2.恐慌とは斯く在りき
――ぼんやりしていた、という弁解を、あの場にいた何人が信じるだろうか。
芳しい匂いと柔らかい感触が五感全てに押し付けられた感覚に、一瞬意識が呑み込まれる。
だがそれも束の間、俺は身体中を駆け巡った衝動に突き動かされるままに椅子ごと離れようと
身体を引き、勢い余って後ろの壁にしたたか頭をぶつけた。
「んぐっ……!」
思わず呻く。
頭にチカチカ瞬く星とともに口いっぱいに唾液が広がり、思考が滲んだ。
離れることに成功したと思いきや、彼女は追い縋って俺を無理やり自分の方に向けると、今度は
舌を滑り込ませる。
教室内の奇声だか悲鳴だかが大きくなった。
逃れようと首を振ってみたが、振り切れるほどの効力は発揮できず、おまけに彼女は俺の脚の
間に膝を割り込ませて身体を預けているために思うように身動きも取れず、その上最悪な事に、
頭部への強力な打撃により抵抗すらもままならない。
「う…ぐ、っぁ……ふはッ……!」
身を捩ろうとすればするほど、舌は口内を這い回る。
「む、…んんぅ……っ」
彼女も俺を放すまいと必死なのか、抵抗すればするほど一層身体を密着させて舌を絡ませる。
教室内は、それはもう見事な音の洪水で満ち溢れ、悲鳴やら金切り声やら叫び声に始まって、
ピロリン、カシャ、だのの反響は、近所迷惑この上ない。
たとえクラスを統べる学級委員が一喝したとしても静まるかは甚だ疑問の残るレベルであり、
そしてうちの委員長は、むしろ絶対にこの事態を楽しむタイプである。
しかし、このままではクラスの壁や床が抜けるのではなかろうか。
それに、いつ終わらせる気なんだよ、この唾液の交換会を。
だんだん冷静さが湧いてきて、これ以上の辱めを我慢できなくなった俺は、彼女を引き剥がすべく
遣り場に喘いでいた手を彼女の腰に回し――
銀糸は互いの唇から紡がれたものの、ふつりと切れた。
涙で視界を滲ませつつ、ゲホゲホと身体を折って咳き込む。
俺は涎の垂れ具合を気にするよりも先に抗議の声を上げようと、気配を察知したのか俺の手が
付く前に退いた、数歩先の彼女を睨め付けた。
「なん――」
何のつもりだ、と問うより早くふわりと彼女の匂いが下りてきて、鼻同士が付きそうなほどの眼前
すれすれに彼女が出現する。
先ほど躱された事が俺に一瞬の躊躇いを生み、判断を鈍らされたのか、正直動くことが出来な
かった。
絹の感触に似た黒髪が肌を撫でる。
しかし、再び唇が重ねられる事は無く、艶気を残したままの唇はすっと口元から逸れ、
「では、7時間半後、裏庭で待ってますから」
喚声と怒号と怨嗟が渦巻く中、それだけを囁いて顔を離し、反射的に身構えた俺をからかう
ような笑みを浮かべて、返事も待たずに去っていく。
何が起こったのかの総括を行おうと、混乱の中、口元を拭おうと手を持ち上げ掛けたところで
胸倉を掴まれ、人だかりが出来、そしてチャイムが鳴った。
――それが6時間と50分前。
未だ春の暖かさは残っているが、数時間もすれば冬の残滓が訪れるだろう。
今日は全くもって素晴らしい一日だった。
学校中の奴らが入れ代わり立ち代わり窓際で寛ぐ俺を観察に来るばかりか、新聞部の連中は
インタビューにまでおいでなすった。
勿論、早々にお帰りいただいたが。
そう。年がら年中ゴシップ話を追っかけている新聞部ですらすっぱ抜けなかった事実は、
今や校内中を駆け巡っていた。
うちのクラスで起こった局地的な出来事なのに、どうしてここまで広まるんでしょうね。
嗚呼、口コミとはあな恐ろしや。
さて、この事件の発端にまで話を遡らせよう。あれはちょうど約一週間前の事だった。
放課後、帰途に就こうとしていた俺は、階段近くで小さく「藤沼くん」と掛けられた声に振り返った。
この時点での彼女の選択は満点だったと言っていい。
先を行く友人らには気付かれないよう背後から呼び止め、かつ俺だけを振り返らせることが
出来たからだ。
「――はい」
呼ばれて少々声の主を探すのに手間取り、一つ段差のある体育館に抜ける横道に彼女を
見つけた。
目が合うと、何故か凹んで人ひとり収められるだけのスペースから彼女は立ち上がり、
そのまま段差下の通路から俺を見上げる。
「はい」
俺は相手が彼女であることに驚きを禁じ得ず、何でしょう、の意味を込めて再び返事をした。
しばし見つめる間に、「こんにちは」か「初めまして」ぐらいの挨拶を交わすべきなんだろうかと
逡巡していた時だった。
「私、2年C組の相川鈴音と申します。……私の事、ご存知でしょうか」
「はあ、まあ……」
ご存知も何も、と俺は思わぬ問いに返事に詰まった。
同学年以上で彼女を知らない人間がいるとすれば、余所見をしていたにも程がある。
入学式で総代として壇上に立った時の男子側のあちこちで起こるどよめき、それに全くとして
動じない凛とした表情、読み上げられる新入生代表の言葉。
式後しばらくは、分かりやすい目標を拵えた男が群れをなして隣の教室前に押し掛け、遠くから
指を差されるわ、熱心に見つめられるわと、丸っきり珍獣を見物するような扱いに、酷く不機嫌な
横顔を見かけたりもしたものだった。
これで彼女を知らないとすれば、視界なぞ宇宙を漂っているに違いない。
何はともあれ、接点とも呼べないような接点はただ隣のクラスだという事くらいなのだが、俺は
彼女が俺を認識しているという事自体に驚いていた。
と、言うより彼女は――。
「えー…、何の用でしょうか」
俺には彼女の用事がどんなものなのか想像が付かず、ひょっとしたら何か接点が存在していた
のかと記憶を手繰り寄せていたところで彼女が口を開いた。
「好きです」
頭のどこかが上目遣いで俺を見上げる彼女を綺麗だと無意味に認識し、
「は」
脳内処理をし損ねた一音が口から飛び出す。
思わず瞬いた。
被せるように、彼女は涼やかだが艶のある声で言葉を続ける。
「付き合ってください」
間違いなく、俺の両目は彼女の唇の動きを読み取っていた。
本当に俺に言ってるのかと惑い見回してみたが、周りには誰一人としていない。
まあ、俺を呼び止め、周囲に誰もいない状況でそれを疑うのはおかしいのだが。
「えーっと……」
昏迷する俺がリアクションを返す前に、
「藤沼ァ?」
奥の曲がり角からの俺への呼び掛けに、彼女がピクンと身を強張らせる。
「――今行く!」
焦ったような彼女と目が合った。
「ええっと……、返事は、また今度……」
「…はい」
互いにタイミングがまずかったという顔をして、その場で別れた。
その夜。時間が経って冷静になった俺は考えた。――あれは、からかわれたんじゃないかと。
隠れてこっそり、目は泳ぎ、告白は短く、人に知られるとまずいというシチュエーション。
まずもって罰ゲームが思い浮かんだ。
大体、彼女は男嫌いと有名で――。
これ以上の推考が必要だろうか。
翌日。
たとえ嘘でも、返事はしておこうと上の階へ。
ちなみに何故階が違うのかというと、今年度より普通科と特進科を分けたためで、俺のクラス
までが3階、よって階を挟んだ4階の反対側が2年C組となっているのだが、その教室を訪ねた。
すると、その後俺に蹴散らされるとは夢にも思っていないだろう新聞部が、彼女にインタビューを
行っていた。
昼休みじゃ仕方ない、と諦めて放課後。教室を覗くといない。
さり気無く行方を尋ねると、生徒会室に行ったと答えられ、そこで俺は初めて生徒会に入っている
事を思い出し、その日の返事を諦めた。
翌々日。
別に急ぐことでも無いだろうと掃除を終わらせ2のCへ。不在。呼び出されたとかでその日も終了。
翌々翌日。
仕方なくもう一度昼休みに。何だか人だかりがあって、その輪の中心が彼女。
これじゃあ、呼び出すのも気が引ける。
放課後。教室に帰って来ないだとかで終了。
その翌日と翌々日は休日。
どうしろっちゅーんだ。
それから俺は、あの告白が真正なものである可能性についても考え始めた。
忙しく過ごす彼女が、寸暇を縫って告白をしてきたのではないかと。
翌週、つまり昨日。
週明けの報告も言うまでもない。
俺は飽きた。挫けたと言うべきか。
それにもう一週間も放って置かれて、かつ接触が無いことから鑑みるに、彼女は答えを欲して
いないのでは無かろうか、という方向に考えは傾いていた。
――そして、事件は起きた。
まあ、全面的にとは言いがたいが、大体のところは自らが招いた責任と言えなくも無い。
キスの件を彼女に問い詰めるのは止めにしておこう。
考えを固めた俺は、席から立ち上がった。
教室にはほとんど人が残っていない。
大多数は何かの危険を察知したかのように、早々に教室から立ち去ってしまっている。
不気味なほど静かに教室に残っていた面々が、不快な音を立てた俺を咎めてか、一斉に横目で
俺を捕捉した。
別に自習の時間じゃあるまいし、そんなに向きになることもあるまいて。
なあ、何故かそこに座っている2のAの里居。
目が合った一人に心持ち穏やかな目を向けてみると、相手は憎しみで人が射殺せそうなほどの
眼力で俺を見返してきたが、それ以上は何もして来なかった。
本当に仕掛けてくるつもりなのか。
俺は努めて何事も無かったかのように鞄を持ち、忘れ物が無いか机の中を確認する。よし。
――行くか!
「じゃ、お疲れ」
その瞬間。
工事現場から聞こえるような不協和音が響き渡り、残っていた10名ほどの男どもが次々と
その場に林立する。
俺はずり落ちそうになった鞄を抱え直した。
奴らの表情は揃いも揃って、研ぎ澄ませた牙で喉笛に噛み付く気満々な猟犬の眼差しでもって
俺を睨んでいる。
俺をどうしようって言うんだ。ただ嬲るだけなら今までの時間で殺ることだって可能だろうよ。
なあ、おい。
いい加減、俺は荷物を降ろしたい。
俺は時計を確認した。ただいま15時55分。