「駄目だ…」
352は自分のパソコンの画面を見つめながら、苦しげに呟いた。
時刻は、草木も眠る丑三つ時。
とっとと寝ろ今すぐ寝ろと喚きたてる身体を何とか今まで気合と根性で制し続けていたが、打ち続くこの体と心の闘いも徐々に敗色濃厚となってきた。
メーデーメーデー睡魔が七分に意識が三分です。アパム、アパーム!カフェイン持ってこい!
「このままではベッドさんと掛け布団さんにやさしく抱きしめられて夢の世界へ旅立ってしまいそうだ…」
「あらあら、夜更かしさんですねぇ」
「うっひょおおおおおお?!」
唐突に、耳元で甘い声が囁いた。
飛び跳ねるほど驚いた。深夜だと言うのに、思わずご近所迷惑になるのも省みず叫んでしまう。
こういう時に振り向いてしまうとヤバイとちらり思ったものの後の祭り。思考能力の落ちた脳味噌では勝手に動く体の反射行動をキャンセル出来ずに、振り向いてしまった。
「……は?」
352は、我が目を疑い、ついで己の正気も疑った。
振り向いた視線の先には、一人の女性が身を屈めて、352の見ていたディスプレイを後ろから覗き込んでいたのだ。
ゆったりとした薄手の、ローブかサリーにも似た異国の衣装を身に纏っているのを見ると、日本人ではないだろう。
加えてドアにも窓にも鍵の掛かった一人住まいの部屋にいきなり現れるなど、この女性はおそらく人ですら無い。
「あああ、あ…貴方はいったい誰ですか?」
つけっ放しのディスプレイに表示されていた画面をざっと流し読みしていた綺麗な青い瞳が動いて、352を捕らえた。
眠たげだが優しそうな垂れ目を細めて、やはりどこか眠たそうな口調で自己紹介する。
「うふふ、私ですか?私はぁ、眠りの精ですよ」
ゆるやかに波打つ豊かな髪。
その肢体はゆったりとした純白の服に包まれてなお、豊満さを隠せないでいる。服の上からでも分かるほどの見事な曲線美を描く胸。腰のラインこそ服に隠れてしまって見えないでいるが、そこから続く張りのあるヒップには成熟した女を感じさせる。
ごく間近から香る心地よい女性の匂いに、知らず知らずのうちに、ごくりと352の喉が動いた。
「えーと、その眠りの精さんがなんで我が家に?」
いきなり現れた女性に驚いたり、その女性が素晴らしく綺麗だったりと、色んな理由で胸の鼓動が静まらないものの思考にさほどの混乱は見られない352。
この程度で心底取り乱すようでは、百戦錬磨の人外スレ住人は務まらん、と言う事か。
「それはですねぇ、こちらに夜更かしさんの気配がしたので来たんですよ」
「つまりですね、寝てない子を見つけて寝かしつけるのが、私のお仕事なんです」
「で、その寝てない子っつーのは…」
352は、自分を指差し、物問いたげな視線を向ける。
よく出来ました、と言わんばかりに眠りの精は屈託無く笑った。
「寝たくない理由は人それぞれですけどぉ、寝不足は体によくありませんよ?」
眠りの精が身をかがめて、352の目を覗き込む。
気遣わしげな色を湛える青い瞳の中に、352の姿が映った。
「例えばぁ、生活リズムが崩れてストレスが溜まりますし、酷い時なんかは心筋梗塞の引き金になっちゃたりするんですよ」
右の人差し指を自分の頬に当て、睡眠不足がどんな弊害があるかをそらんじて見せた。
「だから…もう寝た方がいいですよ?」
確かに、このまま待ちつづけたい気持ちはある。
誰よりも早く投下される作品を読み、誰よりも先にリアルタイムグッジョブと書き込みたい。
しかし、目の前の女性が言う事も一理ある。健康や睡眠不足で次の日に出る影響を考えれば、一理どころか二理も三理もあるだろう。
理はあれど、本当ならば、いきなり現れた女の言葉に従う義理なぞ欠片も無い。
しかし、年上のお姉さんに優しくたしなめられる、と言うシチュエーションが352の心から抵抗を取り払ってしまっていた。
「う……分かりました。もう寝ます」
352は彼女の言葉に従った。
「うふふ、素直さんです」
眠りの精は、垂れ目を細めて満足そうに微笑んだ。
そして、寝る為にパソコンのアプリを次々と終了させ、電源を落とそうとする352の目の前で、眠りの精は352が思っても見なかった行動に移った。
「貴方が気持ち良く眠れるように、少しだけお手伝いしてあげますねぇ」
すっと優雅な仕草で眠りの精が床に座った。
足を崩して、お姉さん座りをする。
これから何が起こるのかと戸惑う352に穏やかに微笑みかけ、ぽんぽんと自分の膝を叩く。
「はい、どうぞ」
その意味するところは唯一つ。
「あの…本当にいいんですか?」
「ええ。さ、おいでなさい」
投げかけられる慈母の微笑み。
「で、では失礼して…」
男の浪漫を前に緊張し、微妙にぎくしゃくした動作で352は横になって、彼女の膝におずおずと頭を乗せた。
「どうですかぁ?高さは丁度いいですか?」
頬と後頭部から伝わる温もり。薄い布地を通してかすかに聞こえる彼女の鼓動。
むっちりとした太腿の弾力が頬を押し返し、さきほどにも増して濃く甘い香りが鼻腔をくすぐる。
思わず下半身によろしくない衝動が沸き起こるが、それ以上の抱擁感が身体と心を包みこむ。
352の心に、ここ数年感じた事の無い程の安心感が押し寄せた。
「目を瞑ってくださいな」
シミ一つ無い抜けるような白磁の掌が、352の目元を覆う。
凪いだ海のように静かな口調だが、そこには何者も抗えぬ魔力でも含まれているかのよう。
ゆっくりと352の瞼が落ちる。
ひたひたと潮が満ちるかのように、意識が闇に溶けていく。
「いい夢が見れるように、お歌を歌ってあげますね」
赤子をあやすかのような手付きで、滑らかな指がゆるゆると352の頭を撫でる。
眠りの精は、セイレーンにも負けぬほどの美しい声で、静かに歌いだした。
お花は眠る
月明かり下で
頭を垂れて
茎の上に
お花の木は揺れて
ざわめいてるよ
ねーむれ ねーむれ 眠れ 愛しい子
「ねーむれ、ねーむれ……あらぁ、もう寝ちゃいましたか」
囁くような歌声が途切れる。
視線を落せば、そこには母親の胸に抱かれて眠る幼子のような、実に安らかな352の寝顔があった。
規則正しい寝息を立てる352を起こさないよう、眠りの精は優しく頭を支えてそっと膝から降ろした。
ベッドの上から枕を取ってきて352の頭と床の間に差し込んでやり、体が冷えないようにタオルケットをふわりと被せる。
そして眠りの精は、ぐっすりと眠りこける352の頭の横に座った。
男の顔に掛かった数本の髪の毛を、形の良い指でついと摘んでは除けてやる。
最後に、ゆっくりと顔を下げていき、
「うふふ、次からは気をつけてくださいね〜」
閉じられた352の両の瞼に、眠りの精はそっと口付けた。
「いつまでも起きてるような悪い子はぁ、お目目取っちゃいますよ?」