1.  
「やっほー、ヤト。来たよ〜」  
俺がそろそろ夕飯を作ろうか、などと思っていたとき。  
不意に――いや、予想はしていたから不意でもないが――玄関の扉を叩く音がした。  
俺は寝っ転がっていたベッドからゆるゆると身を起こす。  
扉を開けると、小柄な女が一人、ビニール袋を提げて立っていた。  
「やっほー、来たよ〜」  
「それは聞いた。入れよ」  
「うん」  
 
女の名前はなつみ。  
物心ついた頃からの知り合いで、小中高といっしょの学校に通った。  
その後、俺は東京の大学に、なつみは地元の大学に行ったので四年ほど付き合いは途絶えている。  
が、俺が家業を継ぐことになり、こっちに戻ってきたので再会したという間柄だ。  
なつみは親が経営する小さな会社の事務をしており、暇なのか俺の部屋にはよく遊びにくる。  
実際、ほぼ毎日といっていい。  
 
「勝手知ったる幼馴染みの家」というやつで、なつみは挨拶もそこそこに俺の部屋に入ってきた。  
無造作に俺のベッドに腰掛け、手に持ったビニール袋を差し出す。  
「おみやげ。ご飯まだだよね」  
「んー、なんだ。『たぬき』の巻き寿司か。じゃ、お茶淹れる」  
「ん。お願い」  
袋を俺に渡し、なつみはそのまま俺のベッドに転がった。  
本棚から適当に漫画を引っ張り出すと、それを黙って読み始める。  
そんな様子を横目で見つつ、俺はお湯を沸かすために台所へと向かった。  
 
地元に戻ってもう二年になる。  
俺は別に将来の希望もなかったし、親の商売は小さい頃から見ていたから、家業を継ぐことに不満はなかった。  
親父もお袋もばりばり働いているから、仕事は手伝い程度で忙しくもない。  
こうして実家の敷地に小さな離れも建ててもらったし、まあまあ自由にやっている。  
――それをいいことに、とでも言うべきか、いつの間にかなつみは俺の部屋に入り浸るようになった。  
なつみも暇をもてあましているのか、夜遅くなるまで居座ることもたびたびだ。  
とはいえ、泊まっていったことは一度もないのだが。  
 
寝室からは、なにやら鼻歌のようなものが聞こえてくる。  
なつみは上機嫌で漫画を読んでいるようだ。  
(いい年した女が、何やってんだか)  
そんなことを考えながら茶葉を急須に入れる。  
俺自身、なつみが遊びにくることをわずらわしく思っているわけではない。  
幸か不幸か俺はフリーで彼女もいないし、暇なのはこちらも同じだ。  
なつみも一年ほど彼氏無しらしい。  
ま、利害(というほどのものではないが)は一致してるわけだ。  
 
「おい」  
「OK」  
俺が急須と湯飲みを持って部屋に入ると、なつみはさっと身を起こした。  
何も言わずとも、布巾でテーブルを拭きにかかる。  
この辺り、四年のブランクがあっても付き合いの長さが物を言うようだ。  
なつみが巻き寿司を皿に並べる間に俺は緑茶を二人分、注いだ。  
「いただきます」  
「いただきまーす」  
向かい合い、両手を合わせ、同時に言う。  
そうやって俺たちは、いつものように夕飯を食べ始めた。  
 
 
2.  
食後、なつみは再びベッドに横になると漫画の続きを読み始めた。  
俺は台所で後片付けだ。  
「たまにはお前が洗えよなー」  
「んー」  
俺の言葉を聞き流し、なつみは読書に夢中だ。  
言ってもやらないことは分かってる。ただ俺は奴の下僕じゃないってことをはっきりさせたいだけだ。  
 
洗い物を終え、俺は部屋にあるPCに向かう。  
大学時代の友達からのメールをチェックしたり、掲示板を周ったり。  
そんな俺の背後で、すっ、すっ、と衣擦れの音がする。  
ときどき枕の位置を直す、ぽんぽんという軽い音も。  
なつみが右へ左へと転がりながら漫画を読んでいるんだろう。  
服がしわになるのも気にならないらしい。  
相変わらず子供みたいな奴だ。  
 
帰郷してなつみと再会した時、俺は驚いた。  
何しろ奴の姿格好は、四年前と全く変わっていなかったからだ。  
ちんまりとした背といい、一度も染めたことのない黒いロングヘアといい、小動物っぽい丸っこい顔つきといい……  
まるで、俺は高校時代にタイムスリップでもしたみたいだった。  
なつみの大学時代など、想像も出来なかった。  
俺はその間に煙草と酒を覚え、髪を茶髪に染め、何人か彼女も作った。  
……いや、きっとなつみにも変化はあったんだろう。  
でも、あの日駅で再会したなつみは、俺の知っていた素朴な田舎の女子高生のまんま、だった。  
 
「げひゃひゃひゃひゃ」  
後から変な笑い声がして、俺はふと我に帰った。  
呆れ顔で振り返る。  
なつみは仰向けに寝っ転がりながら、まだ笑っていた。  
「へんな声出すなよ」  
「だ、だぁってぇー。『よつばはテレビみてるとちゅうなの!』ってー。  
やーん、よつばちゃんカワイすぎー」  
「あー、そこは俺も笑った。でもな、女が『げひゃひゃ』って笑うのはよせ」  
「ちぇーっ」  
ちょっと膨れっ面で俺を睨んでから、なつみは俺に背を向ける。  
その拍子に、短めのスカートがまくりあがり、尻の辺りに張り付いた。  
――その影から、薄いブルーの布地がわずかに覗いている。  
桃みたいな丸い二つのふくらみも、その割れ目の位置もはっきり分かる。  
 
「見えてる」  
「ん? あー、あとで見物料」  
「はいはい」  
俺が言うと、なつみはめんどくさそうにスカートを直した。  
俺もPCに向き直る。  
正直、なつみの体に興味はない。  
なつみは妹みたいなもの……といえば色気もあるかもしれないが、実際俺はなつみを知りすぎている。  
早メシのせいですぐゲップするとか、大口開けて寝るからよくヨダレをたらしてるとか、そういう実態を。  
色気より前に世話を焼きたくなるのがなつみだ。  
いまさらパンツが見えた程度で、欲情しようもない。  
(やれやれ)  
俺は肩をすくめ、昨日買ったばかりのRPGにとりかかった。  
 
 
その時だった。  
「ねー」  
なつみが不意に言った。  
「なんだー」  
俺はマウスをクリックし、モンスターにアタックしながら答える。  
「どーして私たちさー」  
「うんー?」  
大ダメージを食らったので、慌てて回復呪文を選択しつつ、俺は相槌を打つ。  
「SEXしないんだろーねー?」  
 
「…………はぁ?」  
思わずマウスを手放してしまったせいで、俺のキャラは回復が間に合わず、死んだ。  
小さく舌打ちしつつ、俺はまた振り返る。  
「いや、だからさー」  
なつみは相変わらず俺に背を向けて漫画を読んでいる。俺の方を見ようともしない。  
その口調はめんどくさそうで、なげやりで、何の恥じらいも感じられなかった。  
「私なんてさー。毎日ヤトの部屋に来てるじゃん」  
「……そうだな」  
「もう、そうやって一年以上になるじゃん」  
「…………そうだな」  
「普通の男女だったらさー、ちょっとしたきっかけでSEXしてるもんじゃない? こういうシチュエーションだと」  
「……そうかもな」  
思い返せば、俺が大学時代初めて女と付き合ったきっかけもそうだった。  
サークルの飲み会で終電が無くなって。ちょっといいな、と思ってた先輩の部屋に泊めてもらって。  
誘われるままベッドに――って、そんなことはどうでもいい。  
 
「なんだー? 俺に抱いて欲しいのかー?」  
いつもの調子を取り戻した俺は、からかい口調でそう言った。  
まあ、誘惑の文句としては上々かもしれない。意外性、という意味では。  
だが、なつみはやはり漫画に夢中なようだった。  
「いやー。そうじゃなくてさー。塩酸と水酸化ナトリウム混ぜたら食塩水できるでしょ?  
そういうごくふつーの反応がさ。起こらなかったら不思議だと思わない? 化学の大発見かも」  
「フムン」  
昔から変な例えをしやがる、なんて思いつつ、俺は鼻で笑う。  
俺が笑ったのに、なつみも気づいたようだった。  
「あれ。私の言ったことおかしい?」  
初めて身を起こすと、俺の方を振り返る。その顔にはくっきりと頬杖の跡が残ってる。  
本当に色気と縁のない奴だ。  
 
「一つ大きな見落としがあるぞ、なつみ」  
「なにさー」  
なつみは不満そうな声を上げた。  
どうやら自分の説に絶大な自信があったらしい。  
「前提が間違ってる。塩酸と水酸化ナトリウムじゃないものを混ぜてんだよ。俺たちの場合」  
「……ほほう」  
興味を引かれたのか、奴はベッドの上に座りなおし、俺の話を聞く体勢をとった。  
なつみの目を覗き込みつつ、俺はゆっくりと口を開いた。  
 
「つまりな。お前の最大の勘違いは――お前が普通の女じゃない、ってことだ」  
「……んな?」  
俺の言葉に、なつみは口をあんぐり開けている。  
「ずばり言えば、俺の好みじゃない。チビで、ちんちくりんで、鼻が丸くって、無駄飯ぐらいで。  
家事がからきし出来ず、楚々としたところがない。自堕落で、めんどくさがりで、おっちょこちょいで――」  
「こ……コラコラコラコラ!!」  
俺がにやっと笑うと、なつみはしばらくぶーっと膨れ顔を返した。  
「違うのか?」  
しばらく互いににらみ合った。  
やがて、反論しても無駄だと悟ったのか、なつみは放り出してあった漫画を手に取る。  
「まあ、そういうことだ」  
そう言い渡すと、なつみは仕方ないと言ったように頭を掻いた。  
「うーん……ま、そういうことなら仕方ないか――」  
納得したのか、また俺に背を向けて漫画を読み始める。  
俺もセーブしたデータを呼び出すため、三たびPCに向き直った。  
それっきり、俺たちは口をきかなかった。  
 
 
3.  
「おい、もう十時だぞ」  
俺が軽く背中を蹴ると、なつみはのっそりと首を持ち上げた。  
そして、枕元においてあった自分の携帯を手にとり、俺の言葉が間違いないことを確かめる。  
「遅くなるとおじさんとおばさん、心配するだろ」  
「あー、そうだね」  
いくらちんちくりんとは言っても、大切な一人娘だ。  
親が起きている間に帰してあげるのが筋ってもんだろう。  
 
なつみはベッドから立ち上がると、ひとつ思い切りのびをした。  
「はー、うっかり寝ちゃうところだった」  
「そんときは玄関の外に放り出すからな」  
「いや死ぬから」  
そんなやりとりをしながら、俺はなつみの帰り支度を手伝ってやる。  
と言っても、何が入っているやらよく分からない小さなリュックを渡してやっただけだが。  
 
もう一度携帯を開き、メールも着信もないことを確かめると、なつみは玄関へと向かった。  
「じゃ、明日は『コムギ村』のカツサンドね」  
「明日もくんのかよ」  
「晩御飯作る手間が省けてるでしょ? 文句言うな」  
そんなことを言いながら、なつみは玄関で靴を履く。  
とんとん、と二三度つま先で地面を叩いて、なつみは振り返った。  
「じゃ、気をつけて帰れ――」  
 
よ。  
 
そう言おうとした俺は、それを最後まで口にすることは出来なかった。  
なつみの唇が、俺の唇を塞いでいた。  
驚き目を見開く俺の前で、爪先立って軽く目を閉じたなつみが、俺にキスしている。  
振りほどこうと思う俺の意思はどこへやら。俺の体はぴくりとも動けない。  
一方のなつみは、両手で俺の胸元をぎゅっと掴み、引き寄せるように俺の唇を吸っていた。  
「ん……」  
「ふっ……?!」  
柔らかく、ぬめぬめとした感触が、半開きの俺の唇を強引にこじ開けたので、俺はまた驚いた。  
なつみの舌が、ためらい無く俺の口の中に入ってくる。  
すぐさま俺の舌を見つけたなつみは、それを絡めとるようにしゃぶりついてくる。  
互いの口の端から、ぴちゃぴちゃと唾液の絡む音が聞こえた。  
ざらざらとしたなつみの舌で、俺はなすすべもなく弄ばれている。  
まるでからかうみたいに俺の舌をこねくり回したかと思えば、俺の口の中をつんつんと刺激していく。  
すっと引いたかと思えば、舌の先同士をくすぐり合わせる。  
俺は、体中の血が頭に上っていくのを感じながら、なつみのなすがままになっていた。  
「んー……っ」  
最後に俺を吸い尽くすように、なつみは力一杯舌をねじ込み、かき回し、ようやく解放してくれた。  
 
息をすることも忘れていた俺は、なつみを呆然と見下ろしている。  
そんな俺の前で、なつみはごくりと口に溜まった二人分の唾液を飲み干した。  
「どう? 私キスうまいっしょ? 前カレにもこれだけは褒められたんだー」  
「お、お……おう…………」  
何の屈託も無く微笑むなつみに、俺はぎこちなく頷く。  
「ほら、ヨダレよだれ」  
なつみは手を伸ばすと、親指の腹で俺の唇を拭う。  
そしてその指をペロリと舐めた。  
 
「じゃーねえ。また明日ー」  
俺の様子なんぞおかまいなしに、なつみは消えた。  
ドアの閉まる音にようやく我に返る。  
その途端、心臓が今まで忘れていた分も取り戻そうとするかのように、激しく打ち始めた。  
そしてまた、俺の下半身もようやくその役割を思い出したように固くズボンの中で張り始め――  
「冗談じゃねーぞ……」  
俺は、ようやくそれだけを口にする。  
 
ありえないほどの化学反応。  
さっきまでは決して化合しないはずだったのに。  
でも。  
明日なつみが来たら、俺は……。  
 
(終わり)  
 

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