§     §     3     §     § 
 
 
 
「将軍! 敵が来ましたっ!」 
「んー、もうちょっと引き付けとけ」 
 早速入った第一報を幕僚の一人から聞きながら、オレは目を閉じて指示を出す。 
 なにも格好つけた訳でもなく、ただ眠いだけ……ったく、リゼっちに色々言ったが人のこといえねーなー。 
「で、ですが……」 
「大丈夫、敵の通り道はある程度制限したし、能動的な罠は起動させてないが受動的な奴は動いてる筈だろ……何処に問題が?」 
 重めの目蓋を何とか引き上げながら正論を向けてやると、その幕僚は押し黙って少し不機嫌そうな表情を浮かべる。 
 まぁ、高さはともかくオスネコ2人も並べば狭苦しいこと極まりない幅の通路に比べれば幾分か広い、場所に陣を張っているが、 
状況が悪い故に考えが悪い方向へ流れるのは分からん事も無い。 
「第3層まで引き込んだから動くぞ。それまで各小隊の連絡を密にしてヒットアンドアウェイを繰り返せ……そうやって、 
ちまちまやってると短気なネコは真正面に突っ込んで来るから大型弓で狙撃してやれ……これでよろしいか?」 
「……はっ!」 
 開始前に与えた作戦ではあるが、こうやって復唱プラスアルファしてやれば指揮官達の士気も上がる。 
 士気といえば、兵士達のが取り沙汰されるがこういった陣であってもその効果は絶大だ。 
『……第7小隊、前に出すぎた。包囲される前に下がれ!』 
 そんなこんなでノンビリ出番を待つ訳だが、細かい指揮に関しては各幕僚がやっている。 
 将軍。と、大層な名前が付いてるがオレ自体は軍の中では新参であり、細かいノウハウを持ち合わせた古参の人間に任せた方が効率がいい。 
「さてと……」 
 貴重な休憩時間にオレは、自分の黒い鎧に点検の為に触れる。 
 この鎧は金属ほど堅くは無いけれど蝋で煮詰めた皮鎧はかなりの防御力を誇る。しかしこういった鎧をつける奴は少ない。 
 予算も勿論だが、大抵は機械弓を扱う為こういった防御力を考える事が少ない所為だ……まぁオスネコほどの力があれば 
例えこの鎧の上からでも十分ダメージは通っちまうが。 
「……ケラヴィノス、起きてるか?」 
《Good morning,my master》 
「馬鹿野郎。もう昼過ぎてるぞ」 
《……Hello,my master》 
「よろしい」 
 両腕に嵌めているガンドレット自分自身の視線まで持ち上げて適当な事を問い掛けると、答えが頭の中に響く。 
 こういった【魔剣】の類は魔法が付与されているが価格の関係上大抵は1つ。多くても3つかそこらで単純な物が多い。 
 しかし、こいつは違う。 
 触れるたびに体内の魔力を奪う【魔力簒奪】の左手と、溜め込んだ魔力によって雷撃を放つ事が出来る【雷撃表現】の右手。 
 これだけなら片手に1つずつだが、両手をセットで扱う事で全身鎧のように体表面を防護すると同時に運動能力を引き上げる【万能結界】。 
 この三つを備えているが、特に【万能結界】は防護と身体強化のバランスの制御が非常に難しく、その制御だけでもオレの頭には余る。 
 それら全てを使用者に代わり、状況に応じて制御する"モノ"が必要になった訳だが、それがこのケラヴィノスの対人デバイス――制御擬似精霊らしい。 
 この、らしい……というのは、前の使用者だったバッカス老から伝えられただけだからだ。 
 ……あのジジイ、詳しく話したがらないし、会う度に説教するから苦手だ。 
「し、将軍! たた、たいへ――」 
 慌てた連絡員の声で現実に意識が戻る。 
 そいつは転がるように陣の中へ入ってきたが、その様子が尋常ではない。 
 目の焦点が合ってない上に、喋ろうにも舌が歯がガチガチとなって言葉どころが音にも成ってない。 
 そのあまりの惨状に、どうした? と声を掛けようと立ち上がった瞬間に、それは来た。 
「――――――ッ!!」 
 ネズミの本能を強烈に刺激し、なんとか保っていた平静を砕く"咆哮"が全員の耳へと有無を言わせず届く。 
 その"咆哮"は声というより、乱雑な轟音。 
 それがばら撒かれただけで、オレ以外の全員が床に倒れこんで、怯えたように体を縮めて歯の根を鳴らす。 
「こいつぁ……!」 
 声を掛けようと立ち上がっていたオレですらその例外ではない。 
 今すぐでも、この場から逃げ出したい衝動が静かになった思考の中でがなりたてる。 
 いわく――全て見捨てろ、と。 
「……冗談じゃねぇ、トラが……っ!」 
 その提案を奥歯で噛み潰しながら、なんとか捻り出した声がそれだった。 
 存在そのものを誇示し、弱者の尊厳を砕き散らす音を出せるのはオオカミかトラ、変り種としては獅子くらいなものだ。その中で、ここまで攻撃的なのはトラしか居ない。 
「……しかし、くそっ」 
 この"咆哮"を受けたヤツラの中でまともな思考を出来るのは多分オレだけ。 
 だが、支援無しでは、トラを討つ事が出来ない。 
『起きろッ! ウジ虫共ッ!!』 
 喝を入れる為の無線機のマイクにオレは大声を叩き込む。 
 あちらには受信機した無いが、いつもなら通路を通じてその返答が来るが今回は全く無い。 
『貴様らッ!! 返事はどうしたッ!!!』 
「い、いえっさ……」 
 大声だしても、返ってくるのは周りからの気迫に欠けた細い声。 
 これでは現場で死人がいつ出てもかしくない……そうなったらリゼっちに本気で殺されかねない。 
『――3年前の誓いを忘れたのか? あの時は悔しくなかったのかお前らはッ!?』 
 返事は相変わらず返ってこない。だが、空気は変わる。 
 この誓いの話題は『軍』の中ではタブーとされている。 
 ……何故なら"言うまでも無い事"だから。 
『本来守るべき王族から守られ、あまつさえそれに甘え、主を失った我等の誓いを忘れたか!!』 
「サ、サー、ノー……サー」 
 僅かに通路の奥からも声が微かに聞こえてくる。 
 周りの倒れこんだ幕僚達も物に掴まりながらであっても立ち上がろうとしている。 
『その後、僅か齢15のラヴィニアお嬢様に結果的に血を吐かせたのは誰だ……っ?』 
 あの時は大騒ぎで、3年前はオレは……何も出来なかった。 
『――我々だッ!』 
 今思い出しても、自分に対してはらわたが煮え返る。 
 だが、ここに最高の舞台がある。 
『ここで我等が負ければ、脱出路すら危うい……だが、ここで勝てば汚名を濯ぐ最高の機会だ! そうだろう、野郎共ッ!!』 
「「サー、イエッサーッ!」」 
 打てば響く最高のタイミングでの肯定。 
 トラにもネコにも……負けられない、負けてなんかいられない 
『既に逃げ場は無く、汚名を返上し名誉を得るか、『負けネズミここに眠る』とされるかの二択の状況……どうだ、楽しいか!?』 
「「サー、イエッサーッ!」」 
『貴様らはこの仕事を愛しているか? トラのひと吼えだけでおねしょも直らないようなガキのように震える我々が!  
ヒトよりマシ程度の貧弱な体力しか持たぬ我等がネコやあまつさえトラとやりあうのだ……こんな仕事を本当に愛しているのか?』 
「「サー、イエッサーッ!」」 
 ここで一呼吸、拍を取る。 
 さて、仕上げと行こう。 
『我等は何だ?!』 
「「「「騎士だ! 騎士だ! 騎士だ!」」」 
『ならば騎士たる我々の忠誠は何処にある?!』 
「「「女王陛下! 女王陛下! 女王陛下!」」」 
『その忠誠はどのくらいだ?』 
「「「命を懸けて! 命を懸けて! 命を懸けて!」」」 
『ふざけるな! 聞こえんぞ! 付いてるもの付いてるのか惨めな糞共がッ!!』 
「「「命を懸けて!! 命を懸けて!! 命を懸けて!!」」」 
 ……よし、これでいいだろう。 
 後は現実的な対応のみ。 
『戦線を引き下げ、第4層で敵を討つ。トラが来たらオレが行くから1分だけ持たせろ……いいな!』 
「「サー、イエッサーッ!」」 
 『以上、通信終了!』と締めくくってマイクのスイッチを切る。 
 久しぶりに大声を連続で出した為か、喉がヒリヒリと痛い。 
「将軍、水をどうぞ」 
「ん……」 
 横合いから差し出されたコップを受け取り、ゴクゴクと音を立てて中身の水を飲み下すが、薬でも入っていたのか荒れた喉の奥の部分がひんやりとして気持ちがいい。 
 全部飲み干して後ろへ振り向くと、幕僚の殆どが忙しく指示を出しまくっていて前よりも気合が入っているように見える……さて、と反撃開始と行こうか 
「状況を報告しろ」 
 先ほど俺にコップを渡してくれた奴に声をかける。 
「はっ、先ほどの戦線崩壊により一部第四層まで到達されている部分もありですが今までの抑圧が効いたのか大半は殆ど変わりがありません」 
 ってことは、各自の連携は取れていないという事か。 
 ネコらしいといえばらしいが、あちらの指揮官も苦労が偲ばれる。 
「ならば、出た杭をオレが打つ……現場の小隊の支援を仰ぐがいいか?」 
「構わないと思われます。ただ、トラ相手の場合の直接的な支援は期待しない方がよろしいかと」 
 もう一度吼えられても恐らくは大丈夫、とはいえ、真正面から狙う事は不可能。 
 一度刻まれた恐怖は拭い去る事は容易な事ではない。 
「……よし、行って来る」 
「はっ」 
 そう答えると、そいつは他の幕僚に紛れて見えなくなる。 
 部屋の中央の戦況盤面をちらりと見るが、中央部が突破されかかっているらしく、そちら方面を指揮する奴は必死そうな表情をしている。 
「起きてるか、ケラヴィノス」 
《Yes,sir》 
 身に着けている篭手に声を掛けると即答で返事が来る。 
「【万能結界】起動……オレがいいと言うまで身体能力増強に全力に傾けろ。それが終わったらお前に任せる」 
《Yes,sir……Ready start!》 
 ふぅと体が軽くなり、極薄のすりガラスのを通しているかのように視界が変化する。 
「ふ――」 
 石床を軽く蹴って走り出すだけで見える世界が変わる。 
 コイツ無しで動く時とは比べ物にならないほど早く景色が後ろに流れる事に未だに慣れない。 
「ええと、こっちか」 
 通り過ぎそうになった角をなんとか見つけて戻る。 
 角に設置してあるスピーカーを確認しながら、また走り出す。 
 このスピーカー、中央の司令室のカラオケの機械に繋がっているらしく、開発者曰くネコが聞くと方向感覚を失う音がでているそうで。 
 試しに……という訳で、リゼっちを歩かせてみたら見事迷って給料減らされた経緯があるいわくつきの代物だ。 
「……っとっとっと……もういいぞ、ケラヴィノス」 
《Yes,sir》 
 昔の事を思い出しながら走っていたら、危うくその勢いのまま壁にぶつかる寸前でなんとか止まる……ケラヴィノスが防壁張ってくれなかったら 
顔面から血に染まる所だったかもしれない。 
「将軍、連絡を受けてお待ちしておりました」 
 状況が悪化している所へたどり着くと、少し歳を食った目の現場指揮官がオレを見つけて寄ってくる。 
 その顔には憔悴の色が濃い。 
「現状はどうだ?」 
「……ここに来て慎重ですが、奴らは勝った気います」 
 苦虫を噛むような表情で現場指揮官はオレの質問に答えて、ちらりとバリケードの奥へ目を向ける。 
 恐らくそこに敵が居るのだろう。 
「ふん、ネコ共に敗北を教育するぞ」 
 相手の返事を聞く前に3歩だけ助走し、バリケードを飛び越える。 
 それを見ていた小隊は驚いたような声を上げて拍手まで聞こえる……まぁ、ケラヴィノスが気を利かせてくれたお陰だが。 
「前線司令部に伝達。トラップ"デリュージ"の使用許可要請、並びにその為に敵をここの前に集めるように隔壁操作も要請してくれ」 
「……御意に」 
 その返事に軽く頷いて、さっきと走法を変えて走り出す。 
 自分でも何を変えたのか良く分からない走り方だが、これだけで音が完全に掻き消えて無音に変わる。 
 ……距離にして100メートル。身体強化された現状では殆どゼロに近い距離を踏破する。 
 そうして現地指揮官の見た先に飛び込むと陣のように少し広がった部屋があり、そこにはネコがだらしなく数人座り込んでいた……周りに転がっている武器を見ると 
本当に勝った気でいたらしい。 
「――おらぁ!!」 
「っ!?」 
 いきなり部屋に飛び込んできたオレに一番早く反応した暗い茶色の毛並みをしたオスネコの顎を、右手で全力でぶん殴ると脳震盪を起こしたのか一発で気を失う。 
 2匹目……と思ったが思いのほかそいつらは反応が早く既に武器を手にとって臨戦態勢を取っているが個人戦闘の得意なネコらしく、 
オレを中心に円を描くように包囲している。 
 ……槍などの長物ならともかく、剣でのこの包囲は間抜けとしか言えないが。 
「本当に"ネズミ"がいるとはな……しかも、賞金首か」 
 包囲網の後ろからそんな声が聞こえる。 
 どうやらあの腐れ外道はオレに賞金をかけているらしい。 
「悪く思うなよ、これも金の為だ」 
「……こちらも仕事だ。一生、流動食でも後悔するなよ?」 
 正面に立つ白黒のブチ模様のネコの軽口に返してやると、不愉快そうに目尻を歪める。 
 人数を数えてみるとそこで気絶している奴を含め5名……あと4人。 
「ケラヴィノス、簒奪魔力残量表示」 
《Yes,sir》 
 そう答えるとすぅっと脳裏にイメージが表示される。 
 その表示は残量があと6割と表し、今すぐ充電が必要ではないが注意が必要と伝えてくる。 
 ……まぁこいつらを倒せば十分な量か。 
 そう結論付けて篭手を強く握り締め、半身に構える。 
「『軍』担当、ロジェ・クロフォード――来いよ、金の亡者ッ!」 
 
 
 
 オレの宣言に触発されたのか、周り全員が一斉に飛び掛ってくる。が、所詮は生物。個体差故に遅い奴と早い奴が存在する。 
「な――っ!?」 
 一番動きの遅かった真正面の奴の方へ全力でダッシュ。 
 オレの移動に反応し切れず、驚愕して動きを止めたコイツは既に獲物だ。 
「……このぉ!」 
 ようやく立ち直って迎撃しようと得物である長剣を振り下ろす……が、ただの力任せにフェイントなどある訳も無く、オレは易々とかわし、一気に肉薄する。 
「っ!」 
 簡単に初撃を避けられた事に対して焦ったのか、剣の軌道を変えるべく握り直そうとするが、もう遅えっ! 
「2人目っ!!」 
 がら空きなった顎へ、すれ違いざまに肘打ちを叩き込む。 
 本来ならこっちの骨が折れる所だが、防壁で包んである部分は異様な硬さを誇る上、その結果は微妙に歪んだ顎の形を見ればどうなったかなど容易に想像が付く。 
 倒れるのを横目に見ながら3人目に振り向く。 
「……っ!」 
 オレを近づけまいと、短剣を滅茶苦茶に振り回して壁を作り上げている……確かに剣を使わない以上、こっちの攻撃の為の間合いは非常に限られる、が、だ。 
「おいっ、あぶねえ!!」 
「だ、だってよぉ!?」 
 そこそこ部屋広いとはいえ、刃物を振り回すには狭い部屋。 
 その中で短剣を振り回すバカを挟むようにオレが動けば、残りは動けない。 
「ケラヴィノス、暖機運転は終わったか?」 
《Yes,sir!》 
 本格的な出番を期待してか、どこか元気な返事。 
 ただの制御擬似精霊のはずなのに、こんな感情が出る機能を付けた奴は何処の誰だ……と問い詰めたくなる。 
 そんな場違いな事を考えながら、錯乱一歩前の奴に右手を向ける。 
「雷撃表現……×10ッ!」 
《Yes,sir……Lightning bolt Fire!》 
 目も眩むような閃光がほどばしったかと思うと、焦げ臭い匂いが鼻を突く。 
 その元は、さっきまで短剣を振り回していたオスネコ。 
 手の平の毛が真っ黒に焦げ、石床に口を空けて仰向けにぶっ倒れているが胸の辺りが僅かに動いているようだからまだ死んでないらしい。 
 さて、と、 
「逃げるなら追わんぞ?」 
「……冗談じゃねえ!」 
「まだ、コッチが多い!」 
 親切に警告をしてやったのだが、ここまで来てまだ数の有利を信じているらしく、2匹は剣を正眼に構える。 
 確かに堂に入った構えではあるし、さっきまでの奴に比べればマシだ……だが尻尾を丸めて怯えていては何の意味も無い。 
「「ぉおおおおっ!!」」 
 さらに、同時に2人が飛び掛ってくる頭の悪さだけはどうしようも無いらしい。 
「……っふ!」 
 連携もその後の繋ぎも考えない剣戟をのらりくらりと避けながらケラヴィノスに指示。 
 ……よし、行ける……と―― 
「糞ッ、当たれよっ!!」 
「ぁあ!?」 
 灰色の汚い毛並みをした片方が焦れた様に剣を振り回すと、もう片方の剣へぶち当たって甲高い金属音を立てる。そして、 
互いに離そうと下段に剣を持っていくが考えた事が同じらしくただ、交差してる場所が変わっただけ。 
 そのミスの代償は――致命的な隙。 
 オレは左右の手を互いに握り潰さんかの如く重なり合わせ、交差している2本の剣へ全力で振り落とすっ!! 
「――だぁぁぁ!!」 
「「!?」」 
 【万能結界】の機能である防壁を杭状の衝角に変化させ、腕力も強化すれば、自ずと結果が見えてくる。 
 数瞬後、ポッキリと真ん中から折れて軽い音を立たてて床に落ちた鉄屑。 
 予想通り安物でよかったが、もう少しグレードの高いものなら辛い所だ。 
「はッ――」 
 驚愕したまま動けないネコ2人の鳩尾と顎にそれぞれ打撃を加え、音も無く沈めて……これにて幕。 
 
 
 
「おーい、終わったぞー」 
 地べたに沈めたネコ達を縛るべく、後ろで下がっていた小隊を大声で呼びつける。 
 このまま放置すると戦闘の邪魔になる上、逃げ出されたら口封じが出来ないからだ。 
「えっと、動いたりは……?」 
「大丈夫だ……急がないと動くかも知れないからさっさと拘束して後ろへ下げろよ」 
「は、はっ!」 
 周りからの応援も呼んだのか、さっきよりも大目の人数でやってきてそんな事を聞いてくるのて少し脅かしてやると忙しなく動き始める。 
 それを横目にみながらオレは拘束が終わって端っこに並べられたネコの首を一人ずつ左手で掴んでいく。 
《Power charge complete!》 
 左手に仕込まれた【魔力簒奪】の効果は文字通り、体内の魔力を奪う。 
 ネコのように魔法に長けた種族は、例え魔法が扱えなくとも体内へ魔素を取り込み魔力へ変えている故に、一部の【魔剣】に付与されている"魔法を使う"魔法を使用できる。 
 しかし、ネズミはそもそも魔素を取り込んで魔力へ変えるという体質自体が何故か薄い為に、普通ならケラヴィノスのような"魔法を使える"【魔剣】の機能を使用できない。 
 それを他者から【魔力簒奪】をして初めて魔法を擬似使用できる……というカラクリである。 
「し、将軍っ!?!」 
 取り合えず全員縛ったあたりで、連絡兵が走ってくる。 
 その姿を見てるとふつふつと沸いてくる、嫌な予感。 
「……報告してみろ」 
 それでも、やらなきゃいけないこの仕事。 
 それに5年前のお嬢様への約束も果たさねばならない……全部を押し込め、連絡兵へ報告を促す。 
「トラップ"デリュージ"の使用許可は下りましたが、敵誘導の為全ての敵がここになだれ込みますっ!!」 
「つまり、流れてくる敵性戦力全部をここで受け止めろ……と?」 
「そういうことのようです……さらに準備の為20分は必要とも」 
 思わず気が遠くなりかけるが、気合で押しこめて平静を装う。 
「敵の予想到着時間は――……」 
 と、耳に入るのは大人数がこちらに走ってくる音。 
 隠れる、といった事を全く考えていない凄く雑な足音で統率の取れているようには聞こえない。。 
「総員、そいつら引きずって下げとけッ!! 下がったら援護射撃で敵を地面とキスさせてやれッ!!」 
「「「サー、イエッサーッ!!」」」 
 そうだ、まだこの野郎共はオレを信頼してここに居る。 
 それを裏切る訳には……行かない。 
「将軍! 死ぬ前に嫁さんの名前教えてくださいよっ!」 
「……縁起でもない事言うなバカッ!」 
 そんな事を行った奴を叩こうと考えたが、もう奥の方へ消えて見えない。 
 オレが死んだら、"アイツ"は結婚する前に未亡人になるのか……全く、簡単に休ませてくれない職場だ。 
「総員、援護を頼むぞ!」 
「「「サー、イエッサーッ!!」」」 
 さて、頑張るとしますか――! 
 
 
 
 気まずい。 
 目の前でずずっ、と音を立てて紅茶を啜るフランツさんを見ながらそんな空気を味わう俺。 
「……りょう君」 
「は、はいっ!?」 
 あっちに居た時に飼っていたのは可愛いコギーだったから、口を開くたびに見える牙が怖くて仕方ない。 
 そのお陰で、返事もどもる訳で。 
 ……そんな心の内が表情に出ていたのが、フランツさんが苦笑する。 
「そんなに怯えんでも、ヒトを食べんよ……マズイからな」 
「あははは……」 
 思わず「他のは食べた事あるんですか?」という質問が喉まで出掛かったのを飲み込み、何とか笑う。 
 もし「ある」なんて答えられたらどういう顔をしていいか見当もつかない。 
「あ、あのー、こんなノンビリしてていいんでしょうか?」 
 このまま気まずくなるのが嫌で何とか捻り出したのはそんな質問。 
 勢い任せだったけれども、冷静に考えればご主人様やロジェさん、リゼットさん達は命を張って戦っている。その中でヒトである俺が何か出来るのか分からないけれど、 
じっとしているは性に合わない。 
 しかし……何も出来ないヒトが行っても邪魔になるだけ。 
「……何か、したいのかね?」 
 そんなドツボにハマった思考を掬い上げてくれたのは、フランツさんのそんな言葉。 
 何気ない口調だったのにも関わらず、不思議とすんなり耳へ入る。 
「この世界で最弱の部類に入るネズミ以下の体力と持久力のヒトが、何か出来ると本気で思っているのかね?」 
「っ」 
 キッツイ台詞が、"何かしよう"と考える心に深く刺さり、余りの正論さに反論しようとする気すら奪われる。 
「……この答えは後で聞くとして、だ」 
 苦悩をさらりと読み取ったように話題を変えられる……そんなに感情が顔に出やすいのだろうか? 
「バッカスから聞いたが、君の処遇を議会で決めるそうだ……それで何か言いたい事はあるかね?」 
「あー、えー……特には無いです」 
 あの時は勢いと意地だけで言い放ったけど、今でも後悔は無い。 
 分の悪い賭けなのは最初から分かっていた。だけど、今更弁解してどうにかしようなんてつもりは一切無い。 
「ふふ、無欲だねぇキミは……必死にここに居たいと言うものだと思っていたが」 
 確かに、俺の矜持が許せば恥も外聞もなくそう言うだろう。 
「俺はご主人様の奴隷ですから」 
 そう、ラヴィニア・ヒュッケルバイトの奴隷であり、みっともない真似をすればご主人様の評価へ繋がる。 
 彼女へ迷惑を絶対に掛けない……それが自分で決めた線だ。 
「……ふむ」 
 気の抜けた声を出したフランツさんは、紅茶を啜って何も喋らない。けれど、さっきまでとは違って重苦しくなく、日の差した昼下がりのような雰囲気だ。 
 ……そのお陰なのか、少しは今までの事を考える余裕が出来る。 
 バッカスさんに宣言した事は、今でも後悔していない。けれど……不安だ。 
 頭の良くない俺が考えても無駄なのは分かっていても、もうちょっとやりようが合ったんじゃないかと悩んでしまう。 
 もう少し落ち着いていれば。 
 もう少し理性を大事にしれば。 
 もう少しだけ……要領がよかったら……っ。 
 そう思っても時間は戻る訳が無いし、今の記憶を持って戻るなんて不可能だろう。 
 無論、今の立場に不満は無いし、何かしら不穏な事も考えていない。だけど、それを証明する言葉や行動が見つけることが出来ない。 
 乏しい知識から捻り出るのは、自分を無害……というか、そんな意図はないと証明し、実際無い事を示す事だけど、犯罪者が自分が無罪と言っているような物だ。 
 例え、その犯罪者が無罪であっても一旦そうだと決め付けられたら、その汚名を濯ぐのは極めて難しいのは深く考えなくてもよく分かる、 
が、その身分になってみると非常にキツイ。 
 そのために屋敷にあった本を読んで勉強しようと思ったが、この世界の文字を拾い読み程度しかできない俺にはそんな事が出来るわけも無く、 
夕飯作って居眠りしたら……あの、とんでもない事に。 
 いくら居眠りしてたお仕置きとはいえ、耳を噛むだろうか? ……まず絶対噛まない。 
 まぁ、こっちの考えをぽんぽん当てるのに、俺が読もうとすると予想外へ行くご主人様達の頭の中を当てる事自体が無理無謀だとは思うけれど、ちょっと悔しい。 
 …………予想外といえば、アレがあったなぁ。 
 俺も男だからああいった事は、嫌いじゃ、無い。 
 獣人だけれど、とても可愛いご主人様とロレッタにあーいう事をやってもらったあの行為自体は気持ちよかったけれど、何かが食い違っていた。 
 その違和感から俺は続きをやろうとしたご主人様を止めたんだと思う……少なくともその判断をした事は自分で自分を褒めたいくらい正しい事だったと思う。 
 いやまぁ……まさか、ロレッタに抱きつかれて襲われるとは思っても見なかったが、結果的には何とかご主人様たちと仲直り。 
 ……この時位からご主人様の態度が凄く柔らかくなった気がする。 
 それはもう楽しそうに俺の手を繋ぐし、2人で食事する時になるといつも"あーん"してくる上にこっちにも要求してくるのだから……恥ずかしいけど、嬉しかった。 
 やられた事はともかく、純粋に『ここに居ていい』と言われてる様でとても安心できたし、笑う事も出来た……けど分からない。 
 この世界においてヒトは、高価な玩具。 
 そんな物の最底辺である俺になんでそこまでしてくれるのかが分からない。 
 いっその事、乱暴にしてくれればこんな事を考えずに済む……とは思うけれど、流石にそんな人には拾われたくない。 
 しかし、こう、大事にされると何故か背中がムズ痒くなる。 
 ……ムズ痒くなるような事といえば、昨日のアクシデント。 
 あの時には、ああなる事は流石に予想できずに頭の中真っ白になったが、今考えると一つだけ引っかかるところがある。 
 それは、後で"冗談"と言って笑い飛ばしたけれど、アレは本気だった事。 
 『何故?』と聞かれても『なんとなく』としか答えられないけれど、そう思う。しいて言うなら、あの後のご主人様の対応……だろうか? 
 悪ふざけをした後、絶対謝るご主人様があの時はそうしなかった。 
 思いつく要素はこれだけだったけど、あの時は本気だったと思う……もう、いまさらだけどあの対応でよかったのだろうか? 
 押し倒せばよかった? 
 きっぱりと拒絶すればよかった? 
 それとも、別の行動……? 
 そんな選択肢を並べても、具体的にはどうとは分からないし、もう戻らない昨日の事。 
 終わった事を事をぐだぐだ悩むのはバカらしい……そう割り切れるほど、俺が頭が良かったらどれだけよかったか。 
 中途半端に頭が回って、中途半端に悩んで、中途半端な居場所にいる現状は嫌だけれど、とても居心地のいいのは事実。 
 ……俺は、何処に居たらいいのだろう? 
「はぁ」 
 思わず大きな溜息が出ると、余計に気が滅入る。 
 居場所といえば……俺の心もそうだ。 
 『元の世界に帰る手段は皆無』 
 そう言われて理性は納得したはずなのに、たまにあちらの夢を見るほど……割り切れてない。 
 覚えてる限りでは、その夢にねえさんが出てくる事が多い。 
 それだけ、姉離れも出来てないって事なんだろうけど、流石に自分が空しくなる。 
 一度決めた事なのに、まだ引きずるなんて、まだまだ覚悟が甘いのか、それともこの世界が嫌なのか……それすらも決めていない。 
 そうやって、まだ俺はこの世界でふらふらと揺らいでいる――結局、この世界で何をしたいのか、何ができるのか……それが全く出来ていない。 
 だから、未だにバッカスさんの問いにしっかりとした答えが出せない。 
「ぁう」 
 分からない事を考えすぎた所為か、ズキズキと、鈍い痛みが頭の奥で木霊する。 
 それを抑えようと両手で頭皮を揉むが、余計に痛むような気がする。 
「……若いなぁ」 
 懊悩とする俺を見ながら、フランツさんは楽しそうな口調で呟く。 
 視線だけ向けてみると、頬に当たる部分を吊り上げて……笑っているんだと思う。 
「一人で悩むと、泥濘に足を取られるぞ」 
「あははは……分かってますけど、こればっかりは自分で考えないといけませんから」 
 俺の今の悩みが読めているのか、笑みを崩さずにアドバイスをくれる。 
 けれど、自分のスタンスを決める以上、自分で決めなきゃいけないのに今まで通り、他人に流されるのは流石に頂けない。 
「ふふ、悩んでばかりでは疲れるだろう……ちょっとした講義といこう、バッカスはおらんがな」 
 そう切り出され、俺は姿勢を正す。 
「……我々、行政を司る院の『長』は議会にて重要な方策を練る。そして、その就任の際ある事を行うが……それが何か知ってるかね?。」 
「遺言書を書く……でしたっけ?」 
「その通りだ」 
 さっき、ここに来る前にロジェさんから聞いた話だ。 
 ――『俺達、議会に出てる奴らは全員遺言書を書かされる。これには"死ぬ気でやれ"という意味もあるが……身体的に脆弱なネズミだ、 
病気でぽっくり逝って後々の争いにならんようにする意図だ』 
 ……そう言ってロジェさんは笑っていたが、リゼットさんが少しだけ曖昧な笑みを浮かべていたのがふと思い出される。 
 折角だ、もうちょっと訊いてみよう。 
「内容とか、聞いてもいいですか?」 
「ん、構わんよ……内容としては、『家族の生活のある程度の保障』とか過去例としては多い。まぁ、リゼット嬢のように特殊な物もいるがな」 
 遺言書なんて、こんなくらい話題はさっさと終わらせたいのだが、色々助けて貰った人の名前が出ると、途端に好奇心が頭をもたげてくる。 
「多少、興味が出たようだな」 
「……え、えーと」 
 でも、流石にそこまで聞くのは失礼と思って、好奇心を飲み込んだつもりだったが、また顔に出ていたらしい。 
 そんなに顔に出やすいタチではないはずなんだけどなぁ……? 
「遺言書の内容は議会で承認される必要があるから内容なんぞ、ヒトにばらしても構わん……でどうするかね?」 
 心の内を見透かされ、固まる俺の表情がよほど面白いのかニヤニヤ笑って訊いて来る。 
 とても悔しい気分になるが、ここは我慢、我慢。 
「お、お願いします」 
 ……多少、どもるのは許容範囲内……だと思う。 
「ごほん、。リゼット嬢の場合、このネコの国において強力なステータスを持っている……それが"商会"の商長という肩書きだ。そして、 
彼女が何らかの事情により死亡した時、その肩書きは誰の元へ相続されるか……予測できるかね?」 
 気楽そうに、けれど、試すようなフランツさんの声。 
 そんな声を聞きながら、答えを探す。 
 ネズミの国の法律どころかネコの国の法律も知らないから、俺には答えられない。 
 けれど、ご主人様達を見ればあっちの世界と人のレベルは変わらない様に見える……つまり、法律とかは大して変わらない、と思う。 
 だから…… 
「親族、つまり、血の繋がりのある人へ相続される。と、いう事ですか……?」 
「正解……そうならないように、彼女は遺言書には相続先として、一応、ル・ガルに籍があるワシへと流れるようになっている。ネズミではネコの国には籍が無いからな」 
「……なるほど」 
 フランツさんのお話は興味深かったが、自分で出した答えに何かが引っかかって話半分にしか聞いていない。 
 こう、奥歯に何かが挟まったような感覚が頭の中にあって、ちょっと気持ち悪い……そもそも、考えるのが得意じゃない俺はこんな感覚自体が嫌いだ。 
「……ロジェから遺言書の事を聞いたのかね?」 
「え、えぇまあ」 
 中途半端に話を聞いた事を咎める様な重い声で、意識をフランツさんへ戻すと、怒った雰囲気もなく、ただただ穏やかそうに見える。 
「と、言うことは、今ここ"迷宮"に攻め込んでいる勢力の代表の名前くらいはしっているだろう?」 
「もちろんです。確か、アーネスト・メイ……え?」 
 ――『答えから言おう……『ヤツ』は、リゼっちの身内――叔父の"アーネスト・メイフィールド"だ』 
「……まさか……この争いって……」 
「さまざまな思惑や執念を除けば、『遺産争い』ということになる……ふふ、驚いたかね?」 
 驚きすぎて思考が回らなければ、声も出ない。 
 そんな俺の反応が、気に入ったのかさらにフランツさんは続ける。 
「リゼット嬢の遺言では"商会"はワシへと渡り、ワシがダメなら、この国に置いてあるラヴィニア様の偽装戸籍へと繋がる仕組みになっておるが…… 
ここに居る、ロジェ、リゼット嬢、ワシ、そしてラヴィニア様の4名を生きたまま捕らえれば、あちらの集落を占領することが容易くなる。 
無論、全員が死亡した場合でも議会7人中4人が死んだとなれば士気の低下は免れず……遠からず占領されるのは明白」 
 俺の理解を置いてきぼりにしたフランツさんの解説はそこで止まる。 
 正直、ほとんどの言葉が右から左に抜けて分からない事だらけだが、なんとなく意味は分かる。 
「つまり、ご主人様のような要人を捕まえて……金儲けですか?」 
「要約すればその通りだな」 
 自分でも端折り過ぎたと思ったが、それを聞いてもフランツさんの表情は穏やかだ 
「……しかも、ヤツならネズミをヒトの様に奴隷と売りかねない」 
「奴隷ですか……?」 
 こちらの世界の人間であっても"奴隷"という身分に身を窶している人達が居ることは一応聞いた。 
 しかし、ネズミ全員がそうなるのか……と言われると首を傾げてしまう。 
「ヒトが奴隷になるのは希少で弱いから……でもネズミは、弱いけどこの世界の住人ですからそこまで酷い扱いは――」 
「残念ながら、違う」 
 今までと変わらない淡々とした口調に、平坦な声。 
 そこに、悔しさが混じっているように聞こえたのは幻聴だろうか。 
「ヒトが何故、奴隷になっているか分かるかね?」 
 この言葉にバッカスさんの講義でもよく出たフレーズを思い出す。 
「力が弱い、数が少ないからでしたっけ?」 
 そんな答えに、ふむ、と呟いたフランツさんは、毛むくじゃらの人差し指を立てる。 
「もう一つある……後ろ盾が存在しない。コレがネズミとヒトに共通する事項だ」 
「後ろ盾、ですか?」 
 うっすらと分かってきた気がする。 
 ネコの国でイヌが殺されてしまったら、イヌの国は怒るだろう。 
 けれど、ヒトを殺して怒るのは高い金を出した持ち主……それだって、持ち主が殺したのなら別だ。 
 そのルールに基づけば、ネズミを殺しても怒るのは……力も数も居ないネズミだけ。 
 ご主人様の言を借りれば『居ないものと認識されてる』から、何の意味もない。 
「ヒトのように高い額が付けばその額に応じて大事に扱われるかもしれない。が、だ、ネズミは一回の出産に付き2人を生むことが確率的に他種族より比較的高い」 
「つまり……数が増えるのが多いって事ですから……?」 
 そこから先は、考えたくない。 
「"安物"の"奴隷"……どんな扱いになるか、キミでも分かるだろう」 
 今までのフランツさんなら分かって止めてくれていたのに、この時ばかりはそうしてくれなかった。 
 ここで負けたら、いつもお茶の葉っぱを店の店員さんも、クリスやネリーも、奴隷として扱われる……? 
 そうなったら、ロレッタやご主人様も例外は筈が無い。 
「っ……ぅ」 
 血も凍るような悪寒が体中に走り、両腕で自分の体を抱き締めるても震えが止まらない。 
 ヒトに対する酷い扱いなんてお話の中でしか知らない。 
 知らなくても、それで十分だった。 
 でも……そんな事聞くんじゃなかったと今更ながら後悔。 
 知っている人が全員、話以上の目にあるのが少し考えればよく分かる。 
 それを考えるだけで胸の奥が苦しくなる。 
 ただ、待つだけなのか? 
 ヒトの俺でも何か出来ないのか? 
 なんでもいい。少しでもそうなる確率を減らせないか? 
 ……まったく、神頼みしか思いつけない自分の根性に嫌気がする。 
「さて、今のキミに問う」 
「……」 
 節々が震える体を強引に動かし、目線をフランツさんへ合わせる。 
 声を出したくても、今、口を開いたら叫び声しか出せない。 
「『この世界で最弱の部類に入るネズミ以下の体力と持久力のヒトが、何か出来ると本気で思っているのかね?』」 
 最初のほうにされた質問。 
 あの時の俺は、答えれなかった。けれど、今ならどうだ……? 
 答えて――みせろっ! 俺!! 
「で、出来る出来ないじゃ無い、です」 
 なんとかひねり出した声は震えていたけれど、フランツさんは目を閉じて聞いてくれる。 
 いつもと変わらない感じがとても頼もしい。 
「何か、やらないといけないんです。やらないと……ダメなんです」 
 そう言葉にしていくと、自分の中で整理が少しずつ付いていく。 
 居場所なんてのは……少しずつ作り、変えていく代物。それをあーだこーだ悩んでやり直そうなどやっぱり愚かの極みだ。 
 少なくとも今は、ご主人様やロレッタの側に居てやること。 
 それが俺の居場所で、これが基本だ。 
 必要があるなら少しずつ変えればいいし、急に変えようとするほうが無理なのはよく分かっている。 
「だから、教えてください。俺が……ヒトがやれる事を、今すぐに」 
 俺が決めたはずだ。 
 ここに居ると。例え感情が暴れて帰りたいと吼えても、こっちの人達の方が大事だから。 
 だから――頑張らないといけないんだ……それでいいよね、ねえさん? 
 
 
 
「ち、何だよこの霧」 
「鼻はムズつくし、耳はおかしいし……簡単な仕事じゃなかったのかよ?」 
「コイツの持ってくるのが簡単だった例がねぇじゃないか」 
「……違いないねぇ」 
 本来ならこんな場所に出ないはずの霧がこの領域全てを覆い、十字に地下通路が交差する端でじっと息を潜めていると、そんな声が私の耳に届く。 
 話し声と、足音から考える4人1組のチームと予想できるけど……にしても敵中でこうも神経を緩めれるなんてどんな精神してるのかしら? 
 それはともかく……そろそろ準備しようかしら。 
 そう思考を纏め、スカートについているポケットの一つを開けて、お目当ての爆竹と"らいたぁ"を取り出す。 
 コレ自体は別に攻撃力がある訳じゃないが、ちゃんと意味がある。 
「あー、もううるせぇ! さっさと行って金貰うぞっ!!」 
 苛立ちをぶちまけたような大声を一人が張り上げ、残りがくすくすと笑う。 
 そんな緊張感の無い集団はは十字路へと差し掛かり――今! 
「……――っ!?!?!」 
 火をつけて放り投げた爆竹は見事に、彼らの中心で見事に爆発。 
 その音の大きさといったら、耳を押さえている私でさえ身をすくめるほど……不意打ちで食らったら気絶するかもしれない。 
 と、霧の中を何本も矢の気配が音もなく通り抜け、重い打撃音が何度も響く。 
 今ここで使われているのは金属製の矢尻ではなく、粘土で出来た弾頭。 
 刺さりこそしないが矢の運動エネルギーをそのままぶつける故に当たり所が悪ければオスネコですら昏倒する代物だ。 
 それを秒間5発、3方向から食らえば耐えれるのはそれこそ軍隊クラスの集団だ。 
「ん……?」 
 打ち方が止まって数秒。 
 耳を澄ませると、微かな呻き声が聞こえる……どうやら打ち漏らしらしい。 
「……!」 
 場所を推測して、足音を立てずに踏み込んで接敵。 
 相手が此方を向く前に鼻の頭を警棒で一発ぶん殴って、はい終了。 
 ……ボコボコにされて意識が半ば飛んでる相手を殴るのは気が引けるけどこれもお仕事。仕方ない。 
「よし……ここ終わりー?」 
「あ、はい。報告によると終わりだそうですー!」 
 奥の方の隊長さんに声を飛ばすとそんな答えが返ってくる。 
 敵の数が多すぎて矢を充填しきれない……という救援要請を受けてここに来た訳だけど、どうやらおしまいらしい。 
 その証拠に、何人かが此方に来て倒れたネコを奥の方へ引っ張って消えてゆく。 
 今はとりあえず縛っておいて後で身包みはがして放り出す……ネズミに関することも聞いてるだろうがチンピラ程度の話を本気で信じる人も少ないだろう。 
「それじゃ、私は撹乱に回るからあとよろしくね?」 
「御意に」 
 最終確認に来た隊長さんにそう告げると、私はふらふらと当てもなく地下通路を歩き回る。 
 将軍の居る北側に敵の戦力が集中投入され、こちら側には20人前後しか流していない……との報告どおり此方は敵の影が薄い。 
 その代わりそこそこ優秀な奴が来るのかと思ったが、質は最低クラスで数も少ないんじゃ笑えない。 
「……?」 
 霧が切れ、眼前に広がったのは少し広い空間。 
 本来なら情報屋が床に座り、売ったり買ったりを繰り返す場所なのだが、今は避難させているから誰も居ない。……その筈なのに変な感じがする。 
 だからどうとは言葉に出来ないけど、今まで外した事の無い勘が"何かがある"と脳裏で騒ぎ散らしている。 
「……」 
 全身の筋肉に緊張感と余裕を持たせ、腰のロングナイフの柄に手をかける。それと同時に何度か深呼吸を繰り返し、集中力と感覚をそれこそ刃物のように研ぎ澄ませる。 
 ……けれど、勘以外には何も掛からない。聴覚も視覚も嗅覚さえも教えてくれない。 
「うん、気のせい気のせい――」 
 刹那。 
「ニィィィヤッ!!」 
「――」 
 上から降ってきた何かが奇妙な声を上げて、私がさっきまで居た場所に土煙立てる。 
 それを転がるように避け、カフスの辺りに仕込んだタガーを二本投擲するが、二つの金属音と共に弾かれる。 
「……は、ははは……久しぶりだなっ、ヒュッケルバイト家の長女っ!」 
 そこに居たのは黒い長コートを纏った"仇"。 
 全身黒だというのに、目と手足の辺りだけが白く染まっている特徴的な配色。 
 人を小馬鹿にするような笑みを浮かべる口元。 
 そして、こちらに向けられる思い出深き斧槍(ハルバード)。 
 間違いなく……"奴"ッ! 
「変わらないね……あの時から」 
 後で聞いたら自分でも驚くほど低く、冷たい声で挨拶をする私。 
 その声に混めた感情の数は100は超えてるかもしれない。 
「こちらの寿命は600年。たかが3年では変わらんが……君は綺麗になったじゃないか」 
 ……コイツに褒められるくらいなら"りょー"に冷たく突き放されるほうがまだマシだ。 
「もう喋らないで。どうせならそこで死んで頂戴」 
「く、くく、酷い言われようだな、おい」 
 ちょっとした悪口も気にせず、奴は矛先を上げる。それに合わせて私もロングナイフをホルダーから抜き、片手だけで正眼に構える。 
 ふざけたコイツでも腕はそこそこ。嫌でも緊張するけど……それ以上に心が冷えていく。 
 刃は火に、体は水に、心は鋼に置き換え……行く! 
「…――タァ!」 
 先手をとったのは私。 
 右足で踏み込み、低い姿勢で距離を詰める。 
「甘ぇ!」 
 長物である槍の利点はそのリーチ。剣の倍は長く、その上扱いやすい。 
 その利点を生かして奴は、私を近づけまいと下段に構え、斧部分上に上げて牽制。普通なら刃物を向けられて竦むだろうが、相手が悪かった。 
 突き出た斧の部分を避け、斧槍の塩首(けらくび)を踏み台とし、ほとんど零距離から首に向けてロングナイフを思いっきり投げつける……いくらネコといえど避けられまい。 
「ぬぅ!?」 
 そんな私の予測を超えた首の動きで奴は避けるが代償はタダでは無く、決して浅くない傷を付ける。 
そして、擦れ違いざまに予備のナイフで同じ所を切り付けて……1サイクル終了。 
 私はレンガの隙間に突き刺さったロングナイフを引き抜き、振り返る。 
「は、はははっ……やるなぁ!」 
 首もとの黒毛を、赤黒く染めながら笑う敵。 
 その目には恐怖などなく、歓喜と異様な活力を爛々と滴らせていて気弱な人なら気絶してもおかしくない。 
 それでも私は……引かない。それ以上の意思を持って見返すだけだ。 
「尻尾丸めて逃げ帰ってくれると、こっちとしては楽なのけれど……どうかしら?」 
「はン、俺を殺せない癖によく言うぜ。首を狙った筈なのに"そこそこ深い傷"程度で終わらせる程度が限界な奴相手に負けるわけがねぇだろ」 
 相手の言葉に思わず唇を噛む私。 
 奴の言う通り、投擲時には全力だった筈で、距離だってほとんど零距離同然だったのに"致命傷"じゃない。 
 筋肉の薄い首でその程度。腕などでは刃が立たない可能性すらある。それにも関わらず、こちらは一発当たっただけで死にかねない……コレが種族としての歴然たる差。 
 それでも、傷は与えた。 
 出血を起こせば集中力を奪い、体の動きは少しでも鈍くなる。 
 体温を持ち、体中に血管を通す以上、絶対に避けられない生き物としての摂理。それからは……逃れられないっ! 
「こっちから――行くぜっ!」 
 かちゃりと鎧同士が擦れ合う甲高い音がしたかと思うと、得物を低く構えてこちらへ突進。左右に避けようにも長い斧槍の餌食になるのは目に見えている。 
 ……だから私は正面からぶつかる様に走る――! 
 程なく相手の武器の射程内へ入ると、空気を抉る様な切り上げ。 
 それよりも私は速く踏み込み、懐へ潜り込んで喉へ刃を突き立てようとするが、流石にバカじゃない。素早く後退され攻撃の機会を失う。 
 追撃しようと、体勢を整えるが、"次は絶対に反撃される"……そう勘が告げた。 
 その勘に従って大人しく"奴"を見据える 
「ち、流石に来ないか」 
 後ずさった後、ふらついたような動きを見せていたがそう言ってしっかりとした姿勢になる敵。やっぱり罠だったみたい。 
 しかし……これ以上は攻めあぐねて仕方ない。 
 2度も奇襲じみた戦法をした以上、次からは絶対に警戒してくる。3度目を素直に受けてくれるとは思えないし、受け流されたらそれこそ目も当てられない。 
 だからって、真正面からも難しい。 
 長剣だったらいなす事も叩き落とすことも楽だっただろうが、相手は斧槍。受け流すことも叩き落すのも至難の技の得物だ。 
 こちらの武器が短剣だから良かったものの、もし剣だったらリーチと手数の差で負けることだろう。 
 ……さてさて、どうしようか? 
「はッ!」 
 これからどうするかを深く考えすぎていた隙を見逃さず、槍部分を使って胴の辺りへ深く突き込んでくる。突き出た斧部分からも飛び退くように大きく横に避けるが、 
相手も切り替えて右に左と振り回してこちらの逃げ場を削る。それを飛び越えたり屈んだりして回避に徹すると少しずつ壁側へ追い詰められていく私。 
 イチかバチか……コレでどう!? 
「――ッ!?」 
 ちょっとしたマジックで火をつけた爆竹、総計6個を"奴"の顔面へブチ撒ける。 
 爆音を間近で聞かされるのは勘弁とばかりに、素早く飛び退いてこちらの思惑も成功。私もその場から逃げ出す。そして、 
耳を押さえて6個セットのくぐもった破裂音を聞きながら体勢と思考を整える。 
 爆竹を投げる時、私は動きを止めたが敵は耳の方が大事らしく逃げた。もしそんな被害を無視したら今頃、腹部を貫かれていることだろう。 
 でも、この賭けは私の勝ちだ。 
「んっ!」 
 うっすらと曇る部屋の反対側に見える影、"奴"へスローインタガーを手早く投げつけて、それを追う様に走る。 
「こン……の!」 
 スローインタガーを弾いた勢いのまま、近づく私を目標に横に薙いで迎撃。しゃがんで避けたが、ハルバードが耳の先端を掠って毛を何本かもっていかれる。 
 それで稼いだアドバンテージは相手の無防備な懐。 
 自分の体中のバネを最大限使ってのとんぼ返り蹴りッ!  
「あ……れ?!」 
 が、かわされバク転に切り替えて距離をとる……けれど、その隙を見逃してはくれない。袈裟、逆袈裟、突きと重く、速い連撃が体勢を崩した私へと何度も降りかかる。 
 まさか受けるわけにも行かず、ロングナイフで必死に流すが完全には出来ず、2度、3度と繰り返すと手首が痺れて思い通り動かなくなってくる 
……このままだと流し損なって骨が折られるかもしれない。 
 と―― 
「か、壁?」 
「お、逃げ場はもう無いぜ? ははっ……!」 
 肝心な時に良く働く勘に聞いても答えは戻ってこない。 
 どうする? どうする? 爆竹は使い切ったし、タガーも2本しか無いんじゃ目くらましにもならない。どうしたらいい!? 
 背中の冷たい壁の感触と正反対に熱く焦った頭の中では碌な答えが出せない。 
「そぉ…――れッ!」 
 余裕綽々といった感じで、斧槍を振り下ろす。その勢いたるや私の動体視力でも霞むほど……けれど油断しているときがチャンス! 
 半身になって相手の唐桁割りのかわしざまにコートごと小手を切り――滑った!? 
「悪いな……小手防御の為に腕輪位はしてるん――だ!」 
 お腹の辺りへ打ち込まれる拳に勘は反応する。 
 ――回避不能。防御推奨……と。 
「く……ぁ」 
 直後、痛いを通り越してほとんど衝撃だけを感じた私の意識は根っこから刈り取られた……助けてよ……"りょー"。 
 
 
 
「おい、まだか!?」 
「済みません、あと5分くださいという事です!」 
 こうして寄ってくる敵グループをちまちまおびき寄せつつ25分。こちらの戦術に気づいたのか集団が結託しつつ雪崩込んでくるのだから、 
いくらケラヴィノスの援護付きとはいえども辛過ぎる。 
 と、荒々しい足音。 
「――にじゅう、にひき、めッ!」 
 勢い良く走り込んで来たネコが、居るはずのオレを探して部屋の中を見回した時に背後を急襲し、まずは1匹。音も無く床に倒れこむ。 
 2匹目は一息吐いた隙を狙い、勢い良く突っ込んできて、そのスピードを生かした突き……というより突進。それを足捌きだけで回避し、 
首根っこを掴んで《雷撃表現》でダウン。 
 3匹目……と思ったが、後続の足音も無く、今回はこれでオシマイらしい。床と熱烈デート中の奴らを見ると所々毛が抉れて痛そうな所を見ると推測ではあるけれど、 
途中の奇襲で数が減ったのだろう。 
「おい、まだか!?」 
「すみま――いえ、起動成功ッ! 起動まであと30秒ッ!!」 
 奥のほうへ苛立ちを全力で込めて怒鳴ると、喜色がたっぷりな反応が返ってくる。 
 しかし、こんなに時間掛るならもう少し予算とマニュアルをなんとかしないと、はぁ。……さて、仕事仕事。 
「総員、隔壁区画へ退避! 逃げ遅れたら死ぬぞッ!?」 
 オレも退避しようと右足を持ち上げて動こうとしたが、何かに引っ張られるような感触に思わず前のめりに転びそうになる。それをなんとか堪え、足元を見ると、 
「に、がすかよ……!」 
 そう呟き、執念を滾らせた表情で組み付くネコ。 
 振り払おうと足を振ろうかとも考えたが、こうなってしまっては力の差は歴然としていて敵う訳が無い。 
 ……仕方ない。 
「死ぬなよ!」 
 腰に据え付けられた余り使わないナイフを取り出し、相手の手首を狙って全力で突き立てる。 
 当然だが突き立てられたネコはたまらず、手を離して傷口を押さえているが……固い物を断ち切った感触がまだオレの手に残っている。多分腱だろうから 
……高位の回復魔法でなければ、再生は不可能だろう。 
『起動まであと15秒ッ!』 
 ……くそ、後味悪いが仕方ねぇ。 
 そう迷いを割り切って、走り出す。 
「全力でやれっ!」 
《Yes,sir!》 
 指示とも言えない指示を両手の篭手の制御擬似精霊は受け取り、迅速に発動させる。 
 いままで能力を抑えていた為、薄かった視界のガラス片が整然と並び、全身……特に脚部に力が沸いて来る。それだけではなく、疲労や痛みすら引かせて俺を走らせる。 
 直後、背後で1つ目の隔壁の閉じる轟音。 
 それに連鎖して、ジワジワと音の壁が迫ってくる。 
『あと10秒ッ!』 
 その宣告と同時に、3分の1しか隙間しかない最後の隔壁がようやく見える。 
「――ぁぁぁぁぁああああッ!!」 
 軍服のズボンが焼き切れるかと思うくらいの勢いでその隙間を滑りぬけて……隔壁は降りた。 
 気がつくと鼻の頭が少し痛む。ケラヴィノスの極薄力場であったとしても通り抜けれないほど、ギリギリだったようだ。まぁ……ギリギリといえば、オレの体力もそうだ。 
「はぁはぁはぁ……」 
 浅い息がこのまま止まらないと思うほど肺と心臓が痛い。 
 長期戦を睨んでケラヴィノスの貯蔵魔力を節約しようとしたのがいけなかった。さっきまでの戦闘でオレ自身の体力を消耗し、さっきのダッシュで貯蔵魔力まで削られた。 
 これが敵の策と見れば納得出来ないことは無い。 
 なにせ兵力の逐次投入は愚策であるのが分かっているはずなのにそれをさせた。そして今現在、切り札であるトラップ"デリュージ"を使わされた。 
 もし、相手も頭を潰す事を考えていたのなら全ての障害を排除する必要があるが……それは見事に相手が完全成功し、 
こちらは7割成功といったようにアドバンテージを稼がれたことになる。 
 オレが潰れたら……恐らくはこの戦は負け。 
 常に勝つことが仕事だから、負ける訳にはいかない……………………ぐぅ。 
「し、将軍、大丈夫でしょうか?」 
 石床に大の字で転がり、いつの間にか寝ていたオレを心配そうに連絡員は覗き込み、問いかける。 
 ここでうろたえると士気に関わるが、それ以上に体力の消耗が酷い。しかたなくそのままの体勢で返事をかえす。 
「あー、大丈夫だ……で、持ってきたのか?」 
「はい、勿論です」 
 そうして腰につけたポーチから取り出してオレに手渡されたのは、一本の茶色い小瓶。 
 中身は、一般的に出回っている魔洸ドリンクだ……安物なので不味い事この上ないが。 
「……あぁ、不味い」 
 あえて言うなら、硬水のサイダー。しかし、決定的に違うのはそれに変なとろみがついてる事。 
 これが、後味の悪さを助長してとっても気持ち悪い。 
《Power charge?》 
 ドリンクで補給したとはいえ、魔力は魔力。なのだが、効率が悪いらしく魔力残量は7割程度までしか回復していない。 
 これからどうしようかと考えながら一息ついてると、 
「で、これからのご指示は……?」 
「あぁ、現状維持だが、誰も死ぬな。そして誰も死なすな。重傷者が居たら手厚く治療しろ……それだけだ」 
「治療ですか?」 
 オレの指示がどうも不思議らしい。当然ちゃあ当然だが。 
「んー、お前らが誰かを殺せばオレのこの手が血に染まる。オレが誰かを殺せばお前らの手が血に染まる」 
 一つ深呼吸。 
「それが嫌なんだよ。見て見ぬ振りができねータチだからなのかもしれないが、他人から見れば偽善極まりないがなぁ。はははっ」 
 照れくさくて、冗談ぽく締める。 
 それを見越したのかオレを上から見下ろしてるコイツはクスクスと笑いやがっている。 
「ほら、さっさと伝達しろ」 
「は、はいっ! ……そろそろトラップ"デリュージ"の終了かと」 
 このトラップ"デリュージ"ってのはそのまんま"洪水"の意。 
 この地下通路の直上には運河が走っており、そこから少々水を拝借して5つある貯水槽に溜め込んで一斉に放流するという単純なものだが、 
隔壁を操作すればある程度流れと勢いが制御できる完璧な最終兵器……だったはずだが、訓練不足の所為かどうももたついたのがこれからの改善点といった所だろうか。 
「で、どれくらいだ?」 
「後1分ほどで全貯水槽の中身が尽きます……その30秒後に全隔壁を順次開放する予定です」 
 その話を聞きながらもそもそと体を動かし、鋼鉄製の隔壁に背中を預ける。 
 疲れた筋肉に冷たさが心地いい。 
 アドバンテージは稼がれているが、なにもそれだけで決まる訳じゃない。時にはそれを捨てて行動する事で得する事もあるのだ……諦めるのはまだ、早い。 
「よしっ、さっきの指示を総員に伝達。何か文句言われてもオレの名前だしときゃなんとかなるだろ……ほら、急げ!」 
「は、はいっ!」 
 急かされた連絡員は、慌てて走り出す。その後姿を見送りながらオレは壁に手を掛けてなんとか立ち上がる。 
 息はもう整っているがその身の内にある疲労だけはこの短時間では抜け切れてない。まぁ、トラ相手ではこちらの体力が10割だろうが7割だろうが 
細かい誤差程度にしかならないが。 
 そんな絶望のような希望のような事を考えながら振り向くと、隔壁が重たげな音を立ててゆっくりと開く。 
「……むぅ」 
 退避の為走った道を逆戻りしてみると、オレの身長程度まで濡れた壁に所々にある水溜り程度しかなくて、なにもかも全てを押し流してしまったようだ。 
 当然ながらあの手首を刺されたネコも流れちまったのだろう。 
 掴むものもなく、掴める力も殆ど失った奴が耐えられるほど、こっちの罠は甘くない……とはいえ、心の奥がキリリと痛む。その痛みを無視しながら、 
先へ先へと歩みを慎重に進める。 
 と―― 
「――――ッ!!」 
 いつもなら弱者の尊厳を踏みにじるこの咆哮。けれど、オレ達には2度も効かない。 
 その音源の方へ進んでみると、壁に長く、肉厚な長剣を突き立てているデカブツ。 
 黄色と黒の特徴的な配色。 
 フランツのオヤジより大きい巨躯。 
 腕や脚などの筋肉の異様な厚さ。 
 ……身体能力上、勝てる要素が一切無い相手――それがトラだ。 
「やぁ」 
 オレが近づくのを気配で感じ取っていたのか、はたまた足音で分かっていたのか、驚きの成分がが一切無い表情でこちらへ目を向けるトラ。 
「ヒケ。そうすれバ、命までは取らン」 
 所々イントネーションがおかしいが恐らくそれは喉元の古い傷の所為なのだろう……オレには関係ないが。 
「引ける訳ないじゃないか、こっちもアンタも仕事なんだから」 
「ふン、それもそうカ」 
 ヤツが壁に刺していた剣を引き抜き、こちらに向けるのに対応してこちらも半身に構える。 
 ……ふと、興味がわく。 
「お前さん、名前は?」 
「名前ヲ知ってル奴と殺しあウほど酔狂ではなイ」 
「ま、それもそうか」 
 確かに悪趣味かもしれん……仕方ない、か。 
 呼吸をより深くして震えそうな四肢を繋ぎとめ、相手を睨む。 
 トラはネズミより、速く動けるし、一撃の重さなんぞ比べるのもアホらしい。 
 身体の丈夫さだってレベルが違う。 
 ……それでも仕事だ、負けられねぇ。 
「勝つぜ、オレは」 
「好キに言え」 
 一息。 
「「死ね」」 
 それが、始まりだった。 
 
 
 
 ダンッ! と石床をぶち割るかと思うほどの音を立ててこちらへ突撃。数コンマ遅れてオレも踏み込んで正面からヤツにぶつかるように走る。 
 数秒後、相手の剣の射程内へ真っ直ぐに突っ込むと下から掬い上げるような剣閃。殆ど影しか見えなかったそれを勢いを殺さず、足捌きと上体を軽く反らしてギリギリ回避。 
そのまま、するりと横を抜けざまに相手の顔面に左手をブチ込むッ! 
「……!」 
 叩き込む寸前、鋭い牙をちらつかされ、仕方なくそのまますれ違い、振り向く。 
 その勢いのまま、殴りかかるが全て難なく防御か回避されて有効打を与えられない……このままでは、体力の浪費だと判断し、素早く後退するが何故か追ってこない。 
「速イ。が、遅い」 
 少しだけつまらなそうに呟いた言葉はオレの評価だろう。悔しいが現状のオレでは"速い"と言わせただけでもマシだろう。 
「ケラヴィノス、巡行モードに切り替え」 
《Yes,sir》 
 そう反応が返ってくると脳裏にちらちらと幾つかの文が写り、消えたかと思うと目の前の景色の色彩が少しだけ薄まる。 
 いままでは様子見の為に起動してなかったが、生半可な力では倒せないと判断し、起動させる。 
「なんダ、それハ……?」 
「まぁ、『ネコを絶滅させる為の小道具』……これの製作を頼んだヤツはそう言ったそうだ。まぁ受け売りだが」 
 50年前の遺産とはいえ、ふざけた名目だ。しかし、コレが無ければオレはもう負けている。 
 大きいネコだと思えばトラも似た様な物、勝てないはずが無いし、負けるつもりもない。 
「ふ――」 
 今度はこちらが先制。 
 脚力の援護を受けた現状ではさっきよりは速い、筈っ。 
 相手の方は動かず、恐らくは受けの体勢なのだろうが甘い……敵の射程に入る直前にオレは大きく跳ねると同時に、 
「雷撃表現×5っ!」 
 その命令通り発動された稲妻は右手から零れ落ち、未だ水溜りがそこらじゅうにある部屋の床にほどばしる。そして一度は散らばった稲妻は敵の濡れたブーツを這い上がる! 
「ぐ、アッッ!?」 
 奇妙な呻き声を上げたかと思うと、振り振り下ろされた刃の軌道が大きく外れ、剣先が床に激突。引き上げようとしてるが痺れが取れないようで遅い。 
 それはがら空きの顎をぶん殴るには十分過ぎるほどの隙――頂く。 
「……っ、……っ」 
 援護付きで左手で3発、右腕で1発ずつ殴って引き下がる。追って来た時用の目潰し用の砂も準備したが片膝を付いた体勢のまま動かない……が、こっちは全力だった。 
 ……なんで、こうもクソ丈夫なんだ。 
「な、ナんなのだ、キサまはッ!?」 
「ただの給料分働いている男だよ」 
 血を吐くような声の相手に出来る限り余裕そうに返すオレ。 
 おそらくだが、コイツは何の情報も与えられていない。だからこちらの事を知らな過ぎる。 
 確かにトラとの身体能力勝負をすればケラヴィノスの援護ありでも真正面からでは負けるが、少しの運とちょっと卑怯な手を使えば勝てない事はない。 
「あノ、野郎……」  
 その呪詛すら混じりそうな低い声音で喋られると流石に恐怖が沸く。向いてる先はオレじゃなくて、りぜっちの叔父、アーネストの糞野郎なんだろうけど。 
 ん……もしかしたら…… 
「さて、停戦しないか?」 
「……?」 
 オレの突然の提案に怪訝そうな表情を浮かべる相手。 
 うまくすれば、なんとかなるかもしれない。 
「お前は情報不足で個々に放り込まれて、騙された。オレはここから先を通す訳には行かない……で、だ。利害が一致しないか?」 
「却下ダ」 
 それはもう素晴らしいほどの即答。そして、その回答に注ぎ足すように言葉を重ねる。 
「成功報酬1000セパタ……そシて、お前ノ持つ道具をネコに売れバそれ以上ダ」 
「だがなぁ?」 
 本音としては、目の前のトラとぶつかり合うなんぞ一生掛けても御免だ。 
「キさマにも引けナい理由がアるようニ、俺にモ、ある」 
 ……本当に仕方ねぇ。1回くらい負かさないとダメだなこりゃ。 
 溜息をこっそり吐くと、相手は話し合いは終わりとばかりに、肉厚の長剣を黒鞘に仕舞って低い体勢を取る。おかげで長さが図り切れない。 
 対策としては、当たるギリギリの場所に居て避ける事だがそれを許してくれるほど敵は優しくも、弱くも無い。となれば、臨機応変にその場しのぎしか無いか……。 
 自分の手数の少なさを虚しく思いながら、拳を固め、先手を打つ。 
 殆ど音も無く走り出したオレは敵の攻撃圏内だろうと構わず吶喊。相手の方は一太刀で決めるつもりなのか鞘と柄に手を当てて完全な迎撃体勢を取られているが 
……アンタは戦い方が真っ当過ぎる。 
「――ッ!?」 
 相手の刃の圏内に入った刹那、確実を期して2回、目潰しをブチ撒ける。両手と意識は迎撃用に傾けられた故に回避は不可能。 
 破れかぶれと言わんばかりに剣が抜かれるが、オレはそれを両方の手の平で挟んで固定。発生させた力場により、さらに強固に繋ぎとめる。 
 突然動かなくなった剣を捨てないうちに―― 
「雷撃表現――」 
「チィッ!?」 
 恐るべき反射神経で柄を手放し、こちらには真似できない速さで後退。 
 得物を失い、目潰しの砂の効力もまだ衰えていない……このまま決める。 
 手の中に残った剣をくるりと回し、柄の部分を握る。トラ用なのか妙に重いし、オレには柄が長すぎて扱いにくいが、今この時は十分過ぎるほどの好条件だ。 
「忘れ物だ……コレも持っていけッ!」 
 ダーツでも投げるかののように、剣をただ全力で相手に向かってブン投げる。 
 こんなデカイ物を真っ直ぐに投げる技術なんてなかったが、派手な風切音を立てて回転しながら相手の正面に飛んでいく。それに若干遅れてオレも走り出す。 
「ぬゥッ……!?」 
 目が見えないからか、よろめくようにして何とか剣を避けるが大きく体勢が崩れ、素早くがら空きの胴体部へ体を滑り込ませる。 
「疾風――迅雷ッ!」 
《Boost――Start!》 
 キーワードを唱えると、即座に効果は実行。 
 薄まった色彩が視界から消えて、両方の拳から腕の辺りまで濁りの無い白へと変色し、稲妻が包み込む。 
「……アァァァッ!」 
 その凶器は雷光を撒き散らしながら、秒間4発を30秒続け、120発の雷撃と拳を鳩尾へと吸い込まれる。 
 オレはケラヴィノスから流れる指示の通りに動くので精一杯で、呼吸しているのかすら分からない。 
「――……ラストォッ!」 
 いつもより大目の160発目を叩き込んだ腕は殆ど動かなくなり、骨ごと液体になっているかのような感覚に捕らわれる。心臓も嫌な音を立てて暴れるが 
……流石にコレだけやれば、倒れるだろう……! 
 確信に近い希望とともに、上を見上げると、ぐらりと揺れる頭。が、 
「つ、かまエたッ!!」 
「――なぁ!?」 
 突如、丸太より太い両腕が背中に回され、ベアバックの体勢に持ち込まれる……冗談じゃねぇ。ケラヴィノスとオレの全力を耐えるなんぞ、 
どういう身体構造してるんだ……トラはッ!? 
 そんな悪態を吐こうにも、腕に込められた力は凄まじく、骨と内臓が一片に軋みを上げる。 
「マけられン……!」 
 その一言に込められた意地がコイツを支えたのが定かではないが、オレも負けられねぇ。 
 防壁を力の掛っている部分へ回すが、なにせ今度は全方位。ただでさえ残り少ない魔力がガリガリと目減りし、体中が切り札を使った為に動かすほどの活力が沸かない。 
 (【万能結界】の維持は最小限にして、 お前は攻撃用ソリースを維持しろッ!) 
 《Y,Yes,sir》 
 声に出さず思念だけで指示を飛ばすが、擬似精霊も動揺するかのように反応が鈍い。 
 全く、抱き合うのはウチの嫁だけで十分だってーのッ! 
「あ、く……ぅ」 
 薄くなった防壁は痛みを倍加し、嫌でも集中力を削り、骨の方は軋みを越えてたわんでいるかのような錯覚をするほど追い詰められる。 
 と、噛み付く積もりなのか白い牙と赤い舌が弱った目に写る。焦ったのか、余裕が出たのかしらんが――! 
「――」 
 殆ど忘れていた革鎧の機構を起動し、肩口から冗談のような小さな矢が撃たれ、敵の口蓋へ音も無く刺さる。 
 驚きか痛み判別しがたい表情浮かべるが、声を上げる訳でも騒ぐ訳でもない。……ただ、オレの周りを囲む腕の力が少し緩んだ、それだけ。 
「……はは、口ん中に雷撃貰って耐える自信あるか?」 
 その僅かな隙間から右手を引き抜いてヤツの口の中へ右手を入れて舌を掴んだが、身じろぎもしない。 
 もう諦めてる所為かもしれねーが、トドメを刺すのが礼儀。 
「全弾、持って行けっ――雷撃表現ッ!!」 
《Lightning bolt Full Fire!!》 
 これにて、幕。 
 
 
 
 オレの声と同時に右手から雷光が放たれ、痙攣を起こして後ろのめりに倒れる。 
 力の抜けた腕の中からするりと抜けるが、体中が異様な疲労感と痛みでべたりと石床に座ってしまう。 
「あー、聞いてるなら聞け。手数に余裕があるかってポンポン出すもんじゃないぞ。……どうやっても油断するからな」 
 ヤツの敗因を簡単に分析して独り言のように言ってみるが返事は返ってこない。 
 大人しくあのままベアバックしていればこっちの貯蔵魔力が尽きてそのまま終わり、だったのを欲をかいて一気に決めようとしたのが問題だ。 
 オレみたいに持久力に難点があるならそれでもいいかもしれんが、いくら160発殴られたとは言え、スタミナが格段に上なのだから持久戦をすればそれで事足りる。 
 まぁ、2回目があったら勝てそうもないが。 
「あ、ァ……!」 
 素早い事で、もう呻き声を上げれるほど回復したらしい。 
 口の中は大火傷だろうし、内臓も傷つけているかもしれないから起き上がる事は難しい上……最悪死ぬだろう。 
「聞いてるなら返事しなくていい……お前、ウチに来ないか?」 
 なんとか上体を引き上げ、脚をあぐらの形に持っていく。 
 こうすればなんとか倒れた目の前のトラの反応はなんとか見える。 
「少なくとも生活は保障するし、ある程度の条件も飲もう……お前さんをこのまま死なすのは、惜しい」 
 こーいう事言うと「勝手に決めるな、この独断専行馬鹿ネズミッ!!」とリゼっちに大目玉を食らうが、この際無視。 
 敵に回す奴は少なければ少ないほどいい。一人でもだ。 
「い、イ、だ……ロう」 
 少しだけ不明瞭だがしっかりとした意外な返事。 
 良く考えれば、魔力残量もそうあった訳ではないので最後の一撃もそう重い物ではなかったのかもしれない。 
「……そうか」 
 理由も聞こうと思ったが、これ以上喋るのはオレもキツイ。 
 あちらの返事も返ってこない。大方、寝たか気絶かのどちらかだろう。 
「ケラヴィノスー」 
 相棒に声を掛けてみるが反応無い。 
 完全な魔力切れといった所だろう……これじゃまともに戦えやしない。 
 もうちょっと粘りたかったが、体もガタガタでは正直邪魔者だ。 
「し、将軍っ。ご無事ですかー!?」 
 そんな声を聞きながら……ふとお嬢様が心配になる。 
 最近、情緒不安定な所があったが今日は極め付け……だが、フランツのオヤジだって居るし、何よりあのヒトが居る。 
 根拠は無いがあのひ弱そうなヒトが何とかするような気がする。 
 ……そんな事を思いながらオレは目を閉じて容赦なく、寝た。 
 
 
 
 目覚めて、最初に感じたのはやけに冷たい頬。 
 その冷たさからか急速に感覚が戻ってくる。 
 お腹の方に鈍い痛みがあるけど、それ以外は……大丈夫。頭痛もなければ骨が外れてる訳でも無いみたい。 
 私……何してたんだっけ――!? 
「あ、う……」 
 起き上がろうとしたけど、結果的には無駄な努力。 
 足首と手首が荒い麻縄で縛られ、特に手首なんて後ろ手だから何の技術も無い人なら抜けるのはちょっと厳しい。 
 ……不幸中の幸いとしては、武器は一切取られて無い事くらいかな? 
「ふん、間抜けな格好だな。ヒュッケルバイト家の長女?」 
 出来る事なら一生聞きたくない類の声が私の耳に入る。もう、まともに接するのも馬鹿らしくて溜息吐きたい所をぐっ、と我慢して、顔を上げる。 
 距離にして5メートルくらいだろうか、あの矛斧で頬杖しながらこちらを愉快そうに眺めている。 
「私をどうするの?」 
 一応拘束して転がすのは分からなくもないけど、目に見えて分かるロングナイフを付けたままにする神経が分からない。 
「取引をしよう、と思うんだがどうだろう?」 
「内容次第」 
 にぃ、と口の端を上げて笑う"ヤツ"に冷たく返す。 
 本音としては受ける気はさらさらないが、民に対して好条件ならばそれを受け入れるしかないだろう。 
「そっちのリゼットが管轄している"商会"を俺へ引き渡せ。そうすればお前の所に入れる金をアイツの頃より増やしてやろう」 
「……面白みが無い提案ね、却下よ、却下。5年前、ボコボコにされた事忘れたのかしら?」 
 5年前の事はともかく、私はリゼットを信用しているから"財務"を任せているのだ……そういった面ではリゼットとコイツは比較にならない。 
 そういう意味を込めて冷たく返したはずなのに、にやけた表情から一切変わらない、いや、より深くなっている。 
「そちらで2人ほど……行方不明だよな?」 
「……そういう事ね」 
 命を代価にした交渉……ね。 
 確か、行方不明なのはどちらも女の子で、どうなってるかは私にも分からないし、生きているかも定かでもない。 
 それに…… 
「それこそ却下よ。命をちらつかせて交渉? ……どうみたって脅迫よ。それに屈したら、助けられた方は一生苦しむし、なにより……貴方のその態度が気に入らないっ」 
 人の命をぶら下げて脅迫なんぞする輩には引くな。と、かーさんから耳が痛くなるほど言われた義務感以上に、嫌悪が心を満たす。 
 ニヤニヤ笑って、命を盾にして、利権を寄越せ? ――冗談じゃない。 
「……ネコの寿命は長いんだし、人の物奪う前に自分で気長に作ってやってみたら?」 
 全力で吐いた私の毒舌もその余裕の笑みを崩せない。それどころかより深くなる。 
 確かに、こうやって動けない状態じゃ何言っても"弱いイヌの遠吠え"だ。うるさいだけで何の意味もない。 
「まぁ、その回答は予想済み……さて、死んでもらうか」 
「……ぅ」 
 何が楽しいのか、にこにこと『死ね』と言って来る。 
 それが凄く怖くて、体を竦めようとして髪の一房がはらりと視界に入る。 
 ……もしかして髪留め外れたの? 大切な、かーさんに唯一買ってもらった、あの、髪留めが? 
「どこ……っ」 
 さっきまでの恐怖も、目の前の事も一切合切、何処かに消えて首を動かせるだけ動かして探し回る。 
 あれは既製品だったけれど、私にとっては命と同価値の代物で、かーさんが生きていればもっと一杯買って貰ったかもしれない。 
 けれど、それは決して叶わない。 
 何故なら、そのかーさんもとーさんも、このいくら憎んでも足りない位のコイツに―― 
「んー、お探しの物はコレかな?」 
 いちいち人の神経を逆撫でしてやまない声のした方向に振り向くと、"ヤツ"は質素な飾りの髪留めを手の中で転がし、弄んでいたが、 
私にはその事が首に刃物を突きつけられるより怖くて、 
「返してっ!」 
 立場や状況を忘れて、そう思わず叫んでしまう。 
 ……しまった! と思ったときにはもう手遅れで。 
 コイツが余裕ぶってる今の内になんとかしたいと思うけど、隙だらけに見えて隙が無いし、今は分が悪すぎる。 
「そぉんなに、この髪留めが大事か。そうかそうか」 
 私の叫びに、"ヤツ"はとてもわざとらしくて、楽しそうな口ぶりで頷いて、続ける。 
「よし、返してやるよ……ほぉ、れっ!」 
「あ」 
 と、思わず喜色めいた声を出して、高く放り投げられた髪留めを目で追ったのがいけなかった。 
「――っはは」 
 その光景を認めたくなくて、それでも認めざる得ないと気づかされたのは、2つの金属片が落ちた音が耳朶に届いた時。 
 これ以上、知りたく無いのに、嫌でもゆっくりとピントが合っていき、何時間も掛ったんじゃないかと思うくらい経って、目に入ったのは真っ二つになった髪留めだった物。 
 確かに見た。宙に浮いた大切な物が矛斧に割られた瞬間を。 
 確かに聞いた。壊される時、痛がる物の声を。 
 確かに感じた。自分の何かが崩れる感触を。 
 そして、トドメと言わんばかりに、黒いブーツがその残滓を押しつぶす。 
 柔らかい金属がひしゃげ、折れて、砕かれる音を立てて、辛うじて細工物だった2つの物がゴミに変わる……儚い希望のように。 
「……泣き叫んだりするもんだと思ったんだがなぁ」 
 泣く気力も無い私には、不満そうな"ヤツ"の声すら遠い。 
 今はただ、後悔しかない。 
 持ってこなければ、とか、もう少ししっかり止めていれば、とか考えるけどもう遅い。 
 もう目の前で原形を留めないほどに壊されてしまった……もう、全部どうでもいい。 
「おい、もうちょっと何か言えよ?」 
「ぁ、ぅ」 
 私が動かない事が腹に据えかねるのか、こちらの髪を掴んで爪先が浮くぐらいまで持ち上げる。 
 すごく痛いけど、抵抗するほどの気力はない。 
 他人から見れば、『思い出深い代物』で済む事なのかもしれないけど、今の私にとっては、『強い自分』である為の欠片が壊された事にも等しい。 
 もう2度と手に入らない物を壊されて、それでも立ち上がる気力のある人は本当に凄いと思う。 
 でも……こんなに脆かったのかな、私? 
「おーい……くそ、目が完全に死んでやがる。やりすぎたか」 
 もうちょっと自分は打たれ強い、と思っていたけど、こんなに腑抜けになっちゃうんだ……心の底のそんな呟きに苦笑の意で返す。 
 もしかして、私、まだ動けるの? 
 そう思うと、ふぅっと小さな火が灯ったように暖かくなるけれど、すぐに萎む。 
 動く理由が無いからだ。 
 人の為。 
 聞こえは良いけれど本当の私はそこまで聖人じゃない。それに、その領分は『強い私』だから、今の私には荷が重過ぎる。 
 次に浮かんだのは、"りょー"の為。 
「……っ」 
 髪を引っ張られる痛みが一瞬ぶり返すほど心を揺らすが、今一歩足りない。 
 今の心に、"りょー"は眩し過ぎる。 
 あのちょっと困ったような顔や、笑った顔を思い出すと凄く染みて痛いほど……あったかくなる。 
 手放したくない。失いたくない。全て、全部っ。 
「しゃあねぇ、勿体無いが殺すか」 
 『でも一つだけ……何処に居ても貴方は貴方で居られます。それは俺が保証します』 
 抱きしめられて、そんな事を言われた時はもう一度泣きそうだった。 
 そもそも泣いた理由は、凄く単純で恥ずかしいけれど……かーさんみたいだったから。 
 "りょ−"は男の子の癖に、時々、かーさんみたいな事をするからドキッとする。恐らくそれは、"りょー"のおねーさんの影響なんだろう。 
 言っちゃ悪いけど、あの言葉も"りょー"が考えたにしては格好良過ぎる。 
 けれど、ちゃんと心が篭っていて嬉しかった……それこそ、もう1度泣きそうな位。 
 だから応えようと思う。 
 ……あと、こうも言ってくれたよね? 
「……さ、な……」 
「聞こえねーよ……やっと喋ったと思ったらうわ言か? つまらねーなぁ、お前も」 
 『ご主人様の髪にこの世じゃ俺しか触ってないって事ですよね』 
 すっごく恥ずかしかった。 
 その後の押し倒したまがいの事の時以上に恥ずかしかった。 
 体の事で唯一自慢できる事の髪の毛を褒められてそんな事言われたのが凄く恥ずかしかったけど……嬉しかった。 
 でも、ちょっと嘘吐いちゃうかも。 
「……さわ、るな」 
「はぁ?」 
 萎んでいた意識を膨らませて、少しずつ体が思い通りに動かせるようにしていく。 
 その為に時間稼ぎしたかったけど、口が勝手に動く。 
「触るなって……言ってる、のよ」 
 ようやくピントの合った目に映ったのは、息もかかる様な至近距離で笑いを必死に堪えている"ヤツ"。 
 その笑いをなんとか噛み殺すまで数分間、私は肩と手首を回して、関節を暖めておく。 
「そういう事が言える立場だと思っているのか……卑しいネズミのガキが」 
 一変して、噛み殺さんばかりといった表情になり、私を睨みつける。けれど、目が笑っている……まだ本気じゃない。あっちはまだ遊んでいるつもりなのだろう。 
 もうこれ以上は我慢の限界。後は……知らない。 
「何度も、言ってる、のよ……!」 
 一息。 
「触るな、って……言ってんでしょうがッ!!」 
 発声と同時に肩と手首の関節を外して縄抜けをし、カフスに仕込んだ小さなナイフを一つ引き抜き抜いて、"切り札"の一つを切る。 
 そして、抜いたナイフに"切り札"の加護を与え、私の髪の毛を掴んだ腕輪仕込みの手首へ突き立てる。 
「ぬ、お――ッ!?!?!」 
 一瞬抵抗があったが、刃は腕輪を抜けて肉に刺さる感触が返ってくると掴まれていた手の力が緩み、徐々に体が重力に従い始める。 
 その前に私は、ヤツの鼻顔に全力で頭突きし、腹の辺りを思いっきり蹴る。 
「……あああッ!?」 
 蹴った部分は板金なのか硬い感触だったが、想像以上に高く跳ねるが、体を丸めて一回転して床に着地。 
 一回転してる時に、足の方の縄を切ったから着地のダメージは無し。あとは反撃するだけ……でもその前に言いたい事がある。 
「私の髪にっ! 私の思い出にっ!! 私の、大切な物に――触るなッ!!!」 
 口を開いたら止まらない。 
「全部……!」 
 言いたい事がありすぎて息が詰まる。 
 だから、一番大きい事が口から溢れる。 
「全部全部全部私の物だッ! アンタなんかに――」 
 これは私が私で在る為に必要な事。 
「アンタなんかに……これ以上、壊させないッ!!」 
 私が私で在る為の誓い。 
 誰に対してでも無い……自分に対する誓いだ。 
 だから、破っても怒る人は居ないけど、赦す人も居ない誓いだ。 
 ……うん、ちょっと落ち着いてきたかも。 
 一つ深呼吸した所で相手の様子を伺うと、数歩後ろへ下がり、殺気を撒き散らしてこちらを牽制しながら必死に血に塗れた腕輪を外そうとしていた。 
「あ……くそッ! なんなんだよ、オマエはっ!?」 
 ようやく外れた腕輪が軽い音を立てて、床に落ちるがある意味予想通りの状態になってる。 
 私が差し込んだナイフの刃が溶接したかのように"内側"に向かって伸びているのだ。 
「と……言われてもねぇ?」 
 ちょっと答え辛い。 
 ワザワザ自分の手をばらす容赦は、今の私にはない。 
 ましてや、ネズミが使えないはずの――魔法、いえ、魔法のような物だなんて信じないだろう。 
「喋らせる……!」 
「そっか」 
 私が答えないことに痺れをきらしたのか、"ヤツ"はハルバードの刃先をこちらに向けて攻撃態勢をとるが、赤い物が滴る右手が微かに震えている 
……こういう長物は両手の力で扱う物。片手とそのオマケ程度じゃどんな使い手でも、全て3流以下へと落ちる。 
 私といえば、腰のホルダーに手を掛けて、使い慣れたもう一つの"切り札"を抜く。 
「……?」 
 目の前の黒猫が怪訝そうにさっき抜いた"切り札"を見つめる。それにつられて私も両手に持っている物に目を向ける。 
 2本の並行するバーの間に渡された握れる部分。 
 短剣程度の刃渡りが真っ直ぐに延びた両刃の剣身。 
 それを両手も持つ自分……うん、行ける。 
「砂漠の国が生まれ、ジャマハダル……この辺じゃもう寂れた物かもね」 
 自分の持っている人を殺す為の武器の綺麗さに囚われながら、私は続ける。 
「もしかしたら、殺しちゃうかもしれないけど……その時は御免ね?」 
 得物から目を離して、自分でも驚くほど自然に"ヤツ"に笑いかける私。 
 それがキッカケなのか、見える景色や世界が変化していく。 
 最初に見える物から色も落ちた。その次は自分と相手の心音が聞こえるようになった。最後に……頭の奥が熱くなる。 
「……ぁあッ!」 
 と、恐怖に駆られた声で"ヤツ"が矛斧を振り上げてこちらへ接近。けれど、そのやり方には今まであった余裕と技術が圧倒的に足りなかった。だから、 
「ん」 
「速、過ぎ……だっ!?」 
 1歩2歩と勢いを付け、3歩目で走り出し、5歩目で全速力の域まで身体を乗せて、相手の脇を抜ける。 
 得物の軌道を変えられて造作もなく阻止されるその行動も、片方の手が使えないコイツにとっては表情を歪めながらでないと出来ない重労働へ変化する。 
 そして、簡単に大きな背中にたどり着き、殴るように自分の得物をただ無造作に突き出す。 
「――つ、ぁっ!??」 
 意外に厚かった筋肉の層に阻まれて浅かったが、確実に刺さった刃を引き抜く。それをもう一度繰り返し、またもや阻まれる。 
 結果として片手で一発ずつだったけど、今の状態ならもう一発行けるかもしれない……と考えた瞬間、付けた傷から血の代わりに溢れる肉の焼ける臭いに紛れた"嫌な臭い"を嗅ぎ取り、 
それに従って素早く3歩下がって刹那。 
 私のさっきまで居た場所を力任せの暴風が過ぎ去り、矛先が厚手のブラウスを掠める。――まだ、まだ行ける。 
「ふ……ぅ!」 
「なぁ、に!?」 
 足元を狙った低い横薙ぎに跳ねて……敵の得物に片足を乗せる。けれどそれは一瞬。 
 私を振り払うつもりなのか矛斧を下から上へと、放り投げるかのように振り抜かれる。 
 当然ながら軽いこの体は、少し高い天井まで飛ばされ……足が付く。 
 上からみた"ヤツ"は、全力で投げたのかその結果を確かめずに片膝を付いている……恐らく、地面に叩きつけられるとでも信じきっているのだろう。 
 そう結論をだして、靴底の天井を地面と見立てて、おもいっきり蹴る。 
「っ」 
 重力も追加したそのスピードは、思わず目を閉じそうになるほど速く、お腹の底から恐怖が沸く。けれど、それらを全部押し込めて……上から強襲し、無防備な背中を右手でかなり深く一突き。 
「――っ!?!」 
 多分内臓まで達した所為か、声になっていない金切り声を上げたコイツは着地して無防備なこちらへ矛斧を振り下ろされる。でも私はそれより速く動き出す。 
 置き土産に相手の無事な方の二の腕を刺し、わき腹をなで斬りにして幾度と無く繰り返した脇抜け。 
 それを追いかけるように追ってくる矛斧を避け、流し、時には踏んで1発も掠りもしない。その合間に加護でうっすらと赤熱している刃を敵の各所へ突き立て、刺す。 
 そうする度に、あの嫌な臭いと肉の筋を断ち切る感触を感じながらひたすら動く。 
 ちょこまか動き回り、執拗にダメージを重ねる。 
 相手からしたら、姑息で卑怯な戦術でジワジワと追い詰められ、このまま何も出来ずに死ぬ……多分そんな恐怖がスイッチだったんじゃないかと思う。 
「あ、ぁぁぁぁああアアアアッ!」 
 何かの箍が外れたように叫び、"ヤツ"は得物を滅茶苦茶に……それこそ狂ったように振り回す。 
 なまじ力をあるから、その刃の圏内はほとんど竜巻同然。流石の私もそこへ潜り込む無謀さは……余ってる。 
「こっちよっ!」 
 そう声を掛けて横合いから突っ込むと、釣られる様に握りが変わり、極限まで集中した私の視力でも霞むほどの速さで刃先が飛んでくるが、跳ねるだけで回避。 
 いくらダメージを与えたとはいえ、身体能力では格段にあちらが上。まともに鍔迫りなどしたらこちらが吹き飛ばされる。 
 ……本当ならもっと深く懐に踏み込み、ダメージを与えるのだけれど、それが今回の目的じゃない。 
「ぐ、ぬぅッ!!」 
 振り回した勢いを何の技術も無く強引に殺し、今度もかなり速い逆袈裟でこちらを狙うが、私にステップで避けられる。そして、追撃……だが、お粗末な横薙ぎ。 
 当然だろう。いくら身体が強くても、殆ど呼吸もせず暴れる事ができるのはネコでも30秒あるかないか……ましてや傷だらけで疲労困憊でその半分も出せない。 
 だから来る。 
 全力の力任せが。 
「うぁぁぁぁっ!!!」 
 防具に守られた胴体をさらけ出し、頭を真っ二つに裂こうと高く掲げられ、振り下ろされるヤツ"の矛斧。 
 私は受け止める訳でも避ける訳でもなく、腰を落として当たる直前になるまでの間、色が抜けた視覚でゆっくりと落ちてくる刃を見つめてたった一回のタイミングを掴む――今ッ! 
「……――ヤァッ!」 
 私は腰だめに構えた得物を落ちてくるハルバードの塩首(けらくび)に向かって、全力で突き出す。 
 これでもまだ重さ、速さの両面で負けているが、"切り札"の加護がそれらを全て味方へと変え、予想通りの結果を導き出す。 
 焼けた鉄の臭いと硬い物が溶ける感触。そして数秒後に背後で起きた煉瓦が砕ける音。 
 ……これが私の望んだ結果だ。 
「なんなんだよ――オマエはッ!?」 
 そこに転がっている血まみれの腕輪を外した時にも聞いた台詞をもう一度叫ぶ"ヤツ"。 
 その手にあった筈の矛斧は先がなくなり、ただの金属棒になった代物を捨てずにこちらに向けて錯乱している。 
「一応、魔法。でも火の玉が一つ作れない……ただ、金属を暖める事しか出来ない魔法使い。それだけよ」 
 生まれて気が付いたら出来ていた。 
 本来、ネズミは魔法を一切使えないのに何故か私は魔法のような物を使える……でもそれだけ。 
 とーさんによれば『突然変異』らしいけど、詳しい事は全く知らない。けれどそれでもいい。 
 いまこうして、仇を討つ事ができるのだから。 
「それじゃ――!?」 
 トドメ、もとい無力化をする為に1歩踏み出した途端、体中の関節の力が一斉に抜けた。 
 なぜ? と考える暇もなく石床にへばり付く私……とっさに腕を動かして顔面から落ちるのは回避したけれど、それ以上は全く動かない。 
 そして今更ながら私は気づく。 
 心臓が軋む様な音を立て、感じた事もないような速さで脈を打ってる事と、いくら息をしても足りないくらい息切れをしている事に。 
 ……ひと段落つけた事で体が安心して、集中のスイッチを切り、体力の限界に達したらしい。 
 冗談じゃない。もう少しで終わるのに――! 
 そう思っても指一本に至るまでぴくりとも動かせない。 
「はははっ、運が向いて来たぜ……!」 
 そんな声と共に鞘鳴り――多分短剣でも抜いたのだろう――がして、金物が投げ捨てられる音が響く。 
 残念ながらその通りで、避ける事はおろか防御もできない私は文字通りの"獲物"。 
 この状態じゃ流石に何も出来ない……ごめんね、"りょー" 
「それじゃ、死……ぐっ!?」 
 1発でやってもらえばいいなぁと覚悟を決めて目を閉じると、果物が潰れるような音が聞こえ、それと同時に近寄ってきた"ヤツ"の気配が少しだけ遠のく。 
「次から次と……今度は何だっ!?」 
 忌々しげに呟く声を聞いて何故か私の勘が告げる。 
 "彼"が来た、と。 
 
 
 
「1球目……当たりっ!」 
 大きく振りかぶって投げたカーブは、目標の肩辺りにヒット。 
 本当はもう少し真ん中あたりを狙ったのだが、殆ど準備もせずやったにしては上出来だ。 
「あ、撃つんですか?」 
「真正面から撃つからな……まだ早い。どうせなら目の辺り狙ってくれると楽だ」 
 周りにボウガンを持ったネズミの人たちを集め、忙しなく指示を出しているフランツさんへ声を掛けるとそんな答えが返ってくる。 
 『だから、教えてください。俺が……ヒトがやれる事を、今すぐに』 
 そう言ったらフランツさんは人を食ったように笑って 
 『君の主人を助けたまえ』 
 と、言われて俺は地下通路に居る。 
 最初は役に立つかどうかさえ分からなくて迷ったが、ご主人様が危なくなったらそんな考えは吹き飛んだ。 
 どこかで聞いた言葉だが……やるやらないじゃない、やらなきゃいけない。 
「……よし」 
 今すぐでも投げたい気持ちを抑え、右肘のマッサージを止める。 
 俺がそもそも投げれなくなったのはこの肘の所為で、本気で投げようとすれば10球も投げないうちに確実に壊れる。 
 医者は成長すればその症状が無くなるとは言っていたけれど、そうなれば数年は投げる事が出来ない。そうなれば、投手なんてのは出来なくなるのは目に見えている。 
 手術という手もあったけど、そこまで親に負担は掛けたくなかった。 
 だからもう投げる事なんて無いと思ってた。 
「2球目――行きます」 
 フランツさんの用意したのは落ち物のペイントボール。 
 硬さがちょうど硬球くらいで何故かしっかりと縫い目もつけられ、大きさもぴったりでいつも通りに投げられる。 
「ッ」 
 膝を腰のあたりまで持ち上げ、少し前へと踏み出すと同時に、さっきより多少小さく振りかぶった腕を一気に降ろして……ボールをリリース。 
 直後、肘が強烈な痛みを訴えてくるが顔を歪めるだけで黙殺して投げたボールの行方を追う。 
「……!」 
 何事か叫ぶと、目標で黒いネコは手に持っていた刃物で俺の投げた球を打とうとするが、今投げたのは一応ナックル――当たるわけが無い。 
 ズシャという軽い破裂音が耳に入ると、ネコの口の辺りが蛍光塗料でも含まれていたのか淡く発光している。 
 まぁナックル自体、投げたのは初めてだったけど一応成功……かな? 
「次で決めます。準備してください」 
 俺の言葉に無言で頷いたフランツさんが、周りへの指示を飛ばし始める。 
 こういう姿を見ていると、お年寄りには全く見えず、とてもいきいきとしている……さて、決めよう。 
 『次で決める』と言ったのは格好付けでもなんでもなく肘が悲鳴を上げてるから。 
 準備運動こそしたが、キャッチボールさえ数ヶ月前にやったきりだから肘がとても熱くて少し動かすだけでもキリキリと痛みを伝えてくる。 
 それをこれで最後だからと言い聞かせて無理やり動かして、ボールを一つ手に取る。 
 変化球を2度連続で投げたから最後は……ストレートかな? 
 目のいいこっちの住人達には不利だけど、これ以上の変化球は肘の状態から考えてると無理だから仕方ない。 
「――いけぇ!」 
 監督に教えられ、仲間に支えられた数年をつぎ込み、大きく振りかぶってリリース。 
 全力をつぎ込んだ球は、グングン伸びて黒ネコへと向かうが構えられた刃が光を不気味に反射して嫌な想像を掻き立てる。と――バネがはじける音。 
 え? と思った矢先、俺の投げたボールを追い越して、目標のネコが持っていたナイフに当たり、弾き飛ばす。 
 それで呆然としたのか、コントロール通りに目の辺りにボールは直撃し、塗料がブチ撒けられる 
「各員……ブッ放せ!!」 
「――――ッ」 
 バネが戻る音に紛れて、黒ネコの叫び声は聞こえない。 
 敵とはいえ、人が撃たれるのを見たくなくて後ろを振り向くと、かなり大きめのクロスボウを抱えたフランツさんと目が合う 
……矢が入っていない所を見るとあの援護はフランツさんらしい。 
「行きたまえ」 
 断続的に続く音に潰れず、それでいて大き過ぎない声が俺の心を揺らす。 
 行って意味があるのか……いや、行くことに意味がある。 
「いってきます」 
「ん……打ち方やめっ!」 
 特に返事はしてくれなかったけど、未だに怖い牙を見せ付けて小さく笑ってくれた。 
 さて、がんばらないと。 
 そう決意して、自衛用という事で貸してもらった鉄パイプを握り、俺は前へと走り出す。 
 ご主人様がいる部屋までは20メートル前後。数秒あれば、嫌でもあの黒ネコへとたどり着く。 
 だから、予め言っておく。 
「ごめんッ!」 
 俺はそう言いつつ片目を抑えていたネコへ走った勢いをそのままに、上段に構えた鉄パイプを振り下ろす。 
「……あ、まいっ!」 
「うわわっ」 
 片目が利かなくても、俺程度の攻撃は防げたようでクロスされた腕で受けられ、押し返される。 
 あまりの力にふらつきながらも何とかバランスを取り、鉄パイプを構える。そして、後ろをちらりと伺うととてもうずくまるご主人様の姿が見えた。 
 とても荒い息をしているから生きてはいるんのだろうけど、かなり心配だ……もし大怪我などしていたらロレッタやリゼットさんに申し訳が立たない。 
「……りょー……?」 
「ご主人様、無理に声出したり、立たなくてもいいですよ……多分何とかしますから」 
 後ろから俺を呼ぶご主人様の声が聞こえるが、ちょっと強気の内容を入れて返す。 
 根拠は無いし、実力もないが俺が何とかするしか道は無い。 
「ヒト如きが、俺を何とかするだと……?」 
 鼻で笑うような声で呟かれる台詞は確かに正しい。 
 こっちの常識をしれば、嫌でもその言葉による現実を認めるしかなくなる。 
「足も竦んで、手も震えている貴様が、俺をどうにかできるするだと!? いい出し物だな、おいッ!」 
 怒気と一緒に俺に向けられた、喉が渇くような感情。 
 これが殺気なのだろう。 
「まぁ確かに、足も竦んで、手も震えているし……ここから逃げ出したいと思っています」 
 その動きは殺気を向けられてからかなり強くなってるし、正直な話こういう荒事は好きじゃない。 
 けれど俺は相手の目からは絶対に目を離さない。 
「ならば、そこから失せろヒト。今なら殺さず逃がしてやる」 
「絶対に拒否します」 
 自分でも見事だと思うほどの即答に苛立ったかのように目が細まり、嫌な汗が背中からだらだら流れる。 
 それを振り払うように俺は続ける。 
「どんなに弱くても生きてれば『意地』ってのがどうしても沸いてきます……だからその『意地』で俺はここに立っているんです」 
 超えたらいけない線。 
 生きていればそういう線が少しずつうっすらと見えてくる。 
 だから思う。 
 どんな環境に置かれようが、どんな相手であろうが…… 
「ご主人様(おんなのこ)を置いて逃げるなんて、奴隷にしても、男にしても最低の事だと思っていますから、絶対に嫌です」 
 俺の色眼鏡かもしれないが、このラヴィニア・ヒュッケルバイトは俺にとっては最高の主人。 
 女の子としてみたら、かなり綺麗の部類に入るし、ちょっと困った所はあるけれど嫌いじゃない。 
 環境から見たら、重労働してる訳でも虐げられてる訳でもない。ただ、仕事ともいえないような仕事をして何の不自由の無く一緒に暮らしているだけ。 
 言い方は悪いが、そんな美味しい生活をみすみす捨てるほど俺は酔狂じゃない。 
「だから――倒れてください、俺達の為に」 
「う、く」 
 目を逸らさず、相手をひたすら睨み付けたのが好を奏したのか1歩だけあとずさった。 
 今が……チャンスっ! 
 そう考えた俺は、持たされていた爆竹にこの世界製のライターで火をつけ、ブン投げる。 
 当然ながらその直後、真近で火薬の破裂する音が連続で轟き、動けないご主人様と自分の耳を塞ぐ。 
 数秒後、音が収まりネコの方に振り向くと、水の入ったお盆をひっくり返したように矢が散らかっていて、その中央にあの黒ネコが傷だらけで大の字でぶっ倒れていた。 
 あまりにもあっけない。 
 一応、フランツさんは『好機だと思ったら爆竹投げろ』と言っていたが、まさかこういう事になるとは予想外。 
 ……ちょっと可哀想だったかもしれない。 
「りょー……だ、い、じょう、ぶ?」 
「あぁもう、声出さなくていいですからゆっくりと呼吸を直してください!」 
 感傷に浸る暇もなく、激しい息切れを起こしたご主人様は無理やり喋る。 
 流石にそんな無茶を見過ごせない俺は、彼女の横に回って背中をひたすらさする。 
 じっくり根気良く背中をさすっていると、血でも吐きそうだった呼吸もそうする内に少しずつ緩やかになってくる。 
「リョウ君ー、そっちじゃ大丈夫かー?」 
 フランツさんに大声で呼ばれて、『片が付いたら呼べ』と言われてた事を記憶の片隅から掘り出される。 
 ご主人様は、自分が『王』だからって妙に意地を張る所があるから、せめて息を整えてから呼ぼうと考えていたが、この分だと無理かな。 
「はい、こっちはもう終わり――!?」 
 顔を上げて、声をだした瞬間。倒れていたはずの黒ネコが目の前に仁王立ちで立っていた。 
 目は濁った光り方を湛え、その右手には弾き飛ばした筈のナイフ。 
 なにより、雰囲気が尋常ではない。 
 高濃度の殺気を全方位にばら撒き、異様な威圧感を醸し出していて、それを真正面から受け止める俺の体は震えが止まらない。 
「うぅ」 
 ヒトである俺は眼中に無いらしく、あっちが睨みつけているのは顔を上げて、目を合わせているご主人様ただ一人。けれど、あの呼吸じゃまだ動けないはずだ。 
 フランツさん達の足音は聞こえるがここまで辿り着くまでどうやっても数秒必要とする。 
 どうにかしてあげないと……! 
「……ッ!!」 
 そうこう悩むうちに、刃が僅かに光を反射し、大切な人へと振り下ろされる。 
 だから俺は―― 
「い……ってぇ!」 
「りょー?!」 
 肝心な時に動かない足を動かし、ご主人様を押し倒すように覆いかぶさる。 
 直後、背中が火傷でもしたように熱くなり、ジワジワと痛みが沸く。 
「私の物に――ッ!」 
 ギラリとあのネコに負けず劣らずヤバイ目をしたご主人様が、下敷きになりかけの身体を引き抜いて動き出す。 
「ラヴィニアッ!!」 
 何故か分からないがご主人様の名前を叫んだ所で俺の意識はそこでぷつりと切れた。 
 この程度しか出来なくて……本当にごめん。 
 
 
 
「ラヴィニアッ!!」 
 "りょー"のその声で何も考えず動こうとした意識がクリアになる。 
 その時にはもう無防備に立ち尽くす"ヤツ"の姿が目の前で、右手にはジャマハダルを構えていて、殺す気満々だった私。 
 流石にそれは不味いと判断し、空いている左手で腰のポーチから痺れ薬を塗った3本セットの針を抜く。 
「しばらく大人しくしてて、頂戴ッ!」 
 避けようともしない"ヤツ"の首元に殆ど抵抗もなく突き刺し、引き抜いて全力で後方へ飛び跳ねる。 
 たったこれだけで元通りになりかけた呼吸も心臓も激しく暴れだす。 
 その成果は絶大で、刺されたネコは呻き声一つ上げずに、仰向けに倒れた。 
 ……サカナの毒を拝借して造ったと言われる秘伝の痺れ薬。 
 由来が本当かどうか知らないが、一日両日中は指一本にいたるまで動かせまい。それはともかくっ! 
「りょーっ、大丈夫っ!?」 
 足元でぐったりとしている"りょー"へ屈みこんで、呼吸を確かめ……大丈夫。 
 意識は無いけれど、呼吸があるならすぐには死なない……そう判断して、背中に触れるとぐっしょりと嫌な生温さのある液体で濡れていて、 
喉が詰まるほど怖くなる。 
「ちょっと……! 返事くらいしてよっ!!」 
 もう気が動転して、相手は怪我人なのに肩を掴んで滅茶苦茶に揺らす。 
 そんな事する暇があったら、血止めでもすればいいのに……なんて考える理性はとっくの昔に吹き飛んじゃって、視界が歪む。 
「ラヴィニアっ」 
「リ、リゼット?」 
 今の私は凄くみっともない顔をしていたと思う。 
 泣きそうなくらい目に涙をためて、子供みたいにオロオロと落ち着きがなくて、目の前の事実を信じたくなかった。 
 そんな状態だったのにリゼットは、怒鳴りもせず宥めてくれる。 
「しっかりしなさい、貴方は『王様』でしょ?」 
「でもっ」 
「"でも"は無し。そんな事してたらりょう君死んじゃうよ?」 
「やだっ、やだやだっ!」 
 リゼットの言い分がすごく怖くて、ぎゅ、と"りょー"の頭を抱きしめる。 
 それを羨むような笑顔で彼女は口を開く。 
「だったら、今すぐアタシやそこに居るフランツの爺さんに指示を飛ばしなさい。それがアンタの仕事でしょ?」 
「……うん」 
 目を閉じて、1回だけ長い深呼吸。 
 それだけでなんとか落ち着いてくる。 
「ごめん、ちょっとどうにかしてた……」 
「女の子なんてそんなもんよ。ま、貸し1つって事でいいわ」 
 嫌味もなくそんな事を言えるリゼットのように私は……なれるだろうか? 
 そんな事を考えながら"りょー"止血をしていると、入り口の方が騒がしくなって、そっちへ振り向くとフランツさんが珍しく慌てたように入ってくる。 
「ラヴィニア様、無事ですか?!」 
 開口1番そんな事を言ってくれるのはこの人らしい。 
「えぇ、無事よ……あれ、ロジェ将軍は?」 
「あー、あの馬鹿ネズミは疲れて寝たそうよ。まぁ、トラとやりあって勝ったらしいけどこういう時来ないでどうするのよ、全く……」 
 リゼットが苛立たしげに私の疑問を氷解してくれるが、何処と無く嬉しそうに尻尾が揺れてるのを見逃さない。 
 まぁ、個人の問題だから立ち入るつもりはないけど。 
「リゼット、フランツの両名に命を下します」 
「「はっ」」 
 言い慣れた前口上が、いつもと違って少しだけ力が入る。 
「リゼットは、フジミ・リョウの治療を指示します……資金などは全て貴女に任せます」 
「迅速にやらせてもらいます」 
 一応止血の終わった"りょー"を私から受け取り、後から来た自分の部下に指示を飛ばすのが見える。 
 助かるかどうかなんてのは愚問。 
 リゼットなら全力で何とかしてくれると私は信じている。 
 だから―― 
「フランツさんは、今寝ているロジェ将軍を叩き起こしてこの場の後始末の指示をお願いします」 
「御意に……ラヴィニア様は?」 
「もちろん、私も指示しますよ……それがなにか?」 
 立ち上がりながら受けた質問に、ちょっと嫌味っぽくお返し。 
 まるで私が"りょー"と一緒に行くと決まっていたみたいな言い草だったからちょっとした悪戯だ。 
 それを受けたフランツさんは、一瞬ちょっと驚いたような表情をしたがすぐに笑って、本格的に指示を出し始める。 
「さて、さっさと後始末終わらせるわよっ!」 
 大丈夫。リゼットなら何とかしてくれる。 
 それに、"りょー"は……私、いえ、『私達』の家族だもの。 
 早々と死ぬような根性じゃないし、髪に触れた"ヤツ"も死んでいない。 
 ……だから、大丈夫だよね。"りょー"? 
 
 
 

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