「ふひー、流石に疲れたわねー。アタシちょっと抜けるわ」
そう言ってコノットがファシスの体を開放する。
そして魔術を発動させ、意識を失っていた傭兵十人を覚醒させた。
「アンタもファシスと盛ってばかりじゃなくて、精気を補充しなさい。
教会の結界と血の浄化作用、二つの破邪の力を同時に抑えているんだから魔力の消耗はバカにならないわよ?」
言い終えると死んだ目をした傭兵達の内一人を押し倒し、食事を開始する。
(そうだなぁ。確かに魔力を使いすぎたかも……)
先程傭兵達から精気を吸い上げたが、その分は殆ど使い切ってしまった。
残った魔力は結界と浄化作用の抑制に使っているので、密着しているにもかかわらずファシスの心理を読めない。
「ファシスに犯してもらおうかな☆」
「…っ!」
(わっ?)
煽るように言うとファシスが弾かれたようにエルカの手を離れた。
あれだけ淫気を注いではまともに動く事は出来ないと思い、油断していたのだ。
(がんばるなぁ、ファシス。堕とし甲斐があるよ☆)
目を細め、笑みを浮かべる。だがその先で、べしゃり、とファシスの体が崩れ落ちた。
剣と鎧、それにマントが近くにある。
この期に及んで、力でケリをつけるつもりか。
「甘いよファシス」
エルカが魔力を解き放ち、剣を遠くに弾き飛ばす。これで自由に使える魔力は殆どなくなった。
「はあ、はあっ、ファシス、観念しなよ。早く、ファシスの精気を吸わせてよぉっ!」
立ち上がり、獣のようにファシスへと飛び掛る。
地面に這いつくばったファシスの体をこちらへ向け、
次の瞬間、ファシスにキスされた。
「…っ?」
意味が分からない。ファシスは無理心中でも狙っているのかと思ったのだが、そうではないようだ。
ならばこの口づけにはどんな意味が――
考える前に、ファシスの口から、唾液が送られてくる。エルカはそれを反射的に飲み込み、
「っ!? げはっ!? がはっ!」
むせ帰しながら、ファシスを突き飛ばした。
(やだ! 何これ! 苦しい!)
まるで熱湯――いや、毒液を口移しで飲まされたような感覚に、喉が焼け、体中を苦痛が蝕む。
「エルカ!?」
遠くでコノットの声が聞こえる。それを聞きながら余りの苦痛に、エルカは絨毯の上に倒れた。
その視線の先に、『蓋の開けられた聖水の瓶』が転がっている。
傭兵達が所持していた聖水は全て割った。だが、ファシスの分は――
(ファシス! これを狙って!)
「げほっ! げほぉっ! ぎいぃあぁあぁあぁっ!!」
苦痛の余り喉奥から人外に相応しい悲鳴が上がる。
エルカの裸身を黒く彩る魔術文字が急速にその数を減らす。
体内に取り込んだ聖水が、血の浄化作用を強化し、エルカの体を人間に戻しているのだ。
そして浄化が進めば、教会の結界を抑え込んでいた魔力も弱まる。結果。
「ぎっ!? ひぎいいっっ!?」
コノットが、エルカと同じように悲鳴を上げる。
教会を覆っていた、破邪の結界が復活したのだ。
(油断、しちゃった…)
苦痛にのたうつコノットを見ながら、エルカの意識は闇に沈んだ。
***
『お早う。ファシス』
『今日のご飯、どうかな?』
『えへへー』
ファシスの脳裏に、人懐っこい笑顔を浮かべた友人の姿が浮かび上がる。
その笑顔に、何度救われただろう。家族を失い、絶望していた自分を救ってくれた。
厳しい剣の修行にも、彼女の笑顔で乗り越えられた。
そう、今自分がこうしていられるのも全て、エルカのおかげなのだ。
そしてその笑顔を、失う訳にはいかなかった。
「……なんとか、なるものだな」
倒れたエルカに寄り添うように、ファシスは彼女の体を抱く。
先程まで苦しんでいた姿が嘘のように、エルカの表情は穏やかだった。
遠目から見れば教会の中で居眠りをするエルカに膝枕をしているだけなのだが、
エルカもファシスも、赤い絨毯にも、夥しい量の粘液が付着しており、
辺りに鼻がすえるような性臭が漂っている。
そう。エルカもファシスも互いに汚され、汚しあった。エルカの魂は一度闇に染まり、
ファシスを奈落の底へ突き落とそうとした。その事実は消えない。
だが、その笑顔は守る事が出来た。
「……うぅ、んー…?」
「エルカ」
最愛の人が、緊張感の無い感動詞を漏らしながら目を開ける。
うっすらと開いたそれはあどけなさを残した、朱色の瞳をしていた。
「ほえー? ファシスぅ?」
舌足らずな口調で自分を見詰めるエルカの姿に、ファシスは苦笑する。
寝起きのエルカを見るのは久しぶりで、おかしかった。
「むー。どうして笑うのぉ?」
「いや、すまない。いつものエルカだな、と思って」
「はえ? なにそれ? わたしはぁ、わたしだよぉ?」
「そうだな」
「むー」
口を尖らせた表情が、こんなにも可愛い。
(戻ったんだな)
実感する。これが、本当のエルカだ。
包み込むような優しさを。春のような穏やかさを持っている、エルカ=ウィンリンクだ。
「? ねえ、ファシスぅ。どうして裸なの? ――あわっ、私も裸だぁ!?」
「ああ、それは」
説明しようとした瞬間。エルカが硬直した。
「エルカ?」
「夢じゃなかったんだ…?」
エルカの声は震えていた。その目がファシスの体を、自分の体を見、教会内のその淫惨な光景を見とめる。
弾かれたようにファシスから飛び退くと、彼女の内股にこびり付いた破瓜の血とそれ以上の白濁液に気付く。
「わ、私…! どうしよう…! ひどい! なんて事を…!」
「え、エルカ、お前、記憶が残ってるのかっ?」
「わ、たし! ファシスの事、汚しちゃった! ううん! それだけじゃない!
ギズさんも、傭兵さん達も! 私が、襲って…!」
ギズを襲った悪魔がエルカだという事を知り、ファシスは愕然とする。
だが、今は情緒不安定になっているエルカを宥めるのが先だった。
「落ち着くんだエルカ! お前はあの悪魔に操られてただけだ!」
「……ファシス、違うよ…違うのっ……私、操られてなんか無い! 全部、私の意志なの!
悪魔になった事も! ギズさんを、傭兵さん達を襲ったのも!」
「エルカ…」
血を吐くように真実を語る親友に、掛けるべき言葉が見つからない。
「私、悪い子だよね? シスターをしているのに、お母さんの娘なのに――いけない事、たくさんしちゃった。
私の料理が美味しい、って言ってくれたギズさんとだって、何度も交わって、精気を吸って、
どうしようファシス!? もうギズさん目を覚まさないかもしれないんだよ!?」
「エルカ、もういい」
「何がディースの娘よ! 悪魔にそそのかされて! 何の罪も無い人を襲って! ファシスにも酷い事して!
最低だよ! 私、なんか…っ、死んじゃえばいいんだ!」
ぱあんっ。エルカの頬が鳴った。
「…ファシス?」
エルカが打たれた左頬を押さえながら、ファシスを見る。
「逃げるのか?」
「え?」
「罪を犯したなら償えばいい。だがそれすらせずに死を選ぶのは、ただの逃避で、安易な選択だ!
本当にすまないと思っているのなら、生きて罪を償ってみせろ!」
「ふぇ…」
エルカの表情が歪む。親に叱られた子のよう瞳を潤ませると、肩を震わせながら泣き始めた。
ファシスは子供のように泣きじゃくる友人に近づくと、その体を抱きしめる。
エルカは甘えるようにファシスの胸に顔を埋めた。
「罪が重いなら、私も一緒に背負ってやる。だから、その…なんだ…」
ここまで格好を付けおきながら『しめ』の言葉が思いつかない。
と。鼻水を垂らしながら顔を上げたエルカがファシスに問い掛ける。
「…ぐず、ひっぐ…本当?」
「な、何がだ?」
「一緒に、背負ってくれる?」
「あ、ああ! もう私とエルカは一蓮托生だ! ずっと一緒に居てやるとも!」
(……む? 気のせいか? いつの間にかニュアンスがすり替わっているような…)
だが、ファシスが疑問に思う間に、エルカはくしゃくしゃだった顔に笑顔を浮かべている。
「…ファシス。ありがとう…」
「み、水臭い事を言うなっ。これくらい、当然だっ」
久しぶりに見たエルカの笑顔に思わずドキマギしてしまう。
調子に乗ったエルカが――あははっ、ファシス照れてる――とからかってくる。
先程までは考えられなかった穏やかな時間が、ここにある。
(終わったんだな、本当に)
感慨深げに教会内を見回し――
「……後始末が残っていたな」
「え? ファシス?」
ファシスの視線の先、礼拝堂の中心近くでコノットが倒れている。
体を覆っていた悪魔の紋様は消えているが、羽も尻尾も健在で、
時折思い出したかのように小さな体を痙攣させている。
「…コノットを、どうするの?」
「後ろを向いていろ」
エルカの問いには答えない。ファシスは客席の下にあった愛剣を拾い上げると、コノットの元へと歩み寄る。
この小さな少女は悪魔だ。エルカを堕とし、自分を貶めようとした諸悪の根源で、
死んだ家族と、ディースの仇だ。
(生かしておくわけにはいかない…!)
剣を返して逆手に持つ。体重を乗せ、足元の小悪魔へと一気に刃を付き立てる――
その寸前で、エルカが腰に抱きついてきた。
「だめっ!」
「っ!? エルカ、何をする!?」
「コノットを殺しちゃだめ!」
「何故だ! こいつは全ての元凶で、悪魔だ! 殺す理由はあっても生かしてやる理由は無い!」
「違う! 違うよファシス! コノットだって元は人間なんだよ!?」
そうだ。シュトリの悪魔というのは、元は普通の人間なのだ。
頭では分かってはいる。だが自分に、いや、エルカに施した非道を考えると、怒りで何も考えられなくなる。
それに加え、足元の少女の姿は未だに悪魔そのものだ。それだけで、生理的嫌悪が憎悪が溢れ出して来る。
「分かっている! だが、悪魔は許せないんだ!」
「それじゃ、悪魔じゃなければいいんだね?」
「……どういう事だ?」
「ファシス、剣を貸して」
「構わないが、何に使うつもりだ?」
剣を手渡されたエルカはその重みに、あわわと情けない声を上げる。
「私に出来る…ううん。私にしか出来ない、償い――かな?」
はにかむようにそう言うと、刀身を自らの左手首に押し当てる。
そしてファシスが止める暇も無く、細い手首を切り裂いた。
***
「らっしゃい! らっしゃい! お肉が安いよ! 今ならおまけでアタシも付いてくるわよ♪」
快活な、だがふざけた少女の声が響いている。
街の中心にある商店街。
太陽がちょうど真上にある頃。ファシスは教会への道すがら、とある少女の様子を見に来ていた。
「真面目に仕事せんかぁい!」
「うぎゃっ」
客引きをしていた十代半ば頃『に見える』少女が、肉屋の奥から出てきた中年の女性に頭を小突かれている。
ピンク髪のショートヘア。くりくりとしたエメラルド色の瞳。
「もお! すぐに叩かなくってもいいじゃんっ。それに、結構効果的だと思うんだけど。
アタシの魅力、っていうの? すぐに街中に広がって今にもアタシ目当ての男が店に寄って――
商売繁盛間違い無しよ!?」
幼女体型で客を誘惑しようとしている自意識過剰のその少女は……
「仕事を手伝っているのか邪魔しているのかどっちなんだ? コノット?」
「げっ!? ファシス!」
口煩い小姑を見るような目で下品な悲鳴を上げたのは、元悪魔のコノットだ。
あの事件から、二週間余りの時間が経っていた。
人間に戻ったエルカは、怒るファシスからコノットを助ける為に自分体を傷付け、
浄化の血を用いて見事コノットを人間へと戻したのだ。
だが、いくら人間になったといっても彼女のしてきた事が許されるわけではない。
だから、三人は嘘をつく事にした。
元凶であるコノットは、別の悪魔に操られて今回の騒動を起こした――そういう事にしたのだ。
言ってみればコノットも被害者という事で街の人間も渋々ながら彼女を許す事にした。
しかし、ごめんさい、ですむ問題でもない。
そこで――精気を失い働けなくなった者の穴埋めをする――
という条件の下で、街の人間はコノットを許す事になったのだった。
「態度がなっていない。いらっしゃいませではないのか?」
「いらっさいませー」
(人間に戻っても根本は変わっていないな)
やる気も誠意も欠片ほどに感じられない。
肉屋のおばさん――店主である主人はコノットに精気を吸われて現在療養中――
が、コノットの頭を小突いている姿を見て、ファシスは思わず溜息を付いた。
甘い汁を啜っていた時間が長かったのだろうか。コノットが更生するにはまだまだ時間が掛かりそうだった。
「ご主人の具合はどうですか?」
「あらあ!? ファシスちゃん! お陰様で随分元気になってねえ!
この子の尻ばっかり見てはニヤニヤしてるのよ!
いやだわぁ! おほほほっ!! ……毒でも盛ってやろうかしら」
「……そうですか…それは良かったですね…」
苦笑いを浮かべながら相槌を打つ。
「そうだ。一番良い肉をもらえませんか?」
「あらま? エルカちゃんおつかいだったの?」
「ああ…はい…そんなところです」
エルカの名前が出ると、途端にこそばゆくなってしまう。
あの件以来どうにも彼女を意識してしまっていけない。
「本当仲が良いわねー。ほらコノット! お肉詰めて!」
「へーい。んー、こんなごつい肉なんに使うの?」
「考えていない、が。このところ誰かさんと違ってエルカは頑張っている。ちょっとした土産だ。
ありつきたいなら、さっさと仕事を終わらせて夕飯までに帰って来るんだな」
「じょ、冗談でしょ!? ここが終わってもまだ八百屋と雑貨屋と酒場で仕事があんのよ!?
夕方までに返れる訳無いじゃない!」
「知らん。自分で蒔いた種だ。自分でどうにかしろ。それでは失礼します」
「はいはい。エルカちゃんによろしくねぇ。ほら、あんたはきびきび仕事する!」
肉屋を後にし、教会へと向かう。背中から、コノットの怨嗟の声が聞こえる。
「ファシスの薄情モノーっ! 鬼ーっ! 悪魔ーっ!」
(お前に言われたくはないっ)
***
賑やかな商店街を抜け、暫く歩くと教会が見えてくる。
小さな菜園。洗濯物が干された庭。雑木林に囲まれた教会の敷地で、孤児達が元気に走り回っている。
「あ、ファシスねーちゃんだ!」
「ほんとだ!」
きゃいきゃいと黄色い声を上げながら六人の少年少女達がファシスの元へと集まる。
「お仕事の話聞かせて!」
「剣見せてよ!」
教会出身者の中でも最年長のファシスは、子供達から慕われている。
傭兵という職業柄、小さな男の子にも人気があった。
「まあ待て。話なら夕食の時にいくらでもしてやる。それより、エルカは居るか?」
「エルカねーちゃん? 今、『お仕事』してるよ?」
仕事というのは精気を失った人達を療養する事だ。
あの事件の後、精気を失った人達をどうするか、途方にくれていた二人だが。
教会内を調べてみると、失った精気を回復させるというアイテムを見つけた。
今回のような被害者が出た時にと、ディースか神父が用意していた物らしい。
「…そうか」
(仕方が無い。子供達の相手をしてやるか)
そう思った矢先に、教会の扉が開く。
中から、割と元気に見える肉屋の主人と、
「お大事にー」
彼を笑顔で見送るエルカが出てきた。やがて、のほほんとした顔がこちらを向く。
「あーっ、ファーシスっ」
ぱたぱたと、それこそ子供のようにファシスへと駆け寄り、その胸に飛び込んでくる。
「え、エルカ!」
「今日も来てくれたんだっ。嬉しいな!」
言いながら人懐っこい笑みを向けてくる。
あの件を境に、エルカが少し変わった。
先ず一つ。ファシスにやたら甘えるようになった。隙を見つけては今のように抱きついてくる。
その二。エクソシストの勉強をし始めた。今回コノットが人間に戻れたのは結局、ディースの血のお陰――
その事実に、何か思うところがあったのかもしれなかった。
そして最後に――
「あ、ああ。たまたま近くを通りかかってな…」
嘘である。エルカの顔が見たくなった――と言うのが恥ずかしく、意識せずに照れ隠しになってしまうのだ。
「むー? 本当?」
訝しげな視線がファシスに刺さる。それから逃れようと辺りへ目を泳がす。
だがシスターと剣士を取り囲む子供達は、好奇心旺盛の目で事の成り行きを見守っていた。
あの件から『付き合う』ようになったファシスとエルカ。別に言いふらしているわけではないが、
教会の子供達も、街の人々もその事には気付いている。
と、エルカがファシスの持つ小さな紙袋に気付いた。
「ん? それは何?」
「ああ、これは、コノット奴の様子を見に商店街に行ってな。そのついでだ」
「えー? エルカねーちゃんの手料理を食いたいから買って――いてっ?」
にやにやしながら不穏当な発言をする男の子の頭を小突く。
「なに、どうせ安物だ。遠慮なく使ってくれ」
「安物――?」
エルカが袋の中身を確かめ、その顔に疑問符を浮かべた。
そう言えばエルカはあの店の常連でもある。肉の種類、値段をある程度知っている筈だった。
エルカは何か考えるような仕草を見せて、一人納得したように頷いた。
「コノット、元気にしてた?」
急に話題を変えてくる。肉の値段にあえて触れてこない辺りが返って怖い。
『相変わらず素直じゃないねファシスは。私の体に気を付けて一番良いお肉を買ってくれたんだよね?
――うん? そっかそれで私に精を付けさせて早く<良い事>でもしよう、って事なんだね?
もう、ファシスのエッチ☆』
(とか考えてるかもしれない…!)
気のせいかその顔もどこか悪戯っぽい表情だ。
ファシスは気を動転させながら、それでも何でもない振りを装うしか出来なかった。
「元気すぎる。そして全然反省していないようにも見えた。
客引きに色気を使うなというのだ。全く、悪魔の時としている事は変わらないじゃないか」
「あははっ」
だが。
屈託無く笑うエルカを見るとこちらもおかしくなってくる。
(本当に良かった。エルカを守る事が出来て)
「――しかし本当に驚いたぞ、あの時は」
「何の話?」
「コノットを浄化する為に私の剣を使っただろう?」
思い出すのは二週間前のあの事件。
エルカはコノットを浄化する為に、ファシスの剣を使って、自らの体を傷つけた。
手首を裂いたエルカの出血は酷かったが、正確な処置を施したので大事には至らなかった。
「ああ、あの時は…だってああでもしないとファシスがコノットの事、許さなかったでしょ?」
「それはそうだが……そこまでしてコノットの奴を助ける事も無かっただろう?
もしそれでお前に何かあったら――そう思うと気が気ではなかったんだぞ?」
実際ついこの間までは貧血気味らしく、顔を青くしている時が何度もあった。
「あははー。ごめんね。心配掛けちゃって。でも、もう大丈夫だよ? ほら――」
エルカがガッツポーズをしようとし――不意にその体が傾いた。
背筋が凍る。
「…っ、エルカ!?」
慌ててその体を支えてやる。そら見た事か。気丈に振舞っても疲労は誤魔化せない。
だが、様子を見ようとエルカの顔を覗きこもうとした瞬間、彼女の手がファシスの首を後ろに回される。
(…何を?)
その行動の意味を考える暇もなく、顔を引き寄せられ、
エルカに唇を奪われた。
「……っ、っっ!!?」
目を丸くしながら慌てて飛びずさる。
「えへへー」
エルカはしてやったり、と頬を緩ませていた。
「ば、ば、…な、にを! こんなところで!」
子供達が見ている前でいきなりなにをするのか。そう訊ねたいのに言葉が意味をなさない。
周りを見渡すと案の定、事の成り行きを見守っていた六人の孤児達が口をあの字に開けたまま呆然としている。
「ファシスは私とキスするの、嫌?」
「そ、そんな事はっ――ああ、お前ら勘違いするな…! 決して私がやましい気持ちなのではないからな…!
――ああ、そのなんだエルカも! 嫌とか良いとか、そうではなくてだな、」
「それじゃ、今度はファシスが私にキスして☆」
(どうしてそうなるっ?)
とんでもない事を言う恋人に思わず頭を抱えたくなる。
甘えてくれるのは嬉しいが、何事にも限度というものがあると思うのだ。
「駄目だ」
(…ここでなければ別に良いのだが)
心の中で付け加えるが、何を勘違いしたのかエルカは表情を沈ませてこう言った。
「……どうして? 私の事、好きじゃないの?」
「そ、それは…」
周りを見る。好奇心の塊のような視線が六方から放たれている。ここで首を縦に振ってもよいものか。
「酷い! 私の事は遊びだったんだね!?」
だからどうしてそうなるのか。
「ち、違う!」
「ずっと一緒に居てくれるって、あの時言ったのに! ファシスの嘘つき! 私の事なんてどうでもいいんだ!」
「だから違うと言っている!」
「本当に?」
「当たり前だ! 今でも私は、お前の事を愛している!
――――あ」
(言ってしまった)
頭に血が上ってついつい本音をぶちまけてしまった。
子供達の前で。
がっくりと項垂れるファシスとは対照的に、エルカは手の平を返したように笑顔を浮かべている。
「じゃあキスして?」
(敵わないな、エルカには…)
先程の言葉や立ち振る舞いが全部演技だったという事にようやく気付いて、ファシスは溜息をついた。
「子供達が見ているぞ?」
「…見られてもいいもん。ちょっと恥ずかしいけど、今すぐ、ファシスにキスして欲しい」
言ってエルカが顔を背ける。その頬が若干赤らんでいる事に気付いて、ファシスは胸が高鳴るのを感じた。
「わ、分かった」
覚悟を決めて、エルカの顎に手を添え――ふと、周囲を見渡した。
アダルティックな場面を予感した孤児達の中でも年長の少女三人が、年少組みの三人の目を両手で塞ぎ、
自分達はちゃっかりと事の顛末を見届けている。
「ファシス、目を閉じてくれなきゃ、やだよ」
「あ、ああ」
だが今更止められない。エルカの声に目を閉じると、最愛なる者へゆっくりと顔を近づけていく。
石鹸と、日向の匂いが混じった香りが、手の平から伝わる肌の温もりが、顔をくすぐる吐息が。
恥ずかしいと思う以上に、身を締め付けられるような愛情を生み出す。
心音が大きくなり、木の葉が擦れる音、風が洗濯物を揺らす音をかき消す。
鼻先に、エルカの顔がある。
いつしかファシスは、彼女の唇の感触を味わいたいと思い、
自分の唇を押し付けた。
そう思った。唇には、確かに温もりを感じる。
「――ぷぷっ」
堪えるような笑い。
目を開けるとそこには、人差し指でファシスの唇を阻止するエルカの顔がある。
「あははっ。ファシスったら変な顔ーっ」
指まで指されて大笑いされる。
(からかわれたのか!?)
ファシスの顔が耳元まで赤くなっていく。
自分の道化っぷりが惨めで、そしてそれを子供達に目撃された事がとてつもなく恥ずかしい。
穴があったら入りたい気分だった。
「え、エルカ! お前な!」
「なーに? 続き、したい?」
にっこり笑顔で言われる。それだけで言葉に詰まってしまう。
否定出来ない自分が情けない。
「もうちょっと素直になったら、してもいいよ?」
とんっ、と足取り軽く、ファシスから遠ざかると、ぺろり、と舌を出す。まるで小悪魔のように。
「でもそれまでは、おあずけだよ☆」