「っ スマン」  
 
 どさりと音を立てた後に訪れた静寂。  
視界を互い以外に遮るものは無かった。  
二人同時に驚き固まり、数瞬の様な一秒が経過した後で彼は言った。  
 押し潰す事態は免れたものの、勢い余って押し倒してしまった。  
多少は運動神経に自信のあった彼は、バランスを崩してしまったことに  
ショックを受けたまま、そろりと起き上がる。  
 
「…ほんとよ。痛いじゃない」  
 
 言った後で怒っているはずの自分の声が、妙に覇気がなかったことに  
彼女は驚いた。  
他の誰かとこのような状況にでもなろうものなら手が出ていそうな場面  
で、ただ視線を逸らすことしか出来なかった自分に腹立たしさを感じ、変  
わりに彼女は恨めしく傍の本を睨んだ。  
頭上の影が消え、相手の身体が離れたことに気付くと、自分も起き上が  
ろうとして床に手をつく。  
思った以上に力が入らずにがくっと崩れそうになる――のを支えたの  
は、自分だけではなく幼馴染だった。  
掴まれた軽い衝撃に、反射的に相手の顔を見た。  
安堵と自失と焦燥とが次々とスイッチしていって、抱えられた身体に回る  
腕と二の腕を掴まれた手の、ブラウス越しに伝わる体温の熱さを意識し  
た。  
 
今に限ってベストを着ていない。  
彼女は学校の厳しい規則や押し付けられる大人のエゴが大嫌いでは  
あったが、比較的制服は校則通りに着用していた。  
ただ今日は前の時間に体育があったことと、茹だるような暑さのために  
教室に置いてきていた。  
込み上げてきた熱に眩暈を起こしそうになる。  
自分の変化で意識がはっと覚醒した。  
「…ありがと」  
手を借りながらぞんざいに起き上がって、何の変化も感じさせないよう  
に注意しながら、身体に付いたであろう埃を払う。  
彼女は今の声を聞いていつものトーンだ、との確信を得た。  
 
◆◆◆  
 
 不意の接触で、自分は男で彼女は女だと再認識する。  
いつもの表情、いつもの態度、相変わらず素っ気ない言い種と距離感。  
同じ時間を歩んできたはずなのに、幼馴染はいつの間にか柔らかくて軽  
くて、一歩間違えれば力の加減を誤りそうになる。  
ああ、こんなにも違うものなのだな、と今はただのクラスメイト然と化した  
間柄を思った。  
ふわりと動いた気配で香る、彼女と夏を思わせる爽やかな匂いに気後  
れして、彼は身を引いた。  
そしていつの間にか自分を素通りするようになった涼やかな瞳に問う。  
「頭打たなかったか?」  
「平気。――十年もやってたのに受身も取れないなんて情けな」  
彼女は自身を嘲笑するように乾いた声で言うと、足を払うついでに捲れ  
たスカートの襞を整える。  
その動作を目で追っていることに気付き、目に入れた映像を頭の中から  
打ち消そうと努力した。  
しかし焼き付いた映像の余韻は、なかなか消えることは無かった。  
 
「そっか……」  
目を伏せついでに、彼は傍に散らばった本を集め始める。  
幼馴染も同様に、本を拾い集めた。  
 
 常にいるはずの司書が不在であることもあり、二人の間には沈黙が降  
りた。  
そもそも自習時間中なので、司書がいれば入れる時間帯でもなかった  
イレギュラーな空間だ。  
ここで沈黙が訪れるのは往々にしてよくあることで、少なくともこの三年  
の内にそれは定着してしまっていた。  
それ以前は彼の父親が開いている道場に週二日は共に通い、残りも二  
人で過ごすことが多かった。  
中学生になりそれも徐々に減ったはものの、今はぱたりと親交は途絶え  
ていた。  
彼女は彼から離れたのだ。  
何故。  
そうは思うものの、彼女ははっきりとした理由を言わなかった。  
そうしている間に受験が近づき、疎遠になって行き――…高校も同じな  
のは単なる偶然としか言いようが無い関係になった。  
隣にいたはずなのに、今はその間に流れる温度が違う。  
その隔たりを悲しいと思ったが、流れた年月を思うと自然な事なのか  
な、と諦めに似た境地になっていた。  
自分と一緒にいる時に笑わなくなった彼女は、見る間に彼を通り越して  
成長していった。  
 
いや、疎遠になってから彼は爆発的に身長が伸びたのだが、外面的な  
ことではなく、精神的に追い越していってしまったと感じていた。  
離れてみると彼女は男子に人気のあることが分かった。  
さばさばした性格、同学年の女子より抜きん出て整った顔立ち。  
彼と過ごしてきたせいか男友達の方が多かったし、また彼女自身も男友  
達といる方が楽だ、と言っていた。  
聞くところによると女子は疲れるらしい。  
自分だって女じゃん、と言うと、うるさい、と殴りかかってきた頃のやり取  
りが懐かしい。  
 
 ちらりと横を見ると、彼女の手の届かない高さの棚へ戻そうとしている  
ところだった。  
「俺がやるよ」  
手を伸ばすと少し唇が結ばれて、無言で本を差し出された。  
それを見て顔が綻んだのが自分でも分かった。  
理由が分からなくても、嫌われてはいないような気がしている。  
それが嬉しかった。  
今の関係が昔以下であろうとも、彼はそれなりに満足していた。  
 
◆◆◆  
 
 高い場所へ本を戻す姿を黙って見つめながら、じわりと汗をかいた気  
分になって手の甲で気付かれないように額を拭う。  
汗はかいてはいなかったが、額に触れると手の甲が熱いと感じた。  
ほとんど陽の入らない位置に図書室がある事と、窓を開け放っていた事  
もあってか、他の場所より幾分涼しい空気が流れている。  
喋らなくても気を悪くせずに助けてくれることが嬉しい。  
 
一緒に行動しなくなって離されてしまった身長差は、二十センチ以上に  
なってしまった。  
自分だって同じように運動してきたのに、と拗ねるよりも、隣にいられる  
心地よさに酔う。  
今は誰とも付き合っていないことは知っているが、誰かに掻っ攫われる  
とも限らない、との焦りもある。  
ごつい外見に似合わず、優しいのだ。  
それ故に男女誰からも慕われているし、密かに想いを寄せている娘が  
いてもおかしくない。  
だけど本人は鈍いから気付かないだろう。  
盗み見乍ら自分さえも軽々と持ち上げそうな、逞しくなった身体を眺める。  
成長期の名に違わない成長振りに暫し見惚れた。  
 
「ゆーいー!いるー?」  
唐突に入り口の方から掛かった声に、彼女は残りの数冊を抱えたまま  
棚の脇からひょいと顔を出した。  
「いたいた!どこ行っちゃったかと思ったー!杉山がね、トランプ持って  
るから皆でやろーって……」  
駆け寄って来た友人を止める間もなく、棚の角を曲がったところで彼女  
の言葉が途切れた。  
友人の美希は彼と彼女を交互に見比べた。  
「…ひょっとしてお邪魔だった?」  
違う、と言おうとして先に口を開いたのは彼の方だった。  
「いや、本を落としちゃって手伝ってもらっただけ」  
カタン、と元の場所に本を戻しながら彼は答えた。  
「後ここやっておくから、川上は戻ってて」  
「…分かった」  
残る、とは言い難く、素直に受け入れることにして、まだ仕舞いきれてい  
ない本を棚の空いているところに置いた。  
 
◆◆◆  
 
「ごめん」  
小さく彼女は去り際に呟くと、友人と共に図書室を出て行った。  
流れる風が彼女の残り香を奪い去り、彼は人知れず溜息を吐いた。  
遠くで微かに彼女が友人と喋っている声が響いてくる。  
変なところを見られてしまった。  
彼女に迷惑を掛けたくない思いが強いため、妙な誤解をしてなければい  
いんだけど、と心の内で呟く。  
彼女は離れた理由を明言しなかったが、離れたという事は傍にいること  
で何かが迷惑になっていたのだ。  
それに気付いたのは大分後になってからで、それを問い質す機会も  
失ってしまっている。  
だけど、こうやって昔懐かしい共有した感覚を、今でもこうして互いに  
もっていることがとても嬉しかった。  
昔はよく夏の間、何冊読めるかを競争しあったものだ。  
何となく今でも気が向いた時に、こうやって図書室に来たりする。  
彼女もそうに違いない。  
偶々この列で彼女と会った時の衝撃たるや、自分はさぞかし驚いた顔を  
していただろう。  
 彼女に触れた掌を見る。  
「……熱い」  
抱きしめた時にぞわりと、えも言われぬ感覚が身体中を巡った。  
決して不快なものではなく、寧ろその逆だった。  
風が彼をからかう様に吹き込み、連れ去ろうともう一度残り香を攫った。  
 
 
(おわり)  
 

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