人間は常に『完全』を願い、『完全』に憧れる。  
しかしいくら歳をとろうとも生きている限り『完全』はありえない。  
 
だからこそ人は身を寄せ合い、万物を愛しむ心の広さを持つのだろう。  
 
 
 
「見合い?律子さんが?」  
上着を着ながら幸造さんの体がピクリと動く。  
『さん』なんてつけないでって言ってるのに。  
「いつ?」  
「再来週の15日だって言うのよ。急な話しだし困りますって言っても聞いてくれなくって。」  
 
2日前、部長に薦められた話だった。  
『塚本さんももう27歳だろう?そろそろこんな話も君に必要なんじゃないかと思ってね。』  
そう笑う部長の提案は私にとって迷惑以外何物でもない。  
 
部長は…いや社員全員考えもしないんだろうな。私、塚本律子(つかもとりつこ)と今年38になる完全無欠の仕事の鬼、  
佐々木幸造(ささきこうぞう)さんが1年半も付き合っているなんてこと。  
「久しぶりなのにこんな話でごめんなさい。それでね…」  
部長に私たちのこと話してもいい?そう言おうとして幸造さんにさえぎられた。  
「へぇ。そうなんだ。」  
え??  
へぇそうなんだ?  へぇそうなんだ!!!???  
表情すら見えないがもっと何かないんだろうか?  
やっと顔が見えたと思ったら、想像とは違うさわやかな笑顔だった。  
「やってみればいいよ。何事も社会経験だ。別に俺たち付き合ってるわけじゃないんだし」  
「え?」  
「さて、俺明日も早いしもう帰るよ。」  
ポンッと膝をたたきながら立ち上がる。それこの前おじさんっぽいって言ったばっかりなのに…。  
ポツンと部屋に残され、こんなにもやもやしている原因を追究する。突然答えが出た。  
(え!?さっき付き合ってるわけじゃないって言った!!??)  
完璧落ち込んでしまった。そうか…そうだったんだ。  
 
言われてみれば…  
幸造さんに抱かれるようになって1年半と言うだけでそのきっかけも酔った勢いという情けない話だ。  
付き合うとかちゃんと話したことはない。それどころか好きってことも。  
でももう大人なんだし、言わなくても分かると思ってた。確かに酔った勢いではあったけど、私はずっと幸造さんが好きだったし。  
 
そのベタボレの幸造さんは調査一課の課長で、175cmのすらりとした体系。  
余計な肉がついてないし、結構端正な作りだから密かに女性社員の憧れにもなっていた。  
まぁ歳が歳だし、仕事以外何も見えない仕事バカだから誰も寄ってはいかなかったけどね。  
 
私もずっと怖かったけど、徹夜明けの残業でつい寝てしまった私の仕事を、黙って片付けてくれたことがあった。  
緊張しないで話せだしたのはあれからかしら?  
怒鳴られると思っていたけど、予想に反して優しく笑っていた幸造さん。『今度おごれよ。』って頭を軽くたたかれたけど…。  
「なんかめちゃくちゃうれしかったんだよなぁ。」  
目を細め、うふふと笑う自分に気づき、かなり不気味に思う。  
軽く咳払いをすると窓から入る月の光を見た。  
 
「お酒入ってたから遊びだと思ってんのかしら?」  
…あの日お酒に頼ったのは、歳の離れた幸造さんにぶつかる勇気が…あと一歩が欲しかっただけなのに。  
 
 
「なによあのオヤジ!あんたなんか私が相手しなかったら誰も相手しないんだよ!!」  
梅酒のロックを飲み干しながら勢いよく叫ぶ。  
「うるさいよ。ってかありえない。お前の方が佐々木さんいなかったら相手にされないんだよ。」  
同期の美紀がうんざりした顔で言う。美紀は幸造さんとの関係を唯一知っている優しく冷たい友人だ。  
 
いつものように会社近くの居酒屋で私の愚痴に付き合ってくれていた。  
「なんでよ。幸造さん38だよ?世間様じゃあ立派な行き遅れだよ!あんな仕事人間好きになる女見てみたいねー!」  
「律が言うんだそのセリフ。いや今の時代38くらい行き遅れじゃないし。そんなこと言うんだったら27の女だって行き遅れ一歩手前だよ?  
ってか佐々木さん律より片付けうまいじゃん。器用だし。あれって会社だけ?」  
「…美紀…自分が結婚してるからって余裕ね。」  
「歳のことばっか言うけどさー。佐々木さん加齢臭する?中年太りしかけ?女に困って見える??」  
「…し、しない!見えない!!くやしい!!!だってかっこいいんだもん私の幸造さん!!!」  
「あんたのじゃなかったけどね。ご愁傷様。まずはお付き合いからだね。」  
 
しれっとお酒を口に運ぶ美紀の顔を睨む。あぁこんな口達者な女が友達で幸せです。  
 
コップを置いた美紀が私に向き直る。  
「もー!こんなとこで愚痴らないで佐々木さんに直接言えばいいじゃんそのまんま!なに我慢してんのー?」  
「だって…。もう大人だし。…自分の感情喚き叫ぶなんてどうかと思って…。」  
「大人…ね。まぁいいけど。いい?我慢して自分が耐えておけば続くなんてことありえないんだよ。  
元は他人なんだから。その分いっぱい話して自分をわかってもらわないと…。ね、それよりあんたお見合いどうするの?」  
「断るわよもちろん。」  
「会うだけ会ってみりゃあいいのに…」  
そこまで話すと美紀の言葉をさえぎって着信の音が響いた。美紀がどうぞというジェスチャーをしたので電話を取る。  
見ると幸造さんからだった。  
「も、もしもし?」  
「あ俺。律子さん今平気?思ったより早く仕事終わったから今から家行かせてもらおうかと思って。」  
やったぁ!!!!!  
「あ。そうなの?」  
心の中でお祭り騒ぎだったけど声はあくまで平常心。  
顔だけはにんまりと満面の笑顔だったようで、それを見た美紀が『しっしっ』と聞こえるほど手を振って行く事を許してくれる。  
「じゃあ15分くらいよね?お疲れ様、気をつけてね。」  
電話を切ると呆れた美紀の冷ややかな目がある。  
「また飲んでるの内緒か!キャラ作ってて疲れない?大人ってそんな自分を押さえつけなきゃダメなんだ。」  
「あはは♪嫌われる要素はなるべく消しとかないとね!」  
もうどんな嫌味も打ち消してしまうほど幸せです!  
水を飲み干し、口臭消しを口に振りかけお酒の匂いを消す。  
 
「ごめんね次おごるから!!ありがとう美紀!!」  
「わかったわかった。早く行けー。」  
整った美紀の顔がふっとほころぶ。あーもうなんて綺麗で優しい人なんでしょ。頭に抱きついてちゅーしてやる。  
ぎゃあって声を背にして足早に店を出た。  
 
ダッシュして5分で家に着く。  
残り10分程度。  
とりあえずビール飲んでもらってその間にご飯作ろう。もう11時だし軽くの方がいいかしら?幸造さんすぐ胃が痛くなるし。  
台所に昨日作った里芋の煮付けが残っているのに気付く。これとお茶漬けとあと豆腐あったから冷奴にお味噌汁でいいでしょ。  
というより時間内に終了させるにはコレしかない!  
メニューが決まったところでとりあえず煮付けに火をかけ、まとわり付くお酒の匂いを香水で消す。  
アロマのロウソクに火をつけたところで玄関のチャイムが鳴った。  
 
「どうぞ。」  
髪の毛を微妙に整えながら迎え入れる。幸造さん!スーツもうやばいって鼻血でる。  
「ごめんね、まだ作ってないのよ。ビール飲んで待っててくれる?」  
「ん、悪い。軽くでいいから…あれ?」  
台所を通り過ぎようとした幸造さんが振り返りドキリとする。  
「な…なに?」  
ふっと笑う声が聞こえる。幸造さんの大きな手の甲が私の頬に軽く触れ後ろによろめく。  
「酒飲んだ?律子さんって顔にすぐ出るよな。」  
くるりと回りリビングに歩く幸造さんの背を見る。あぁもう私がこんなドキドキしてんのに何とも思わないの!?不感症!!  
い、いやそうじゃなくって…しまった。ばれた…こんなに用意周到だったのに!!まさか顔色で!!  
「う、うん。美紀と一緒に…さっきまで飲んでたの。」  
「隠そうとしてた?あははっいいのに。あ。じゃあ途中で抜けさせたんだ。悪いことしたね。」  
隠そうとしてたことまでばれた…。恥ずかしいままうつむいてすごすごと幸造さんの後を付いていく。  
ちょうど温まっていた煮付けを皿に盛り付けた。  
「でも明日から気にしなくていいよ。俺ちょっと…あっ煮付け!うまそう。」  
話の途中で煮付けに気付き、うれしそうに箸をむける。こんな大きい身体でかわいいなぁ。  
ちゃっちゃっとさっきのメニューを作り終え、早く行きたかった幸造さんの横へ座りビールをつぐ。  
「わぁ!味噌汁までありがとう。器用だよな〜短時間で。」  
何を作っても喜んでくれる幸造さんが好き。  
男らしい食べっぷりでお皿からドンドン食べ物がなくなってきた。少しだけ残った味噌汁を全部飲み終わり、  
幸造さんがごちそうさまでしたと芝居がかったように言った。  
 
「律子さん。」  
お皿を引く私を目で追いながら幸造さんが言った。  
「俺、明日からお邪魔するの控えるよ。せめて再来週まで。」  
「え?」  
再来週?再来週ってまさか…。  
「もし俺がここに出入りしてるの見られたら大変だろ?見合いどころじゃなくなるし。」  
どうして?  
どうして幸造さんがお見合いを進めようとするの?  
手が震える。片付けようとしたお皿をテーブルに戻して座りなおした。  
「幸造さんは…私がお見合いしていいの?」  
私が別の人と結婚を前提としたお付き合いをするかもしれないのに。  
お願い。お願い。一言でもいいからイヤだって言って。  
幸造さんが私に向き直り静かに口を開く。  
「律子さん。人に決心を委ねるのは簡単だよ。だけど君も大人だろ?自分のことは自分で考えるようにしないとダメだ。」  
血の気が引く。  
『自分のことは自分で…』  
ぽーんと突き放されたようだった。私達2人の問題ではなかったんだ。幸造さんは私の好きにしろって、勝手にしろって言ったんだ。  
もしかしたらこれを機に私との縁を切りたいのかもしれない。  
再来週とは言わず、もう2度と来ないつもりかも…。そうでなければこんなにもお見合いに協力するだろうか?  
「そ……ぉね。」  
声がかすれるのに気付き、語尾を多少強める。のどの奥に塊を感じながら幸造さんの目を見た。  
「お見合い、するわ。」  
「…うん。」  
確かめるように低い声がうなずき、言葉を続ける。  
「じゃあ。また。」  
目線の先にあった幸造さんの胸が上へと移動し、足が見えたと思ったら視界から誰もいなくなってしまった。  
後ろの方でガチャリとドアの開く音がする。  
 
追いかけるなら今なんだろうな  
 
 
その言葉が妙に冴えた頭に鳴り響くが、鉛のように重い身体は全く動こうとしない。  
 
 
お見合いを決めてから大忙しだった。  
すぐに両親に電話すると男っ気がまるでないと嘆いていた両親はこの話に驚くほど大喜びで、  
心配させていたんだなと初めて知った。  
時間も場所も着々と決まっていく中で私一人どこか実感がわかなかった。  
少なくともこのお見合い相手と結婚するとは露ほどにも思えない。  
 
何の為のお見合いなのだろう?どこかで幸造さんが止めてくれることを待ってるのかもしれない。そんなことありえないのに。  
 
その幸造さんは憎らしいほどいつも通り、楽しそうに仕事をしている。あれから本当に家に来なくなった。  
電話もなく、もともと会社でも仕事の指示以外で話すことものなかった私たちはこの数日で名実ともに他人になったようだった。  
周りに知られることもなく、この人は私の男なんだと感じた幸せごと一日一日消えていく。それが孤独を浮き彫りにさせ、ひどく寂しく思われた。  
 
今の私の望みは「再来週まで」と言った幸造さんの言葉だけ。  
お見合いの日さえ過ぎれば何事もなかったかのようにまた来てくれるようになると、そう信じたい。  
 
 
そして7月15日。今日がお見合いの日。  
 
 
「く、苦しい〜!!」  
私が地獄の底から湧き出るような声をだす。  
「我慢しな!着物ってしっかり絞っておかないとかっこ悪いんだから!」  
冷房が付いているにもかかわらず着付けをしてくれている美紀の額に汗が光っている。  
「って言うか…。なんでこの着物選んだの…。」  
「………」  
恥ずかしい私は無言だった。  
この前母が『着物借りてもお金高くつくから私の着物でい〜い?』って言っていた。  
まるで興味がなかった私はうんうんと適当な相槌だけ返し、一度見ておけと言った母の言葉を無視したのだった。  
 
母の若いころに買ったと言うその着物は誰が見ても目を奪われるほど美しかった。  
手の込んだ刺繍。まだ買ったばかりだと言われても疑わないほど鮮やかな赤…。  
……………  
そう。真っ赤だった。なんだこれ?こんな鮮やかな赤もうすぐ27を迎えようとする女が着てもいいものなんだろうか?  
いくら結婚するつもりのない男性に会うからと言ってもこれは恥ずかしい…!!  
 
「まぁ…たまにはいいかなと…」  
苦し紛れに言う私を美紀はぷっと笑った。  
「あははっ!律っていつもどこかでドジしてるよね。会社で見ると本当にしっかりしてそうなのに。」  
「本当…返す言葉もないです…」  
「そこがいいんだよ。かわいいってことっ!さ。出来たよ。行ってらっしゃい。」  
ぽんっと美紀が帯を叩く。振り返ると子供でも見るような目で優しく笑っている。  
「不器用だねぇ律は。」  
そう言うと私の前髪を直してくれた。なんだか泣きそうになる。  
 
「律子!用意できたの?あらとっても綺麗じゃない!!美紀ちゃん本当にありがとう!ごめんなさいねぇいつもこの娘が…。」  
母が勢いよくドアから入ってきて話す。  
「いえいえ。どうぞ、お急ぎでしょう??」  
「あ!そうなのよ!ほらっお礼言って!急がないと相手の方がお待ちかねなのよ!」  
そういうと私の手首をつかみ急ぎ足で部屋から出ようとする。  
「あ、ありがとう美紀!本当に…!!」  
がんばってと言う声が閉まりかけの戸の向こうから聞こえてきた。  
 
「こちら原口商事の高水涼介(たかみずりょうすけ)さん。まだ28歳なのに係長をなさってる将来有望な男性なんですよ。」  
仲人さんが向かいに座る男性を紹介する。  
「はじめまして。」  
低い声。はじめましてと返しながら見ると、思ったよりいい顔で少し驚く。  
いや、きっと私の着物のほうが驚かせたに違いない。  
「涼介さんご覧になって!律子さんって今時の人と比べると上品で控えめで…いいお嬢さんでしょう?まぁまぁ着物がよく似合って!」  
母に負けず劣らずの話し方。すみません着物の話はしないでください。  
「本当に。なんだか照れてしまってうまく話しが出来ているか心配です。」  
さっきから全然崩れない笑顔に堂々とした声。  
この男、女慣れしてるよ?お母さん。  
「律子さん、お休みの日は何をしてらっしゃるんですか?趣味なんかは?」  
胡散臭い笑顔をむけながら聞かれる。  
「そうですね。家にいることが多いですね。その上無趣味なんですよ。ちょっとした引きこもりですよね。」  
一瞬静まり返る部屋で私の笑い声だけが響く。すました顔でお茶をすすると横に座ってる母が肘でこづいてくる。痛いなぁだって本当だもん。  
しかしこの固定笑顔はめげない。  
「あっはは。飾らない方ですね。外に出ないのはいい場所を知らないからだと思いますよ。僕が連れて行きます。  
人ごみがお嫌いならどこか静かな景色のいい所なんてどうです?」  
まぁっとうれしそうに仲人さんと母の声がハモる。すごいなこの人。  
「あらあらなんだかいい雰囲気ですわね。お天気もいいしお庭で散歩でもしてらしたら?」  
はずんだ声の仲人さん。どうしよう…やっぱり来たかこの時間が。  
「あの、塚本さん。よろしかったら律子さんをご自宅まで送らせていただけませんか?少しの間お借りしたいのです。」  
えぇ!?何言い出すんだこの人。  
「まぁ!いいんですか?まぁ〜!感謝しなさいよ!律子!!」  
顔のいい高水さんに母はもうメロメロのようだった。  
困ったな。口をパクパクさせたまま母と仲人さんの背中を見送るしか出来ない。  
「律子さん。近くに海の見える喫茶店があるんです。紅茶がおいしくて…あ、甘いものは好きですか?」  
「はい。まぁ…。」  
「よかった、ケーキも人気だそうですよ。じゃあそこに移動しましょう。庭で散歩もいいですが、着物は暑いでしょうから。」  
すごい気が利くんだなぁこの人。  
(嫌な人だったらよかったのに。)  
ふと自分のいやらしい考えに気付く。見合いを断りもしなかったくせに、  
いざ見合いをしたら相手を適当に流し断られてしまおうなんて…どこまで私は考えが甘かったのだろう。  
 
車のドアを開け、優しく私を待ってくれる高水さんを見る。  
これじゃだめだ。  
 
 
喫茶店に着いたらちゃんとお断りしよう。  
 
 
「あ…この海…。」  
「いい場所ですよね。さ、着きましたよ律子さん。」  
そう言うと外観だけでもオシャレだとわかる綺麗な喫茶店が目の前に現れていた。  
 
この海岸は、初めて幸造さんとキスしたところだった。  
海岸沿いにこんな喫茶店があるなんて全く知らなかったけど。  
 
中に入ると案の定みんなが振り返って私を見た。うわぁ〜!思った以上に私浮いてるんですけどー!!!  
「さ、どうぞ。」  
椅子を引いてくれる高水さん。紳士的なその態度すら恥ずかしい。これかなりお見合いだってバレてるよね?  
「どうしました?」  
私の赤い顔を覗き込む高水さん。  
「いえ…あの。私といて恥ずかしくないですか?その……真っ赤だし。」  
一瞬置いてぷーっと噴出す声が聞こえた。  
「あはは!確かに真っ赤ですよね。気にしてらしたんですか!?」  
もう赤くなってうつむくしかない。あぁ見てるよあそこの人たちも…。  
「確かに目を引く色ですけど、よく似合ってらっしゃるから平気ですよ。ご一緒して鼻が高いくらいです。」  
ドキンとした。この人絶対もてるよね。  
幸造さんならきっとこんなこと言えない。でも私は幸造さんにそんなこと求めていない。  
私は幸造さんが傍にいてくれるだけで、それだけでよかったのに。  
 
少し雑談を繰り返しふと窓に目をやる。見える真っ青な海が光を反射してまぶしく目に映る。  
いいところ…。幸造さんと一緒に来てみたいな。  
「綺麗でしょう?」  
低い声にドキッとする。こんなに近くに他の男の人がいても幸造さんのことしか考えられないんだ。  
高水さんも時間を割いて来てくれてるのになんて失礼なんだろう。  
早く。早くお断りしないと…。  
 
注文したコーヒーとケーキセットがくる。  
入れ物もとってもかわいらしい。  
高水さんがコーヒーを口に運ぶのを見て私も紅茶を一口飲んだ。  
 
さて…  
 
「さて、律子さん。2人きりです。本音で話しましょうね。」  
「え?」  
また心臓がはねる。高水さん、分かってるの?  
「僕はね、律子さん。まだ結婚する気はないんですよ。」  
崩れない端正な笑顔で私を真っ直ぐ見て言う高水さん。  
へ?あ、そうなの?  
「はぁ。」  
驚いてしまって気のない言葉しか口から出てこない。  
「部長からの話で断れなくてね。いや、あなたがどうこうとか言う訳じゃもちろんなく、  
恥ずかしながら一人の人に生涯を捧げられるほどまだ落ち着いていないんです、僕。」  
ん?それってまだ色々な女の人と付き合いたいってこと??  
「そうなんですか。」  
「まだ遊びたい!まだ遊びたい!!なんて思ってるんです。」  
拳を握って演技をするように言う高水さん。  
「えっと………はい。」  
何も思いつかなくてそう返事をする。かなり変わってるこの人。また噴出す声がした。  
「おもしろいですよね律子さんって!いやすみません唐突で。こんなことを告白する気になったのは、  
あなたが僕の苦手とする一途な方だとお見受けしたのと…」  
おもしろいのはお前だと突っ込みを入れながら次の言葉を待つ。  
 
「もう。別に想う方がいらっしゃるんじゃないですか?」  
 
あぁやっぱり…。この人やっぱりわかってたんだ。  
「はい。…すみませんでした。」  
深く頭を下げる。  
「謝らないでください。僕も軽い気持ちだったからお互い様です。」  
「そう言っていただけると…。」  
「?それにしても浮かない顔ですね。ケンカでもしましたか?もしかして見合いが原因で?」  
隠す気はなかった。何を言ってもこの人には見透かされてしまいそうだった。苦笑しながら答える。  
「ケンカにもなりません。1年半前から一緒にいたので…お付き合いしてると思っていたんですけど、  
私の勘違いでした。彼は大人で…もともと私なんて眼中になかったんですね。」  
仮にも見合い相手になにペラペラ言ってるんだろう?  
でもなんだかこの人すごく話しやすいんだもん。  
高水さんが緩やかに笑う。  
「おかしいですね。ご自分の想いは相手の方に伝えておいたんでしょう?」  
「いえ。言わなくてももうお互いに大人だし。わかるだろうと…。」  
その答えに少し考えるようにして、彼がコーヒーを一口飲んだ。  
「律子さん。自分の好きな人にその想いを伝えることは、まず第一の相手への誠意です。それは大人だとか子供だとか関係のないことなのです。」  
高水さんのはっきりとした言葉は私の中心にぐっさり刺さってくるような感覚だった。  
考え込む私を高水さんは静かに待っていてくれた。  
 
何だろう?このもやもやした気持ちは…。  
今まで必死に間違っていないと思っていたことが全て崩れてしまいそうだ。  
 
 
海の向こうに太陽が隠れようとしている。  
 
 
「律子さん。帰りましょう。」  
ハッとその声に気づくと沈みかけた太陽はオレンジ色を帯びていた。  
「え…あっもう7時半!?」  
「はは。そうなんですよ。食事でもしましょうか?」  
待っていてくれたんだな。本当いい人。  
「いえ。いえもう帰ります。」  
慌てて冷えた紅茶を飲み干す。  
「そうですか。では送りましょう。」  
「あ、いえ。ゆっくり…歩いて帰ろうと思います。寄りたい所もありますし。」  
「わかりました。では明るいところを帰ってくださいね。あなたのお母様に怒られます。」  
あははと2人で笑った。違う形で会えたら友人になれたかもしれない。  
 
高水さんが一瞬私を見つめ、それから手を前に出した。  
「律子さんとのご縁がなかったことは残念ですが、彼とお幸せになられるのを祈っています。」  
幸造さんと幸せに?なんだかもう悲しいほど想像ができない。  
「ありがとうございます。高水さんも、お元気で。」  
少し言葉に詰まりながら大きな手に握手をして駐車場で別れた。  
 
お見合いした人が高水さんで本当によかった。  
(いつの日か大切な人を見つけて、どうか幸せになってください。)  
そう思いながら見送る。  
 
姿が見えなくなると、私は薄暗くなりかけた道を下り、桟橋の方へと歩いた。  
 
 
桟橋に着く。すでに日は沈み、街灯の光が海にゆらゆらと映っている。  
ここで初めて幸造さんを誘ったんだ。酔っ払ってよろめいた私を支えてくれて、目が合ったのをいいことに勢いでキスしたんだったわ。  
「ふっ。前は元気あったものね。」  
こんな所に赤い着物を着ているだけでも目立つのに、自嘲気味に笑う私を人は一歩離れて歩く。  
そりゃあ気持ち悪いでしょうよ。私だったら警察に通報するわ。  
だけど人目なんてどうでもよかった。柵に手をかけて海を眺める。さらりと頬をなでる風が心地いい。  
(もう終わりかもね。)  
なんとなくそんな気がした。だって疲れてしまったんだもの。何が悪かったかなんてもう分からない。  
一度ずれてしまった関係は修復しづらいものだと言う事は長年の経験上分かっていた。  
 
好きって言えばよかったの?どうしてお見合い止めてくれないのって泣けばよかったの?  
ずっと一緒にいたいって、結婚してって私から言えばよかったの?  
 
「でも…私もう子供じゃないわ。大人なんだし。そんな感情に任せて言えない…。」  
 
ふいに頭の片隅で何かが呟くのを聞いた。  
(…違う)  
今まで押さえつけて無視してきた感情が一度に溢れてくる。  
(気づいてるくせに!全部分かってるくせに!!!何も言えないのを、素直になれないのを全部大人だからって言い訳して!!  
自分の気持ちを言わなかったのも子供って思われたくなくて、嫌われるのが怖くって。…何もかも、自分を守ってただけじゃない!!)  
『自分の気持ちを言うのに大人とか子供とか関係ないんですよ』  
高水さんの言葉がどっしりとした重みで私にのしかかってきた。  
 
着物にぽたぽたとしみが出来はじめる。きゅっと柵を握り嗚咽がもれないよう唇を噛む。堰を切ったように涙が溢れてきた。  
 
あきらめるのが大人だと、自分の気持ちをただ抑えるのが大人だと、そうやって自分を保っていた私自身が全ての元凶なのだと知る。  
 
いつしかその場に座り込んで口を押さえ、苦しさを出し切るように涙を流していた。  
 
やばい…涙だけならまだしも鼻水が止まりません。  
ぐしぐしとみっともなく泣きながらノロノロとバックの中を探す。  
あれっ!?ハンカチがない!!どこかに落としたのかしら!?  
 
「これ…どうぞ。」  
オロオロしている私の目の前にすっとハンカチが差し出された。  
「す、すみません。」  
突然頭が冴え、なんだかものすごく恥ずかしい。それに人のハンカチで鼻水を拭いてしまってもいいんだろうか?  
ん?……?あれ?それより今の声は…。  
まさかと思い、上を見る。  
大好きな幸造さんの顔があった。  
「やっぱり。どうしたんだよ。」  
ゆっくり立ち上がる。事態がよく飲み込めない。どうしてここにいるの?  
「なんでこんなとこにいるんだ。まさか…見合いすっぽかしたのか?」  
私が仕事を失敗したときのように幸造さんの声が荒くなる。  
「すっぽかすなんて…行ったわ。ちゃんと。」  
まだ驚きが続いたままぼんやりと答える。もう2度とこんな風に話すこともないかと思ってた。  
「い、行っただぁ〜!?」  
更に大きくなる声に驚いた。こんな幸造さん初めてだ。普段だったら平謝りしたくなるところだけど、今日はこの言い方にどんどん腹が立ってきた。  
「行ったわよ!!どうして怒るの!?幸造さんにも行くって言ったじゃない!」  
こんな私も初めてだった。幸造さんの目が丸くなってる。  
「なんで止めてくれないの?私は幸造さんしか好きになれないのよ!?どうしてそんなこともわかんないのよー!!!」  
みんなが振り返って見ているのはわかったけど、どうしても止められなくて子供のように泣きながら大声で叫ぶ。  
 
瞬間目の前が真っ暗になった。  
 
大きな幸造さんの体がすっぽりと私を包んでいた。  
 
「あ…の…」  
私の心臓の音だけがうるさく耳に響いている。人前で幸造さんが抱きしめてくれるなんて考えられない。  
背中にあたる幸造さんの手が震えている。それがすごく切なくて涙が出そうだ。  
 
「すごい、腹立ってる。別のヤツと飯食いに行くだけでも嫌だ。」  
ぎゅうっと抱きしめる力が強くなる。信じられない言葉に涙があふれてきた。  
「私も…私も。もう幸造さん以外と食べになんか絶対行かない!」  
わっと泣きながら手を背に回す。  
 
幸造さんが私の体を少し離す。眉根をよせた目で私を見た。  
「いや…ちょっと…あんまり見ないで。」  
赤くなりながら視線をはずす。幸造さんがえ?って顔をした。  
かなり慌てた私の目が泳ぐ。  
「あの…下手に泣いて化粧が落ちてるし。本当、ちょっと…見ないでよ。」  
マスカラ絶対不気味に伸びてるし、涙黒いかも…。それにきっと口紅もずれてるに決まってるんだ。  
一瞬置いて大笑いする幸造さん。だって、だって女にしてみれば切実な問題なんだもん。  
「律子さんは、どうしてたって綺麗だよ。」  
びっくりして顔を見る。幸造さんそんなこと言えるの!?  
大きな手が狼狽する私の顔を包みゆっくりと唇が重なる。  
 
何年かぶりにキスしたようだった。しっとりと包む幸造さんの温かい唇は沿うように動く。  
私の中に納まりきれない気持ちが、触れた唇から幸造さんの中に入っていくようだった。  
 
少しして唇を離し幸造さんを見る。幸造さんも私を見ている。  
 
ずっと一緒にいたい。そう思ったとき  
「結婚しよう。」  
と、幸造さんが言った。  
 
「はい。」  
2つ返事で返す私を驚いた顔で見る幸造さん。  
「お…ちょ、ちょっとは考えろよ。もう40近いんだぞ。子供が成人したら…60?……60なんだな…。年金で大学生活送らせるなんて。不憫な…。」  
言いながらどんどん考え込む幸造さんがおかしくてちょっと笑う。  
「何がおかしいんだ!事実なんだぞ?」  
赤くなる顔はますますかわいい。幸造さんにもこんな部分があったんだなぁ。  
「いいじゃない。その時は私ががんばるから!」  
幸造さんは一瞬驚いた後ふわりと笑った。  
「ごめん、見合いのこと…。いい男で、俺より若いなら律子さんの為にいいと思ったんだ。  
多分、自信なくてプロポーズ出来なかった事の言い訳だったんだな。」  
苦笑する幸造さん。  
なんだ、私たち似た者同士だったんだ。  
ここに孝造さんが来たのも、私と同じもやもやとした気持ちを抱いていたからなのかもしれない。  
 
クスクスと笑う私を不思議そうに彼は見たけど、なんでもないよと手をつないで帰路へとついた。  
 
 
こぼれるほどの星空の真ん中に一際輝く丸い月が浮かんでいる。  
 

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