競馬界では、桜花賞や皐月賞の話題が持ちきりになるこの季節である。  
 北海道南部に位置する大手競走馬育成牧場「ナルサムファーム」にもようやく桜が咲いた。北海道の桜は晩成である。  
 広大な芝の世界。四月の暖かな空気の中で、麗しい牝馬は草に体を委ねていた。  
 大柄な彼女は流星のように美しい葦毛の持ち主で、特に鬣の流麗さは言わずもがな、である。  
 目はくりくりと丸く、黒目の部分は栗色に光る。少女の目だ。  
 名は、「ミルセルピアン」。どこか高貴な響きがする、綺麗な名前だ。  
 あだ名は「ミル」で、ファンや牧場の人々から親しみを持って呼ばれていた。  
 このように美しい体躯のおかげか、彼女は一躍アイドルホースとなった。  
 十二月の粉雪の日に開催された「阪神ジュベルナイルフィリーズ(通称、阪神JF)」で、白い妖精の中を彼女が流れるように走った時、ファンは大歓声を上げた。  
 もともと馬主は駄目元でそのレースに出走したのだが、その時期の彼女は全盛期であったこと、彼女以外に追い込み馬がいなかったこと、レースがハイペースで展開したことなどが上手く噛み合って、レースでは彼女はハナ差で優勝した。  
 こうして、彼女は良い血統、好運に恵まれて阪神JF勝ち牝馬になったわけだが、残念ながら極端な早熟馬で、そのレースで勝ってからは黒星ばかりだった。  
 ついにはオープン戦七着という屈辱を喫し、阪神JFの三ヶ月後、つまり三月の下旬に引退し、繁殖上げにされた。  
 ついこの前までは、繁殖馬ではなく競走馬としての生涯を送っていた彼女の体は未だ筋肉質で、太股の筋肉(ヨロ)は十分に隆起し男勝りにも見えた。  
 腹部もがっしりとしており、首は人間の腕一回りほどはある。見かけだけは、立派な競走馬だった。  
 
 彼女は、その丸い目を細めて、鬱々した様子で遠くの雀を眺めていた。  
 ……疲れた。  
 引退後、繁殖馬として、生殖の器械にされてしまった彼女は、三月末に一回、四月前半に一回、合計二回種付けされたのだが、血が濃すぎたせいか、どちらも不受胎。彼女には交配の疲労だけが残った。  
 そもそも、彼女と肉体的関係をもった二頭の牡馬は、どちらも競争能力が高いだけのブサイク男で、彼女は嫌というほど拒み、抵抗したのだが、男の力には敵わず、強姦されたのである。そのため、精神的な疲労も蓄積され、彼女は一日中ぼーっと過ごすようになってしまった。  
 そんな彼女の元に、一頭の牡馬が後ろから近寄ってきた。  
 『……ミル?』  
 その牡馬は心配そうに呼び掛け、彼女の注意を向けようとした。  
 ミルの耳がぴゃん、と動き首だけをそちらに向ける。  
 
 『シヴ……』  
 彼女はあまり気の無い声でその牡馬に答えた。  
 牡馬はミルとあまり大きさの変わらない馬だった。だが、体がほっそりしているので、ミルよりも体重は軽そうに見える。  
 名を、シヴライアンという。  
 は、ミルと同じくナルサムファーム出身の元競走馬で、今年、つまり五歳になってから種牡馬として生き始めた。  
 ミルと同じ騎手が乗っている事から、二頭はお互いの事が気にかかっていて、たまに放牧時期が重なった時に、よくくっちゃべった。  
 甘い栗色の体に、ほんのそよ風でもなびく黄金の鬣と尾。昔から、美馬として褒め称えられるタイプの毛色だ。  
 鼻梁(人間で言えば鼻にあたる)に走る白い線はまったく歪む事なく真っ直ぐ走っており、顔そのものも細く整っている。  
 体躯も、元競走馬とは思えないような細さで、川の流れを思わせた。足は地面を踏みしめていると言う感じではない。  
 地についているはずなのに、少しだけ浮いているような、そんな神々しさが漂う。  
 ガラスで出来ているかのような透明感が、シヴの周りには漂う。おませでお年頃なミルは、そんなシヴに恋心のようなものを抱いていた。  
 彼女が好意を抱くのは、見た目のためだけではない。  
 シヴは、見た目こそ脆弱そうに見えるが、その実は物凄く強靭なのである。  
 レースの実績を上げると、三歳時、ダービー、宝塚記念、菊花賞、有馬記念。四歳時、天皇賞・春、天皇賞・秋、ステイヤーズステークス、そして有馬記念(二回目)を制して引退した。  
 GT七冠である。ただの馬ではない。長距離においては無類の強さを誇る馬だ。勝利したレースも、二千メートル以上しか無く、それ未満の距離のレースにおいてはさっぱりである。  
 「何百年かに一度のステイヤー」と言われた事もある。ステイヤーと言う点では、名実共に、彼は最高級の牡馬だ。  
 ただ、これだけでは強靭である事の裏付けにはならない。が、彼にはその裏付けになるものがある。  
 四歳時の阪神大賞典。  
 これは、六十キロを背負って走ったのである。六十キロは馬にとって大きな負担だ。普通なら、レースを回避するほどの斤量であるが、馬主は敢行。  
 その期待に見事応え、二着の好走。その後の天皇賞・春へ向けて上手くローテーションを組み、優勝した。観客や専門家の度肝を抜かされたわけである。  
 そんな強さの上に美貌があるから、ミルはシヴに限りない魅力を感じるのだ。  
 
 シヴみたいなのになら、いくらでも乗られていいのに……。  
 ミルは、体の左右さえ対称でないブサイク馬を思い出して、溜め息をついた。  
 『……疲れたんだろうな』  
 シヴはミルの隣に伏せた。お互いの体が触れるから触れないかという距離まで近づく。  
 ミルは恥ずかしいような不思議な感覚に少しだけ見まわれたが、シヴが隣にいるのはとても嬉しい事なので、その感覚を無理矢理殺した。  
 『疲れたって、何の事?』  
 ミルは、何にも知らない様子でシヴに訊いた。おそらく、『ブサイク馬に犯されて辛かっただろうな』と言ってくれているのだろうが、そうは思いたくなかった。  
 シヴ以外に犯された事は、シヴに対してとても悪い気がした。  
 シヴは正面の何にも無い空間を見据えたまま、ミルに答えた。  
 『お前の泣いているような嘶き、厩舎の中で聞いたよ』  
 『えっ……』  
 そんなに大きい声で泣いたっけ……。ミルは不安になった。  
 『かわいそうにな……。こんな綺麗なのに……』  
 シヴは、すらりと長い首を曲げて、ミルの目を見つめた。  
 シヴと目が合って、ミルは自分の顔が熱くなっていくのを感じた。  
 ミルがどぎまぎしているのを知ってか知らずか、シヴは顔をどんどん近寄らせる。  
 『申し訳なく思わなくていいさ。お前は何も悪くないんだから……』  
 シヴは囁きかけるような声でミルに語る。どこか艶かしいように感じて、ミルは内心狂騒状態だった。  
 
 『ミル……』  
 シヴはミルの目を悩ましく見つめ、  
 『何? シヴ……』  
 ミルの首筋を愛咬した。  
 『え? ちょ、ちょっと、シ、シ、シフ、シヴ、シヴシヴ!』  
 唐突なアタックにミルはその口から逃れようとしたが、すぐに思いとどまった。今までにない、阪神JFを勝った時の喜びさえも遥かに勝る感情が、首からミルの全身へと駆け巡った。  
 二度三度、慈しむように優しく噛み締め、シヴは口をほどいた。  
 『ミル……』  
 シヴは少し不安なような、懇願するような、感情が複雑に混ざり合った目でミルを見た。  
 ミルは、心臓が高鳴っているのを悟られないように、呆けたような顔をしてみせた。  
 シヴが、恐ろしいほど艶容な声で言った。  
 『応えてくれるか……?』  
 ミルには、それが神から授かった言葉に思えた。  
 一瞬世界の全てが停止し、すぐさま本来の時間軸に戻る。そして、世界が徐々に輝き出して、薔薇のように高尚な世界へと移り変わって行く。  
 ミルの目には世界がそう見えた。  
 ミルは、すっ、と立ちあがった。  
 『あっ……』  
 シヴが全てを失ったような声を出した。ミルが、断ったのだと思ったのだろう。  
 もちろん、ミルはそういうつもりで立ったのではない。  
 ミルは、少し歩いてUターンし、シヴの真正面に止まって、胴を落とした。  
 お互い見つめ合う格好になる。  
 ミルは、喜びが隠しきれず、思わずニヤけながら言った。  
 『いくらでも応えようと思う』  
 ミルがそう言った瞬間、シヴの顔が輝いた。  
 『ミ――う』  
 ミルは、シヴの言葉を妨げた。  
 シヴの首筋を噛んだのだ。  
 真正面から相手の首を噛む事。これは、馬にとって最上級の愛情表現である。  
 さっき、シヴはミルの横から首を噛んだが、真正面から噛むのと比べれば意義が軽い。真正面から噛むのとは比較にならない。  
 いわば、肉体の関係を許したようなものだ。  
 自分がした事よりも大きな事をされたシヴはミルにされるがままだった。不意を突かれて呆然としているのかも知れない。  
 だが、彼が正気を取り戻すのに時間はそれほど必要でなかった。  
 シヴは、口角に笑みを浮かべて、ゆっくりとミルの首に口付けした。  
 お互いがお互いの首を噛む格好となる。  
 ミルは、シヴは自分にやり返してくれたのを神経で感じ取り、安堵に似た喜びと、彼の優しさに対して甘えたい衝動が起きて、今までの辛い凌辱の過去に、涙を流した。  
 首を食みながら、嗚咽混じりにシヴに訴えかける。  
 
 『な、なんで、私があんなやつらに、乗られなきゃ、ならな、かった、の……?』  
 『……辛かっただろうな、ミル。いつか俺が慰めてやるから……』  
 シヴは、下手にミルに答えず、自分の体を与える事を約束した。  
 人間界では、唐突過ぎる発言だが、馬にとってはそうでもない。お互いの首を真正面から噛んでいれば、肉体関係が保証されたようなものなのだから。  
 『ほ、ほんと、に……?』  
 ミルは嘆願するように訊く。  
 『約束する』  
 『……あ、あなたの女に、なったら、もう、大丈夫、かな……?』  
 『……ああ』  
 それ以上、二頭の間に言葉が介入するのは許されなかった。  
 
 ミルは、いつかお互いに激しい愛を交わす妄想を抱きながら、首筋を愛撫した。濡れるほどの性感を得るには全然足りなかったが、今はそれだけでも幸せで幸せで天にも昇る思いだった。  
 太陽がやや傾き、十六時になっただろうか、というころ。  
 二頭は聞き慣れた足音を聞き、咄嗟に口を離した。ミルから見て右側、シヴから見て左側に、二頭とも顔を向ける。  
 やや遠い所に、牧場のマスターがこちらに歩みを進めてきていた。  
 マスターのまとう雰囲気は、一種異様だ。他の人間の男とは一風違った、沈着な雰囲気。マスターの隣にいると、何故か自分が強くなったような気がする。  
 シヴに対して抱く安心感の縮小版といったほうがいいだろう。  
 もちろん、マスターに対して恋愛感情を抱く事はない。興味本位で犯したくなる事はあるが。  
 と言うのも、人間と馬だったら、馬の方が体力的に勝っている事は彼女も理解しているので、攻める事ができるかな、とたまに思うのである。  
 受けるのはもう十分経験したつもりである。  
 彼女も根にはエロスがはびこっている。相手次第で、積極的に受け入れる事もあれば、積極的に拒む事もある。要は、限定的淫乱馬なのだ。  
 ……補足説明すると、馬の世界は人間の世界と違って、性に対する規制がゆるい。ある馬が二頭以上の異性馬と交わっても、あまり責められる事はない。  
 彼女も、自分の意思で犯したなら、シヴは許してくれるだろうと思っているのだ。  
 それに、シヴがミル以外の牝馬を犯した事は、ミルも知っている。それは種牡馬と言う地位上仕方ない事なので、彼女は笑って飛ばして許してやった(シヴだけ)。  
 それなので、もし、ミルがマスターを襲った事に対してシヴが責めたとしても、『お互い様』と言う最強の言葉の武器がある。  
 それに、シヴは、不倫をされたぐらいで絶交するような矮小男ではない。  
 ミルがそうこう思考をめぐらせている間に、マスターは二頭のすぐ近くまで歩み寄ってきていた。  
 
 マスターは、いつもの微笑を浮かべながらしゃがみ、ミルの手綱を取った。  
 シヴのは取らずに。  
 それはつまり、ミルだけが連れて行かれるということである。ミルは軽い喪失感を抱きながら、手綱のままに立ちあがった。  
 『ミル……』  
 後ろでシヴが呟いたがミルは、振り返って一瞥をやるだけに留めておいた。  
 それ以上をやると、手綱を振り切ってしまいそうに思えたからだ。  
 失ったものは仕方が無い。今はマスターしか無い。ミルは割り切って、マスターに注意を向ける事にした。  
 「ミル。シヴの事がそんなに好きかい?」  
 マスターは深みのある趣深い声でミルに話しかけた。何度聞いてもいい声だな、と思う。  
 この声を聞いていると、心の中にある不浄な物が全て抜けていくような、そんな清涼感を受ける。  
 意味はわからないが、心地良いので、ミルは耳を傾ける。  
 「そんなにシヴの事が好きなら、もう一度チャンスをあげようか?」  
 マスターはミルの目を流し目で見ながら言う。  
 「ちょっと無理のあるスケジュールだけど、ミルなら、この程度の事はできると思うんだ」  
 マスターはミルが競走馬時代の時の調教スケジュールを根拠に言っている。  
 ミルは根性の足りない馬だったため、併せ調教を何度となく重ねたが、他の馬たちよりも長持ちしたのである。  
 「……当て馬をあげるから、シヴと愛しあいなよ。――あ」  
 マスターはミルに呟いてから振り向いた。ミルもそれにつられて後ろを見てみた。  
 シヴが微妙な距離を保ちながら後ろを付いてきていた。どうしたらいいのか分からないらしく、取り敢えず付いてきていたようで、ミルとマスターが立ち止まると、その場でたたらを踏んだ。  
 ミルは、シヴに求められている事が分かってまだ嬉しさを感じた。  
 マスターは、ミルの手綱を離して、シヴのほうに近寄っていった。  
 おろおろしているシヴの顔に優しく手をかけ、柔らかく撫でる。  
 もしマスターが女だったら、ミルは嫉妬してマスターを蹴飛ばしていたかもしれない。  
 「……付いてこないでくれるか」  
 マスターは語りかけるようにシヴに言い、軽く顔をはたいてミルの元へ戻っていった。  
 顔をはたくのは、待機の命令。  
 シヴはいよいよ困った顔をして、もどかしそうにその場を歩き回った。  
 ミルも寂しかったが、どうせ明日会えるし、マスターの命令だったら仕方が無い。  
 マスターに手綱を引かれる直前、ミルはシヴに微笑みかけた。  
 
 ミルがマスターに連れてこられた小屋は、いつもの厩舎と違っていた。  
 外とは一つの扉を挟むだけで、ただ四角いだけの殺伐とした部屋。床はウッドチップでふかふかしていて、壁は灰色で、鼻を押し当ててみると軽くめり込んだ。  
 寝るのには理想的な部屋だが、いつもの慣れた厩舎とは違うので、やはり緊張してしまう。  
 マスターが部屋の扉を閉めてからあと、ミルは床に伏せて味気ない壁をぼぅっと見つめていた。  
 マスターとも別れてしまった今、もっぱら考えているのはシヴの事ばかりである。  
 あのようにして肉体的関係も許してしまったことだし、シヴとの仲はより親密なものになるだろう。  
 喜ばしい事だし、望んでいた事だ。  
 しかし、そうなると、こうして一人でいるのがとても辛く感じる。  
 私のどうでも良い話も真面目に聞いてくれるシヴ。私が傷ついた時は慰めてくれるシヴ。いつも私の事を思ってくれるシヴ……。  
 今までは単なる憧れだったものが、現実になって、その甘美な味を覚えてしまった。シヴがいない時、とりわけ一人の時は、心がむせび泣く。その泣き声で、胸が締め付けられる。  
 
 ……はずだがなんだかくすぐったい。  
 ミルは思わず笑ってその不思議な感覚をちょっとだけ楽しんだが、すぐにとんでもない事に気付いて目を見開く。  
 胸の下に、何かがいる!  
 ミルはその健脚で一気にその場から部屋の隅まで飛び退り、自分の胸が押し潰していた所に目をやる。  
 そこには、細長い何かがいた。  
 それは、ウッドチップを押しのけて床から発生しているようで、牡馬の陰茎より一回り太い。ほんの少し頭を覗かせている。半透明の粘液を垂れ流している様子は、つるんとした巨大みみずのようだった。  
 ミルは本能的に感じた。――殺される!  
 人との生活で鈍っていた野生の血が突如として煮えたぎり、その触手のようなものからなるべく離れようと、体を壁に押し当てる。  
 触手は、床から這い出て、その長躯を顕にした。  
 薄い桃色に、ところどころ血管のような紫色の線が走っている。触手の高さはミルの体高を遥か凌駕しており、もう少しで天井に届きそうなまでに伸ばされていた。  
 ただの棒のような物であるはずのそれは、相応でなく重圧感があり、それこそ押し潰されそうな錯覚を呼ぶ。  
 ミルは柔らかい壁にますます体を押し当てた。  
 触手はその長い体を醜悪になびかせて先端をミルのほうに向けた。  
 先端から流れ落ちる粘液が、彼女におぞましい何かを思わせたが、そんな事はすぐに脳裏に追いやり、意識の外へ飛ばす。  
 今意識すべきは、如何に生き延びるか――。  
 彼女の切迫した視線を知ってか知らずか、触手がミルにずり寄ってきた。粘度の高い液体が動く音がする。  
 もしも触手が届いたら、もうおしまいだ。  
 ミルは息をする事も忘れてその触手を凝視していた。  
 今の今まで床の下に隠れていた触手も、どんどん地上に現れてくる。大蛇か何かが這うような不気味だった。  
 もしや、触手は無限に現れるのだろうか……。  
 恐ろしい考えがばかりが浮かんで、狂ってしまいそうだ。彼女は正気を保つだけで必死だった。  
 だがそれも終わる。  
 触手がこれ以上伸びなくなったのだ。  
 『……はぁ……』  
 ミルは思わず息を漏らした。  
 触手の先端はあと少しという所でミルに触れる事ができず、ミルの目の前でもどかしそうに頭を振るわせた。  
 なんとか、死ぬ事だけは逃れた……。  
 ミルは警戒が一気に解けて、安堵が体に満ちていくのが分かった。  
 そしてその安堵は間もなく弾ける。  
 
 『ぅんっ……!』  
 突然、下顎にぬらりとした感触が走り、悲鳴を上げようしたらその感触が顔中に巡っていって、それが締めつけてくるのを感じた。そのせいで、口が開けられずに叫びはくぐもった声となった。  
 彼女は悟った。壁から、二本目の触手が現れた事を。  
 戦慄が血管に飽和していき、恐慌の念が脳髄を支配していく。彼女は、必死で体をもんどりうって触手から逃れようとした。  
 が、触手は彼女を逃がすまいと更に力をこめて顔を握る。  
 徐々に痛覚が訴えてくる。彼女は体を動かすのを止めて、触手の成すがまま体を委ねるしかなかった。  
 《シヴゥっ……》  
 死を覚悟し、彼女は最愛の者を思い出した。  
 涙が彼女の目から溢れる。  
 
 顔にまとわりついた触手は、彼女を部屋の中心へと引っ張っていった。  
 荒々しく引っ張られ、顔に鈍い痛みが走り、唸りながら彼女は触手の命令を従順に聞いた。荒く手綱を引かれてるのよりも更に辛く、マスターの優しい手綱使いが遥か昔の事に思えた。  
 顔の触手は、床から生える触手まで彼女を導いた。  
 床から生える触手は、どこか待ち望んでいたようにその長躯を震わせ、彼女の周りをいとおしむようにうねりまわった。  
 私はここで死ぬんだ。  
 ミルは思った。  
 私は、全身締めつけられて、血を吐きながら、食われるんだ……。  
 彼女はもう覚悟を決めていた。触手には勝てない。だから、出来るだけ触手に屈服せずに死にたかった。  
 不意に顔にまとわりついていた触手が緩んだ。  
 彼女ははっとして、考えるより先に脚が動いていた。思考が追いついてくる。  
 触手の右側を走って、扉にぶち当たれば、扉が開くかも知れない。そうすれば助かるかも知れない。  
 僅かに生まれた生存の希望。彼女は追い込みの脚を発動し、そこに向かって狙いを定める。  
 だが圧倒的な力の前には、彼女はあまりにも無力だった。  
 前足で地面を踏んだ直後、床の触手に捕らえられ、そのまま地に横倒しにされた。体がウッドチップを擦り、茶色い破片が舞い飛ぶ。  
 焼けるような痛みが、右半身を埋め尽くし、彼女は嘶いた。  
 あまりにも呆気なく希望は潰え、彼女は己の無力さを呪い、己の運命を呪った。  
 触手は無慈悲である。哀憐に満ちた彼女の体を這い、床に押し付けるように縛ってきた。  
 背筋が凍るような気色の悪い感覚が腹を襲い、吐き気がするような鈍痛が彼女を苛める。彼女にとって、こんな得体の知れない物に殺されるのは、一つの生き物としてどうしても嫌だった。  
 ゆっくりと、腹に触手がめり込んでくる。それに伴って、痛みが増す。息が苦しくなる。目を瞑らなければ、痛みに耐えられない。  
 だが、その痛みはある程度の所で急に止まってしまった。  
 力の増大が突然止まってしまった事に、彼女の意識が連いていっているわけではない。ただ彼女は苦しさと被侮蔑に苦渋の声を漏らすだけだった。  
 彼女は今、自分が死に近づいていると思っているのだろう。  
 だが、そういうわけではないことが、即座に証明された。  
 
 どろ。  
 強い粘り気を持つ液体が零れる音と共に、部屋の床と言う床、壁と言う壁から、無数の触手が飛び出してきた。  
 それらは一様に似た姿で、長さも太さも変わらない。いずれも巨大みみずのような物。  
 ミルは、音で目を開け、そして見たおぞましい光景に恐怖した。  
 触手たちは、緩慢な動きでミルに近寄る。  
 まさにみみずのように蠢くそれらは、ミルの胸、首、顔に巻きついてきて、粘液で彼女を濡らし、より拘束を強烈なものにしようと力をかけた。  
 ミルの下腹部から上は、触手に埋め尽くされてしまっていた。  
 辛うじて触手がのしかかっていない左目。そこから部屋の天井を覗き、視界の中で蠢く触手を眺め、彼女はパニックと恐慌に陥り、唯一動かせる後ろ足と尾を訳も分からずばたつかせた。  
 そうするのを止める事は到底できなかった。  
 だが、それさえも触手が禁じる。  
 下になっている右後ろ足は床から現れた触手に捕らえられ、上側の左後ろ脚は壁から現れた触手に捕らえられ、尾は床から現れた触手に捕らえられた。  
 自然、後ろ足を開いて、尾を反らせる格好となる。内部構造が見えそうなほど、陰部は曝け出されていた。  
 今は、その姿勢を恥じている暇はない。奪われるかもしれない命を守るのが先決である。ミルは触手から逃れようと、全身で力んだ。しかし、触手はその度強固な力で締めつけるので、ただ体力が奪われるだけだった。  
 『くはっ……』  
 一際大きな力に、彼女の肺に入っていた空気の大半が押し出された。  
 体力も無い。抵抗する力も無い。彼女はもはや抵抗する力を使い果たし、怠惰な諦めが彼女に囁きかけた時だった。  
 
 彼女の太股の付け根辺りから触手が勢い良く飛び出してきて、粘液を飛び散らせた。その粘液は、ミルの腹や、陰部、臀部を湿らせた。  
 ミルはその様子が見てとれないが、感覚で変な物が体に付いた事は分かった。一瞬下腹部が痙攣した。  
 その触手は彼女の下腹部にその体を下ろした。  
 《ひっ……》  
 その触手だけは他と違って異常に冷たく、下腹部から熱を奪われた彼女は気味の悪い感覚に喉を震わせて声を出そうとした。  
 嫌悪感にさえ苛められて、彼女は自殺願望さえ抱いた。  
 無論、触手のいたぶりがこれで終わるわけが無かった。  
 下腹部に到達した触手は、その後に続く体を這わせながら、ミルの体を登っていく。  
 左足の外側を舐め、後ろのほうへ回ってもう一度腹に戻る。  
 少し陰部に近づいた。  
 感覚から触手の動きを察知しようとしていたミルは、触手の動き方があまりにも淫猥なのに気が付いて心臓が止まりそうになった。  
 まさか……。  
 触手は、腹から陰部を目指しだした。  
 《あぁっ……いやっ……》  
 陰部に近づくにつれ、ミルの神経も過敏になっていく。未だ触手が考えている事を信じたくなかったが、この動き方をされたら、もうそれにも抗えなくなってしまう。  
 そして、それは現実となった。  
 触手の先端が陰部に少し触れた。  
 《うぅっ……》  
 過去に犯された時の感覚とは違う、どこか甘く、そして痺れるような感覚が駆けた。思わず、愛液が出てしまう。  
 体はそれをひたすら求めていた。気持ち良かった。もっと欲しかった。  
 だが、心はそうでなかった。  
 《……いや……こんなのに犯されるなんて……》  
 生き物かどうかさえ怪しい物に犯されるなど、屈辱と恥辱の限りだ。女として、それは嫌だ。更に、彼女にはシヴと言う愛でる男もいる。そんな者がいるから、こんな怪物に犯されるのは絶対に嫌だった。  
 だが、抵抗するだけの筋力も体力も気力も持ち合わせていない。  
 《このままやられるしかないの……》  
 ミルは、自分を殺したくなった。この場で死にたくなった。  
 それさえも出来ない。  
 触手はかまわず彼女を凌辱する。  
 陰部の上を舐めるように這う。  
 《ぅ、ぅあ、ぁぁあ……》  
 この上ない最悪の感情が胸中で渦巻いているはずなのに、それでも甘美な感覚が陰部で吹き荒れる。愛液は、心に関係なく吹き出て、淫らな音を放つ。  
 最悪の感情と、最高の快感では、後者の方が勝っていた。  
 彼女の陰部は、たちまちのうちに愛液で濡れて、挿入されるに適した状態となってしまった。  
 《感じたくない……感じたくないっ……!》  
 彼女は必死に陰部の感覚を遮断しようとするが、触手が更に苛烈に攻めを展開する。  
 
 焦らすように、先端を少しだけ挿入した。  
 《くぁうっ……!》  
 ガラスが弾けるような猛々しい感覚が体を貫き、彼女の思考は一瞬停止した。それはまたすぐに動き出して、一瞬でも快感にさらわれてしまった自分に恥を知らしめさせる。  
 《どうしてこんな奴に感じてるのっ……! うっ、くふぅっ……》  
 感じる事を禁じようとするが、触手が陰部で動き回り、膣をあまりにも強く刺激するので、感じざるを得なくなった。  
 彼女の心の隙を見て、触手は膣の奥へ奥へと進んで行く。  
 《くぅぅ……》  
 触手が粘液で湿潤になっているからだろうか、馬の陰茎と違い、痛みが全く無い。そのため、快感が直接体躯を焼き、考える事を妨げる。  
 恥は、意識の外へ外へと追いやられ始めた。  
 《あぁ……ふぅ、ん……》  
 触手は飽くまでも彼女の嬲ろうとせず、優しく膣の内部を刺激する。  
 在りし日の二頭のブサイク馬と違って、純粋な快感が背骨を伝わって、脳までも焼いてしまう。意識が飛びそうな感覚が、常に襲ってくる。  
 《うぅ……もぅ、だめぇ……》  
 彼女は本能を理性で拒むのに耐えきれず、ついに官能に体を任せた。  
 まさにその途端だった。  
 今まで攻めらしい攻めはしなかった触手が、突然獅子のように荒々しく激動し、膨張しながら彼女を刺し貫いた。  
 《くはぁぅうっ!》  
 前兆も無しに快感の強さと範囲が急激に膨れ上がり、彼女の意識は一瞬、虚空に消えてしまった。  
 生来、初めてのオルガスムス。  
 気付けば、今まで冷たかったそれは白熱した鉄のように熱くなっており、膣を焼いていた。今になって、触手は壊れたように射精し出した。  
 《うぁぁああ……!》  
 触手の本体を凌ぐ熱が止めど無く膣の奥にぶち当たり、壁を伝って、外へ流れていく。  
 無限かと思われるほどの量が。  
 《……ぃ……》  
 息が出来なくなるほどの肉感で、彼女は心中で叫びを上げる事さえ出来なくなってしまっていた。  
 彼女の体は、完全に乗っ取られてしまった。  
 もう抵抗する事は出来ない。  
 体にまとわりついていた触手もそれを悟って、縛りを少しずつ弱めていき、全身を愛撫していった。  
 《ふぅぅ……ぅ》  
 彼女はオルガスムスどころか、もはや気絶する寸前で、どこかで猛烈な快感が脳に侵入している事を自覚する事しかできなかった。  
 濃霧がかかった、楽園にいるような感覚だった。  
 が、突然楽園が崩れだし、濃霧も晴れ出した。  
 触手の射精が終わったのだ。  
 
 全身を取り巻いていた触手も彼女を労わるように離れていく。  
 徐々にはっきりしてくる意識の中、結局自分が触手に体を任せてしまった事実に気付き、羞恥心が号泣するのと、全身が疲労困憊しているのと、膣液が未だに出ているのとで、彼女はぐったりと横たえ、静かに涙を流した。  
 こんなのに辱めを受けて、歓んでしまうのは、女として失格だ……。  
 彼女は、一頭の牝馬として、自分の存在を情けなく思った。  
 一声悲嘆を上げる。  
 地平線をものともしないほど遠くまで響きそうな声。それが部屋の中で反響して、何頭もの彼女が同時に同じ声を上げているような状況が生まれる。  
 声を上げると、胸のわだかまり幾分解けて、全てが終わったと思った。  
 意識の下で、もう触手に襲われる事はないと思っていた。  
 目を閉じていたから、今周りがどうなっているか分からなかった。  
 『……ひぁっ!』  
 彼女の巨躯は突然持ち上げられ、空中に浮いた。彼女の体から、精液やらなんやらが滴り落ちる。  
 驚きで彼女は眼を開いた。  
 そして今までの自分の思いを破壊されている事を知った。  
 彼女の体は触手によって持ち上げられていて、その浮いている体の周りを無数の触手が見ていた。  
 おそらく、胴体に巻き付いているのだろう。前肢の付け根辺りと、後足の付け根辺りに、二本。  
 彼女は世界が半回転するのを見た。  
 天井が腹の下へ。床が頭の上へ。  
 『何?! 何?!』  
 彼女の体は、空中で仰向けにされていた。  
 彼女の鬣や尾の毛が直立するように垂れる。  
 触手はなおも彼女を弄び、彼女の体を好きなように動かしていた。  
 頭は下へ。尻は上へ。  
 彼女の頭と臀部を結ぶ線が、地面に対して三十度程の角度をつけて、彼女の体は止まった。  
 
 『何? 一体何が起こるの……!』  
 ここまでくれば、もう答えは知れたものだ。  
 触手が、彼女の膣を狙っている。  
 本来挿入に適した距離を逸脱した距離から。  
 わけがわからなくて四肢をばたつかせるミル。その動きに伴って膣の左右の弁が擦れる。  
 そのあいだ目掛けて、触手は猛進した。  
 完璧な狙いだった。  
 触手は雨に濡れた桃色の花弁の間に体を押しいれ、膣を強烈に擦りながら奥まで進んだ。その奥の壁にぶつかってもその更に先を目指し、壁を遥かに前方に押し出した。  
 彼女の腹に、棒のようなシルエットがくっきりと浮かび上がった。  
 受ける激痛を軽く消し飛ばしてしまうほどの快感が、飛び火のように彼女の体を巡り、彼女は本能的に叫びを上げた。  
 喉が千切れそうなほど、絶叫した。  
 性の快楽。それが膣に多くの愛液を分泌させて、膣の中は触手と愛液と充満する。触手が膣口を塞いでいるので、大半の愛液は膣の中に留まるしかない。  
 彼女の腹が、液体によって膨らんでいく。  
 触手は壁を向こうに押し出すのを止め、今度は引っ張り出す。膣を逆撫でしながら打ち震え、己の体を思いきり抜き取った。  
 自然、滞ってた愛液が、膣の外へ出ようと殺到する。  
 愛液は、彼女の膣から噴き出た。  
 それは鯨の潮吹きのように凄まじく、有りえない勢い、有りえない量で放物線を描いて部屋を横断し、壁に激突し、不気味な音を立てた。  
 愛液によって膣の壁は擦られ、新鮮すぎる快感が彼女を殴る。  
 彼女は醜怪な声を上げて、体中痙攣させ、眼球が飛び出そうなほど目を見開いた。  
 もう「考える」などといった悠長な事は全く出来なかった。  
 太古の昔から引継がれてきた快楽が、彼女に覆い被さる。  
 抗えるはずもなかった。  
   
 触手は射精して膣を撃ちながら、幾度と無く彼女の体内へ侵入していった。  
 ミルの腹がせり出す。  
 絶叫を上げる。  
 触手が膣から抜き出る。  
 愛液が飛ぶ――。  
 
 
 ……それを何本もの触手で輪姦され、数え切れないほど刺された。  
 正気が彼女の体に入ってきた時、部屋中が彼女や触手の愛液に濡れていた。  
 もうそこらに触手は無く、膣を痙攣させて横たわる彼女以外に、部屋には誰もいなかった。  
 膣は未だに性欲が尽きていないらしく、未練がましく愛液を垂らしていた。  
 彼女は、床の所々に自分の愛液が溜まっていて、今現在その中に自分がいる事がわかった。  
 と、涙が滂沱と溢れてきた。  
 こんな有りえない事に、自分がここまで感じて、ここまでやるとは思ってもみなかった。  
 有りえない。情けない。恥ずかしい――。  
 シヴに会わす顔が無い……。  
 彼女は、自分の全てを否定し、悲観し、とにかく泣く事しか出来なかった。  
 哀れな声を上げながら、哀しみに染まった涙を流すその姿は、強制的に辱められた女性そのものであった。  
 それから間もなく。  
 彼女の涙が尽き始めたころだった。  
 部屋のドアが、開いた。  
 彼女はなけなしの体力を振り絞って、そちらに顔をやる。  
 そこにいたのは、スタッフに率いられるシヴの姿だった。  
 足を踏み入れるや否や、彼女の惨状、何か水溜りのような物を踏んだぱしゃ、と言う音、その他に驚きまくり、たじろぎにたじろいだ。  
 スタッフはその背中を押して彼の部屋の中に押し込む。シヴは、とてて、と情けない歩調で部屋に入ってきた。  
 ドアは強く閉められた。  
 シヴは、床や壁がぬるぬるした物でびしょ濡れなのと、ミルもまたびしょ濡れで、涙していて、しかも愛液を噴いているのを見て、素直にミルに近寄ってはこなかった。  
 足でその場を踏む。  
 彼女は、最愛のシヴがきてくれて、ようやく救済の手段を得たと思った。  
 今だ。私を彼に渡すのは。  
 今しかないんだ。  
 彼は、痙攣する膣を無理矢理無視して、ほとんど機能しそうにない足をなんとか働かせようと、体重を移動させた。  
 生まれ立ての仔馬になったような気分だった。足をがくがくさせながら、なんとか立ちあがろうとする。  
 シヴはその様子を見守る事しか出来なかった。  
 だが、ミルはあまりにも疲労し過ぎて、立つほどの体力を持ってなかった。中途半端に持ち上げられてた体が地面に打ち付けられ、愛液が散る。  
 シヴは思い出したように慌てて彼女の元に駆けより、そして初めて言葉をきいた。  
 
 『ど、どうしたんだよ、ミル……?』  
 ともすれば裏返りそうな声だった。動揺が露骨に出てしまっている。愛でる方の凄惨な状態を見れば、誰でも動揺してしまう。  
 訊かれて、彼女は言葉を交わす手がかりを手に入れた。  
 『シヴ……』  
 彼女は地面に体を委ねたまま、シヴに話しかけた。  
 『私を犯して……』  
 ミルの視点からだと、シヴの、男としての根が飛び上がったのが良く見えた。  
 シヴの顔がみるみる紅潮していく(栗毛なので変化は地味だ)。血管が浮き彫りになり、鼻息も急激に荒くなり、シヴの尻尾はわっさわっさと左右に打たれていた。  
 あわわ、というような声でシヴは言う。  
 『どどど、どうして突然……』  
 『いいから……』  
 ミルは必死だった。もうシヴ以外の誰にも犯されたくない。シヴ以外には私は渡さない。  
 だから、体をシヴに捧げる事にしたのだ。  
 そのためには、早ければ早いほどいい。  
 また涙が溢れ始めて、ミルは訴えた。  
 『早く! 私を犯して……。私が体を許すのはあなたしかいないの。だから……』  
 シヴは、ミルの超劇的告白に、ますます顔を赤らめた。耳の先端まで真っ赤。栗毛でもはっきりと分かるほどだった。  
 伏目がちに、シヴは訊く。  
 『い……いいのか?』  
 『やってくれなかったら後で蹴る』  
 ミルは強烈に答えた。  
 シヴはまた何かを言おうと口をぱくぱくさせたが、ミルは煩わしくなってそれを制した。  
 『私が死にそうに疲れているのは気にしないで。優しくしてくれたら……』  
 シヴの(精神的)優しさは、こう言うところで躊躇を生み出してしまう。もちろん、そう言うところも含めて、ミルはシヴが大好きなのだが。  
 未だ決断しきれていないシヴに、必死に、しかし冷静に、論理的な攻めでミルは畳み掛ける。  
 『あなた男でしょ?』  
 『はい』何故か丁寧語。  
 『男だったら、女とあんな事やこんな事したいでしょ?』  
 『はい』  
 『好きな女とだったら、ますますでしょ?』  
 『はい』  
 『私の事は好きでしょ?』  
 『はい』  
 『私をやりたくはない?』  
 『やりたいです』  
 『なら迷う事はないじゃない』  
 『はい』  
 ここまで弁舌して、ようやくシヴは吹っ切れたようで、地面に伏せた。這うようにミルに近づく。  
 『かわいそうにな……』シヴは何かを察したのか、ミルにそう囁きかけた。  
 ミルは二重の喜びがやってくるのを感じた。ようやくシヴとやれる。愛する男と、激しく(今回ばかりは優しく)愛し合える。そして、体をシヴに預けられる……。  
 新たな喜びの到来と、凌辱からの避難ができる、彼女にとって最高の交合が始まるのであった。  
 『ミル……』  
 シヴは、彼女に痛みを与えないよう、ゆっくりとミルの下半身に乗った。  
 ミルが、真の快楽に声を上げた。  
 
 
 その様子をカメラごしに見る男が一人。  
 マスターだ。  
 シヴがミルに乗る瞬間、マスターはモニターから目を離して、煙草の煙を吐いた。   
 ここはナルサムファームの事務所である。時刻は午後六時三十二分。事務担当の女性がパソコンとにらめっこをしているが、それ以外の人々はもう帰宅した。夜になれば、もうする事はない。  
 マスターは、専門的なDVDレコーダーの取りだしスイッチを押して、中からDVD‐ROMを取り出した。  
 この中には、ミルと触手の強姦の様子が全て撮られている。  
 午後四時ごろから六時ごろまでぶっ続けでやっていた彼女と触手の様子を激録した。  
 ミルの後足が開かれたシーンでは、上手いこと陰部にズームを向け、ミルが官能に声を上げるシーンでは、技術を投資してエコーがかかるようにしている。  
 そこそこ手の入ったものだと、マスターは自負する。そんなDVDを世のグロエロ好きケモナーたちに安値(千二百円・税込み)で売るのである。  
 生画像二時間収録! 一分あたり十円!  
 これがキャッチコピーである。  
 原材料費その他雑費を差し引いて、最悪の売り上げ、最悪の状況を予想したとしても、純利益は二十万円にのぼる見込みだった。最近のケモナー増大傾向は止まるところを知らない。  
 これを何度も繰り返せばいずれ……。  
 汚い事でマスターがほくそえんでいると、卓上の携帯電話が鳴った。  
 妄想で幸せ一杯になっていた彼は、やかましい音にそれをとざされて鬱陶しそうに受話器を取る。  
 「ナルサムファームでございます。新規登録でいらっしゃいますか?」  
 新規登録とは、馬を登録して、牧場側が扶養する義務と権利を得る事だ。  
 電話の大抵はこの用件である。  
 だが――。  
 「あ、今人間界にいらっしゃるのですね」  
 電話の向こうから、優美な声がして、マスターは顔色を変えた。  
 声が意地悪そうになる。  
 「ドラゴンか。何の用だ? 代金は要らないといっただろう?」  
 マスターは電話の向こうの人物に向かってそう吐いた。  
 「はい。そうなのですが……」  
 マスターと電話を交わす人物――ドラゴンがそう返した。  
 「なら問題はないだろう。俺は忙しいんだ。切るぞ」  
 「ああ! ちょっと待ってください。どうしても訊きたいことが……」  
 ドラゴンが切羽詰った声で言う。  
 マスターはそれに対して何も答えず、ただどっしりと構えるだけだった。  
 ドラゴンはこう切り出す。  
 「その……触手性の動物を部屋のようにしてこっちに設置しろとのご用件、達成させていただきましたが、いかがですか?」  
 「さぁな。まだ結果は出ていない。だが凄い事になるのは目に見えている」  
 マスターは五十万円の札束が目の前に見えて怪しく微笑んだ。  
 「お気に召されたようでなによりです」本当に嬉しそうにドラゴンが言う。  
 「しかしだな、幻想界にいるお前たちがどうやってこっちの世界に上手いことそれを運んでこれたんだ?」  
 「あれですよ。空間を捻じ曲げて、そこに押し込んで閉じれば簡単です。人間には難しいんですけどね」  
 「……ふぅん」  
 「あ、それより……」ドラゴンが露骨に話題を変更した。  
 「なんだ?」  
 「その……簡単な事だったので代金はいただきませんが、何故そんな物が必要だったので……です……く……か」  
 ドラゴンの声にノイズが混じり、突然聞き取りにくくなった。  
 「ん? どうした?」  
 「……う……ああ。戻りました」  
 「?」ドラゴンの言い方にマスターが首を傾げると、  
 「あの、異世界を隔てて直接通信するのは我々ドラゴンにもとても難しい事なんですよ。だからたまに調子が悪くなるんです」  
 「……へぇ」空間の捻じ曲げるのよりは簡単であるような気がしてならないが。  
 ドラゴンがもう一度質問しなおす。  
 「で、どうしてあんな物が必要だったんですか? どうにも使い様がないような……」  
 「なんだ。そんな事か」  
 マスターは、はは、と口先で笑って、  
 「幻想界の者たちには満たせない物を満たすためさ」  
 婉曲に言った。  
 「……?」  
 ドラゴンは分からないようだったが、  
 「じゃ」  
 とマスターは一方的に電話を切った。  
 
 マスターがあのような面妖な物を建てた理由は二つ。  
 一つは、金儲け。  
 もう一つは、「当て馬」の代わりにするため。  
 当て馬とは、牝馬の発情を促すための麗し牡馬の事である。牝馬は牡馬の色香にあてられて性交に目覚める。牝馬が興奮してふんふん鼻を鳴らしている状態の間に、麗し牡馬を引っ込めて、種付けのために用意された牡馬を突き出す。  
 そうすると、牝馬は積極的に牡馬にアピールし、自然な流れで交配が行われるのだ。  
 だが、この方法だと麗し牡馬を引っ込めるタイミングが難しいうえ、誤って麗し牡馬が牝馬に乗っかられてしまったら、もう引き離す事は不可能だし、ましてそれで受胎してしまったら取り替えしがつかない。  
 そこで、マスターは当て馬に代わる部屋を用意したのである。  
 その名も「当て部屋」。  
 あれほど限り無く恥辱感に満ちた凌辱はそうそう無い。もしあんなのに襲われたら、牝馬はほぼ間違いなく凌辱に泣き崩れる。  
 そこで種付けのために用意された牡馬を突き出す。  
 すると、牝馬はなんとかまともな性交相手を得ようと、牡馬を誘う。牡馬は大喜びで牝馬を犯す。  
 当て馬とはちょっと違うが、結果は同じである。それに、この方法だと誤って受胎する事も無い。その上、もし牝馬が牡馬を誘わなかったとしても、牡馬さえ発情していれば、牝馬が疲労困憊しているのを良い事に易々と犯せる。  
 こんな万能な物が無料――いや、五十万円×αの札束と一緒に入るのである。お得の域を越えている。  
 あまりの自分の計算高さに、マスターは自己陶酔しそうになった。  
 モニターに目をやると、シヴとミルが後戯にお互いの体を舐めあっていた。  
 マスターは思わず性欲が溢れそうになり、すかさずそれを理性を抑える。  
 「……いつか俺もミルとやるんだ……」  
 彼は、性欲の高ぶりで出てきてしまった翼をなでながらいった。  
 
 この日のナルサムファームを一言で表せば、「淫乱」だろう……。  
 

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