―――生暖かい風が俺の頬を撫でる。
真夏の真っ昼間、雲一つない青空を眺めながら、人気のないバス停のベンチに腰を下ろし、
俺は溜息をついた。
周囲を囲む田畑や山々を眺め、フッと笑みをこぼした。
何をやってるんだ俺は……待ちに待った夏休みが始まったばかりだって言うのに。
「浩平! なに座ってんのよ!」
白いワンピースを着た、ショートカットの少女がすごい剣幕で睨んでくる。
そうだ、こいつだ、こいつが元凶だった。
「もう無理、歩けない、熱くて死んじゃう」
「何をだらしのないこと言ってんの」
こいつは未来。何の因果か、俺が小さい頃におやじの気紛れで、この田舎に越してきた時
からの付き合いになる。
家が隣同士という環境も相まって、こいつとはいつも一緒に遊んでいた、と言うよりは、
単に振り回されていただけなのだが。
困ったことに、数年経った今でもその関係性はあまり変わっていない。
「あのさ未来、俺らは何してんだっけ?」
「ここよ、ここに行くの! 忘れたの? まったく……」
そう言って、俺の鼻先に一枚の紙切れ、いや、地図を突きつけてきた。
「……ああ、そうだった」
「何が「ああ、そうだった」よ、もう……」
怒っていると言うよりは、やや呆れた様子で俺を見る。
少なからず俺にも責任があるとは言え、半ば強引に連れてきて勝手に呆れるなよ。
何だって俺がこんなことをしているか、事の起こりは夏休みに入る少し前の話―――
―――教室でぼーっとしていた俺に、不機嫌な様子で未来が話しかけてきた。
「浩平、あんた昨日の掃除、何さぼってんのよ?」
「お、落ち着けよ、あれは頭痛が痛くて仕方なく……」
「あんたねぇ……はぁ、まぁいいか。浩平、夏休み暇でしょ?」
「今度は何だよいきなり、俺にだって予定くらい……」
「ないんでしょ?」
「まぁ、ないと言えばない」
「だったらちょっと付き合って欲しいんだけど……」
そう言って、俺にある地図を見せてきた。
結構な年数が経ったことを窺わせる紙に、道や木や川、その一部にバツ印の描かれたものだ。
「何だこれ? どこで見つけたんだよ?」
「昨日旧校舎を掃除してて見つけたのよ、それでちょっと興味をそそられてね」
へへへ、と笑いながら、その地図を眺めている。
まあ、あそこなら変な物があっても頷けるな。
旧校舎はもちろん使われていない、だからその一画を一般の方に解放して有効活用して
貰おうと言う、校長の粋な計らいだ。
その結果、各家庭で使わなくなった物を一時保管する場所となり、今はすっかり物置状態に
なってしまっている。
ちなみに、あくまでも“一時的な保管場所”であって、決してゴミ置き場ではない、らしい。
管理は学校側がやっているが、掃除などの雑用は生徒に丸投げになっていたりする。
無論、そこにあるそれらの持ち出しは禁止だ。
「おいおい、見つかったら怒られるぞ」
「見つかったらでしょ? へーきへーき、どうせ分からないって」
確かにあそこにある物のほとんどは、出所不明な物が多いが、困った奴だなまったく。
何と言うか、こうやって人は悪事を重ねていくものなんだろうな、これも人の性か。
などと思いながら、俺はある嫌な予感に捕らわれていた。
まさかとは思うが、ここに行くとか言い出すんじゃなかろうか。
「でね、ここには何かがあると思うの」
「何かって、何だよ?」
「それを確かめに行くのよ、ひょっとしたら何かすっごい物があるかもしれないし」
嫌な予感が的中しそうだ。
「そうか、じゃあがんばって」
「うん、がんばろうね」
「がんばろうねって、何?」
「あんたも来るの」
「嫌だと言ったら?」
「ほほう」
未来の笑顔が、段々と引き攣ったものに変わっていく。なんか悪いこと言ったか、俺。
「掃除当番さぼって、私一人に押し付けて、悪いとは思わないの?」
旧校舎にあるそれらの掃除等は当番制で、各学年、クラスごとに、勝手にローテーションが
組まれている。
くそ熱い中、埃っぽい所に行って、他人様のガラクタ置き場の掃除をしようなんて、
馬鹿馬鹿しくてやってらんない。
こう思う奴はたくさんいるんだが、俺の場合は、組んだ相手がこいつだというのが運の尽き。
まさかこれを引き合いに出すとは。
「それでも嫌だと言ったら?」
「殴る」
「……ハハハ、宝探しみたいで面白そうだな、是非一緒に行かせて貰うよ」
「よろしい、じゃあ日取りとかは後で言うから」
「はいはい」
満面の笑みを浮かべながら、未来は軽い足取りで俺の前から立ち去っていった―――
―――こうして、俺の夏休みが始まったんだっけ。
あの時に戻りたい、いかにだるかろうが暑かろうが、掃除をさぼるなと、自分自身に
言ってやりたい。
そうすれば今頃は、扇風機の前でスイカを食いながら平和な時間を過ごせていられたのに……
「ちょっと聞いてる? まったくいつもいつもぼーっとして。
て言うか、何でここまで来て一番大事なとこ忘れんの?」
「ほら、俺の脳細胞は暑さに弱いし」
「年中弱いでしょ、あんたの頭は」
さらりとひでぇこと言いやがるな、こいつ。
「こんなとこでぐずぐずしてないで、とっとと行くわよ」
「へいへい」
仕方がない、今更後には引けないし。
かなり重い腰を上げ、周りに広がる田園を見渡し、深く溜息をついた。
ああ、日差しがきつい、帰りてぇ―――
―――蝉の声が間近に聞こえてくる山の中。
うっそうと茂る木々のおかげで、日差しは少し和らいでいる。
今どの辺なのか、それすらも分からず、俺は歩き続けていた。
未来は地図に描かれている地形に心当たりがあるとか言っていたが、地図自体がかなり
抽象的な描かれ方だったから、どの程度信用したものか。
このまま遭難と言うことはないと思うが、かなり不安だ。
「まだか? 目的地は」
「もうちょっとよ」
そのセリフは三十分くらい前にも聞いている。
「まさか、迷ったとか、ないよな」
突然、未来の歩みがぴたりと止まり、ちらりと俺を見て、再び歩き始めた。
何だよそれ、迷ったのか迷ってないのか、どっちだ?
いや、もう何も言うまい。そう諦めて、もとい、誓って、俺は再び未来の後を歩き始めた。
なんだかんだ言って、結局あいつのペースに乗せられている自分が、少し情けない。
思えばガキの頃からこうだった、進歩しないな、俺。
「浩平!!」
「ど、どうした!?」
切迫したような声を聞いて、俺は大急ぎで未来の元に駆け寄った。
「あったわ、ほらあれ、絶対あれよ」
一人ではしゃいでいる未来の指さす方に視線を向ける。
剥き出しの岩肌に、ぽっかりと空いた穴、どうやらあれが目的地らしい。
「あれか?」
「うん! 絶対そうよ」
手に持った地図のから顔を上げ、俺に満面の笑みを向けてくる。
洞窟、だよな、こんなとこがあったなんて知らなかった。
「さっ、行こ」
声を弾ませ、未来は洞窟に向かって走り出した。
「お、おい、待てよ」
洞窟の前に来て、間近でそれを見上げる。
入り口は大きく、高さは五メートルくらいはあるだろうか、漫画とかでよく見る感じだ。
結構深いのか、奥の方は真っ暗で何も見えない。
人の手が加えられた形跡はない、自然に出来たものなんだろう。
自然の力って奴なんだろうが、変な違和感がある。
ちらりと入り口の横に佇む、朽ちかけた小さな社が視界に入った。
この場に合っていないような、合っているような、おそらくこれが違和感の正体だろう。
手入れをする人もいないんだろう、荒れ放題と言った感じだ。
どれくらい昔からここに建っているのか、外観からはかなりの歳月を感じさせられるが、
細かいところまでは分からない。
「うわっ! なんか面白そうなのがある」
早速それに反応するバカ一匹が、声を弾ませて祠に駆け寄っていく。
古い祠が面白いとは思わないが、何かを祀っているのは確かだろう。
何かご利益があるかもしれないし、むげにすることもないか。
そう思い直し、俺も未来に続いてその祠に近づく。
「壊したりすんなよ」
「失礼ね、そんなバチ当たりな真似しないわよ」
そう俺に言いながら、祠のあちこちを触り始めている。
「あんま触んなって、それ結構古そうだし、下手するとマジで壊れちまうぞ」
「心配性ねぇ、今からそんなだとすぐハゲて……あっ!」
未来が何かやらかした声を聞いたその時、俺の背筋に凄まじい寒気が走った。
何か得体の知れないものが、背中を這っていったような、強烈な不快感。
周囲を見渡すが、特に何もない。何なんだ? 今のは……
「浩平……」
はっと、我に返って視線を落とすと、未来が蒼い顔で俺を見上げていた。
「一応聞いとく。どうした?」
「壊れちゃった……」
「………」
「どうしよう……」
「…………」
「ち、ちょっと何か言ってよ」
俺は無言のまま祠に近づく。見れば見事に祠の一部が破壊されている。
「どうしようもないなこれは」
「そんなぁ……」
落胆の声を上げ、今にも泣き出しそうな顔で俯く。
ホントは気の小さい奴なんだよな、そのくせ好奇心を掻き立てられると、周りが見えなくなる。
そこが困ったところなんだが、まあ、今に始まったことじゃないし、それよりまずは
この現状を打破しなくては。
「……よし。俺は知らん、こんなものは見ていない、分かったか未来」
「へ? な、何? いきなり」
「だから、俺は何も見ていない、こんなとこにこんなものがあるなんて知らない。
お前は?」
「あ、うん、私も知らない」
俺の意図を汲み取ってくれたのか、未来はこくりと頷く。
黙ってればバレることはないだろうな。
「よし、じゃあ……」
「探検の再開ね!」
帰るか。と言おうとした俺の言葉は遮られた。
まだ続けるらしいな、こいつは……
改めて洞窟の前に立ち、入り口を眺める。
「この先には、未知と神秘とスリルとサスペンスが、私たちを待ち受けているはず。
さあ行くわよ!」
「スリルとサスペンスはいらんだろ」
俺のツッコミをさらりと流して、未来は入り口へと歩いていく。
と思ったら、くるりと振り返って戻ってくる。
「ホ、ホントに大丈夫かな、あれ……」
せっかく無かったことにしたのに、自分から話を蒸し返すなよ。
「じゃあどうする? ボンドでも持ってきて直すか? 日が暮れるぞ」
「う、うん、そうだけど……」
「気にすんなって。それにあれ、長い間放置されてたみたいだし、黙ってりゃ分かんないって」
「……うん。なんかさ、浩平ってこういう時は、すっごく強気になるよね」
「それ誉めてんのか?」
「さあ? どうかなぁ」
何が楽しいのか、クスクスと笑いながら、再び洞窟に向かっていった。
さっきは泣きそうだったくせに、まったく。
やれやれとは思いつつも俺自身、少しこの状況を楽しんでいたりするんだよな。
ぼーっとしてるとまた未来に怒られるな、俺も行くか。
そう、思って歩き出した時だった、俺はあることに気付いた。
……静かすぎる。
さっきまでやたらとうるさかった蝉の声が、ピタリと止んでいる。
それどころか、風が木の葉を揺らす音すらない。
いや、これは単に風が止んでいるだけか……だとしても妙だ。
ここは森の中だ、それも結構深い、なのに何の音もない、生き物の気配すら感じない。
まるで、この場所だけが、何か異質な空間であるかのように……
突然そうなったのか、今まで気付かなかっただけなのか、まさかあの寒気と何か関係が?
分からない、分からないが、嫌な感じだ、何か嫌な感じだ。漠然としているが、とても悪い
予感がする。
未来はすでに洞窟に入ってしまっている。
「おい、未来! ちょっと待てよ、おい!」
湧き上がってくる不安感に急かされるように、俺は洞窟へと足を踏み入れた―――
―――洞窟の中は、思ったよりずっと異常だった。
今は夏だし、こんな場所だからジメジメしているかと思ったが、そんな蒸し暑さはまるでない。
それよりも、むしろ寒い。ただ気温が低いとか、そんなものとは違う、妙な肌寒さ。
空気も重い。湿気とは別物の、変なヌメリ気がある。
異常だ。完璧に異常だ。
気のせいだと思いたいが、胸騒ぎは大きくなる一方だ。
明かりなんて何もない暗闇の中を、ほとんど手探りで歩く。
壁に着いた手からは、冷たい岩の感触だけが伝わってくる。
懐中電灯くらい持ってくればよかった、これじゃあ何も見えない。
目か慣れるまで、慎重に進まなければ。
目が暗闇に慣れてきたのか、前を歩いている未来の白い服がぼんやりと見える。
この異様さが分からないのか、単に気付いていないのか、すたすたと前を歩いている。
しかも、何やら鼻歌らしきものまで聞こえてくる。
俺は今すぐにでも、ここから逃げ出したい気分だってのに、何だか苛々してきた。
やや音程のずれた鼻歌を遮って、俺は未来に声を掛けた。
「何? どうしたの?
「なぁ未来、もう帰ろうぜ、明かりもないし、これ以上は危ないって」
「何言ってんのよ、ここまで来て……はっは〜ん、まさかビビってんじゃないでしょうね?」
「……ああ、そうだビビってる。だからとっとと帰ろう」
普段ならば否定するところだが、事実恐怖心に似た何かが、俺の心を覆い始めていた。
だからこそ、何より今は一刻も早く、この薄気味悪い場所から離れたかった。
「なんか悪い予感がするんだよ、すごく……」
自分で言うのも何だが、俺の予感はよく当たる、悪いものは特に。
「それにここ、なんだかすごく嫌な感じがするんだ、だからもう帰ろうぜ」
「私は別に何も感じないわよ、気のせいじゃない?」
俺もそう思いたい、だがこの感じは、奥に進めば進むほど、強くなってきている。
何なんだ、俺が必死になってるのに、こいつはさっきから呑気なことばかり……
「そんなの我慢しなさいよ、もうすぐ……」
「いい加減にしろ!」
未来の声を遮り、俺の声が洞窟内に響き渡った。
頭の中で、何かが切れたような気がした。
「さっきから何を呑気なこと言ってんだよ! バカかお前は、ここは変だ、何かおかしい、
なんでそれが分かんねえんだよ!」
なぜ自分がこんなに声を荒げているのかが分からない。
「や、やだ、どうしちゃったのよ、そんなの気のせいじゃ……」
「気のせいじゃない、俺はもうここから出たいんだ! お前に付き合ってこんなとこまで来て、
いい迷惑なんだよ!」
声を荒げる俺に、さすがの未来も少し引いてしまっている。
苛ついていたとは言え、一体なぜこんなに俺は怒っているんだろう、こいつの無茶に付き合う
のは、もう慣れたと思っていたのに。
「た、確かにちょっと強引だったかもしれないけど、そんな言い方しなくても」
「じゃあなんて言えばよかったんだ? ああ? もう嫌だ、こんな所にはいたくない、
うんざりだ」
「……そんなに私といるのが嫌なの?」
「当たり前だろ、何が楽しくってお前なんかとこんな所に……」
ここの雰囲気に当てられたんだろうか、無性に苛々して、それを未来にぶつけている。
最低だ……
未来は黙ったまま、肩を震わせてうつむいている。
その姿を見ていると、何だかいたたまれない気分になってくる。
「なあ、未来……」
だから帰ろう、そう言い掛けた時。
「じゃあ帰れば、そんなに帰りたいならとっとと帰りなさいよ!」
いきなり顔を上げて、今度は未来が怒鳴り声を上げた。
「お、おい未来」
「無理して付き合ってくれてありがとう! じゃあね、バイバイ!」
そう言って、くるりと背を向けて歩き始めた。
……何だよあいつ、勝手に人を巻き込んでおいて、ふざけやがって。
「ああそうかよ、じゃあ勝手にしろ!」
遠ざかる未来の後ろ姿にそう言って、俺は出口へと踵を返した―――
―――苛々する、本当に腹が立つ。
何なんだよあいつは、いつもいつも、勝手なことばっかり、もうどうなろうと知った
こっちゃない。
ふと後ろを振り返る。
暗闇の向こうには、動くものは何も見えない、やはり嫌な感じがする。
洞窟の壁を見て、ぞくりと寒気が走った。
ぼんやりとだが、ごつごつとした岩の壁が、無数の人の顔に見える。
ここはやはり異常だ、未来の奴、大丈夫かな。
いや、もう知ったこっちゃない、あんな奴。
……だけど。
もう一度、洞窟の出口、小さな光を見て、洞窟の奥を振り返る。
どこまで続いているのか、漆黒の闇が広がっている。
「あぁ〜もう、くそっ!」
気合いを入れて、俺は洞窟を進み始めた。
出口とは真逆の方向に。
バカだ、とんでもない大バカ者だ。俺は―――
―――しばらく歩いたが、未来の姿は見えてこない。
結構進んだのだが、まだ追いつけていない、本当に奥に進んでいったんだな、あのバカ。
変に体が重い、何か悪いものを感じ取っているのか、この先に進むのを拒んでいるかのようだ。
胸が苦しい、何もないだろうな。くそっ、こんなことなら最後まで付き合っとくんだった。
早足で歩いていると、奥に明かりが見える。
出口? どこかに繋がっていたのか、ここは。
俺は急いでその光の方へ向かっていった。
そこにはだだっ広い空間が広がっていた。
家なら一軒くらい丸ごと入りそうな、いや、それでもまだ余裕がありそうだ。
光の正体は上に空いた穴だ、そこから太陽の光が射し込んで来ている。
雨水が溜まって出来たんだろうか、小さな池のようなものがある。
自然が創り出したものなんだろう、幻想的な光景だ。
そんなことよりあいつだ、一体どこに行ったんだ。
俺は周囲を見渡すが、未来の姿はどこにもない。
どこかに隠れているのか、それとも本当に何かあったのか、いや、きっとどこかに隠れている
はずだ、そうに決まっている。
「わっ!」
「うわあああぁぁぁーーー!!」
背後からの奇襲、急いで逃げようとしたが、足がもつれてしまい、転んでしまった。
「いってぇ……」
「ぷっ、くくく、あははははは……」
振り返ると、未来の奴が腹を抱えて笑っている。
「未来、お前……」
「はぁ、はぁ、い、今のリアクションは、なかなか」
笑いながら、俺に向かって親指を立てる。
「お前なぁ、勘弁しろよ、寿命が縮んだらどうすんだよ」
「この程度で縮むほどヤワでもないでしょ」
「言ってくれるね」
砂埃を払って立ち上がり、じっと、未来を見つめる。
「な、なによ?」
「いや、お前、さっきまでなんか怒ってたのに、どうしたんだ?」
「え? ああ、えぇと、さっきの浩平のリアクション見たらすっきりしちゃった」
えへへ、と舌を出しておどけている。
人が無様に転ぶさまを見て機嫌を直すのもどうかと思うが、直ったならそれに越したことはない。
「それに、……くれたし……」
「へ? なんだって?」
最後の方がよく聞き取れなかった、聞き流そうとも思ったが、ちょっと気になった。
「それになんだよ、聞こえなかった」
「べ、別になんでもないわよ、そ、そう言う浩平こそどうしたのよ、あんなに嫌がってたのに」
「俺は……アレだよ」
お前が心配だったから、何て言えるはずもない。
「アレって何よ?」
「アレはアレだよ、お前一人だと何やらかすか分かんないからな」
「何よそれぇ」
むっとふくれっ面になった未来の視線をかわし、周囲を見渡す。
「にしても、ここすげぇよなぁ」
「もう、そうやってすぐ話題変えようとするんだから、まったく」
はあ、と溜息混じりに未来も周囲に目をやる。
「確かにすごいよね、こんな所があるなんて知らなかったなぁ」
未来と一緒に、頭上に空いた大穴からまだ青い空を見上げる。
どうやってこんな空洞が出来たのか、浅学な俺には理解はできない。
日の光が池の水に反射して、キラキラと輝いている。
数百年か、もしくは数千年かけて創り出されたんだろうか。
何だか感動してしまう。
色々あったが、この光景を見れただけでよかったと思える。
ふと、隣の未来に視線を向けると、無言でじぃっと、俺の方を見ている。
「なんだよ?」
「え? あ、別に、なんでも……」
「気になるだろ、そんなに睨まれたら」
「に、睨んでないわよ……ただ、その、なんか子供みたいだなって」
「なんだよ、バカにしてんのか?」
「ち、違うってば、だから、その、ううん、やっぱりなんでもない」
ものすごく気になる。いや、変に勘ぐってまた機嫌を損ねられたら困るな、これ以上は
追及しないでおこう。
「なんかさ、こうしてると子供の頃を思い出さない?」
「ん? ああ、確かにな……」
そう言われりゃそうだ、ガキの頃はそれこそ一日中野山を駆け回ってたっけか。
何せここは田舎だ、他にやることもなかったし、がむしゃらに遊んでたっけ。
まぁ、それも子供の頃のことだ。
「最近じゃあ、二人でそんなこともしなくなっちゃったしね。
なんか……懐かしいね」
「はっはっはっ、いつまでもガキのままじゃいられないさ」
「そう……だね」
ふっと、未来の表情が曇る。
どこか憂いを秘めた感じの、悲しげな表情だ。
胸が締め付けられるように感じた。
何と言うか、こいつにこんな表情は似合わない。
「ま、と言ってもこんなバカやってるようじゃ、まだまだガキだな、俺ら」
「フフッ、それもそうだね」
クスクスと、まるで子供のように楽しげに笑っている。
それにつられて、俺も笑う。うん、やっぱりこうだよな。
ここに住んで長くなるが、こんな所があるなんて今まで聞いたことはない。
たぶん誰にも知られずに、ずっとここに存在していたんだよな。
これは確かに、未来の言った通り神秘的だと言える。
大自然の神秘か、凄いもんだな。
ふと頭上を見上げると、大穴から見える空の色が、少しずつ茜色に染まり始めていた。
そろそろ本当に帰らないと、このままだと山を下りる頃はとっぷりと日が暮れてしまう。
「もうちょっと見て回ろっか?」
「はい? おいおい、日も暮れかけてるんだぞ」
「だってせっかく来たんだし、いいじゃない、ちょっとだけ」
お願い、と、手を合わせてちらりと俺の方を見てくる。
仕方がないな、どうせ、ダメだと言ってもごねるだけだし。
毒を喰らわば皿まで、昔の人も面白い言葉を残したもんだ。
「分かったよ、ちょっとだけだぞ」
「さっすが浩平!」
再びやや音程のずれた鼻歌を奏でながら、軽い足取りで歩いていった。
しょうがない、俺も適当に見て回るか、何もないだろうけど。
二人で手分けして空洞の中を見て回る。
広い、俺の家なんかより広いかもしれない。何か悔しい……
池、と言うよりでかい水溜まりだな、これは。
覗き込んだ水面に自分の顔が映る。案の定、生き物なんていない。
手を浸けてみるとヒヤリと冷たい、飲めたりはしないだろうな、腹痛になりそうだし。
あの感覚は何だったんだろう。今は不思議となくなっているが、ここに来るまでにあった、
あの嫌な感じ。
やっぱり気の持ちようだったのかな。
さてと、これからどうしよう。
「おーい、浩平」
何か見つけたのか、未来の呼び声が聞こえる。手に着いた水を払い、声のする方へ向かった。
「どうした? まさか何かあったのか?」
「ふふふ……」
何やら不敵な笑みを俺に向けてくる。
「何だよ?」
「じゃーん! こんな見つけちゃった」
そう言って、俺の前に差し出されたのは、一振りの日本刀だった。
まさに時代劇で見る刀、そのまんま、そう、そのままだ。
何年くらいここにあったんだろうか、少なくとも手入れなどはされていないはずだ。
柄の部分が若干綻んでいるが、それ以外は何もない、長い間風雨に曝されていただろう
にも関わらずだ。
別に骨董関係に詳しい訳ではないが、大した価値はないように思えた。
「ね、ね、なんか値打ちものっぽくない?」
「どうかな? 二束三文にもならないと思うけど」
「ロマンがないわねぇ、ちょっと待って……」
刀の柄を握り、刃を抜こうと力を込め始める。
顔を真っ赤にしてがんばっているが、刀が抜ける気配はまったくない。
「ん〜〜〜……はぁ、ダメ、全然抜けない」
やはりダメだったらしい、断念して刀を俺に差し出す。
「錆び付いてんじゃねえか」
俺も刀を手に取って、抜こうとしてみたが、まるっきりびくともしない。
「ダメだな、錆びてるだろ、これ」
「あ〜あ、お宝だと思ったのになぁ」
口を尖らせて心底残念そうにしながら、俺のことなどほったらかしでまたふらふらと
探索を始めている。
手に持った日本刀は随分と重い、こんな物を振り回して戦ったりしてたんだな、昔の人達は。
俺には出来そうもない。
……どうしようこれ。もって帰るのもアレだし、かと言って手ぶらで帰るのも何だか嫌だし。
「こ、浩平! ちょっと来て!」
そんなことを思案していた俺の耳に、また未来の声が飛び込んできた。
さっきのは今までとはちょっと感じが違う。
何か、とんでもない物でも見つけたのかもしれない―――
―――声のした方へ向かうと、未来が一点を見つめたまま立ち尽くしていた。
俺もその視線を追う。
「なんだ……あれ」
目に入ってきたのはでかい虫。
どす黒い体に六本の足、大きさはそれこそ大型犬くらいはある。
外見は一言で言うとゴキブリに似ているが、口にはカミキリ虫のような、大きな鋏を連想
させる顎、と言うより牙が存在している。
黒光りする半球状の大きな眼、長い触角、連なっている頭、胸、腹。
フォルムは昆虫そのものだが、それらとは別に、明らかに異質なのが背中から生えている。
そこにあるのは四枚の羽ではなく、無数の管のようなものが存在していた。
これはやばい、背筋がゾクゾクする。こんな物を見て喜ぶアホは……
「すっごい! なにこれ」
いた、それもかなりの至近距離に。
ずっこける俺を後目に、スタスタとそれに近づいていく。
「なんだろうね、これ……」
「分かるか、んなもん」
未来に続くように、俺もそれにおそるおそる近寄る。間近で見るとさらに気味が悪い。
作り物とは違う、妙に生々しい。今にも動き出しそうな感じだ。
だが、その背から生えている管は、まるで枯れ木のように萎れてしまっている。
いびつな体の上に溜まった砂埃や、何の動きも見せないところから見て、死んでいる、
と判断していいのか。
……胸騒ぎがする。何か悪いものを見ているような、嫌な気分になる。
「なんか不気味ね」
「ああ、気味が悪いな、もう行こうぜ」
「これって、本物なのかな?」
「お、おい待てって」
俺の制止も聞かず、未来はそれの体を足の爪先で小突いたり、触角に触れたりしている。
確かに本物とは思えないが、こんな気色の悪いモノに触るなんて、そっちの方が有り得ない。
バカもここまでいくと賞賛に値するな、これは……
そんなことを考えながら、オレは視線をそれに向ける。
まるで鏡のように、その眼に映る自分の姿を見た。
その瞬間、俺の背筋にすさまじい寒気が走った。
悪寒、と言うべきか、全身の毛が逆立つ、体が震え、刀を持つ手に自然と力が籠もる。
この感覚は祠が壊れた時と、洞窟を歩いていた時のものに似ているが、度合いとしては
比べものにならない。
全身から嫌な汗が噴き出す、体の震えが止まらない。
「浩平? すごく顔色悪いよ、どうしたの」
はっと、我に返ると、未来が心配そうな面持ちで、俺を見上げていた。
「あ……ああ、大丈夫だよ」
と言っても、正直、吐き気に近い感覚に襲われている。
そんな俺の状態を察してか、未来もそろそろ帰ろうと言いだした。
「そ、そうだな……しかし、手に入れたのが日本刀一本だけか」
「何よ浩平ってば、なんだかんだ言って、そう言うこと考えてたんじゃん」
「まあ、せっかくこんなとこまで来たんだし、なんかあったほうがいいだろ、記念にさ」
「記念ねぇ……」
未来の視線が刀に向く、金銭的値打ちがないのが気に入らないのか、これを見つけた時とは
対照的な、冷ややかな視線だ。
現金な奴だな、何とか刀が抜けないものかと、柄を握って力を込める。
すると、あっさり刀が抜けた。無駄に力を入れすぎたせいで、勢い余って地面に尻餅を
ついてしまった。
「だ、大丈夫?」
「ああ、まあ……」
かなり尻が痛いが、それ以外には特に何もない。
「こ、浩平! 手が……」
言われて自分の手を見ると、左手の指から血が出てる。
切り傷だ、転んだ時に付いたものじゃない、多分、刀を抜いた時に付いたものだ。
指に付いた傷から、ポタポタと赤い血が地面に流れ落ちている。
不思議と痛みはない、心配そうにしている未来をなだめ、立ち上がって日本刀を拾う。
何でいきなり抜けたんだろう、さっきまではあんなに抜けなかったのに。
刀は刃こぼれ一つしていない、白刃とはこういうのを言うんだろうか、鮮やかな光沢。
それこそ、刃が光り輝いているような感じがする。
いつ造られたかは知らないが、価値はそれなりにありそうだ。
そのことを未来に伝えるが、それよりも俺の傷の方が気になるらしい。
「大丈夫だって、そんなに深いものじゃないし、唾つけときゃ治るよ」
「うん、だったらいいけど……ちゃんと消毒とかしなきゃダメだよ」
さすがに意気消沈してしまったようだ、刀を鞘に戻して傷を舐める。
舌先に鉄臭い血の味が広がる、血の味はどうにも苦手だ。
「じゃ、行こうか」
そう言って、未来と一緒に出口に向かう。
突然抜けたこの刀といい、あの変な虫といい、意味ありげな祠といい。
こんなミステリーな展開は期待していなかったんだがな。
「う〜ん……ねぇ、アレってひょっとしたら、とんでもない大発見かもしれないわね」
ひょっとしなくとも大発見だろう、少なくとも、俺は大型犬サイズの虫のような生き物
なんて聞いたこともない。
せっかく考えないようにしていたのに、このバカは……
「山奥の洞窟で未知の生物を発見! 学会に発表したら私たち有名人ね」
何やら、当初の目的と違うことを言い始めている。
「明日、色々準備して出直してこよう」
何やら今後の予定まで決めている。
「おいおい、明日また来るのか?」
「ええ、力仕事お願いね」
うなだれる俺の肩をポンポンと叩きながら、勝手に役割を決めている。
来なきゃよかった、マジで……
しかし何だったんだろう、アレは。少なくとも、まともなモノではない。
別段、霊感などが優れているわけではないが、今も感じている寒気に似た嫌な感覚。
気のせいかもしれないが背後に何かを感じる、未来が気付いている様子はない。
長い山道を歩いて、薄気味悪い洞窟を抜け、得体の知れない変なものを発見。
それだけやってこんな不快感を味わうなんて、ここの景色が優美であっても割に合わない。
「結構楽しかったよね」
そう声を弾ませて、にっこりと微笑んでくる。
……まあ、悪いことばかりではなかったし、後になればいい思い出話くらいにはなるだろう。
隣を歩く未来見ながら、呑気にそんなことを考えていた―――
―――ペチャリと、背後から音がした。
気のせいだと思ったが、何かを舐めとるような、湿った音は断続的に聞こえてくる。
振り返るべきか、それとも走り出すべきか、一瞬迷う。
「ひぃっ!」
そんな俺をよそに、未来は振り返ってしまったようだ。
仕方がない、俺も音の正体を確かめるべく、意を決して振り向いた。
言葉を失った。当然だ、さっきの虫がそこにいたのだ。
おまけに、紫色の細長い舌のようなものを伸ばし、さっき地面に落ちた俺の血を舐めている。
俺達は指一本動かせず、ただ立ち尽くしていた。悲鳴も上げず、ガタガタと震えながら……
全身に鳥肌が立つ、今なら分かる。あの嫌な感覚、胸騒ぎの原因は、間違いなくコイツだ。
とにかく逃げなくては、相手はまだこちらに気付いていない、今なら逃げられるか。
いや、ひょっとしたら足がものすごく早いかも知れない。
でもたかが虫だ、闘えば勝てるかも知れない。
いや、そもそもあれは虫なのか、あれは化け物だ、勝てるわけがない。
自分の考えを自分で打ち消していく、最悪の堂々巡りだ。
いや、待て、武器がある、今俺は武器を持っているじゃないか。
刀に手を伸ばしそうとしたその時、化け物が顔を上げ、こちらを見てくる。
半球状の眼球で、俺達を見据えている。
『ギ、ギ……ギ、ギィィィ』
化け物が、今まで聞いたことのないような、例えようのないほどの嫌な音を出す。
「ひ、あ、いやあああぁぁぁーーー!!」
それが張りつめていた空気を破ったのか、未来が悲鳴を上げる。
それとほとんど同時に、化け物が走り出した。それも未来に向かって、しかも以外と速い。
「きゃあああぁぁぁーーー!!」
『ギィィィィィィィ!!』
「くそっ!」
とっさに未来と化け物の間に割って入り、刀を抜こうと手を伸ばすが、それは阻まれた。
日本刀を持っていた左腕に、化け物が噛み付いてきたのだ。
「ぐあああぁぁぁーーー!!」
今度は俺が悲鳴を上げる。腕から全身にかけて、凄まじい痛みが走る。
持っていた刀は手から落ち、俺は何とか逃れようと地面を転げ回った。
しかし、食い込んだ牙はいっこうに離れる気配はなく、むしろさらに深く食い付いてくる。
何とか引き剥がそうとするが、咬む力が強くなるだけで何の効果もない。
足で蹴ったり、殴ったりしたが、その衝撃が腕を通して自分に返ってくる。
腕からおびただしい量の血が流れ出しているのが見える、さらには化け物がそれを、
ジュルジュルと啜っている音までが聞こえてくる。
痛みのせいで呼吸が苦しく、視界が涙でぼやけてくる、体の力は抜け始め、意識が薄れていく。
気のせいか、ただの丸でしかない眼が、ニヤリと笑ったような気がした。
死ぬのか? 俺は、こんなところで、こんな状況で、得体の知れない化け物に殺されるのか?
こんな変なモノに殺されるなんて、何だかすごく悔しい。
……未来は、ちゃんと逃げられただろうか……
「わあああぁぁぁーーー!!」
落ちかけていた意識が未来の叫び声で呼び戻され、それと同時に痛みも戻る。
未来を見ると、俺が落とした、鞘に収まったままの日本刀を振り上げていた。
それを奇声と共に、化け物に振り下ろす。
その衝撃が腕を伝わってきてかなり痛いが、それを止める気力もなくなり始めていた。
幾度となく振り下ろされる刀、痛みのおかげか、頭が妙に冴えてきた。
泣きながら、必死の形相で日本刀を振り回す未来を見上げなら「何で逃げてないんだよ、
お前。てか、抜けよ、刀」と、ツッコミを入れたくなった。
無論、それどころではないが……
固い物がぶつかり合う音が辺りに響き渡る。
化け物はそんなものをまるで意に介していないようで、俺の体に背中から生えている管を、
いや、触手と言うべきか、それを巻き付けてくる。
干からびたようなそれの感触はかなり気色悪いが、締め付ける力自体は弱く、容易く
引き千切れそうだが、そんな力も湧いてこない。
毒でも持っているのか、体の力が抜け、何だかどうでもよくなってきた……
未来の振り下ろした刀が、化け物の頭、眼の辺りに命中した。
『ギィィ!!』
叫び声と共に、化け物が飛び退き、俺達から距離を空ける。
「浩平!! しっかりして、はやく! 立って……」
未来が俺の腕を引っ張って、俺を立たせようとする。
自分の腕を見る。大きく穿たれた二つの穴、そこから流れ出る赤い血、何でこんな目に。
ズキズキと痛む腕を見ていると、何だか腹が立ってきた。
「未来……刀貸せ」
「え? ちょ、なに言って……」
「いいから貸せぇ!!」
未来の手から日本刀をひったくり、鞘から抜いて、切っ先を化け物に向ける。
何で俺があんな奴に、こんな目に遭わされなきゃならないんだ。
そう考えると、ひどく腹が立った。
刀から奴の、化け物の気配が伝わってくる。
白い刀身を見て、化け物は身を縮めて後退りを始めた。
何だ、こいつ、怖いのか? これが……
それを証明するように、俺が一歩近づくと、化け物も一歩下がる。
フッと、笑みがこぼれた。勝てる、こいつに勝てる、殺せる。
『ギ、ギギ、ギィィィィ!』
またあの耳障りな音をさせる。
「ギーギーギーギー、うるせぇんだよお前!!」
刀を振りかざし、化け物に向かって走り出す。それとほとんど同時に、奴も俺に向かってくる。
真正面から飛びかかってくる化け物に向かって、刀を振り下ろした。
意外なほどあっさりと、化け物は真っ二つになった―――
―――二つになった化け物の残骸、緑色の濁った体液を流しているそれは、もう動く気配はない。
体を襲う疲労感に、俺はその場に膝をついた。
息切れしている、ひどく疲れた、体力のほとんどを使ってしまったらしい。
「浩平!」
未来が走り寄ってきて、大丈夫とか、しっかりしてだとか、耳元で騒ぎ立てている。
顔を見ると、真っ青で、今にも泣き出してしまいそうな勢いだ。
平気だと言って、何とか笑顔を作ったつもりだが、どの程度上手くできたかは分からない。
突然未来が立ち上がり、ワンピースの裾を破り始めた。
「お、おい、なにを……」
「じっとしてて!」
キッ、と俺を睨みつけ、傷ついた俺の腕にそれを巻き付ける。
巻き付けると言うより、縛り付けると言った方が正しいかも知れない。
歯を食いしばって、力一杯に傷口を縛っている。結構痛いが、我慢するしかないな。
痛みに耐えている俺の手に、熱い雫が滴り落ちてきた。
それが何かは、見なくとも分かった。未来が泣いているのだ。
「ごめ、ごめんね、浩平、こんな、こんなことになるなんて……」
うつむいたまま、肩を震わせて、俺に謝罪の言葉を述べている。
「浩平の言う通りにしてれば、こんな……私の、せいで、ごめんなさい、ごめ、なさい……」
震える声も、やがてはただの嗚咽に変わっていった。
何だか、胸が締め付けられるような気分だ。泣いている姿など、見たくはない。
ポン、と、未来の頭に手を乗せる。
「別にお前のせいじゃないだろ、こんなことになるなんて予想できたか? 俺はできなかった、
だからお前のせいじゃない、分かったか」
「浩平……でも、ひょっとしたら私があの祠を壊したから、だから……」
謎の化け物と謎の祠、無関係とは思わないが、俺がこうなったのとそれは別な話だ、と思う。
「だとしても、お前が気に病むことなんてないさ、これは単に俺がヘマしただけだし、な?」
涙でぐしゃぐしゃになった未来の顔に向かって、俺は腕の痛みをこらえて、できるだけ
優しく笑いかけた。
「で、でも……」
「とにかく出よう、いつまでもここにいるわけにはいかないし」
「う、うん、そう、だね、まだいるかも知れないし」
「いや、アレが最後だ」
「え?」と驚く未来を見ずに、刀を支えにして立ち上がる。
なぜだか俺には分かった、アレが最後の一匹だと、アレ以外にはもういないと言うことが。
この刀と化け物、それとあの地図に、どんな因果関係があるのかは分からないが、この刀が
奴らにとっては恐怖の対象になる物なんだろう。
恐らくは唯一、明確な死を与えるような、そんな感じの物だ。
なぜだか、俺にはそれが分かった。
それが何でここに、化け物と一緒に眠っていたのかは不明だが、あれこれ考えるのは後回しだ、
それよりも脱出だ、こんな所とはとっととオサラバしたい。
未来に鞘を取ってきて貰い、そこに刀を納める。さすがにそのまま持ち歩くわけにはいかない。
折れたり転んだりして怪我をしたら大変だし、剥き身の日本刀を持ち歩くなんて、まんま
ヤバイ人だし。
このままでも十分ヤバイけどな。
未来の肩を借りて、かなりゆっくりなペースで歩き出した。
腕がズキズキと疼く、何か毒でもあったのか、体が熱い。
未来に言おうかとも思ったが、やっぱり止めておこう。これ以上不安にさせたくない。
何せ、さっきから謝ってばっかりだ、しかも半ベソで。
「だから、お前のせいじゃないって」
「ぐす、ひっく、私のせい、だよ、私の……」
やれやれ、こいつはいつもこうだ、何かと人を巻き込んで於いて、それで何かあった場合、
こんな風に泣きながら謝り続ける。
ガキの頃、川に落ちた未来の人形を探して、俺が風邪を引いた時もそうだった。
……懐かしい思い出を掘り起こしてしまった。まあ、腕の痛みを紛らわせるにはちょうどいい。
「そう言えばさ、あのぬいぐるみ、まだあるのか?」
「え? ぬいぐるみ?」
泣いていたせいで、赤くなった目を俺に向ける。
「あれだよ、俺が川に入って見つけてきた、あのクマのぬいぐるみ」
「あ、うん、あるけど……?」
唐突すぎたか、未来はきょとんとしている。それでも俺は構わず話を続ける。
「あの時は大変だったな、なかなか見つからなくてさ」
「う、うん、ご、ごめんね、あの時も、浩平、風邪引いちゃって……」
「じゃあその時した約束も覚えてるよな?」
「うん、覚えてる……けど?」
「そうかそうか、じゃあ分かるだろ?」
俺の言わんとしていることが分からないのか、未来は首を傾げている。
約束とは、俺が未来の我が儘に付き合う代わりに、俺に何かあった時はお前が何とかする、
と言う一種の決まり事みたいなもの。
きっかけは未来の人形を探して、俺が服を着たまま川の中に入って、ろくに乾かさずにいて
風邪を引いたから、これは自体は、俺の自業自得と言える。
のだが、あの時も未来はこんな風に謝り続けていた。
それを見ているのが、何だか辛くなって、思いついたのがこの“約束”なのだ。
あの時は治るまで看病をするとかだったかな、それから……あれ? そう言えば、あれから
この約束が果たされたことって、確かなかったような。
「あ! もしかして、あの“約束”のこと?」
「そうそれ、忘れてんのかと思ったよ、じゃあ、明日よろしくな」
「よろしくって……分かったわよ、何をすればいいの?」
「う〜ん、何がいいかなぁ……」
「あんまり無茶は言わないでよね」
やれやれ、と言った風に、未来が溜息をつくのをすぐ近くで聞く。
少し、ほんの少しだが、いつもの感じが戻ってきたみたいだ。
「なんかおごって貰おうかなぁ」
「えぇ〜、高いのはなしだよ……て言うか、よく覚えてたよね、そんな昔のこと。
浩平のことだから忘れちゃってるかと思ってたけど?」
図星、確かにさっきまで忘れてた。だがそれを言うと、また何言われるか分からんし、
黙っておこう。
「……単に思い出しただけじゃないでしょうね」
鋭すぎるツッコミ。いつもの調子に戻ったはいいが、少々戻りすぎだな。
「失礼な、覚えてるよ、覚えていますとも、あれからそれが果たされていないこともね」
「う、いや、それは、えっとね……」
未来が下を向いて、何やらゴニョゴニョと言っている。
上手く話をそらすことに成功したようだ。よかった、本当に。
腕の痛みは、もう感じなくなっていた。
「それより早く病院行かなきゃ! 化膿とかしたら大変だし」
いきなり未来がペースを上げて歩き出した。
「いたたたた、お、おいこら! 俺はけが人だぞ」
ピタリと、未来の歩みが止まる。
しまった、俺自身がいつもの調子に戻ってしまったら意味がない。
「あ、あのな未来……」
さっきまでの俺はどこに行ったんだか、未来にかける言葉が見つからない。
「ごめん……なさい。私……」
沈黙してしまっていた俺に、未来が語りかけてくる。
「いや、だから、お前のせいじゃないって、こんなことになるなんてさ、誰も……」
「うん、ありがとう……」
何に対しての礼なのか、未来の口調は、とても穏やかなものだった。
「私ね、嬉しかったんだ、久しぶりに浩平と二人だけでさ……
最近はそんなことなかったじゃない? そしたらあんなの見つけちゃって、子供の頃のこと
思い出しちゃって、一人ではしゃいじゃって、こんなことに……」
俺は黙ったまま、未来の言葉に耳を傾けていた。
何だか体が熱い……
「ごめんね、いつも私のわがままに付き合わせて、迷惑だったよね、ホントに、ごめん……」
声が震えている、泣いてでもいるのだろうか。まったく、今さら何言ってんだか。
「迷惑じゃなかったって言ったら嘘になるかな、でもまあ結構楽しかったし、それに、
その、俺だってお前と、同じ、だから」
驚いたように、涙の溜まった目で、俺を見上げてくる。
その顔が見る見る赤くなって、また下を向く。
だんだんと、体の熱が上がってきているような気がする。
心臓が、ものすごい早さで動いている。あんなこと言うなんて、自分でも信じられん。
まあ、ある意味極限状態だったからか、脳内麻薬がどうのこうので、気が大きくなっている
のかもしれない。
たぶん俺の顔は今、凄く真っ赤になってるんだろうな。
あ、だからこんなに熱いのか。
「浩平……?」
「な、なんだ?」
未来の呼び掛けに少々焦りながら、視線を落とす。
頬を赤らめて、潤んだ瞳で俺を見上げている。これは、まさか……
「……すごい汗だよ、大丈夫?」
……ここはずっこけるところか? いや、違うか。
そう言えば、さっきから体が妙に熱い、手の甲で額を拭うと、べったりと汗がこびりついる。
「あれ? へんだ……な……」
突然、全身の力が抜け、俺はそのまま前のめりになって、地面に倒れ込んだ―――