「とりあえずさ」  
 俺の隣をとぼとぼと歩いていた梨花が云った。  
「うん」  
 俺は応える。なんだか、気が抜けた声で。それはでも、梨花の声も一緒だ  
った。  
「やっとこう」  
「え?」  
「いや。セックス」  
「――っ!? お前何かんがえてっ!?」  
 静かな住宅街に俺の声が思ったより大きく響く。俺は慌てて声を抑えた。  
梨花はなんだか強がるような仕草で胸をそらした。  
「やろう。うん」  
 水銀灯の光が春とはいえまだまだ雪が残るくらい夜道へ、俺と梨花の影を  
長く這わせる。陶子を深夜バスで見送った俺達は、なんとなくそのまま家に  
帰るのも躊躇われて、長々とファミレスで時間をつぶしていた。  
 だから外に出たときはとっくに真夜中を回っていたのだった。  
 俺達は繁華街から俺達の家がある住宅街へとだらだらした道を歩いてきた。  
 一応県庁所在地となってる市だったが、県全体が田舎なのだ。畑も雑木林  
も残る中を、それでも所々にある水銀灯の照らす道を、二人で歩いた。  
 小さいときから何度も歩いた道だ。  
 中学のころは冒険気分で。  
 高校に入れば自転車に乗って。  
 俺と、陶子と、梨花と。  
 ほんの小さいときから一緒だった。散々馬鹿をやった。なんだかずっと一  
緒に馬鹿をしてきたから、それ以外というのが良く判らなくなっていたらし  
い。  
 だから、陶子が東京に旅立ってしまうと聞くと、三人の中でもとりわけ馬  
鹿な俺と、二番目に馬鹿な梨花は、それこそ馬鹿をやるやり方も忘れるほど  
愚かになってしまった。  
 愚かになった俺達二人は、陶子を見送った長距離バスの停留所が見えるデ  
ニーズで、いつもよりずっと冴えない雑談で時間をつぶしていたのだ。  
 
 潰してさえいれば、そのうち陶子が「忘れ物してしまいました。それは青  
春の思い出なのです、はい、ツッコミ待ちであります」なんて云いながら現  
れてくれるんじゃないかとか。半ば本気で思っていたのだった。  
 しかし、馬鹿にはそんな当たり前のことが判らないとはいえ、ごく当たり  
前に陶子は戻ってこなかった。  
 陶子は俺達の中では多少ましな勉強が出来る種類の馬鹿で、やはりそこは  
馬鹿らしいほど一本気に夢のある馬鹿だったために、東京の大学へ進学した  
のだった。本人はそれを武者修行と呼び、絶対に戻ってくるとは云ってたけ  
れど。  
 俺達は馬鹿だったけれど、馬鹿なりの仁義があるので、引きとめようとは  
一回も思わなかった。  
 結果として、深夜のファミレスでうだつのあがらない雑談をする羽目にな  
った帰りが、今の状況だった。  
「え?」  
 俺はもう一回繰り返した。自分でも間抜けな返答なんだろうな、と思いな  
がら。  
「だからさ」  
 梨花はまるっこい愛嬌のある表情に、なんだか緊張したような強がるよう  
な表情を浮かべて、俺に説教でもするみたいに続けた。  
「とりあえず、セックスを、しよう」  
「いや、単語をはっきり区切って発音されても、内容の意味不明さは変わら  
ないから」  
「――なぬ!?」  
 梨花は頭を抱えている。悩んでいるらしい。  
 俺もいい加減に馬鹿なのだが、それは馬鹿騒ぎをするとか、お祭り騒ぎを  
やるとか、悪巧みをして後でばれるという種類の馬鹿であり、自分では知能  
犯のつもりだ。(もっとも陶子にいわせると隙だらけらしいのだが)  
 しかし、梨花は有る意味天然で純正だ。理解不能な時が有る。  
「うん、わかんねー事いうやつだな」  
 梨花は、かなり悩んだ挙句に、いらいらしてきたらしい。それもこいつの  
馬鹿の特徴だ。  
 
「むぅ」  
 梨花は俺に二歩近づく。  
 たったそれだけで、路上の影は一つになってしまう。  
 梨花は俺の胸倉をつかんでいた。俺より頭二つは優に小さい梨花。愛嬌の  
有る可愛らしい顔立ちをショートカットの黒髪が包んでいる。梨花は真剣な  
顔で俺に言う。  
「だから、抱かせてやるって云ってるんだ」  
「遠慮するよ」  
 何の考えもなく反射で言った。だって梨花だから。  
「なぬ!? 乙女の要求を言外に却下!?」  
「言外じゃなく明確に却下だよ」  
 俺は呆れ気味の声で答える。  
「なんでだよ?」  
 梨花の憤慨したような声。胸倉をつかんできてはいるが、小柄な梨花のこ  
と。つかみあげるというような事態にはならない。なんだか、仔狸が怒って  
いるような印象にしかならない娘なのだ。  
「だって、ほら。幼馴染だろう」  
「謝れ! 貴様、四歳で幼馴染と許婚になりそのまま二人で育ってゴールイ  
ンした酒屋の錦坂さんに謝れっ!」  
「いや、誰だよ、それ」  
 小さい胸を精一杯張る梨花。プレーリードッグがふんぞり返ってるみたい  
に見える。  
 どう見てもスペックの低そうな梨花。いい加減胸倉をつかまれるのも飽き  
た俺は、それをもぎ取って歩き始める。梨花はちょこちょこと俺の後を小走  
りについてくる。  
 ああ、そうか。そうだよな。気がついた俺は歩調を緩める。  
 もう俺に注意してくれる陶子はいないのだ。  
「くっそぅ……」  
 俺を説き伏せられなかったのが悔しかったのか、梨花は地団太を踏みそう  
な表情で隣に並ぶ。くるくる変わる表情。こいつを陶子と二人で散々からか  
って、怒り出したこいつから逃げて、三人で馬鹿騒ぎした日々がよみがえる。  
「判ったよっ」  
「判ってくれたか」  
 俺は胸をなでおろす。  
 
「仕方ないな。じゃぁ次の手だ。おい雅人。抱かせろ」  
「判ってねーじゃんよっ」  
 目が本気な梨花を前に俺は途方にくれる。こいつの馬鹿は時に手に負えな  
いな。  
「いや。そう邪険にするな。私はこれでも上手なんだぞ」  
 梨花は至極真剣に云う。こんな話は早々に切り上げたほうがよさそうだと  
俺もわかっているのに、身体に刻まれた馬鹿の遺伝子のせいか、つい突っ込  
みやボケを入れてしまうのだ。  
「何がだよ」  
「セックス」  
「だって、お前彼氏いないじゃん。もちろん今いないという意味ではなく、  
過去に存在した事実がないじゃない」  
「ぐっ。貴様、乙女のコンプレックスを巧みに刺激しやがって」  
 めこりと凹む梨花。基本的には簡単なヤツなのだ。  
「しかし、貴様に云いたいことがある」  
 気を取り直して梨花が言い放つ。ここまで粘るのも珍しいことだ。  
「今流行の駅前留学だって外国へ行くことなく外国語を修練するではないか。  
ゆえに彼氏がいなくたってセックスの練習は出来る! そしてそれを体現し  
たのがお前がまさにいま目の当たりにしている存在、すなわち私なのだっ」  
 ――真性の馬鹿に言葉を失う俺。  
 城址公園の角を曲がって園内に入る。森の丘を越えれば、俺達の住む場所  
はすぐそばだ。丘の上からは市内を見下ろせるし、それにここは、三人で遊  
んだおなじみの場所でも有る。  
「じゃぁ、念のために聞くが」  
「おう、何でも聞いてくれ、雅人」  
「上手な梨花は、どんなふうにセックスするわけさ」  
 梨花は良くぞ聞いてくれたというようににんまり笑った。ああ、聞かなき  
ゃ良かった。聞けば多少は照れて引き下がるだなんて、俺はどうしてそんな  
ことを考えたんだろう。馬鹿だからだな。そのとおりだ。  
「まずはシャワーを浴びるな」  
「ああ、うん」  
 嬉々として説明を始める梨花の言葉を聞き流しながらも後悔がとまらない。  
「で、あがった後バスタオルを巻いて、ベッドに横たわるだろ」  
「ふむふむ」  
 
 おれは自動販売機でコーヒーを買う。梨花には紅茶。聞くまでもなく、全  
部判っている。梨花も話も止めないで、それを受け取る。  
「そうしたら、後は雅人に任せる」  
 ――こけそうになった。  
「馬鹿っ。それじゃ、ぜんぜん上手くないじゃないかっ」  
「むぅ」  
 少し紅くなって黙り込む梨花。自覚があるんだろうか。  
 俺達二人名、低い柵によりかかって市内を見下ろした。眼下に広がるのは、  
昔城があったという石垣、木立、その先には遠い市内。新幹線も通る幾重も  
の線路が遠くまでまっすぐ続いている。  
 風が涼しかった。  
 肌寒いほどだけれど、それが心地よかった。  
 きゅ。  
 俺のシャツの裾を梨花が掴む。  
「なんだよ」  
 梨花はうつむいたまま、じわじわと俺に接近してくる。何かたくらんでい  
るのかと俺はつい警戒してしまう。しかし、梨花は何の仕掛けもなく、ただ  
俺の胸に、おでこをくっつけた。  
「やっぱり陶子のほうがいいか?」  
「――なに言ってるんだ、お前は馬鹿か」  
 俺は言う。何を言ってるんだ、こいつは。  
 そんな馬鹿げたことを。  
 きゅ。  
 シャツを掴む手が緊張して震える。  
「頭をなでろ」  
 天文学的な大盤振る舞いを実施して俺は梨花の髪を撫でる。  
「確かに経験はないが、私は、そのぅ。あれだ……」  
 夜風の中で、ぼそぼそと梨花がつぶやく。梨花の小さな声も珍しい。俺は  
何も云わないで続きを待った。  
「雅人をおかずにしてオナニーしたことがあるぞ」  
――ちょっと待て。何を言い出すんだこいつっ!?  
「あるぞ、というか。かなり多い。頻繁に。しょっちゅうと云えるかも」  
「おま、おまっ」  
「回数か。週に十回くらいだ」  
――そんなことは聞いてねえっ!  
「つまり、一日約1.5回だ」  
――計算して言い直さなくてもいいしっ。  
 
「最初は普通にしてたんだが、最近は途中でやめるんだ。ぎりぎりで無理や  
り止める。止めたままで布団に抱きついてると、切なくて焦れったくて、た  
まらないんだ」  
 おでこを付けたままの梨花の表情は判らない。  
「少し落ち着いたら、また触る。濡れすぎて指が滑りそうになるほどだ。下  
着の上から乱暴に触ることも有る。――でも、やっぱり途中で止めるんだ。  
ぎりぎりで止めて、雅人のことを考える。頭の中がどろどろになって、雅人  
のことしか考えられなくなるまでする」  
 俺は石化したみたいに動けなかった。ここにいるこいつは何だ。とてもじ  
ゃないが、馬鹿2号の梨花とは思えなかった。熱い吐息を乱れさせて、小さ  
な声で囁く梨花の近くにいるのは、たとえようもなく危険な予感がした。  
 危険なだけに痺れるほど魅惑的でもあって、花のような香りのせいで、余  
計に金縛りにあってしまう。  
「イくときは、陶子に謝るんだ。――ゴメンナサイって。謝りながらも妄想  
の中で雅人にいっぱいぎゅーされると、とろけるほど気持ちよくて、幸せで、  
裏切り者の気持ちで、真っ白になる。何回も、何回も」  
 梨花は小さく頭を振った。ショートカットの髪が揺れて、俺の胸におでこ  
がこすり付けられる。その動きだけでぞくりとするほど気持ちよかった。  
「雅人……」  
「うん」  
 恥ずかしいけど、返事をするのに喉に絡まった唾液を飲み込む必要があっ  
た。  
「想像した?」  
「うん」  
 それでも返事は掠れていたほどだ。  
「……ね」  
 冷たい空気の中で俺の胴体に回される梨花の腕。細くてしなやかで、すが  
るような力が込められている。俺の腕の中に押し付けられた体温が鼓動して  
いる。  
 
「セーブが効かないと云うか、歯止め、無くなっちゃってるんだ。私」  
 その理由は問わなかった。  
 ここにはいないもう一人が。  
 その空白が、恐かったから。  
「うん」  
 躊躇う言葉に、重ねられる問い。  
「――やっとこうか、セックス」  
「……」  
「経験はないが、私は、悪くないと思うぞ。雅人が望むこと、何でもついて  
いけると思う」  
「……」  
 抱きしめられたその胸が熱い。梨花の心臓の鼓動は早くて、駄々をこねる  
ようにこつんこつんされるおでこがいじらしくて、俺は反射的に抱きしめそ  
うになるのを必死に我慢してた。  
 梨花の申し出は、正直、かなり魅惑的だった。  
「――それとも」  
 梨花は言葉を切る。その先は、二人が口にしなかったこと。  
 あのくだらない、二人っきりのファミレスで、最初からそこに在ったくせ  
に、一回も触れずに、最後まで宙ぶらりんだったたった一つの話題。  
 梨花を抱くのはひどく簡単で、それは多分破壊的に気持ちの良いこと。  
 そんなのは高校に入ったときから判りきっていたこと。  
「――それとも」  
 梨花は顔を上げる。とろけたような瞳は潤んで、桜色の唇が誘うようにわ  
ずかに開かれる。きゅっ。抱きしめる力がこもる。梨花は柔らかい足を絡め  
るようにこすり付けてきて、俺の結論に無理やり時間切れを押し付ける。  
「わかったっ」  
 俺は残る理性を総動員して、梨花の両肩を掴んで無理やり引き剥がす。  
「……」  
「判った。夏まで準備、そんで、俺も、梨花も。東京へ行く」  
 梨花がはじけるような笑顔になる。  
「ふふん、判ればいいんだよっ。判ればなっ」  
 梨花はばんばんと俺の肩を叩いた。その様子は先ほどまでの蟲惑的な磁力  
とは無縁のいつものさっぱりした馬鹿の梨花だった。  
 
「くそう、卑劣な手を使いやがって……」  
「ふははは。何とでも言うがいい。私の魅力にめろめろなことは明白っ」  
「ちっ。……まぁ、俺も東京には用があるのさ。こっちの雑用はちゃっちゃ  
っとかたして、上京しようぜ。陶子がいないと俺の身が持たないよ」  
 俺はなんだか生命の危地から逃げ出したような安堵感で、缶をごみ籠に投  
げ入れると、高台に背を向けた。  
 仕方ない、こういう結論か。そんな気はしていたんだ。  
 愚痴のように心の中でつぶやく俺の気持ちは軽かった。  
 やっぱり、三人じゃないとしまらないよな。  
「ああっ。貴様、先に行くとはっ!」  
「決まることも決まったんだ、さっさと帰ろうぜー」  
 俺は木立の中の下り坂に歩を進める。  
「勝負は陶子を混ぜてからまでお預けだな」  
「へ?」  
 いつもみたいに小走りで追いかけてくる梨花の言葉は、だから俺の耳には  
入らなかった。  
「焦らされるのは慣れてるんだ。頭がとろとろになると、後が癖になるほど  
気持ちいいから」  
 体当たりみたいにしがみついて来る梨花によろけて、叱り飛ばして、二人  
で笑いあった。足りないピースを求めて、追いかける。  
 夏には東京へ。  
 馬鹿には仲間が必要なんだ。  
 

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