あぁ、月が綺麗だな。  
 空に浮かぶ白い玉が、今日は一際輝いているように見える。  
 綺麗な満月に誘われて、ふらふらと河川敷まで散歩しに来てしまった。  
 
「綺麗だなー」  
 
 街の光から、ほんの少しだけ離れたここは少しだけだけど夜空が綺麗に見える。  
 ここは、お金も何もかからずお気軽に楽しめるボクだけの場所だ。  
 そんな秘密な場所で、今日はボク一人じゃなく、二人で月を楽しんでいた。  
 
 ボクが来る前に、ここに座っていた人がいたんだ。  
 黙って、まんまるい月を仰ぎ見ながら、ボクのお気に入りの場所に座ってた。  
 別に所有権を主張する気はなかったけど、初めて、ただ月を見るだけ、という趣味を  
 共通して持つ人を見つけたので、声をかけたみた。  
 
「今日はとっても月が綺麗ですねぇ」  
 
 するとその人はビクッと震え、ボクから離れてしまった。  
 よく考えれば、声をかけたのは軽率だったのかもしれない。  
 もう時刻は夕方からかけ離れているものだったし、ここは河川敷で街灯も少ない。  
 最近、この街でも物騒な事件が何件か起きていることもあり、  
 こんなところで声をかけられたら、誰だってビクつくだろう。  
 
「ご、ごめんなさい。怪しいもんじゃないんです。ただ、月を見に来ただけで……」  
 
 言い訳をしたのが、余計怪しそうな振る舞いになってしまった。  
 さっきも言ったけど、街は物騒で、あまりこんな時間にここにいる人はいないんだ。  
 少なくとも、月を見にここまで来る物好きな人なんて、ボクだってボク以外知らない。  
 だから、ボク以外の人が月を見ている姿に、なんだか嬉しくなって衝動的に声をかけちゃったんだ。  
 
「あ……」  
 
 振り返ったその人の顔を見たとき、ボクは背筋が凍る思いをした。  
 
 顔が……ない?  
 
 そんなはずはない。  
 だって、顔が無い人間なんていない……んだから。  
 
「何か用?」  
 
 その、口も鼻も目も何もないつるんとした顔の、下半分が奇妙に歪むと、声が聞こえた。  
 起伏がなにも感じられない平坦な声。  
 これはまずい、とボクの頭の中で警鐘が鳴り響く。  
 しかし、どうしてか体が全く動かない。  
 今すぐ、大声をあげ、走って逃げたい気持ちになっているというのに、足は根が生えたように動かなくなっていた。  
 最後の抵抗として、ぎゅっと目をつぶった。  
 現実逃避の何物でもないけれど、精神の高ぶりを少しながら抑えることができる。  
 
「……」  
 
 ふっ、と全身を覆っている緊張が解けた。  
 ボクがあののっぺらぼうを見て、あの声を聞いて、あの顔のゆがみを見て、  
 全身が動かなくなって、目をつぶったのは、全て一瞬の出来事だった。  
 そして、緊張が解けたのも一瞬。  
 ただ、最初から最後までの出来事が何もかも夢でないことの証明として、  
 ボクは前のめりに倒れていた。  
 
「うわぁっ!」  
 
 間抜けで、型どおりの声を上げ、地面に倒れ込む。  
 柔らかい土の中に顔を突っ込み、口の中に砂が入る。  
 
 慌てて飛び起きたら、そこにもうのっぺらぼうはいなかった。  
 ただその代わり、血管が透き通って見えそうなほど白い肌の女性がいた。  
 ちゃんと、目も鼻も口もある。  
 ただ、瞳が赤く、髪の毛は銀髪、というより真っ白に近いものだった。  
 
 白子……。  
 確か、十数年前に社会現象にもなったアニメのヒロインがそれだった。  
 それが、目の前にいる。  
 
 美しいというより、華奢な印象を受ける。  
 線も細く、明らかに日光に弱そうな、非常に繊細な氷細工のようだ。  
 雅な表現を使わなければ、ただ「不健康っぽい」という本当に無礼な表現になるのだけれど。  
 
 多分、生まれたときからそうなんだろう。  
 メラニン色素が少ない故に瞳は真っ赤になっている。  
 ひょっとしたら視力も低いかもしれない。  
 ただ、その目は、ボクをしっかりと見ていた。  
 
「……」  
 
 彼女は押し黙ってボクを見ている。  
 日本じゃ中々見られないような、青いドレスを着ている彼女は、黙って、ボクを見ている。  
 
 何か、しゃべらなきゃ……。  
 顔についた泥をぬぐいながら、ボクは何を言うべきか必死に考えた。  
 
「つ、月が……綺麗、っすね」  
 
 やはりこの言葉が出た。  
 もっと気の利いた言葉が言えたら良かったんだけど、生憎ボクはそういう経験を積んできていない。  
 まあ、つまり女性を喜ばす文句を言ったことがないってことさ。  
 
 彼女は、ボクを見る目を変えた。  
 すなわち、馬鹿を見る目に。  
 
「……何が言いたいのかしら? この地方の独特の言い回し?  
 『ツキガキレイデスネ』……一体どういう意味があるのかしら?」  
 
 また、背筋が凍る思いがした。  
 なぜだかわからないが、今ボクの目の前にいる人は、ボクを……。  
 
 ボクを、どうすることができるんだろう?  
 
「そ、そのままの意味ですよ。ほら、月が綺麗じゃないですか」  
 
 ボクは必死になって空に指を伸ばした。  
 そこには相変わらず美しい月が浮かんでいる。  
 極上のミルクのような色をした月が。  
 
 確かに綺麗だ。  
 物心ついたときから、晴れた夜には毎日月を見てきたけど、  
 今日ほど綺麗な月は見たことがない。  
 雲もなく、星の光も強くなく、煌々と光を発している。  
 家を出るときだって、今日は晴れさせてくれたことに、いるかどうかわからない神様に全力で感謝していた。  
 
「……そう、ね」  
 
 そして、彼女が、月を見てくれたことに全力に感謝した。  
 彼女のあの赤い瞳は、ボクの何かを狂わせる。  
 それは、ボクの人間としての理性だったのに気付いたのは、目が逸れてからだった。  
 頭をゆっくり煮立てた後、じっくりじっくりかき回しているような、ゆっくりした変化で、  
 ボクは気付かなかったけど、少しずつ、ボクの正気は失われかけていた。  
 
 目が逸れた瞬間、まるで半分眠っていた状態から覚醒するかのように気が付いた。  
 いつもまとまった思考が、絡み合う無数の糸だったとしたら、  
 彼女の瞳はピンセットで、彼女自身がその絡み合う糸をほどいてバラバラにしているのだ。  
 
 体がバラバラになるような感覚、というのは月並みな表現で存在する。  
 ボクの今受けたものは、体ではなく思考がバラバラになる感覚だった。  
 それを口にするのは難しい。  
 
 例えてみれば、文庫本が一冊あったとしよう。  
 その文庫本に書かれている文章は、当然意味があるものだ。  
 しかし、彼女の目に見据えられると、それは文章ではなくなる。  
 まずは章に分割される。  
 文の集合したページによって構成され、文庫本の全体の意味を構成する塊だ。  
 それが分割すると、全体を通しての意味が消失する。  
 あるのはただ、大まかな流れだけ。  
 次にページに分割される。  
 文と文の塊。  
 更に意味は狭まっていく。  
 文に分割されると、それはもう他とはつながりが見えなくなる。  
 ただ、読点と読点に挟まれた意味の持つ短いもの。  
 文節に分割され、単語に分解され、次は文字に分割される。  
 文字は文字本来の意味のみしかもたず、それでできている文は、  
 文でできているページは、ページでできている章は、  
 章でできている本は、ただその文字の羅列にしかならない。  
 最後には文字から意味が乖離する。  
 もはや、本は意味がなくなり、ただのインクの染みの羅列と化す。  
 
 それが、ボクの頭の中で、世界の全てに適応していっていた。  
 全ての事象は分割されて、その意味を消失するところだった。  
 狂うということはこういうことなのか……。  
 
 ただ、ボクの喉がひねり出した言葉が、ボクを救っていた。  
 分割された世界が、瞬く間に復元し、ボクの正気が保たれた。  
 全てを分割して、一つだけわかったのは、彼女の目を見てはダメだということだった。  
 しかし、次の瞬間――正確には今からしばらくしてからの次の瞬間――目を見なくてもダメということをボクは悟ることになった。  
 
「それで、あなたは一体誰なのかしら?」  
 
 目をみていないはずなのに、ボクに変化が起こった。  
 ボクの頭の中が真っ白になった。  
 意識を失ったっていう意味じゃない。  
 意識は保っている。  
 ただ全てが失われていた。  
 何があったのかその時間は理解できなかった。  
 だって、ボクの頭の中が真っ白だったんだから。  
 何故ボクはここにいるのか、それ以前にボクは一体何なのか。  
 ここはどこなのか、目の前にあるのは何なのか、  
 空に浮かぶあの白くて丸いものが何なのか。  
 一瞬にして、全ての記憶がなくなっていた。  
 
 その経験は、物理的な闇など目もくれぬほど恐ろしい闇だった。  
 右も左も上も下も、前も後ろもない感覚。  
 記憶が全て消失するということはかくも恐ろしいことなのか。  
 何一つわからない。意味も、理由も、何もかも。  
 全ての存在は不可思議で、わけのわからないものに見えた。  
 何も考えられないことの恐怖を感じた。  
 
 ただ……一つだけ。  
 脳みそが虚無の空間になった状態で、何か一つ、感じたことがあった。  
 それは記憶に依存しない本能がもたらしたものかもしれない。  
 
 心を、盗まれた。  
 
 そのときは、それが一体何を意味しているのか分からなかった。  
 どういう意味があるのか判明したのは、記憶が戻ってからだった。  
 
 記憶を失っていた時間がどのくらいだったのか、ボクにははっきりわからなかった。  
 なぜなら、時間を計る尺度すらボクの頭の中には存在しなかったからだ。  
 ただそんなに時間は経ってない、多分、一瞬だったんだろう。  
 月の位置が全く変わっていなかったから。  
 
「……ただの、人間?」  
 
 彼女は眉をひそめて言った。  
 もうボクは彼女の目を見ても平気だった。  
 あの、狂気を催す赤い瞳は、あのときの怪しい光彩を失っており、ボクはその目を直視することができた。  
 視覚的にそれを受け取る以外、幸いながらその目からは何も得ることはなかった。  
 
「う、あ……」  
 
 立て続けに、ボクの存在が揺らぐ現象が起こり、ボクは我を失うところだった。  
 ただ月を見に来ただけなのに、ただ声をかけただけなのに、ボクは何故こんな目に遭っているのか。  
 答えは彼女が出してくれるだろう。  
 
 彼女はボクの姿を胡散臭そうに見ていたが、しばらくするとそっぽを向いて空を見始めた。  
 
「見たかったら、見れば」  
「……え?」  
「月を、よ。毎日ここに来ているんでしょ。今日になって来た私のことなんて気にせず見れば」  
「う……うん」  
 
 足が震えていた。  
 この異常な状態から一刻も早く逃げたかった。  
 けど、何か不思議な力が、心と体の両方にかかっているかのようにボクの本能の言うことに聞かなかった。  
 
「隣……座っていい?」  
「……好きにすれば」  
 
 ビニールシートを持ってきていたけれど、ボクは敢えて地べたに座った。  
 隣の彼女がそうしているのだから、ボクもそうすべきだと思ったんだ。  
 地面はひんやりしていて、心地よかった。  
 ただ、立つときにはズボンのお尻が土だらけになって、不快な思いをするだろう。  
 でも、空を見上げたらそんなことはどこかへ言ってしまった。  
 
 ミルクのような白い月。  
 それこそ、手をかざせばぱちんと弾けて消えてしまいそうな。  
 遠くにあるはずなのに、近く感じられるのは何故だろう。  
 
「あなたは変わり者ね」  
「……よく言われますよ」  
「変わり者から変わり者と呼ばれたことはないでしょう?」  
 
 ボクは受け答えをしながら、ずっと月を見ていた、  
 見つめ続けていると、段々月が近づいてきているように思える。  
 どんどんどんどん、クレーターが大きくなっていく。  
 
「ありますよ。ボクの友人は変わり者ばかりだ」  
「いいえ、嘘よ。あなたの友人は規格品と変わりない」  
「酷いね。一応、ボクは彼らを変わり者だと思っているんだけど」  
「変わり者は規格品を変わり者と見なすのよ」  
「……んなら、嘘じゃないよ。ただ間違えただけだ」  
「わかっていた癖によく言うわ」  
 
 どんどんどんどんクレーターが大きくなっていく。  
 気が付けば、月が大きくなっていた。  
 今にも手を伸ばせば届きそうな距離だ。  
 空の暗闇は全て白い月に取って代わられている。  
 
「あなたの過去を見せて貰ったわ」  
「……つまらなかったでしょ?」  
「ええ、くだらなかった」  
「わかってたけど、そう言われると酷いな」  
「ゴミクズと同等ね」  
「まあ、ゴミクズと同等でも、さ。何もないよりマシさ」  
「……何もない方がマシな過去よ」  
「ちょっと傷ついた……」  
「あなたの過去がじゃないわよ。私の過去が……。  
 あなたは確かに、過去には恵まれているわ。ゴミクズと同じくらいなんだから」  
「褒めているのか、けなされているのかわからないな……」  
 
 目の前には月がある。  
 白い砂が、そこにある。  
 ボクはゆっくりと月の上に立った。  
 月に来た人の足跡が見える。  
 月には風が吹かないからずっとこの足跡は消えないんだ。  
 
 ボクは更に月に近づいていった。  
 ずぶずぶと月の中に埋まっていく。  
 
「あなたはどう答えるかしら? ゴミクズしか持っていないあなたは。私の問いに。  
 大丈夫、期待はしていないわ」  
「ああ、してくれない方がボクも気が楽でいいよ」  
 
 はっと気が付いた。  
 周りを見てみると、河川敷だ。  
 今までボクは……。  
 
 何を見ていたのだろう。  
 月の中に入って、ボクは何を見たのだろう。  
 月はただの石の玉じゃなかった。  
 中には何かがあった。  
 漠然としすぎて、把握できなかった。  
 けど、あれは……一体、何だったんだろう。  
 
 月、月……ボクの心を魅了してやまない衛星。  
 その本当の正体は、人間の理解を超えた存在なのか。  
 それともあの白昼夢での光景は、ボクが生み出した幻想なのか。  
 
 答えは、彼女がきっと出してくれる。  
 
「死にたくて死にたくて、しょうがないの。私は本当に死んだ方がいいのかしら?  
 やはり生きるべき? あなたはどう思う?」  
「生きるべきなんじゃないかな」  
「それは何故?」  
「君が本当に死にたがってるんなら、ボクにこんなこと聞いてないで、  
 君は今頃この川を下ったところの海で、魚と戯れてるよ。水風船みたいにぶくぶくに膨れてね」  
「……私だって生存に対する欲求くらいあるわ。  
 そこのところの兼ね合いに決着が付かなくて、今ここにいるの。  
 ごまかしはやめて頂戴、殺すわよ」  
「おーけー、わかったよ、ボクが悪かった。じゃあ、生きてくれ、ボクのために」  
「え?」  
「君が生きている理由が君自身の中に存在しないのならば、他に存在していればいい。  
 今回の場合、それはボクの中にある。死なないでくれ」  
「な、何を……」  
「何をもって君が死にたがっているのはボクはまだ聞いていないし、  
 聞くつもりは、まあ今のところはないよ。  
 たださ、その理由に釣り合うくらいの理由がボクの中にあると思えばいいよ」  
 
 何を言っているんだろう、ボクは。  
 
「……ありがとう」  
 
 彼女は死ぬことをやめたみたいだった。  
 ボクの顔を見ていたようだったけど、また月を見始めた。  
 ただ、座っているボクに少し体重を預けて。  
 
 彼女の体は冷たかった。  
 冷え性なのかな。  
 少し冷たすぎるような気がするけど。  
 
「ボクからも一つ聞いていいかな」  
「……何?」  
「月って……何かな」  
「知りたい?」  
「ええ、まあ」  
「教えてあげない」  
「……」  
 
 しばらく沈黙が続いた。  
 非常識に理不尽を足して、更にそこに怪奇が混じり合った時間だ。  
 だけど不思議なつながりが感じられる時間。  
 彼女の心かどうかわからないけれど、何かを感じた。  
 視覚でも聴覚でも嗅覚でも味覚でも触覚でもない。  
 それらではない何かがボクに感じさせている。  
 
 ボクの体に触れている、彼女の肩から、感じてくる。  
 
「おわっ!」  
 
 と、突然、地面がひっくり返った。  
 
 やれやれ、また地面に顔を突っ込んでしまった。  
 一体何が起こったのか、把握できなかったけど、ボクはゆっくり身を起こした。  
 が、身を起こす前に強い力に首元を引っ張られた。  
 気が付くと目の前には彼女がいた。  
 彼女は立ち上がり、ボクの胸ぐらを掴み、ボクの目をじっと見てきている。  
 
 あ、ダメだ……またあの目が……ボクを狂わせようとする目がある。  
 
「あなたはペットボトルロケットのようね、人間」  
「は、はぁ……」  
 
 目が、目が閉じられない。  
 あの怪しい輝きがボクの瞼を固定してしまったかのようだ。  
 
「水の量は一定になっているし、まっすぐ進むはず。  
 けれど、その翼の位置が風の強さ、初動によって軌道が読めない」  
 
 ダメだ、世界が……。  
 
「ちゃんと過去があり、それがあなたという人格を形成している。  
 けれど、それがあって尚、あなたは私が読んだ軌道を飛ばないのね」  
 
 彼女の言葉に必死にしがみつく。  
 何度も何度も言葉を頭の中で反復させ、発狂を出来る限り遅らせた。  
 早く、目が逸れて、くれ。  
 
「あなたは、私に死ね、というべきだった。言うはずだった。  
 それで楽になれるかと思ったのに」  
「う、あ……あ……」  
 
 あ、この人は……。  
 青白い肌が更に白くなり、何か恐ろしい魔物に見えた。  
 ぎらぎらと煌めく瞳は、まるで悪魔の……。  
 
「私はあなたを殺すわ。  
 私が死ぬためには、あなたの中にある私が生き続けなければならない理由を消さなきゃならないのよ。  
 なんであんな馬鹿げた質問をあなたにしたのかしら?  
 あなたに聞かず、さっさと死んでおけばよかったのに」  
 
 た、助けて、くれ……。  
 
 彼女の目が逸れた。  
 頭の中の糸が再び絡まってくる。  
 正常な思考が戻ってきた。  
 
 彼女は月を見ている。  
 
「きっと月が綺麗だったからかもね。  
 とまれ、あなたを殺さなければならなくなったの。  
 でも、あなたが私の言うことを聞いてくれるのなら、殺さないであげてもいいわよ」  
「……あ……ああ……」  
「どう? 生きるか死ぬか? 生きて死ぬよりも酷い目に遭うか。  
 それとも、安逸な死を貪るか」  
「い、生き、たい」  
「いいわよ、私の永遠の奴隷になってくれれば、生かしてあげる」  
 
 永遠の、奴隷……。  
 
「私に魂を捧げて、生殺与奪から何から何までの権利を私に譲るのよ。  
 息を吸うことも、月を見ることも全て私の許しがなければならない体になるの。  
 そんなみじめな魂になっても、あなたは生きたい?」  
「す、好きにしてよ……」  
「……いいだろう」  
 
 彼女は笑った。  
 顔を歪めて。  
 まるで悪魔だ。  
 
 端正に整った白い顔が、歪む。  
 最初に見た、あののっぺらぼうの笑みのようだ。  
 全身の毛が逆立ち、汗が噴出する。  
 
「あっ……つっ……」  
 
 首に何かを突き立てられた。  
 アイスピックのような鋭さの何かが刺さった。  
 
 痛い、痛い。  
 信じられないほど痛い。  
 涙が出てくる。  
 焼け串を当てられたようだ。  
 声が出ない。  
 
 痛みは奇妙だった。  
 首に刺さっているはずなのに、その痛みは瞬く間に全身に広がっていった。  
 体の至る所を、アイスピックか何かで突き刺さされているようだ。  
 全身が激しく痙攣する。  
 振動してせわしなく動く視界に、黒い大きなものが広がった。  
 
 どろどろとした液体のようなものの塊だった。  
 しかしそれはしっかりとした骨があるようで、ゆっくり蠢きながら動いていた。  
 
 こ、これは……翼?  
 ボクの首に食いついている彼女の背中に、それがついていた。  
 まるでヘドロでできているような、今まで見たことのないものは、確かに翼の形をしていた。  
 
 彼女は、一体……?  
 
 次の瞬間大きくむせた。  
 肺から血があふれ出て、口の中から吹き出てきた。  
 息が詰まって、とても苦しい。  
 死んでしまいそうだ。  
 
 次の瞬間、彼女の拘束が解かれた。  
 地面に滑り落ちる。  
 相変わらず口の中には、どんどん新しい血の味が広がっていく。  
 全身の痙攣は止まらず、目の前に生えている草が上下にせわしなく動いている。  
 
「……死んだの?」  
 
 おかしい。  
 口の中から出てくる血でも、これほど多くないはずなのに。  
 ああ、首筋から血が出てきているのか。  
 
「……ねえ、死んだの?」  
 
 なんだか猛烈に眠い。  
 なんでだろう?  
 
 月が綺麗だ。  
 
「死んだの!?」  
 
 もう、ゴールしていいよね……。  
 
「死んだのね!」  
 
 強い衝撃がボクの腹を襲った。  
 力なくうなだれていたボクの体が、サッカーボールのように転がる。  
 
 痛い。  
 まだボクは痛みを感じられるのか。  
 
 ボクの腹へと続けざまに蹴りが入った。  
 彼女だ。  
 彼女が憤怒の表情で、ボクを蹴っている。  
 
 あはは、なんで彼女のような力のある人が、ボクがまだ生きていることに気が付かないんだろう?  
 痛いよ、蹴るのやめてよ……。  
 死んじゃうよ。  
 
「くっ……このクズがッ!」  
 
 酷いよ。  
 まだ生きてるって。  
 
 焦点の定まらない、視界がぼやけてきた目を彼女の方へと向ける。  
 彼女はその目の動きにも気付かないのか、まだボクの腹を蹴り続けている。  
 おどろおどろしい翼が、まだ彼女の背中についているみたいだ。  
 
 やがて、彼女は気が済んだのか、蹴るのをやめてくれた。  
 ただ、まだボクが死んでいるものかと思いこんでいるみたいだ。  
 地面に横たわったボクを見下ろしている。  
 ボクは、何とかしてボクがまだ生きていることを伝えようとした。  
 けれど、うまく体が動かない。  
 もう咳き込まないで、肺から血が溢れでてきているし、首筋から出てくる血も止まりかかっている。  
 一見してみれば、ボクの今の姿は死体の何物でもないだろう。  
 
「……」  
 
 彼女は怒っていたけど、今は悲しそうな顔をしていた。  
 あの赤い瞳から、涙がでている。  
 
「……また、独り……」  
 
 彼女の深い悲しみがボクの心に流れてきた。  
 なんで、彼女の悲しみを感じられるのか、わからない。  
 ただ、彼女が、何故死にたがっていたのかわかったような気がした。  
 
 空から舞い降りてきた天使達の誘いを断り、ボクはこれで最後になるかもしれない機会でちょっと頑張ってみた。  
 彼女はもうボクに背を向けて、この場から立ち去ろうとしている。  
 どこかの街へ行くのだろう。  
 どこだか知らないけど。  
 
「ひ……どい……な」  
 
 かすれた声だった。  
 蚊の鳴くような声だった。  
 これがボクが今できる精一杯の意思表示だった。  
 このたった四文字だけで、寿命が数年減らす気力を使ったような気がする。  
 目を閉じたくなる欲求を必死に押し込め、彼女の反応を待った。  
 
 彼女はゆっくり振り返った。  
 もう目には涙がない。  
 何故、ないんだろう。  
 結構、かわいかったのに。  
 
 彼女は泥まみれで地面に横たわるボクの首を掴んだ。  
 細い腕一本でボクを引き上げている。  
 奇妙な光景だった。  
 さっきまで、白かっただけの女の子が、今では大量の赤に染まっている。  
 特に朱に染まった口の中では、ぬらりとした液体にまみれた鋭い牙があった。  
 その牙のある口を、彼女は何も言わずボクの口に合わせた。  
 
 暖かい液体が口の中から流れ込んでくる。  
 しかし味はわからなかった。  
 だって、今、ボクの口の中からは、流れ込んでくる液体と同じものが満たされているのだから。  
 ぬるりとしたものが口の中に入ってくる。  
 それはまるで何かの生物のように、ボクの口の中をはい回った。  
 その先端から、暖かいものが流れ出てきた。  
 その味はとても甘く、舌がしびれそうなほどだった。  
 
「かっ、はっ……う、うぉぇぇぇぇ」  
 
 彼女がボクを解放してくれた後、思いっきりむせた。  
 気管から吹き出て、食道に詰まった血の塊を排出したのだ。  
 何故か、ボクは、それができるほど回復していた。  
 首の痛みも……血がまだ止まらないが、引いている。  
 前屈みになったボクの襟首が、強引な力で引っ張られ、無理矢理立ち上がらされた。  
 もうボクの体を無理矢理どうこうされることに対して馴れてしまったボクは、  
 次の瞬間また痛い目に遭うのか、と身構えていたが、その予想は外れていた、幸いなことながら。  
 ただ、最初、ドフッという擬音がつくような音が立つくらいの衝撃を受けてしまったけど。  
 
「ありがとう……」  
 
 あの、白子の子がボクに抱きついてきたのだ。痛いほどの力で。  
 半ばしがみついていると言った方が正しいかもしれない。  
 
「生きていてくれて……ありがとう」  
 
 ギリギリと締め付ける力は、ボクの体を引きちぎってしまいそうだったけど、  
 ボクはうめくのを我慢して、彼女の体に手を回した。  
 
 彼女は孤独だったんだ。  
 一体、どのくらいの期間孤独だったのかなんて知らない。  
 ただ、とてつもなく人肌を欲していた。  
 なんで、彼女が孤独だったのかも知らない。  
 ひょっとしたら、人間ではなかったからなのか。  
 
 なんでボクが、その彼女の永遠の奴隷になることを選ばれたのかわからない。  
 でも多分、偶然だと思う。  
 強いて言えば月が綺麗だったからか。  
 
 十分ほど経ったとき、彼女がボクから離れた。  
 胸元が赤く染まった青いドレスの襟を引き下げる。  
 白い肌に鎖骨が浮き出ているのが、とても官能的に見えた。  
 
「吸いなさい」  
 
 彼女は言った。  
 
「いいんですか?」  
「構わないわ」  
「いやしかし、本当にどういう意味なのかわかって言ってるんですか?」  
「それは私を馬鹿にしているの? あなたよりこの体でいるのは長いのよ。  
 いいから早く吸いなさい……ちょっと怖いんだから」  
「は、はあ……」  
 
 ボクはしぶしぶ彼女の首筋に歯を立てた。  
 いつの間にかボクの歯も、彼女の歯のように鋭くとがっていた。  
 彼女の首筋から漏れる液体は、とても甘かった。  
 
 
 体についた血を、河川敷に設置された簡易便所についていた水道で洗い流した。  
 彼女は、しばらくボクの血の匂いに包まれていたいと主張し、洗い流そうとしなかった。  
 
 この若さで人に非らぬものになってしまって、一抹の不安を抱かざるを得なかったりするが、  
 丸い月が不安な心を流してしまった。  
 
「……どう? 気分は」  
 
 彼女がボクの腕に自分の腕を絡ませながら言ってきた。  
 
「頭が痛くて、吐き気がして、動悸は止まらないし、全身がだるく、目眩も少々」  
 
 彼女のためを思い、更に肝臓や胃が痛むことと、足の手の指先がしびれているのと、  
 至る所が筋肉痛になっていることと、耳鳴りが絶えないことは黙っておいた。  
 まあ、まだまだ他にも身体に起こっている異常はあるんだけどね。  
 背中が滅茶苦茶痛かったりするし。  
 
「……怒るよ?」  
 
 彼女の手の力が強くなった。  
 腕がちぎれかねない強さだ。  
 
 ついさっきまでは、畏怖の対象でしかなかった彼女の表情が、  
 今ではなんだかとても愛嬌のあるものに見える。  
 多分、それはボクが彼女と同じものになったからなんだろう。  
 
「正直言って、あんまりわからないよ。ただ、体調は限りなく不調。  
 昔患った肺炎なんてものの数にも入らないほど、辛い」  
「まあ、あなた、さっきまでただの人間だったものね。  
 体が丈夫だったわけでも、特殊な血脈を持っていただけでもない。  
 本当、何故、体が耐え切れたのか不思議に思えるくらいにただの人間だった」  
「過去も、ゴミクズと同じくらいの価値しかないしね」  
「うるさいわね、黙れ」  
「……」  
 
 彼女がボクに接するときの態度が変わった。  
 少し、甘えるな感じだ。  
 心地よいワガママをしてくれる。  
 
「あー、暑いわね〜」  
 
 彼女はそう言って、青いドレスの胸元をはだけた。  
 白い胸元が、目にまぶしい。  
 
 誘ってる。  
 滅茶苦茶誘ってるよ、この人。  
 
「……」  
 
 しかし、いきなり飛びかかるのもどうかと思う。  
 何か気の利いた誘い文句があればいいんだけど。  
 必死に頭の中の記憶を引きずり出して、考える。  
 ただでさえ、そんな台詞なんて考えたこと無いのに、咄嗟のことだったので中々出てこない。  
 
「……茂みに引きずり込んで、無理矢理犯してやろうかしら」  
 
 その前に不穏当な台詞を言われた。  
 
「それはご勘弁願いたいです」  
 
 とりあえず、きっかけは作れた。  
 そっとボクは彼女の背中に手を回し、唇と唇を合わせた。  
 牙と牙がかちかちと当たり、少し痛かったけど、彼女も顔を赤らめてボクに体をゆだねてくれた。  
 彼女の首に残るボクが噛んだ跡に残る血を少し舐める。  
 この世のものとは思えない甘いそれが口の中に広がり、得も言えぬ芳醇な香りが鼻腔を刺激する。  
 
「ふふ……」  
 
 彼女はまるで母親のような優しい手つきでボクの頭を撫でてきた。  
 安心感がボクの胸に広がり、体の痛みが引いていく。  
 痛みが引くと、今度は別の生理現象が起きてきた。  
 
 ペニスがむくむくと大きくなってきた。  
 人間を辞めた直後だからなのか、それとも死にかけたからなのかはっきり理由はわからないけど、  
 ボクは彼女が強く欲しいと思った。  
 
「あ……」  
 
 背中に回した手をゆっくり下に降ろしていく。  
 黒い翼は、まるでそこに何もないかのように手に触れることはなかった。  
 腰より少し下の部分に手を当てる。  
 
「ふぁ……」  
 
 彼女が驚きの声を漏らした。  
 それが恥ずかしいことかのように、口に手を当て、目を丸くして赤くなっている。  
 
 ボクはそのまま指を動かして、感触を楽しんだ。  
 
「あっ……ば、馬鹿……」  
「人を草むらの影で押し倒してやる、って言っている人の言葉じゃないですね」  
「うっ……こ、この、お、覚えてなさいよ」  
「忘れさせてあげるよ」  
「ちょ、調子に乗るんじゃない!」  
 
 言葉では激しく威嚇しつつも、顔は真っ赤に染めて、抵抗らしい抵抗を見せない。  
 スカートの中に手を滑り込ませる。  
 彼女の禁断の場所へと踏み入れようとしたその瞬間。  
 
 閃光が辺りを包み込む。  
 激しい爆風がボクと彼女を飲み込み、灼熱の炎が衣服を残さず焼き尽くしてしまった。  
 
「な、な、なななななな、何なんだ!?」  
 
 思わず口を開いた。  
 口の中に炎が入り込み、肺と胃を焼く。  
 気が付くと、暗かった河川敷は燃えさかる炎によって白昼のように明るく照らされていた。  
 確かに爆風に巻かれたはずのボクと彼女だったが、衣服以外何も焼けていない。  
 何なんだ、一体?  
 
「チッ! なんでいいところに邪魔がッ!」  
「い、今の何なんですか!? てーか、なんでボク、生きてるんですかっ!?」  
「私たちの天敵……だと思いこんでいる馬鹿な人間の集団に襲われたのよ」  
「はぁ!?」  
「ヴァンパイアハンターとかいっちょまえに名乗ってる奴らのこと!  
 クズ共め、今回もまたぶち殺してやる!」  
 
 理解、できないよ。  
 不浄を清める炎の照らす光が、彼女の裸体を映していた。  
 どこまでも白い肌。赤い瞳。  
 銀色の髪……当然下の毛も。  
 
「きゃっ、ちょ、ちょっとどこ見てんのよ!」  
 ったく、もう、状況を理解しなさいっての!  
 ……そんなに見たいの?」  
 
 ボクはただ頷いた。  
 
「じゃ、じゃあ、ちょ、ちょっとだけよ……さわっちゃダメだからね!」  
 
 そう言って彼女は、ゆっくりと股間を隠していた手をどけた。  
 産毛のように見える白い毛の奥に、ただ白い肌の中のピンク色の柔らかな肉が……。  
 ごくりとツバを飲み込む。  
 その柔肉に手を伸ばそうとした瞬間、何かがこめかみにぱちんと当たった。  
 
「いたっ……」  
 
 その何かはぽとりと地面に落ちた。  
 何かを拾ってみると、なんだかよくわからない金属の塊だった。  
 一体何故こんなものが……。  
 
「銀の銃弾よ」  
「……はい?」  
「人間共が我らに通じると思いこみ、せっせと作っているさもしい道具よ。  
 それにあたるよか、蚊に刺された方が痒いからムカツクのよね」  
 
 受け答えをする間にも、銀の銃弾らしいものがボクと彼女の体にぱちぱち当たる。  
 全てひしゃげて、地面にぽろぽろ落ちている。なんでこんなに無駄なことをするんだろう?  
 
「……来たわね」  
 
 彼女が言うのとほぼ同時に、辺りに黒服を来た人達が一斉に現れた。  
 
「ちょうどいいわ、あなたが相手しなさい」  
「い゙っ!? む、無理っすよ。ぼ、ボク、喧嘩とか得意じゃないんで……」  
 
 ざっと二十人くらいが、辺りを囲んでいる。とてもじゃないが勝てそうにない。  
 
「大丈夫よ、あなた、今あなたが人間だと思っているの?」  
 まあ初めてだし、あなたがあの馬鹿共を一人片づけるたびに、私が一つ言うことを聞いてあげるという条件でどお?」  
「む、無茶ですよ……」  
「あら、残念。ネコミミウサミミイヌミミ、果てはキツネミミ装着しながら、シテあげようと思ったのに。  
 望むのならば口でも後ろでも……。あ、そうそう言い忘れていたけど、私、処女なのよ  
 眼鏡かけさせてメイド服着せて、私にご主人様と呼ばれてみたく、ないの?」  
「お、おっしゃあ、お前ら、まとめてかかってこいやーッ!」  
「ふふっ、頑張ってね。私の旦那様」  
 
 数年後、裏の世界で史上最強のヴァンパイア鴛鴦夫婦とボクと彼女が呼ばれるほど、  
 二人は仲良くなっちゃったのでした。  
 

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