濡れ鼠になった凜が、真琴を抱き止めていた。
恐らくは顔面、あるいは頭から被ってしまったのだろう。髪は濡れて纏まり、ぽたぽたと雫を
落としている。
全ては今凜に腕を掴まれて硬直している、真琴が原因だった。
「ご……ごめ………」
もしこのような状況下でないなら、真琴は赤面して暴れるか、大人しくなるかの二択だったろう。
だが真琴にしては珍しく、謝る素振りを見せる…全面的に自分のせいだったと、解っているからだ。
放課後手伝うことになっていた、生徒会室の掃除。雑巾のための水をバケツになみなみと満た
して運んでいる最中…転んでしまった。
それを腕を引いて止めてくれた凜がバケツの水を被ったのは、偶然の悪戯だったのか…
「………」
凜は沈黙を保った。
水で不自然に纏まった髪を払おうともせず、真琴の腕を引き寄せたまま時が止まったように
固まって。
真琴を非難することもなく、ただ視線を投げるばかり。逆に、真琴の焦りと不安を増していく…
…手が離される。
「…………?」
ようやく行動を見せた凜は、次いで真琴を指さし。
一瞬後になって、真琴は意味を悟った。
「え、あ、私は、全然大丈夫……」
つまりは、水がかからなかったかを聞きたかったらしい。
「…! …なら……いい」
それは正解だったらしい。
真琴が告げると凜は一瞬驚いたような表情を見せた…ものの、それはすぐに消え去る。
言葉を終えると、凛は踵を返した。
慌てたのは真琴だ。
「あっ……ちょ、ちょっと待って…どこ、行くのよ」
「……帰る」
凜は事もなげに言う。
相変わらず言葉からは感情が読めない。だが発言の内容に、真琴は仰天した。
「帰るって、その格好でっ…だ、ダメよ、風邪引いちゃったらどうするのよ!」
ポケットからハンカチを取り、差し出す。
「ほら、これで拭いて! あと、そのシャツと上着貸して。洗濯して来るからっ」
直後上半身裸の凜を目撃し、鼻血が出そうになるのを堪えたのは秘密だ。
-*-+-*-+-*-
携帯と睨めっこ。
ボタンを押そうとしてもできなくて、ここで少し深呼吸。
そしてまた携帯と睨めっこ。そのサイクルが、この数分間の真琴の行動の全てだった。
画面にメールが一通通知されている。差出人は『神谷 凜』…最近加わったアドレスだ。
(ど、どうしよどうしよ、まままさかこんな時間にメールしてくるなんて…!)
ちなみに時刻は午後11時。
心臓など、さっきからバクバク鳴り通し。口から飛び出てしまいそうだ。
(な、何の用だろ…まさかまだ、怒って……でも、それなら学校で言うはずだし…)
そして、とうとう。
(……あ、ああもう、開けるわよ! 開けるからね!?)
誰にでもなく心の中で呟き、ぎゅっと目を閉じてついにボタンを押す。
一秒が過ぎ。
五秒が経ち。
十秒後になって。
恐る恐る開けた目には、次の文が飛び込んだ。
『今日預けたシャツをそちらで処分して欲しい。買い換えようと思っていたから。もし処理でき
ないなら学校に持って来てほしい。』
…。
それだけだった。
真琴の淡い期待に応えるような言葉はこれっぽっちも見当たらず。
安心とか落胆とかいろいろなものを総合して、最終的に肩を落とした。
「な、な、なーんだ、そんなことか…べ、べつに、期待してなんかなかったから、いいけど……」
言いながら了承の意を慣れた手つきで打ち込み、送信する。
文面を見直す気は起きなかった。
「はぁ…拍子抜け……」
独り呟き、ベッドに倒れ込む。ギシリという音に、二度目のため息が尾を引いて、消える。
こんな一喜一憂は初めてだった。
いつから彼のことで、こんなにいろいろ思いを巡らすようになったのだろう。
そんなことを思ってみても、もう、薄々わかってきている。
――私は彼のことが好きなんだ…多分。
それは、それだけはわかる。まだあんまり認めたくないけれど。
じゃあ、彼はどうなのだろうか。
あの燃えるような夕焼けの日、凜は確かに、興味がある、と言った。
どういう意味なのだろう。
どうしてあんなことを言ったのか。何故私なのか。私をどう思っているんだろうか。
…知りたかった。あの時の凜についてだけではない。わからないことはあまりに多すぎた。
普段、どんなことを考えているんだろう。どんな景色を見ているんだろうか。
もっと凜の近くに行きたい。凜を見ていたい。見られていたい。凜に触れたい。触れられたい。
…抱きしめられたい。
(や、やだ、何を………)
急激に加速し始めた心臓と脳の独り歩きに真琴はさっと顔を赤らめるが…ゼンマイを巻かれた
玩具のようなものだった。手を離せば勝手に動き出し、どんどん先へと走り出す。
…そうしているうちに、その存在を思い出してしまった。
部屋には当然ながら誰もいない。それは明白なのに、それでもキョロキョロと部屋を見渡す。
そうして絶対に誰も見ていないことを確信すると、左右に動いていた視線はある一方向に固定した。
(ちょ、ちょっとだけなら…)
視線の向こう、きちんと折られた男物のワイシャツにおずおずと手を伸ばし、真琴はもう片方の手で
器用に自分のパジャマのボタンを外していく。眼前に白い布地がやってきた時にはもう既に上着は
脱ぎ終わり、若く滑らかな肌が夜の光の下で淡い色を浮かべていた。
(い、いいよね? だれも…見てないよね?)
再び左右を確認して。
きちんと畳まれたそれを広げ、縦に並んだボタンに手をかけて順番に丁寧に外していく。
そうして開かれたワイシャツを背中にまわしてまず羽織り、幾度も躊躇した後ついに、袖にすっと腕を通す。
(き…着ちゃ…った、…着ちゃった…着ちゃった…)
頭の中で同じ言葉が山彦のように反芻する。
凜の身長は真琴よりも多少高いくらいでそう変わりはしないのだが、やはり真琴が袖を通すには
肩幅などの作りがやや大きめになっていて、首まわりや袖の先が緩かったり余ったり。
あるはずのない暖かさを感じると同時に、大きなものに包まれているとき特有の、一種の安心感に
似たものを覚える。
「あ……男の人の…匂いが、する…」
汗が染み込んでいるわけではない。そんなものは、洗濯した時にもう落ちている…長い間着続け
たが故に、布地が凜の肌に慣れ、親しみ、そして記憶していた。その残り香が持ち主の手を離れ、
真琴のもとに届いたのである。
凜の残り香。
自分で自分をワイシャツごと抱きしめて、思いきり深く息を吸ってみる。
錯覚だとは解っている。
でもその、凜に後ろから抱きすくめられているような感覚は、どうしようもない高まりと熱とを
運び全身を侵してきていた。
(そ、そんな……こんな、はしたない……で…でも………)
そう、どうしようもない。
布団の中、気付けば片手はパジャマの肌蹴た胸元に、もう片方はズボンの中に伸びていた。
みずの音が聞こえる。
「ぁ……も、もうこんなに…」
下着越しでもわかる。
そのまま、ショーツの脇から亀裂を撫でていく。胸では別の手を動かして、膨らみ全体を
ゆっくりと揺らしていく。
この手が凜のものなら、どんなにか幸福だろうか。
甘い。恋しい。せつない。もどかしい。
様々な想いとともに湿気と熱気が強くなってきて、真琴は躊躇いなくズボンを脱ぎ去る。
そして拘束の減った右手を、少しだけ加速させた。ショーツの中をくぐらせたまま、さびしさを
紛らわすように何度も何度も擦りつけ、刺激欲しさに指の先をクリトリスにこつん、こつんと
突き当てる。
「は、ぁっ…はっ……んっ…!」
真琴は自分を慰めるのに、いつしか夢中になっていた。下腹部からの絶え間のない波の中に、
その中心にある突起から電気が一つ二つ走る。高みに突き上げられるような感覚に小さく喘ぎ、悶える。
自分のその声しか耳に入ってこない。熱と快感とにしか、身体が反応しなくなっていく。
でも、まだ足りなくて。胸元にあった手を太股のところにもっていく。自分の蜜をすくって
小さな膨らみに塗り付け、十分に広がったと見るとそこに手の平を押し付ける。
「ひゃんッ…!」
もう既に自己主張をしている乳首が擦れ、思わず大きな嬌声が漏れた。
そのままぐりぐりとこね回して交互に刺激を重ねていくと、快感が急激に速度を増す。ショーツの中の
指をさらに速め、貪るように快楽を味わう
…でも。
(……さ、さびしいよ……!)
気持ちいい。
でも、足りない。
肺に満ちる空気は凜のものであるはずなのに、彼との距離は未だに遠すぎた。せつなさと情慟が、
次から次へとこみあげてくる。
「あぁっ…! …ほ、ほしいよ…ッ!」
いやらしい粘液の音も、自分の口をついて出る本当の言葉も、もう頭の中には入ってこない。
…一瞬見えた半裸の姿を思い出す。
あれが、欲しい。
凜にされたい…凜としたい。普段ならきっと強制的に頭から追い出されるような考えが、溢れ出して
身体中を熱くする。
「か…かみや、…くん…っ、ふぁ、あぁッ!」
無意識のうちに恋しい者の名を呼ぶと、それだけで興奮してしまい、実際小さな絶頂が訪れる。
(ちょ、ちょっとだけ、イっちゃった…ど、どうしちゃったのよ、私……)
こんなになってしまった自分への、珍しいなよなよとした考えとは裏腹に、身体は欲望に正直な
ままに快楽を追い続ける。
指が止まらない。次々に甘い声が溢れ、腰までもが動いてしまう。発情した雌みたいに、妖しく。
奔流のような快感がさびしさを一時的に紛らわし、身体を満たしていく。
何も考えられない。凜に慰めてもらっている暗示と錯覚を伴って、真琴は頂点へと昇っていく。
「…き、来ちゃうよっ! り、りん、りんっ! ふああぁぁッ…!!」
-*-+-*-+-*-
「は、ぁ、ぁ……は、ぅ…………」
意識が押し流されてしばしの後、かろうじて復活した真琴は行為の余韻に浸った。
自慰行為は初めてではない。だが、好きな男を想いながらするのは初めてだった。
「ど、どうしよう…こんなの……い、いや……」
そんなの、認めたくなかった。
認めたくなかったのに。
「こ、こんな思いするなんてっ…い、いやだよ……」
こんなに寂しい思いをしたことはなかった。
頭がまだふわふわ浮いている感じがする。
そのせいだろうか、涙腺が緩くなっているのは……
と。
ひゅう、と風が吹き。
頬を触り、髪を撫で、それは真琴に一つの疑問をもたらした。
(…か…風…? …どうして……?)
雨戸は閉めた。当然窓も開いていない。
「じゃあ、どこから…………!!」
上体を起こし、足の方を向いて…彼を、見つけた。
神谷凜、その人を。
満たされぬ身体を一番慰めてほしいと願った、想う相手を、そこに。