※各国軍・各軍種間での階級呼称の違いによる混乱を避けるため、下士官兵の訳称を試験的に  
 自衛隊式呼称に統一しました。OR-1を3士と対応させ、以降それぞれがNATOコードに  
 おいて対応する階級に対応していると考えてください。  
 また、特に下士官兵については、旧軍式にせよ自衛隊式にせよ、来歴と職務について完全に  
 対応させた訳が難しいことも、承知していただければ嬉しいです。  
 
 
 
「レディ・スミスの囁き」  
 
 
 
 愛息であるダニエルの父親について聞かれるとき、彼女はいつも決まって  
「不思議ね。何も覚えてないわ。顔も思い出せないのよ」  
と答えることにしていた。  
しかし実のところ、それはまったくの嘘だった。  
 だからこそ、夕食の最中、レストランの前を通りすぎるその男の顔が唐突に目に入ったとき、まったく彼女  
らしくもないことだが、シャルロット・ゴドウィンは、すっかり呆然として凍りついてしまったのだった。  
隣でデザートに夢中になっていたダニーは母親の顔を見なかったが、テーブルの向かいに座っていたクロード・  
ゲルサンは彼女の表情を不審に思い、首をわずかに動かして後ろを窺った。  
しかし、彼の目に映ったのは、ごく普通の痩せた若い男の顔に過ぎなかった。  
彼の鍛えられた眼はその男にさして危険なものを認めず、見かけによらず豪胆な姪が、この平凡な男を見てなぜ  
こうも動揺するのかと訝った。  
もっとも、「平凡な男」と彼女との間にあったいきさつを知っていれば、その疑問はたやすく解けただろう。  
その男の名はディーン・エリダン。  
彼女の初恋の相手にして、ダニーの父親である。  
 
 
 ゴドウィンは才能に恵まれた船乗りであり、また、一人息子を抱えるシングル・マザーでもある。  
ゆるやかに波打つ赤褐色の髪はたいてい肩の上でカットされていて、注意深さを奥に隠した緑色の瞳は美しく、  
引き締まった体躯は、秘める力を想像させないほどに楚々としている。  
少なくとも、陸上にあるかぎり、彼女は魅力的な女性であり、また良き母親であった。  
 しかしその一方で、彼女は洋上を仕事場としており、斯界において伝説的な名声を確立した叔父のクロード・  
ゲルサンの右腕であった。  
 
 もともと都会で育った彼女は、海について多くをクロード叔父に学んだ。  
クロード・ゲルサンはヘスペリア共和国海軍歩兵コマンドー軍団に属する2等陸士としてその軍歴をはじめ、  
退役したときには、軍団全体で最先任の上級陸曹長になっていた。  
 
 彼の現役時代の経歴は、そのすべてがいわゆる“ブラウンウォーター・ネイヴィー”でのものだった。  
彼はその経歴を通じて、派遣すべきでない場所に人々を送り込み、いるべきでない場所にいる人々を支援し、  
いないはずの場所から人々を引き揚げさせてきた。  
 
 彼が伝説となったのは、「砂漠の嵐」作戦中のことである。  
パダニ王国の特殊部隊SASがスカッド・ミサイルの発射場を破壊するために送り出したパトロール隊のうち、  
ひとつが帰らなかった。途切れ途切れの交信から、彼らが強力な機甲部隊に遭遇し、追撃を受けて脱出中である  
ことが判明した。彼らは最初の交戦で対戦車ロケットを撃ちつくしており、このままでは、生きて翌朝を迎えら  
れないことは確実であった。  
 手持ちの資産がすべて出払っていたせいで、多国籍軍司令部は、ゲルサンのチームを送り込まざるを得なく  
なった。敵は沿岸に機雷原を設置しており、彼らは、狭い回廊を暗夜に辿らねばならなかった。  
それだけでも既に過酷なものだったが、機雷原を突破した直後に、最大の危機が待っていた。  
 無人のはずの集落に、1個小隊の歩兵とBMP歩兵戦闘車がいたせいで、危険な任務は無謀なものになった。  
沿岸に達した段階で彼らは発見され、猛烈な戦闘になったが、ゲルサンは空荷では帰らないと冷然と決意した。  
艇は数百発の銃弾と73ミリ砲の至近弾を数発喰らって船室に風穴を開けられ、お返しにBMPを2両ふっとばし、  
そのあげく、SAS隊員たちをどうにか収容して脱出したのだった。  
 
 その週のはじめにSASの別のチームが消息を絶ったばかりだったので、ゲルサンたちの救出成功はたいへんな  
歓迎をもって迎えられた。畏れおおくもパダニ王国女王陛下が直々にヘスペリア共和国大統領に電話し、  
「あなた方の勇敢な海兵隊員たち」に感謝の意を伝えたおかげもあって、救出作戦に参加した全てのクルーに  
国家勲功章が与えられ、指揮官であるゲルサンと2名のミサイル射手には軍事勲章まで与えられる騒ぎになった  
ものである。  
軍事勲章の上には、かの有名なレジオン・ドヌール勲章しかない。  
 
 ゲルサンは、退役を機にチャーター・ボートの船長をはじめ、それと同時に、ゴドウィンを自分の後継者にすべく  
徹底的に鍛え上げた。当時のゴドウィンは、単なる元不良少女に過ぎなかったが、彼はその中に何かしら光るもの  
を見出していたようである。  
 彼女は、ゲルサンが見込んだとおりにみるみる腕を上げ、まもなく彼らの船は最高の船として知られるように  
なった。記者が記事にせず、自分のために心にしまっておきたくなるような船である。  
ゲルサンが軍の人脈を生かして集めた情報と、いかにも無邪気に見えるゴドウィンに心を許してうっかり秘密の  
漁場を漏らしてしまう他の船乗りたち、そして何よりも彼ら自身の地道な努力のおかげで、彼らは常に客を満足  
させることができた。他の船のすべてが良い漁場を見つけられず、釣り客を怒らせてしまうときにもそれは変わら  
なかった。あたかも、その海域について彼ら二人が知らないことなど無いかのようだった。  
 
 その一方で、その地域にある海上憲兵隊の勢力が不当なほどに少ないために、時として彼らは警察などからの  
依頼を受けた。憲兵たちは海軍歩兵コマンドー軍団で勇名を馳せた男の船に乗りたがったし、海上憲兵隊と協同  
するにも、軍務経験のある船長のほうが何かと都合が良かった。  
それらはたいてい水難者の捜索だったが、密漁船を追跡したあげく銃撃戦になり、船上で応戦する憲兵たちに  
混じってゴドウィンが散弾銃をぶっ放したこともあった。  
 
 ゲルサンは、出自が出自なだけに、船乗りは武装しているべきだと固く信じていて、海兵隊時代から愛用する  
9ミリのブローニング・ハイパワーを持ち歩いているし、船には散弾銃を積んでいる(銃撃を浴びて激昂した  
ゴドウィンが持ち出したのがそれである)。  
 その一方で、ゴドウィンは海兵隊予備役に登録しているにもかかわらず、武装することについての考え方が  
叔父とはだいぶ異なっていた。  
そのことは、彼女が選んだ武器がステンレス製の5連発リヴォルヴァー、チーフス・スペシャルのレディ・スミス  
・モデルだということから、極めて明瞭に分かるだろう。  
 彼女は、何かしら武器を買うように勧められた時も、その銃の威力には「一顧だにせず」、手入れにかかる  
手間と信頼性、そしてお値段に重きを置いた。いつの日か海を二つ越えてアラスカまで行くことを夢見て、  
「マグナム弾を使える」ことにひどくこだわった(グリズリーを相手にするつもりらしい)し、  
「女性向け」だということに惹かれて、多少高いのにレディ・スミスを選んでしまったりはしたけれど、叔父が  
持っているような9ミリ・セミ・オートマチックには、まったく興味を示さなかった。  
 彼女が持っているのは、レディ・スミスの中でもマグナム弾を使える新しいやつだが、強力なマグナム弾を  
装弾した銃を息子の近くに置いておくことに抵抗があるのか、普段は.38口径弾だけを装填していた。  
彼女は機械が嫌いではなく、その意味で銃にも興味があった。  
ただ、決して口には出さないけれど、彼女は少し銃がおっかないのかもしれなかった。  
 
 そんな彼女だから、ダニーを寝かしつけたあとのキッチンで、しまいこんでいた弾薬箱を取り出して、  
レディ・スミスにマグナム弾を装填しているのを見たとき、ゲルサンは本当に驚いた。  
 そのリヴォルヴァーは、いつものとおり完璧に整備されていた。あらゆる可動部がなめらかに動き、  
シリンダーには火薬滓の一片もなく、フレームは鏡のかわりに使えそうなほどに磨き上げられていた。  
 開け放した戸口からゲルサンが入ると、彼女は振り向いたが、すぐに顔を戻し、黙ってシリンダーを閉じた。  
ラッチがかちんと音をたてた。  
フェデラル125グレインのホローポイント弾を5発装填されたレディ・スミスは、白く光る蛍光灯の下、  
いつもと違う強烈な存在感を発散していた。  
「――あの、夕飯のときの男のせいなのか?」  
彼女はレディ・スミスをホルスターに収め、言った。  
「奴がディーン・エリダン、私とダニーを捨てた男です」  
 
 ゲルサンが驚いたとしても、表情にはまったく表さなかった。その代わり、静かに訊ねた。  
「長物が必要になると思うか?」  
彼女は黙って首を振った。「長物」とは散弾銃など、彼らが普段たずさえるより大きく強力な火器のことである。  
「あの男は危険だろうか?」  
「危険になるだけの度胸なんか持っちゃいませんよ、あいつは」  
 
 ゲルサンはしばらく黙って彼女の様子を眺め、そして静かに聞いた。  
「今でも彼を憎んでいるか?」  
端正な彼女の立ち姿が、かすかに揺らいだ。  
「違うと言えば、嘘です」  
 
 彼女が高校2年になった秋に、彼らは出会った。  
そのころの彼女は、拗ねたような赤い唇が印象的な、もうすぐ17になろうという少女だった。鋭敏な観察者なら、  
アンバランスな危うさを秘めていると評価しただろう。表面上は彼女にとって全てが順調だったが、内面では漠然  
とした不穏さが漂っていた。学校の成績は良かったし、少女向けの雑誌の読者モデルに選ばれたりもしていた  
けれど、何かを見失っているように感じていた。世界中が動きつづけているのに、彼女だけが同じ場所に留まって  
いるような気がしていた。目に映る全てが物悲しく、全てが急速に色褪せていくようだった。小さな雨音さえもが、  
彼女を苛立たせた。  
 たぶんそのせいだろうが、彼女はディーンとの関係にのめりこんだ。  
16才の少女にとって、ハンサムで何事にも反抗的、気障な5才年上の男はとても魅惑的に映った。  
出会ってから1週間ののち、彼らは初めて寝た。想像していたほど素晴らしいものではなかったけれど、そう  
ひどいものでもなかった。彼女は酔っ払って勇敢になっていたし、ディーンはその方面に長けていた。  
彼女はすっかり彼に夢中になった。母や友人の警告は無視され――  
結局のところ、あまりに多くの少女がたどった軌跡を彼女もたどりつつあった。  
 17才の誕生日の数日後、妊娠したことがわかった。最後は外で出すことにしていたので、どちらも避妊は  
まったく配慮していなかった。彼女はパニックになってディーンに助けを求めたが、彼は逆に彼女のありもしない  
浮気を責めた。  
 彼女の自尊心は徹底的に傷つけられた。少年たちにとって彼女は既に疵物だった。たった17で使い古され、  
捨てられた。過ちを悔いても既に遅く、母親になる準備などできているはずがなかった。  
診療所に予約を入れたが、受付で名前を呼ばれたとき、堕ろすことなどできないと悟った。  
退役したゲルサンが訪れ、その境遇から彼女を無理やりに引きずり出すのは、その半年後のことだった。  
 
 
 そのような次第で、ゲルサンとゴドウィンのボート・サーヴィスの事務所にやってきたとき、ディーンが受けた  
応対は、すこぶる非友好的なものになった。  
ゴドウィンは立ち上がって腰に手を当て、彼らはカウンターを挟んで対峙した。  
ひとしきりゴドウィンの険しい視線に耐えたのち、ディーンはぎこちない笑みを浮かべて手を差し出したが、  
彼女はその手を握ろうとしなかった。  
「おまえが船に乗ってるとは、驚いたな」  
「はるばる海外県まで世間話をしにきたとでも言う気? さっさと言いたいことを言って出ていきなさい」  
「坊主は元気にしてるか?」  
「あなたに教える必要はないわ。なぜあなたは今さら戻ってきたの?」  
「おまえと坊主に会いたいからだ。これで不足か?」  
「私はあなたに会いたくないし、ダニーも同じよ。本人の意思に反してダニーをあなたに会わせる気はないわ。  
遠くまでご苦労なことだけれど、時間の無駄よ」  
「おい、昔の恋人にその扱いは冷たすぎるぜ」  
彼女は歯を食いしばった。  
「今すぐ出てかないと憲兵を呼ぶわよ。その前にあたしがあんたを撃っていなければね」  
「それはありえないね。おまえには俺を撃てないだろうよ」  
その言葉を最後に、ディーンはドアからするりと抜け出した。  
彼女はヒップ・ホルスターのリヴォルヴァーから手を外して溜息をついた。  
1分たらずのやり取りにもかかわらず、全身が汗で濡れているのを感じた。  
ゲルサンは何も言わず、寄りかかっていた壁から体を引き離した。  
 
 彼らの規模の事務所の場合、二通りの午前11時がある。殺人的に忙しいか、殺人的に暇かのどちらかだ。  
中間というものがない。  
だから、みんながホテルやらハーバーやらとの電話を片手に海図やら天気図やらと睨めっこしているか、  
あるいはみんながあくびしながら、遅い朝の気だるさを、のんびり楽しんでいるかということになる。  
雨季の中盤のとある日の午前11時は、普通、後者のほうの午前11時になる。  
静かな雨がしとしとと敷石を濡らしていくのを、乾いて涼しい室内から温かいコーヒーでもすすりながら眺める  
のは、実際、ちょっとした楽しみと言えた。  
 しかし、ディーンの来訪と、彼が伴ってきた不穏さのせいで、その呑気さは雲散霧消してしまっていた。  
ゲルサンは手持ち無沙汰なままに「台風避泊のコツ、伝授します」の特集ページを読んでいたが、そのうちに  
それを閉じて、姪のほうを見つめた。  
 ゴドウィンが書類の山を崩し、ペン立てとコーヒー・カップをひっくり返したところで、彼は声をかけた。  
彼女ははっと気がついて、ばつの悪そうな顔をした。  
「少し早いが、昼飯にしようか」  
「はい」  
「構わんからこっちに座りな」  
「ありがとうございます」  
ゴドウィンはすっかり散らかった自分のデスクを離れ、椅子を引きずってきてゲルサンの向かいに腰を下ろした。  
ゲルサンはノート型のコンピュータを閉じて仕舞い、ランチボックスを広げた。  
二人ともしばらく黙って食べていた。  
 
 ゲルサンが先に食べ終わった。彼は箱を閉じて脇に寄せ、机の上で大きな手を組んだ。  
「チャーリイ」  
と姪につけたあだ名を呼んだ。  
ゴドウィンは紙ナプキンで口を拭い、挑戦的な目つきで叔父に向きあった。  
「叔父さんが言いたいことは分かります。あの男への接し方が厳しすぎたとでも言うんでしょう?」  
「その通り。さっきのお前の態度はまったく褒められたものではなかった。7年ぶりの相手に対するには、それ  
なりの礼儀というものがある。ましてや相手は息子の父親だ」  
「お忘れかもしれませんから指摘させていただきますが、奴は私とダニーを吸殻か何かのように捨てたのです。  
奴を許すことなど、できない相談です」  
「もちろん、それに怒るのは正当な権利だ。だが、それは7年前のことだぞ。歳月は人を変えるものだ」  
実際、お前自身がいかに変わったか、省みるがいい、とまでは言わなかった。  
「歳月は罪に赦しを与えはしません。無論、本人の態度次第で酌量の余地はあります」  
と彼女は認めた。  
「しかしさっきの態度は誠意とは程遠いものだった。そう思うでしょう?」  
「だが、さっき君らが話したのは1分間――たった1分だぞ!  
それで全てを判断するのは不公平だと思わんかね?」  
「叔父さんは奴を知りません。私は知っています」  
と彼女は突き放すように言った。  
「知りすぎるほどにね」  
 
「いいかチャーリイ、いたずらに敵意を煽るのは良くないことだぞ」  
30年以上もの間、洗練された組織的な暴力に携わり、表沙汰にできる分だけで3回の実戦に参加した男は言った。  
「相手に敵意が無いなら、衝突は回避すべきだ。衝突が生じれば誰かが負けたり傷ついたりすることになり、  
良い結果に終わることはまずありえない。考えてもみろ。我々のなかでいちばん脆弱なのは誰だ?」  
「ダニー」とシャルロットは認めた。  
「しかしダニーには私がいます!」  
「母親が全てを防げると思うのは間違いだ。自分の母親と父親がひどくいがみ合っているのを見て、ダニーは  
どう思うかな?」  
それが彼女の痛いところをついた、と彼は見て取った。  
彼女は顔を背けて黙った。2回深呼吸し、呟くように言った。  
「どうすれば、いいというんです?」  
「彼に機会を与えたまえ。もっと冷静に話してみることだな。話し合い、和解せよと言いたいところだが、  
お前にそこまで求めるのは酷だろう。だが、さっきのようにすっかり頭に血が上った状態ではなく、落ち着いて  
話すことくらいはできる。そうだろう?」  
「そうですね」  
と彼女は不承ぶしょうながら同意した。  
「それから、自分の最大の親友とよく話し合ってみること。つまり、自分自身だな」  
そう言ってゲルサンは微笑した。少なくとも彼の目から見て、彼女がディーンを心の底から憎んでいるとは  
思えなかった。  
午後のあいだ、姪が静かに思いに耽るのを、彼はあえて止めようとは思わなかった。  
 
 
 翌朝、ゴドウィンとゲルサンが出勤したとき、事務所の前の歩道の端にディーンが腰掛けているのを見て、  
ゴドウィンは思いがけず安堵感を味わった。  
鮫に追われている遭難者は、鮫が見えなくなると、死角から襲ってくるのではないかと逆に不安になると言うが、  
今の私がまさにそれだな、と彼女は思った。それは少なからぬ自己欺瞞を含んでいた。  
ゲルサンはエリダンに微笑みを見せると、姪の肩をぽんと叩き、ハーバーのほうに歩み去った。  
「ハイ」  
彼女はできるだけ明るい声で挨拶し、エリダンを喫茶店に誘った。  
 ゴドウィンはマスターに挨拶すると、ディーンを一番奥の席に座らせて、自分もその向かいに腰掛けた。  
「ここのコーヒーはとても美味しくてね。あたしの叔父さんはすごくコーヒーにうるさいんだけど、この町で  
ここのコーヒーだけは認めてるんだ。それで、こっちの客が少ない雨期のあいだに、あたしがこの店で修行すべき  
だって言うのよ。お前の淹れるコーヒーはインスタントより悪い、半年間みっちり修行して叩きなおしてもらえっ  
て」  
ディーンは少し笑った。  
「そのくせコーヒーが飲みたくなるとあたしに淹れさせるんだから、ひどいと思わない? そんなに文句をいうん  
だったら自分で淹れろっていうのよ、ねえ?  
サンキュー、マスター」  
 
彼女はブラックのままで一口飲み、カップを両手で持って微笑んだ。  
「どう?」  
「おまえの言うとおりだ。確かに美味い」  
それきり、彼らは黙り込んだ。柱時計の針の音すら響きそうな静けさだった。  
煉瓦建て風の店内は穏やかで、雲の切れ目から射す朝の陽光が、広い窓から斜めに差し込んで、彼の顔に陰影を  
与えていた。  
だいぶ痩せたな、と彼女は思った。  
 
「あなた、本当にダニーに会いたいと思う? ダニーは生まれてから一度も父親に会わずに育ってきたのよ。  
あなたの顔も知らないのよ」  
ディーンはその黒い目で彼女を見つめて少し黙っていた。  
彼女はふと、彼らが出会ったときのことを思い出した。  
あのころ、ディーンの目は黒い炎のようで、ともすれば口の中で溶ける砂糖菓子のように甘かった。  
若くて浅慮で無謀だったころを思い返して、彼女は胸に痛みを覚えた。  
彼はあのとき、本当はどう思っていたのだろう?  
彼女に投げかけた言葉は、彼の本心から出たものだったのだろうか?  
 
 ディーンは溜息をつき、ぽつりと  
「会いたい」  
と言った。何かを言いかけてやめ、また口を開きかけて閉じ、そしてまた溜息をついた。  
「会いたいよ」  
と彼は繰り返した。  
「今さら父親面を――」  
「違う」とディーンは断固として言った。  
「違うんだ。父親として会うんじゃなくても構わない。俺は君たちを捨て、そのせいで到底埋められない亀裂を  
作ってしまった。それくらいは俺にだって分かるんだ。ただ、ダニーに会いたい。抱き上げて頭を撫でてやりたい  
し、笑い声を聞きたい。ただそれだけなんだ」  
再び訪れた沈黙を、やがて、くすりと笑ってゴドウィンが破った。  
「あなたって、普通にもしゃべれるのね。悪ぶったしゃべり方じゃなくてね。  
いい、ダニーと話すときには今みたいなしゃべり方をしなさい。  
あの子が汚い言葉遣いを覚えちゃったら困るからね」  
そして、言葉を継いだ。  
「来週の土曜日、ジャンダルムリ(国家憲兵隊)の県憲兵本部で、ヤング・ちびっこ大会があるの。ダニーが  
すごく楽しみにしてるから、絶対に行くと思うわ」  
彼女はそう言い置くと、代金を置いて席を立った。  
 
「すごく、よく似てるんですよ――ダニーに、です。特に目元など…そっくりだと思いませんか?」  
「ふむ」  
とゲルサンは応じて、コーヒーをひとくち飲んだ。  
「それで、彼がやってきたらどうするつもりだね?」  
「ダニーと引き合わせますよ――父親としてね」  
ゴドウィンは肩をすくめた。  
「彼は確かにろくでなしだし、私たちにした仕打ちを忘れたわけでもありません。  
だけど、それでも彼はダニーの父親ですからね…」  
彼女は言葉に詰まるようにして沈黙し、ゲルサンは微笑した。  
 
 そのとき扉が開き、雨の匂いとともに海上憲兵隊のラプラス少尉が入ってきた。  
「こんにちは、ミスタ・ゲルサン。あなたの予感は正しかったです。大佐はもう有頂天ですよ」  
叔父の硬い表情に、彼女は不吉な予感を覚えた。  
凍りついた彼女の顔に気づかず、ラプラスは言葉を継いだ。  
「あのエリダンという男、ボルドーで強盗をやって逮捕状が出ていました。ホテルの部屋はもう押さえましたが、  
あいにくと空でした。まあ、奴はもうこの県から出られはしませんよ。飛行機とホテルには偽造IDを使ったよう  
ですが、それは既に我々の掌中です。県憲兵隊は既に検問をはじめましたし、我々も船舶に目を光らせています。  
空港警察にも――」  
 
 
 胃の中に冷たい鉛の塊が生じたかのようだった。信じられない、という否定が最初に来たが、それを抑えつけ、  
彼女はただちに行動に転じた。  
「叔父さん、ダニーを迎えに行ってきます」  
ゲルサンは一瞬不意を突かれたようだったが、すぐに気づいた。  
「いや、私も行こう。ミスタ・ラプラス、君も来てくれると嬉しいのだが」  
彼はそう言いながら、机の脇にさげたショルダー・ホルスターを取り、ブローニング・ハイパワーを収めた。  
 
 ダニーの小学校から自宅までの道のりは、大人が歩いて15分ほど。少年の場合、その倍に近い時間がかかる。  
彼女はその道を、ほとんど小走りに近い速度で歩いた。海兵隊員としての訓練はそれを抑えようとしていたが、  
母親としての本能が抑えがたく彼女を猛烈に急かしていた。  
ゲルサンは自動拳銃をコックト・アンド・ロックトの状態にしてホルスターに収め、3尉もベレッタに手を掛けて  
それに続いた。  
 しかし、緩やかなカーブを曲がったところで、彼女はなりふり構わず駆け出した。  
立ち止まった彼女の足元には、ひっくり返った水色の子供用傘とダニーの通学用カバンが散らばっていた。  
 
 今やゲルサンとラプラスは拳銃を抜き、油断の無い目で周囲を観察し、脅威に備えていた。  
ラプラスは小型無線機を取り出して連絡を取ろうとしたが、空中に充満した水蒸気と地形のせいで、何度試しても  
つながらなかった。  
しかしゴドウィンは、まるで茫然自失の態で、腰のリヴォルヴァーに手を伸ばすことすら思いつかないありさま  
だった。  
洋上で何度となく直面した危機には即座に対処できた彼女の頭脳もまるで為す術を知らず、その機能を停止  
してしまったかのようだった。  
 やがて、彼女の目が焦点を結びはじめ、視線の先にあるものが彼女の意識に飛び込んできた。  
それは下草に刻まれた、真新しい踏み跡だった。  
 
「まだ新しい」屈みこんで足跡を調べていたゴドウィンが言った。  
「そう遠くへは行っていないでしょう」  
そして、ゲルサンの目をまっすぐに見据えた。彼はその目に冷徹な決意を読み取った。  
「追いましょう。我々自身で」  
ゲルサンは瞬時考え、そして肯いた。  
「いけません――」  
ラプラスが反対しかけたのを、ゲルサンが遮った。  
「だが、君があの丘のところまで行って連絡をとり、県憲兵の応援が来るまでどれだけかかる?  
だいたい、この空模様だと、いつ雨が降り出して、痕跡を流してしまうか分からんのだぞ」  
「しかし、これは我々の仕事です!」  
「あなたは県憲兵隊本部と連絡を取り、応援を頼んで、彼らを誘導しなさい。我々は奴を追います。  
ご心配なく――我々は海兵隊員です」  
ゴドウィンに気圧されて、ラプラスはやむを得ず頷いた。この魅力的な女性は、海上憲兵隊のなかで少々  
下世話な話の対象となることも多かったが、その瞬間、彼は彼女がひどく恐ろしかった。  
 
 叔父と姪のそれぞれが武器を抜き、チェックした。  
ゴドウィンは5発フルに装填したリヴォルヴァーに加えてスピード・ローダーを1個、  
ゲルサンはブローニング・ハイパワーとそれぞれに13発ずつ装填した予備の挿弾子を2つ持っていた。  
また、ゲルサンは東南アジアでの作戦中にさる村の長老からもらった短刀を一振り、ゴドウィンは武器とも  
いえないような、ちっぽけなレザーマンのツール・ナイフを持っていた。  
それが、彼らの持つ武器の全てだった。  
 準備が終わると彼らは顔を見合わせた。ラプラスが思わず敬礼し、二人はさも当然のように答礼した。  
ゴドウィンが頷き、歩き出した。ゲルサンがそれに続いた。  
 
 今や動揺はすっかり払拭され、冷たい怒りと決意だけが青く燃えていた。彼女が彼をほとんど赦しかけていた  
だけに、その怒りはなおさら強烈だった。  
もしも奴が彼女のダニーに何かしていたら――と彼女は考え、そう考えるだけで爪が掌を破りそうになった。  
もし奴が彼女のダニーに何かしていたら、彼女は考えられる限り残虐な手段で即座にエリダンを殺すだろう。  
虎の子に手を出すものが少ないのは、代償があまりに大きいからである。  
子供が危険に曝されたときの母親は総じて危険な存在だが、高度な殺人技術の訓練を受けて、しかも武装  
している若い (したがって体力もある) 母親ほど危険なものも少ない。  
 
「殺すなよ、チャーリイ」  
とゲルサンが言った。彼女は藪漕ぎに夢中で聞き逃したふうを装ったが、彼はなおも言った。  
「ダニーのことを考えるんだ。母親が父親を射殺した、などということになれば、ダニーの心に残すトラウマは  
はかりしれないぞ」  
彼女は倒木を乗り越えようと手を掛けたところだったが、その言葉に動きを止めた。  
「大丈夫ですよ、叔父さん」  
彼女は自分に言い聞かせるように言った。  
「私が撃つのはやむをえないときだけです。軽率に撃ちはしませんよ」  
彼女はそう言うと体を持ち上げ、向かい側に飛び降りた。滑って尻餅をついたが、すぐに起き上がり、また猛然と  
進みはじめた。雨期とあってあたりはぬかるんでいて、彼女はもう泥だらけだったが、この近道でだいぶ距離を  
つめたはずだと思えば、まったく気にならなかった。  
 
 ディーンは自動拳銃のスライドを引き、薬室に弾薬を送り込んだ。彼が持っているのはベレッタの古いやつ、  
シングル・アクションで装弾数も少ないものである。ここに来るだけで既に有り金の大部分を使い果たし、  
立派なものを買う余裕など残っていなかったのだ。もっとも、その理由もありはしなかった。どうせまともに  
使いはしないのだから。  
 彼は傍らですやすやと眠るダニーを見た。少年は、最初は手を引っ張られるままについてくるだけだったが、  
そのうちに進んで彼の隣を歩くようになった。  
この休耕中の畑につくまでの間もその後も反抗の声ひとつ上げなかったのは、この見知らぬ男に何かしら特別な  
絆を感じたからだろうか。ディーンとしてはそう考えたかった。  
 ここについてからも、彼らはディーンが張っておいたテントのなかで話し込んだ。ほんの半時間ほどに過ぎ  
なかったが、彼にとってはこれまでに味わったことのない至福の時だった。  
 だが、それも過去の話、彼にとってはもはや手の届かない楽しみであった。いま、少年は、彼が用意していた  
睡眠薬入りのジュースを飲んで、眠りに落ちている。彼はふと不安に駆られ、寝息を聞いた。  
ダニーの体重が分からなかったせいで、薬を入れすぎたかと危惧したのだ。しかしそれは杞憂に過ぎなかったよう  
で、少年は安らかに眠りつづけていた。  
全てが終わるまで少年は眠りつづけてくれるだろう、ディーンはそう願った。  
唯一の心残りといえば、最後にシャルロットと会うことができなかったことだが、やむをえなかった。  
 
 彼は思いを断ち切り、立ち上がった。  
この畑は小高い丘の頂上を開拓するような形でつくられているが、周りの山から見下ろすことはできる。  
丘とそのふもとはかなり広い開墾地になっているので、視認を妨げる遮蔽物はまったくない。  
テントは鮮やかな蛍光色なので、憲兵隊がヘリコプターを飛ばせば、まず見落とすことはありえない。  
彼がそう思って空を見上げたとき、ちょうど雨が降りはじめた。視線を下ろすと、ふもとの樹木線から人影が出てくるのが見えた。  
もう来たか。それにしても早かったな、と思い、首にさげた双眼鏡を持ち上げて下を見て、彼は思わず口笛を  
吹いた。  
 
 二人が追っていた痕跡は、丘の上へとまっすぐに続いていた。ゴドウィンとゲルサンは顔を見合わせた。  
奴があの丘のうえで待ちかまえている公算は、極めて大だった。  
彼らは無言の同意のもと、銃を抜き、途切れた森から抜け出していった。  
丘のふもとを登りかけたとき、思いがけず丘のうえに人影が現れた。それがディーンだということは、彼女には  
一目で分かった。  
「よく来てくれたな、シャーリー! 二人で話したいことがある! ひとりで上まで来てくれ!」  
と彼は叫んだ。  
「銃を置け! 話はそれからだ」  
ゲルサンの叫びにディーンは肯定のしぐさをし、ゆっくりと身をかがめた。金属質の銀色の光が草の上に置かれ、  
ディーンは両手を頭の後ろで組んだ。ゴドウィンは叔父のほうに顔を寄せて囁いた。  
「私は行きます。叔父さんが援護してください」  
不満を唱えかけた叔父に、彼女は畳み掛けた。  
「奴がそう要求しています。それに、私のほうが叔父さんより足が速いですし、叔父さんのほうが弾数の多い銃を  
持っていますから」  
「やむを得んな。気をつけて行けよ」  
「大丈夫ですよ。私だってただの小娘ではありませんから」  
彼女はそう言って、銃をホルスターに戻した。  
彼女は抜き打ちが上手く、万一のことがあれば3秒かからずに銃を抜き、発砲できた。しかし抜き撃ちがどれほど  
早くとも、完全に射撃体勢を取った相手には及ばない。  
 
 彼女を射線に入れないように、ゲルサンは自動拳銃を片手に持ったままで右手に回り込もうと動いた。  
しかしそれを見たディーンが――莫迦な!――拳銃を構え、ゲルサンに向かって発砲した。  
ディーンが動いた瞬間、ゴドウィンも動いていた。  
銃声が轟くより早く、彼女はなめらかな動きでレディ・スミスを引き抜き、銃を握った右手を前に飛ばした。  
被弾して叔父が崩れおちるのを視野の端で瞬時に捉えるのと同時に左手がそれに加わり、  
彼女は両手構えで速射した。  
 
 頭のどこかが残弾を数えていて、それがゼロになると同時に雨裂に身を投じて身を隠し、ラッチを押してシリンダー  
を開き、空薬莢を振り落とした。  
応射は無かったが、早鐘のような心臓の鼓動と銃声の残響でひどく耳が鳴っていた。  
左手のなかに奇跡のようにスピードローダーが出現したので、それを押しこんでひねった。  
全てがもどかしく緩慢に進んでいた。  
喉に赤銅の味があり、草いきれが腹立たしいほどに臭っていた。  
手首の一振りで、シリンダーがかちりとフレームにはまりこんだ。  
再装填された銃を手に彼女は再び身を起こし、構えた。ディーンの姿は消えていた。  
 
「叔父さん!」  
「こっちは大丈夫だ――かすり傷みたいなもんだ! それより奴を押さえろ! 急げ!」  
装填したリヴォルヴァーを片手に彼女は突進し、無謀なほどの速さで丘を駆け上った。  
 身を躍らせて頂きに飛び出すなり、彼女は照準越しに周囲を探った。  
期待したような、ディーンの死体は見当たらなかった。  
彼女の足元にはでかいレンチと草を踏み荒らした跡があり、血の跡が続いていて――  
小さなテントと、その入り口に銃を持って立つディーンがいた。  
 
 雨で濡れた髪が額に張り付くのに構わず、彼女はリヴォルヴァーを構えてゆっくりと近づいた。  
「観念しなさい。私たちの後には県憲兵隊の小隊が続いているのよ。じきにここに来るわ。  
投降すれば罪も軽く済むでしょう。教えなさい。ダニーはどこにいるの?」  
「やあ、シャーリー。よく来てくれたな、まったく。思ってもみなかったが、会えて本当に嬉しいよ。  
それにしてもひどいありさまだな。かたなしだぜ」  
「ダニーはどこ? 答えなさい!」  
「ダニーはこのテントの中だ。今は眠っているけど、大丈夫、元気だ。君に言われたとおり、ダニーには汚い言葉  
は教えなかったよ」  
あまりにも平然としたディーンの態度に、彼女は混乱した。それを悟られないよう、急いで言った。  
「なぜこんなことを? 私はあなたを赦しかけていたのに――」  
「まず、ジャンダルムリの県本部なんかを君が指定したせいというのがあるね。お尋ね者の俺がそんなところに  
のこのこ行けるわけがないだろう? 息子との出会いを楽しむ間もなくぶち込まれちまうよ。  
それと、俺の時間はもう残り少ない。D2期の前立腺がんでね。もう手術で取ることもできない。そもそも、  
手術も薬も、そんな金なんか初めから無いんだけどな。お前たちに会いに来て、このおんぼろの銃を買うだけで  
もう一文無しさ。おかげでテントは盗まなきゃならなかった」  
彼は心なしか苦しげに言葉を切った。  
「そこでお前に頼みたいことがある。俺を撃ってほしい。見知らぬ憲兵に撃たれるよりは、お前に撃たれて死にた  
い」  
「そんなこと――できるわけがないでしょう!?」  
と彼女は叫んだ。  
「あたしたちが憲兵隊に言えば罪は軽くなるわ。何なら無かったことにしてもいい。薬のお金だってあたしが  
払うわよ。借金したっていい。そんな戯言を言うのはやめなさい!」  
「病院でもらった鎮痛薬が切れちまってね。その後は手持ちのモルヒネを飲んでたんだが、癌ってのは辛いなあ。  
昔はあんなに効いたのに、今じゃ痛みがなくなるだけなんだぜ? 最近はそれでも効かなくて、もう致死量ぎり  
ぎりなんだ。お笑い種だぜ。昔からさんざん使ってたせいで、体が慣れちまったらしい。  
実をいうと、もう体じゅうが痛いんだ。坊主と歩いてた途中からな。今じゃ立ってるだけで精一杯だ。  
だから、お前の手で片をつけてもらいたい」  
「やめてよ…」  
「お前がやらないなら俺がやる。坊主を撃って、俺も死ぬ」  
「やめなさい!」  
ゴドウィンは叫んで銃を構えた。しかし、撃てなかった。銃が震え、狙いをつけることができなかった。  
やがて、彼女は力尽きるように腕を下ろした。  
「そうか、シャーリー、お前はその程度の女か」  
とディーンは静かに言った。  
「それならしょうがないな。お別れだ」  
そう言うなり、さっと銃を持ち上げてテントを狙った。  
 
 彼女はその瞬間、完全な反射に支配された。  
淀みない一動作で銃が持ち上がり、射撃位置についた。  
完全に安定した照準越しにディーンの顔が一瞬見えた。  
その穏やかな微笑みを認識するまえに、彼女の体は、何百回となく繰り返した動作を機械的に遂行していた。  
その瞬間、彼女は発砲していた。  
 
 彼女の射撃は哀しいほどに精確だった。  
125グレインの.357マグナム弾は、ディーン・ユベール・エリダンの鼻梁に命中し、さらに突き進んで脳幹の運動  
中枢を完全に破壊し、そしてすべてを奪い去った。  
その一瞬、彼は荘厳ともいえる沈黙のうちに立ちつくした。  
瞬間は長く引き伸ばされ、彼女の脳裏に焼きつけられた。  
そして、生命を失った体が地を打った。  
 
 彼女は動けなかった。  
麻痺させていた感情が、奔流となって溢れた。  
微笑んでいた――彼女に銃を向けられて。  
彼女はディーンが落とした銃を拾い上げた。  
ひどく軽かった。理由は明白だった。  
 
 彼女は崩れるようにうずくまり、彼の体を抱いて泣いた。  
彼には最初から、少年を撃つ気など、まったく無かったのだ。ひとかけらも。  
「身勝手なひと」  
と彼女は呟いた。  
「本当に、何もかも――全部――私に――押し付けて――」  
その先は言葉にならなかった。  
 
 やがて彼女は立ち上がり、テントのなかに入った。  
そこに、ダニーがいた。何も知らずに、天使のように無垢な寝顔で。  
彼女は少年の口元に顔を寄せ、息を聞いた。そして口元を綻ばせ、ダニーの顔に触れようと手を伸ばした。  
だが、途中でその手は止まり、少年の顔に触れることはなかった。  
彼女はウィンド・ブレーカーを脱いでダニーに掛け、体を覆ってやると、外に出た。  
 彼女は銃を落として顔を空に向け、目を閉じた。驟雨が地面を叩く水音が増した。  
たちまちのうちに、雨が全身を浸した。髪が顔に張り付き、雨が服に滲んで、彼女の肢体を浮かび上がらせた。  
憲兵たちがゲルサンを助け、丘を登ってきたときも、彼女はそのままで立ちつくしていた。  
 
 
 非難されるべきことは皆無だった。武装強盗での手配犯が子供を誘拐したが、その母親はしばしば憲兵隊に  
協力してきた勇敢で善良な市民であり、子供が危険に晒されたため、やむを得ず犯人を射殺した。  
完全な正当防衛として処理され、それに異議を唱えようと思うものもいなかった。  
ただし、彼女自身だけは別だった。  
 
 やはりディーンの与えた睡眠薬は少々多く、ダニーは万一のことを考えて病院に収容された。もっとも、後遺症  
はまったく残らない見通しだった。面会は謝絶された。もちろん家族は別だったが、彼女は病室の入り口のところ  
から少年を見守るだけで、近づくことを畏れるように、決して手を触れようとはしなかった。  
 
 事情聴取の済んだ夜、シャルロット・ゴドウィンは、しばらくの間ダニーの病室のまえで立ちつくしていたが、  
やがて意を決したように扉を開いた。  
 可動式のテーブルの上には読みかけのコミックスが伏せられていて、その脇には小さな熊の縫ぐるみが置かれて  
いた。級友たちやその家族から贈られた花束が、窓際のテレビ台と背の低い移動棚の上を埋め尽くすように置かれ  
ていた。そのなかで、少年は安らかに眠り続けていた。  
 彼女はベッドの脇の椅子に腰を下ろし、息子の寝顔を見つめた。薄暗い部屋の中で、少年の繊細な顔立ちを  
白い月光が照らし出していた。  
彼女はどうにか手を伸ばし、その額に触れた。顔にかかっていた髪の房を払い、そっと頬を撫でた。  
「さよなら」  
彼女は呟いた。  
そのとき、ダニーが突然目を開き、寝返りをうって彼女のほうを見た。  
「母さん――行っちゃうの?」  
「ええ。遠く、遠くにね」ゴドウィンは少年の視線に耐え切れずに視線をそらせた。  
「嫌だ。一緒にいてよ」  
「駄目よ」  
彼女はこみあげる感情を抑えて、告げた。  
「母さんは、あなたと一緒にはいられなくなったの。一緒にいてはいけないのよ」  
「そんなの嫌だ」  
「母さんは行かなきゃいけないのよ」  
彼女は自分に言い聞かせるように言った。  
「母さんも寂しいけど、行かなくちゃ」  
「分かったよ」  
少年は不満げに言った。  
「じゃあ、行く前にキスしてくれる?」  
「ええ」  
彼女はためらいを押し隠し、少年の頬に唇をつけた。そして少年の息がつまるほど固く抱きしめて、耳元に唇を  
寄せた。  
「愛してるわ」  
と囁いた。  
「これまでも、これからも、ずっとね」  
彼女が抱擁を解くと、少年は再び目蓋を閉じ、何事もなかったかのように眠りについた。  
彼女は人差し指で涙を拭い、立ち上がった。  
 
 病室を出たところにゲルサンがいた。少し弱ってはいたが、それでも、老兵はなお立っていた。  
「行くのか」  
彼女は自分の決意を話してはいなかったが、その言葉に驚きはしなかった。  
「はい。もう書類は書いて、地方連絡部経由で送ってあります。明日いちばんの飛行機でロリアンに飛びます」  
ロリアンには、海軍歩兵コマンドー軍団の司令部がある。現役編入を志願した予備役隊員は、必ずここに  
出頭しなければならない。  
 
「お前を止めようと試みようとは思わない。  
お前はダニーにとって欠かせない存在だ。死活的に重要だと言ってもよい。  
しかし、それを指摘しても何にもなるまい。私が何を言ってもお前は聞かないだろう。  
だが、餞別を贈ることは許してもらいたい」  
彼はそう言って、短刀を差し出した。  
「これは私が東南アジアでの作戦を終えて帰国するとき、駐屯していた村の長老から授けられたものだ。  
以後、私は平和のときも戦いのときも、肌身離さずに持ってきた。  
この剣には神聖な獣の霊が宿り、その主の身を守ると言われている。これを今、お前に渡そう」  
 
 両手で重さを量るように持ち、彼女は鞘から抜き放った。葉のような形の刃で、見たこともないものだったが、  
しかし美しかった。武器に特有の凄みのある美しさだけではなく、言いがたく優美で、それでいて寄りがたいよう  
な気品のある美しさを称えていた。何という二律背反だろう、と彼女は思った。これほど美しいものが、殺戮を  
目的として作られたとは――  
彼女が剣を鞘に収めると、ゲルサンがゆっくりと重い口を開いた。  
「我々はいつでもお前を待っている。お前が後に残していく人々のことを、お前には果たすべき責任があることを  
片時も忘れるな。お前は母親であることを求められている。それを妨げることは誰にもできないし、お前が何を  
しようとも変わらない。いいか、絶対に帰れ」  
彼はそこで一度言葉を切り、少し笑って言った。  
「任期を延長でもしようものなら、軍団長に直接談判して、首根っこ掴んでも連れて帰るからな」  
「ありがとうございます、叔父さん。くれぐれもダニーを頼みます。叔母さんによろしくおつたえください」  
千語を費やしても語りつくせないのだから、言葉は少ないほうがよかった。幾度となく共に死線を超えた彼らには  
それで事足りた。  
彼女、母親にして海兵隊員であるシャルロット・C・ゴドウィンは、剣を脇に下ろし、叔父と堅く握手して、  
そして想いを振り払うように背を向けた。  
 
 彼女が外に出たとき、月が隠れた。遥かな水平線で明滅する雷光を除けば、漆黒の闇のなかで病院の窓々だけが  
光を投げていた。  
それを背にして、砂地に落とした長い影とともに、彼女は歩いた。  
歩むごとに潮騒が遠くなり、やがて消えた。  
そのあとには静寂と、彼女が踏むごとに崩れる砂の音だけが残った。  
 
 
 
〈レディ・スミスの囁き 了〉  
 
 
 
 

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