月も無い闇夜、明るい街灯を避けているかのような裏路地で、一人の犬が楽譜の詰まった鞄を胸に、追跡者から逃れるように小走りしてした。  
 彼女は国立オーケストラのホルン奏者で、駿蓉(しゅんよう)と言う。  
 彼女は雑種だが、アフガンハウンドの血が色濃く出たらしく、今のように獣人の姿でいると流麗な頭髪が吹流しのように揺れるのだ。  
 淡い麦色の体毛は細くたっぷりとしており、彼女の華奢(きゃしゃ)な輪郭を覆っていた。  
 手触りは大変良いもので、慣れない者なら触っただけで恍惚感(こうこつかん)に浸れるほどだ。  
 金に光る双眸(そうぼう)は少し気が強そうで、彼女全体の印象を引き締まった者にしてくれる。  
 彼女が今着ているのは、世界唯一の獣の国にて着用が義務付けられている物で、フリル付きの長いワンピースに、それに合わせるように作られた上着だ。上着の袖は手が隠れるほど長く、裾は胸元までしかないほど短い。  
 獣人が服を着る上で最も問題になる尻尾はワンピースの裾と地面の間でゆらゆらして、そこにも細やかな毛がふさふさと生えていた。  
 そんな彼女は何者かを憂えるように、体を捻って後ろに目をやった。  
 途端、後ろから生暖かい手が胴に巻き付いてくる。  
 「きゃ――」  
 彼女が思わず鞄を取り落とすと難しい現代音楽の楽譜が暗い路地に散らばった。突然抱き付いてきた後ろの何者かに鋭い視線を送る。  
 そこにはでれでれの顔で涎を垂らす、豚の獣人がいた。  
 生臭い呼気を駿蓉の前で吐きながら、いかにも不潔そうな涎を服の上にぼたぼた垂らしている。顔は不細工の典型――。  
 生理的嫌悪を呼び起こすその風体に、彼女は声を荒げた。  
 「ちょっと――離して!」  
 体全体に力をこめて様々な方向へ逃げようとする。今すぐにでもこんな醜い男から逃れたかったのだが、どうしても筋力では女の方が劣る。逃げようとしても腕がきつく巻き付いてくるだけだった。  
 「……逃げようったって無駄さ」  
 豚の獣人は浮き立った声で、吐息まじりに言った。性的に興奮している時に出す声だ。彼女は気分が悪くなってきて、豚の足を踏んづけようとした。  
 彼女が豚の足を踏んづけようとしていると、正面の方からもう一人違う豚がやってきた。彼もまた、駿蓉を捕らえている豚とあまり変わらない不細工である。  
 「くっそ、この糞ったれ!」  
 逃げようとするも上手くいかない状況下で彼女は怒り心頭して威嚇するように吠えた。だがそれでも豚たちは手を離そうとしない。  
 「……嫌よ嫌よは始めだけ」  
 カビが生えてそうなほど古臭い台詞が、駿蓉の耳元で囁かれた。  
 「……っ!」  
 駿蓉もいっぱしの女であるため、こんな胸糞悪くなるような男たちに聖域を犯されたくはない。  
 たまらず腕に噛みつこうとしたが、生憎(あいにく)届かない。  
 万事休すか。彼女は嫌な思いが脳裏に浮かぶのを感じてがむしゃらに抵抗した。足をあらぬ方向に振りながら上半身も思い切り振る。  
 そんな駿蓉の様子を見て見ぬふりをしているのか、目の前の豚は剃刀を手にゆっくりとした足取りで迫ってくる。剃刀で服を裂くつもりだろう。  
 暗い中、凶悪に光った剃刀を見て、駿蓉は背筋が凍った。  
 彼女は男に体を許した事が無い。男は所詮性に溺れがちで、えげつなく、配慮がなく、優しさの欠片も無いからである。  
 今までは性欲をずっと体の根底に溜め続けてきた。自分が体を許すのは、とても大きな意味がある、と言う信念を持って、なんとか性欲に抗い続けてきた。  
 それが、強姦と言う最悪の形によって、男に体を支配される事になる。これはただの強姦とは訳が違う。恋愛観は勿論の事、人生観までも変えかねない。  
 豚の男どもはそんな重大な事をしようとしているとは、思ってもいないだろう。  
 正面の豚男の吐く息が途端に強くなった。いよいよ官能を脳裏に思い描いているのだろうか。  
 彼女は来る屈辱と戦慄に、思わず涙を零してしまった。  
 
 だがその涙を無駄に返す者が現れた。  
 駿蓉の背後で心臓を直接握りつぶしそうなほど重苦しい唸り声が発せられた。女には出せそうにない、男特有の重低音。  
 豚どもはハッとして声の元へ駆け寄って声の主を確認しに行った。駿蓉はようやく解放され、豚のケツを思いっきり蹴ってやろうと足を上げた――が、大切な楽譜の救助のほうが先決らしく、なんとか思いとどまって散らばった楽譜を回収し始めた。  
 そうこうしている間に背後で豚どもの会話が行われる。  
 「い……犬だ!」  
 「狼じゃないのか?!」  
 「いや、い、犬だろ?!」  
 「ど、どうでもいいから逃げるぞ!」  
 弱虫の豚どもはたったそれきりで会話を切り上げ、情けなさすぎる悲鳴を上げながら走り去って行った。音しか聞こえていないが、駿蓉の方に来なかったと言う事は、左右のどちらかに逃げたのだろう。  
 「夜想曲より祭」と言う曲目の楽譜を全て回収し、鞄に詰めて後ろに振り返る。  
 その瞬間、今まで萎えそうになっていた心臓が突然飛び起きた。  
 豚の会話では獣がいたようだが、目の前にいたのは獣などでは無く獣人だった。化生(けしょう)したのだろう。その獣人が着ているのは、単(ひとえ)に直衣(のうし)。  
 この国では男物として着用が義務付けられている和服だ。どうして洋服じゃないのかと言うと、ジーンズなど股下が閉まっている物は、獣人と獣間の変身を難しくするためだ。  
 かと言ってスカートを穿く訳にもいかないので男物は和服なのである。  
 そんな事は関係ない。彼女が目を奪われてしまったのは、男とは思えないほど清楚で整った容貌のせいだった。  
 その男の毛は、それこそ銀のようで、こう暗くなければ光りそうなほど美しい銀色の毛で、そんな美麗な毛が粉雪のような細やかさで額を覆っている。  
 口からはみ出ている牙は長すぎず短すぎず、恐怖も感じなければ、軟弱さも感じられない。いわば理想だ。  
 黒々とした鼻先はきちんと整っていて適度な湿りを保っており、目は、海かもしくは快晴の空を思わせるほど透き通った蒼色で、男とは思えないほどの神秘さを感じさせる。  
 豚は狼か犬か分からなかったようだが、狼は絶対にありえない。こうして見た所、シベリアンハスキーだと思われる。それも、由緒正しい純血種――。  
 こんな綺麗な男がいたなんて――駿蓉は正直驚きだったし、趣味にドンピシャな彼に一挙に恋心を抱いた。  
 
 男は心配そうな顔をしながら駿蓉に近づき、腰を下ろした。  
 「大丈夫ですか?」  
 さきほどはあんなにも恐ろしげな声を出していたのが、今では実に神秘的な、暖かい雪のような声を出す。駿蓉は顔にどんどん血が上るのを感じて、  
 「あ、……うん……」  
 と言ったきり顔を伏せてまともにシベリアンハスキーの顔を見られなくなってしまた。  
 「……あ、あの……」  
 しばらくの沈黙の後、男のほうが駿蓉に声をかけてきた。駿蓉はドギマギしながら顔を上げ、  
 「な、何……?」  
 ぎこちなく返事をした。  
 「あの、携帯、持ってます?」  
 何を考えているのか、男は露骨な事を訊いてきた。  
 駿蓉も相手のメールアドレスは出来る限り捕まえたかったので、これは嬉しすぎる事である。  
 「え、ええ! 早くよこして……」  
 そういいながらポケットから携帯電話を取り出し、電源を入れて、赤外線受信の準備をする。  
 男も携帯を出してプロフィール画面に入り、送信のボタンを押す。  
 「ねぇ、赤外線どこどこ?」  
 「ああ、こ、ここ……だけど……」  
 今まで敬語だった男も、駿蓉が敬語を使う気が全く無い事を悟るとタメ語を使い出し、携帯電話の先っぽを指差す――ではなく爪差した。  
 駿蓉の携帯電話の赤外線送受信部分は携帯二つに折れる所の境目辺りである。ディスプレイの方を直角に曲げて当てやすいようにする。  
 待っているシベリアンハスキーの携帯電話に、自分の携帯電話を突き出した。  
 ほんのちょっとだけ待つと、携帯電話はすぐに受信して、「アドレス帳に登録しますか?」と言う、答えの分かり切った質問をしてきた。駿蓉は勿論、「はい」の方を選んだ。  
 で、彼の名前が判明した。  
 「冴曉(ごぎょう)」、である。  
 「へぇえ〜……ゴギョウって言うんだ。カッコイイね……」  
 これだけ凝った名前はとても珍しい。その新鮮さも手伝って、彼女は冴曉に惚れ惚れしてしまった。  
 「いやっ……そうでも」  
 目を泳がせながら応答する冴曉は照れているのか、耳が前側に垂れている。かわいい一面もあるようだ。  
 その後、駿蓉は冴曉に赤外線でプロフィールを渡した。ちなみに、彼女のプロフィールの中には、きちんと誕生日まで入れてある。「八月六日」と。  
 そして、それは今日の事である。  
 「――おお、今日誕生日なんだ?」  
 冴曉も受け取ったプロフィールを見たようで、駿蓉の誕生日が今日である事の驚きに素直に詠嘆する。  
 「間違い無く、生来かつて無いほどの最高の誕生日になった」  
 駿蓉は少し肩をすくめながら、冴曉に微笑みかけてみせた。冴曉はそれにかなりドキッとしたようで、目を丸くしてから顔ごと視線を反らす。  
 「な、なんか友達からプレゼントでも貰ったとか?」  
 分かっているのだろうが恥ずかしさが先に立って率直に言えないのだろう。冴曉はあからさまに、わざと知らんふりして見せた。かわいい一面をもう一つ見つけた。  
 冴曉が逃げられなくなるように、駿蓉は更に追い詰める。  
 「付き合いは数分だけど、友達の凄く上を行く存在から、ね」  
 ムゥゥ……。  
 冴曉はそう唸りながら、もう赤面しているのが分かるほど赤くなり変な風に笑っている。照れくさくて恥ずかしくて笑うしかないのだろう。かわいい一面、以下略。  
 もう冴曉は反論できないらしく、口を噤んだ(つぐんだ)ままただ笑っていた。容姿端麗なだけでなく、目の前の強姦を防ぐ正義を通す勇猛な男で、なおかつ奥ゆかしい。  
 駿蓉は思い立って、携帯電話の予定表を開いた。  
 明日はオーケストラでの全体練習が無い。オフの日だ。しかも日曜日で予定も無い。敢えて言えば、午前中に自主練習があるぐらいだ。  
 早速話を持ち掛ける。  
 「ねぇ、明日、予定無い?」  
 「明日?」  
 冴曉は不自然に真面目な顔をしながらこちらに向き直って言った。そして携帯電話をいじった。駿蓉と同様に予定表を開いているのだろう。  
 「……うん。午後からはすかすかだ」  
 ぃよっしゃ。  
 「逢引しない?」  
 「逢引?!」  
 冴曉は照れくささを隠していた顔を突然輝かせて、大きな手で駿蓉の手を取った。  
 「是非!」  
 熱心に言いながら、手に力を込める。  
 間違い無い。冴曉は駿蓉に気がある。  
 駿蓉が誘ってくるまでは非常に大人しかった冴曉だが、ここに来てようやく積極的になった。  
 それはつまり、相手の事を配慮していると言う事である。  
 えげつなさとは無縁な男――冴曉を知って、駿蓉はこの人以外は無いと思った。  
 力がこもってくる手を、こちらもきつく握り返した。  
 かくして、駿蓉は生まれて初めて男性に対して信頼を預けた。  
 
 
 
 翌日。  
 生まれて初めて着る服の配色に気を配った駿蓉は、淡く黄色いワンピースに白の上着と言う単純な色の服を選んだ。  
 この国では、服についての変更は色以外禁じられている。ヘアバンドなどは認められているが、駿蓉は素の髪で勝負する流派だった。ので、ファッションは色しか気にする事は無い。  
 今彼女は、国の中心にある「アーネスト」と言う大型ショッピングモール――要はデパートである――の一階飲食街、ハンバーガーショップの隅の席で、清涼感溢れる鞄の紐を、たんたん、と机に叩いていた。  
 待ち合わせ時間である正午の五分前である。彼女はその更に二十五分前からこの席を占領している。つまり彼女がこの席に座った十一時三十分。早めに来た、と言うレベルの話ではない。  
 しかし、待っているのに変わりはない。彼女は鞄の紐から手を離して自分の長い鼻に手をかけ溜め息を吐いた。  
 ちゃんと時間通り来てくれるかな……。  
 遠くの壁掛け時計を見てみれば十一時五十六分。あれから一分しか経っていない。  
 彼女は上半身を机に預けて、ぐだぐだ待つ事にした。顔は右に向ける。  
 顔を右に向けると、デパートの東出入口が視界に入り、  
 その視界の中で灰色の物体がこっちに飛んでくるのが見えた。  
 次の瞬間には向かいの席で獣人の冴曉が息を切らしながら座っていた。服は昨日の物の色が変わっただけだ。  
 冴曉は、獣の姿で必死にこっちに走って来て、一気に飛び込んで、空中で獣人に戻る、と言う複雑な行程をこなしたのである。  
 だがこんな事は非常に普遍的な事である。駿蓉は体を起こして目の前の冴曉に熱い視線を注いだ。  
 「ごめん待った?」  
 待ち合わせで先に来られていた時の決り文句である。  
 「待ったけど遅刻じゃないから安心して」  
 駿蓉は事実を正確に伝えて、左前方の壁掛け時計を指差した。十一時五十七分である。  
 冴曉はその指にならって視線をそちらに向け、ぐへーっと机になだれおちた。  
 
 「良かった〜いや俺の師匠さんが特訓を十分伸ばしてさ、「カルメン」の「闘牛士の歌」振らせやがったんだよ」  
 ……え?  
 冴曉の口から「カルメン」と言う超有名クラシック曲の名が出てきた。  
 先述のように、駿蓉はオーケストラに属していて、職業柄クラシックには人一倍詳しい。「カルメン」を知らない訳がない。  
 呆けた様子の駿蓉を見たのか、冴曉は続ける。  
 「ああ、俺さ、指揮者志望なんだよ。師匠はマイナーな人だけど、実力だけ見れば十分メジャー級なんだ。俺ももうちょっとでどこかからお呼ばれされるかも知れない」  
 駿蓉はますます目を丸くした。  
 今、冴曉の口から、「指揮者志望」と言う言葉が出てきた。  
 間違い無い。冴曉はおおざっぱに言えば音楽家だ。  
 駿蓉は、冴曉に自分が音楽家である事を分からせようと、マニアな話をしだす。  
 「――「カルメン」ってビゼーさんが作ったんだよね」  
 「お? 良く知ってるね」  
 駿蓉の事を演奏家だと知らない冴曉は、寝そべったまま感心したように目を向けた。  
 更にマニアックな話に持っていく。  
 「私がビゼーさんで好きなのは「カルメン」じゃなくて「アルルの女」なんだよねー。ほら、なんだっけ、「ファランドール」とかさ、ロンド形式もどきみたいな奴。  
 明るくも激しくてホルンの裏旋律がすっごいかっこよくていいんだよねー。あと「カリヨン」なんかもホルンかっこいいけど、単純なのが玉に傷かな」  
 駿蓉はこれだけの内容を一気に話してみせた。  
 今度は冴曉が呆けた(ほうけた)ようで、むっくり起き上がると、初歩的な質問をしてきた。  
 「職業は?」  
 「ホルン奏者!」  
 駿蓉は豊満な胸を張って答えた。  
 「えええ、じゃストラヴィンスキーとか普通に知ってるんだ?」  
 冴曉もようやく気付いたようで、語勢を弾ませた。  
 「当たり前でしょー知らなかったらおかしい!」  
 「「火の鳥」はやっぱり「カスチェイ魔王たちの凶悪な踊り」?」  
 「そうそう。でも私が好きなのは……なんだっけ。「ヴィーヴォ」ってやつ」  
 「「火の鳥」じゃないじゃん」  
 「でもいいでしょ?! トロンボーンのグリッサンド!」  
 「まさに現代音楽の真髄とも言えるな。あれは」  
 「「春の祭典」っていうやつあったよね? あれ今一つ理解できないんだけど」  
 「あれは確かに難解だよな。聴いていればその内分かるよ」  
 「でさ、バロック音楽の話だけど――」  
 ……と言う風に素人にはほとんど理解できない会話を三十分もしてのけた。  
 
 会話が途切れたのは駿蓉の腹の虫が鳴いたからである。  
 「「クラヴィーア曲集」は……」  
 と言った所で腹の虫が鳴き、恥ずかしくて駿蓉は俯いてしまった。  
 冴曉はそれをからかいつつも財布を取りだし、  
 「何か喰う?」  
 財布の中からクーポン券を取り出した。  
 意外とケチ……。  
 「一応このデパートの飲食店全部のクーポン持ってるからどこでも好きな所でいいよ」  
 冴曉は手の中でクーポン券をばらっと広げてみせた。およそ二十枚。  
 ますますケチ……。  
 これは仕方の無い事である。駆け出し芸術家と言うのは皆一様に貧乏で、そのためか吝嗇家(りんしょくか)ばかりである。仕事の依頼が少ないのが主な原因だが、中には本当にしょーもない腕しか持っておらず、出世の道さえも絶たれていそうな芸術家もいる。  
 だが「冴曉はしょーもない芸術家である」と、駿蓉の目に映ってはいない。  
 私も昔はクーポンには目が無かったよなぁ……と昔の自分を懐かしみつつ、貧乏であろう冴曉のために、割り勘を提案してみた。  
 途端冴曉は侮蔑(ぶべつ)されたような顔をして、  
 「俺だって一応男なんだから……食事代ぐらい持たせてくれ」  
 と鼻先をつんと上げながらもじもじ反論し出した。プライドは少々高いようだ。  
 ので、取り敢えず今のところは、冴曉に甘える事にした駿蓉であった。  
 そして冴曉は地獄を見る事になる。  
 
 
 「臓物破壊激辛ラーメン一つとキムチ一つとチャーハン二つ、ギョーザ一つ、杏仁豆腐一つに唐揚げ一つ!」  
 中華厨房「赤壁の東南の風(せきへきのとうなんのかぜ)」に来店した駿蓉はこのようなメニューを頼んだ。  
 冴曉の分はチャーハン一つである。つまり、残り全てを駿蓉が一人で喰うのだ。一般的な女性の域ではない。多すぎる。  
 ついでに言うと、冴曉は逆の意味で一般的な男性の域ではない。少なすぎる。  
 愛想よさそうなメイド服を来た三毛猫の獣人が気色満面で注文を繰り返す。  
 「御注文繰り返します〜! 臓物破壊激辛ラーメン一つとキムチ一つ、チャーハンが二つにギョーザが一つで唐揚げが一つ。杏仁豆腐は食後にお持ち致しましょーか?」  
 「普通の料理と一緒に持って来て」  
 「かしこまりました〜では少々お待ち下さいませ〜」  
 そう言って注文表をメイド服のポケットに入れて尻尾を揺らしながら厨房に入った。  
 そしてそれまでと全く違う、真っ赤っ赤な声で、  
 「野郎ども! 激辛ラーメン一にキムチ一、焼き飯二にギョーザ一、唐揚げ一に杏仁豆腐一だ! 杏仁豆腐は食事と一緒に持ってきやがれコノヤロウ!」  
 ウーッス! と威勢の良い声が厨房から聞こえてくる。  
 猫はカウンターのような所から水差しをひったくってコップ二つを取り駿蓉たちの元に戻ってきた。  
 その時の表情はイヤに晴れやかだった。  
 「お水入れますね〜」  
 まぁるい声でそう言いながらコップを駿蓉と冴曉の前に置き、水差しを傾ける。  
 「体質の弱い方で、激辛ラーメンを食べて内臓が破裂した例がありますので、中味をいつでも冷やせるように、コップにお水を満たして待機させて置いてください〜」  
 本気なのか冗談なのか、演出なのか史実なのか、どっちともつかないおっそろしい事を言いながら笑える猫は不気味だ。三毛猫のフリして実はネコマタとか? いやそりゃないか。  
 駿蓉のコップには九分ほど、冴曉のコップには七分ほど水を入れて水差しをテーブルの端に置いて猫は他の客の見回りに行った。  
 「うわあぁぁ」  
 冴曉は御品書に顔を隠したまま、潰れた悲鳴を上げた。  
 「どしたの?」  
 駿蓉はギョーザのタレ用の皿に、ギョーザのタレとラー油を五対五ぐらいの割合で入れた。  
 黒と朱のコラボレーションが皿に広がる。  
 冴曉は、明らかに動揺している震えた声で、  
 「なんでもない……」  
 死にそうに言った。  
 この国は、人間界で最も信頼のある通貨、アメリカドルを使用している。  
 駿蓉が注文した数々の品々の値段を発表すると、激辛ラーメンは六ドル五十セント、キムチは四ドル、チャーハンは二つで十ドル、ギョーザは四ドル、杏仁豆腐は四ドル五十セント、唐揚げは三ドルである。  
 総計、三十二ドル。一ドル百二十円で考えれば、三千八百四十円である。  
 ちなみに、冴曉の財布の中には五十ドル三十四セントしか入っていない。つまり、たかが昼食で一気に十八ドル三十四セントに減る事になってしまうのだ。冴曉も御品書に書いてある値段の総計を計算して、自分の財布がより一層過疎化してしまう事に気付いたのだ。  
 無け無しの五十ドル……。  
 駿蓉は冴曉の財布の寂寞(せきばく)を感じられるだろうか。  
 
 「唐揚げ、お待ちしました〜」  
 先ほどの三毛猫が五個の唐揚げとレタスと塩胡椒が載った皿を二人の中間に突き出してきた。  
 去ろうとする三毛猫を冴曉で手で制止し、  
 「あの……チャーハン、一個キャンセル出来ませんか……?」  
 背に腹は変えられぬ、と財布ではなく自分の腹に我慢してもらう手段を選んだ。  
 「ちょっと待って。冴曉……」  
 駿蓉は早速唐揚げを頬張りながら割り箸で冴曉を指した。  
 冴曉は声も出さずに駿蓉の方に向き直る。  
 「やっぱり財布が――ゴクン、ヤバいんじゃないの?」  
 唐揚げを飲み込みながら冴曉のイタイ所を突いた。  
 冴曉は意地になって無理矢理反論する。  
 「大丈夫だって! お前はゆっくり喰ってりゃいいんだよ! ほら、こんなに一杯クーポンあるし!」  
 財布からクーポンを覗かせる。  
 しかし、そのクーポン券の中で、「赤壁の東南の風」で使える物は、「かに玉半額」だけだった。  
 だがそんな事言えるはずもない。  
 駿蓉はかなり冴曉の財布が心配だったが、「後でフォローすればいいか」と思って「そか」と言いつつ二つ目の唐揚げを口に放り込んだ。  
 獣人の臼歯は、獣の時のそれより発達しているので、何かを噛み潰す事は出来なくもない。旨味がたっぷり詰まった肉汁を堪能する事だって出来る。  
 「あ、やっぱりキャンセルは無しで」冴曉は三毛猫にそれだけを言った。  
 「かしこまりました〜では注文通りにお持ちしますね〜」  
 三毛猫は本当に愛想良くそう言って厨房に行って速効で戻ってきた。  
 「チャーハン二つ、お待ちしました〜」  
 …………。  
 完璧なタイミングで出来あがったほかほかのチャーハンが二人の前に並べられる。  
 駿蓉はともかく、冴曉の方は非常に複雑な心境になっている事請け合いだ。  
 
 その後、冴曉がチャーハンを完食するまでの間に駿蓉は、唐揚げ、チャーハン、ギョーザ、杏仁豆腐の順にぺろりと平らげてしまった。  
 今は左手で顔を扇ぎながら、からーいキムチを口に運んでいる最中である。そんな駿蓉を、冴曉は感心したような顔で眺めていた。  
 「良く太らないなぁ……」  
 いつもこれぐらい喰っているのだとしたら、駿蓉は相当基礎代謝が良いと言う事になる。基礎代謝が良いと言う事は、筋力や肺活量が発達していると言う訳で、それはホルンを吹いているからだと思われる。  
 だが駿蓉の見た目はそうでもない。どちらかと言えば可憐で、風が吹けば倒れるような感じだ。  
 皿に盛られたキムチで汗をかいている駿蓉が風が吹けば倒れるのはちょっと考えにくい。  
 いや、可憐なのは間違いない。すらりと美しい輪郭に、流れ星のような髪や毛、そして何より、豊満な胸……。  
 冴曉は何を考えたのか、横を向いて顔を赤らめてしまった。  
 キムチと徹底抗戦している駿蓉は、破廉恥な冴曉に気付かない。  
 と、皿の底が見えるほどキムチを喰った所で、大ボスがやってきた。そしてそれは、例によって例の如く三毛猫によって運ばれて来た。  
 「おまたせしました! 臓物破壊味覚強奪辛苦地獄激辛殺人ラーメンで〜す」  
 三毛猫のアドリブによってなんだかめちゃくちゃ長い名前になったラーメンが、ドンとテーブルに置かれた。今までと違う存在感。  
 そのラーメンは容器から既に違っていた。普通のラーメン皿よりも明らかに傾斜が緩く、ラーメンの入るスペースが圧倒的に広い。容器の外面や内側に施された紋様は、赤い龍が灼熱の炎を吐いている物で、もうその絵を見ただけでも汗をかきそうだ。  
 だが凄まじい中身を見ればそんな物なんでもない。  
 醤油か豚骨か味噌か塩かが全く判別不可能なほどに色のついたスープはまるで血のように赤く、本来黄色いはずの麺は血のスープに埋まって血管のようになってしまっている。  
 キャベツやもやしなどの野菜の影響は特に著しく、ちょっと箸で持ち上げて見た所、芯の部分までスープが染み込んでいるのか、全く緑色は失われていた。  
 でっかいチャーシューも燃えているかのようで、炎の肉、と言うより、肉のような炎、と形容したほうが適切なように思えた。  
 全体を眺めて見ると、これだけ辛そうなのに唐辛子の粉が大量にかけられていて、少しずつスープに染み込んで行くその姿は、食べる物を挑発しているようだった。  
 生姜を入れれば紅生姜になりそうなほど赤いラーメンに、駿蓉は目を奪われ、冴曉は目を見張った。  
 三毛猫はそんな二人に対して高らかに宣言する。  
 「このラーメンを二十分以内にスープまで飲み干せば、今回の食事代が無料になります!」  
 冴曉と駿蓉は三毛猫に注目した。三毛猫は更に続ける。  
 「このラーメンを食べ切る人があまりにも少ないため、このようなゲームを考えさせていただきました! 題して「赤壁の戦い」! 連環の計や敵軍師の奇術、更には火攻めが襲い来る! この戦いを制するのは舌か麺か!」  
 ハイテンションで叫ぶ三毛猫の事を聞いて、駿蓉は闘争心を掻き立てられた。腹の収容可能量は十分。辛さに対する耐久力には自信があった。  
 だがこういう物にはペナルティがつきものである。駿蓉がラーメンとの開戦を宣言する前に、冴曉が三毛猫に訊いた。  
 「二十分以内に喰えなかったらどうなりますか?」  
 「代金が二倍になります!」  
 「そ、それは会計全部の代金?」  
 「その通りです! ちなみに、一時間以内に食べ切れなかった場合は、更に二倍、つまり元の四倍の代金とさせていただきます!」  
 つまり、六十四ドル、百二十八ドルと増えて行くのである。下手すれば財布の中身では足りない。  
 冴曉が言葉を失って顔面に蒼白なり、  
 「その喧嘩、買った!」  
 駿蓉が宣言した。  
 
 「ちょぉっと待ったぁー! 駿蓉! お前こんなとてつもない奴を喰い切れるのか?!」  
 冴曉はなんとしてもこのゲームの安全性を確保したいようで、必死になって駿蓉を止めようとテーブルから身を乗り出して手を突き出した。  
 駿蓉は意地悪く口を歪めて笑い、  
 「失敗したら私が全額お金を払うって事で文句ないでしょ?」  
 もっともらしい事を言った。  
 「本当にそれでいいのか?!」  
 あわわと震えながら駿蓉に訊く冴曉。  
 「言うまでも無し」  
 平然と返す駿蓉。  
 冴曉はもう泣き出しそうな顔をしながら三毛猫の顔を見て、  
 「じゃぁ……お願いします」  
 駿蓉にすがるような信用を持った。  
 「……はい。じゃ私がこのストップウォッチを押したら開始と言う事で」  
 あまりにも哀れな様子の冴曉を見て三毛猫は一気にテンションを下げてポケットからストップウォッチを取り出した。  
 「よーいスタート」  
 おっきな肉球で器用にスイッチを押した。  
 数字が目まぐるしい速さで増えて行き、もう一秒が経った。  
 「ぅぉぉおおおお……」  
 駿蓉は謎の雄叫び(雌だが)を上げながらスープに箸を突っ込み、麺を絡めとり、口にぶち込んだ。  
 「…………!!」  
 駿蓉の口中に電撃が走った。  
 その辛さはまるで剣のように駿蓉の舌を突き刺し、汗腺を膨張させて、一気に汗を噴き出させる。  
 喰わねばならないと言う義務感が咀嚼を促し、嚥下させる。  
 喉を通るそれは喉に無数の引っ掻き傷をつけて胃に落ちた。  
 胃の中でさえ暴れまわるそれは、体温を一気に一度近く上げて、失神しそうな錯覚に見まわれる。  
 だがこれこそ激辛党(兼激甘党)の駿蓉が求めていた味だった。  
 「冴曉! コップたくさん持ってきてそれぞれに水を注いで!」  
 「え? あ、ああ」  
 駿蓉の真剣な叫びに冴曉は弾かれたように立ち上がり、三毛猫の背中を追いかけた。  
 コップの水を半分まで飲み、麺を口に入れる。  
 マゾヒスト傾向にある彼女は、こんな刺激がとても楽しく、麺を飲み込む前にキャベツも頬張った。  
 冴曉が脇に多くのコップを抱えて戻ってくる――。  
 
 
 時は移って、夜。  
 駿蓉と冴曉は、ネオンサインの眩しい夜の街を歩いていた。  
 「赤壁の東南の風」から出た後、婦人服売り場でつばの長い帽子を買ってもらった駿蓉はそれを目深に被っておしとやかを気取っていた。  
 冴曉の財布には今二十ドル十二セントが入っている。  
 つまり、駿蓉はあの怪物を倒したのだ。  
 「凄かったね、あのラーメン」  
 何かにとりつかれたように箸を高速移動させて椀の中味をどんどんと減らした駿蓉は結果としてチャーシューを最後に残して椀の底を見た。  
 そこには白旗が書かれていた。  
 「辛い物好きだから。……正直最後の方はつらかったけど」  
 「無理しなくて良かったのに……」  
 「冴曉のおごりじゃなかったら無理しなかったかもね……」  
 「このぉ……」  
 冴曉は恥ずかしさを隠すように駿蓉の肩に手を回してぐっと抱き寄せる。  
 しっかりと引き締まった筋肉質な体は、逞しくて(たくましくて)心強い。駿蓉は途端に安心感が心に満ち、少し身長の高い彼に体に押し付けた。  
 駿蓉がイメージしていた男性像とは全然違う。女性のように繊細な心遣いを持ちながらも、男性特有の包容力がある。しかも容姿は美しく、声は深遠。まるで良いとこ取りしたような完璧な獣人だ。  
 この人となら……。  
 「ねぇねぇ。まだもう一つ行きたい所があるんだけど?」  
 耳をピクピク動かしながら、冴曉の胸の中で駿蓉は艶っぽく(つやっぽく)言った。  
 「どこ?」冴曉も優しく訊き返してくる。  
 「こっちこっち」  
 駿蓉は質問の内容には答えず、冴曉の腕から逃れて、たたっと駆けて行った。  
 「あ! ちょ、ちょっと……」  
 冴曉が焦った声を出して、駆け足するのが音で分かった。  
 駿蓉は、目的地への最短ルートである細い裏道に姿を消した。細い路地の先に見える、点のような光を目指す。途中、鉄の塊があったのはジャンプして避けた。  
 「いてっ――」  
 がんがらがっしゃーん、と凄まじい音がして冴曉が痛そうな声が聞こえた。おそらくは冴曉があの鉄に足を引っ掻けたか何かだろう。  
 普通ならば心配して振り返るが、駿蓉はそんな野暮(やぼ)な事はしなかった。鉄の塊が蹴られた、と言う事は冴曉がこの路地に入ったと言う事であり、駿蓉にちゃんとついて来れている、と言う事である。  
 駿蓉はお構いなしに光を目指した。後ろで冴曉が何か叫んだ気がするが、気にしない気にしない。  
 光まで到達した駿蓉は、路地の方に向き直って冴曉の到着を待った。  
 冴曉の肩幅は広い。駿蓉がすんなり通れる路地でも、冴曉にとってはかなり狭いものになる。冴曉はたっぷり一分ぐらいかけて、息切れしながら駿蓉に追いついた。  
 「私が行きたかったのはここ!」  
 つらそうに膝に手を当てて息を切らす冴曉に、駿蓉は目の前の大きなビルを指差した。冴曉は顔を上げる。  
 
 けばけばしい塗装に、キンキラキンの装飾。そして掲げられた看板には「一泊旅館」と書かれたビルがそこにはあった。  
 いかにもや〜らしい事が行われていそうなビルである。  
 冴曉は放心したように上半身を上げて、  
 「これって……まさか?」  
 駿蓉のほうを見やりつつ、そのビルを指差した。  
 「その、まさか!」  
 駿蓉は元気良くいった。  
 冴曉は笑いを抑えられないようで「参ったな……」と言いつつも実に嬉しそうにへらへら笑っている。  
 駿蓉の方も、自分の体を許せる相手を見つけてとても嬉しかったのである。いつか、そんな男が出来たら絶対にここに来ようと、心に決めていたのである。  
 そして今日、それがようやく成就してたまらなく嬉しいのだ。性欲も発散できる事だし。  
 ちなみに、獣から派生した獣人たちは基本的に性欲が旺盛である。そのため、初対面の異性とも心を開いて話せるし、気が合えば、出会ったその日に交わる――なんて事もざらにある。  
 発情期なんかと重なればその傾向は更に顕著になる。何も駿蓉と冴曉が特別淫乱な訳ではない。むしろ奥ゆかしい方である。  
 唐突すぎる誘いに笑う事しかできずに足が動かなくなっている冴曉の手を、駿蓉はぐいと引いた。  
 
 
 「一泊旅館」は、看板に偽り有り、で、旅館ではなくホテルである。  
 普通のホテルならばロビーがあって正面が受付、となっているのだが、土地が狭い、そんな悠長な飾りつけはいらない、などの事情により、入ったら床は真紅の絨毯、左手にトイレ、右手に受付、そして奥には左右に三つずつエレベーターがあり、  
 更にその奥にトイレと非常階段、非常口がある、と言った建物だ。  
 そして、成立後僅か(わずか)一日しか経っていないカップルが、愛の深さを噛み締めようと受付に立っていた。  
 「本館では部屋のグレードの低い順にC、B、A、スイートとなっております。グレードが高ければ高いほど、ベッドや布団は柔らかく、大きくなりますし、Aからはシャワー室が二人一緒に入れる大きさとなっております」  
 落ち着いた声でそう言うのはシャム猫の獣人である。猫は滅多に怒る事が無く、声が基本的に丸いので、雌雄(しゆう)共に受付業務を担う事が多い。  
 冴曉と駿蓉はふむふむとシャム猫の話を聞く。  
 「お値段は、それぞれ一泊のみのコースで、Cから順に五十ドル、百ドル、百五十ドル、二百ドルとなっております」  
 それぞれを日本円に直すと、六千円、一万二千円、一万八千円、二万四千円、である。廉価(れんか)なのは、獣人たちの性欲が強くて、需要(じゅよう)が異常に多いからである。  
 どんな田舎でも、ラブホテル街があるほどである。駿蓉たちが住んでいる首都なんかになると、子供の目の届く範囲にラブホテルがあるほど氾濫している。  
 そして国はそれを規制しようとしない。  
 一般的には廉価なのだが、冴曉にとっては手も足も出ない値段である。冴曉はおずおずと駿蓉の方を見た。  
 駿蓉はそれに視線を返す事も無く、百ドル札を二枚受付に叩きつけた。  
 「スイートで!」  
 堂々と宣言した駿蓉に少し目を開いたシャム猫だったが「かしこまりました」お金を受け取ると、パソコンに何かを打ち込み、更に色々と訊いてきた。  
 「オプションは如何にいたしましょうか」  
 「「オプション?」」  
 駿蓉と冴曉の声で見事な協和音が出来あがって、聞こえないはずのもう一つの和音が聞こえてきた――二つの完全協和音がばっちり嵌まる(はまる)と、本来あるべき三つ目の協和音が僅かに聞こえてくるものなのである。  
 音楽の事を知っている二人はなんだか嬉しくなって、顔を見合わせてにんまりしたが、音楽の事を知らないシャム猫はあくまでも冷静に言う。  
 「オプションの例を上げさせていただきますと、単純なオプションでは、ローション、ソープなどその他。シチュエーションからは、SMプレイで、三角木馬や縄、鞭など。禁断の兄妹愛で、ゴスロリファッションの服。後は学園シチュエーションで制服……それぐらいですね」  
 ローション、ソープ、SMはともかく、それ以下は本当にマニアックな領域である。ヲタクなんかにはたまらないシチュエーションもある。夢のシチュエーションもある。  
 だが二人とも初めての性交である。ノーマルにいくのが一番無難だ。  
 「オプションは無しで」そう言ったのは冴曉である。正しい判断である。  
 「では、最後にこちらの契約書にサインと、アンケートをご記入下さい」  
 シャム猫はそう言って三枚の紙と二つのボールペンを渡してきた。お金を払った駿蓉が契約書に名前や生年月日を記入して行く。冴曉は男性用アンケートに丸をつけていく。  
 駿蓉は契約書にサインその他を書き終えると、女性用アンケートに丸をつけていく事にした。  
 〈付き合いはどれぐらいですか?〉  
 《一ヶ月未満》  
 《半年未満》  
 《二年未満》  
 《それ以上》  
 
 〈彼氏が拉致されました! あなたはその時どうしますか?〉  
 《携帯電話から声を聞く》  
 《何が何でも自分の手で助ける》  
 《諦めてもっといい男を探す》  
 《泣き寝入りする》  
 ……などなど。  
 冴曉の後に駿蓉が書き終えてシャム猫に渡すと、入れ違いにシャム猫は鍵と、半透明の直方体のケースを渡してきた。  
 「こちら、十階の一〇四五室の鍵となっております。そしてこちらは、殺精子剤となっておりまして、膣内に挿入してから十五分ほどで溶けます。  
 シャワーを浴びる頃に挿入するのが良いでしょう。それから五時間は効果があります。効果は絶大ですので、妊娠の心配をするのは杞憂と言うものです。彼氏さんも、遠慮せずに中で出してあげてください」  
 シャム猫は大体こんな内容の事を、ひじょ〜に涼しい顔で言ってのけた。逆にそれが滑稽(こっけい)だった。  
 
 冴曉は鍵を、駿蓉は殺精子剤を手に取り、エレベーターへ向かった。  
 エレベーターを待つ間、冴曉が申し訳なさそうに駿蓉に言う。  
 「ごめん……お金払わせて」  
 駿蓉は晴れ晴れとした笑みを浮かべて、  
 「いいのいいの。あなたが指揮者として売れた時に返すって事にして。金利は零パーセントで」  
 平気で言ってのけた。  
 「いや、本当に申し訳ない……」  
 冴曉は手で耳の後ろを掻きながら言った。このままではそれを引きずってしまうかもしれない。駿蓉ははっきり言ってやった。  
 「とりあえずそれは忘れて、今からの事に集中して……ね?」  
 駿蓉はとりあえず首筋に手を当ててさすった。冴曉は曖昧に笑って駿蓉の髪を手で梳くだけだった。  
 エレベーターが到着した。二人とも手を離してそれに乗り込む。中には狼の獣人がいた。顔の細い、ガラの悪そうな男である。  
 冴曉が十階のボタンを押して閉ボタンを押した。  
 早速駿蓉が話題を淫乱な話に持って行く。  
 「今までに誰かとやった事はあるの?」  
 「いや……無い」  
 「ええ、無いんだ」  
 駿蓉は少し驚きだった。こんな綺麗な男なのだから、誰か女に口説かれる事もあろうに、今まで性交に至った事が無いのは少し腑に落ちない。  
 「俺、堅いから」  
 「へぇ……」今時珍しい。  
 と、冴曉は駿蓉を驚愕させる事を言った。  
 「俺さ、お前以外にいないと思ったんだ」  
 駿蓉はその言葉に思わず口を半開きにしてケースを取り落としかけた。落ちようとするケースをなんとか取った。そのケースを胸に当てて、冴曉の顔を見つめる。  
 
 あからさまに動揺した駿蓉の様子を見て、冴曉は訝しげに駿蓉の顔を見た。  
 駿蓉は驚きで高鳴る胸を押さえながら告白した。  
 「その……私も冴曉しかいないな、と思って……」  
 駿蓉がそう言うと、冴曉もそれは驚いたようで、駿蓉と似たような反応を示した。すなわち、口を半開きにして鍵を取り落とし、床に当たる前に取る、と言った反応だ。  
 「……じゃ、今まで誰とも……?」  
 冴曉の問いに、  
 「うん……」  
 簡潔に答えた。  
 気まずい訳では無いが、どこか静かな雰囲気になる。お互いがお互いに異性不信だったと言う事実は、少なくとも駿蓉にとっては異常に複雑な心境だった。  
 口を開いたのは冴曉だった。  
 「って事は、お互いセックスについては何も経験ないんだね……」  
 「そだね……」  
 お互い何かがおかしくて、照れ笑いする。次に言葉を発したのは駿蓉だった。  
 「でも、冴曉はAVとか見てるんでしょ〜」  
 「まぁね」  
 駿蓉のきわどい問いに、冴曉はしれっと答えた。あんまり普通に答えるもんだから、駿蓉は面食らって次の質問が声にならなくなった。  
 で、冴曉は言う。  
 「これからは必要ないな」  
 駿蓉は途端に嬉しく、なおかつ小恥ずかしくなり、  
 「もぉ、エロ冴曉!」  
 肩を軽く押してやった。  
 それからは前の調子を取り戻して会話が弾み、部屋までわいわい話して過ごした。  
 
 
 部屋は普通のホテルのスイートルームとあまり変わらない大きさで、歯ブラシとシャワーに十分な量のタオル、その他の性的道具が箪笥(たんす)の中に入っていた。が、道具を使う気はさらさら無い。  
 湿度がやや高く、温度は普通。つまり、少し蒸し暑いのだが、無視できる範囲である。おそらく、性交に移ればこの微妙な温度湿度が発汗を促してくれるのだろう。  
 口臭を完全に消すため、清潔にするために、冴曉が歯を磨いている間に駿蓉はシャワーに入り、今は冴曉がシャワー、駿蓉が歯を磨いている。  
 本当は二人でシャワーに入りたかったものの、そこでいきなり性欲が暴走して行く所まで行ってしまっては元も子も無いので、二人でシャワーを浴びるのは、明日の朝シャンと言う事になった。  
 で、駿蓉は冴曉がシャワーに入って十分経ったころに例の錠剤を膣に挿入した。処女膜があったが、それは彼女が勇気と気合いで破った。  
 それから五分が経った今、彼女は歯を磨いている。膣のほうで何か変な違和感があるが、それは錠剤が溶け出した証拠だろう、と気にしない事にした。  
 彼女は歯を磨き終えると、入念に口をゆすいで、ベッドに腰かけ、上着を脱いだ。  
 彼女は、彼を驚かせようと裸で待つ事に決めたのである。  
 立ち上がってワンピースの中に腕を引っ込めて一気に持ち上げる。  
 ワンピースが空中で力無くはためいた。  
 彼女の肉体は顔にたがわず素晴らしいもので、体毛は全体として長く主張が強い。もさもさとした印象だ。  
 彼女の首はすらりとしており、その下に続く乳房は大きさ、形共に申し分無く、丸々としてとても柔らかそうで、乳首はやや遠慮がちな大きさだったがそれが逆に奥ゆかしくて、男性にとっては興奮の的となる。  
 痩せすぎず太りすぎず、そんな理想を貫いたかのような腹は男性を受け入れるのに最高であるとも言える。良く見れば筋肉の形がなぞられるのも、悪くはない。  
 そこから欲望の三角地帯、つまり、股関節の辺りへ続く所の毛は多めで、彼女が禁欲を貫き通してきた事が良く分かる。  
 太股は適度な肉付きで、足全体はすらりと長い。  
 言うなればミス・獣人みたいな体だった。  
 方々に飛んだワンピースと上着をおずおずと拾い上げ、箪笥の中に押し込み、布団の中に潜り込んだ。  
 
 しばらく待っていると、シャワー室の扉が開く音がした。  
 「冴曉ー」  
 駿蓉は長い顔だけを外に出して呼んだ。  
 「なにー?」  
 「そのまま! こっちに来てー」  
 「そのまま」の所を強調してこっちに来るようにいった。冴曉は返事を返さなかったが、床を踏む音が聞こえる。どうやら「そのまま」の格好で来ているようだ。  
 駿蓉はどきどきしながらシャワー室の方の廊下を見やり――萎えた。  
 冴曉は確かにそのままこっちに来た。――タオルで体を隠しながら。  
 冴曉はまだ体を拭き切っていないらしく、顔の毛はおよそ湿っている。それが彼の白銀の体を更に艶やかな物にしているが……この期に及んでアソコを隠すとは何事かっ!  
 いくら童貞だからと言ってこれはいけない。駿蓉は半ば怒ったように冴曉に叫んだ。  
 「ちょっと! 何隠してんの!」  
 「え、だって……っていうかお前まさか、裸?」  
 冴曉は鼻息を荒げながら答えの知れた事を訊いた。駿蓉はもう馬鹿にされた気分になって無茶苦茶言ってやった。  
 「論外! 何のために高いお金払って愛し合おうと思ってるのさ! 自由奔放にやるぐらいの権利はあるはずでしょ! んもぉ〜このヘタレ!」  
 痛恨の一打を放つ。さすがにこれには冴曉もむっとしたらしく、  
 「なんだと!」  
 と言いながらタオルを剥ぎ取った。本来ならば隠されるべき所が顕(あらわ)になる。  
 冴曉の体は快漢(かいかん)のそれだった。腕や胸や腹などはそれぞれの筋肉で鎧のようになっており、胸板などはしっかりとしていて実に雄々しい。  
 そんな彼の一物はもう既に勃起していた。  
 彼の陰茎は標準的な獣人のサイズだった。だが、それは人間と比べると十分すぎるほど大きく、腹筋の一段目の真ん中辺りまでは伸びており、見た限りの太さは、冴曉の二の腕ほどはあった。  
 駿蓉は男性性器を初めて見る。だからどれぐらいが標準的な男根なのか知らないのだが、  
 「……すごい」思わず嘆息した。  
 「お前もシーツなんかに隠れてないで出てこいよ!」  
 ヘタレ冴曉はムキになって尻尾を振り回し、そんな趣(おもむき)の無い事を言った。駿蓉にヘタレと呼ばれたのが相当悔しかったのだろう。それとも、単純に彼女の裸体を早く拝みたいのだろうか。  
 性格はともかく、肉体は実に漢らしい冴曉に惚れ惚れし、艶容な声で笑ってシーツを払ってベッドの横に降りる。  
 「…………」  
 彼女の神々しいまでの裸体を見た冴曉は一気に怒りが失せたようで、尻尾をゆらゆらさせながら歩んでくる駿蓉の陰部に視線を集中させる。彼の陰茎の、血流による規則的な動きはより大きくなった。  
 「……エッチ」  
 冴曉の視線を股間に感じていた彼女はわざとらしくそう言って冴曉の体を抱いた。彼の陰茎が腹に密着して、乳首が硬く立ち上がるのが分かった。  
 
 冴曉は何も反論せずに駿蓉をベッドまで押して行き、優しく押し倒した。  
 横にずれて二人とも枕元まで移動する。  
 後はきわどい言葉を囁いて愛撫し、お互い性感が高まって来た所で挿入し爆ぜる(はぜる)……と言うのが一般的なセックスの手順だが、哀しいかな、この二人は無知が故に少しの会話をして、  
 「……挿入れるよ?」  
 「うん……」  
 有りえないほど早い段階で挿入れようとした。が、お互い何かが違う事に気が付く。  
 「何か違うよね?」  
 「うん……物足りないって言うか……」当然である。  
 周りの人々はあれほど性交が好きなのに、自分たちがやるとあんまり欲が満ちないとはどういう事だろうか。二人は寝たまま見つめ合って「正しいセックス」を考える事にした。  
 「あいぶ……って言葉があったよな」  
 「あったような……無かったような」  
 「乳房を吸うだのなんだのの事だったと思う」  
 「育児の話と間違えたんじゃないの?」  
 「でも、挿入れる前に大抵は愛撫する、いきなり挿入れてもあんまり心地よくない、って誰かが言ってだぞ」  
 「……そう?」  
 「駄目元で、乳、揉んでみようか?」  
 「……うん。そうして」駿蓉は正直好奇心のためだけに答えた。  
 
 冴曉はぎこちない仕草で手を駿蓉の乳房に持っていって、それを鷲掴みにして揉んでみた。  
 「――んんっ?!」  
 想像もしなかったような、意外な快感が急激に流れてくるのが感じられた。それはあまり強くは無い物だったが、何故だか冴曉に揉まれていると思うとますます嬉しくなってくる。  
 冴曉の方もこれで性的な興奮が得られたのか、息を荒げた。下になっている左手の方も乳房に持って行って、更に強く愛撫する。  
 「あぁ……気持ち良い……」  
 形容しがたい新鮮な感覚に駿蓉は思いつく言葉を口の中で呟いた。  
 冴曉の方はと言うと、彼女が気持ち良いと言った瞬間、ハァッと息を吐き出して、乳首に噛み付いた。  
 「う?!」  
 駿蓉はびっくりしたのだが、噛んでいるとは言えそれが甘噛みである事に気付くと、冴曉の舌の動きが性的快感を生んでいる事に気が付いて思わず声を上げた。  
 膣が湿ったような感覚も持った。  
 冴曉は、先ほど言った通り乳房を吸った。  
 「くぅぅ……」  
 冴曉の行動が段々大胆になっていくにつれて、駿蓉は快感は強くなっていく。挿入の喜びを知らない彼女は、これでも相当な快楽だった。  
 冴曉の口が乳房を離れて、腹の方へ移っていき、へそを経て陰部へと移って行く。その行程の中でも、性感が得られる事に、彼女は気付いた。  
 「う、うぅ……」  
 冴曉はとりあえず口を体から離して、手の方を膣の方へと向けた。少し冷たさを持った肉球で、膣を押してみる。  
 「あぁ……?!」  
 乳房や腹の時を遥かに上回る快感が得られて、彼女に驚きと喜びがいっしょくたに襲ってきて、彼女は声を荒げた。膣液は更に多く分泌される。  
 冴曉は手攻めを止めて、駿蓉の足の下から顔を通し、膣口を舐め上げた。  
 「ぅあっ……」  
 陰部を舐められると言う恥ずかしさと、否応無しに迫る快感が絶妙にマッチして彼女は不思議な感覚に溺れた。  
 しかしまだ早い。いくら初めてとはいえ、性急である。  
 冴曉の舌が膣の中に押し込まれた。  
 「ぁぅう……くは……」  
 今までで最もダイレクトな愛撫である。彼女は声を上げる事も出来ずに、息を荒げて襲い来る快感に苦しんでいた。冴曉の鼻先が膣液で濡れて行く。  
 が、冴曉はすぐに舌を引き抜いた。  
 
 「っあぁ……」  
 駿蓉が息を吐く。  
 冴曉は膝立ちになった。駿蓉の腹に、「男」となった冴曉の影が覆い被さる。  
 「?」  
 快感で状況把握が上手く出来なくなっている駿蓉はどうして冴曉立ったのか分からなかった。もっぱら陰茎に注目する。  
 駿蓉の貪欲な体が、冴曉の目に鈍く移った。  
 「もう……我慢できない」  
 駿蓉はここに来て、ようやく冴曉が荒荒しく愛そうとしている事に気が付いて、来るべき快感と知らない物の不安に、複雑な表情をした。  
 冴曉は駿蓉の肩の隣辺りに手を突き下ろすと、陰茎を、その美しい獣人の股間目掛けて突き刺した。狙いは正確だった。  
 彼の大きすぎる物は、彼女の膣口を押し広げて、そこを埋め尽くして奥へ挿入っていった。  
 「うあぁ……!」  
 「うぅっ……」  
 冴曉は初めて異性の体に侵入し、駿蓉は初めて異性の体を呑み込んだ。  
 もうそこからは教えられてなくても、考えなくても、本能が突き動かす。冴曉は駿蓉の体にのしかかって野性味を帯びた動作で彼女を激しく突きたてた。  
 女としての喜びが怒涛(どとう)となって押し寄せ始めた駿蓉は、痛みを帯びた快感に喘ぎ、彼女の方も下から彼を突き上げた。汗と膣液が噴き出すのが分かる。  
 彼女の腹は、冴曉の物が突き出ているかのように堆くなっていた。  
 体を密着し合って激しく動き回り、ベッドの軋む音が何故だか淫らに聞こえる。股間辺りのシーツが色々な物で濡れているのが分かったが、そんな事を気にかけている暇は無かった。  
 駿蓉はシーツを握っていた腕を、冴曉の背中に巻き付けてあらん限りの力を込めて締め付けた。冴曉の体をもっと受け入れて、喜びを広げたかった。  
 冴曉もそれは同じようで、手を駿蓉の首の後ろに回して、ぎゅっと締め付けてきた。  
 「あっ、あぁ、あぁぁ……」  
 最初の爆発の後も徐々に大きさを増しながら波状攻撃をしかけてくる強すぎる快感は、辛く苦しい物だが、喜びと心地よさの方が圧倒的に勝っていた。二人が纏う(まとう)空気が熱気を帯びて行く。  
 駿蓉がたまらず冴曉の首を愛咬すると、冴曉も駿蓉の首を愛咬してきた。冴曉は強く噛みすぎて、牙が駿蓉の首に少し食い込んだ。血がにじみ出てくる。  
 「いたぁいぃぃ……」  
 彼女は無自覚的なマゾヒストだったので、その鋭い痛みさえも快感になってくる。この男の人に体を委ねて、果てて行く体を想像して、その悲哀が快感になっていく。膣と首の痛みに彼女は涙と涎を撒いた。  
 
 「……うぅっ?!」  
 冴曉が何かに驚くような声を上げた。何か灼熱する物が陰茎から流れだそうとしているのを感じたのだろう。彼は性交の最期を直感して尾を直立させてより激しく駿蓉を突いた。  
 「うっ……? あっ、あぁぁあああぁ!」  
 駿蓉は冴曉の陰茎に異変が起こった事を感じ取った。  
 膣を埋める彼の男根が一回り膨張したかと思うと、その男根から、熱せられて赫赫(かっかく)と光る鉄かと思われるほど熱い、粘性の高い液体が雨のように流れ出てきた。膣はその量に悲鳴を上げてそれを吐き出し、彼女の太股やシーツを汚した。  
 そしてそれは一度ではなく、少しずつ威力を弱めながら幾度と無く繰り返された。いくら威力が落ちたとは言え、疲労や快感に嬲られ続けた彼女には強すぎる。彼女は全身の筋肉を痙攣させながら、ひたすらその快感を受けていた。  
 地獄のような天国の時が過ぎ、はっきりとし始めた意識の中、恍惚とした快楽が視界と心を覆っていた。  
 「……はぁ、はぁ……」  
 冴曉は、息切れしながら駿蓉に体を委ねていた。役目を終えた彼の陰茎は、小さくなって既に膣から逸脱していた。  
 彼女もまた、苦しい快楽と、痛い快感に涙を流し、息を荒げている。だが、辛苦を伴った快楽は今や消え失せ、心を埋め尽くしていたのは、冴曉からもらった愛の甘美さと、自分の愛を冴曉に与えた満足感だった。  
 決して快調とは言えない呼吸の中、駿蓉は冴曉の耳を食んだ。前戯がある事は知っていても、後戯があると言う事は知らなかった。だが、愛を一心に受け止め、預けたら、その喜びを表現したかった。  
 「……駿蓉、ありがとう」  
 駿蓉が耳を食むのを止めると、冴曉が駿蓉に面と向かって礼を言い、彼女の頬に自分の頬を擦り付けた。駿蓉は愛しいその首に手を当てた。  
 「冴曉もありがと……。また、やろうね……」  
 駿蓉は後僅かしか残っていない体力を振り絞って冴曉を抱きしめた。  
 「……あぁ……」  
 二人は果てて行く体力の中、眠りの世界に堕ちて行き、果たして一夜を共に過ごすのだった。  
 

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