歩き始めた地面の遙か下には、緩やかでいながら激しい渓流と、美しすぎる程の緑が広く身体を伸ばしていた。。  
 私は素足のままにそれを感じながら、柔らかな苔を踏みしめる。ふわりとしたものの下にごつごつした岩の感触を確かめて、そこで初めて私は跳躍。  
 空間を歩くような感覚と共に、時を重ねるごとに伸びていく耳を風が通り抜ける。同時に、穴を通した耳装飾が涼しく、耳障りな音を立てて浮き上がった。  
 軽い衝撃が足に掛かり、更迭の如き鈎爪が岩をしっかりと掴む。猛く流れる河に落ちないように、その身を膂力のままに前へと引き寄せる。  
 重力のままに落ちてしまえば、登って来なければいけないという至極面倒くさい状況に陥ってしまう。それだけは避けなければならないだろう。  
 何とか体制を立て直し、渡った先にも鬱蒼と生い茂った森へと視線を向ける。夏の照りつけるような光が、先日まで降っていたはずの雨を蒸発させながら、蒸し暑さだけをそこに創り出していた。  
 気配は、そのずっと奥にあった。  
 私は赤みを帯びた肌をくねらせて森の中へと入っていく。足と同じく鈎爪のついた手で木々を掻き分け、全く人の手の入っていない鬱蒼とした世界へと足を踏み入れた。  
 足下を書けていく虫たちを出来る限り踏み殺さないようにしながら、短い道程の上を足音を消し去ってから駆ける。  
 幾度か獣道を横切り、臭いの元へと辿りつく。  
 太い木陰に隠れながら、次第に濃い影を見ることが出来たその姿に私は目を細めた。  
 私よりもずっと白い肌をした数匹の人間が、恐れるような仕草をしながら筒のようなものを構え、歩いていた。  
 四匹。  
 前と後ろを守りながら、私のような彼等を狙う者から身を守ろうとしているのだろう。  
 くだらないと、そう思った。  
 所詮人間は非力な存在なのだ。自らの力のみで獲物を手に入れることも出来ない。何かの道具を創り出し、あるいは他の生物を駆使し。それでようやく私達のような高尚な存在、竜と対等に戦えるまでに至る。  
 だが、それすら一つの騎士団が必要となるようなものだ。これだけの人数でそれが可能になる程、私達の皮膚は――鱗は柔らかくない。  
 だが、警戒を怠ってはいけない。油断は自らの死を招くと、彼にきつく教えて貰ったのだから。  
 私達は気配を消すと言うことが出来ない。彼等のように臆病になると言うことはない。  
 何故なら、私達の住処となっているこの森の周辺には、私達の敵となるような存在などいないのだから。  
 
 鈎爪を木に引っかけ、足音を殺したままに登る。木々を揺らして音を出してしまわないように、細心の注意を払いながら体重移動。彼等の丁度真上へと身体を下ろす。  
 長年培ってきた感触と、感覚のままに私は音を出さぬように飛び降りる。僅かに枝が軋むが、微風が撫でたようにしか感じられないだろう。  
 そして完全に無音のまま、私は獣道へと着地する。  
 急に現れた存在に、一瞬四人の中央を歩いていた者が私に気付く。だが、声を上げる刹那私の爪が彼の喉笛を引き裂いていた。  
 更にそれを理解する間すら与えず、私は距離を詰める。目を見開いた男の顔が私の目に映り、瞬間その手に握られていた筒を蹴り上げた。  
 急速な運動に筋肉が軋むが、そのまま私は男の足を蹴りつける。  
 足の骨が折れる感触。激痛に歪む顔。  
 だが補食する側の私に、獲物の叫ぶ言葉は何の感情を抱こうか。そのまま崩れ去る身体に追い打ちをかけ、顎への掌底を放つ。  
仰け反り、涙を浮かべたままに悶絶する男を無視。低い姿勢を保ったままに残った二人の内、一人の背後へと回る。  
そして、喉に黒く鈍く光る爪を突き立てた。  
「動かないで」  
 声帯を使って大気を震わせる。そこで初めて彼等は私の存在に気付き、自らの置かれている状況を知った。  
 喉から血を吹き出す者。声を出せないままに気絶し、失禁している者。仲間の惨状に、ただ絶句するだけであった。  
 私の懐にたぐり寄せた男の喉の張力限界の所に、私は爪を突き立てていた。それを知った男の身体は震え、手に持っていた筒を取り落とす。重量を感じさせる音を立てて、それは土の上へと叩きつけられた。  
「あなた達は、どうして此処へ来たの?」  
 もう一人が私に筒を向けては来たが、その仲間を盾にして立っている以上中の火薬を使って鉛玉を撃ち出すような真似は出来ないだろう。  
 完全に、彼等にとって手詰まりであった。  
「竜の…討伐に……」  
 手の中で震える男が、同じように震える声で呟いた。汗が顔に浮かび、男の髭の中に紛れていく。  
 煙草の嫌な臭いが嗅覚を刺激し、嫌な気分になる。  
「誰の命令で?」  
「…………」  
「誰に命じられたの?」  
 私の声が、怒張する。それに怯えたかのように男は口を開く。  
 暫く空気だけが飛び出した後に、声帯がようやく機能を取り戻した。  
 
「…お、王に…っ」  
 私は目を細めた。哀れむように。  
「そう」  
 そのまま爪を喉に突き立て、引き裂いた。  
 男の顔に涙が、焦りが、悲哀が、恐怖が、絶望が映り、そして意志の光と共に消えていく。  
 しかし、私の興味は既にそんなところにはなく、最後に残った男へと向き直った。  
「さて。最後に残ったあなたに訊きたいことがあるの」  
 彼の持った筒の先端は、先程の男のように震えながら延長線で私の胸を捕らえていた。  
 瞬間、男の瞳孔が見開かれて、同時に軽い爆音が森の中へと広がっていく。周辺の鳥や獣が驚いて逃げる音が続き、そして再び静寂が訪れる。  
 硝煙の臭いが私の鼻を突く。  
 その向こうで立っていた男の顔には、確かな恐怖が浮かび続けていた。  
「王は――何か他に言ってはいなかった?」  
 口を開き、閉じ。何かを口にしようとしながら、先程の男と同じように言葉を発することが出来ないようだ。  
 ならば待とう。いつまでも待とう。それこそ、悠久の時を。  
 暫く時が過ぎて、ようやく掠れた声が届く。  
「……しか……、全…………」  
「何?」  
 一度息を呑んで、もう一度吐き出される。  
「…それしか……、国全土に出た冒険者を集うお触れ…ったから」  
 男は怯えたままに言葉を口にして、私を見据えていた。  
 正確には、私の握られた手を。  
 私は「そう」という簡潔すぎる返答だけをして、男によく見えるように胸元までそれを持っていき、緩めた。  
 零れ落ちたのは小さな鉛の固まり。鈍色に輝くそれが大した重みも見せないままに転がって、止まった。  
「王は私達との契約を守るつもりなど無いらしいわね」  
 軽く俯いて、私は男を見据えた。それにすら小さな押し殺された叫びをあげ、それは一歩後ずさる。  
 それに対して何お勘定も抱かなくなっている自分に気がついて、苦笑する。何に笑っているのかさえ知らない男は、ただそれにすら恐怖するだけだった。  
「ねえ、取引をしない?」  
 私は自分でも思っても見なかった言葉を口にしていた。言った自分が驚き、そして言われた眼前の獲物も訳が分からないといった感情を表面に出していた。  
 自分でも分からないうちに、私の口は語る。まるで脊髄反射のように、何一つ考えないままに私の口が言葉を紡ぐのだ。  
「あなた一人だけ逃がしてあげる。後の三人には私達の食事になって貰うけれど、あなたには逃げる機会を与えてあげるわ。  
代わりに、あなたは国へ戻って伝えなさい。竜は盟約を破ったお前達を許さない、と」  
男はずいと近づいた私の目を凝視して震えた。震えたまま、しかし視線を逸らさずに大きく何度も首肯した。  
何度も何度も。狂った機械仕掛けの玩具のように。  
それが、竜と人間の差だ。  
竜なら恐怖になど屈さず、最後まで自らの意志を貫くだろう。  
私ならきっとそうしている。  
そう思いながら、私はもと来た方向へと後ずさりしていく生き残った男を見据えた。  
その口が小さく何かを呟いているのに気がついた。  
「本当……たのか。……と同じ…………が」  
 掠れて聞こえはしなかったが、その内容には心当たりがあった。  
 しかし、それに反応することなく私は警戒しながら去っていく姿を見つめた。  
 見えなくなるまで、眺め続けていた  
 
 束ねられた「肉」の塊を巣の入り口へと運びきり、私はそこでようやく息をついた。  
 私達の住処は温かい。樹海を越えて、活火山の半ばにある。翼がない私には不便としか言いようがないが、しかしこうして眺める景色は遠く、遙の王国まで見渡すことが出来る。それは、とても素晴らしいことであった。  
 緑から、大地を境界線にして青、白へと変わっていく彩色。遠くで動く動物たちの姿。それらが見えるのは私達の日常であり、彼等にとっても私達の住処が見えるのは日常のことなのだろう。  
 互いに互いを、干渉せずに監視できる。そんな位置に私達は住んでいる。  
 それも、王と我が主が交わした契約の一つなのだという。  
 思い出しながら、横に掘られた窟へといつものように足を踏み入れた。  
 外の、ねとつくような夏の外気以上に暑く、熱く、そして心地よい空気が私の回りにまとわりついてくる。それを掻き分けながら、肉を担いで奥へと幾つかの分岐を曲がる。  
 人間なら、此程の暑さの中など攻め込んでは来れはしまい。更に此処まではかなり険しい山道を登ることになる。ここは、外敵から身を守るため要塞でもあるのだ。  
 攻め込んで来るような輩などそうそういないけれど、と内心の言葉に付け加えておく。それ程に、ここまで来るには人間や獣のような存在には厳しすぎるのだ。  
 そう思考遊びをしている間に、次第に開けた空間が見えてくる。  
 見えてきたのは我が主の姿。そして、他の眷属の巣へと通じる穴の群。  
 片目を閉じ、眠そうな表情で歩き来た私の姿を視認した赤き竜――人の世界では炎竜と呼ばれる――が、肉の臭いにつられて起きあがる。その巨体が私を見下ろし、そして紅い口腔から言葉を紡ぐ。  
「時間が掛かったな」  
 その表情は凍ってしまったかのように変わらず、私を覗き込む。  
 時間が掛かった理由を知っているからこそ、彼はそのような表情を浮かべているのだが。  
「察しの通りですよ」  
 彼が仰々しすぎる言い回しを嫌うために、適当な敬語が口をつく。  
 同時に、開いた両目を細めながら彼は私を覗き込んだ。  
「まだ、未練を持っているのか?」  
 その言葉の意味するところに、私は何ら感情を抱かなかった。見透かされていることは知っているし、もう、その程度で動揺するような歳でもなくなってしまった。  
「ええ。確かに、まだ誰かが――あの人が私を助けに来てくれる騎士を送ってくれると、そう信じていたわ」  
 けれども、今回のことで分かってしまった。  
 分かってしまったからこそ、言葉にしづらいのだ。  
「父は初めから私という存在を嫌っていたわ。たかが第三王女で、特に容姿に優れていたわけでもなく、貴方との契約が顕現した私を。  
だから貴方が私を連れ去った時から、一度として私を助けに来ようとする者などいなかった。容姿に優れていない、しかも呪いを受けた王女なんて誰が助けに来るかしら」  
独白めいた言葉は窟の奥へと落ち、竜の耳へと拾い上げられる。  
 
 そう言って私は、彼の傍らの岩へと腰掛けた。寄りかかり、ぬくもりのままに身体を委ねる。  
「それくらい知っていたよ」  
 竜は言う。  
「初めの契約をした時にも分かっていたことだ。  
あの一族は、国を作り上げる時に私の力の断片を与える代わりに、数台先の王女を貰うという契約をしたというのは教えただろう。その娘を竜とし、我が嫁にすると。  
それは女を我が眷属にするという事以外に、それを助けに来る人間を我が餌にするという了解がそこに生じていたのだ。  
しかし、人は汚い。我や、人以外と結んだ契約や誓約を平気で破る。助けに来ようとする者たちを意図的に止め、我への餌の献上をさせなかった。その契約内容を、一族以外に知らせると言うことはさせてはいけないという前提で我が力を貸し与えたというのに」  
何度も聞いた話だ。  
彼は私が落ち込んでいる時に、そんな話をして更に落ち込ませる。  
私が王女だった時代の、汚れきった自分と世界を思い出してしまうからだ。  
それを知っているからこそ、主は嫌がらせをする。向こうはそれを見ておもしろがっているのだろうが、こちらとしては良い迷惑だ。  
主従関係上、文句を言うことも憚らねばならないだろう。  
本当のところ、その程度の精神的外傷を乗り越えねば彼の本当の嫁にはなれないと、そう言いたいのかも知れない。言葉よりも行動で示したがるのは、人間も竜も男として考えることはきっと同じなのだろう。  
「そうね。確かに人は汚い。  
けれども、それは人に依ると思うの。もちろん、それは私の中に残るただの人間であった時からの心残りなのかも知れない。今でも誰かが私を助けに来てくれるかも知れない、と思う心の現れなのかも知れない。」  
小さく、私は俯く。  
「少なくとも、此処に来ようとした人間達にそんな希望は持てなかった。だから、私は覚悟を決めたわ」  
 そして前を向く。主人を見据え、私は言葉を吐いた。  
「あの人の破った約束を、必ず果たすようにし向けてきた。契約を破り、私から人という存在から希望を奪った父の為に。  
私は、先に来た餌の一人を逃がした。「盟約を破ったお前たちを許さない」と伝えるように言って。それは当然国内に、いずれは王に伝わるでしょう。  
表面上、私達は不可侵の契約を破ってはいないが、後ろめたい事があるあの人は、必ず恐れて此処へと人を送り来るはず。それが、本当の狙いだと言うことも知らずに」  
私は笑った。嗤わずに、ただ笑みを浮かべた。  
それは復讐の笑みであるかも知れないし、ただ自分の策に酔っていただけかも知れない。  
ただ、今の私は既に人と竜の境にあり、既に人の世では暮らせなくなった。  
そして人という存在を信じることの出来なくなった私を、誰が人と認めるだろうか。  
最低でも、人間は認めないだろう。自らと人との間違い探しに没頭し、自らと異なる存在を排そうとする人間には、決して認めることは出来ないだろう。  
 
もうそれでも良いと、そう思える自分がいることにようやく気がついた。  
私はもう見捨てられたのだと、気付くまで何年とかかった。  
その間に私の身体はより人を離れ、表皮は硬くなり、肌は彼と同じ赤黒に。爪は黒金の如く鈍く光り、瞳は獲物を見据える黄金色となった。胃は肉しか受け付けなくなり、寿命など人間などとうに超えた。  
既に人ではなくなった私を、誰が助けに来るというのだろう。そして――あまりにも確率は低いが――もし助けに来たとしても、私はもう人には戻ることは出来ないだろう。  
思いながら、私は横たえられた肉に触れる。  
かつて私もそうだった柔肌を引き裂いて、獲物を口にする。  
人であることに固執していない、という演技をする自分に嫌気が差す。  
未だに人の肉を見れば吐き気がするし、まともに食べることも出来ない。  
ただ、人の世界でのように自分の存在を否定されることが怖くて。私を唯一愛してくれる存在を裏切りたくなくて、平気な振りをしているだけだ。  
二度と、存在を否定されたくない。その一心からなら、私はかつての同胞さえ喰らおう。それが私の覚悟であり、自己防衛心の塊なのだから。  
寄りかかる主の身体が温かい。その温もりに身を任せると、その紅い表皮に包まれた口腔が開いていることに気がついた。  
何かを言おうとして、しかし言葉にならないかのようにただ口を開いた竜が、私の頭上で見下ろしていた。  
「どうしたの?」  
 問うと、彼ははぐらかせる。  
「いや、そんなに呆けていると馬鹿になるぞ、と言いたかったのだが」  
 見上げて、私は苦笑した。  
 彼の気遣いに。恐らく私の根元意識を理解しながら、それを無にしたくはないと言う、竜としてはあまりにも優しすぎる彼の心に私は笑った。  
 竜には竜の。人には人の優しさがあり、残酷さがある。  
 彼は私にそれを教え、そして私にそれを教えられた。  
 人間が支配しつつある世界でそれを教え、そして先を見据えた。  
 人の生命は、それを理解するにはあまりにも短すぎる。自らと他者との間違い探しに怯え、違うものを徹底的に排除する。  
 それは野生の獣と同じではないか、とそう思う。  
 あまりにも長すぎる時間の中で、私は肉を下ろして彼のごつごつとした表皮に身を任せた。  
 私自身も、主のように何かを悟るにはまだ若すぎる。  
 そして、私を救った者を愛するのにも。  
 未熟な生命の中で、獣(けだもの)は喚き、竜は歌い続けるだろう。  
 いつか、互いが互いに妥協し、見つめ合うことが出来るその時まで。  
 その時がいつか来ることを信じて、私は目を閉じた。  
 愛しき背の者に、優しく抱かれながら。  
 
 
 それから数百年後のことだ。  
 ヒトは機械文明を迎える。  
 中世までの穏やかさとはうってかわり、急激な発展をヒトは遂げることになる。  
 黒い空気が中を埋め尽くし、ヒトの中により過酷な奴隷が現れ、  
 かつてそこにあったという王国も、その波に飲み込まれて費えてしまった。  
 そして人々は遂に竜の巣穴に辿りついたという。  
 新たに作り出された文明は、ヒトの踏んだことの無かった場所へと踏み入れたのだった。  
 しかしそこにいると云われていた竜と、かつてさらわれたという王女の姿はそのどこにもなく、  
 ただ、紅い幾つかの鳥のような何かが飛んでいったという言い伝えが、辺境の町に残っていたと言う話だ。  
 
 

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