「ねぇ、かーさん」 
「ラヴィニア、ちょっと待ってね……ん、何かしら?」 
 晩御飯のシチューのお鍋をミトンを使ってリビングへ持ってくるかーさん。 
 今日のは上出来らしくて、後ろで纏めた灰色の髪がぴょこぴょこ機嫌よく揺れている 
「なんでとーさんと結婚したの?」 
「――げほっ、げほっ!」 
「あ、それはわたしも聞きたいかも」 
 私の何気ない質問にとーさんは咳き込んで、暖炉の近くで暖まっていたロレッタが興味深そうに寄ってくる。 
「んー、お見合いなんだけどね……これがもう喋らない人だったのよ、けどちゃーんと優しい人って事が分かったこうやって結婚して貴方達がいるのよ」 
「…………ヘーゼル、その辺にしておいてくれ。恥ずかしい」 
 とーさんがもこもこの毛を震わせて小さく呟く。 
 顔が良く見えないけど、居心地悪そうに耳を震わせている。 
「ふふ、あなたもしかして……照れてる?」 
「そんな事はないぞ、うん」 
「ほんと〜?」 
「ほんとだ」 
「それじゃ、愛してる?」 
「……あぁ」 
「ちゃーんと、言ってよ〜」 
「……なんというか、子供の居る前でな……」 
 かーさんがそれはもう楽しそうに、とーさんとイジめ倒している……これはちょっと長引きそうだ。 
「あー、とーさん、かーさん。仲いいのは分かったからご飯食べたいんだけど?」 
 ちょっと呆れ気味の口調でロレッタが突っ込むと、とーさんは安心したように深いため息をつく。けれど、かーさんは、 
「仕方ないわねー。一度だけでいいわ……"愛してる"って言って頂戴?」 
 あぁ、かーさんらしいというかなんと言うか……言わなかったらとーさんのご飯減らされるんだろうなぁ……。 
「あ、愛してる。ヘーゼル」 
「あはっ♪ 私も愛してるわあ・な・たっ」 
 ……見るのも聞くのも毒だわ。 
 かーさんがとーさんに勢いよく抱きついて甘い声だしてるのも、とーさんがこっちをちらちら様子を伺いながらかーさんを抱き締めているのも知らない。 
 知らないったら知らない。 
「……あら、2人とも暖炉の傍で何やってるの?」 
 後ろ向いて耳を押さえてた筈のなのに胸焼けがして、ロレッタと互いに背中をさすり合う……流石、かーさん。雰囲気だけで私達を酔わせるなんて 
……本当にタダ者じゃない。 
「この際だから、2人に言いたいことがあるの」 
「な、なに、かーさん?」 
 胸焼けからいち早く復帰したロレッタがかーさんの方へ振り向く。私といえば、まだ苦しみ中だ。 
「女の子は何時まで経っても『お姫様』。それを忘れなければいつか『王子様』が来るわ……それまで自分のやれる事を最大限頑張りなさい」 
「「……」」 
 かーさんが、あまりにいい事を言ったので思わず振り返ってその綺麗な顔をまじまじと見つめてしまった。 
 ちらりとロレッタの方を見てみると目と口を大きく空けて驚いているみたい。 
「ほーら、間抜けな顔してると『王子様』が逃げちゃうわよっ! ……あ、そうだ、あなた。小皿持ってくるの忘れたからお願いできるかしら?」 
「あぁ」 
 そう短く答えると、もそもそと、とーさんは台所の方へ消える。 
「ラヴィニア、ロレッタ……」 
 とーさんと手伝おうと、追っかけようとしたけれどかーさんに呼び止められる。 
 私の戦い方の先生をしている時の声はとっても怖いけど、今はすごく優しい。 
「え……ちょっと……」 
「うわわわっ」 
 ぎゅうぅぅっと2人そろって抱き締められる。 
 決して強くは無いけれど、何故か胸が締め付けられるような……そんな感じだ。 
「貴方達は、素直じゃないし、男の子が引くような強気になる事も多いだろうし……なにより不器用だから損することも多いと思う」 
 そこで一旦、かーさんは切る。そして一息。 
「ロレッタ……貴方は周りを確かめることばかりで自分を見ない事が多いわ。だから気をつける事。いい?」 
「……うん、分かった」 
「ラヴィニア」 
「は、はいっ!?」 
 何を言われるのかが怖くて体を震わせる私。 
 でもかーさんの声はとても優しかった。 
「貴方は、前ばかり見て自分を損なうことを恐れないのがダメよ。……まぁ、『王』としては美徳なんでしょうけど女の子なら一度でもいい 
……男の子に守ってもらいなさい」 
「守って、もらう?」 
 いまいちその概念が分からない。 
「そうしたら、貴方はいい君主にもいいお姉ちゃんにも……いい『お姫様』にもなれるわ」 
「うん……頑張ってみる」 
 よく分からないけれど、心の奥に響く言葉だった。 
 うんっ、頑張らなきゃね! 
「ヘーゼル。どこにあるんだー?」 
「あ、今行きまーす……それじゃ2人とも手を洗ってきなさい」 
 ちょっと奥からとーさんの困ったような声。 
 それに返事をしたかーさんは、私達を放して洗面所の方へぽんっと押した。 
 ――あの時は分からなかったかーさんの言葉。 
 あれから10年……今更ながら分かった気もする。でもここは夢の中、起きたら忘れてしまう真実。 
 それでも今だけは、分かった事を大事にしたいと思う。 
 
 
 
                               
         §     §     1     §     § 
 
 
 
 
 がたごとと足元からの振動が俺の体をを微妙に揺らし、窓から見る風景がゆっくりと流れていく。 
「……はぁ」 
 何の因果か、俺はご主人様と馬車に揺られて既に三日目。 
 最初は初めて乗った馬車が珍しくて楽しかったが、山と平地と川ばかり見せられては流石に飽きもしてくる。 
 仕方ないので、昼寝でもしようかと思ったが馬車に揺られるという経験が無い俺にはちょっと難しい。それともう一つ。 
「……んん」 
 俺の体に体重を預け、頭を肩に乗せてぐっすりと寝こけるご主人様。 
 誰も居ない事をいい事にひたすらべったりしていたかと思うと、いつの間にかこの体勢でだったので逃げようが無い。 
「んふ」 
 お、笑った。いい夢見ているといいのだけれど。 
 それはともかく、こうやって居眠りしている横顔は贔屓目を抜いても、無邪気でとても可愛い。しかし、なんでこの人は俺に対してこうも無防備でいられるのだろうか? 
 二人っきりになるとこうやってべたべたしてくる事が最近増えた。 
 嫌……ではないけれど、こういう態度を向けられたのは初めてでどうしていいか全く分からないし、もしもねえさんに聞けるとしたら『自分で考えなさい』といわれるのがオチだろう。 
 好意の類なのだろうけど、返し方も受け取り方も分からない俺には流すしか方法が無い。――と、石でも踏んだのが馬車が一瞬大きく揺れると同時に、 
俺の肩にあったご主人様の頭が、俺の太ももの辺りへ落ちる。 
「ぅ……んんんっ」 
 流石に起きるかと思ったが、眉を一瞬顰めただけで表情にはなんら変わりが無い。 
 しかし、寝心地が気に入らないのか、まるでおがくずを掘って寝床を確保するハムスターように頭を回し、整地が終わると 
また静かに寝息を立て始めるご主人様。……どうやらこだわりがあるらしい。 
「全く、貴女は俺に何処に連れて行く気なんですか?」 
 さまざま問題は山積みだが目の前にあるのはコレなのだが……そんな事を考えながら、その寝顔をじっくり鑑賞していると 
もぞもぞとご主人様が動き出す。 
「ん、む……リゼット?」 
「は?」 
 むくりと顔を上げた第一声がコレ。 
 寝言かと思った直後、馬の蹄の鳴る音と共に馬車の扉から3回ノック音。そちらの方を向いてみると馬に跨ったリゼットさんの姿が見える。 
「二人とも、起きてるー?」 
「えぇ、大丈夫よ」 
「あ、はい」 
 俺がボケっとしている僅かな間にご主人様は寝癖を直し、居眠りの痕跡を掻き消して平然としている姿は流石というかなんと言うか。 
「商会のキャラバンは周りの村に行くけど、この馬車はこのまま町に向かうんだけどいい?」 
「えぇ分かったわ。……という事は夕方に着く訳だけどいつもの所に泊まればいいのね」 
「予約はしてあるから、私の名前出せばいいはずよ……リョウ君、大丈夫?」 
 分からない話を聞かされてチンプンカンプンな状態な俺はかなり間抜けな顔をしていたのだろう、それを心配してかリゼットさんが声を掛けてくる。 
「何で馬車に乗っているのかという所から説明が欲しいですが……?」 
「ラヴィニア、リョウ君を説明して連れてきたの?」 
 リゼットさんの質問に口に手を当てて考え込むご主人様。数秒間考えて出した答えは…… 
「……おかしいわ、説明した記憶が無い」 
「当たり前ですッ!」 
 あー、頭痛くなりそう。と、俺が頭を抱えている間にも事態は進行する。 
「色ボケするには早すぎるだから、ちゃんと説明しておきなさいよ?」 
「そうするわ……って、誰が! いつ! 色ボケしたのよッ!」 
「じゃ、指示ださなきゃいけないから」 
「質問に答えなさい〜っ!!」 
 ご主人様は扉から身を乗り出して抗議するが時既に遅し。リゼットさんは馬に乗ってさっさと前の方へ行ってしまう。 
 その後姿を眺める事しか出来ないからか、ご主人様の表情はかなり悔しそうだ。 
「うぅ……いつか、いつか勝ってやる……と、それはともかく」 
 結構落ち込んだように見えたが、すぐにいつものご主人様に戻る。この切り替えの早さは正直羨ましい。 
「リゼットの商会本部がこの先の都市にあるの。それと同時に達の町への移民の裏口にもなってるの」 
「移民?」 
 確かにネズミだけでなくイヌやトラも居たが、その人達は移民だったのか。 
「まぁ、何らかの事情で故郷に居られなくなったり、行き倒れを引き取ってるだけなんだけどね」 
「あれ、ネズミは隠れてるんじゃ?」 
 俺のその問いに満足げにご主人様を頷き、説明を続ける。 
「良く覚えてたわね。勿論、理想は完全隠蔽だけど今の時代それは不可能よ。だけど最小限度に抑える事が出来る」 
「具体的には?」 
「他の種族を用いての接触、商会を通して情報操作が主よ……昔はピンポイントな力技も使われたけどね」 
「ピンポイントな力技?」 
「……要は暗殺よ」 
 ご主人様は顔を曇らせ言いづらいからか、間をしばらく空けて答える。……言葉尻から予想は付いたがそこまでしてたのか。 
「ま、まぁ、お婆様の時代辺りからそういうのも消えたし今は無いわ。で、本題よ」 
 強引な話題変更だが、これ以上薮蛇をするのもちょっとアレだ。 
「商会の情報操作をする以上、私達も情報に精通しなきゃならないの。ここまではいい?」 
「はい、大丈夫です」 
 俺の返事を確認し、ご主人様は口を開く。 
「必然的に、私達には不要な情報も入ってくる訳だけど、そういうのは売って予算の足しにするの」 
 かなり上機嫌に説明する姿を見ていると、多分教えるのが好きなのだろう。 
 生まれが違っていれば恐らくいい先生になっただろう……いけないいけない、しっかり聞かないと後が怖い。 
「情報の売り買いする場所を地下に作ってあるの……それが"迷宮"よ」 
「"迷宮"?」 
 ただの場所なのにやけに重々しい呼び名だ。 
「元は地下下水の筈だったんだけど計画は頓挫。そこを私達が改造して、素人が案内人なしで入り込むと死ぬから"迷宮"なの」 
「でも、ネコの国の役人とかが見に来ないんですか?」 
 幾ら頓挫した計画とはいえ、事故が無いように見て回ると思う。 
「ネコってものぐさだからね、まず来ないわ。まぁ来ても賄賂か脅迫で何とかするわ」 
 ……『賄賂か脅迫』なんて物騒な台詞をにこやかな表情で言われても、そのなんだ、答えに困る。 
 そんな考えが顔に出ていたのだろう、ご主人様は苦笑していたが、途端に弱気そうな笑顔に変わる。 
「そこの視察ってのが今回の名目なんだけど、私としてはりょーにも他の街を見せたいってのもあるんだけど……嫌?」 
「……断ったら俺はここからどうやって帰るんですか?」 
 歩きは論外、それ以前に俺は帰り道を知らない 
「えーと」 
「大体、ご主人様は強引な所があるんですから、他人の事情を考えるとかしましょう」 
「……はい」 
「思いつきもいいですが、たまには予定通りに動いてください……仮にもスケジュール管理してるんですからね」 
「…………はい」 
 調子に乗って説教をしてみるが効果は絶大。萎れた花のようにしょぼくれているご主人様。とはいえ、余り落ち込んで 
暗くなられても具合が悪い。 
 ちょっとはサービスしたほうがいいかな? 
「……?」 
「ごめんご主人様、言い過ぎたよ」 
 俺が取った手法は極めて単純。頭を撫でる事だ。 
 今までの経験からこれで落ち着くはず、なのだがご主人様は押し黙ったままだ。 
「あー、嫌なら止めるけど?」 
「い、嫌じゃないわ」 
 頭を撫でていると耳が右にびくびく、左にふらふら。なにを考えているのか分かりづらい事この上ない。 
「そりゃ良かった。あっちに着いたら案内お願いできますか」 
「う、うん」 
 一応綺麗に纏めたかな?そう思って、撫でていた手を離そうとすると手首をご主人様にしっかり掴まれてホールド。 
「えっと、話止めれないですけど……?」 
「私が『やめていい』って言うまでやってくれないかな……ダメ?」 
「べ、別にいいですよ」 
 この発言はかなり予想外。だが、上目遣いでそんな事を言われたら俺には断れない。 
 結局ご主人様が『やめていい』と言ったのは、商会の本部があるという都市の壁門につく直前だった。 
 迂闊な事はやるもんじゃない……改めて俺はそう学んだ数時間だった。 
 
 
 
「じゃ、後はよろしくね」 
「御意に」 
 ご主人様は馬車の御者さんにそう言うと、俺の手を引っ張って歩く。 
 いつもなら耳の様子を見て楽しむのだが、今回は頭まですっぽりとフードを被って、俺もご主人様も揃って偽装工作。 
 日中なら不自然極まりない格好だが、街の中に入った頃には既に日が落ちていてあんまり目立たない。 
「りょー、お腹空いてない?」 
「保存食ばかりでしたから、空いてますけどホテルでも取れるんじゃ?」 
「この格好でホテルの食堂いけないでしょ? ルームサービスも面倒だしね」 
 少なくとも俺がヒトだと知られればいろいろ面倒な事になるのは容易に予想できる。 
「で、どう?」 
「やっぱり、立派ですね……」 
 石畳はネズミの集落と同じだが、整備のレベルが違う。全くといっていいほど隙間や段差がないほどだ。 
 さらには日が沈んだばかりだと言うのにガス灯の様な物に火が灯り始めている。 
「私としては、目指すはココなんだけど……やっぱ資本のレベルが違うわね」 
 苦笑を折り込んで、そんな事を言うご主人様。 
 確かに建物はところ狭しと並び、かなり繁盛しているように見える。……けどさ、 
「なにも卑下する事ないでしょうに。ここにはここの、あっちにはあっちの良さがあるんですから、ね?」 
「……そうね、ありがと」 
「どういたしまして」 
 それっきり会話も無く、ただただ、ご主人様に手を引かれるだけの俺。 
 耳が見えないからいまいち確証はないけど、機嫌が良くなったように見える。 
「それじゃココで食べましょ。ここの主人がリゼットの実家の知り合いみたいで協力してくれるのよ」 
「へぇ」 
 覚えられないくらい曲がりくねった道を通り、たどり着いたのは小さな木造の食堂……というか酒場だ。 
 見た目はかなりボロだが、中からはかなり騒がしい笑い声が絶えず聞こえてくる。 
「ほらほら、行くわよ」 
「え、えぇ」 
 ご主人様は戸惑う俺を引きずる様に入ると、かなり濃い酒の臭いが充満していて、その濃さに酔ってしまいそうになる。 
「大丈夫?」 
「慣れれば、なんとか」 
「無理しちゃダメだよ? さてオヤジさんいるかな?」 
 ご主人様は、きょろきょろと見回しながらカウンターへ。 
 勿論手を繋いだままなのだが、俺を心配してかたまにこちらを見るものだからちょっと危なっかしい。 
「ん……お嬢様、連絡は受けています」 
 俺がハラハラしていたのだが何事も無く目的のカウンターに着くとそこにはかなり年を取った様に見える男のネコさん。 
 手が広いと聞いてはいたが、ここまでとは流石に思わなかった。 
「そ、そこまでリゼットに読まれてたのね……とりあえず腹ごしらえしたいんだけどいいかな?」 
「分かりました、こちらがメニューです」 
 俺とご主人様を席に座り、渡されたメニューを開く。 
「私はこれとこれ……って、りょー読める?」 
「あー、無理です」 
 文字の拾い読み程度ならまだしもメニューが読めるまでは流石に無理。出来れば早く覚えたいのだけれどこれだけはどうにもならない。 
「とりあえず、干し肉ばかりだったんで野菜が食べたいかなーと思うんですけど」 
「わかったわ……オヤジさん、野菜炒めも追加で」 
「はい」 
 と、奥の厨房へ消えるネコのオヤジさん。待ってる時間をどうしようかと考える暇もなく、すぐに料理を手に戻ってくる。 
「や、やけに早いわね」 
「リゼット様が『どうせこれ頼むでしょ?』という事で連絡を受けていたので準備しておりました」 
「「……」」 
 それを聞いて呆然とする俺達。 
 いくらなんでもリゼットさん気を利かせすぎというか……どこまで俺らの行動読まれているんだ。 
「と、とりあえず冷めない内に食べましょ」 
「そうですね……変な薬でも入ってなきゃいいんですけど」 
「ありえないわ、多分」 
「きっと大丈夫ですよね、ははは……」 
 悪戯好きなリゼットさんの事だからあるかもしれない……そんな疑心暗鬼に囚われそうになりながら、出された各々の料理 
に対し手を合わせる。 
「「いただきます」」 
 ご主人様の方は春巻きの様な物とデザートのつもりなのかチーズケーキのセット。そして俺のは野菜炒め。って、 
キノコ入ってる。嫌いだからのけておこう。 
「で、お嬢様。お聞きしたい事が」 
「ん、なにかしら?」 
 食べるのを中断し、フォークを置く動きさえも気品というか育ちのよさが出ていると思うのは奴隷としての欲目かな? 
「そちらの男性は、リゼット様から恋人とお聞きしたのですが本当ですか?」 
「ち――ぐぇ」 
「――えぇ、そうよ」 
 否定しようとしたら見事なタイミングで足を踏まれて声が出せない。さらに今のご主人様の靴はブーツだから物凄く痛い。 
「ほほぅ、世継ぎも安泰ですな」 
「やだなぁ、もうっ」 
 手を顔に当て、頬を朱に染めつつ顔をオヤジさんから背ける仕草はまさに恋する乙女だが、俺はそのつもりはまだ無いっ! 
 そもそも色恋ネタなんてのはかなり苦手で出来ればそういう話題は避けて通りたい……なんにしろ、面倒事は避けるに限る。 
「あなた、キノコ残しちゃダメでしょ?」 
「あ、あなた!?」 
 俺が現実逃避してる間にそこまで話が進んでいたらしい。 
「ほらほら、あーん♪」 
「あ、いや、それは勘弁してくれ……」 
 フォークに皿の端に避けたキノコを刺して俺の口元まで持ってくるご主人様。 
 フードの中から覗く目は悪戯心の塊で俺では止めれない。ここまでの症状はロレッタでもつれてこない限りは修正不可能……つまるところ"諦めろ"。 
「ほら、カビとかその仲間のキノコを食べるなんて健康に悪いしさ。ご、ラヴィニアが食べればいいんじゃないかな?」 
 嗚呼万歳、無駄な抵抗。 
 ご主人様の演技に合わせてしまう俺も俺だが、ここでやらなかったらもっとひどい目に合いそうだ。 
 それはともかく、カビの仲間のキノコだけは勘弁して欲しい。 
「んー、私の手からは食べれないってーの?」 
「そんな酔っ払いみたいな……あ゙」 
 ご主人様の手元にコップの影、しかもその影はジョッキみたいな形をしている。 
 つまり……? 
「酔っ払い!?」 
「ほらほら〜♪」 
「お、落ち着いて、落ち着いて! ラヴィニアっ!?」 
 酔っ払いのしつこさは、とーさんからの経験から良く分かっているが、断固拒否。 
「……ふーんだ、私の手から物は食べれないって事ね。へー」 
「いや、そういう訳じゃなくてね?」 
「浮気して私なんか捨てられるんだわ……仮にも姫を袖にするなんていい度胸よねー。どう思うオヤジさん?」 
 と、ジョッキをカブ飲みし、一人いじける主人様。 
 酔っ払いの演技だというのに心がシクシク痛む。……人が良すぎだ俺。 
「袖に振りませんし、浮気もしません。キノコも食べますから、そんなに落ち込まないでください」 
 無論、俺がご主人様の恋人としての演技ではあるが俺自身の本心の一部分でもある。 
「本当に?」 
「本当ですよ」 
 俺はしっかりとご主人様の目を見据えて答えるが、返ってくる眼差しは妙に真剣。……ってこの人素面か!? 
「それじゃ食べてね。あーん♪」 
「……もうどうにでもなれ……あーん」 
 今更逃げるわけにもいかず、カビの仲間をご主人様の手から食べる。 
 この世の不条理をかみ締め、その味はとても無常だ。 
「では、お幸せに」 
 そんな事を言いつつ、微笑ましい物を見るような顔をしたオヤジさんは別のカウンター席の方へ行ってしまう。 
「んふ、もう一つ、ね?」 
 幸せそうなご主人様に何も言えず、大人しく食べる俺。 
 こういう態度されるといつも悩んでしまう。 
 "家族"と言ってくれた。ちょっと告白じみた事も言われた。けど……ご主人様にとって俺は一体なんなのか。 
 本当に……女の子の考える事は分からない。 
 
 
 
 食堂を出て見ると日はすっかり落ちて完全に夜。 
 こりゃいけないと思い、ホテルへ急ぐ俺達。 
「ご主人様っ、ま、待って……」 
「急がないと、予約の時間に間に合わないよっ!」 
 ご主人様の方が食べた量は多いはずなのに、俺より早く動けるのは基礎的な身体能力の差か。 
 それはともかく……うぅ、わき腹が痛い。 
「あぁ、もうッ!」 
 予約が無効になって、野宿するよりマシ。 
 それだけを胸に、ひたすらご主人様と一緒に夜の街走る。 
 ご主人様のフードが飛ばされそうになったり、俺が道に落ちてる空瓶に躓いて転びそうになるのを助けてもらったりしながらだったけど 
楽しかったのは否定しない。 
 その楽しい時間を名残惜しみながら、なんとか目的地であるホテルに到着。 
「それにしても、すごい豪華ですね」 
「いつもはもっと質素なんだけど……リゼットも何を考えているのかしら……?」 
 三階建ての豪華なホテル。ご主人様と特に動じていないが、俺は気後れして思わず後ずさってしまう。 
「ほら、しゃんとする。不審そうな態度取ってると通報されちゃうでしょ?」 
「いやでも……」 
「変に気にかけるから負けなのよ。こういう所は多少見た目が変でも金払いさえ良ければ泊めてくれるのよ」 
「そんなもんなのでしょうか……?」 
 妙にきっぱりと言い切るのが気にかかるが、ご主人様の言うとおりなのかもしれない。 
 それにしても、だ。 
「ご主人様、まさか酔ってませんよね?」 
 いくら少ないとはいえお酒を飲んで走り回ったのだ、酔いが回っている可能性も否定できない。 
「あはは、私があの程度で酔うはずがないじゃない」 
 確かに足元は全くふらついていないし、口調にも乱れたところはない。……が、不安だ。 
 最終確認をした俺達は、回転扉を抜け、そのままフロントの方へ向かう。 
「あ、すみません。リゼット・メイフィールドの名前で予約してあるはずなんですけど」 
「はい……ラヴィニア・ヒュッケルバイト様とお連れ様の二名様ですね?」 
 中のロビーもかなり豪華でこの格好が浮いていると思うのだが、接客している人の態度に変わりはない。 
 これがプロの仕事なのだろう。 
「えぇ、そうよ。荷物とかは届いているかしら?」 
「勿論です。では、部屋をボーイに案内――」 
「それには及ばないわ。私たちで行けると思うから」 
「分かりました……こちらがキーになります」 
 と、受付のネコさんが後ろに並んでいるキーの一つを探し取り出し、受け取るご主人様。 
 そこにある数字を何とか読み取ると"305"……多分3階なのだろう。 
「ん、ありがと」 
「いい夜を」 
「貴方もね。……それじゃ、行きましょ」 
「はい」 
 これまた立派な階段を登り、3階へ。 
 手摺にすら贅を凝らして彫っているのだから、このホテルの高級さがわかるというものだ。 
「305、305……ここね」 
「そのようですね」 
 ご主人様が所々に置かれている案内図を見ながら歩くので、少々時間は掛かったがなんとか部屋まで辿り着く。 
 ……隣のドアはかなり大きいのでおそらくスイートルームか何かで、この部屋はセミスイートって所だろうか? 
 フロントで貰った鍵でドアを開けようとしているご主人様の背中を見ていると、何故か嫌な予感が湧き上がる。 
「……いや、まさか……ありえないよな」 
「ん、どうかしたの?」 
「な、なんでもないです」 
 俺はそう言って、ご主人様と一緒に部屋へ入る。 
 当然の如く、中は豪華。だが予想通り二部屋程度でスイートルームではないようだが、それでもかなり宿泊代金がとられそうな部屋だ。 
「りょー、ベットルームはこっちみたいよ。見てみる?」 
「……それだ」 
「は?」 
「気をつけてください。罠があるかもしれません」 
「え、え?」 
 ご主人様は目を白黒させて慌てているが、あのリゼットさんがすんなりと部屋を用意するだろうか? 
 俺の答えは『ありえない』 
 何でもかんでも茶化して面白がる性格から考えると、先回りしてベットルームに何か仕掛けていてもおかしくない。 
 事実、さっきの酒場でも俺たちの行動は読まれていたのだからこの程度の事は朝飯前なのだろう。 
「ご主人様は俺の後から付いて来てください、リゼットさんの罠があるかもしれません」 
「……ありうるわね。リゼットなぜかニンマリしてた気もするし」 
 ご主人様も同じような思考に至ったらしく、俺の指示に大人しく従ってくれる。 
「それじゃ、開けますよ――」 
 開けた瞬間に、俺達は身を屈め飛来物に警戒。 
 傍から見ればおかしい光景だが、やってる側は極めて真剣だ。 
「な、何もないみたいね」 
 おそるおそる中を見てみると、落ち着いた雰囲気の部屋にダブルサイズのベットが一つ。……なんらおかしい所はない。 
「やっぱり、私達の思い過ごしじゃ……」 
「……流石にホテルには悪戯できなかったのかな?」 
「まぁ高い部屋だから弁償代が洒落にならないし、ありえない話ではないわ」 
 そこでようやく溜息を吐いて力を抜く俺達。 
 そもそも、あの人なら部屋に入って来る時になんかしら仕掛けるのだから、わざわざベットルームにだけってのは 
考えすぎなのかもしれない。 
 妙な脱力感を感じつつ、届けられた自分の荷物を確認。とは言っても俺のは数日分の着替えだけで大した量ではない。 
 しかし、女の子であるご主人様は違うらしく、トランクケース一個分をぎっしり入っている……あんまりジロジロみるもんじゃないね。 
「なんか気が抜けちゃった……汗流してくるね」 
「ん、いってらっしゃい」 
 そう何気なく言ったのだが、ご主人様は悪戯っぽい表情になって、 
「覗いちゃダメだよ?」 
「覗きませんからお好きなだけ存分にどうぞ」 
 なんでもないように装って冷静に切り返す俺……この手のからかいネタはねえさんで習得済みだ。 
 俺の反応がかなり淡白だったからか、ぶぅっと頬を膨らませるご主人様。こういう時にまともに相手すると疲れるだけだ。 
「それじゃ……一緒に入ろうか?」 
「――ゲホッ! ゲホッ! な、何を言ってるんですかっ、ご主人様ッ!」 
「冗談よ、じょーだん♪」 
 そう機嫌よく言い、着替えを持ってバスルームに消えるご主人様。 
 流石に今の冗談は笑えない。 
「さて、と」 
 ご主人様のシャワーを浴びている間に、ベットルームを粗探ししなくてはいけない。 
 リゼットさん相手に油断は騒動の種だ。 
 ベットの下を見てみたり、小物をひっくり返してみたりいろいろやるが何にも見つからない。 
「んー、なにやってるの?」 
 ついつい無い物探しに熱を上げてしまい、声を掛けられるまでシャワーを浴び終わったご主人様に気づかなかった。 
「なにか仕掛けられてないかなーと……」 
 振り向くと、髪まで洗ったのかしっとりと長い髪が濡れ、丁寧に拭くご主人様。 
 濡れた髪の毛が室内灯の淡い明かりを反射して、妙な色気が出ていて見惚れてしまった。 
「ん? なんかわたしの顔についてる?」 
「あ、いえ何でもないです」 
「それでさ、これ、どーかなこれ?」 
 ピンク色のパジャマを見せびらかすように両手を広げるご主人様。さらに大きめの袖を掴んで、モデルかなにかのようにく 
るっと一回転。 
 確かこんな色のパジャマは持ってなかった筈。ってことは、新品か? 
「えーと、うん、よく似合ってるよ」 
 ロレッタならともかく、スラリとしたご主人様にはアンバランスな印象を受ける。……それが逆にいいと思った俺も俺だけどね……。 
「お世辞でも嬉しいわ。……シャワー浴びるとさっぱりするけど、浴びる?」 
「お言葉に甘えましてそうさせて頂きます」 
「ふふ、気障な台詞は似合わないわよ」 
「……そうですね、はぁ」 
 改めてそういう台詞が似合わない事を再確認し、予め準備しておいた着替えをもってバスルームへ。 
 ホテルにありがちな風呂とトイレのセットなどではなく、ちゃんと分かれている。 
 ご主人様のように長い髪をしている訳でもなく、なんにも気を使ってない俺は軽く汗を流すだけだ。 
 バスルームから出た俺は着替えるが、ヒトのオスという俺の体に合うパジャマなどあるわけも無い。 
「ふう……ありゃ?」 
 そういう訳で急ごしらえの寝汗を吸い易い麻っぽい生地の寝間着に着替える。と、俺の足元に白い小瓶が落ちている。 
 拾ってみてみるとこの前買ったご主人様のシャンプーの香りがする。……あの髪を維持するにはこれで無いとダメらしい。 
「ご主人様ー、シャンプー忘れてるよー」 
「えっ? ご、ごめん、持ってきてくれないー? 手が離せないのー」 
 ベットルームを覗いてみると、大きなダブルサイズのベットに腰掛けて自分の髪をブラッシング中。 
 これでは確かに手が離せまい。 
「はい、忘れ物」 
「ありがとね、りょー。そこに置いといて」 
 大事そうに髪を抱えている姿はまるで卵を抱く親鳥のようで、どれだけ大事か分かるというものだ。 
「あ、そうだ。どうせなら私の髪を梳いて欲しいんだけど…………ダメかな?」 
 ご主人様にしては、弱気な発言。いつもこんななら断りやすいのだが……それ以前に断れるほどの甲斐性が俺にある訳がないが。 
「いいですけど、俺経験ありませんよ?」 
 ご主人様と同じようにベットに腰掛け、さっきまで使っていた櫛を受け取る。 
 所々傷が付いているが、よく手入れがされていて大事にされているのが良く分かる。 
「えーと、実際やってみて。ダメなとこ注意していくから」 
「はい」 
 そう促され、綺麗な蜂蜜色と白が混じった髪を手に取り、櫛を通す。 
「うん上手上手。その調子で続けて頂戴。……本当は他の人にやってもらうのが一番なんだけどねー」 
「へぇ」 
 前も手櫛をしたことあるが、湯上りだからかその時以上に櫛がよく通る。だがこんなに綺麗な髪にする努力は一朝一夕では無い筈だ。 
 そんな綺麗な髪に触れるなら役得かな? 
「〜♪」 
 ここからではご主人様の後姿しか見えないが、耳が垂れて相当リラックスしているのが見て取れる。 
「それでさ、この髪に触って生きてる人は……りょー、今のところ貴方だけなの」 
 何か重大な事を言ったような気もするが、ご主人様の口調はひたすらのんびり。 
 俺は静かに、ただひたすら櫛を動かす。それをご主人様がどう捉えたのか分からないが言葉を重ねる。 
「とーさんもかーさんも、お婆様もお爺様もみんな早死にしちゃうから………ロレッタやリゼットにも髪を触らせないの」 
「……」 
 よく聞くとご主人様の口調はのんびりしているが、全く感情を感じさせないのんびりさだ。しかも耳の方も垂れたままで読み取れない。 
 正直どう答えていいのか分からない。否、答えてもいいのかさえも分からない。 
「出来ればりょーには触らせたくなかった。けど、もう何回も触ってるし、どうしようもないかな……ってね。だからごめ――」 
「とりあえず、そこまで」 
「え、え?」 
 首を僅かに回したご主人様が俺の方を向くが、その表情は驚きの一色。 
 何を考えてそんな事を言っているのか分からないが、黙って聞いてるのは性に合わない。 
「それを知ってても触ってると思いますよ、俺は」 
「……怖くないの?」 
「まさか、こんな綺麗な髪触ってみたいですよ」 
 ちっとばかし気障過ぎ……? 
「ふふ、やっぱりそういう台詞似合わないよ」 
「分かっていますからそれ以上突っ込まないでください。……なんにしても、ご主人様の髪にこの世じゃ俺しか触ってないって事ですよね」 
「…………うん、そうね」 
 事実確認をしただけなのに妙な沈黙はなに? と訊きたいが、ご主人様はベットを軽く叩いたり、身じろぎしたりして何故か落ち着きがない。 
 この状況で訊いてもまともな答えは期待しても無駄だろう。 
「あっ!!」 
「うおっ!?」 
 妙な沈黙の中、何かに気づいたような大きな声を上げるご主人様。 
 静けさを心地よく享受していた俺は、心臓が飛び出るほどビックリ。思わず櫛を落とすところだった。 
「……私はこのベットで寝るつもりなんだけど、りょーは何処で寝るの?」 
「そりゃ、このベット……って、まさか……っ」 
 ここで泊まるのは俺とご主人様の二人。しかしベットは一つ。これでは一緒に……いや、大丈夫。 
「俺がソファとか床で寝れば何の問題もありませんよ」 
「却下よ」 
 打てば響くほど早い"却下"の即答。 
「りょーだって、ずっと慣れない馬車で寝ていたでしょ? 私が……」 
「女の子を下に寝かせるのも却下です」 
 そういう事はするなと、ねーさんにも厳命されていたしなぁ……まぁあちらの世界じゃまずありえない事態だが。 
「だから、俺が床とかで寝れば済むじゃないですか」 
「……私の髪に触った人はすぐに死んじゃうから、出来るだけ病気になるような行動は避けたいの」 
 さっきの食べ物の好き嫌いの事も全部俺の為なんだろうけど……そんなこと言われたら俺も強硬な事は言えない 
「あぁ、もうっ! 一緒に寝るくらいしか解決策がありませんよ?」 
「それよっ!!」 
 何気なく冗談のつもりで言ったのだが、ご主人様は名案とばかりに手を叩いて喜ぶ。 
「ちょうどいいことにベットも大きいし、二人で寝ても大丈夫よ」 
 うんうんと頷き、俺の手の中の長い髪が揺れる。 
 あー折角そろえたのに、またやり直しだよ……。 
「何か間違いがあったらどうするんですか」 
「間違い、ねぇ?」 
 可愛らしく首を傾げるご主人様。 
 当事者である俺が言うのはおかしい台詞だが、こうでもしないとご主人様は止まらない。 
「りょーは、私に……間違い、するつもり……?」 
「っっ」 
 きわどい質問されて思わず櫛を止めそうになる……ここで動揺を見せたらダメだ。 
「ほら、男と一緒に寝るなんてご主人様も嫌でしょうから――」 
「……私はそんなこと訊いていないわ。りょーが言う"間違い"を貴方は私にするつもりか、と訊いてるのよ」 
 バッカスさんに啖呵を切ったのとご主人様達とのあの騒動から二週間ちょっと。 
 あの時からこんな事を言われるのではないかと恐れてた。 
 あーいう事は俺も男だから嫌ではないけれど、ここで負けたらご主人様達とやっとで作った"家族"という関係を壊してしまう。 
 さらに俺がご主人様かロレッタのどちらかを贔屓にすれば、彼女らの間に亀裂が入ってもおかしく無い。 
 バランス取り……という訳ではないけれど、俺の行動一つでこの居心地のいい場所が消えてしまうのは惜しすぎる。 
「やりませんよ……理性が飛んだら知りませんけど」 
「ふーん、そっか。理性飛ばさないとダメなのか」 
「はぁ!? ななな何を言ってるんですか!?」 
 固まった俺の手の中から髪を引き抜いて、こちらを振り向くご主人様。 
 その眼差しはふざけているような要素は全くせず、ただひたすら真っ直ぐだ。 
「私には、りょーの理性を飛ばせるほどの魅力……ないかな?」 
 首に手を回し、しなだれかかってくるご主人様。 
 互いの息遣いが分かるほど顔を接近させ、濡れた唇が艶かしい。 
「別に、私は……いいよ」 
 ――多分俺は、鯉のように口をぱくぱくしていたと思う。 
 これだけ顔が近いのだから抜けるような肌の白さ、潤んだ大きな瞳、使ったシャンプーの香りの全てが、使う事の出来る感覚を全部揺らす。 
 体の内でも、痛いほどに心臓が脈うち、体の自由が全くといって利かない。 
「あ……ぅ」 
「なーに?」 
 意図せず漏れた声に、ご主人様は子供のように首を傾げ、もっと顔を近づけてくる。 
 その表情は可憐であり妖艶。いつもの見せる表情とは全く違って押し倒したくなる衝動に掻き立てられる。 
「ねぇ、答えて?」 
「お、俺は――」 
 こつんと互いの額と額を合わせ、少し動けばキスでも何でもし放題の距離。 
 ここまで接近されてフリーズした思考にまともな結果を望む方が酷である。 
 ……ダメ。これ以上踏み込まれたら―― 
「は、はははっ! 最高っ! あぁもう……っ」 
 と、突然、破顔するご主人様。 
 俺の首に回した手を解き、ベットの中央に転がり笑いまくる。……これは、もしかして。 
「だ、騙された?」 
「そーいう事よ……ふふふ、もう可愛い過ぎよ、あはははっ」 
 怒る気力も起きず、ベットに背を預ける。 
 ちょっと首を曲げるとまだお腹を抱えて笑っているご主人様が見える。 
 あー憎たらしいー。 
「はは……さて、緊張も解れた所で一緒に寝ましょ?」 
 ひとしきり笑い、落ち着いてきたのか、ご主人様は目端に浮いた涙を拭いながらそんな事を言ってくる。 
「ん……さっきも言いましたけど理性飛んだらしりませんよ」 
「りょーはそんな事しないって信頼してるもの。それにさっきだってあそこまで迫ったのに固まってばっかりだしねー」 
「……はぁ」 
 全く……ヘタレか何かだな俺。 
 信頼されてるならいいのだが、いっつもこういう風にしていたら勘違いされてもおかしくないぞご主人様。 
「もう寝る」 
「私もー♪」 
 何もかも面倒になって靴を乱暴に脱ぎ捨ててさっさと毛布の中に潜り込む。勿論ベットの端っこだ。 
「おやすみ、ご主人様」 
「……りょー、こっち向く」 
「? なんですか――」 
 くるりとご主人様の方――反対側の端――を向くと胸の辺りを掴まれて、強引に引っ張られる。 
「枕、持ってかれた」 
「……あぁなるほど。ってご主人様、枕が無いと眠れない人?」 
「うん」 
 枕がないからか、不安げな様子のご主人様。 
 ベットのサイズは大きいが枕は一つ。最初に潜った俺が枕を持っているが俺は無くても眠れるから渡してもいいかな? 
 それにしても意外と繊細……は失礼かな。 
「ほら、この枕で……」 
「いや……本当に恥ずかしいんだけど枕変わると寝付きにくいの……」 
「そりゃまた、難儀な」 
 とは言っても、ご主人様の枕を持ってくる事は不可能。うーん、我慢してもらうしかない……ってのはちょっと可哀相かな。 
「と、いう訳で腕を伸ばしてみてくれないかな?」 
「いいですよ」 
 何に使うか分からないが、さっさと寝てもらえるならこれに勝るものは無い。 
 と、結論付けて要望どおり腕をご主人様の方に伸ばす。 
「あはっ♪」 
「ちょ、待って! 反則だそれっ!」 
 ご主人様の企みに気付いたときには既に遅し。勢いよく頭を俺の上腕の辺りに置いてちょうど腕枕の格好だ。 
 これを引き剥がそうと動くがこれも予想済みだったのか、まだ胸の辺りを掴んでいて動けない。 
「はぁぁ……もう好きにしてください。それはともかくさっき言った事全部嘘ですか?」 
「勿論、本当よ。ベットに寝ようとするとさっき言ったみたいになるの。……野宿はできるんだけどねー」 
 要は野宿などでは眠りが浅く、ベットで寝ると眠りが深くなるタチらしい。……もしかして部屋で寝惚けるのもこの所為かな? 
 そんな事を考えてる隙にご主人様は、もはや密着と言ってもいいほど擦り寄ってくる。 
「あんまりくっつかれると理性切れて襲いますよ」 
 今更こんな脅しが効くとは思えないが、ここまでくっつかれると否が応でも妙な気分になってくる。 
「ふふ、りょーにだったら……襲われても、いいよ?」 
「〜〜〜〜っ」 
 恥ずかしげに頬を染め、言いたい事を言うとすっぽりと俺の胸の辺りに額を当てるご主人様。 
 演技だと分かっていても、何度同じ事をされていても、こういう態度は本当に慣れない。 
「……んん」 
 気がつくと、俺の腕枕で眠っているご主人様。 
 慣れているといえ馬車での長距離移動に加えてお酒まで飲んだのだ、疲れていない訳が無い。 
 その寝顔は、無邪気な子供のように無垢で、例え人をからかって遊ぶ人でも微笑ましい気持ちになる。 
「おやすみなさい、ご主人様。いい夢を」 
 今日はキノコを食べさせられたり、迫られたりしたけれど、いつも以上に楽しかった。 
 でも俺には時間が無い。 
 バッカスさんに啖呵は切ったが、最近じゃ説得する自信がだんだん無くなってくるのを感じる。だからって、有効な手段があるかというと 
そうでもない。 
 つまりは、手詰まりだ。 
「……とーさん、かーさん……」 
 一瞬起きてるかと思ったが、いつも通りのしっかりと喋るご主人様の寝言だ。 
 ……その一言にどれだけの重さがあるかは知らない。けど、寂しくならないようには俺でも出来るはずだ。 
 そう決意し瞼を閉じると、疲れが体中から染み出てくるように感じた。 
 (俺も……人の事いえないね……) 
 シャンプーの香りに包まれながら無意識の内に俺は、腕の中のこの世界で大事な女の子を抱きすくめて眠っていた……。 
 
 
 
「起きてるー二人ともー?」 
 くぐもって聞こえる元気そうな声……リ、リゼットさんかな? 
 体を伸ばすが、いまいち体が重い。 
「お、起きてますー」 
「ん、入るわよー」 
 ドアが幾つか開いた音がしたかと思うと、すぐに、ベットルームのドアノブが回る。 
 いくらなんでも寝てるわけにはいかないかな……よいしょっと、何でこんなに体が重いんだ? 
「おは……よ?」 
「おはよう、ございます」 
 眠い目を擦る俺を呆けたような顔で見つめるリゼットさん。その特徴的なネコ耳も一緒に固まっているように見える。 
「……なんかおかしい所あるんですか?」 
「そ、それ、どうしたの?」 
「あ」 
 指差された先には、俺の首に手を回し抱きついているご主人様。しかも、パジャマのボタンが外れて肩口まで見えている――って、 
いつの間に何してんだこの人!? 
「……ははは、ご主人様にせがまれて、仕方なく一緒に寝ただけでなんにもありませんよ?」 
 とりあえず、冷静さを装って言い訳。一応事実しか言ってない。 
 と、ご主人様がより、強く抱きしめてくる 
「……りょー、もっと……おねがい……」 
 場が凍る、とはこの事なのだろう。 
 眠っているご主人様以外の俺とリゼットさんはただただ呆然。 
 しかもご主人様らしくない寝惚けた寝言が説得力がありすぎた。 
「あらあらまぁまぁ! ごゆっくりー♪」 
「か、勘違いしたまま、帰らないでリゼットさんッ!」 
 当然の如く俺の言葉が届くはずもなく、リゼットさんはどこかに行ってしまう。 
 この空しさ、何処にぶつけるべきか……? 
「おかわりー、へへへ」 
 やっぱ、この人か。 
「起きろッ! この騒動乱発ご主人様ッ!! 起きろ〜〜〜ッ!!!」 
「ひ、ひゃ!?!!!? 何、なんなのー!? 」 
 パジャマをちゃんと着せて後に、彼女の耳元に大声の目覚ましを打ち込む俺。 
「私が何かしたっ?!??」 
「問答無用」 
 ご主人様の目が醒めたので今度は耳を思いっきり引っ張る。 
「痛いっ! 伸びるからやめて〜」 
「どうせだからウサギくらい伸びて寝ながら場の空気を読んでください」 
「無理無理無理、そんなに伸びないし、寝ながら場の空気なんかよめな……痛痛、痛いっ!」 
 朝からゴタゴタの一日がようやく始まる。残り時間あと10日。 
 遺恨を残すつもりは無い。 
「いいなぁ……」 
 ドアの隙間からリゼットさんの声が聞こえるが無視してさらに力を込める。 
「うわーんっ、なんなのよ、もうー!!」 
 ……とまぁ、そんなこんなで朝が騒がしかったが……嫌いじゃない。 
 
 
 
        §     §     2     §     § 
 
 
 
 いつまでも耳を引っ張ってるわけにも行かないので、適当な所で切り上げてリゼットさんの頼んだ朝食を全員で食べ始めるが、 
ご主人様の方は今朝俺が引っ張った耳をうーうー唸りながらひたすら擦っている。 
「ほんと、あんた達は見てて飽きないねー」 
 とは、朝食のサンドイッチに手を付けずに紅茶をすするリゼットさんの言。 
 ……その微笑ましい物を見るような目は勘弁してください。 
「うぅ、まだ耳がひりひりする」 
「自業自得でです、ご主人様。大体、俺が誤解を解くまでどれだけ苦労したと思ってるんですか?」 
 ご主人様がジト目で睨んでくるが、さらりと受け流す。 
 どれ位苦労したかというと、ルームサービスが来るまでの間に使える語彙が全部なくなる位必死だった。 
 と、りょー、わかってないなー と言いながら小さめのサンドイッチを一口。 
「あそこまで必死なのに真偽も分からないほどリゼットはバカではないわ……遊ばれただけよ、あむ」 
「……本当ですか?」 
 油を差し忘れた機械のような動きで、優雅に――何も食べていないが――食後の紅茶を楽しんでいる人に首だけ回すと、にっこりと 
無邪気そうな笑みで返される。 
 どうやら、俺の頑張りは無駄らしい。 
「ほらね? こんなもんよ」 
「はぁ……」 
 やっぱり、この人は苦手だ。 
 ため息をつきながらそれを実感すると、 
「騙される方が悪いのよ。人間関係でも冗談でもね」 
 リゼットさんが苦笑しながらウインク一つ。 
 確かにそうなんでしょうけど、憎めない騙し方だから余計にタチが悪い。 
「……あれ、サンドイッチ食べないんですか?」 
 話題をそらすようにリゼットさんの皿を見るとに、全く手をつけていないサンドイッチが三つ並んでいる。 
「うん、あっちで食べてきたからね。リョウくん、食べる?」 
「頂きます」 
 正直、三つだけじゃ足りなかったところだ。 
 そういう訳でリゼットさんの皿へ手を掛けると、ご主人様が一瞬、物欲しげな目をしているのを俺は見逃さなかった……そういや、 
細めの見た目に反して結構量を食べるんだっけ? 
「ん、俺は1つでいいですから。ご主人様に2つあげますよ」 
「あ、いや、私いいよっ!」 
「……素直に貰っときなさい。アンタよく食べるんだから」 
「うぅ」 
 リゼットさんから追撃されたが、頑固にも我慢するご主人様。 
 俺には分からないが、彼女なりの考えがあるのだろう。 
「相変わらず頭固いわねぇ……リョウくんから食べさせてもらえば?」 
「あは、それよっ!」 
 ……また、またですか、この展開。 
 しかも今回は提案したリゼットさんは意味ありげに笑っている。 
「ご主人様、リゼットさんのいる前でそういう事すると立場上マズイと思いますよ」 
「今更リゼットに何知られようと怖いものは無いわ……ふふふ」 
「……さいですか」 
 無駄とは思ったがここまで無駄ですか。 
「リョウくん、耳引っ張ったお詫びだと思えば楽よ、多分」 
「そうそう♪」 
 2:1の状況をひっくり返す切り札などありはしない俺は仕方なく、皿から一つだけ手に取る。 
「……あーん」 
「あーん♪」 
 このままご主人様の口の中に勢い任せに叩き込みたい衝動を抑えつつ、サンドイッチを食べさせる。 
 リゼットさんからの温い視線がとても痛い。 
「もう一口どうぞ」 
「うんっ」 
 いくら小さめとはいえ、二口で一つ食べきるのはどうかと思うがこれ以上面倒事になりたく無くない。 
 取りあえず、コレで終わり。……まるで恋人か何かのような行動は嫌いではないけどかなり恥ずかしい。 
「はい、おしまい……はぁ」 
「ごちそーさまでしたー」 
「……ほんと、"ご馳走様"ね……」 
 全部あげるとか言わなくて良かった、本当に良かった。 
 そうかみ締めながら食べるサンドイッチは本当に格別だ。 
「さて、リゼット。ただ私達をネタに遊びに来たわけじゃないんでしょ?」 
「……そう、ね。ほんと、機嫌のいい時に仕事はしたくないものね」 
 俺が食べ終わると真剣な表情になるご主人様とリゼットさん。 
「席外しましょうか?」 
 こういう場にヒトが居ても仕方ないだろう。 
「いえ、リョウ君にも働いてもらうからその必要はないわ」 
「は、はぁ……」 
 ……役に立つのは嬉しいが、何故か嫌な予感がする。 
 と、リゼットさんが一呼吸して、口を開く。 
「『軍』『外交』からの情報筋から『ヤツ』が今日中に"迷宮"に襲撃を掛けられる公算が高くなったわ」 
「――っ」 
 『ヤツ』という単語が聞こえた瞬間、ご主人様の顔色が青を通り越し白くなり、表情という表情が消え去って、雰囲気が一気に 
剣呑な物へと変化する。 
 その反応を分かっているはずのリゼットさんは、変わらぬ調子で続ける。 
「ですが、迎撃の為の準備完了まであと3時間は掛かります。その為、アタシ、リョウくん、ロジェ将軍を餌とし時間稼ぎをします」 
「……すみません、要人であるリゼットさんやロジェ将軍ならともかく、俺を囮にする必要があるんですか?」 
 突然俺の名前が出てきて、驚きつつも2人に疑問をぶつける。 
「ヒトは、高価で貴重な"落ち物"。叩き売ってもお釣りがくるわ」 
 答えてくれたのは滅多に無いご主人様の平坦な声。 
 怒ってるときか、悲しいときか、はたまた、どの感情を出していいか分からないときのどれかだ。 
 そして、その声をリゼットさんへ向ける。 
「と言う事は、下にはロジェ将軍とフランツ外相がいるのね」 
「えぇ、フランツさんは3日前に、ロジェの方は昨日の内に入ったわ。それでラヴィニア、あなたには地下の護衛に回って欲しいの」 
「任せて、それで……」 
 実務的に粛々と進む打ち合わせに入れず、ただ見て、聞くだけの俺。 
 理解できない単語や隠語も飛び交う中に入れるほど無謀なつもりはない。。 
「こんなところね。あとはフランツさんに訊いて」 
「えぇ、わかったわ……それじゃりょー、チェックアウトしましょうか?」 
「は、はい」 
 呆然としてる間に終わる打ち合わせ。……コレが彼女らの普通なのだろう。 
 すたすたと、冷静に歩くご主人様達を追いかけながら俺はそう思った。 
 
 
 
 ホテル横の細く狭い路地。 
 日の光もまばらなそこに、ロジェ将軍が壁にもたれ掛かって俺達を待っていた。 
「お待ちしていました」 
「……状況に変わりはないかしら」 
「えぇ、尾行の気配もありませんから、今すぐ動くべきかと」 
 その口調は、落ち着いてはいるが何処か急かしている感じがする 
 ……やっぱり物騒な事になっているらしい。 
「よし、私一人で下へ行くけど、2人の護衛を頼むわね」 
「お任せを。お嬢様」 
「それと……リゼットいいかしら?」 
「んーなに?」 
「絶対、ぜぇったいっ! りょーに手を出さないようにね?」 
 ……言う事に欠いて何言いますかこの人。 
 さっき以上にからかわれると身構えるが、意外にもリゼットさんは何も言わずにご主人様に近づき、ひそひそと耳打ち。 
「〜〜〜っ! あ、ああああとは頼むわよっ!」 
「ご、ご主人様っ!?」 
 その効果は抜群のようで、一瞬で顔色が真っ赤に染まり、呼び止める暇も無く奥へ消えてしまう。 
「リゼットさん、何言ったんですか?!」 
「んぅ……まぁ、ちょっとした謎掛けよ」 
 少しおどけた感じで答えてくれるが、どうにも引っかかる。 
「さて、リゼっち。時間稼ぎとは言ったが何処行くんだ?」 
「りぜっち言うな。それはともかく通りを回りましょ。人ごみなら相手は仕掛けれないし、アンタが後ろに居れば嫌でも相手が気付くわ」 
「なるほど……だが、りょう君が分かってないみたいだが」 
「ははは……」 
 笑ってごまかそうとするが、正直言ってこの2人の会話の内容は部分的にしか分からない。 
「歩きながらでも説明するわ。あ、フードは脱いでいいわよ、見た目だけならアタシのヒト奴隷って見えるだろうし」 
「はい……っうぅ」 
 ホテル前の通りに出て、リゼットさんの言うとおりフードを脱ぐと太陽の日差しが目に突き刺さって痛い。 
 そろそろ、夏なのかもしれない。 
「さて、何から説明しましょうか」 
 背は俺と同じくらいのリゼットさんはネコの女性の中では高いらしく、少しだけ周りよりも高く、日を反射する金髪が良く目立つ。 
 ……まずはこの疑問からかな? 
「何で俺は腕を組まれてるんですか?」 
 そんな人が俺と腕を組んでいるのはかなり目立つ上に気恥ずかしい。 
 ロレッタや、ネリー達とは外に連れ出されるたび、何度かあるがこればっかりは何度やっても慣れない。 
「にゃはは、ラヴィニアがいる前でこんな事出来る訳がないでしょー」 
「はぁ……」 
 もういつもの恒例行事だと諦めるしかないらしい……ご主人様と手を繋ぐのも違った意味で緊張するけど。 
「……」 
 落ち着いて、周りを見回すと帆船の帆の様な物が背の低い建物を越えて見える。歩いている人も見てみると何処か水兵さんの様な 
服装のイヌやネコ、トラさえもいる。 
「ここって、川か海でも近くにあるんですか?」 
「えぇ、場所的にはネコの国内だけど、キツネ、トラ、イヌの三国に近い場所よ。しかもトラの方の山から大きな川が流れて 
て、船なんかも良く入ってくるの」 
「船と一緒に、不届き者も多いがな」 
 リゼットさんの解説の隙を縫って、ロジェ将軍の補足が後ろから飛んでくる。 
「そのお陰で"迷宮"の情報が良く売れるのよ……それはともかく、ここにアタシの商会の本部が置いてあるの。ちなみに規模は 
キャラバン9つに……」 
 俺には、ほとんど分からないが商会を話すときの表情といったら生き生きしてて、本当に自慢なのだろう。 
 こういう自信は本当に羨ましい。 
「リゼっち落ち着け、これ以上彼に情報与えてもパンクするだけだぞ」 
「ははは……ごめんなさい」 
 俺の反応に呆れたようにため息をついたリゼットさんだが、その後はちゃんと丁寧に店を紹介してくれる。 
 あっちの町には無い店、こちらでは大きい店、小さい店。はたまた、予想もつかない店。 
 見るもの全てが物珍しくて、時間を忘れて俺はキョロキョロを周りを見て回る。と…… 
「社長ー! リゼット社長ー!」 
「へ?」 
 日がもっと強くなり、それに比例するように騒々しくなった通りのどこかからそんな声が聞こえる。 
 リゼットさんやロジェ将軍は声のする方向が一発で分かったらしいが、ヒトである俺にはおぼろ気にしかわからない。 
「なんか天下の往来で呼ばれてるぞ、リゼっち」 
「だからリゼっち言うな。……ったく、リョウ君行くわよ」 
 腕を組まれたままなのに強引に道の端から端へと引っ張られて、行き交う流れに揉みくちゃにされる俺……ここで離される 
と、文字通り迷子になりそうなくらい勢いが強い。 
「あ、社長。お世話になってまーすっ」 
 そうして連れて来られた先には、とてつもなくテンションの高そうな声の女のネコさんに、屋台の様な造りの露天だった。 
 並べられている品物を見ると銀か何かで出来た綺麗な装飾品。その出来は興味の無い俺の目からでも良く出来ていると思わせるほどだ。 
「人が気分よく居るときに呼び止めるなんていい度胸ね。原材料の仕入れ減らすわよ」 
「ちょ、待ってくださいっ!? ほら、安くしますから!」 
「んふ、どのくらい?」 
 ニヤリと笑って凄く悪役か何かに見える。 
 やっぱり、こういう場ではリゼットさんは強いらしい。 
「2割で」 
「6割よ」 
「損しか出ませんよ!?」 
「ち、4割で」 
「もうちょっと勘弁を……」 
「何、もうちょっと削っていいの? 仕方ないわね9割よ」 
「!?!?!」 
 あまりの暴挙に気が遠くなったのか、テンションの高かったネコの女性は額に手をあててふら付いている……流石に9割は可哀相過ぎる。 
「ふふ、冗談よ。2割でいいわ。その代わり今手持ちが無いから原材料でツケにしてね」 
「……た、助かります……で、これなんてどうでしょ?」 
 すっかり意気消沈した風にぐったりとしながら、品物を勧めて来る。 
「へぇ、やっぱりアンタのは上手ね。いくつか買い取って売ったけど評判いいわよ」 
「えへへ、ありがとうございます」 
 そんな会話を聞きながら、勧められた内の一品――細やかな意匠が凝らされた髪飾りに目が留まる。 
 使われている物は銀のように鈍く光っているがデザインのお陰か、地味目に見える。それでいて存在感を失わないバランスがある。 
 ……こういうのは髪の長いご主人様に良く似合いそうな気がする。 
「ん、社長の召使いさんですか?」 
「いいえ、知り合いからの借り物よ……で気に入った物はあったかしら?」 
「……あ、はい。これなんですけど」 
 俺はその髪飾りを手に取り、リゼットさんへ見せると女主人は目を大きく見開いて微動だにしなくなった。 
 心配になって小声で呼ぶが、その状態のまま硬直して不気味なオブジェか何かっぽくなっている。 
「……やっと売れる……やっと売れる……」 
 いい加減声を掛けた方がいいかと始めた頃に、唐突にぶつぶつと不気味に呟きだす……俺、もしかしてかなりヤバイ物を手に取ったのか……? 
「一生懸命丹精込めたのに売れ残った3年前の初仕事っ!! 今、ココで売れるなんて……ワタシっ最高の極みですッ!!」 
「大方、派手に勧めすぎて客に引かれたんでしょ?……ね、リョウ君?」 
「ははは……」 
 引くというか……怯えたというか……そんな微妙な感触だ。 
 そんな俺の反応を置き去りにし、ネコの店主さんはさらにヒートアップ。 
「失礼ですよ社長。客に懇切丁寧にねっとりオススメし続けて2年。諦めてたんですが、今、ココで売れるなんてッ!」 
「さよか、それで幾ら?」 
 いくらリゼットさんとはいえ、まともに付き合う気がないのかさらりと流す。 
「えぇと割引して、5セパタです」 
「つまり5000センタ。高い――」 
「――か、買いますから、そんな顔しないでください、ね?」 
 隣の銭の悪魔――無論リゼットさんの事だが――に睨まれつつも、今にも涙が決壊しそうな目の前の女ネコさんをなんとか宥める。 
「うぅ、ありがとうございます……え、えーとヒト君、ついでですからコレも持ってってください」 
「あ、どうも」 
 と、つい流れで受け取ってしまったのは小さな鈴が付いたブレスレット。 
 軽く鳴らしてみると、土産屋にあるような安物の音ではなく、静かに綺麗に鳴って思わずしんみりとしてしまう。 
 本体のブレスレットの方も、先ほどの髪飾りにも負けず劣らず細かい造りで綺麗だ。 
「……コレは新作?」 
「はい、ただ、鈴を付けたので音がうるさくないかなーと思うのと、上手な鈴ってのが案外難しくて作るのが大変なんです。 
しかもキツネの方からなかなかサンプル来ませんでしたから苦労しましたよ」 
「でも、綺麗ね。アタシは好きよ」 
 えへへー、と笑っているが、照れとどこか自信の欠片がある感じもする笑い方だ。 
 苦労はともかくとして、出来自体にはかなりの自信があって勧めたのだろうし、やっぱり自分の仕事と作品に誇りをもっているのだろう。 
「それじゃ、ありがたく貰っていきますね」 
「……はい、どうぞ。またよろしくー!」 
 商品を包んだ袋を受け取ると、元気よくお辞儀をしたのを見ながら俺達は通りの流れに戻る。 
 ……髪飾りの方はご主人様、鈴付きブレスレットはロレッタかな? 
「そういえば、本気で5割とか値引かせるつもりだったんですか?」 
 あそこまで無茶な値引きをさせようものなら、反感を食らってもおかしくないと思う。 
 そんな心配から出た疑問だが、リゼットさんは事も無げに答える。 
「大丈夫よ。ここ最近銀の価値が下がってるけど、もうすぐ近くの町で祭りがあるらしいの」 
 つまり、と続け、 
「あの子は同じ量を買ってくれてるからその時で2割分は相殺。で、祭りで装飾品類はよく売れる……こういうカラクリよ」 
「あぁ、なるほど」 
 流石商人、というべきだろう。 
 こういう取引の説明をされれば分かるが、それを実践するのは少なくとも俺には出来ない。 
「あぁそういや、ロジェはどうしたのかしら?」 
「んぅ……いるぞ、リゼっち」 
 リゼットさんがふと思い出したように言うと、声と共にすぅっと気配が後ろで浮かび上がる。 
 確認の為、振り返ってみるとなにやら食べ物の入った袋ををどっさりと片手に持っている。 
「まぁ、昨日から何も喰ってないからな」 
 言葉だけなら言い訳がましいのだが、この人が言うととても真っ当に聞こえるから不思議だ。 
「あのーロジェ将軍……?」 
「ん、ロジェでいいぞ。堅苦しいのはお嬢様達とバッカス老の前だけで十分だしな」 
「えぇとロジェさん、確か3日前はあっちに居ましたよね?」 
「んー」 
 たこ焼きの様なものをパクパクと口の中に放り込みながら、なにやら考え込む仕草。 
 確か、ここまで来るには馬車で3日掛かったのだから、ロジェさんも同じくらい掛かるはず。 
 でも俺が最後に見たときはなにやら演習をしていたように見えたのだが……? 
「リゼっち、言っていいか?」 
「別に構わないわよ……あと喋りながら物食べない。リゼっちとも言うな」 
「……コレのお陰だ」 
 最後の一個を飲み込んで空いた右手を長い袖から日の下に出すと、鈍く光る金属塊が出てくる。 
 よくよく見ると手全体を包むようなつくりの手甲だ。しかも表面が黄色みかかってどこか不思議な印象を醸し出している。 
「【魔法付与手甲】"ケラヴィノス"。50年前の遺産だが詳しくは知らん」 
「はぁ……」 
 正直、魔法関連のことは良く分からない。 
 使えるのは身近に居ないし、何より必要が無かった事もある。 
「……ちなみに支払いで年2000セパタ。50年前から支払い続けて後100年いるわ」 
「100年!?」 
 リゼットさんの追加説明で、あまり良くない脳みそが動き始める。 
 ……えーと2000セパタが50年で100000セパタ。 
 あと100年だから200000セパタ。 
 合計300000セパタ。センタに直せば300000000……もう額の計算すら諦めたくなる値に頭痛がしてくる。 
「ちなみにお嬢様はコイツの事は知らん。知ったら倒れかねんからな」 
「……アタシにはいいの、それ?」 
 リゼットさんにしては珍しく、何処か諦めの入った声音がロジェさんを責める。が、 
「まぁリゼっちだしな」 
 でさらりと受け流される。 
「それはともかくこの篭手の説明をすると、左手に《魔力簒奪》右手に《雷撃表現》そして両方を合わせると《万能結界》の 
効果がある」 
「ごめんなさい、さっぱりです」 
 なんとなく凄い便利な物という印象しか分からない。全く、自分の頭の悪さに辟易しそうだ 
「大丈夫、オレも良く分からん」 
「……バカやってないで2人とも行くわよ。……なんか後ろから嫌な視線が来るのは気のせいかしら?」 
「いんや、大当たり。尾行されてるがヘタクソだな」 
 ほれほれと、ロジェさんに背中を押されて、俺は人の濁流の中を何とか歩く。 
 リゼットさんの言う通り、後ろから痺れる様な視線が首の辺りに当たって痛い。 
「……」 
 尾行されているという緊張感からか、殆ど喋らず雑踏の中を緩やかに進む。 
 細い糸が張り詰めるような感じは、朝のご主人様の雰囲気と非常に似ている。そういえば…… 
「『ヤツ』って誰なんですか?」 
「あ……」 
 聞かれたくない事を聞かれた人間特有の裏声を出したリゼットさんの顔が悲痛に歪む。 
「言いたくないならいいです。ごめんなさいっ」 
 ……ご主人様の雰囲気を張り詰めさせ、いつも余裕のある態度のリゼットさんをここまで豹変させるほどの事なのだ。俺が 
入れる問題じゃない。 
「貴方にも囮をやってもらっているのだから、知る権利くらいあるわね」 
 そう思っていたのだが、意を決した様子でそう言うリゼットさん。 
 ここで『無理しなくても』などというのは相手にとって失礼だし、なによりご主人様達の負担が軽くなるのなら 
俺は幾らでも聞くつもりだ。 
「『ヤツ』は――」 
「リゼっち、ごめんな」 
「え? ……!??!?!?!?!」 
 ロジェさんが何故か謝った瞬間、リゼットさんの口の中にホットケーキの切れ端らしき様な物が放り込んだ……と、いうより叩き込んだ。 
 多分出来たてで凄く熱かったのか、口元を押さえて路上で呻いて、長い尻尾の毛が総立ちで固まってる。 
 ……あぁぁ、の、飲み物が必要かな? 
「〜〜っ!? 〜、〜!! 〜〜っ!」 
「『ロジェ!? 猫舌のアタシに何食わせるのよ!! 軍の予算減らすわよっ!』か……その前にお前に聞くぞ」 
 悪ふざけの様にアクセントまでばっちりなリゼットさんの真似を披露するが、その声音はどこまでも真剣だ。 
「これ、どうぞ」 
「〜〜、あ、ありがと、リョゥくん。……で、なぁに?」 
 近くの露天から冷たいジュースを買ってリゼットさんに渡すと、貪る様に喉を鳴らして飲んでいる。 
 そのお陰か何とか喋れるようになったらしいが、まだ呂律が回らないらしい。 
「……お前、いつから飯食ってない?」 
「――っっ」 
 叱責と心配の綯い交ぜになった言葉にリゼットさんは押し黙る。 
「黙ってれば分からないと思ったか? ほれ」 
「あ……」 
 ロジェさんは手甲を脱いだ手でリゼットさんの頬を優しくとなぞる。 
 ……こうして見ると確かに、やつれている様に見える。 
「お前はもうちょっと頬のラインがふっくらしてるはずだろうが。似たような事するお嬢様ならともかく、俺の目を騙せると 
思ったか?……ほれ、言ってみろ」 
「……3日前から食べてない」 
「はぁ」 
 フードの上から――恐らく額に――手を当て、大きなため息を吐くロジェさん。 
 なんというか、3日間も飲み物だけで暮らせるのが凄い、という感想しか俺はだせない。 
「取りあえず、袋の中身でも食ってろ。サンドイッチとかだからリゼっちの舌でもいけるはずだ。……後の説明は俺がやる」 
「ごめん」 
「謝罪はいい。大人しく食べてろ」 
「……うん、ありがと」 
「礼もいらん……と、すまんな」 
 リゼットさんに袋を渡し、俺の隣に並ぶロジェさん。 
 俺と同じくらいの背丈だが、歳の功か少しだけ大きく見える。 
「話を戻す前に一つだけ。……これから言う事は多分、お嬢様にも秘密だから喋るなよ?」 
「あ、はい」 
「よろしい」 
 ちょっとおどけた感じで笑うと、ぐっ、と親しみやすさが上がる。 
 こういう爽やかさは、俺には真似出来ない。 
「それでさっきの質問に戻るが、訊きたいのは『ヤツ』の正体だな?」 
「はい……ご主人様に訊こうかなとも思ったんですが、『ヤツ』って聞いた途端に雰囲気が変わるので、ちょっと訊けないなぁ……と思った訳で」 
 あの変わり様は、傍目から見てもおかしかった。 
 それに追い討ちは流石に出来ない。 
「"ヤツ"の正体は……リゼット・メイフィールドの叔父、アーネスト・メイフィールドだ」 
 少し重めのロジェさんの声が、とても強く耳の中にこびり付き、思わずリゼットさんの方を向いてしまう。 
「あははは……」 
 笑っているけども、どこか泣いているように見えるのは気の所為か……俺には判断できない。 
「さてりょう君……これ以上先を聞く覚悟はあるかね?」 
 軽い口調のロジェさんだが、言葉の意味は極めて重い。 
 問われているのは"覚悟"。"資格"や"意味"じゃないから……いいよね? 
「あります、聞かせてください」 
 そういうと、悪魔か何かのような嫌な笑い方をして何か間違った選択をしたような気にさせるが……間違えたつもりは、無いっ! 
 だから……頑張らないと……! 
 
 
 
 "迷宮"と名はついているが、分かりやすくする為にいくつかの大通路に細かい通路が連なっている。 
 当然ながら、大通路の先には指示を飛ばす"司令室"という物がある。 
「女王陛下、C地区の準備を完了しました」 
「ん、わかったわ。……引き続き、警戒よろしく」 
「はっ」 
 そう言って『軍』所属の人は、司令室から元の配置へ戻っていく。 
 その後姿を視界の端に見ながら、私は自分の装備を再確認。 
 防刃加工された厚手の白いブラウスに、なめし革の朱色のロングスカート。……実はこのスカート、スリットが結構深くて太ももの 
半分くらいまである。 
 下着が見えないようにある程度留めてはいるけども、着慣れないから少し恥ずかしい。 
「えーと……」 
 腰周りを包むように付けている連結ミニポケットに触って異常が無いか確かめる。 
 見た目的にもおかしい所はないし、中身の方も、新品に入れ替え済みで問題なし。ロングナイフホルダーもしっかり固定が 
出来てるみたいだし、"切り札"もちゃんとある。 
「ん……」 
 最後の仕上げに髪を纏め、形見の髪留めでしっかりと止める。 
 とーさんやかーさんは写真が嫌いだったから、形見の品はこの髪留めだけ。もし壊したりしたら大変だけど私にとっては 
お守りも同然の品だ。 
「ラヴィニア様、大丈夫ですか?」 
「えぇ、勿論。準備が思ったより早く終わりました」 
 通路の奥からしっかりとした足取りでフランツさんが歩いてくる。 
 確か200歳位だと記憶しているが、大体じいや(バッカス老)が生まれたあたりに来た事くらいしか分からない。 
 ……じいやと同じく過去がかなり謎な人だ。 
「隣、よろしいですかな」 
「どうぞ」 
 一息ついて私の隣に座る姿はすっかり好々爺と言った感じだが、通路を巡ってここまで来たのだからその体力は侮れない 
……まぁ味方だから別に殺気立つ必要ないけど。 
 それにしても『リョウ君の事、好き?』だなんて直球で聞いてくるもんだから思わず逃げ出してしまった。 
 ……い、嫌いって訳じゃないんだけど、真っ直ぐに来られるとやっぱり困るというか、"りょー"の意見も聞いてからこういう事は決めるべきだと思うの。 
けど断られたらこの気持ちは宙ぶらりんで欲求不満というかいやいや、"りょー"ならさくっと流されてくれるんじゃないかとちょっとは期待してみてもいいんじゃないかと思ってみたり 
……そうじゃなくてっ! 私はあくまで"りょー"を家族として見ている訳で……昨日の夜のは3割方本気だとはいえ、7割はそっちの気持ちだから問題なし!! ――なわけないでしょ、私! 
「……大丈夫ですか、百面相でしたが?」 
「だ、大丈夫です。ちょっと考え事してたので、あははは……」 
 いきなり声をかけられてどうもしどろもどろの私。 
 その慌てっぷりもフランツさんのリラックスした姿を見てるとなんとか落ち着いてくる。 
 これが人徳の差なのかな? 
「それで……悩んでいたのはあのヒトの事ですかな?」 
「い、いえ違いますよ! ほ、ほら、これからの対策とかっ!?」 
 せっかく落ち着いたのにこんなバレバレな態度をとってしまうのは"りょー"の所為に違いない。 
「ラヴィニア様」 
「え、あ、はい」 
 宥めるような声音に壊れかかりの頭が冷えてくる……とんでもない失態のような気がする。 
 そんな事を攻めもせずにニコニコと歯を出して笑うフランツさん。 
「我々、人がヒトに恋するなどという話は一部の小説にも存在します。さらに現実でも僅かながらにもあります……だから 
おかしな事ではありません」 
「……」 
 唐突に語られ始めた言葉に私は思わず真剣に聞き入ってしまう。 
 いつも読むのは資料とか辞書だものだから小説なんていうものは読んだことは無いからそういう物があるとは知らなかった。 
「無論、ヒトは脆く、寿命こそネズミなど一部の種族と同程度ではありますがネコ、イヌ、キツネなどとは倍以上離れています 
……そして、高価に取引され、酷使の末に大抵は寿命の半分も生きられません」 
「それは……習ってるわ。女の子の生存率が低いのは荒っぽく扱われる所為とも」 
 私の答えにフランツさんは貫禄たっぷりにうなづき、一瞬遠い目をする。 
 なにかあったのかもしれないが、悔しいけど今の私には踏み込めない。 
「その脆さに心を篭絡され、一緒にどこかへ消える……これは三流小説のオチの一つではありますが、ラヴィニア様は 
こういった事をする覚悟はありますか?」 
「……っ、馬鹿にしないで頂戴!」 
 一瞬考えたがメリットとデメリットがかみ合わない上に、おそらく"りょー"はそういった事を望まないだろう。だけど一瞬でも名案に聞こえたのは事実。 
 そんな後ろめたさから思わず声を荒げてしまう。 
「失礼しました」 
 フランツさんは真剣な表情で頭を下げられると、細かいことで声を荒げた自分が惨めに思えてくる。 
「ですが、議会は心配しているのです」 
 おおよそ心配とは無縁そうな場所の代表格が出てくる。 
 あそこでの私の立場はリゼットと同じく結構綱渡りな面もあるからあんまり印象を悪くすることはできない。 
 それはともかく、だ 
「私の何を心配してるの? 胃の方だって完治してるし今のところ疲れてもいない……ってまさか」 
「その"まさか"です。かくいうワタシもそう心配しているのです」 
 頭が痛くなりそうだ。 
 いくら私でも駆け落ちなんていう事はしない。……と、いくら力説しても信用はしてもらえないだろう。 
 ヒトの魔力とはそれほどの物。自分の今の状態を鑑みれば当然ともいえる。が、そこまで信用してもらってないと分かると 
流石に悲しくなる。 
「それでもう一度お聞きます。……三流小説のように――」 
「否よ」 
 質問を遮り、私は即答。さっきの失態はこの場で返す! 
「理由を聞いてもよろしいでしょうか?」 
 当然だろう。しかし、ここで理想的な答えはあまり意味がない。多分だけれどもフランツさんが求めてるのは本気の答えだ。 
「どうやっても私だから……」 
 考えて出た答えの始めはそれだった。 
「こうやって『王』をやるのも私。ロレッタと一緒にご飯食べて笑うあうのも私。リゼットにからかわれるのも私。そして、 
りょーと一緒にいてワクワクするのも私……結局、全部私の心の一部なのよ」 
 ついつい弁に気合が入って胸に手を当ててしまう私。 
 けれど、これは偽るざる私の本心。 
 それに耳を傾けるフランツさんに、それを信じて欲しくてもっと続ける。 
「今になってりょーという心の欠片がくっ付いちゃって壊せないし外せもしない。だけれど、どれか一つ欠けたら、私が私で 
なくなってしまう……ま、そういうことなのよ」 
 なんだか自分がとてつもなく恥ずかしいことを言った気がして最後だけ軽く締める……おかげでフランツさんの反応が気恥 
ずかしくてまともに見れない。 
「それに、りょーとは恋人云々じゃなくて家族です! か・ぞ・く!! その辺間違えないでください」 
 何故か嘘をついているような気分に浸りながら、予防線を張っておく。 
「はいはい、分かりました……それはともかくいいお話を聞かせいただきましたが、なにぶん年寄りな物で物忘れが激しいの 
で次の議会まで覚えていないかもしれませんが」 
 冗談めかして笑ってはいるが"心の中にしまっておく"と言われているのだ。 
 正直これをじいやに聞かれたら何て言われるか分かったものじゃない 
「お二方、リゼット様達が上より戻ってまいりました」 
 そんな事を考えているとちょっと息を切らせた感じ走ってきた『軍』の人からの報告が飛んでくる。 
「了解したわ。それを各配置に伝達し最終点検をしなさい。すぐにでも来るわよ」 
「はっ!」 
 せわしない様子で戻っていく背中を見送りながら深い深呼吸。 
 ……これから起きる戦闘で手加減するとは言っても、もしかしたら誰かを殺してしまうかもしれない 
 強くなるのは嫌いじゃないけれど、戦って怪我させるのも怪我するのも嫌いだ。それでも私は自分の学んだ技能を最大限使わないと死んでしまう。 
それによって体の弱いロレッタが私の代わりに成る事だけは絶対に避けなきゃいけない。 
 だから、相手を殺してしまう覚悟が必要……分かっていても割り切れない。 
「ラヴィニア様、最後に一つだけよろしいでしょうか?」 
「……えぇ、どうぞ」 
 思考の淵に沈みかかったところでフランツさんの声で引き上げられる。 
「もし、国とヒト、どちらを選べと言われたら貴方はどちらを選ばれますか?」 
 そんな突然の問いに、 
「――」 
 今の私にはどちらも大事で……答えが、出せなかった。 
 
 
 
「ご主人様、ただいま戻りました」 
 灰色の煉瓦で出来た地下通路をロジェさんの案内によって進んだ先には広い空間に大きな円卓。その周りにはカラオケ? の機械が置いてあり、異様な雰囲気を醸し出している。 
 その中でのんびりとしたイヌのフランツさんと落ち着きのないご主人様が座っていてとても対照的に見える。 
「う、うん。おかえり……怪我無い?」 
「えぇ、危ない目にも合いませんでしたから大丈夫ですよ」 
 落ち着きのない……というか自信を無くした感じで返事をされる。 
 どうにかして元気付けないとは思い、プレゼントの髪留めを渡そうと思案するがあの袋は忙しそうなリゼットさんが持ってるから渡すことができない。 
 ほんと、つくづくタイミングと要領が悪いなぁ俺。 
「なに、りょー?」 
 どうやら、ご主人様の顔を見ながら考え込んでたらしくこちらが心配そうな目で見られてしまう。 
 全く、奴隷として失格だ。 
「あー、いや、ちょっと考え事を……」 
「言いたい事はちゃんと言う」 
 軽く頬を膨らませたご主人様に叱られるが、弱々しさばかりが強調されていつもの迫力がない。 
 こういう事は、やっぱりちゃんと訊いた方がいいかな。 
「……ご主人様、悩み事とかあるんですか?」 
「――っ!? な、ないよ?」 
 図星なのか否定の仕方がとてもわざとらしい。 
 追及してもいいが、頑として答えないのは目に見えている。こういうところが頑固なのがらしいと言えばらしいのだが。 
「……はぁ、分かりました。でも何かあったら相談に乗りますから、その時はちゃんと言ってくださいね?」 
「うん、その時はお願いね」 
 本人は元気一杯といった感じで笑おうとしているのだろうけど、余計に痛々しい。 
 ほっとけない、とは思うもののなかなか有効打が思いつかない。 
「それじゃ、作戦会議といきましょ」 
 そんな明るいリゼットさんの声が部屋に響き渡ると、暗かったご主人様もその雰囲気を掻き消され、忙しなく働いていた回りの人達も直立不動の体勢にになる。 
 奴隷である俺が椅子に座る訳には行かないので、ご主人様の後ろに背筋を伸ばして立つ。 
「……ロジェ、さっき偵察の報告を受けてたわよね? 現状を説明して頂戴」 
「はっ」 
 いつもとは違うドライアイスのような冷たい声のご主人様に合わせるが如く、空気が冷えてゆく。 
「敵は北口と南口の2方向に分布している上、地上にはその支援班が存在します……戦力としては殆どがネコの雇い兵……といえば聞こえはいいでしょうが、 
要は金をばら撒いて集めたチンピラです」 
「数は?」 
「……我等の倍である160人ほどだと予想されます」 
 ロジェさんが言い難そうにその事実を語ると周りの人たちもにわかに騒がしくなる。 
 俺の単純な頭で考えても一つの入り口辺りに自分達の倍とやりあうのだから、騒がしくなるのも当然だと思う。 
「――上等よ」 
 決して大きくはないご主人様の声で、雑音塗れの部屋が一気に静まり返る。 
「ここは合戦場ではないわ。だから一斉に雪崩れ込む事は不可能だし、もしもの時はここを即刻放棄する……それでどうかしら?」 
 その声は凛として否が応でも耳朶に染み込んで来る。……声の魔力とはこの事なのかもしれない。 
「さてラヴィニア。現実的な対応としてはどうする積もりかね?」 
 フランツさんの太い声が、俺も含めでこの場全員に現実を再確認させる。 
 ご主人様の言う通り、一斉には来なくても物量の差という毒がジワジワと効いて来るのは目に見えている。 
「それに関しては私に案があります」 
 そう声を上げたのはロジェさん。 
「先ほど私が述べたように相手の練度は決して高くありません。ですから、頭を潰せはそれで事足りると思われます」 
「それで?」 
 まるで先生が生徒に質問するような口調でフランツさんが続きを促す。 
「相手は2正面作戦を仕掛けると予想されますので、お嬢様と私でその頭を潰します……その為に、この"迷宮"の防衛機構の全てを使用します……これが作戦概要です」 
「ふむ、なるほど。だがイヌならまだしもネコが頭を潰した位で引くか?」 
 フランツさんが、すぐさま問題点を挙げる。 
 『指揮者が居ないとオーケストラにならない』とは、楽器をやっていたねーさんの台詞だが、強い目的があるなら指揮する人が居なくなっても目的を遂行しようとするだろう。 
「――絶対に引くわ。雇い主が潰れちゃ、収入も入らない」 
 今まで黙っていたリゼットさんが、唐突に語り出す。 
「損ばかりで得にもならない仕事を、はした金で雇われた奴等が必要以上にやるとは思えない。それに推測だけど前金だけ貰って逃げた輩も多数存在するはずだから士気も高くない筈 
……ま、それがネコとしての私の見解よ」 
 最後を軽い感じで締めるが、自分の身内がやっているという意識がある所為か目が笑っていない。 
 慰めようとしても意味が無いだろうし、何よりこの人自身が拒否するのは付き合いの短い俺でも分かる。 
「……うん、希望的憶測だけどリゼットの考えに私は賛成よ。消耗戦は体力的にも数的にも劣るこちらが不利。だから罠を駆使し、 
敵の流れをいなしながら頭を潰す……これでいいかしら?」 
 頃合を見計らった主人様の意見に円卓を囲う全員が頷く。 
 それを満足げに見回して「解散!」と告げると、それぞれが立ち上がり周りで待機していた人達と話し合いを始める。 
「?」 
 だけど、ご主人様だけはその場に座ったままで動かない。 
「……ご主人様?」 
 声を掛けるべきか悩んだが、さっきまでの様子を考えると掛けなきゃいけない気がする。 
「んー何かしら?」 
 くるりと椅子を回してこちらに向いて反応するご主人様の声音自体はいつもと変わらないが、表情が前と同じで何処か泣いているように見えて仕方ない。 
 しかし、こう反応されると返す言葉が思いつかない。 
「えぇぇと、ご主人様は……打ち合わせとかしないんですか?」 
「むぅ……私自体にはそういう権限はないしね」 
 なんとか捻り出した質問だったが、ご主人様の答えが妙に引っかかる。 
 ……そんな俺の思考が顔に出ていたのか、ちょっとだけ苦笑される。 
「えーとね、私には『王』って肩書きはあるけどそんなに自由になんでも出来る訳じゃないの」 
「それは前に聞きましたけど……具体的には?」 
「方向性とか抽象的な面での指示って程度よ。そういうこと決めるだけでも大きな権力なんだけどね」 
 あははー、と事も無げに笑っているが十分凄い事じゃないかと思う。 
 俺ならその責任感だけで潰れて何も出来ないだろし、何よりその『方向性』自体どうやっていいか分からない……っと感心してる場合じゃない。 
「そ、それでご主人様……」 
 なんとか悩みを聞きだそうと、手を変え品を変えて質問するが全部はぐらかされる。 
 あんまり人の心に踏み込むものじゃない……とは、思うがこのまま戦いに送り出すのは正直、かなり不安だ。 
「……お嬢様、開始の挨拶をお願いします」 
 そうやっている内にロジェさん達の打ち合わせが終わったのか、そんな事を頼まれるご主人様。 
 ……つまり時間切れ。結局、肝心なことは聞き出せずじまいだ。 
「分かったわ。それじゃ、りょー、外は危ないからここに居てね?」 
「はい……怪我では死にたくありませんから」 
 将来がどうなるか分からないが、今のところは死にたくない。 
 そんな俺の物言いの何処が面白かったのか分からないが、ご主人様がくすくすと小さく笑う。 
「ふふ、ここに居るなら私の席に座っててもいいわよ……帰ってくるのは全部終わった後だし、ね?」 
「分かりました……いってらっしゃい」 
「ん、いってきます」 
 まだ、かなり不安だけど、何もやらなかったよりマシ……そう自分を誤魔化すしかない。 
 俺がグダグダ悩んでいるうちに、ご主人様はあの例のカラオケのような物の横にあるマイクを手に取って、一つ深呼吸。 
『……話は聞いてると思われますが、我々は、倍の戦力に包囲されています』 
 すっと耳に入る重いご主人様の声。 
 それが余計に現状の悪さをより強調する。 
『ですが、策はあり、地の利もあり……そして、まだ"絶望"していません』 
 さっきとは打って変わり、柔らかな口調で続ける。 
『総員、奮起しなさい。そして、全員生きて戻るように……それが私の下す最初の命令よ』 
「「イエッサーッ!!」」 
 通路の奥からそんな大声が響いてきて、思わず俺は体を竦めたというのに、ご主人様は満足げに笑うだけ。 
 と、大人しくしていたリゼットさんがいきなりマイクを奪い取る。 
『えー、ついでで連絡……ロジェ将軍が来週、結婚するわ』 
 ……は? 
『と、言う訳だから全員怪我もするんじゃないわよ?――以上、財務担当リゼット・メイフィールドでしたー♪』 
 暢気極まりないリゼットさんの発言に全員が呆気に取られている内に「はいっ」と奪ったマイクをご主人様へ押し付けて、さっさと元の場所へ戻っていく。 
「リゼっち! 余計な事、喋りやが――!?!!?!」 
 一番早くこの状況から復帰し、必死の反論しようとしたロジェさんだったが、数人に担がれ通路の奥へと引きずり込まれていった 
……「どんな嫁さん貰うんだ、このたらし!」とか「恨めしいから縛って敵陣に投げ込むか?」などという台詞が聞こえるのは気のせいだろう、多分。 
『あ、はははは……という事らしいから、絶対に死なないで彼の結婚式で会いましょう、以上!』 
 リゼットさんの乱入で削がれた緊張感の建て直しは諦めたらしく、さっぱりとした感じで締めてマイクのスイッチを切る。 
「……で、リゼット。あの話は本当?」 
「嘘ついても仕方ないでしょ? ……私がその為にどれだけの予算と時間を掛けた事をアイツは知ってるはずよ」 
 自慢ありげにリゼットさんは笑っているが、どこか寂しげに見えたのは幻覚だろうか。 
 それにご主人様も気づいたのか、さらりと話題を変える。 
「さてと、フランツさん……ロジェ将軍は北口に連れて行かれたようなので私は南口方面へ行きます。帰ってくるまでの間の指揮をお願いします」 
「お任せ、ラヴィニア様」 
 座ったまま、あの怖い犬頭を下げて答えるフランツさん。 
 それを聞いたか聞かないかのあたりのタイミングで、朱色のスカートを翻して足音も無くご主人様は別の方向へ歩を進める。 
 ……まだ、残っている。 
 あの、悩みと哀しみが入り混じった雰囲気がまだ、その背中に少しだけ残っている。 
 無視しろ、と考えればそれまでだけど、それが出来るほど俺は……人が出来てない。だから―― 
「ご主人様っ!」 
「ん?」 
 呼びかけられた事が余程不思議だったのか、小首を傾げながらこちらに振り向く。 
 あっちから歩み寄られる前に、俺は立ち上がって逆に近寄る。 
「えーとなに?」 
 俺の今の表情から、何を考えているのか読み取れない所為か目尻を下げて少しだけ不安そうなご主人様。 
 ここまで来たら――やるしかない。 
「……ちょっとだけごめんね」 
「え?…………な、ななななななっ!?」 
 かなり過激だが、ご主人様の見た目以上に華奢な体を俺の腕の中に抱き込む。 
 かなり物騒な格好をしていても女の子。こうやってみると柔らかくてドギマギしそうになるが、ひきつけでも起こしたみたいな呼吸をしているのが聞こえて妙に落ち着く 
……昨日やられた事の仕返しも込めてもっと強くしてみる。 
「ん、大丈夫、大丈夫」 
 出来うる限りやさしく囁いてやり、おまけに軽く背中をトントンと叩く。 
 ねーさん直伝の泣く子を黙らせる方法だ。 
「ぐすっ……ずず……りょーの、ばかぁ」 
 何故か本当に泣いてる様な声がするんですが……ねーさんどういう事ですか?! 
 さっきまで何とか取れていた心の均衡が崩れかけてパニック一歩前だが、こうして泣かれてる手前そんなことは出来ない。 
「ん……大丈夫だから、泣き止んで?」 
「教えないっ……何で泣くのか、ぐす、ぜったいに、教えないんだから……っ」 
 変な所で意地っ張りだとは思ってたが、こういう所で発揮されるとは思わなかった。 
 ……ちょっと趣向を変えてみよう。 
「ん、あふ……ん、うぅ」 
 一瞬にして泣き止んで変な声を上げるご主人様だが、別に変なことはしていない。 
 背中を叩く代わりに、ただ優しく頭を撫でるだけ。 
 今までの経験で、こうやって撫でると大人しくなる……その考えは見事に当たり、こんな風に落ち着いてくれている。 
「今は別に聞きませんから、いつか……いえ、話したくなったらお願いします、ね?」 
「う、うん」 
 ちょっと泣いた所為か声がくぐもって聞こえるがしっかりとした返事。 
 最後にねえさんからの駄目押しをやってみようかな? 
「でも一つだけ……何処に居ても貴方は貴方で居られます。それは俺が保証します」 
 初めての試合で緊張でガチガチ固まって回りも見えないほどだったのを、ねえさんがこう言って和らげてくれた大切な言葉。 
 ……殆ど似ていない状況ではあるけど、ただ一つやり直しの効かない舞台というのは同じ。だからこの言葉を選んで、伝える。 
 ご主人様が何を悩んでいるのかは分からないし、聞いても答えない。ならば、こちらから踏み込んでいくしかない……例えそれが余計なお世話でも、だ。 
「ん……ありがと」 
 珍しくちょっと甘えた感じの声が耳に心地よくて、腕にもっと力を込める。 
 細い体には強すぎて痛い筈なのに、文句一つ言わずに大人しくしているご主人様は……本当に、何を考えているのだろうか? 
「………………ごほん、ちょっといいかしら?」 
「ひゃあ!?!?」 
「――おわっ!?」 
 横合いから声にいきなり声を掛けられ、ご主人様に突き飛ばされた辺りでようやく周りの状態を確認できるだけの余裕がなんとか出来る。 
 ……そういや周りに人がいたんだっけ? 
「あんたたち、熱いのは構わないけど周り見てね?」 
「ち、違うわよっ! ……あぁもう、時間無いから、またねっ!」 
 そう言って転がって逃げるように走り去るご主人様。 
 あの雰囲気がかなり和らいで、いつもの物に変わったような気がする。 
「ありがとね」 
「……?」 
 ご主人様の後姿が見えなくなった辺りで、両手を胸の前で組んで優しく微笑してるリゼットさんが突然俺にそんな事を言ってくる。 
「自分の事で、精一杯であの子に何もしてやれなかった……本当に貴方がいてよかったわ」 
「……そんな事無いですよ」 
 元はといえば、俺がこの居場所からまだ出たくないだけの自衛策。 
 褒められる様な事はしていないし、なにより、それすら失うタイムリミットが迫っている。 
「ふふ、そういうことにしておくわ。さて……ロジェに頼まれた仕事でもしましょうか」 
「えーと手伝えるなら手伝いますけど?」 
 正直、座ってばかりだと嫌な事まで思い出してしまうから動きたいのだけれど……。 
 そう思って何気なく言ったのだが凄く悪戯っぽい表情で、 
「傭兵連れて、地上の支援班潰しに行くんだけど、見る?」 
「ごめんなさい、ここで座ってます」 
「うん、ヒトはここで結果を待ってなさい……すぐに持ってくるから」 
 そう自信ありげに言い放つと、脇に垂らした金色の房を揺らして通路の奥へとリゼットさんは消える。 
 それを見送りながら、周りを見回すとちょっと怖い顔のフランツさん……この人と、正面から話し合った事は、まだ無いはず。 
 そんな気まずい空気を読み取ってくれたのか、あっちから声を掛けてくれる。 
「まぁ、座りたまえ。いろいろ話したい事もあるしな」 
 多分、笑ったつもりなのだろうけど、並びのいい白い牙が見えて背筋が薄ら寒くなる。 
 ……願わくば、食べられませんように。 

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