結局、多島に促されたような形で瞳と練習をすることになった。  
「練習、どこでする?」  
 いつものように一緒に下校しているさなか、瞳が訊いて来た。  
「まあ、俺の家かお前の家のどちらかだろ」  
 他に練習出来そうな場所も思い浮かばないし。  
 うーん、と、口元に人差し指をやり考える瞳。  
「そうだね……。じゃあ、私の家にしない?」  
「ん、俺は別に構わないけど、どうして?」  
「しばらくの間、お父さんもお母さん家にもいないの。だから静かだし」  
 両親がいないという言葉に、思わずどきりとする。俺も青少年だし、それくらいの反応はするさ。  
尤も、いつもと何一つ変わらない幼馴染の様子を見ていると変な妄想なんて消え去るんだけど。  
「おじさん達、出かけてるのか?」  
「うん。そろそろ結婚記念日だから、今年も二人で出掛けてくるって言ってた。  
一週間くらいで帰ってくるって」  
「……そりゃまた、仲のよろしいことで」  
 相変わらずだな、と俺は苦笑する。  
同時に、今になっても衰えないその愛情の深さに感心した。  
俺もいずれ結婚したらそんな風になってみたいもんだ、とちょっと思う。  
恥ずかしいけどさ。でも、それが幸せならいいだろ?  
 
「で、私の家でいいのかな?」  
 それで構わん、と頷く。  
 まだ日は高く、それでも夕方の空気を漂わせるいつもの河川敷を歩いて、  
俺達は瞳の家に向かった。  
 
「ただいま」  
「お邪魔します」  
 ガラガラという引き戸の音を背に、俺は慣れ親しんだ幼馴染の家に上がり込む。  
瞳の家は純和風といった感じで、部屋の殆どは和室、  
当然部屋の仕切りはふすまになっている。  
それでも台所と瞳の部屋だけは改装したらしく、その二つの部屋だけ現代風という、  
微妙にミスマッチな風景だ。今更違和感は感じないけど。  
 
「そういや、瞳の家に来るのは久々だな」  
 ここ一、二年くらいはこの家の中に入った記憶はなかった。  
ここ最近、どっちかの部屋に集まるって場合は、エアコンありPCありで快適便利だってことで、  
もっぱら俺の家だったし。  
「そうだね。あ、何か飲み物持って行くから、先に私の部屋に行ってて?」  
「ああ、分かった」  
 台所の方に行く瞳に応えて、45度近くの角度なんじゃないかという階段を上り、  
きぃ、とドアを開ける。  
 久々に見た幼馴染の部屋は、以前見た時とあまり変化はないようだった。  
大きな窓に薄い緑のカーテン、勉強した痕跡が見られる机、漫画と小説と参考書が並ぶ本棚、  
質素なシングルベッド、小さなガラステーブル。  
記憶に無いのは、PCが置かれた机とエアコンくらいなもんだ。  
 
 ガラステーブルの前で腰とバッグを降ろし、その中から先程渡された台本を探して取り出す。  
さてどうしたもんか、と思いつつぺらぺらとページを捲っていると、  
とんとん、という階段を登る音が僅かに聞こえる。  
その音はこの部屋の前まで来て、そして止まった。  
 やれやれと思いつつ立ち上がる。  
「……えーく――わ!」  
 扉の向こうにいる少女が声を発するのと、俺が扉を開けたのはほぼ同時だった。  
「あ、ありがとう」  
 自分が丁度望んだときに扉が開いたことに驚いたらしく、俺に礼を言いつつも、  
目は軽く見開かれていた。  
「分かりやすい奴だ」  
「え、何が?」  
 まあ、昔からの付き合いだと分かるもんだ。  
飲み物や菓子をトレーに載せてここまで来たはいいものの、当然それは両手に持っているわけで、  
開けられない扉を前にして困りあぐね、じゃあ中にいる少年に開けて貰おうと声を掛けようとした――  
そんなとこだろう。あっさり予想できる。  
「つーかさ、一旦、両手に持ってるもんを床に置いてから扉開けりゃいいだろ」  
「……あ、そっか」  
 俺は苦笑する。  
普段はしっかりしているくせに、たまにどこか抜けた様子を見せる。  
その辺はやっぱり相変わらずなんだ。  
 
 しゃーっ、しゃーっというペンを走らせる小さな音が部屋に響き渡る。  
「じゃあ、取り敢えず自分の台詞のとこだけ蛍光ペンか何かで線でも引いておこう?」  
「そうだな」  
 つい先程そんな会話をして、今現在俺達はその台詞通りの行動をしていた。  
こうした方が確かに分かり易いし。  
 大した会話もせずに、黙々と線を引く。  
「……え」  
 お互いもうそろそろクライマックスというところまで線を引いたところで、瞳からそんな声が漏れた。  
「どうかしたか?」  
 瞳の方は向かずに、声だけで問う。  
「……え」  
 ――が、返答を聞く必要は無かった。恐らく同じであろうところで、俺の筆は止まる。  
何故なら、そこに書かれていた一文が目に留まり、驚いたからだ。  
 俺の視線の先には、こう書かれている。  
 
『ここで王子と姫、口付け』  
 
 口付けなんていう少し古めかしいような感じに書かれているが、要するにキスだ。  
俺も瞳も先程は多島に感想を急かされたのもあって、全体の半分程度しか読んでなかったため、  
終盤のこの一文には気付かなかった。  
 それにしても、キスだって?  
「……マジかよ」  
 するのか、劇中に?  
 確かに王子とお姫様のお話っていえば、白雪姫あたりを思い出す人は多いだろうし、  
そのお姫様が王子のキスで目を覚ますっていうのも連想されるだろうさ。  
劇でやるなら、そういうシーンの一つでもあった方が盛り上がるだろう。高校生なら尚更だ。  
 問題なのは、俺がその当事者ってことだ。  
 見れば、向かい側に座っているもう一人の当事者は、ペンを不自然な位置に持って固まっている。  
「………………きす?」  
 唯一石化の状態異常になっていないらしい口で、それだけを紡ぐ。  
 さてどうしたもんだろう。キスって。それ、やらなきゃならないのか。  
「……いやいやいやいや。別にキスするフリだけでもいいんじゃないか?」  
「……え、あ、そっか」  
 俺が言った言葉が状態異常・石化を直す呪文だったらしく、はっとしたように動き出す。  
それにしても、このくらいで顔を真っ赤にするとは、純情な奴だと思う。  
「……フリ、かぁ」  
 ふと、どこか感情のない表情で、瞳がそんなことを呟いた。  
「何だ?」  
「あ、う、ううん、何でもない」  
 俺が問うと目の前の少女は、慌てたようにふるふると首を振る。  
あからさまに何でもなさそうにないが、わざわざ聞き出すこともないだろうと、  
そうか、とだけ答えた。  
 
「じゃ、じゃあ、ちょっと合わせて朗読してみない?」  
 まだ微妙に慌てたままの瞳に、俺は頷く。  
「そうだな、やってみるか」  
 
「ああ、愛しき姫よ。魔女の呪いがあなたに降りかかるさまを、私はただ見ているしかないのか」  
「どうか気になさらないで。これも私のさだめ。甘んじて受け入れるしかないのです」  
 ほぼ棒読みによる朗読。  
 しかし、恥ずかしい。どこかのステージの上での練習ならまだ気分も出るだろうけど、  
明らかな日常の象徴がいくつも存在する部屋で、しかもただ座りながらこんなことを喋っていると、  
ほんとに恥ずかしくてしょうがなかった。  
「私は決して諦めはしない。魔女を討ち倒し、必ずやあなたを永遠の眠りから救ってみせよう」  
 その上台詞自体も恥ずかしさ一杯のオンパレードだ。  
にやにやしながら台詞を打ち込む多島の顔が目に浮かんだ。くそ。  
 
 
 なんとか羞恥心に耐え、最後まで朗読を終わらせる。ああしんどかった。  
「……これをステージで演じろってのか」  
 思わず溜息が漏れた。今から憂鬱になってくる。  
「ちょっと恥ずかしいかもね」  
「ちょっとなもんか」  
 致死量に達するほど恥ずかしいわ。  
「主役だから、しょうがないよ」  
 それはそうなんだけど、今ひとつ納得がいかない。  
この不満は明日、多島にでもぶつけてやると誓う。  
 
「じゃあ、今日はこんなところでいいかな?」  
「そうだな」  
 もう日も沈んで、夜になる直前って感じだった。  
俺と瞳の関係だからあまり気にすることはないとは思うけど、そろそろ帰った方がいいだろう。  
「そんじゃ、俺は帰るよ」  
「うん。気をつけてね」  
「家は隣なんだから、気をつける暇すらねーよ」  
「あはは」  
 言いながら俺達は、踏みしめる度にぎしぎしと音がする階段を下り、玄関口に向かう。  
「じゃあ、また明日」  
「うん」  
 靴を履いて瞳にそれだけ言って、玄関の引き戸に手をかけ、  
「あ、そうだ」  
「どしたの?」  
「おじさん達、しばらくいないんだろ? 何かあったら連絡しろよ」  
 これを言い忘れていた。  
 まあ何もないとは思うけど、それでもおじさん達がいないってことは、瞳は数日間ここに一人なわけだ。  
年頃の女の一人暮らし(期限付き)となれば、さすがに心配にもなる。  
「すぐ来るからさ」  
「うん。……ありがとう」  
 にこ、と微笑んで瞳が言う。  
「……ん」  
 少し返答に焦り、それだけを答えて、俺は瞳の家を出た。  
 
 さっきの笑顔に、少しどきっとした。  
幼馴染の俺が言うのもなんだけど、やっぱりあいつは可愛いよな。  
今まで誰とも付き合ったことがないっていうのが不思議なくらいだ。  
 いや、中学時代に何度か告白はされていたって話は聞いたけど。そして、それを全て断っているとも。  
女あさりに精を出していた俺とは随分な違いだ。まあ、精を出していたって言ったって、  
俺に彼女が出来たのは一回だけで、それもキスまでしかいかなかったけどさ。  
 ふと考える。あいつに恋人が出来たら。  
幸せそうに笑う瞳。その隣にいる誰か分からない男。  
きっと手を繋いで、キスをして、その先の行為もするだろう。思わず、その情景を想像する。  
「……あー」  
 何故か、心にもやもやしたものが僅かに浮かんできた。  
何だ、俺は。瞳が幸せにしている光景に嫉妬でもしたのだろうか。  
「……情けねえ」  
 自分がよく知る奴が幸せになるなら、それに越したことはない筈なのに。  
 軽い自己嫌悪を抱きつつ、徒歩10秒の我が家への道を、月明かりと無機質な電柱が照らす光を頼りに  
のたのたと歩いた。  
 
 

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