自宅のリビングにいた。寝坊して慌てているという様子もなく、パジャマがわりのジャージとシャツ姿のままで、いつもより遅い朝食をとりながらぼんやりテレビを見ている。  
 両親は共働きのため、家にいるのは山田一人である。  
 そう、山田は学校を休んでいた。それも小・中・高、通して初めてのずる休みである。  
 普段から真面目な息子の、風邪をひいたみたいだから学校を休む。という言葉を信じて、  
「ひどいようだったらきちんと病院に行きなさい」  
「こんな時期に珍しいわね。暖かくしてゆっくり休むのよ」  
 と心配する言葉をかけて、両親は既に出かけてしまっている。  
 後ろめたい気分で、もそもそとトーストを口にしながら山田は溜息をついた。  
 いまさらどうしようもないこととはわかっていたが、それでも憂鬱な気分になる。  
 昨日の明日香のクラスメートへの交際宣言。それがずる休みと、現在の憂鬱の原因である。  
 どちらかと言えば、おとなしく、目立たない山田にとって自分が注目の的になるということは予想外のことであり、どのように対処して良いのかさっぱりわからないことであった。  
 軽く笑って流せばみんなの興味は他に移っていくとわかってはいたが、なまじ真面目なばかりに真剣に悩むこととなり、結果、時間稼ぎのずる休みとなった。  
 でも……本当に吉崎さんと付き合えるなんて昨日までは思ってもみなかった。  
 一晩たった今でも、どこか夢ではないかという気がする。  
 そうだ。夢じゃないんだよな。凄く嬉しい。  
 頬が緩み、思わず笑みが零れた。  
 それに、吉崎さんが思ったとおりにやさしい娘だったし。  
 幸せな勘違をしたままコーヒーを一口。  
 あんな娘と僕が付き合えるなんて、生きてて良かったなぁ……。  
 ぼんやりと幸せに浸る山田の脳裏に女子トイレでの出来事が甦った。  
 あの快感が思い起こされて、顔の緩みがさらに悪化し、だらしない顔になる。  
 山田はその場に家族がいなかったことを感謝すべきだろう。  
 
 とりあえず、今日一日で覚悟を決めて、明日学校に行こう。  
 そう決心しすると、山田は愛用のマグカップのコーヒーを飲み干し、食器をキッチンに持っていった。  
「これからどうしようかな」  
 食器を洗い終えた山田が呟いた。  
 学校のある平日の午前中に家にいたことなど、病気で学校を休んだときぐらいしかない。  
 病気のときはずっと寝ていたら時間が過ぎたが、今自分は健康そのものだ。  
 外に遊びに行くことなど思いつきもせずに山田は悩んだ。  
 ちらりと時計に目をやるともう十時だった。  
 とりあえず着替えよう。そう考えて自分の部屋に戻ろうとしたとき。  
 ピンポーン。  
 玄関でチャイムが鳴った。  
 
 
 山田家のインターホンが押される一時間と少し前。  
「おはよー」  
 いつもより五割増しの元気で朝の挨拶をしながら教室に入る明日香。  
 クラスメートに声をかけながら自分の席に向かった。  
 席につくと、待ちかねたように友人が集まってくる。  
 当然、友人からは山田とのことを聞かれるわけだが、思わせぶりなことだけ言ってお茶を濁す。  
 席に座って友人とたわいもない会話を続けながら、頭では別のことを考える。  
 昨日は逃げられてしまったが、今日は逃がさない。  
 みんなに二人のラブラブぶりを見せつけねば。  
 とりあえず教室に入ってきたところに飛びついて、思いきりひっつこう。  
 
 
 山田が知れば、再び教室から全力で駆け出してしまうようなことを考えながら、明日香がにやにやしていると、背後から怒ったような声がした。  
「昨日の約束忘れてただろう」  
 振りかえると美冬が立っている。  
「約束?」  
「したことも忘れたのか」  
「あぁ! あの初めてのセ……」  
 爽やかな朝にあまりふさわしくない単語を口にしようとした明日香の口を、美冬が素早く塞いだ。  
「声が大きい!」  
 美冬が真っ赤な顔で怒鳴った。  
「ごっめーん。昨日は色々あったからつい忘れちゃって」  
 笑う明日香を見て美冬の脳裏に、満面の笑みを浮かべて山田との交際宣言をしていた昨日の明日香の姿が浮かんだ。  
「確かにそのとおりだから仕方ないかもしれないけど……。今日はちゃんと相談に乗ってよ」  
「うん。今日は忘れないから安心して」  
「でも、明日香と山田が付き合うなんて予想もしなかったから、驚いた」  
「まぁねぇ。私も驚いたもん」  
「そんな他人事みたいな」  
「いろいろあるんだって」  
 能天気な明日香に美冬が呆れかえっていると、担任教師が教室に入ってきた。  
 友人と談笑していたクラスメートがばらばらと席につく。  
「はい、おはよう。よーし、それじゃあまず出席とるぞ」  
 教壇に出席簿を開き、生徒の名前を呼んでいく。  
「よし。今日の休みは山田だけだな」  
「えっ? 先生!」  
 明日香が椅子を鳴らして立ちあがった。  
「どうした吉崎」  
「山田、今日休みなの」  
「ああ、電話で連絡があった。風邪だそうだ。そういえば吉崎、お前昨日山田を巻き込んで騒ぎを起こしたらしいな。  
 お前と違って山田は真面目なんだからあんまり悪い道に引き込むんじゃないぞ。今日の風邪もそのせいなんじゃないのか」  
 どうやら明日香の人騒がせな交際宣言はすでに教師の間にも伝わっているらしかった。  
 しかし、冗談めかした担任の話は、ほとんど明日香の耳に入っていなかった。  
 なぜなら明日香は山田が風邪で休みだということで頭が一杯だったからだ。  
 
 これは……看病のチャンス!  
 風邪で寝こんでいるカレシの看病なんて、いきなりラブラブなことができる!  
 こんなのお見舞いに行くしかないじゃない!!  
 おかゆをすくって山田の口元に運んでいる自分を想像して明日香が上機嫌になる。  
「先生!」  
 勢い良く手を上げた明日香。  
「どうした」  
「急にすごく頭が痛くなって、絶対にこれ風邪だから私早退します!!」  
 その言葉が真実ならば、世の中の人間すべてが病人になってしまうようなことを言いながら、明日香がカバンを持って立ちあがった。  
「お、おう」  
 勢いに押されてつい返事をしてしまった担任が、しまった。と後悔する間もなく、明日香は教室を飛び出してしまった。  
 自称病人が走り去る後姿を見送りながら、生徒・教師の隔てなく、教室にいた全員が同じことを考えた。絶対に山田に会いに行くつもりだ、と。  
美冬がこっそり溜息をついた。  
「いつになったら私の相談に乗ってくれるんだろう」  
 
 
「はい、なんの御用で……しょう……か」  
 ドアを開けた山田は絶句した。  
 満面の笑みを浮かべて明日香が立っていたからだ。  
「あれ? けっこう元気そうじゃん」  
 口をぱくぱくさせるだけで、山田はなにも言うことができない。  
「せっかくお見舞いに来たのに。まいっか、死にそうになってるよりはいいよね」  
「な、なんで吉崎さんがいるの!」  
 ようやく我に返った山田が驚きの声をあげた。  
「山田が風邪で休みって聞いたからさぁ、お見舞いに来たの。彼女として」  
 彼女の部分を強調して、嬉しそうにしている明日香を見て、追い返すことなどできるはずもなく、山田は明日香を自宅に招き入れた。  
「……とりあえず、あがる?」  
「おじゃましまーす」  
 
「とりあえずそこ座って待っててよ。飲み物持ってくるから。コーヒーでいい?」  
 リビングにやってくると、ソファを目で示しながら山田が言った。  
「あ、私がやるよ。お見舞いに来たのに病人にそんなことさせらんないって」  
「大丈夫だって、僕元気だから。それにうちの台所わからないでしょ。コーヒーでいい? 紅茶もあるけど」  
「じゃ、コーヒー」  
 キッチンに入る山田の背を見送ると、明日香はソファに腰を下ろした。  
 初めての彼氏の家ということで緊張しているせいか、背筋をピンと伸ばしてしまう。  
 落ち着かない明日香はきょろきょろと室内を見渡しながら考えた。  
 どうも想像と違う。  
 当初の予定では、山田は明日香がいないとなにもできないぐらい苦しんでいて、看病する自分を見て、ますます好きになる。というはずだったのに、以外にぴんぴんしている。  
 これでは看病できない。  
 おかゆをふーふーしてあげることもできない。  
 
「はい、熱いから気をつけてね」  
 テーブルにコーヒーカップを置いて、山田が正面のソファに腰掛けた。  
 挙句の果てには逆にコーヒーまで出してもらっている。  
 明日香はカップに口をつけながら、ちらりと山田に目をやった。  
 視線に気付いたのか、山田が口を開いた。  
「学校はどうしたの?」  
「山田が病気だって聞いたから早退してきた」  
 無邪気に笑いながらの明日香の言葉を聞いて、山田を深い自己嫌悪が襲った。  
 吉崎さんを心配させてまで、僕はズル休みしたんだ。  
 しかも、その理由が、みんなに冷やかされるのが嫌だからなんていうつまらない理由で!  
 そのうえ、彼女まで学校を休ませて。  
 僕は最低だ。  
 明日香本人はどちらかというと、心配よりもカレシのお見舞いができるということが恋人同士のイベントのようで嬉しくてやって来たわけだが、そんなことが山田にわかるはずもなく、山田はただただ良心を痛めた。  
 山田は沈痛な面持ちのまま、コーヒーに口もつけない。  
 その様子を見ていた明日香もまた、勘違いしていた。  
 うわ、どうしよー。  
 山田黙っちゃったよ。  
 やっぱ急にきちゃったのがいけなかったのかな。  
 そうだよね、昨日付き合うことになったばっかの相手が病気の時に家に来たらふつーヒクよね。  
 帰ったほうがいいのかな。  
「あの……」  
「な、なに!」  
 おずおずとかけた声に不自然な反応を返す山田を見て、明日香は自分の考えの正しさを確信した。  
 やっぱり! なんかすごい変なリアクションだし。  
 サイアクだ!  
 泣きそうになった明日香は、口早に謝罪の言葉を述べる。  
「なんかいきなり来ちゃってごめん。私がいたら落ち着かないだろうし、すぐ帰るから。早く治って学校来てね」  
 そそくさと立ち去ろうと明日香がソファから腰を浮かせた。  
 
「ちょ、ちょっと待って」  
 このままなにも言えないまま帰られては困る。焦った気持ちからか、山田は思わず明日香の手を取った。  
 びっくりしてしまって振り払うこともせずに、明日香は山田の顔を見つめた。自分でも驚いているのか、山田の目が見開かれている。  
「山田?」  
「ご、ごめん!」  
 山田が慌てて手を離す。  
 ぎこちない雰囲気のまま、再び二人はソファに腰掛けた。  
「邪魔なんかじゃないから。来てくれてすごい嬉しいよ」  
「でも、なんかさっきからずっと黙ってるし……」  
「え!? それは、色々理由があって」  
「どんな」  
「その……実は今日休んだのって仮病なんだ」  
「マジで! じゃあ病気じゃなかったんだー。よかった。でもなんでズル休みなんかしたの? 山田って学校とかサボるタイプじゃないでしょ。なんか用事あった? だったら私早く帰ったほうがいいよね」  
 恋人が病気でないとわかって安心したのか、明日香の口数がどんどん増える。そうして一人でどんどん話を進めてしまう。  
 また腰を浮かしかねない明日香の言葉をなんとか山田がさえぎる。  
「いや、その、別に用事はないけど」  
「だったらなんで?」  
 あくまで無邪気に質問してくる明日香に、山田の良心はキリキリ痛んだ。  
「実は、その、言いにくいんだけど……」  
「うん」  
「みんなに冷やかされるのが嫌で……。ごめん!」  
 山田が勢いよく頭を下げた。  
 それを見た明日香の頭の上にハテナマークが浮かぶ。  
「なんで?」  
「なんでって」  
「もしかして……私と付き合うのやっぱりイヤ?」  
 明るかった明日香の表情が一気に曇った。  
 予想もしなかった反応に山田が焦る。  
 
「そんなことない! とっても嬉しいよ」  
「じゃあなんで?」  
「吉崎さんはからかわれるのイヤじゃないの?」  
「別にいいじゃんそんなの。ひがんでるんだって、みんな」  
「頭ではわかってるんだけど」  
 情けない顔をして山田が言った。  
 突然、明日香が身を乗り出し、山田に顔を近づける。  
「私のこと好き?」  
 会話の流れを無視した問い掛けと、明日香の急な接近に、山田はどぎまぎしてなにも答えられない。  
 明日香の唇がゆっくり動いてもう一度同じ言葉をつむぐ。  
「好き?」  
「す、好きです」  
 少し頬を染めながら山田が自分の気持ちを語る。視線が柔らかそうな唇に吸い寄せられて動かすことができない。  
 明日香が満足いく答えが返ってきたことを無邪気に喜んだ。  
「だったらいいでしょ、からかわれたって。自慢の彼女なんだから」  
「……」  
「私は自慢の彼女じゃないの?」  
 明日香が怒ったふりをすると、  
「もちろん自慢の彼女だよ!」  
 勢い良く山田が応えた。  
「えへへ。なんかそんなの言われると照れるよね」  
 もじもじとからだを動かす明日香。自分で言わせておいて一人で照れていれば世話はない。  
 
「誰かにひやかされたら、羨ましいだろ。って言えばいいんだって」  
「う、うん」  
 とてもそんなことを言えそうにないが、明日香の得意げな表情を見ているうちに、山田は自分に冷やかされても構わない覚悟ができていくのがわかった。  
「ごめんね」  
 今度は明日香が謝罪の言葉を口にした。  
「なにが?」  
「だってさ、私が昨日余計なこと言ったから今日休んだんでしょ」  
「い、いや僕が勝手に休んだだけだから」  
「カレシができて嬉しくてさ。調子に乗っちゃった。私バカだから山田のことなんか全然考えてなくて」  
「いやそんなことないよ。僕のほうこそ、情けないこと言ってごめん」  
 二人はしばらくお互いの顔を見つめていたが、明日香が先に目を逸らした。真剣な山田の目を見ていたらどきどきしてしまったのだ。  
 そして、少し照れながら明日香が言う。  
「お互い様ってことでいいよね?」  
「でも……すごく申し訳なくて」  
「あ! じゃあさ、お詫びがわりってことで今から二人で遊ぼうよ。いまさら学校行くのもアレだしさ」  
 今からでも充分、午後からの授業には間に合うのだが、それは選択肢にないらしい。  
「そんなことでいいなら」   
 快い返事に明日香が手を叩く。  
「やった! 初デートだよ。なにしよっか」  
 
 子供のように明日香がソファの上で飛び跳ねる。腰が浮くたびに、元から足を隠す機能をほとんど果たしていなかった短いスカートがひらひらと波打って、むっちりしたふとももが露わになる。  
 その律儀さからか、魅力溢れる光景にできるだけ目を向けないようにして、山田が明日香に尋ねた。  
「なにかしたいことあるの?」  
「えー? したいこと?」  
 視線を宙にさまよわせて明日香が考え込む。  
「行きたいところとかでもいいけど」  
「ちょっと待ってよ、考えるから」  
 コーヒーをすすり、山田は考え込んでいる明日香の様子を窺った。  
 ついつい艶やかな唇に目が吸いつけられる。考え込むときの癖なのかわずかに尖らせているのが、まるで自分の唇を誘っているようだ。  
 間にテーブルがなければ。とも思うが、なかったところで不埒なまねに及ぶほどの度胸はない。  
 今は見つめるているだけで充分幸せだ。  
「ちょっと、そんなにじっと見られたら恥ずかしいって」  
 山田の視線に気付いた明日香が、はにかみながら言った。  
「ご、ごめん」  
 ごまかすように山田がコーヒーを飲み干す。  
「ちょっとぐらいだったらいいけど、あんまりジロジロだとなんかエロいって」  
 明日香がにやにやと人の悪い笑みを浮かべる。  
「そんなつもりじゃ……」  
「山田はむっつりだって昨日わかったから、エロいのは仕方ないけどさ」  
 
「そ、それより、結局なにがしたいか決まった?」  
 旗色が悪いと思ったのか、山田が強引に話題を元に戻した。  
「いざ言われると思いつかないもんなのよねー。時間はあるからゆっくり考えてもいいんだけど。ところでさぁ、山田のお母さんとかはどっか行ってんの?」  
「うちは共働きだから。姉さんもいるけど、もう働いてるし」  
「へぇー、そうなんだ」  
 明日香は自分から聞いておきながら、気のない返事を返し、へぇー、へぇー、とありもしない手元のボタンを叩く。  
「あ! 補足トリビア」  
 明日香が声を張り上げた。  
 突然なにを言い出すのか、と山田がいぶかしむ。  
 どちらかといえば補足するのは自分のほうではないのか。  
 明日香の様子を窺うと、いたずらを思いついた。と言わんばかりの妖しい表情をしている。  
 聞きたくは無かったが、やむなく山田は明日香を促した。  
「補足ってどんな?」  
「実は……」  
 思わせぶりに明日香が間を取る。  
 山田がごくりと喉を鳴らした。  
「今、この家には、若い恋人同士が二人っきりなんでーす」  
 元気良く立ちあがり、両手を広げ、明日香が全身で補足トリビアを発表した。  
 次の瞬間、山田はずるずるとソファに沈みこんだ。  
 これ以上ない、ばかばかしい雰囲気がリビングを支配する。  
「どうしたの?」  
 明日香が呆然としている山田を見下ろした。  
 
「いや……別になんでもないよ」  
「あー、二人っきりって聞いて興奮したんでしょ。うっふーん」  
 明日香が頭の後ろで手を組んで、腰を曲げた、ベタなセクシーポーズをとってみせる。  
「毎度おなじみちり紙交換でございます。ご家庭で……」  
 タイミング良く窓の外から、ちり紙交換の声が聞こえた。  
「……」  
「……」  
「カレシだったら彼女がすべったときのフォローぐらいしろって」  
 明日香がテーブルを飛び越えて、山田にのしかかってきた。  
「ちょっ、うわっ! 吉崎さん!」  
 柔らかい明日香の体にどぎまぎしながら、山田も必死の抵抗をする。  
 自分の魅力的な肢体に気付いていないのか、明日香が無邪気に山田に纏わりついていく。  
 二人で暴れているせいで、テーブルの上のカップがカタカタと音をたてた。  
 気を使いながら、山田が明日香の体をなんとか押しのけようとしていると、むにむにした感触に気付いた。目をやると、明日香の胸が山田の手にすっぽりと納まっている。  
 知らないうちは、まるで気にならなかったのだが、いったん気づいてしまうとどうしようもない。  
 山田の顔が真っ赤に染まる。動きまでぎこちなくなった。  
 今まで一緒になって暴れていた恋人が、急におとなしくなったので、明日香も動きを止める。  
「なに? どうかした?」  
「いや、あの……む、胸が」  
 額に汗までかいて山田がようやくのことで口にする。  
「……」  
「……」  
「……むっつり山田。せっかく彼女がスキンシップを取ろうとしてんのに、すぐそうやって」  
「こ、これは、その偶然」  
 どもる山田を見て、明日香が声をあげて笑った。  
「あははは、大丈夫、わかってるって」  
 がばりと身を起こすと、向かいのソファには向かわず、固まったままの山田の隣に腰を下ろした。  
 
 あらためて密着されて山田は動くことができない。顔は正面を向いているが、神経は服越しに伝わる明日香の体温に集中している。  
「したいこと思いついた」  
「な、なに?」  
 あいかわらず誰もいないソファを見つめながら山田。  
「あのね、昨日の夜、考えたんだけど……私のファーストキスって山田のおちんちんになっちゃうんだよね」  
 眉をひそめながら明日香。  
「いっ!?」  
 山田が思わず横を向いた。が、すぐ近くに明日香の顔があったために、またすぐに首を捻る。  
 ばね仕掛けのおもちゃのようになっている山田に気付かずに、明日香が言葉を続ける。  
「普通はキスしたあとにセックスするんだから、初キスがおちんちんなんてありえないんだけど、そうなっちゃたからさぁ。  
 そんで、やっぱりたぶん唇に最初に触れたのが初キスの相手になるとおもうの。だから私のファーストキスの相手は山田のおちんちん。そこらへんどう思う?」  
 過激な発言にはらはらしていた山田だが、突然の問いに背筋が伸びた。  
 からかわれているのかと思ったが、横目で見る明日香の表情は真剣そのものだ。  
 はたから聞いていれば冗談のように思えるかもしれない。しかし、明日香は大真面目だった。  
 昨日、恋人ができた嬉しさから、こみ上げてくる笑いと共に湯船に使っているときに、ふと今の考えが頭をよぎったのだ。  
 ショックから、思わず風呂場で仁王立ちになってしまったほどである。  
 想像していたようなファーストキスとは縁遠い事実に、すっかりテンションを下げて、部屋に戻った明日香だった。  
 ベッドに入る頃には、気持ちが切り替わって、嬉しさが心の大半を占めていたのだが。  
 
 さて、困ったのは山田である。  
「……む、難しいところだとは思うけど、僕の一部だし……」  
 自分でもなにを言っているのかわからない。  
 質問というかたちだったが、ほとんど独り言だったのだろう。明日香が天を仰いだ。  
「そうなっちゃったものは仕方ないから、諦めるとして」  
「うん」  
「もうファーストキスって言わないかもしれないけど」  
「うん」  
「ちゃんと、唇にチューして欲しいの。それがしたいこと」  
 そう言うと、明日香は真横にいる山田をじっと見つめた。  
 事態についていけず、山田はぱくぱくと金魚のように口を動かした。  
「初デートはまた今度ってことで。それか、チューしてくれたらまた考える。あ! キスだったらすぐ済むから、このあとどっか行こう。ねっ?」  
 明日香は能天気な調子で思いついたままを口にしているように見える。  
「えっと……」  
 同意を求める明日香を見ることもできず、山田がかしこまったままでいると、  
「こっち向く!」  
 明日香が山田の頬を両手で挟んで、むりやり自分の方を向かせた。  
 掌から伝わってくる、以外に暖かい山田の体温を感じながら、明日香は静かに息を吸った。  
 異性とこれほど接近した経験のない山田は、恥ずかしさから顔をそむけようとした。  
 けれど、どこか追い詰められたような明日香の表情に、山田は目を逸らすことができない。  
 黙って、互いの瞳を見つめあう。  
 
「キスして。……お願い」  
 明日香が消え入るような声で呟いた。そして、ゆっくりまぶたを下ろす。  
 それが耳に入ると、山田の体からすっと力が抜けた。  
 静かに明日香の肩に手を伸ばす。体に触れると、暖かさと共に小さな震えが伝わってきた。  
 明るく振舞ってはいたが、緊張していたのだろう。そう思うと、山田の胸は一杯になった。  
 事実、明日香は緊張していた。もしかすると山田以上に。  
 二人の言葉が途切れるたびに、自分の心臓の音が相手に聞こえるのではないかというほど。  
 山田と同じく、異性と二人きり、という状況をほとんど経験したことのなかった明日香ではあるが、知識だけはあるために、様々な想像が渦巻いて、逆にどうすればよいのかわからなくなっていたのだ。  
 その動揺を振り払おうとして明るくふるまっていたのだが、ブレーキが壊れてしまっていたらしく、自分の口が、体が、勝手に動いて現在の状況になってしまった。  
 体が震え出しそうになるのを必死で堪えている。  
 山田の手が触れたときには思わず声がでそうになった。  
 明日香のピンクの唇が、艶やかに濡れている。力が入って体が強ばっているせいか、山田を迎え入れるために開かれることなく、その口元は固く結ばれている。  
 自分でも全身が緊張しきっているのが明日香にはわかった。  
「キスするよ」  
 山田が囁いた。  
「……うん」  
 明日香が、少し間を置いて応えた。  
 
 明日香を怯えさせないように、山田はゆっくりと顔を近づけた。  
 互いに、自分の心臓の音が相手に届くのではないかという思いを抱いて、触れ合う瞬間に近づいていく。  
 ひどく長い時間、目を閉じているように感じ、目を開けて山田の様子を窺いたい、そんな考えが明日香の頭をよぎったとき、唇に暖かいものが触れた。  
 待ちに待っていたものが自分に触れた喜びが、明日香の背筋を駆け上る。  
 それは同時に、山田が恋人の唇のとろけるような感触にめまいを感じた瞬間でもあった。  
 が、二人の感激はあっさりと、中断させられた。それぞれの緊張と経験不足によって。  
 かちん。  
 硬い音が、聞こえた。  
 歯がぶつかってしまったのだ。  
 飛びのくように、二人は顔を引き離した。  
 大きく開かれた瞳が明日香の驚きを現しているように山田には見えた。  
「ご、ごめ……」  
 情けなさから山田が謝ろうとするのを、明日香がさえぎる。  
「ちょっと待ってね」  
 固まったまま、ソファに座っている山田のひざの上に明日香がまたがった。もちろん顔は愛しい人に向いている。  
「もう一回」  
 突然の行動に、山田は明日香が顔を見上げる。  
 照れ笑いを浮かべた明日香が山田の手を取った。  
「はい、私をぎゅってしといてよ」  
 言われるままに、山田は明日香の背に手を回す。  
「こ、これでいい?」  
「うん。今度は歯ぶつけないように、もう一回」  
 先ほどの間抜けな失敗が二人の頭をよぎり、ゆでだこのように赤くなった。  
 とくに明日香のほうは自分で言っておきながら、耳まで桜色に染まっている。  
 
「とっ、とにかく……ん」  
 明日香が再び目を閉じた、先ほどと違い、唇はわずかに開かれている。脱色され、金色になった髪がさらさらと額に零れ落ちた。  
 あらためて気合を入れなおし、山田が顔を近づける。明日香の背にまわした手に、汗がにじむのがわかった。  
 先ほどの温もりが、もう一度、二人に戻ってきた。  
 少しずつ、唇が触れ合う面積が増していく。  
 どちらともなく顔の位置をずらして、同じ失敗を繰り返さないようにする。  
 私……今キスしてる……んだよね?  
 柔らかい。山田って男なのに。  
 山田の体あったかいな。  
 キスってすごく優しい感じになれるんだ……。  
 時間としては数秒だったが、明日香には関係なかった。ぐるぐると、とりとめのない考えがぼんやりした頭に浮かんでは消えていく。  
 あっ! 舌入れなきゃ。  
 無理にそうすることもないのだが、明日香の知識では、恋人同士のくちづけに絡み合う舌は必須だった。  
 閃いたと同時に、迷うことなく明日香の舌は動いていた。わずかの隙間を押し開くようにして、自分の唇をくぐり、明日香の舌が山田の唇に触れる。  
 驚いたのは山田である。  
 まさか明日香のほうから舌を絡めてくるとは思わなかった。  
 もし、するならば男の自分が明日香をリードしなくてはならない。そう思っていただけに、明日香と付き合うようになってから幾度目かわからない情けなさをまたも味わってしまった。  
 そんなことを考えている間にも、明日香の舌は山田を求めてくる。  
 山田は大慌てで、それに応えるため、無我夢中で舌を突き出した。  
「ん……ふ」  
 明日香が満足気な息を洩らす。  
 
 さらに山田が明日香の舌を吸い込む。  
 生まれて初めて味わう、蕩けるような感触に山田は歓喜した。  
 静かに、二人の唇が離れていく。  
 甘美な体験にぼんやりとした頭で、山田が明日香の様子を窺った。  
 上気して染まった頬が明日香の愛らしさをよりいっそう惹きたてている。  
 明日香は目覚めたばかりのような、心ここにあらずといったふうに見えた。  
「……はぁ」  
 なまめかしく、明日香が溜息をついた。  
「ディープキスしちゃった」  
「う、うん」  
「でも……」  
「でも?」  
 どんなダメだしが飛んでくるのかと山田は身構えた。  
「いつ息していいかちょっとわかんないかも」  
 予想外の言葉に、山田の表情が緩む。  
「ちょっ、なに笑ってんのよ!」  
「ごめん。なにか怒られるのかと思って」  
「私だってあんなキスしたことないんだから、なにがいいとか悪いとかわかんないって。だから笑わないでって、ほんとすっごい息、苦しかったんだから」  
 明日香の可愛らしい悩みも山田には届いていなかった。明日香が喋るたびに動く、濡れた唇に見とれていたからだ。  
 自分が奪ったとはとても思えない。夢じゃないだろうな。できることなら頬をつねって確かめてみたいが、もし夢から覚めてしまったら非常にもったいない。つねるべきかつねらざるべきか。  
 山田が夢想している間も明日香の言葉は続いている。  
「聞いてる?」  
 様々に形を変える唇が自分に問いかけているのに気付き、ようやく山田は正気に戻った。  
「え?」  
「え、じゃない!」  
「あ、えーっと、あ! 鼻で息すればいいんじゃないの」  
 山田の解答に、明日香はしばらく考え込んだが、  
「じゃ、次するときはそれ試してみる」  
 
「うん。でも、最初のときはごめん。歯あたっちゃって」  
「恥ずかしかったんだからそれはもうなしで。ね!」  
「わかった」  
「それとね……」  
「なに? どうかした」  
「お願いがあるんだけど」  
 明日香が今までの元気な様子とは一変して、うつむき、上目づかいで切り出した。  
 突然もじもじしだした明日香を、山田はいぶかしむ。  
 しかし、男なら好きな女の子に上目づかいでお願いされて断ることなどできるわけがない。そして、当然山田も男だった。  
「できることならなんでもするよ」  
「私のファーストキスは山田のおちんちんでもなくて、歯ぶつけちゃったのでもなくて、抱きしめられてした今のキス!」  
 恥ずかしさを隠すためか、目を閉じ、叫ぶように明日香が言った。  
「ね! そういうことにして」  
 今にも泣き出しそうなほど真剣な表情で顔を覗きこまれ、山田はうなずくことしかできない。  
「う、うん。わ、わかった」  
 輝くような明るい笑顔が明日香の顔に浮かぶ。  
「よかったぁ……。山田のそういうとこ好き」  
 山田は好きという単語に敏感に反応して、顔が熱くなるのがわかった。  
「でも、なんでそんなこと」  
「やっぱさぁ、ちょっとでもイイ感じにしたいでしょ。ファーストキスの思い出は」  
 自分がそういうことにしても、実際は違うことを本人が覚えていては意味が無いのではないか。そう思ったが、明日香が満足しているようなので、山田はその言葉を飲みこんだ。  
 
「そういうもんかなぁ」  
「そういうもんなの……つーか、さっきから思ってたんだけど」  
「うん」  
「すっごく言いにくいんだけど」  
「な、なに」  
「この際だからはっきり言うね」  
 ためらう明日香の様子に、山田に緊張が走る。  
「キスの途中からなんだけど……ずっと山田のおちんちんが固くなってお尻に当たってんの」  
 山田の全身が硬直した。関節から軋む音が聞こえてきそうなほどぎこちなく、のろのろとした動きで、明日香の背に回していた腕をほどく。  
「ご、ご、ご」  
 ごめんと言いたいのだが、喉は同じ音を繰り返すばかりでいっこうに先に進まない。  
 顔は赤くなるどころか、反対に真っ青になってしまっている。  
 取り返しのつかない失敗をしでかしてしまった。山田は心の中で自分の体を呪った。  
「これってさ、キスで感じちゃったってことだよね」  
 明日香の指摘に図星を指され、山田はさらに追いこまれた。  
「じゃあじゃあ、これでも感じちゃうのかなー?」  
 言うと明日香は丸く、柔らかいお尻をぐにぐにと山田に押し付けた。股間が上手い具合にお尻の谷間にはまって絶妙な刺激を山田に与える。  
「よ、吉崎さん……!?」  
 若さに溢れる弾力を味わいながらも、山田はどうして良いのかわからない。  
「だめだって、こんなこと」  
「なにが? 恋人同士のスキンシップでしょ」  
「でも……」  
「もしかしてエッチなこと考えてるぅ?」  
「……」  
 無理が通れば道理は引っ込む。弱々しい制止はあっさりと振り切られてしまった。  
「違うんだったら別にいいでしょ」  
 
「でも、やっぱり……」  
 明日香がさらに激しい動きで腰を振り、山田に押し付けると山田はなにかに耐えるように黙り込んでしまった。  
 山田の困った顔が見たくて始めた行動は望み通りの結果となったが、予想外のおまけもついてきた。  
 お尻で山田のものをいたずらしていたのだが、座っている位置がじょじょにずれ、次第に明日香の股間にも微妙な刺激を与えることとなってしまったのだ。  
 いつしか明日香のいたずらは数枚の布越しに、互いの性器を擦りつける淫らなものとなっていた。  
「……ぁ」  
 かすかな声が、明日香の唇から洩れる。その音は確かにピンクに染まっていた。  
 明日香が慌てて口元を抑えたが既に遅い。  
 普通なら聞こえないような小さな声も、密着した今の状態なら相手に届いてしまう。  
「吉崎さん!」  
 今までとは明らかに違った調子の声に明日香が驚く前に、山田のひざの上に乗っていた明日香の体は跳ねあがり、ソファに押し付けられる。  
 山田が立ち上がり、明日香と自分の位置を入れ替えたのだ。  
 自分にのしかかるような格好でいる山田に手首を掴まれているため、明日香は動くことができない。  
 おそるおそる視線を動かしても山田の胸元しか見えず、その表情を伺うことができない。  
「や……山田? 怒った?」  
「こんなことされて、我慢できるわけないじゃないか」  
「ごめん。調子に乗りすぎた。謝るから」  
「別に怒ってないよ」  
「へ?」  
 明日香は間抜けな声をだした。  
 山田が掴んでいた明日香の手首を離す。  
 許してもらえたのかと安心した直後、山田の手が胸元に伸びてくるのを明日香はただ見ていた。その指が豊かな二つのふくらみに触れ、わずかに沈むのを人事のように感じながら。  
 

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