「ん……」 
 
私は自室のベッドの上で、朝日を浴びて目を覚ます。 
だが、窓から差し込む朝日すら、私には鬱陶しいものだ。 
その朝日を遮るために、窓の外に木を植えた。 
けれどそんなモノじゃ、朝日を完全に遮る事は出来なかった。 
しかもそれだけでなく、その木に小鳥が居座り、チッチと囀る。 
私のやる事なす事、上手く行かない。 
ムシャクシャした私は、窓に向かって枕を投げた。 
加減して投げたので、窓は割れたりしなかったが、ガシャンと大きな音が響き、小鳥たちは一斉に飛び立った。 
その小鳥たちを見て、“いい気味”だと嘲笑ってやった。 
そう。私は誰からも恐れられてるの。 
私だって同年代の女の子たちとお喋りしたい。 
素敵な恋人を作って、愛を語らってみたい。 
でも私には無理。アイツがいる限り。お父様がいる限り。 
バカみたいに高級なだけのドレスなんて、もういらない。 
誰かから騙し取った宝石なんて、見てるだけで吐き気がする。 
 
「……そう思っててなんにもできない私が、世界で一番大嫌い」 
 
分かってるくせに。誰も助けてくれなければ、私を見てもくれないって。 
私のお父様は、悪政で名高い小悪党の領主。 
領地の住人から全てを奪い取り、それで足りなくなれば、誰かを騙してまた搾取する。 
悪知恵しか能のない、器の小さな、私が心の底から軽蔑してる相手。 
そして私はその娘。 
お父様を怖がって、誰も近寄ってくれない。 
私はこんなに苦しんでるのに、誰も助けてくれない。 
私は弱くて、自分で状況を打破するなんてできないの。 
誰でもいいから助けて。 
私はここにいるから。 
 
「……自分じゃ何もできない私なんて、死んじゃえばいいのに」 
 
毎朝繰り返すその言葉。 
私は化粧台の前に立って寝癖の付いた髪型をトトの寝ながら、鏡に映る自分の顔を見詰めた。 
虎人のくせに、俯き加減にヨレヨレと垂れてる耳、特別ブスでもなければ、美人でもない顔。 
お父様に全てを奪われて、無一文で路上に投げ出されたカワイソウな人たちと同じ、全てを諦めたような、生気の無い瞳。 
私は死虎も同然だ。 
生きていても、願いを諦めて、自分を嫌って、楽しそうに笑ってる同年代の女の子達を、嫉妬する事しかできない。 
私は自分の顔を見ているのが嫌になり、視線を鏡に映った首筋へとずらした。 
首筋にはいくつかの躊躇い傷が残っている。 
ナイフを突き立てて押し込もうにも、痛みに耐えられずに途中でやめた。 
私は自分の命を絶つ勇気も無い。 
全くと言って良いほどに救いのない人間だ。 
 
「自虐的な事を考えて、悲劇のヒロイン気取りでいる事しかできないのね。 
私なんて……ッ――!」 
 
コンコン。 
部屋がノックされる。 
私は少しビックリするが、出来る限り優しい声で返事をしようとする。 
 
「いいわ。入りなさい」 
 
だが、口から出るのは虚勢ばかりの高圧的な声。 
こうでもしないと私は生きて行けないの。 
強い振りをしてないと、自分が自分じゃなくなっちゃうの。 
私が言った後に、ぎぃーとドアが開いた。 
入ってきたのは、まだ若いカモシカの青年。名は確か、ネロだったと思う。 
我が家の使用人の一人で、莫大な借金を返すために、一生ここでタダ働きさせられる運命の、カワイソウな青年。 
もちろん借金の相手は、私のお父様。 
 
「どうしたの?」 
「ヘレン様、旦那様がお呼びに御座います。 
今朝一番で、お見せしたいモノがあるそうで」 
「着替えたら行くわ。少し待っててと、お父様に伝えておいて」 
「かしこまりました」 
 
ネロが部屋から出て行ったのを確認してから、私はブラシを使って髪を梳かす。 
私は寝相の悪い方で、起きたときはいつも寝癖が付いている。 
唯一の自慢であるサラサラの栗色の髪は、丁寧に扱わないといけない。 
髪を梳かし終わった私は、次にパジャマを脱ぐ。 
クローゼットを開けると、沢山のドレスがところ狭しと並んでいた。 
私はその中から、最も地味なドレスを選んで、それを着た。 
黒地に白のレースが所々あしらってある。 
さながら、協会のシスターの着る修道服を改造したような印象だ。 
だが、質素さを美徳とする彼女等のそれと違い、このドレスは最高級の生地だ。 
バカみたいに高い事だけが、お父様にとっての“良い品物”の基準だった。 
家のところどころに並ぶ、壷や絵画と言い、高ければいいだけの、統一性の無い収集は、私の目には下品と映る。 
 
「早くお父様が、地獄に落ちないかしら」 
 
私はいつもいつも思ってる事を、口にした。 
あの男の事だ。死ねば確実に地獄へ落ちるのだろう。 
 
「……なんでまた来るんだろ」 
 
部屋を出る前に窓辺を見ると、追い払った小鳥たちがまた戻ってきていた。 
私はまた追い払いたい衝動に駆られたが、それを抑えてドアを開け、部屋から出て閉めた。 
バタンという音が廊下に響く。 
 
またバカみたいで下らない1日が始まろうとしてた。 
自分の無力さと、意気地のなさと、そして我が身の不幸を呪うだけの、それだけの1日。 
このとき私は、一生それが続くと思っていた。 
 
だが、私の前に舞い下りた一人の男性が、それは違うと教えてくれた。 
そのために払った代価は、今思い返せばとてつもなく大きかった筈だ。 
しかし私は馬鹿だった。 
このときの私はその代価に気付かずに、彼を求めた。 
その後に、何が起こるかも知らずに。 
 
 
 
 
× × × 
 
 
 
 
 
大理石で作られた広間の中、初老の虎人の男性と、ブロンド髪の猫人の少女と、ヒトの青年がいた。 
その部屋には豪華な装飾品が並べれ、持ち主である虎人の男性が、金持ちであるという事を表している。 
しかし、その並べ方には一貫性が無く、如何にも『ただ並べただけ』という感じがして、どこか下品だった。 
そんな中、ヒトの青年はただ居心地が悪そうに、ソワソワしている。 
環境が変わるのだから、当然と言えば当然の反応だった。 
しかし、それよりも気になるのは、猫人の少女が、虎の男性と対等の立場で話している事だ。 
それは、長い年月を生きたもの特有の、世慣れした話術と観察眼を持って、話を進めていた。 
いや、厳密には今の話はほんの仕上げでしかない。 
もうすでに話しは随分と進んでいた。 
 
「ではリードさん、こちらが約束していたヒト奴隷ですわ。 
タチヤという名ですの。これで炊事洗濯は出来ますし、医学知識もありますわ。 
わたくしも手放すのは惜しいですが、先祖代々守り続けてきた土地には代えられませんもの」 
 
タチヤも今回この屋敷に潜り込むシチュエーションは、クユラから聞いていた。 
事前にクユラが相手の行動を調べて、接触を取っていた。 
まずは、ターゲット――リードという男のよく出席する社交場に、クユラも参加する。 
そしてそれとなく近寄り、不自然の無い状況で切り出した。 
『賭け事はお好きですか?』と。 
 
後は簡単だった。 
 
イカサマをして、怪しまれない程度に負け続ける。 
そして最後には無一文になり、先祖代々受け継いでいると言う設定の、土地まで引っ張り出す。 
だが、それでもわざと負ける。 
そして切り出すのだ『わたくしの召し使いを差し上げます。土地だけはご勘弁ください』と。 
大して広くも無ければ、ありふれた土壌の土地より、ヒトの方が遥かに価値がある。 
くわえてタチヤの場合は、もうすでに召し使いを経験し、従順だと言う設定もあった。 
更には今言った通り、家事ができれば医学知識もある。 
ここまで好条件の揃ったヒトなんて、そんなにあるものではなかった。 
リードは迷わずに、クユラに勝って手に入れた、セパタ全額と土地より、タチヤを選んだ。 
 
「ほら、タチヤも旦那様にご挨拶なさい」 
「あ、はい。……これからはここでお世話になりますが、よろしくお願いします。旦那様」 
 
タチヤはリードと呼ばれた虎の男に、深々と頭を下げながら言った。 
タチヤの従順な態度に満足したのか、リードは満足そうな表情で自分の顎を指でさすった。 
機嫌の良いときに顎をさするのは、この男の癖だった。 
クユラは事が終始自分の思い通りに運んでいる事を悟り、表情には出さずとも良い気分だった。 
タチヤを失うのを残念がる仕草を演じつつ、この後の算段を頭の中でシュミレートする。 
ちらりとリードを見ると、そんなクユラの思惑に気付く筈も無く、満足気にニヤけていた。 
そしてリードは満足そうな表情を崩さないまま、タチヤに向かって口を開く。 
 
「そうかしこまる事もない。君は価値があるんだ。 
そこらの庶民とは比べ物にならないほどのな。 
ワシは君とここの領民100人の命を天秤にかけても、君を選ぶよ」 
「……はあ、ありがとうございます。 
僕も旦那様のご期待に添えるように、誠心誠意、尽くさせて頂きます」 
「フハハ、礼儀正しい者は好きだ。 
君の主人はワシの娘になる訳だが、君を見ていると、ワシも一匹ぐらい女のヒトが欲しくなってくる。 
男の君に比べれば安価だし、今度探してみる事にするよ」 
「旦那様の召し使いになれるとは、その女性も、さぞや幸せでしょう」 
 
タチヤはリードが望むだろう言葉を、自分の口から捻り出す作業を続けた。 
列車の中で、クユラから一通りの相手を喜ばせるノウハウは教えられた。 
タチヤは割と理性的な性格の為、それを実行できている。 
だが、リードと話しているのは、決して良い気分ではなかった。 
リードは、ヒトだろうが虎人だろうが、その他のこの世界の住人だろうが、同じ価値観で見ていた。 
それは、金を払う価値のあるものと、自分に利益をもたらすものと、それ以外の“物”。 
彼にとっては、価値がなければ全てが物と同等だった。 
その点で見れば、ヒトをほかの種族よりも優遇する、数少ない人間だろう。 
だがそれは、世の中の全てを金次第で何とかしようとする、そんな下衆な男の思考だった。 
他人に無価値の烙印を押しつけ、切り捨てる事に、なんの罪悪感も感じていない事が、タチヤにも理解できた。 
 
だが、タチヤがどんなに嫌な思いをしようと、これは仕事だ。 
ここでやめる訳には行かないし、やめるつもりもない。 
しかしそれでも、リードへの不快感は、少しだけ表情に出ていたようだった。 
それを見抜いたクユラは、早めにこの場を切り上げた方が良いと思った。 
 
「すみませんが、わたくしはそろそろ御暇させて頂きますわ。 
先日負けてしまった分を、これから取り返しにいきますの。 
あ、でも、リードさんとの事で、賭け事にはもう懲りましたわ。 
賭け事に人生かけるのはやめて、元からやってる綺麗な仕事を頑張ります」 
「それが良いでしょうな。 
クユラさんは、賭け事をするには運が欠けております。 
もっとも、ワシが幸運の女神に微笑まれてるだけかも知れませんが」 
「まったくです。あんなに負けたのは、生まれて初めての経験でした。 
……それと、女のヒトが欲しいと言っていましたわね。 
わたくしが良いブローカーを知っていますわ。 
タチヤはわたくしが拾いましたが、そこでは良いヒトをより安く提供してくれますの。 
もし良ければ紹介しますので、気になれば後日に連絡をしてください」 
 
その後も、2,3言の、リードをベタ褒めする内容の言葉を残し、クユラは立ち去った。 
タチヤは途端に心細くなったが、弱音など吐いてられない。 
リードの見ていない隙に、手の平に“人”の字を書いて飲み込み、冷静になろうと努める。 
試しに素数も数えてみようとしたが、途中で思い浮かばなくなって、逆に焦った。 
リードと2人きりになり、自分から発現する勇気も無く、タチヤは不安感を抑えられない。 
これからどうすればいいか、本当に慌ててしまいそうになったが、救いが入る。 
広間へ繋がる階段を、カモシカの青年がおりてきた。 
 
「リード様、ヘレン様は着替えが終わり次第おりてこられるそうです」 
「そうか。分かった。ならもう下がれ」 
「分かりました」 
 
カモシカの青年は、リードに向かってペコリとお辞儀をすると、広間から出て行く。 
革靴の足音をカツカツと、大理石の床に響かせながら、その場をあとにする。 
そのとき、カモシカの青年とタチヤの視線が一瞬だけ合った。 
タチヤが軽く会釈すると、カモシカの青年は少し意外そうに足音を乱して立ち止まると、タチヤにも深々と頭を下げた。 
そしてまたカツカツという音を響かせながら、歩いて行った。 
 
「気にしなくてよいさ。ネロだったか……アイツはただの使用人だ。 
娘の召し使いとなる君は、言わばこの屋敷の使用人の、最高位だ。 
あんな下っ端は、顎で使ってやっても誰も文句は言わない」 
「そうなんですか……。 
急に待遇が良くなったので、どうにも不思議な感覚が……。 
しかし、それも旦那様のお陰ですね。 
まだ来たばかりだと言うのに、感謝の気持ちを抑えられません」 
「なに、その感謝の気持ちの分、娘に尽くしてやってくれ。 
気難しい年頃だが、ペットには心を開くだろう」 
「僕のような者が、心を開いてもらえるかどうか、不安ですが……。 
しかしペット兼召し使いの役割は、しっかりと果たせるよう努力します」 
 
本当に疲れる。あのネロと言うカモシカの青年といい、よくここで使用人を続けているものだ。 
タチヤは、リードの言葉に対して彼が望むだろう言葉を返しつつ、そう思った。 
ネロがやりたくて使用人をしてるのではないと、タチヤはまだ知らなかった。 
その後もしばらく、リードとの話が続いた。 
話せば話すほど、タチヤはリードが嫌いになっていった。 
リードの話す事は、さながら独裁政権のワガママな首相のようだった。 
全ての民は自分の為にいて、自分に利益をもたらすのは当然だ。 
それができない民に、領民の価値はない。 
絞れるだけ絞って、後は野垂れ死にすればいい。 
聞くに耐えない言葉の数々に、終いにはタチヤも、怒りを隠す事ができなくなりそうだった。 
だが、タチヤはなんとか自制心を働かせて、その怒りを飲み込む。 
どうせ自分がしばらくスパイすれば、クユラがコイツを懲らしめてくれる。 
そう思えば、少しくらいは心の支えになった。 
そんな自分との戦いの時間が流れるうちに、とうとう待っていた相手が来る。 
 
「娘のヘレンが来た。君の主人だ、挨拶なさい」 
 
リードが見詰める方向へ、タチヤも目を向けた。 
そこにいたのは、黒地に白いレースをあしらったドレスを着た、虎の女性だった。 
その表情は暗く、ネコ科の人間たち特有の、ピンと立った耳は、力無く垂れている。 
顔は取りたてて美人でもなく、だが決して不細工な訳ではない。 
どちらかと言えば、美人に分類される方だろうが、全体の暗い雰囲気が、それを中和していた。 
表情は生気をあまり感じさせず、尻尾もダランと床まで垂れ下がっている感じだ。 
お世辞にも、女性としての魅力に溢れてるとは言えない。 
どこにでもいる、暗い女の子と言う印象を受けた。 
 
タチヤはとりあえず、リードの言う通りに挨拶をする事にした。 
 
「はじめまして。タチヤと言います。 
今日から、ヘレン様の召し使いとして側に置いて頂く事となりました。 
旦那様からヘレン様への、プレゼントです」 
 
自分を“プレゼント”だなんて、一昔前の恋愛描写かと、タチヤは内心苦笑した。 
しかしヘレンは、無表情にタチヤを見詰めて、なんの反応もしてくれない。 
リードは『気難しい年頃』だと言っていたが、ここまでとは思ってなかった。 
タチヤは、クユラ直伝の愛想笑いを、ヘレンに向けた。 
だが、効果は得られず、ヘレンは無表情のままだ。 
やはりクユラ本人のように、上手く使う事はできなかった。 
 
「気にしないでくれ。気難しい年頃なんだ。 
それではヘレン、タチヤは今日からお前の物だ。好きにして良い。 
ワシは済ませなければならない用事があって、今日はもう出る。 
夜には帰る筈だ」 
 
それは暗に、ヘレンにタチヤを好きにする時間を与えるという事なのだろう。 
タチヤは改めて感じるが、この世界の住人は、なんと言うか性に関して開放的な事が多い。 
レナなんかは、身の上の関係もあって奥手だったが、リードの今の態度を見ると、タチヤがヘレンとしてしまう事を、望んでいるとしか思えない。 
……それとも、男ができればヘレンの暗い性格が直ると思ったのだろうか。 
ヘレンはタチヤの前に現われてから、一言も発していない。 
奥手で恥ずかしがり屋だったりするのだろうかと、タチヤは予想した。 
もう一度ヘレンの方を見ると、タチヤの方を見てすらない無かった。 
少なからずの精神的ダメージをタチヤは受けるが、気を取り直して、出掛ける準備をするリードの機嫌を取ろうとする。 
 
「では、旦那様、仕事の御成功を僕もお祈りしています」 
「ああ、タチヤにお祈りしてもらうと、中々縁起が良さそうだ。 
何か有れば、他の使用人に言い付ければいい」 
「分かりました。身に余るご配慮を頂き、光栄の極みです」 
 
タチヤは考え付く限り、自分が聞いたらイヤミと思ってしまうような美辞麗句を並べる。 
だが、リードはやはり、機嫌が良くなるだけのようだ。 
タチヤは内心での呆れを、表に出さないようにするだけで精一杯だ。 
出掛けるリードを見送りながら、笑みを浮かべて手を振る。 
そしてそのリードの周りには、大勢の使用人たちが身辺警護している。 
クユラの言う通りの人間なら、なるほど敵も多い訳だ。 
 
(さて、後はどうやってヘレンに信用してもらえるかだな。 
リードさんは、僕がヒトってだけで、随分ナメてるみたいだけど……) 
 
そう考えながら、タチヤは作り笑いを浮かべて、ヘレンの方をまた見た。 
一応はこちらを見ていたものの、ヘレンは表情を変えなかった。 
タチヤは、まさかこれほどやり難い相手だとは思わなかった事もあり、どっと疲れが出てきた。 
頭を抱えて俯いていると、不意に声が掛かる。 
 
「ねえ、あなた」 
 
タチヤが慌てて振り向くと、そこにいたのはヘレンだけだ。 
それはつまり、今のはヘレンから話し掛けられたという事だった。 
タチヤは、それだけで光明を見付けた気分になり、随分と気が軽くなった。 
もしもなんの成果も上げられなければ、クユラからどんな拷問を受けるか、想像も付かなかった。 
 
「僕の事を呼んだのでしょうか?」 
「ええ、そうよ。あなたがさ、お父様みたいな奴に媚び売って、バカみたいって言おうと思ったの」 
 
タチヤは愕然とした。 
無口で大人しいと思っていたら、無表情でここまで毒を吐く相手とは……。 
タチヤは驚きながらも、何とか気を取り直し、ヘレンを諭そうとする。 
 
「ヘレン様、相手はあなたのお父様です。 
そのような言い方は、よされた方が良いと思いますが。 
血の繋がった親子です。旦那様も、ヘレン様の事は大切に思っていらしたでしょう」 
「私に向ける愛情の1000分の1も、他人に分け与えられない奴よ。 
あなたはどうやって、元のご主人様から取り上げられたの?」 
「……取り上げられたのが、前提なんですか?」 
 
いよいよタチヤは、どう対応すれば良いか分からなくなってしまう。 
自分もリードを貶せば、ヘレンの機嫌がとれるのだろうか。 
それとも、このままの態度を貫き通せば良いのだろうか。 
仕方ないので、タチヤは自分がここに来る事になった設定を、言う事にした。 
それを尋ねられているのだから、とりあえずは答えなくてはいけない。 
 
「僕は、取り上げられたりとは、違いますよ。 
前のご主人様が、旦那様と賭け事をなさって、負けたのです。 
運が悪かったのでしょう、最終的に高価なヒトである僕を手放す事になりました」 
 
タチヤが事の経緯を説明すると、ヘレンは驚いたように目を見開いた。 
それは、タチヤが初めて見たヘレンの表情だった。 
ヘレンは動揺を隠せないようで、落ち着くのには少し時間が掛かった。 
そして少し経った後、念を押すようにして、タチヤに尋ねる。 
 
「そう、じゃああなたは、無理矢理取り上げられたんじゃなくて、本当に偶然ここへきたのね? 
お父様が汚い事をして取り上げたんじゃなくて、本当にただ賭けに勝っただけなのよね?」 
「ええ、その通りです。僕は正真正銘、正式にヘレン様の召し使いです」 
 
自分が嘘八百を並べているという自覚もあり、タチヤは心苦しくなる。 
徐々にヘレンの口調は、無機質なものから感情が篭もったものへ変わっている。 
さっきまでの無表情は演技だったのか、年頃の女の子らしい口調だった。 
タチヤは、最初に無視されたのと同じ笑顔をヘレンに向ける。 
今度は、黙殺される事もなく「無理して笑わなくてもいいわよ」と言ってもらえた。 
そう言われては、タチヤも苦笑いするしかなかった。 
だが、その苦笑いに、ヘレンはタチヤの素の感情を見たのか、驚くほど饒舌に語りだした。 
 
「最初はね、実は物凄く驚いていたの。 
朝起きてからいきなり呼び出されて、そしたらヒトがいるんだもの。 
お父様がそんな高価なものを買う筈がないと思ったの。 
だから考えられるのは、誰かから騙し取ったってね」 
 
ヘレンの口振りからは、彼女が父親を嫌っている事が読み取れた。 
一言ひとことに、その手の行動を嫌悪するような感情がこもっている。 
それを聞きながら、皮肉なものだとタチヤは思った。 
ある意味で父親が反面教師となったのだろう。 
なんとなく、タチヤが元の世界にいた頃と、同じような環境だと思った。 
 
「それで、盗品のあなたを自分のものにするなんて、できないと思った。 
でも、あなたが偶然ここへ来る事になったって聞いて、安心したわ。 
誰かとこんなにお喋りしたのって、本当に久しぶり。 
お父様を怖がって誰も近寄ってくれないし、使用人のみんなとも、怖くてちゃんと話せる自信が無いもの」 
 
まだ会ったばかりだと言うのに、ヘレンはもうタチヤに心を許し始めていた。 
生まれて初めて、なんの気兼ねも無く自分の気持ちを話せる相手ができた。 
そういう感情が後押しした事と、タチヤがヒトである事も合わせての事だ。 
なんの力も無く、脆弱で、この世界を一人で生きていく事ができない、そんなヒトだからこそ自分を頼ってくれる気がしたのだった。 
それらが原因で、ヘレン自身ですら驚くほどに饒舌になっていた。 
 
「思っていたより、饒舌な方なのですね。 
最初は大人しめの印象を受けましたので、少し意外ですよ」 
 
そんなヘレンを見て、タチヤも自然とそう零してしまう。 
最初に受けた印象は、いつのまにかガラリと変貌していた。 
タチヤからすれば会ったのは今日が初めてなので、第一印象が違ったくらいの感覚だ。 
だが、本当はヘレンがこの短い時間の間に、変わり始めていた。 
特に彼女の場合は、心を許せる相手さえいれば、容易に変わる事のできる心理状況だったのだろう。 
だがそれは、ここの数少ない使用人たちのように、リードに借金を抱えて扱き使われるような人間であってはならない。 
負い目を感じて、ヘレンが窮屈な思いをしてしまうからだ。 
そして、そういう負い目を感じない、普通の人間達は、リードを怖がって近寄ってくれない。  
 
「そうね、ずっと前から、こんなふうにお喋りしたかったの。 
でも私、友達……いないから」 
「友達……か。僕もこの世界に落ちてきてからは、いませんね」 
 
タチヤの言葉は、またもウソだった。 
“蛇足” のみんなは、タチヤを奴隷扱いしていない。 
ガルナなんかは特に、タチヤの基準では友達と言える存在だった。 
ミリアルドなんかも、ナマイキな割にどこか可愛くて、打ち解けて話す事ができる。 
 オルスなんかも、誰にだってあの態度であり、相手がタチヤだから高圧的に接する訳でもない。 
 そう考えると、割と建設的な友好関係は築けているのだろう。 
だが、一般的なヒトは、こっちに来てから友達なんてできない。 
それに共感できる要素がある方が、ヘレンも更に心を開いてくれると思った。 
しかし誰かを騙すというのは、酷い精神的苦痛を伴うものだ。 
特にヘレンの楽しそうな表情を見ると、心がズキズキと痛んだ。 
 
「タチヤも、友達がいないんだ。なら、私の友達になって! 
敬語もやめて、友達のように私とお話して」 
「ヘレン様、それは……」 
「駄目とは言わせないわ、命令よ。 
私はね、友達が欲しいの。心の底から信頼できる相手が欲しいの」 
 
命令と言われては、召し使いの立場にからすると、逆らう訳にはいかない。 
だが、その命令を実行してしまえば、召し使いの領分を超えてしまう。 
こんな場合の対処法は、クユラから教わっていなかった。 
返答に窮したタチヤが、どうすれば良いか分からずに黙っていると、徐々にヘレンの目に涙が溜まっていく。 
それは、やっと友達ができそうになったのに、という悔しさからくるものだった。 
 
「あなたは、今は違っても、元の世界にいたときは友達がいたでしょう? 
恋人だって、いたかもしれない。 
でも私は、生まれたときからずっと、負い目を感じて、友達も恋人もなく生きていたのよ。 
お願いなの……ッ」 
 
ヘレンはタチヤの方へ、ツカツカと足音を立てて近付きながら、涙ながらに訴えかける。 
そして最後は、タチヤの服の胸元を掴んで、泣き崩れた。 
まさかこんな状況など、来る前に予測できる筈が無い。 
一通りのイメージトレーニングは列車の中で済ませたが、これはどうしようもなかった。 
誰かをこうして慰めた経験などもなく、タチヤはとりあえず、ヘレンの背中を優しく撫でた。 
 
「…ぅ…ッ…、ヒック……」 
 
そしてそれは逆効果だった。 
他人との暖かい接触に飢えていたヘレンは、その手の温もりで、更に涙を流した。 
声はあげなかったが、涙と鼻水を流して、盛大に泣く。 
タチヤの胸元に顔を埋めて、生まれて初めて誰かの前で泣いた。 
ヘレンが止めようと思っても、まったく思うようにならない。 
困ったタチヤがヘレンの背を撫でて慰めようとする度に、新しい涙が零れた。 
初めて誰かの温もりを、肌で感じる事ができた気がした。 
タチヤも、なんとかヘレンを泣き止ませようとするが、上手くいかない。 
背を撫でても、頭を撫でても、心配するような言葉を言っても、泣き止みはしない。 
何をしても駄目のようで、最後にタチヤは、ヘレンから頼まれた事をしてみる事にする。 
やはり中々の覚悟の要る事で、決心するには少し時間がかかった。 
 
「ヘレン、いつまでも泣いてるのは、君も恥ずかしいだろう? 
泣けるときは、思いっきり泣くといいよ。 
僕も君の召しつか……もとい、友達として慰めるからさ」 
 
それは、タチヤのヘレンへの同情心が言わせる言葉だ。 
だが、多感な年頃の少女の心を射止めるには、充分すぎる言葉であった。 
ましてヘレンは、誰かの肌の触れ合いはおろか、心の触れ合いの経験も無い。 
タチヤの温もりは、ヘレンの初めて知る“異性”だった。 
ヘレンは流れる涙を止めるのは諦め、タチヤの言う事に、ただ頷いた。 
 
「じ、じゃあ、私の…ッ部屋に、来て……ぐず」 
「ああ、そこなら涙を流しても、人に見られる心配はないよね」 
 
ヨロヨロと歩きながら、自室へと案内するヘレンの背中を、タチヤが支える。 
泣きながら足元もよく見えていないようで、階段を登るときにも何度か転びそうになる。 
その度にタチヤがヘレンの身体を支えて、立ち直らせた。 
覚束無いヘレンの足取りにヒヤヒヤしながらも、タチヤは慎重にエスコートした。 
 
「……ここ…ッ」 
 
階段を登り終わった直ぐ近くに、ヘレンの部屋はあった。 
タチヤがそのドアを開けて、ヘレンの肩に手を置きながら、中に入っていく。 
泣いている女の子を、部屋の中に連れ込むという行為に、なんとなくタチヤは頬が赤くなった。 
ヘレンをベッドの上に座らせると、ドアを閉めて、念の為に鍵をかける。 
ここまですれば、ヘレンも安心して泣けると思う。 
 
「ドアも閉めたし、これで泣いても大丈夫」 
 
そう言ってやると、またヘレンの瞳からは、大粒の涙が零れ始めた。 
そして今度は、大声でワンワンと泣いた。 
泣きながらタチヤを手招きし、自分のとなりに座るよう、ベッドをポンポンと叩いてアピールした。 
タチヤがそれに従って近寄り、ヘレンの隣に座る。 
そこからが、本当に大変な場面だった。 
ヘレンはまたタチヤの胸に顔を埋めると、今まで溜めてきた感情を吐き出すように、思いっきり泣く。 
 
「私だって、みんなみたいに友達つくって、恋愛したかったのにー! 
なのにみんな私を避けて、私は怖くなんか無いのに、友達欲しいのに! 
私だって年頃の女の子なんだから、そんなことされて、悲しまない筈ないじゃない! 
毎日毎日、すっごく悲しいのに、それを打ち明けられる相手もいないの! 
なんで私ばっかりこんな思いしなきゃならないのよ! 
宝石もドレスもいらないの! 一人だけでも友達が欲しかったの! 
…ヒックッ、うぅ、うわーん!!」 
 
服の胸元を、ヘレンの涙と鼻水とで濡らしながら、タチヤはヘレンの言葉に相づちを打ってやった。 
先ほどしたのと同じように、うんうんと相手に同情する仕草をしつつ、背中を優しくなでる。 
それがさらにヘレンを泣かせてしまおうと、今は思いっきり泣くのがいいと思った。 
 
「うん、ヘレンは悪くない。 
ずっと一人で、よく頑張ったよ。 
とっても強いんだね、君は」 
「私なんて…ッ…弱くて、一人じゃ何も出来なかった、だけよ」 
「そんな事ない。君は強いから、今日まで一人で頑張れたんだ。 
だからさ、そんなに自分を貶す必要なんてないよ。 
もっと自分に自信を持って、泣き言なら僕が聞いてあげるから」 
 
ね? と笑い掛けながら、ヘレンにそう言い聞かせる。 
タチヤはいつの間にか、本気でヘレンを心配していた。 
誰も心を許せる相手がいないままに、今日まで過ごして来たと思うと、同情せずにはいられなかった。 
『あくまでもこれは仕事だ』そう自分に言い聞かせようにも、ヘレンが可哀想になる。 
クユラがこの状況を知れば、「良くやった」と喜ぶだろう。 
取り入るには最良のシチュエーションだ。 
だが、こんなにも純粋な女の子を、利用するのには、良心の呵責に耐えない。 
 
「はい、これ」 
 
ようやくヘレンも泣き止んで来たところで、タチヤはポケットからハンカチを取り出し、差し出す。 
ヘレンはそれを受け取ってから、また一頻り泣いた後、そのハンカチでチーンと鼻をかんだ。 
そしてそのハンカチをポイっと投げ捨て、また泣き始める。 
あんまり鼻をかんだ意味は、なさそうだった。 
傷付いてる相手に優しくする、そんなタチヤの当たり前の行動が、ヘレンを更に泣かせた。 
優しくされて、慰められて、それが嬉しくて、ヘレンの涙は止まらない。 
 
「うぅ……タチヤ…ッ」 
「どうしたんだい、ヘレン?」 
 
泣き腫らして赤くなった目で見詰めてくるヘレンに、タチヤが返す。 
ヘレンは服の裾を使って顔を拭き、しかしそれでもまだ拭い切れずに目の周りは涙が残っている。 
ヘレンは少しだけ迷うように途惑った後、タチヤの首に腕を回して抱き着いた。 
 
「なっ!? ヘレンッ!?」 
 
ヘレンの行動に慌てながら、それでもタチヤはヘレンの背をさすっていた。 
 
「タチヤが、あんまり優しいから…、私、タチヤの事が好きになっちゃったじゃない……。 
ねぇ……、責任とって、私を抱いて」 
「ヘレ…――ッ」 
 
ヘレンは有無を言わさずにタチヤを押し倒し、唇を重ねた。 
そんなヘレンの強引な行動に、タチヤは当然慌てるが、虎というこの世界でもトップクラスの身体能力を持った種族であるヘレンの腕は、ヒトの力ではビクともしなかった。 
その力の差というのは厄介だ。 
ここに来る途中の列車の中で、クユラから押し倒された事もあったが、タチヤの力ではどうしようもなかった。 
それにタチヤはここまできて、潔癖症なところがある。 
自分がハッキリと好意を抱いてる相手、この場合はレナの事だが、そんな相手以外と性行為を行う事に、抵抗があった。 
背徳感を楽しむような度胸はタチヤには無く、ましてタチヤの性格では、レナへの申し訳なさしか浮かばない。 
だが・・・・・、 
 
「ヘレン、君はそれでいいのか? ヒトを好きになったりして」 
「いいの。私がいいと言ったらいいの」 
 
そんな強引な、とタチヤは反論したかったが、それさえもかなわずに、また唇を重ねられた。 
こういうときは、どうすれば良いのだろうか? 
 実は列車の中で、クユラから対処法を聞いている。 
 
『いざと言うときは、 諦 め が肝心ですわよ。あ き ら め が 』 
 
無駄に“諦め”という部分を強調した、クユラの言葉が脳内にリフレインする。 
駄目だ。今回の列車の旅で確信したが、クユラは生っ粋のSだ。 
彼女のアドバイスは何一つ助けにならない。 
今ごろは苦労してるタチヤを想像して、ほくそ笑んでいるのだろうか。 
分かったよ。分かった。諦める。どーせ何しても無駄なんだから。こうなりゃヤケクソだ。 
 
「分かったよ、ヘレン。君に後悔がないなら」 
「後悔なんてしないわよ。 
ただ、嬉しくて堪らないの。 
生まれて初めて、私に優しくしてくれる相手がいるんだから」 
 
また唇が重ねられた。 
色々と吹っ切れたらしいヘレンは、思いの他積極的で、自分の方から舌を差し出す。 
それをタチヤの口の中まで入れて、絡ませた。 
ヘレンは今日初めてキスをしたが、なんとなく想像してたのとは違った。 
ファーストキスはレモンの味だなんて言ってるのは、誰だろうか。 
そんな酸っぱいものじゃなくて、病み付きになりそうなほどに甘いものだった。 
 
「…ッ、ふぅ…ぁ……ぷは」 
 
ヘレンはしばらくの間、その口付けを続けた。 
タチヤの顔色が赤くなり、青くなり、とうとう紫色になる頃に、ようやく終える。 
呼吸困難に陥っていたタチヤが、肩で息をする横で、初めて堪能したキスの味に酔いしれていた。 
ヘレンの頭の中には、もう行為を前進させる事しかなく、ベッドに横たわり、タチヤを誘うように尻尾を振った。 
尻尾を意識して動かしたのは、何ヶ月ぶりかの事だった。 
 
「ねぇ、来て……」 
 
ドレスを脱ぐ作業もまどろっこしく、ヘレンはビリビリとドレスの胸元を破いて言った。 
他人に触られた事など一度も無い、敏感な乳房を露わにして、見せ付ける。 
そんな行為を恥ずかしいと思う心的余裕は、ヘレンには無かった。 
胸元から破いたドレスの裂け目を広げ、その裂け目から体を出す。 
かなり無理矢理だとヘレン自身も思ったが、背中で結んでる紐を解くのも、モタモタと脱ぐのも嫌だった。 
タチヤの方はというと、そんなヘレンの思い切った行動に、呆気に取られていた。 
なんとなく初見では“暗くて地味な娘” と思っていたが、タチヤの行動により、いつの間にかここまで変貌している。 
自分を好きだと言ってくれる事を喜ぶ前に、タチヤは女性の二面性と言うのに、薄ら寒さを覚えた。 
なんと言うか、このまま放してもらえないような、クモの巣にからめとられる蝶のような、そんな感じの感覚だ。 
 
「早くゥ」 
 
タチヤの行動が遅い事に、ヘレンは痺れを切らした。 
少しだけ語尾を荒げながら、タチヤの腕を掴み、自分の足の間に持っていく。 
ドレスを脱ぎ捨てた所為で、もうそこにあるのはパンティだけだ。 
そこをタチヤに触らせながら、自分は上半身のコルセットを外し、下着を脱ぐ。 
 
「あっ…ッ…気持ちイイっ……!」 
 
タチヤは顔には出さないが、心の中では渋々として、パンティの上からヘレンの秘所を撫でた。 
たちまちの内にそこは濡れ始め、パンティを濡らした。 
指でそこを扱う度に体を仰け反らせるヘレンの痴態が、なんとなくタチヤには嫌だった。 
その日会ったばかりの相手に、いとも簡単にこうして身体を差し出し、臆面もなく自分を曝け出すなんて、と。 
しかし、思ったところでこれは仕事だから、やめる訳にもいかなかった。 
 
「あっ、ふぁッ、タチヤぁ、愛してる……」 
「……ありがとう」 
 
タチヤは、白々しい演技をしながらも、嫌悪の表情を見られないようにするため、ヘレンを抱き締めた。 
こんなにも軽々しく『愛してる』と言うなんて、嫌だった。 
タチヤはこの世界にきても純真さを維持していた。 
レナのときはもっと違った。 
二人だけで数週間は旅をしたし、その間に色々の事もあった。 
その上で、頼り甲斐があり、強くて、でも中身は普通の女性だったりするレナに、少しずつ惹かれてた。 
だが、会ったばかりの相手に、それも少しだけ優しくしてくれたと言うだけでこれだ。 
ヘレンの身の上にタチヤが同情したのは確かだったが、これはその範囲の外だった。 
 
「まだ、勃ってないんだ」 
「なんて言うか、前のご主人様の扱いが酷くてね……」 
 
また嘘を付いた。 
勃たないのは、気分が乗らないからに他ならない。 
だってそうだろう? 必死の受験勉強の真っ最中に、参考書の一項がポルノだったところで、呆気に取られるだけで、昂奮するのには時間がかかる。 
身体は心に正直で、そればかりは演技でも隠せない。 
だがヘレンはウソを信じて、なんとかそれを勃起させようと、やっきになった。 
タチヤのズボンのチャックを開き、隙間からそれを取り出し、口に含む。 
 
「ちゅぱ、くちゅ……」 
「っ」 
 
そうまでされてやっと、男の悲しい生理は作動する。 
気分が乗ろうが乗るまいが、直接に刺激を受ければ、勃つに決まっている。 
肉棒がどんどん堅くなっていく事に、ヘレンは自分のつたない技巧に自信を感じた。 
タチヤの言う事を丸っきり信じて、タチヤを気持良くさせようとして、肉棒が喉に当たるほど口に含んで、吸い付いたりした。 
しかしヘレンの思いは所詮、一方通行でしかない。 
 
「ヘレン…ッ」 
 
タチヤは慌てて肉棒を引き抜いた。 
ヘレンは少しビクッとしたが、すぐに不安そうな目で顔を上げた。 
もしかしたら、何か変な事をしてしまったのかもしれないと、思った。 
 
「ごめん、君の口の中に出すのはちょっと、と思ってね」 
「出しても、良かったのに」 
 
ヘレンはタチヤの言葉を聞いて、少しだけガッカリした表情を作る。 
 
( 愛しい相手のものならば、なんだろうと平気なのに。 
いや、それは寧ろ、相手を気持良くさせてあげられたと言う証拠で、飲んでみたいとすら思うの 
けど今のは優しいタチヤの配慮。 
他の誰でもない、私だけのタチヤの、私への優しさ。 
そんな優しいタチヤに、私は精一杯の愛で返すの) 
 
「タチヤ、そろそろ、挿れてくれない?」 
 
“とうとう来た” とタチヤは覚悟を決めた。 
適当に優しい返事をすると、タチヤはズボンを脱ぎ、ついでに上半身の服も脱いだ。 
服を着たままするなんて、なんとなくアブノーマルな気がして好きではない。 
だが、好きでもない女と仕事で寝るなんて、よっぽどアブノーマルだと思った。 
なんで自分はこんなに似合わない事をやってるんだか、と自嘲する。 
今からこんな精神状態で、この後どうするんだか。 
 
「ヘレン、痛かったら言ってくれよ…?」 
「へーき。…我慢できる」 
「君は、とても強いんだね」 
 
二言三言交わし、ヘレンのパンティをずり下ろした。 
まず指を挿れて軽く馴らした後、肉棒をあてがう。 
そうしながらタチヤは自分がやけに淡泊な気分になっているなと、感じた。 
最初指を入れたときに確認したが、ヘレンのそこには確りと処女膜があった。 
医者(の卵だった)のタチヤがそう認めたのだから、間違い無い。 
しかし、それに対しても大した感慨は湧かなかった。 
ただなんとなく、ホイホイと処女を明け渡すヘレンに、呆れただけだ。 
父親に関するトラウマと言う事で、一時は同族意識さえ持ちそうになった。 
だが、ヘレンの精神構造はタチヤとは大きく違っている。 
それは男性としても一人の人間としても経験の薄い、タチヤに到底計れるものではなかった。 
 
「――っ……!」 
 
少しずつだが、肉棒が進入を始める。 
やはり今まで本人の指程度しか進入を許していないそこは、狭くてきつい。 
そしてペースを変えずに進入を続けると、処女膜まで行き着く。 
このまま一気に貫いて、行為自体を早く終わらせてしまいたいと思ったが、流石にそれが出来るほど、今のタチヤも冷めていなかった。 
 
「このまま、奥まで挿れてもいいのかい?」 
 
ヘレンはそれに、コクコクと首を縦に振って返した。 
それを確認して、タチヤはまた進入を開始した。 
なるべくゆっくりしたが、それでも結合部から血が筋になって流れ、シーツを汚した。 
 
「う、動いてぇ…」 
「でも……」 
「いいか…らぁ!」 
 
タチヤには、ヘレンが焦っているようにしか見えなかった。 
このままで一旦動きを止めて、ゆっくりするべきだと、タチヤは思っていた。 
そっちの方がヘレンへの負担も小さくて済むだろうに。 
だが、召し使いとしてご主人様の命令に逆らう訳にもいかなかった。 
最初は小さく、ヘレンが慣れてきたら徐々に大きく動く。 
腰を打ち付ける度に、ヘレンは身体を大きくしならせた。 
 
「あ、熱いよぉ! お、お腹、ジンジンするぅ……!」 
 
そんな淫乱な叫び声は、直に聞くと興醒めするものだった。 
なんだろうか、多分タチヤの中の理想の女性は、こんなセリフは吐かないのだと思う。 
詳しく言えば、ヘレンは根本的にタチヤの好みの女性ではないのだろう。 
同情と仕事意識だけで異性の相手をするなんて、苦痛以外の感情は産まない。 
ヘレンと時間を過ごすほどにネガティブになっていく自分に、タチヤは反吐がでそうだった。 
 
「ヘレン、出してもいいっ……?」 
「…ッ…出してッ」 
 
そしてまた言葉を交わし、確認を取った後で、タチヤはそのまま中に出した。 
やはりその方が、ヘレンも満足感が会ったようだった。 
またも身体をビクビクと震わせ、タチヤが耳を塞ぎたくなるような淫らな台詞を吐いて、達した。 
そんなセリフに思わずタチヤは顔をしかめてしまったが、ヘレンはそんな事には気付かなかった。 
ヘレンは今、気持良くて充足して、他の事はどうでも良かったからだ。 
タチヤは自分を想っていると、根拠も無く信じて疑わなかった。 
相手がヒトで、押し倒したのが自分だと分かっていても、そんな事は関係ない。 
それは確実にただの独り善がりで、相手の事など少しも理解しない考えだ。 
他人の心に触れる事無く育った、その弊害と言えるだろう。 
 
「タチヤぁ…愛してるよぉ……」 
「そう、ありがとう」 
 
自分も愛してるだなんて返す事は、タチヤには出来なかった。 
なのでお礼を言いながら、ヘレンの頭を撫でる事で誤魔化した。 
今はヘレンもそれで満足したが、その内言わないといけなくなるのだろうかと、気が重くなる。 
タチヤがそのまま頭を撫で続けてやると、ヘレンはじきに眠りについた。 
それを見つつタチヤは、初めては疲れるものなのだろうかと、男には分からない感覚を、想像した。 
ヘレンが深々と寝入っているのを確認して、タチヤは少しずつベッドから移動する。 
ヘレンを寝かせて、その上に布団をかけ、もう一度寝てる事を確認する。 
 
「やっぱり、僕には君が好きになれそうに無い。ごめんね」 
 
心の中で「僕にはレナさんがいるもんねー」と付け足した。 
感傷に浸るのはそれぐらいにして、次はここまでの経緯を報告しなくてはならない。 
何か進展があれば、そのつど報告するよう、クユラに言われている。 
タチヤは、ヘレンによって床に投げ捨てられた自分のズボンを拾い、ポケットの中を弄る。 
そこには日本語で、“達哉の日記”と書かれた手帳が入っていた。 
 
「えぇと、何か書くものは…」 
 
キョロキョロと辺りを見回すと、ヘレンの机の上に万年筆が置いてあった。 
少し悪いが、その万年筆を使わせてもらおう。 
タチヤはそれを取ると、手帳の中ほどのページを広げた。 
もうその手帳は、半分程度が埋まっている。 
そして万年筆を使い、真っ白のページに文字を書いていく。 
タチヤが書く文字は、もちろん日本語だ。 
こちらの世界の文字を覚える時間は、まだ取れていない。 
 
『今日、一人娘のヘレンに、惚れられて押し倒されました。 
他人の温もりに飢えていた様子で、僕が少し優しくすれば、いともあっさりと。 
初見は大人しく思慮深い女性にも見えましたが、どうやら年頃の女性のようです。 
僕も驚くほどに、クユラさんの計画通りに進んでいます。 
予定を繰り上げて、明日からリードの周辺調査を始めますか? 
ヘレンは、自分が友達も恋人もいないのは、リードの所為だと思っています。 
もしも僕がそそのかせば、リードを失脚させる手伝いをすると思いますか? 
念の為に言っておきますが、ヘレンは生まれてこの方、一度も友達がいなかったそうです。 
初対面の僕の前でも、容赦無しにリードを非難しました。 
しかし、リード本人の前では、従順な娘を演じています。 
そして、ここの使用人たちに関しても、もしかすれば上手く手伝わせる事が出来るかもしれません。 
 
PS ヘレンの愛はとても重くて、身の危険を感じました。 
恋愛経験の豊富なクユラさん、対処法を教えてください』 
 
タチヤはそう文字を書き、10秒ほど待った。 
すると、文字が吸い込まれるようにして消えていく。 
今書いた文字は、クユラがもっている、対になる手帳に転送されただろう。 
クユラが昔、どこかの森で“純粋な好奇心”からくすねたものを、応用したらしい。 
純粋な好奇心で誰かのものを盗む辺りが、クユラらしいなと、身震いした。 
 
「後は、返事がくるまで待つだけか…」 
 
携帯電話のように、着信を音や振動で知らせてくれたりはしない。 
インターネットの掲示板のように、繰り返し覗いては、新しい書き込みが無いかを調べなければならない。 
今日の昼頃には、返事が返っているだろうか。 
クユラから何か具体的な指示があるまでは、動かない方がいいだろうか。 
とにかく迂闊に動くのは得策ではない。 
タチヤにとってこれは初めての仕事なのだし、慎重に超した事はないだろう。 
 
「リードもヘレンも、完全に油断しているし、上手くいきそうかもね」 
 
まさかヒトである事が、ここまでアドバンテージになるとは思ってなかった。 
ここまで問題にされないと、ある意味で複雑な気分にもなるが、医者としてもまだ勉強の途中である自分が、他にこの世界で生きていく道も無い。 
今は、予定よりもスムーズに事を運ぶ事が出来たと、喜ぶ事にしよう。 
 
「はぁ、こんなに緊張したのは、大学受験以来だなぁ」 
 
 
 
 
 
 
第7話 終わり 
 
 
 
 
 
 

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