「おい。起きろ」  
 腹に鈍い痛みが走る。  
「しね」  
 俺が薄目を開けると、そこには妹の梓が俺の腹に足を乗っけていた。  
「実の妹に向かって死ねは無いだろ!!」  
「兄貴の腹にかかと落としする妹は死んでもいいと思うんだ」  
「兄貴が起きてこないからだろ。昨日、車だしてくれるって言ったじゃねぇか!」  
「あ?今何時」  
「12時半」  
「結構寝たな」  
「寝すぎだ」  
 ふわぁ。さすがにここしばらく忙しかったからな。  
 この春大学進学した俺と、高校受験を控える妹。  
 俺が免許をとってからと言うもの、便利なタクシーとして使われている。  
「じゃあ、5分待て」  
「わかった。二度寝するなよ」  
 はぁ。昔は可愛げもあったんだけどな。  
 最近はバンドをやって髪を染め、痛々しいまでの棘や革のファッションを身につけている。  
 そのバンドの仲間の一人と付き合ってるとかも聞いているし、てか買い物ならそいつと行け。  
 
 最近の兄貴は変だ。  
 昔は地元の学生に怖がれてて、喧嘩だってよくやってた。  
 大河さん!って呼ばれて舎弟だっていっぱい居たのに。  
 けど、高校3年になって急に勉強を始めやがった。  
 親が言うには元々頭はよかったらしく、勉強の遅れも簡単に取り戻した。  
「準備出来たぞ」  
 俺にもこんなに優しくはなかった。  
 俺の憧れてた兄貴はもう、どこにも居ない。  
「今行く」  
 前に兄貴と一緒に歩いていた綺麗な人。  
 やっぱり、兄貴はその人のために大学受験をしたんだろうな。  
 
「今日はどこに行けばいい」  
「まずは、いつもの楽器屋と駅前のデパート」  
「はいはい」  
 梓は助手席を倒し、ガムを噛みながら外を見ている。  
 タバコを吸ってないだけましだが、もう少し年相応の格好をしてもらいたいものだ。  
「なぁ」  
「ん?」  
「高校行くのか?」  
 口に含んでいたガムを外に向かって吐き出す。  
 勉強の話しになるといつもこれだ。  
 中学に入った頃はちゃんと勉強をしてた。テストだってトップクラスだ。  
 けど、今は勉強しているそぶりを見たことが無い。  
「行きたくなったら行く」  
「そっか」  
 俺の胸ポケットから軽快なメロディーが鳴り響く。  
 携帯から鳴るこの曲は。  
「もしもし」  
『おはよう。ねぇ、今日は暇?』  
「ごめん。妹の買い物付き合うことになってんだ」  
『夜は?』  
「空いてるけど」  
『じゃあ』  
「いつもの店だな。了解」  
 俺は電話を切る。  
 梓が俺の方をジト目で見ていた。  
「なんだ?」  
「なんでも・・・大学の人?」  
「あぁ。同期のヤツ。結構いいヤツなんだ」  
 
 兄貴はそんなことを言う。  
 いいヤツ?彼女なんだって言えよ。いつもの店ってなんだよ、ラブホだろ。どうせ。  
「機嫌悪くないか?」  
「いつものこと」  
「そうか?っと、この店だったな」  
 俺がいつも来ている店。  
 よく弦を買ったり、ギターのチューニングに来たりする。  
 今日は新しいスコアが入ったと言うから見に来たのだ。  
「あれ。兄貴も来るのか?」  
「あ?ダメか?」  
 兄貴がココに入るなんて珍しい。  
「別に」  
 自動ドアを抜けると、まずは大きなドラムが出迎えてくれる。  
 このドラムはディスプレイ品で売り物じゃないって言ってたな。  
「お、梓じゃないか」  
 店でディスプレイを見ていた男が俺に声をかける。  
 げ、なんでこいつが。  
「あれ。君は」  
「あ。梓のお兄さん。はい、梓とバンド組ませてもらってる」  
「須加健太くんだっけ?」  
「覚えててくれたんですか、嬉しいなぁ」  
 ったく。兄貴も無駄なことを覚えてるな。  
「伝説の大河さん名前を覚えていてもらえるなんて。くぅ」  
 こいつはこいつで何身悶えしてるんだが。  
 確かに兄貴はすごい人だったけど。  
「おいおい。大げさだ」  
「いえ。あ、そだ。俺、梓と付き合わせてもらってます。これからよろしくおねがいします」  
 何をどうお願い・・・何!?  
「ちょっと待て!何で俺がお前と付き合ってるってことになってるんだよ」  
「はは。梓も照れるな。そうか。ま、あんまり無茶はするなよ。俺も人のことは言えないけどな」  
「はい!!」  
 
 楽器屋を出てから梓の態度がさらにおかしくなった。  
 後ろに須加くんを乗せているのが気恥ずかしいのだろうか。  
「大河さんって、もっとすごい車に乗ってるかと思いましたよ」  
「そうかい?」  
「えぇ、もう、びゅんびゅんに飛ばして」  
「いやいや。俺ももう大学生だからね」  
 俺へ別に暴走族でも走り屋でもない。それに、そういうことは高校で卒業したのだ。  
 にしても、俺が軽自動車に乗ってるのってそんなに変かな?  
 他愛ない会話をしながら俺はデパートの駐車場に車を止める。  
「んじゃ、後でな」  
「え?兄貴は一緒じゃないの?」  
「俺は本でも見てるよ。買い物終わったら電話くれ」  
 俺はどうやら梓に嫌われてるらしいし、ここで少し二人っきりにさせてやるか。  
 
 行きやがった。俺とこいつを残して。  
「そんじゃ、買い物行こうぜ」  
 俺は兄貴と行きたかったんだ。この馬鹿が!!  
「にしてもさ。がっかりだぜ」  
「は?」  
「大河さん。もうすっかり牙の抜けた虎っていうか、ただの真人間じゃん。つまんねー」  
 なんでアンタにそんなこと言われなきゃなんないんだよ!!  
 兄貴は。兄貴は・・・そう、なんだよな。  
「どうした?拳握ったり脱力したり」  
「なんでもない」  
「こんなんじゃ、大河さんの妹の恋人って肩書きも意味ねぇかなぁ」  
「は?何言ってるのあんた?」  
「そのままの意味だよ。大河さんがバックに付いてるって箔がつくだろ」  
 俺は気づいたら健太を殴り倒していた。  
「はぁはぁ・・・その性根、気にくわねぇ!!」  
「ってな。何しやがる!!」  
 顔に鈍い痛み。グーで殴るかフツー  
「結局、アンタは!強いものがいなきゃ!!何にも出来ないんだろう!!!」  
 健太は激しく吹き飛ぶ。  
 兄貴に憧れて俺だって鍛えてたんだ。同世代の男になら負けねぇ。  
「ふざけんな!!てめぇみてぇな男女、大河さんがいなきぇぶは」  
 健太の顔が踏み潰される。  
「兄貴」  
「俺のことはどう言ってもいいけどよ。梓を貶すヤツは許せねぇ」  
 兄貴の眼。嘘・・・憧れてた頃のあの眼だ。  
 って、やばい。健太、死ぬかも。  
「ちょ、兄貴。俺は大丈夫だから。な、ほら」  
「アザになるな。梓。こいつを車に積み込め」  
「え?な、なんで」  
「ここじゃ人目がありすぎるからな」  
「ひっ」  
 健太が兄貴に睨まれて後ずさる。  
「もういいよ。兄貴、こんなの置いといて帰ろう」  
「・・・そうだな」  
「健太。みんなに言っといて。俺・・・私はもうバンドとか止めるって」  
 
 帰り道の兄貴はずっと無口だった。  
 怖い顔のまま。  
 ずっと憧れていたはずなのに、今はすごく怖い。  
「あに・・・お兄ちゃん」  
 そうだ、昔、私はずっとお兄ちゃんって呼んで。  
「・・・ぷ。あははは。今のお前にお兄ちゃんって呼ばれるとなんかむず痒いな」  
「あ、兄貴?」  
 その表情は一転して馬鹿笑いを始める。  
 いつもの兄貴の顔だ。  
 あれ、なんで。憧れてた顔じゃなくて、今の顔の方がほっとするんだろう。  
「お前はそれでいいよ」  
 頭を撫ぜられる。  
 そういば、昔にも同じようなことがあった。  
 私が喧嘩してて、兄貴が助けてくれて。  
 その時も兄貴がこうして頭を撫ぜてくれた。  
「ごめん」  
「気にするな。俺こそ、昔は馬鹿やってたからな。俺のせいで誰かが傷つく日が来るんじゃって思ってた」  
「えっ」  
「一度あっただろ。お前が俺のせいで不良に囲まれたこと」  
 あったけど、でも。あの時は兄貴が守ってくれて。  
 そっか。兄貴は牙が抜けてたんじゃない。隠してたんだ。  
 自惚れていいのかな・・・私を守るためだって。  
「好きな人のため?」  
「え?あぁ、まぁ。好きと言えば好きかな」  
 じゃあ、違う。きっとあの人だ。  
「今晩、会う人?」  
「は?」  
「だって、前に見たよ。一緒に笑って歩いてるところ。クレープを食べながら」  
「今晩会うって。雄一のこと?あ、クレープ・・・あはは。それ、去年の夏だろ」  
「え。うん。雄一?」  
「男だよ男。あの時は髪長くしてたからな、アイツ。女顔だし」  
「嘘」  
「嘘ついてどうするんだよ」  
「じゃあ、誰のため。誰のために喧嘩をやめたの?」  
 けど、兄貴は何も言わなかった。  
 
「お兄ちゃん」  
「・・・梓?」  
 夜。出かける準備をしていた俺の部屋に梓がやってくる。  
 髪を黒く染め直し、化粧も装飾もしていない。  
 着ている服も俺が前にプレゼントした普通の女の子の服だ。  
「この格好なら・・・変じゃないよね」  
 言葉遣いも元に戻し、どこからどう見ても普通の女の子。  
「答えて。誰のために喧嘩を止めたの」  
 昼間と同じ質問。  
 答えていいのだろうか。  
 けど、答えると今の関係が崩れてしまいそうだ。それも、最悪な形に。  
「私のため?自惚れていい?お兄ちゃんが好きなのは私だって」  
 梓が俺に抱き付く。  
 腰に手を回し胸に頭を預ける。  
「私はお兄ちゃんが好きだよ。ずっと、ずっと好きだったの。強くていつも守ってくれたお兄ちゃんが」  
「俺は」  
 梓を抱きしめてしまう衝動を力ずくで押さえ込む。  
 そして、天井を見て呟いた。  
「俺は梓が好きだ。けど、それは女としてじゃない。妹としてだ」  
「・・・お兄ちゃん」  
「誰だって家族が傷つくのは見たくないだろ。だから、喧嘩を止めたんだ」  
 梓の体を引き離す。  
 その眼からは大粒の涙が流れていた。  
「ごめんね・・・変なこと聞いて」  
 梓が部屋を出る。  
 これが正しいはずだ。世間一般的な常識を重んじれば。けど、本当にこれで。  
 

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