その日あたしは、奇妙で少しおぞましい、でもちょっとわくわくするような、全体的に言えば悪夢のような体験をしたのだった。
思えば、幼稚園からのつきあいである徹は変であり、ぼやっとしていた。
連綿とぼやっとし続けていた。
道ばたで石ころにつまずくなんていうのは当たり前であり、服を裏返しに着ていたり、連絡帳を忘れたり、遠足の日に間違えてランドセルで来るなんて事さえした。
おかげであたしは、徹の分までしっかりしなきゃいけないようなことになり、要するにお世話係のようなものだった。
忘れ物はないかとか、雨の日に一人で帰れるかとか、いっつも心配してあげなきゃいけなかった。
水泳の時には、足がつって溺れないようにと、いつも近くで見てあげないと心配だった。
なのに、徹があたしより早く逆上がりが出来るようになったのは納得行かなかった。
でも、あたしの方がかけっこは早かったので、運動会ではあたしの方が得をした。
抜けている割には、頭は悪くないみたいで、算数はあたしと同じくらい九九が言えたし、作文ではよくほめられていた。
(たとえが変だと先生に注意されることもあった)
本を読むのが好きみたいで、徹の家に遊びに行ったときには、いつも本が散らかっていた。
あたしが好きなのはシンドバットの冒険の話だったけど、徹が読んでいたのは、もう少し漢字の多い本だった。
(ついでに言うと、徹はシンドバットの冒険よりアリババの話の方が好きだそうだ)
だからあたしは徹の読んでいる本を読んだことはあんまり無かった。
けれど、いつだったか、一度徹が絵ばっかりの本を熱心に見ていたときに、隣から覗き込んでみたことがある。
真っ青な綺麗な空が背景で、白いドレスを着た女の人が、白い傘を差して立っていた。
その顔の上に、なぜだか紫色の花が、どすんと乗っていた。
女の人の顔は、花で潰されてしまっていた。
なんだか気味の悪い絵だった。
なんで徹は、こんな絵がのっている本をずっと眺めているんだろうと不思議だった。
「ちょっと気持ち悪いよ、この絵。とーる、こんなのが好きなの?」
「リサの顔の上には花が乗ってなくて良かったよね。」
「当たり前じゃない。こんな人どこにもいないよ。」
「でもさあ、リサの顔は目をつぶっていても、やっぱり良いよね」
そう言って、徹は目をつぶって、あたしの顔をぺたぺたさわり始めた。
あたしは、徹は本気で頭がおかしいんじゃないかと心配した。
(あたしは三日に一回は必ず、頭がおかしいんじゃないかと心配した。
ちなみに今まで一番心配したのは、嘘くさい鬼の着ぐるみに本気で怯えて、あたしに縋って泣いていた時だ)
「なにやってんの。息がしにくいからやめてよ。」
そう言うと、目をつぶったまま、顔を近づけて、くんと鼻を鳴らした。
「あ、でも匂いも良いかも。」
こういう風に、こいつの言うことはいつもずれていて、あたしの苦労が少しでも伝わっているとはとても思えないのだった。
『それでね、その悪い子はね、誰よりも上手く隠れてしまったの。
かくれんぼの鬼もずっと探していたんだけど、全然見つからないのよ。
そのうちみんなはそのこのことを放っておいて、別の遊びを始めたの。
でもね、それでも悪い子はずっと隠れていたのよ。みんながその子のことを忘れて帰ってからもね。
そのうち暗くなったんだけど、それでもその子は出ていかなかった。なぜなら、悪い子だったからよ。
それからようやくその子がいないことに気が付いて、探し始めたときには夜になっていたの。
とっても寒い日だったのよね。
上手く隠れたものだから、次の日の麻にその悪い子がようやく見つかったときには、周りの雪とおんなじくらい、冷たくなっちゃっていたのよ。
というわけで、理沙も悪い子だとこんな目にあっちゃうんだから早く寝なさい。』
お母さんがこんな話をした次の日の天気は、薄曇りだった。
夏も間近だったけれど、ちょっと肌寒い日だった。
2年生の授業は4時間で終わる日だったから、午後はずっと近くの公園で遊んでいられる。
色鬼をして、ジャングルジムに競争で上って、缶蹴りをして。
それからかくれんぼになった。
あたしはなにか、まずいんじゃないかという気がした。
ジャンケンをして、鬼になったのはあたしじゃなくて、それも落ち着かない原因になった。
隣で相変わらずぼやっとしている徹の顔を見ると、なおさら心配になってきた。
「どうしたの?そわそわして。リサが、かくれんぼするのを怖がるわけないし」
何にも分かっている分けないこいつに、心配されたのが癪で、あたしはふいっと横を向いた。
「いーち、にーい、・・・」
鬼が数を数え初めて、みんなが走り出した。徹もどこかへと走り去っていく。
徹はどっか変だけど、悪いことをするだけの要領はないから悪い子ではないはずだと、むりやり自分に言い聞かせてあたしも走り出した。
「じゅーよん、じゅーご、・・・」
今日に限っては、数える声に追い立てられるようで、本気で怖い。
早く見つかるように、その辺の木のかげにさっさと隠れた。
「にじゅう!もーいーかい。」
「もーいーよ!」
急いで返事をしたけれど、徹の声は聞こえなかった。この近くではないらしい。
少し考えたら、いつも通りのかくれんぼのはずだ。
なんにも怖いことなんかない。
それでも息が、いつもより荒い気がした。
はあはあとうるさくなる息が、ますます自分を追いつめていくようで、あたしは自分の口に手の平を押しつけた。
ぐるぐるする頭に体がついて行かなくて、あたしはその場にしゃがみ込んだ。
「みーつけた!」
はっと顔を上げると、鬼が目の前に立っていた。
分かりやすいところにいたつもりなのに、あたしが見つかったのは最後から2番目だった。
まだ見つかっていないのは、徹だった。
案の定過ぎて、嫌になった。
やっぱり最後まで徹は見つからなくて、みんなは徹が勝手に家に帰ってしまったんだろうと、チャイムが鳴ったので帰ってしまった。
徹はいっつもぼやっとしているから、あたしもみんなに反対できなかった。
だけど、家に帰ってからも、どうしても気になって、普段は使っちゃ行けないことになっている受話器を取らずにはいられなかった。
焦っているのに電話の方では、のんきな呼び出し音がトゥルルルと響いていた。
がちゃりと出た相手は、徹のお母さんだった。
「あ、あの、川口ですが・・・」
「あら、理沙ちゃん?一人で電話が掛けられるなんて偉いわね。ああ、徹ね。徹ならまだ帰ってないみたいなの。あの子のことだから、またどこかで道草しているのかしら?せっかく理沙ちゃんが、電話を掛けてきてくれたのに。ごめんなさいね、後でかけ直させるから。」
「い、いえ、その、だいじょうぶです。失礼しました!」
がちゃりと電話を置いたときには、心臓がものすごい早さでばくばく鳴っているのが聞こえた。
やっぱり徹はまだきっとどこかで隠れているに違いない。
ぼやっとし続けたまま、明日の朝冷たくなって発見されてしまうかも知れない。
もう動かなくなってしまった徹のいつもぼんやり見開いているうす茶色の目に、雨がぴちょんと降ってくるようなイメージまで浮かんできて、なんだかそれは今にも本当になりそうで、居ても立ってもいられなくなってきた。
あたしは上着を一枚はおって、外へと徹を捜しに走った。
どんどんと周りは薄暗くなり始めて、それでも徹は見つからなかった。
徹が好きな木の下も、ジャングルジムの中も、団地の階段の裏側も(それにしてもどうしてこんなところが好きなのか)、思いつくところは全部探したのに、どこにもいなかった。
いつもはうざったいくらい近くにいるのに、今日に限って本当に影も形もなかった。
なんだか泣きそうになりそうで、とても馬鹿みたいだった。
徹は変な奴だけれど、あたしはそいつのことを大体分かっていると思っていた。
毎日面倒をみてやって、いつも心配してあげて、怖がっているときには手だって繋いであげたし、泣いている時にはお菓子もあげた。
それなのに本当は、徹がかくれんぼでどこに隠れているかも分からない。
あたしにも見つからないようなところに隠れているようなら、あんな奴は勝手に野垂れ死んじゃえばいいんだ、と思いながら、あたしはそれでも探し続けた。
どこにいるかは分からないけれど、きっとあたししか見つけてあげられないに決まっているのだから。
なに考えているのか全然分からない子だけれど、あたしが一番近くにいるのは間違いないのだから。
どっかで勝手に徹を冷たくさせるほど、あたしの今までの苦労と心配は軽くはないのだ。
だからきっと、あたしなら見つけられるはずだ。
もう夜になりかけた頃になって、空はいつの間に晴れたのか月が出ていた。
暗くなると気味の悪い人が出てどこかに連れ去られてしまうよと、最近になって先生にもお母さんにもさんざん言われて、いつの間にかランドセルには防犯ブザーが付くようになったけど、今のあたしはなんにも持っていない。
早く徹を見つけて帰らないと、徹どころかあたしまで心配されてしまう。
本当に焦ってきて、手のひらに汗がじわじわ滲んできたところで、あたしはふとまだ探していない場所を思い出した。
走って走って、息が切れてもまだ走って、喉の奥で心臓が破けるんじゃないかというくらい走って、たどり着いたそこは以前二人で秘密基地を作った場所だった。
遊んでいた公園の裏道に入ってすぐのところにあって、そんなに遠くじゃない場所にあるはずなのに、人通りがほとんど無い場所で、あたしも行くのは2年ぶりくらいで、ほとんど忘れていたのだった。
せまい空き地に塀がめぐらされていて、一カ所がたがたのぼろい扉から入ることが出来る場所で、中にはなにが取り壊された場所なのか、コンクリートの低い台がそこら辺にいくつか置かれていて、ここに二人でお気に入りのものを持ち込んで秘密基地を作ったのだった。
しばらくそこにあたし達は入り浸っていたのだけれど、何週間かしたら二人とも飽きてしまったので、ずっとそれから行ってなかった。
ここを見つけたときもちょうど初夏で、ほとんど変わっていない様子に、なんだかタイムスリップしてしまったような気がした。
ぎいと相変わらずぼけたような音を出す扉を開けて中を見回すと、薄ら寒いそよ風がぼうぼうの雑草を揺らしていた。
目をこらして、じろじろと辺りをさらに見てみると、
草に埋もれて、コンクリートに寄っかかって、徹がうずくまっていた。
ようやく見つけた。
あたしはもうたまらなくなって、とりあえず殴ってやろうと徹の元へと駆けだした。
目の前まで来ると、膝を抱えた徹がふらっと頭を上げてあたしの目を見た。
「やっと、見つけ、た・・・!」
息が切れて上手く声にならなかった。
よく見ると、徹は目が覚めたばかりらしく、いつもより2割り増しくらいぼんやりした目で、あたしを見上げていた。
「あ、リサが鬼になったの・・・?」
寝起きだからって、どうしてこいつはこんなにもぼやっとしているのだろう。
けれど怒る気持ちも萎えてしまって、それどころか泣きそうになってしまって、ぎゅうっと口をへの字に曲げてかみしめて、
涙がにじんできた目を何度もまばたきして、しゃくり上げそうな口元を手で押さえ込んで、こみ上げてくるものを押し戻すので苦しいのも、それもこれも全部徹のせいだった。
「リサ、泣きそうだよ?せっかく見つけられたのに。」
見つけて嬉しいどころか、怒ればいいのか、泣けばいいのか、とにかく頭の中はぐちゃぐちゃだった。
「なんで、こんな、ところに、隠れてるの?分かるわけ、ないじゃない。ずっと、見つからなかったら、どうするつもり、だったの?」
「え、だってココはかくれんぼの範囲内だよ。それに、リサなら絶対分かると思ってたんだけど。今だって僕のこと、ちゃんと見つけたじゃない。」
「そんなこと、言ってると、いつかあたしのいないところで、勝手に冷たくなって、死んじゃうんだから・・・!」
「あ、でも、ここなら他の誰かじゃなくて、リサが見つけてくれるって思ったのは本当だよ。うん、リサが見つけてくれて、よかった。」
そう言って、嬉しそうにへらへら笑いながら、あたしを見上げている徹の顔を見ていると、もう本当に体の力が抜けてしまって、あたしはへたりと地面の上に座り込んでしまった。
ぺたんとしりもちをついて、徹の顔をにらみつけると、何が嬉しいんだかへらへらと笑っていて、心底安心しきっている様子を見ると、やっぱりあたしの方が馬鹿みたいだった。
がっくりとうなだれて下の方を見ると、あたしは少し奇妙なものが見えることに気が付いた。
徹のズボンの前が膨らんで、盛り上がっているようだった。
「何これ?どうしたの、とーる?」
心配になって聞いた途端に、徹は驚いたような呆れたような、ぽかんとした表情を浮かべて、こっちを見た。
「そっか、起きたばっかりだから。」
そう言って、徹はちょっと照れたようにうつむいた。
神妙にも恥ずかしそうにしている様子が徹らしくもなくて(奴は悪戯が好きな子に目の前で裸の女の人の写真を見せられても平然としていた)、この状態が何かは分からないけれど、あたしはいよいよ心配になった。
「まさか病気じゃないよね。怪我したの?それとも腫れちゃったの?痛くないよね?」
「あ、そうだ。」
あたしの心配を素通りして、徹はじゃかじゃかとズボンのホックとファスナーを弄くって、前を開けた。
そこにはあたしが見たこともない形をしたものがあった。
もちろんお父さんのや弟のを見たことはあるけれど、目の前にあるものは、元々おかしな形だったものがさらに変になっていた。
熱を持っているらしいそれには、喉の奥が疼くような気持ち悪さと、目を背けられないような何かがあった。
「ねえ、リサ。触ってみて?」
熱っぽい徹の声に、あたしはびくりと震えた。
「とーる、あたし・・・」
なぜだか分からないけれど、とにかく怖くて逃げ出したかった。
頭の中でどくどくと血が巡り、かんかんと警鐘がめいいっぱい打ち鳴らされていた。
なのにあたしは、ゆらりと震えるようなそれにそろそろと手を伸ばしてしまった。
触れた瞬間の思った以上の熱さに手を引っ込めたくなったけれど、これは徹なんだし、ことさら怯えている様子を見せてはいけないと思って、ぐっと握り込んだ。
すると、痛いと徹が叫んだので、今度こそあたしは飛びのいた。
「もう少し、そっとじゃないと痛いよ。丈夫なところじゃないから」
そう言われても、どうしたらいいかあたしに分かるわけがなくて、とりあえず触っても痛くないように、手のひらに唾を付けてみた。
指で全体にのばして、今度はそっと触れてみると、徹はひっと小さく呻いた。
風が吹くと冷たいのか、徹の肌一面に鳥肌が立った。
あたしは戸惑いながらもいそいそと指でもてあそんでいると、細く甲高い声で徹が悲鳴を上げた。
それでもあたしは手を離せずに、自分の唾液でぬめぬめとするのに手を滑らせながら、指をくるりと巡らせると、くしゃりと唾液が泡立った。
どこからか漏れてくる街灯の光を、唾液がてらりと反射していた。
自分の息が、はっ、はっと、短く荒くなっていた。
手のひらがひどく、熱かった。
徹がぬっと手を伸ばしてきて、細かく痙攣しながらあたしの腕を掴んだ。
血が止まりそうなほどの強い力に怯んで徹の顔を見ると、苦しそうに喘いでいた。
「リサ、リサっ」
上擦った声であたしの名前が呼ばれて、自分の喉が鳴ったのが分かった。
言葉も出ずに、ただ指で少し強く扱くと、腕を握る力が一層強くなって、徹は細く長い声を挙げて、ぐったりとあたしの肩にもたれかかった。
いつの間にか手の中のものは、力が抜けたようにぐにゃりとしていた。
あたしは目の前がくらくらした。
「今のなに?それに、とーる、本当に大丈夫なの?具合悪くないの?」
くたりとあたしの肩に寄っかかっていた徹は、ちょっとけだるそうに体を起こして、服を直してから、あたしの方をじっと見た。
「だいじょうぶ。リサは心配することないよ。」
そんなことを言われて心配しなくてすむようなら、あたしは苦労なんてしないし、とっくに徹の側にはいない。
「あたし、すっごくびっくりしたんだけど。これって、いけないことなんじゃない?とーる、怒られたりしない?」
「大人になってから、こういうことすると赤ちゃんが出来るんだって。リサもにいつかここに子供が出来るんだよね。すごいなあ。」
そう言って、徹はあたしのお腹の下をさらりとなでた。
今のあたし達は子供で、それなのにさらに子供なんて考えてみたこともなくて、そう言われるとなんだか不気味な気がした。
この前体育の授業の時に、よく分からないビデオを見せられて、こうやって子供が出来るんですと言っていたけれど、さっきのようなこととは雰囲気が違って、何もかもがあいまいなままだった。
赤ちゃんはコウノトリが運んでくるんじゃなくて、病院で生まれてくるっていうのは知っているけれど、それ以上のことは知らなかった。
少なくとも、こんなになんだかよく分からなくて、変なことをしなきゃいけないだなんて、誰も教えてくれなかった。
とにかくよくわからないけれど、これはお父さんやお母さんに知られたら叱られるに違いない。
なんの証拠もないけれど、あたしはそう思った。
「ねえ、とーる、あんた、今のこと絶対に、家族の人にしゃべっちゃ駄目だよ。」
「うん、リサがそう言うなら、わかった。」
徹にそこまで念押ししても、あたしはどうしても今までのことが信じられなくて、自分の手をじっと見ながら、何度も握ったり開いたりしてみた。
なんにも変わったところはないけれど、それでもまた、じんわりと熱くなってくる気がした。
「ごめんね、リサ。気持ち悪かった?」
またぼやっとした顔に戻って、徹があたしに聞いた。
「もういいよ、そんなの。それより早く帰らないと、おばさんに心配されちゃうよ。もうとっくに暗くなってるんだから。」
めずらしくも徹があたしのことを気遣ってくれたので(その前は幼稚園の時にあたしが転んで額から派手に血を出したときの、一回きりだ)、それに免じて許してやった。
少し困ったような、でも嬉しそうな徹の顔に、胸がざわついたせいだからでは、断じてない。
*
ということを思い出したのは、上擦った声で自分の名前を呼ばれた時だった。
「理沙、理沙っ」
下腹部に走る引き裂かれる痛みに圧倒される中で、唐突によみがえってきた記憶にわたしは苦しくなった。
つい数時間前まで私は上にのしかかっている奴に、性衝動がちゃんと存在していることなんてずっと忘れていたのだった。
徹はあの時から10年間、そう言った話題に特に興味を示すことも、素振りを見せることもなく、抱き寄せられたその瞬間まで、わたしは今度こそ本当に子供が出来るかも知れないこと(もちろん避妊はしている)をすることになるなんて、思いもよらなかった。
「あれ、理沙、なんだか変わった?」
まだ荒い息の混じる声で、徹に声をかけられた途端、現実とおまけに痛みまで戻ってきた。
「あ、また、きつっ、」
そう言われても、全身に力が入って、とにかくきつくて、あの時の興奮といけないという気持ちがそのまま流れ込んできて、今もあの時もよく分からないほどぐしゃぐしゃになったあたしは、徹の首に縋り付いて、近くなったその耳に囁いた。
「いま、思いだした、けどっ、・・・、ね、徹、あんたって、ずっと前から、知ってた、よね?」
徹は少し身を離して、きょとんとわたしの顔を見つめた。
「ああ、理沙は、やっぱり忘れちゃってたんだ。」
思った通り、徹の答えはあたしの問いかけに対して的はずれだった。
けれど、ちょっとはにかんだような顔は、あたしが10年前にあたしが徹を見つけた時の、その表情とよく似ている気がした。
「でもね、僕は、ずっと、憶えていたよ。」
そう言うか言わないうちに、体の内側から押し広げられるような圧迫感が強まって、わたしはくうと呻いた。
「思いだしてくれて、よかった。」
あの不思議な、悪夢にも似た思い出を、小学生の頃からわたしは、一度も思い返すことはなかった。
家に帰ってからも怖くて無口になったあたしは、数日間ずっとびくびくしているうちに、あの星の出ていた肌寒い日にあった出来事を、無かったことにしてしまった。
頭の奥底へと隠れてしまった、奇妙で少しおぞましい、でもちょっとわくわくするような記憶を、10年もかかって、わたしはようやく見つけだしたのだった。
ずっと動かないでいた(珍しいことにあたしの体を気遣ったのだろう)徹の体が、ゆるゆると動き始めた。
刺激というには強すぎる感覚が、私の体中でのたうっていた。
その元凶が憎らしくて、とても大事で、わたしは未だにどこか頼りないままの背中へと腕を回したのだった。
(了)