夏休みという至福の期間をただ暑いだけの平日に変えてしまう、  
ありがたい補習授業。  
 それもようやく半ばを過ぎた七月下旬のある日。僕はしばしの現  
実逃避にと、学校の図書室に本を物色しに来ていた。  
 伝統のある学校らしくそれなりに充実しているこの図書室は、や  
はり進学校らしくもあって、閲覧用に設置されている幾つかの机は  
夏休みにも係らずそれなりに席が埋まっている。勿論大抵の図書館  
がそうであるように、その大半はノートと参考書を広げて自習に励  
む受験生なのだけれど。  
 建造された当時は白亜の城と見紛うばかりに輝いていたであろう  
校舎も、数十年の埃が積もりに積もった今となっては苔むす屍。夏  
は暑く冬は寒い、嫌がらせのような建物と化している。  
 そんな訳で、生徒が気軽に入れない職員室等を除いては唯一空調  
が完備している図書室はまさに天国という訳だ。  
 
「あれ、井上じゃあないか」  
 僕の名を呼ぶ声に振り向けば、そこにあったのはニヤニヤと笑う  
知り合いの姿。  
「なんだ中臣か。ニヤニヤ気持ち悪いぞ」  
「や、仮にも受験生とあろうものが娯楽小説などを読むのかと驚い  
てね」  
「本返すついでに補習に来る奴に言われる筋合いはないよ」  
 この少年の名は大蔵中臣。いかにもという姓に相応しく代々金融  
畑の家柄で、忌々しくもお坊ちゃまであらせられる。大層な名前を  
つけて万一名前負けしてはと遠慮したのかどうなのか、どうせなら  
大臣にしておけばと思わなくもないところ。  
 名前も変なら性格もちょっと変で、目立つ容姿と相まってこの学  
校ではちょっとした有名人だ。まあつまり、先祖代々庶民にして常  
識人の僕とは随分住む世界が違うのだけれど、お互い本が好きなこ  
とが一年の時に分かって以来、なんだかんだでよく話をするように  
なったのだ。  
 これで頭が悪ければ可愛げもあるのだけど、残念なことに概ね僕  
より優秀だ。得意の国語はなんとか勝てるものの、他はまるで敵わ  
ない。家では僕なんかよりずっとしっかりやってるんだろうけど、  
学校では不真面目な姿ばかり見るので時に世間の不条理を感じてし  
まう。  
 
「ところで、今日は一人なのか?」  
「いんや、あっちにいるよ」  
 カウンターの方をあごでしゃくる。司書の中本先生と喋りながら  
茶をすする夏葉の姿を視界に納め、頷く中臣。  
 僕が本を借りる時は、夏葉はカウンターの向こうで世間話。本は  
あまり読まない癖に、夏葉と中本先生の仲は良い。と言っても僕が  
借りた本を横から持っていくからそれなりには読んでいるのかな。  
あ、夏葉のやつ、卵焼きもらってるぞうらやましい。  
「なるほど、奥さんはあっちか。そいつは邪魔をしたね」  
「そういうそっちはどうしたんだ。補習にも来てなかったろ」  
 いつもの軽口を聞き流して中臣に返す。尤も中臣の方はほんとに  
奥さんみたいなものだから困る。  
「ん、春香なら今日は――と、そうだった。頼まれごとを思い出し  
たんで帰る」  
 ではまた月曜に、そう言い残して中臣はあっという間に姿を消し  
た。なんだったんだ、あれは。  
 ちなみに倉守さんというのは中臣の彼女だか許婚だかの同級生の  
倉守春香さんのことだ。そんなに親しい訳じゃないけど、夏葉と仲  
が良いので時々話はする。男女ともに人気は高いみたいだけど、や  
んぬるかな、中臣と許婚と知れた今となっては粉をかける者もいな  
い。  
 
「結局どうしたんだろ?」  
 補習は任意だから来なくても問題はないとはいえ、真面目な彼女  
がさぼるとも思えない。  
「ハルちゃん? さっきメールしたら夏風邪引いたってさ」  
 と、本棚の陰から夏葉が急に出現する。  
「なんだ夏葉か、おどかすなよ」  
「テッちゃんちょっと選ぶの遅いんじゃないの? お腹空いたー」  
 口を尖がらせてブーたれる。はいはい、それじゃあさっさと帰り  
ますかね。  
 適当に選んだSF小説の手続きを済ませ、図書室を出る。出るや否  
や押し寄せてくる生暖かい空気に思わず顔をしかめる。  
 昇降口から外に出れば更に凄まじい熱気で、これからの長い道の  
りに思いを馳せて気分は早くも熱射病だ。夏葉はと言えば植木のわ  
ずかな陰をひょいひょいと渡り歩き、少しでも暑さから逃れようと  
奮闘している。  
「明らかに無駄な努力じゃないかなそれ」  
 動く分余計に暑い気がしなくもない。  
「分かってないねテッちゃんは。こういう小さな努力が後で実を結  
ぶんだよ多分」  
 教室の壁に貼ってある標語だよそれは。そのとおりだけど、無駄  
な努力と小さな努力はちょっと違うと思う。  
 
 自転車置き場にたどり着き、日光でようく暖められた座席に手を  
触れる。なんというか見事な焼き加減といわざるをえない。  
「うひゃ、あつー。帰る頃にはお尻がミディアムじゃないかなこれ」  
 隣では夏葉が同じことをして顔をしかめている。もう慣れっこと  
は言え、なんとかならないものか。  
「そのうち冷えるだろうしミディアム・レアでいけるんじゃない?」  
「そうかな。テッちゃんはもうちょっと焼いたら? 最近ちょっと白  
いよ」  
 暑さで脳ミソが茹っているとは言え、我ながら頭の悪い会話をし  
つつ校門を抜けて川沿いの道を走る。  
 五分とたたずに水浸しになったカッターシャツは肌にまとわりつ  
いてなんともいえず気持ち悪い。これだから夏ってやつは。  
 横を走る夏葉も状況は同じで、全身汗まみれ。あの様子ではブラ  
ウスから透けてる下着ごとぐしょ濡れだろう。  
 これだから夏ってやつは。  
 
「そういえば、夏風邪だって?」  
 微妙に聞きそびれていた倉守さんの話を聞きなおす。あれで結構  
体は丈夫だと思ってたんだけど、やはりお嬢様ってことかな。  
「あー、うん。クーラーかけっぱなしで机で寝ちゃったとか言って  
たよ」  
「なるほど、中臣の頼まれごとってのもそれかな」  
 プリン買ってきてとか大方そんな頼みごとだろう。それにしても  
クーラーかけっぱなしで夏風邪とは、倉守さん意外と抜けているな。  
そのあたりは夏葉と似たような物だろうか。  
「いーな、ハルちゃん。大蔵君に優しく看病してもらうんだよきっと」  
 中臣は別に優しくないと思う。いや、倉守さんには優しいか。ま  
あ何にせよ羨ましいには違いない。僕も欲しかったよそういう優し  
い幼馴染が。中臣はこれっぽっちも要らないけど。  
「テッちゃん風邪引いたことないでしょ。バカだしスケベだし」  
「馬鹿はともかく後者は関係ないと思う」  
 大体僕だって別に見境がないお猿さんじゃないんだから。誰彼構  
わず変なことしたりする訳じゃない、と一応弁護しておく。  
 
「じゃあさ、私が風邪引いたらテッちゃん看病してくれる?」  
「何がじゃあか知らないけど、そもそも去年の春休みに丸一日看病  
してあげたのは誰だ」  
 
 まだ夜は冷えるというのに寝巻き姿で僕の部屋に上がりこんで漫  
画を読みふけった挙句に風邪を引いたのはどこの誰だ。  
「そういえばそうだっけ。いやいやあの時はお世話になりました」  
 お粥はしょっぱかったけどね、と付け加えて夏葉は笑った。  
 まああの時はどちらも親が仕事で手が空いているのが僕しか居な  
かったんだから、僕が看病せざるを得ない状況だったわけで。と言っ  
ても精々氷枕を取り替えたりお粥を作ったりする程度だったけど。  
で、ネットのレシピを信用して慣れないお粥を作ってみたらちょっ  
と失敗してしまったというわけだ。  
「まあでも美味しかったよ? テッちゃんにしては中々」  
「いや、さすがにあの塩辛さは自分でもどうかと思ったよ」  
「そう? ほんとに美味しかったんだけどな。愛情こもってて」  
 いやいやいやそんな訳はない。あれだけブツブツ文句言いながら  
作ったお粥のどこにそんな隠し味が。風邪引くと味が分からなくな  
るというのは本当だったか。  
「おっと信号青だよ夏葉」  
「あ、ちょっと! またそうやって誤魔――」  
 
 自転車のギアを重くして、立ちこぎで凸凹の田舎道を逃げる。十  
分に勢いがついたところで足を止め、なにやら喚きながら追いかけ  
てくる夏葉を緩やかに待ちながら今日の昼ご飯を考える。  
 
 そういえば焼きそばがあるって言ってたかな。うん、今日は焼き  
そばで決めよう。  
 

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