「なんて言うかやっぱりさ、クールよねー」
黙々と弁当を口に運ぶ彼の横顔を遠目に見ながら、真琴の長い付き合いの友人である千里はそう話
しかけてきた。
真琴は、そうは思わない。
『暗くて無口で、無表情なヤツ』―真琴の考える神谷 凛のイメージは、良いものではなかった。
神谷はどうやら真琴の中学にも通っていたらしいのだが、そんなことは覚えていない。
もちろん、同じクラスになどなったこともなく、それが起こったのは高校に入って今年が初めてで
ある。二人ともお互いに、中学の間はずっと共通のクラブや委員会に所属することがなかったため、それ
は彼と真琴との間にできた最初にして唯一の接点でもあった。
そして新年の一学期開始早々に、くじ引きで決まった席替えでたまたま彼の二つ後ろの席になる。
それからというものの位置関係上、彼の後姿や横顔がしばしば目に付くようになったのだが、彼が
口を開くことは、必要に迫られたときを除けば非常に少なかった。
教師に指名されたときも、返事すらせずに(もしかしたらしているのかも知れないが、その声も蚊
の鳴くような声なので非常に聞こえにくかった)最小限の作業のみを行い、再び着席する。
それは授業中でなくても変わることがなく、彼が休み時間、談笑の輪に加わるようなことはなかっ
た。
友達がいないのかもしれない。そう最初は思っていたが、それは少し違っていた。ごくごく限られ
た2、3人くらいの生徒は、時折わざわざ彼の机に弁当を持ってきて、一緒に食べたりもしている。
しかし、そんな親しく見える生徒に対しても、話を振られても必要以上の応答はせず、そして彼か
ら話をすることは、見た限りでは皆無と言ってよかった。
「そうかな。私は、暗くてつまんない人にしか見えない」
「あ、それひどいよ真琴、神谷君、意外と人気あるのに」
真琴はだんだんと自分が、どうやらこの寡黙な男子のことを好ましく思っていないのではないかと
いうことに気づいてきていた。
話しかけても返事をしそうにない雰囲気も、友達を作ろうとしない消極的な態度も、明るくて友人
も多く、いつもその輪の中で生活していた真琴にとっては考えられないものであった。
きっと自分が話しかけたとしても、他の生徒(彼に話しかける生徒は稀だが)と同様、相槌のない
会話になってしまい、一方的な気まずい雰囲気の中でそそくさと退散することになるのだろう。それ
は恥ずかしいことであり、耐えられないことでもあり、そんな態度を取る彼を見ていると、真琴は訳
もわからずに、なんだかイライラするというか、そういう気持ちにさせられた。
しかしなかなか整った顔立ちをした彼は、千里の言うとおり、気づかないうちに一部の女子からさ
さやかな人気を集めていた。真琴はそれについても、胸の中になにか悪い虫がいるような、そんな軽
い不快さを覚えていた。
納得がいかなかったんだと思っていた。
友人たちの彼についての発言が、そのひたすらなまでの寡黙さを好意に思うものだったから。だか
らきっと正反対の性格の自分は、納得することができないんだ…真琴はその時は、そう考えていた。
「…でも、話しかけても返事一つしないし。」
「へ? 話しかけたことあるの?」
「ないわよ。でもどうせそうでしょ、あの様子じゃ。」
「だよねー、もうちょっと明るかったら、私も狙ってたかもしれないけどさ」
そしてささやかな人気があると言っても、彼に話しかける女子はほとんどいない。みんな遠巻きに
彼のことを噂したり観察したりするだけで、積極的なアプローチを試みた生徒は、今までに見た試し
がなかった。
「ところでさ、真琴は好きな人とかいないの?」
突然の話題転換に、真琴は一瞬目をぱちくりさせる。だがすぐに、取るに足らないことと言いたそ
うな表情に変わり、購買でゲットしたコロッケパンの袋を開けた。
「いないよ、そんなの。だって興味ないもん。」
「本当? 男の子に興味ないの?」
「そうよ。興味なんてな…い……」
パンを袋から出しながら顔を上げると、千里は思いっきり邪笑を浮かべていた。
今さらながらに思い出した。目の前で話し相手になっていたのは、面白いことと人をおちょくるこ
とが大好きな、あの千里である。
展開が読めた。
相手を考えるべきだったと、今さらながら真琴は思い、慌てる。
「じゃ、じゃあ真琴ってば、女の子に興味が…」
「ちっ、ちが…ちがう! そうじゃない!」
流石は演劇部というべきか、千里は舞台の上にでも立っているように台詞をかなりの声量で続けな
がら、ドアの方まで後ずさりしてみせた。これで顔がにやけてなければ、見た人が信じてしまうよう
な絶妙の仕草で。
よくある見慣れた光景なので周りの生徒もみんな演技と分かっていたし、それは真琴も十分承知だ
ったが、問題はそこではない。時たま上がるクスクスという笑い声は、羞恥心をそそるもの以外の何
者でもなかった。
「そ、そういうことだったら、私、止めないよ! 真琴が女の子でしかハァハァできない子でも、私
たち、ずっと友達だからね!」
「なっ、なんてこと言うのよ! ちょっと千里! 待ちなさい!」
大音量の台詞を吐きながら廊下へと走り去った千里を見て、慌てに慌てた真琴はすぐに追いかけて
いった。
結局教室に帰ってきたのは昼休み終了直前であり、十分に昼食が取れなかった真琴は、事の発端で
ある千里の頭をどついておいた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
事が起こったのはその日の帰りだった。
結局真琴はパンを5時間目に食べたものの、中途半端にお腹が空いたままだったので、帰り道の途
中にある喫茶店『ラ・フルール』でチョコレートケーキをいただくことにした。
ラ・フルールのケーキは、巷でも評判の味を持っている。なんでもマスターが、店のメニューを増
やしたいということで知り合いのパティシエに頼み込んで、修行がてら弟子を派遣してくれるように
なったとか。
うれしいことに、その弟子がかなりのモノを持っていたらしく、彼のおいしいケーキの噂は見る見
るうちに広まっていった。
今では固定客もかなりいる。そして真琴も、その一人。
(やっぱり、おいしい!)
昼からの不機嫌など何処へやら、真琴はすっかりケーキに夢中だった。
これだけのケーキが食べられるのだ、当然店は人が集まり、行列すらできるようになる。というこ
とでラ・フルールに入るのには、休日だとかなりの頻度で待ち時間というものが生じるのだが、しか
しながら今日は平日だ。店はかなり空いている。
目的の品にはすぐにありつくことができた真琴は、上機嫌である。
真琴は最後の一切れを、名残を惜しみながらも口に運ぶ。
決して強すぎない、上品な甘さを湛えたチョコレートのいい香りが、口の中いっぱいに広がる。
スポンジのもふもふとした食感にとろとろのチョコクリームが溶け込み、絡み合う。
(幸せ…)
至福というのは、まさにこのようなことを言うのだろう。真琴は喜びの笑顔を浮かべた。
もう一つ注文したくなる衝動に駆られたが、財布の中身を思い出してぐっとこらえ、小遣いが入っ
た暁にはきっとまた食べに行こう、と固く誓いながら、勘定を済ませた真琴は店を出る。
今日は特に他にやることはない。部活もないし(ないからこそこうしてケーキにありつけたわけだ
が)、数多くの友達とも、何かの約束はしていなかった。千里から突然『DDRやるよ! いますぐ
ゲーセン直行!』などと言うメールが届くということもない。
(今日は、もう帰ろう)
その場にとどまっている理由もないので、真琴はその場を後にして、歩き出した。
学校からの帰り道、真琴は近くの公園に寄るようにしている。
その公園はさほど広くは無いのだが、色とりどりの花を植えた花壇と、日当たりの良いところに据
えられたベンチがある。真琴は、その場所が好きだった。
ほのかな温かさの中に包まれながら、何をするでもなくぼぅっと遠くを眺める。本を持ち込んで読
書をしたり、いつの間にかまどろんだり…
学校ではいつも快活な真琴にしては意外だが、そんな穏やかな時間をベンチは与えてくれる。だか
らその公園は居心地が良かったし、足繁く通っていたのだ。
真琴はいつものように公園に着いた。栃の木の下に座っているいつもの野良の三毛猫を見、花壇に
咲き誇ったクローバーの花々を見て、四葉のクローバー探しに夢中になったこともあったなと思い出
しながら、例のベンチのある巨木の下へと向かう。
何か、様子が違った。
木々が騒がしいとか、動物がやけに吼えるとか、そんなものではない。ベンチの前いっぱいに、何
やら白いものが動いていた。
なんだろう――それは鳩だった。何処からこんな数がやってきたのだろうと思わせるほどの鳩たち
が、翼をはさはさと羽ばたかせながら、動いている。しかもよく見ると、それらは何かにまとわり付
いて、その周囲で飛び、踊っているように見えた。
何があるのだろう、と、遠目に見ていた真琴はもうすこし近づいてみることにする。と、たまたま
ちょうど5、6羽がそこから下りたので、それが何なのかがちらりと伺えた。
はっ。と息を呑むとともに、歩みを寄せた足が、ぴたりと止まる。
鳩たちが飛び舞う中心には、真琴の知るあの寡黙な少年が――神谷凛が、立っていた。
餌でも持っているのか。いや、それは違った。肩の一羽をさする右手にも、一羽が乗っかった左拳
にも、そんなものは一粒も無い。いやあったのかもしれないが、とにかく目に入る分には、それらは
どこにもない。
しかし、それは真琴にとってどうでもよかった。
餌を持っているとか、持っていないとか、そんなことはどうでもよかった。
実際にはそれから数十秒の間その光景を見つめていたのだが、感覚的には三十分にも一時間にも思
えた。
それほどにまで鮮烈であり、見とれてしまっていたのだ。
頭や肩に乗ったたくさんの鳩たち、そして周囲を飛び交うものから純白と濃紺の羽が宙を舞い、ふ
と前方に手を差し出すと、待っていたと言わんばかりに一羽がそこに飛び乗る。
彼が合いの手の指で肩の一羽の首を優しく掻いてやると、気持ちいいのか自分から首筋を押し付け
ていった。
その中で、神谷凛は微笑んでいた。
信じられない光景だった。人前では決して見せないその表情を、穏やかな笑顔を、彼は浮かべてい
た。無数の鳩たちに包まれて、優しさと慈しみに満ちた微笑を、純粋な笑顔を、彼は、浮かべて、立
っていた。
白い羽の飛び交う中で立ちつくすその様子は、まるで天使のようであり、神のようであり、女神の
ようでもある。絵や小説の中の世界が切り取られて、額縁にはめられたようにそこにある。彼の横顔
を見ながら、真琴は正直に、そう感じた。
「…どうしたの? こんなところで」
話しかけられて、初めてその事実に気づいた。笑みこそ消えているものの、穏やかな、それでいて
いつものような無機質さが無い、そんな表情を保ったまま、真琴の方を向いていたのだ。
いきなり現実に引き戻されて、真琴は心臓が跳ね上がった。じっと見ていたのに気づかれてしまっ
たのが恥ずかしくて、顔面に血が上る。思わず小さな声が口から漏れるのも、まるで聞こえてはいな
かった。
そして、それに気づく。
彼が、自分に話しかけたという現実に。
途端、ものすごい勢いで、心臓が裂けんばかりに早鐘を打ち始めた。
凛の声が鼓膜を突き抜け、脳の髄に入り、体中を駆けて何度も何度も響いたような気がした。
血の巡りが激流よりも早くなる。もう既に、真琴は耳まで赤く染まっていた。驚愕の中に何か別の
ものが混じった表情で、自分にその事実を問いかけた。
なんでこんなに、嬉しいんだろう、と。
「う、うるさい! 私に話しかけないで!」
真琴は怒ったような、何かを振り払うような声を上げた後、わずかに驚いたような表情を浮かべた
凛を後にしてその場から走り出していた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
矢よりも早く疾走し、数分と立たずに自宅に到着していた。
これなら陸上部で関東大会に出れるかもしれないと思いながら、黒い鉄の門を通り、ドアの鍵を開
けていつもの玄関へ。
今日は母親が不在だ。確か、中学の同窓会だとか言っていた。よかった、と洗面所の鏡の前で思っ
た。疲労困憊、肩で息をしながら顔を真っ赤にしている今の姿を見られたら、何か聞かれるに決まっ
ている。
部屋に戻った後になって、激しい動悸はようやくおさまってくれた。しかし、弱くなりつつも変わ
らず、胸の壁を叩く音は、消えない。
呼吸を整え、ベッドに体を横たえてからようやく真琴は、気付いた。…何故、彼が無口なのが気に
入らなかったか。
(話しかけたかったの…?)
別に誰かが無口だったり無表情だったりしても、それが赤の他人であるならば、嫌いとか好ましく
ないとかそういう以前に、彼は真琴の視界にも映らなかっただろう。別に喋らなかろうが関係なく、
何を思うこともなかったはずだ。
きっとそうだ。推測は次第に確かさを強め、確信へと変わっていった。彼に、話しかけてみたかっ
たんだ。いつも自分がしているように、お喋りしてみたかったんだ…そしてその考えは、出会って間
もない頃についてだけならば、正解だった。 じゃあ、他の女子からささやかに人気があったのにつ
いて、胸がモヤッとしていたのは。
それは、簡単だった。他の子に話しかけられたくなかったのだ。彼に声を最初にかけられるのは、
自分でありたかったのだ。彼が特定の女子と会話をして、親しくなるのがイヤだった。だから千里に
も、彼のことを良く言わなかったのだ。
そして唐突にぽんぽんと答えが出てくる中で、息の落ち着いた真琴は、とうとう最後の問いにたど
り着いた。至極簡単な、もう既に自分でも答えに気付いている質問に。
この気持ちは、なんだろう。
どうしてわたしの心臓は、熱く大きく打ったのか…
初恋という単語が頭の中に浮かび、また血流が激しくなるのを、真琴は感じる。
(今日、わたし…眠れるかな…)
おそらく無理だろうという反語とともに、真琴は渇きを満たし熱を鎮めるべく、冷蔵庫のある一
階に下りていった。