「待ちなさい川上さん! 一体どちらへ行くおつもりですか!」
川上尭(あきら)の授業からの脱出の試みはいつも、とある良家のお嬢様でありクラス委員を務め
ている、この水瀬沙希の妨害との闘いからはじまる。
日常茶飯事なその激に、ある者はいつも通り振り返り、ある者は振り返ずに耳だけを向け、またあ
る者は内心またかと思いながらも、行動には出さず次の授業の準備に専念する。
それは、もはや三十を超えて繰り広げられる光景であり。
尭が内心うんざりしている光景でもあった。
「五月蝿いな、どこでもいいだろ。前も言ったが理系の人間に日本史はいらん」
尭が沙希と同じクラスになったのは、高校二年目の今年が初めてである。
沙希は去年からクラス委員を務めていたので、違うクラスと言えど何度かその噂は聞いていたのだ
が、一年は特別な接触は皆無だった。そのため尭は、中学と同じように自由奔放な学生生活を満喫で
きていた。
だが今年、クラス替えで一緒になった彼女が、話しかけて来る…もとい、目を付けるようになり、
尭の学校生活は大分様変わりしてしまった。
(ったく毎度毎度…)
尭は心の中で悪態をつく。
まず、尭が授業をサボタージュする回数はかなり減った。もともと高校入学して以来、嫌いだった
りつまらなかったりする授業は全て睡眠か屋上での読書タイムにしていたのだが、彼女の妨害が激し
いため最近その頻度はおよそ半分以下にまで落ち込んでしまっている。
仮に成功したとしても、その後に待っているのはお節介とも言えるお説教だ。以前のように頻繁に
脱出しているようでは、身が持ちそうにもない。
そして沙希の干渉は、先の戦い―別名・中間テスト―から、さらに激しくなっていった。
どうやら沙希は、どういうわけか尭の成績の一部に問題があるのがお気に召さないようなのだ。こ
の前など、どこから仕入れたのか分からないが尭の中間テストの成績まで入手したらしく、赤点ギリ
ギリ50点台だった苦手の文系科目について
「貴方の国語と歴史系二科目の成績は、一体どういうことですか!?」
とまで言って来る始末だ。
人の性格に関してもそうでなくてもカッタルイことが嫌いな尭にとっては、この沙希という人間は
どうにも馴染めそうになかった。
(…もったいない。性格さえよければな…)
…たとえ、この態度を差し引いた時に、彼女が尭のストライクゾーンど真ん中だ、としてもだ。
「日本史は必修科目です! 単位を落としたりしたらどうなさるつもりですか!」
「期末なら今までずっと何とかなってんだろ…それより水瀬、お前が化学やった方がいいんじゃない
か? 聞いたぞ…この前の中間、点落ちたんだってな」
「そ、それは…」
そう尭が言うと、沙希は口をつぐんでしまった。そしてそっぽを向いて、ちらちらと尭の方を窺う
ように見る。
何か言いにくいことがある時の癖だった。
フフンと言わんばかりに腕を組んでいた尭の顔からも、思わず邪笑が掻き消える。
確かに、だ。
確かに、こういう仕草を見ると、日常的に叱られている尭でもはっとさせられることが度々ある。
水瀬沙希は主観による好みを差し引いて客観的に見ても、可愛い。
天が二物を与えた、というのはまさに彼女のためにあると言ってよかった。
意志の強さを表すような、そして魅力溢れるほどに大きく澄んだ瞳。それを乗せた顔立ちは綺麗に
整っていて、さらに(尭への態度を除けば)優しい態度、清楚な立ち振る舞い。責任感に満ち溢れ、
おまけに成績も常にトップクラスを保っているときたものだ。完璧超人と言っても言い過ぎではない
だろう。
だが大抵は、その度に思うのだ。
「あ、あれは、その…98点が、88点に……そんなこと、あ、貴方に言われたくありません!」
…やっぱり完璧超人は可愛くない、と。何とも言えぬやるせない思いとともに。
「と、とにかく、これでもう三十六回目になりますけど…」
「…よく覚えてるな、そんな細かい「とにかく!」」
呆れたような、おどけたような調子で尭が言い切る前に、沙希はそれを切り捨てる。
沙希にしてみれば本気なのか。真剣な行動からのらりくらりと逃げようとしたのが気に入らなかっ
たのだろうか。
―それにしても、俺の出席について本気になる理由がよくわからないけれども。
「貴方は授業に出なければならないのです!」
バンと机を叩かんばかりの勢いで、沙希は言い放った。
既に勝敗は見えていた。
否、それはとっくに決まってしまっていた。沙希の声を背中に受けた時に教室の扉に手を触れてい
なかった時点で、確実に引き止められてしまうのはわかっていたのだ。
沙希の声よりも早く教室を出なくては、尭に勝ちはない―すなわち一端教室に引き止めてしまうこ
とができたならば、沙希の勝利は確実である。「サボりを止めるのは正しい」という強力な理が沙希
の側にある以上、理屈を並べて尭を留まらせるのは実に容易。あとはそれで時間を潰せば、教官が来
て「詰み」だ。
それがわかっているから、尭も普段なら授業開始一分前のこの時点で無駄な抵抗は止して、諦めて
やれやれとでも呟き、着席するのが常である。
「…もう、止めにしてくれないか」
しかしいつもと違い、尭は低いトーンで小さく呟いた。
尭は縛られることが嫌いだ。いや別に、何か正当な理由があるならば話は別になる。自分が理由に
納得しないまま、それに従わされるのが嫌なのだ。
両親を亡くし、父の遺産は将来のために、と学費の大半を苦労してアルバイトで稼いでいる以上、
義務教育でない高等学校は本来「通わなくてもいい」学校である。きっちり出席するよう叱られるい
われはない。
つまり自分で金を払っているのだから束縛する理由はない…というのが、尭の言い分なのだ。だか
ら冒頭に述べたように、繰り返されるこの争いに、尭はかなりうんざりしていたのである。
普段とは違う尭の空気に沙希は気付いたようで、勝利を確信した満足そうな顔もどこかへ消える。
尭は切り出す。
「そもそも、どうして俺の成績にそこまで突っ掛かるんだ?」
「で、ですからわたくしは、…ク、クラス委員として…」
そこまで言って、ようやくギャラリーも異変に気付いたらしい。いつもと違い大人しく引き下がら
ない尭に、訝るような珍しいものを見るような視線を向けはじめる。
「それにしても、なんで俺なんだ。俺と同じ赤点スレスレの奴は、いくらでもいるだろう」
…少々怒気の混じった視線が感じられた。恐らく俺と同じくらいの成績で、悩んでいると言ってい
た萩本あたりだろう。
そう尭は思い、ちらりと目を遣るとたしかに萩本がキツい視線でこちらを見ている。別に悪く言っ
たわけではないのだが、なにか勘違いでもしたのか。とりあえず後で誤解は解いておこう。
「そ、それは…」
尭が視線をもとに戻すと、桜のような色に頬を染め、言葉に詰まった沙希は俯いてしまう。
何を言いにくいことがあるのか。
苛立ちが募っていた。頭に血が上る。言いたいことがあるならば、はっきり言えばいいものを。
「わ、わたくしの、口からは…申し上げられません…」
俯いたまま、沙希はそう言ったきり黙りこくってしまう。
「…理由も言えないのに、俺を縛るな」
頭に溜まった何かがひとりでに喋った、そんな感じだった。
相手が女ということで怒気こそ込めなかったが、強めの口調で尭は言い捨てて席に向かう。
見ていた二、三人の女子からブーイングを浴びたような気がするが、丁重に無視しておいた。
表面上は、尭を引き留めた沙希の勝ちだろう。だが、実質どうかと言われると、判断を逆にせざる
をえない。
言いたいことを全てはっきりと言った尭と、それをしなかった沙希。
尤も沙希が「それ」を言える状況では、全くなかったのだが―
何も知らない教師が、呑気に教室に入ってくる。何事もなかったように、皆に起立を促した。
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(…俺としたことが…)
尭は屋上のフェンスを堅く握り、自らを責めていた。
内容は、沙希への発言内容についてである。
(なんであんなことを言っちまったんだ…)
言うべき言葉ではなかった。
少なくとも、沙希は尭を心配してくれていたのだ。何故標的が自分なのかはわからないが、とにか
く沙希は、多少なり尭のためを思ってやってくれているはずである。たとえそれがクラス委員の義務
だとしても、だ。
ましてや、相手は女だ。それなのに、あんな言葉を浴びせるなど。
頭に上った血の塊から出てしまった言葉を、尭は本気で後悔していた。
自然と握る力が強くなり、ギリリとフェンスが音を立てたその瞬間、ふと階段からの扉が開き、誰
かが屋上に足を踏み入れる。
いつもはこの時間、屋上には誰も来ることはない。
というよりも、本来だれも屋上にはいないはずになっていた。安全上の理由とかで、屋上の鍵は生
徒には入手できないからである(そのためたまたま鍵を拾った尭は、この場所を快適なフリースペー
スとして利用していた)。
ということは、今入ってきた人物が誰かはかなり限定される。この場所に来るということは鍵を持
っているか、それ以外に特殊な目的が―つまり、尭がここにいることを知っていて、用事があるか、
のどちらかだ。
しかし、前者の説は簡単に却下された。もし教官なら、いるはずのない尭を見つけたら真っ先に声
をかけてくるはずだ。しかしその人はまだ扉の前から動こうとしないし、こんなところで何をやって
るかと怒鳴りながらつかつか歩いてくることもない。
ということは、後者。
そして、今わざわざ自分を訪ねてくる人物など、簡単に想像がつき…
「…水瀬か?」
扉の音を聞き取っていた尭は上のような思考を経た後、振り返らずに切り出す。
背後の人物が近付いてきていた足を止める。尭はそれを肯定として受け取った。
ため息を一つ。
どうしてここがわかったかは知る由もないが、何か言いたいことがあるのだろう。尭は相手の言葉
を待つことにした。
…だが、いくら待っても沙希が話し出す気配はなかった。
しだいに気まずい空気が漂いはじめる。いや尭がそう感じただけかもしれない。かもしれないがと
にかく、無言のままでいる時間は尭にとって居心地が悪く、実際は数十秒に過ぎなかったその時間が
何分にも感じられる。
焦燥に駆られたこともあり、尭は言うべき言葉を紡ぎ出した。
「…悪かった。…さっきは、少し言い過ぎた」
「!」
はっと息を飲む音が聞こえた。
驚いているのか、何かに気がついたのか、表情が見えない以上どうしてかはわからないが。
しかし予想していた怒声は、飛んでこない。
少しだけホッとした尭はまだ顔すら見ていない沙希に、一時間前と同じ質問をすることにした。
「…でも、やっぱり教えてくれ。…何で水瀬は、俺にだけあんなことを言うんだ?」
今度は、自分なりの出来る限り穏やかな口調で。
そう。やはり、冷静になった今改めて考えてみても、沙希の尭に対する態度は不可解だった。
あの時尭が言ったことは確かに正論だった。尭はいくら成績が悪いと言っても、ぎりぎりで、本当
にぎりぎりで赤点だけは回避し続けて来たし、出席にしても単位を落とすことのないよう、ちゃんと
(というのも何だが)計算してサボっている。対し、実際にリミットブレイクしたことのある生徒な
ど、クラスのうちで自分以外に数人はいるのだ。
なのに何故、尭にこだわり続けるのか。それは疑問でしかなかった。
しかし、問うたことに返事はない。
…聞こえていないのだろうか。
そう思い、尭は振り返るが…直後、それにより驚愕することになる。
「おい、聞いて…って、お前っ!」
沙希は声も上げず、ぽろぽろと宝玉のような涙を流していた。
尭の驚いた顔を見て、ようやく自分の状態に気付いたのか、直後にしゃくり上げるような声をたて
はじめる。
演技などでは断じてありえない。これが演技だったら、きっと最高の女優になれる。
尭は狼狽した。
「わ、わかった悪かった! な、何も泣かなくても…」
慌てに慌てて、手で顔を覆った沙希の肩に手を置く。
女性の涙を見るのは初めてだった。母のすら見たことがない、ましてや沙希のそれなど。尭が知る
中で、最も涙と結び付きそうにない女性だったというのに。
「ッ、ち、ちが…、違うんで、す…」
鳴咽混じりの声で、沙希は何とか告げる。
違うとはどういうことかわからないが、そんなことを考えられる余裕はなかった。どうやって泣き
止ませればいいのか、尭の脳内はまさにフル回転状態だ。
「と、とりあえず落ち着けって、嫌ならもう聞かないから、な? な?」
ハンカチを取り出しながらそう言うことしかできなくて、自分の恋愛経験の無さが恨めしい。
頬に零れた涙を拭いていくと、沙希は尭のハンカチを取り自分で目のまわりを拭い始める。
ここが誰もいない屋上でよかったと思いながら、尭は何も言えずその様子を見守るしかなかった。
しばらくしてようやく涙が止まった沙希は、弱々しいハンカチを握りしめる。
決心したようにぐっと力を込め…尭にとって想像の斜め上を行く発言を切り出した。
「わ、わたくし、貴方の、ことを…ずっと、お…お慕いしておりました…」
充血した目で尭を見つめ、顔を朱に染めた沙希は途切れ途切れにそう告白した。
「…」
一秒間は意味を理解することができなくて、
「…!?」
二秒目でやっと脳が意味を理解し、
(え、ちょっ! それって…!)
三秒経って顔に血が上り、どんどん赤が差していった。
尭は混乱した。かつてないほどに混乱した。
慕うっていうことは好きってことで好きっていってもいわゆるあれだライクじゃなくラブ?いやま
さかそんなでも実際そう言ってきたわけだしそれに様子からすると明白にそういうことなのであって
何というか、これはそのそのえとえといやいやいやいや…いや…イヤ?
(イヤじゃないイヤじゃない全然嫌じゃな…って違う! 落ち着け! 俺落ち着け!)
恋愛シミュレーションゲームの人物が実際に有り得ないのはこういうわけだ。経験ゼロの男が(い
くら普段キツい態度をされていても)ストライクゾーンど真ん中の容姿の相手に泣かれた上に告白さ
れれば、思考が狂うのは当たり前だ。落ち着いて優しく抱きしめて、最高級の微笑みとともに「俺も
…好きだよ」などと言うことが高々一般民にできるはずもなく、大抵こんなもんである。
「じゃ、じゃあ…なんで…」
かろうじてショート寸前で踏み止まり、内心七転八倒の大慌てなのをひた隠しながら尭は、さっき
泣かせたこともあって恐る恐る口にする。
そしてそれに対する答えは、尭をさらに驚かせることになった。
「貴方の友達が…貴方が、落第なさるかもって…
…もしそんなことになったら、もう逢えないかもって、思ったから…だから…ッ」
「!」
謎が全て一度に解けると同時に、別の意味での衝撃が走り、後頭部を鈍器で殴打されたような痛烈
な感覚が、雷が落ちたような音と共に頭の中を駆け巡った。
誰だそんなデマを流したのは、と問うことも、頭から消えうせていた。
つまりは、そういうことだった。
目の前で今まさに再び涙を溢れさせようとしといるこの少女は、今までずっと、尭と一緒にいたい
からとその一心で尭を叱咤し続けてきたのだ。
その結果逃げようとされても、嫌な顔をされようとも。
「…っ」
驚愕と後悔が一挙に押し寄せてきて、尭は言葉に詰まる。
自分が吐き捨てた言葉が、どれだけ沙希を傷付けたか。
今更ながらにその深さを知り、告白された嬉しさよりも前に、何も気付かなかった、いや気付こう
としなかった己の無関心と浅はかさを呪った。
だがそれと同時に、熱さと温かさが同居した何かが、心の中に芽生えるのを感じた。
恋愛対象として好きと言われるのは、当たり前だが初めてだ。
こんな物ぐさで適当な性格だから、親友と呼べる人間などありはしない。
基本的な人付き合いも悪いから、友人なんて持てたためしもない。
そんな自分を、どうしてか沙希は好きだと言ってくれた。
そして自分を大切に思ってくれる人は、両親が死んでからは誰もいなくなってしまっていて…
「お願い、です…好きじゃなくて、いいですから…わたくしを、き…きらいに、ならないで…っ!」
再び溢れた涙が、沙希から言葉を奪ってしまう。声も、震えていた。
そしてその言葉の意味を、尭は瞬時に悟る。
そんなに、嫌われるのが…怖かったのか。
自惚れなどではなく、彼女の声はそれを恐れていて。
純粋に、愛おしく思えて。
「…困るんだよ…」
唐突に聞こえた低く小さい、されどはっかりと声に、沙希はびくりと肩を震わす。
上げた顔、心の底から不安を感じた瞳が、されど真っ直ぐに尭をとらえる。
――今までこの綺麗な瞳に、俺は一体どう映ってきたんだろうか。
自分の何がこの少女に、ここまで言わせるのかはわからない。
わからないのだけれど。
それでも、答えは確かに今、尭の心の中にある――
「…そんなこと言われると…」
――好きになっちまうだろう。
思わず考えていたことが、口からぼそりと出てしまう。
「…」
沙希は目のまわりを拭いながら、そのまま尭を見続ける。
…聞こえていない。
(あああ、もう!)
二度目を言うことはできなくて。
「あ…」
涙の味のする唇に、教えてやることにした。