彼女らしくもなく顔を俯かせて、真琴は凛の後ろについていた。  
 
「2800円になります」  
 
 レジの店員から言われた凛は口を開かないまま、真琴の方を向いて手を差し出す。  
 一秒後になってようやく意味を悟り、真琴は千里から渡された、現金の入った封筒を手渡す。  
 
――どうして、こうなったんだっけ…  
 
 漱石さんを三枚取り出す凛の横で、真っ赤になった真琴は昼の出来事を思い出していた。  
 
                     -*-+-*-+-*-  
 
 月曜日の六校時はホームルームの時間だ。議題はもちろん、だんだんその時期が近付いてきた文化  
祭についてである。  
 
 黒板の前では千里が、各役職について説明をしていた。事前に内容を知らないと不可能なほどスム  
ーズな、しかしながら皆がついていける適度な速度の説明だ。  
 こんな時、真琴はこの親友の凄さを実感する。  
 決して堅い人間では(真琴の経験上)ないのに、こういう時には妙にしっかりしてクラスをまとめ  
ることができる―それが、真琴にはない千里の美点だ。後輩を含めていろんな生徒に慕われるのも、  
このような所が一因なのだろう。  
 尤も真琴は本人から既にいろいろ聞いていたので、特に注意して耳を傾けてはいなかったが。  
 
(…あ、動いた)  
 
 もぞもぞと肩が動く。  
 突っ伏した頭も少しだけ机から浮く。枕にしていた左腕が痛くなったのだろうか、今度は右腕を頭  
の下に敷いた。  
 そして腕の柔らかい位置を探し当て、再びピクリとも動かなくなる。  
 また眠りこんだのだ。  
 
 このように真琴は相変わらず、凜の観察を続けていた。  
 今日も彼は、いつもと変わらなかった。授業で当てられこそしなかったが、休み時間には何を言う  
こともない。昼食の時も先週垣間見た笑顔どころか、初めて自分に話しかけてきたあの穏やかな顔す  
ら見せない。ましてや、話しかけてくることもなかった。  
 
 どうしてあの公園では、あんな優しい顔をしたのか。何であの顔を見せないのだろう。  
 もしかして、あの時捨て台詞を言って走り去った私を怒っているのだろうか…  
 
 そんなふうに考えたもしたが、どうもそれはなさそうだ。もしそうなら行動に何らかの変化があっ  
てもいい。だが、そんなことは全くない。無言かつ無表情が、いつもどおりに貫徹していた。  
 このように凜の様子は至って平常である。  
 
 が。  
 
 真琴の視線は、今までとどこか違う。  
 心の中では、肯定と否定が入り交じっていた。  
 
 あの鳩たちの舞う公園で、真琴は神谷凜の、普段の無表情からは想像もできない姿を目撃し―そし  
て恋に落ちた。  
 どうしてそんないきなり、と真琴自身考えたが、凜を見たあの日、熱と動悸と、そして記憶の反芻  
は夜までその身を苛み続けたのだ。もうこれは、疑いようもなく、恋だった。しかも、初恋というお  
まけ付きの。  
 
 だからこそ問題なのだ。  
 
 今まで普通に、それも何の関わりも持たずただクラスという空間を共有していただけの少年に、ど  
うして恋愛感情が、しかも真琴にとって初恋と呼べるものが、生まれうるのか。  
 以前千里にも言っていたように、彼については決して良い印象を抱いていなかったはずだ。それな  
のにあの日あの光景を見ただけで、どうして彼に胸を熱くさせられるようになってしまったのか。  
 彼は、その隠された姿を見せられた今でも彼はまだ、真琴の中では無口で無表情な、暗そうなイメ  
ージの少年に過ぎなかったから。  
 だから、たとえ実際にその姿に胸を貫かれたとしても、真琴はそれを素直に認めること  
ができなかったのだ。  
 
――どうして、こんなことになったんだろ…  
 
 真琴は凜から視線を外し、彼と同じように机に突っ伏した。心の中のため息が、口から出てきてし  
まいそうだ。  
 
――それもこれも、全部アイツが…  
 
 凜の『あの』姿と、普段の無表情な顔が同時に思い浮かぶ。  
 なんで、学校でも同じように振る舞わないのか。  
 もし、そうであるならば、素直に好きでいられるというのに。  
 
――そう! みんなアイツが悪いのよ!  
 
 だんだん、むかむかしてきた。  
 
 それまでと総合して、その顔はまさに百面相状態だ。隣の女子にクスクス笑われているのだが、真  
琴は気付かない。  
 そして、二本のチョークを持った千里が、キラリと目を光らせたのにも。  
 
――どうして私がこんなに、悩まなきゃならないのよ…!  
 
 …思考できた時間は、それまでだった。  
 
「そこぉっ!」  
「きゃぅっ!」  
 
 投げられた二本のチョークのうち一本が、真琴の額の真ん中に見事に命中したのだ。  
 頭の中にコーンと小気味の良い音が響き、硬いものをぶつけられた時に特有の、骨の内からくるよ  
うな痛みが襲う。結構力を入れて投げたのだろう、かなり痛い。  
 
「はい、じゃあ今日の買い出しは、居眠りしてた神谷クンと、ぼけっとしてた真琴に決定しました!  
 ということではい! これお願いね!」  
 
 おでこをさする真琴に、歩いてきた千里はにこにこ顔で現金とメモの入った封筒を押し渡す。  
 
「ええっ、ちょっ…「じゃ、そーいうことで。誰か異議あるー?」」  
「「「異議なーし」」」  
 
 千里が振り返ってクラス全員に聞くと、一糸乱れぬ返事が帰ってきた。目的の品のあるデパートが  
かなり遠いため、皆行きたくないのだ。  
 真琴は異議を唱えようとして…諦めた。ぼーっとしていたのは事実だし、何より四十対一では勝  
ち目がない。  
 
(はぁ、しょうがない… …ん?)  
 
 真琴は千里の言葉を思い出し、思考が方向転換する。  
 
(い…今…確か……)  
 
 面倒な仕事をさせられる沈んだ気分から、真琴は一気に驚きに包まれる。  
 聞き間違いでなければ今、千里は確かに。  
 
「ね、ねぇ千里…今、なんて……?」  
 
 恐る恐る、真琴は尋ねる。  
 
「だから、買い出しよ買い出し。あ、お金とリストはその封筒に入って…」  
「そ、そうじゃなくて…私の他にもう一人、呼んだでしょ?」  
「へ? ああ、神谷クンならもう向こうにいるよ?」  
 
 事もなげに言う千里に反してクラスのほとんどが、がばっと振り返った。皆、明らかなリアクショ  
ンのあった真琴に気を取られていて、何の反応もなかった彼のことを忘れてしまっていたのだ。  
 真琴も同様に振り返る。額に赤い痕をつけた凜はもう、教室のドアに手をかけていた。  
 そして、行こう、とでも言わんばかりにちらりと視線を向ける。かと思うと、そのまま教室を出て  
いってしまった。  
 
 途端、爆発的な騒ぎが始まった。  
 
 彼のいなくなった教室は、唐突にざわめいた。ある者は指を口に当てて笛を吹き、またある者  
は隣の生徒に大声で話し掛ける。教室じゅうが大騒ぎだった。凜が他人に意識を向けて明確な合図を  
送るのが、それほどに驚くべきことだったのだ。  
 
 紅潮しながら、真琴は狼狽した。  
 
(こ、これって、ほとんど…で、デートなんじゃ…)  
 
 帰り道にラ・フルールに寄ったことはあっても、男の子と二人で出かけた経験などない。どう反応  
したらいいのか皆目見当もつかない。  
 下手に喜びが顔に出てしまっては大変だ。また千里あたりに、何を言われるかわかったものではな  
い。しかし、顔はもう、自分でもわかるほどに熱を持っている。どうしようどうしようどうし…  
 
「デ・ェ・ト!」  
 
 思考がショートしかけていた真琴は、どこかから上がったその発言にピシリと固まった。  
 直後、赤い顔が更に色を増し、トマトのようになっていく。  
 
「(・∀・)ο彡゜デ・ェ・ト!」  
「(・∀・)ο彡゜デ・ェ・ト!」  
 
「う、うるさい! ち、ちがう! ちが…」  
 
 真琴は必死に否定して見せるが、もはや説得力などありはしなかった。どこかの誰かが点けた火は  
勢いを増し、男子全員に広がっていく。  
 終いには男子だけでなく女子の大半までもが参加して、一致団結した大合唱となってしまった。完  
全にシンクロした腕の振りが、クラスのノリのよさをよく表している。  
 
「(゜∀゜)ο彡゜デ・ェ・ト!」  
「(゜∀゜)ο彡゜デ・ェ・ト!」  
「(゜∀゜)ο彡゜デ・ェ・ト!」  
 
「…こ、こら! ま、待ちなさいよ!」  
 
 あまりの恥ずかしさに耐え切れず敗北し、真琴は言い返すこともできないまま、慌てて教室を飛び  
出した。  
 
                     -*-+-*-+-*-  
 
「…な、なにか話しなさいよ…!」  
 
 耐え兼ねて、足を止めた真琴は俯いたまま言う。  
 凜は振り返らずに立ち止まった。  
 立ち止まったのは、真琴や凜の家の近く。誰もいない住宅地域の一画だった。  
 一時間前から空はだんだん赤を増してきている。もう一時間もすれば完全に陽は沈み、赤は深い青  
になり―やがて闇色に染まるだろう。  
 赤い空の光は真琴に注ぎ、黒い髪を包みこむ。真一文字に結んだ唇も、上げられずに伏せた顔も、  
その空色に染まっていた。  
 
 真琴は凜のすぐ後ろをついて、デパートを出てからずっと歩いてきた―凜と同様、一言も発さず。  
 そう、凜は今まで、真琴が後ろをついてきても何も言わなかった。いつも教室でそうであるように  
後ろを振り返ることもしなければ、買い物の内容をもとに話を振ってくることもしないでいた。  
 真琴には、それが耐えられなかった。  
 無言で歩くことに、嫌気がさしたのではない。  
 他のクラスメイトと同じように扱われたくなかったのだ。  
 凜はもうすでに、真琴にとって『特別な人』になりかけて、いや、なってしまっていた…自分では  
まだその気持ちに素直になってはいないが、特別な淡い想いを寄せる、ただの同級生ではない人に。  
 だから、彼が自分の前でも他の女の子と同じように振る舞うのが、嫌だった。  
 
 勝手な話かもしれない。しかし、真琴にとって凜が―正直に認められないにしても―想い人である  
のだから、凜から見た自分がたとえ想い人とまではいかなくても、他の人とは違う存在であって欲し  
い―ただ一人、おそらくただ一人クラスの中で「あの光景」を見た真琴は、そう思うようになってい  
たのだ。  
 
 下を向いた真琴の目に、長くのびた影法師が映る。  
 それが靴とアスファルトの摩擦音とともに動く。  
 赤く染まった道路の上で、影色の足が右と左を入れ換えた。  
 凜が振り返ったのだ。  
 
「…君は」  
 
 何の前触れもなく唐突にかけられた言葉に、真琴ははっと目を見開いた。  
 そして顔を上げ、彼の双眸が自分の姿を捉えていることに気付く。  
 
「な、なによ……」  
 
 いつもの覇気はなかった。  
 夜の色の瞳。  
 その視線に、貫かれているような気がして。  
 金縛りにあったかのように、力が入らず動けない。鼓動の高まりだけが、耳に届いていた。  
 凜の唇は、彼を直視したまま硬直する真琴に更なる言葉を紡ぐ。  
 
「…いつも後ろから感じた視線は、君だったのか…」  
「なっ!」  
 
 弾かれたように、心臓が跳ね上がる。  
 彼に気付かれていた事実への驚愕と恥ずかしさとで、真琴の顔が空よりも赤く焼けていく。  
 
「ち、ち、ちが…」  
「俺は」  
 
 切り返した否定の言葉は、最後まで続けられなかった。  
 凜は表情一つ変えずに、言った。  
 
「…どうやら、君に興味があるらしい」  
 
 猛烈な勢いで、思考が渦を巻き始めた。  
 観察していたのに、気付かれていたなんて。いつから気付いていたのか。そんな素振りは全然なか  
ったのに。そんな。なんで。どうして。どうしよう。  
 それに興味があるってまさか。いや違う、期待しちゃだめだ。自分と同じ意味のはずがない。  
 
 …それでも。  
 
――どうすればいいんだろう。  
 
 私は、何て言えばいいんだろう。  
 
 …嬉しさが、こんなにこみあげてくるなんて。  
 
 驚愕と羞恥と狼狽と、そして抑え切れない喜びが、炸裂したように心のなかに広がっていく。  
 
「呼び名を決めたい……君の友人と同じで、『真琴』で…」  
「そん、そ、そ、そんなの、知らないわよ……好きになさい…」  
 
 ついに名前まで呼ばれて、真琴の顔は完熟した林檎のようになってしまった。  
 
 名前を呼んでもらえて、ちょっと特別な扱いをされる。それだけかもしれない。  
 
 ひょっとしたら、彼は全くそう思っていないのかもしれない。  
 凛の心のなかは、未だに真琴にはわからないけれども。  
 
 それでも今この瞬間、少しだけ凜の『特別な人』になれたと、そう思えて――  
 
 
 空の赤と蒼だけが、二人を照らしていた。  
 

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